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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 李桂月(イ・ゲウォル)/郭金女(カク・クムニョ)/金英淑(キム・ヨンスク) ◆◆◆


李桂月、郭金女、金英淑の3名は、北朝鮮の元・従軍慰安婦で、「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」に収録されているのですが、以下の通り、共通点があるのでまとめて掲載します。

<共通点>
 1.公権力・日本軍に連行されたことが明白
 2.慰安所の場所は中国の東北部(北朝鮮に比較的近い場所)。
 3.慰安婦の日本名は必ず「~コ」 (ex.マツコ、エイコ)
  (※ただし苗字しか出てこないケースもあり)
 4.慰安所での内容があまりに希薄。軍人と慰安婦以外の人間は出てこない。
 5.日本兵の非道さが他の証言よりも突出している
 6.良い、又は、まともな日本兵は出てこない
 7.慰安所を脱走時、助けてくれるのは必ず朝鮮人

さらに、最大の共通点は、これらの証言をとったのが全て「朝鮮 日本軍『慰安婦』・強制連行被害者補償対策委員会」という組織だということです。北朝鮮では、1992年に「従軍慰安婦・太平洋戦争被害者補償対策委員会」が発足し、ラジオなどを通して元従軍慰安婦の申告を呼びかけ、219名が申告、内45名が公開証言を行っています。そして、現在、従軍慰安婦関連の調査を行っているのが、この「朝鮮 日本軍『慰安婦』・強制連行被害者補償対策委員会」なのです。

なお、「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」で、この委員会のとった証言が載っているのは今回あげている3名のみです。


【信憑性】

先に結論を述べます。
この3人の証言には、信憑性は全くありません。南北分裂前に慰安婦を強いられたのですから、韓国と北朝鮮の元・従軍慰安婦の証言に異なる特色などあろうはずがありません。

典型的な「従軍慰安婦・日本兵」のイメージで作られた創作でしょう。証言内容には、「悪=日本人」、「善・被害者=朝鮮人」という一部の人達が大好きな世界観が色濃く顕現しています。

また、上にあげた共通点の一部の理由を推測してあげておきます。

 ○慰安所の場所が中国の東北部 → ゴーストライターが、東南アジア等の他の土地には土地勘がなく、また、ヘタに書くと歴史的事実に反する内容になってしまう恐れがあるから
 ○慰安婦の日本名が必ず「~コ」 → ゴーストライターが、日本の女性名は「~コ」が多いというぐらいの知識しかなかったから


確かに、たった三人を比べただけなので、上であげた共通点の中には「偶然の一致」のものもあるでしょう。しかし、他の北朝鮮の証言者の証言を見てみても、政治的意図をもって情報を歪曲・捏造しているのは確かのようです。


李桂月(イ・ゲウォル)  
郭金女(カク・クムニョ)  
金英淑(キム・ヨンスク)  


<李桂月(イ・ゲウォル)>

【生い立ち・慰安婦となった経緯等】

1922.9.6、黄海南道碧城郡に生まれる。5歳の時、父の死亡と共に家を追い出され、2年間乞食生活を送る。8歳の時、面(※地方行政の最下級機関)の書記の家に子守りに入り、13歳の時、書記に旅館の下働きに売り渡される。15歳になった年、村の区長に「よい仕事を斡旋する」と言われ、ハルピン近くにある日本軍の慰安所に連れて行かれる。1939年、日本軍の将校に酒を飲ませて酔わせ、隙をみて逃亡した。

朝鮮民主主義人民共和国在住。


【定型的な証言内容】

<公権力・日本軍による連行>

 ○私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。~(中略)~駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。~(中略)~日本兵は私たちが逃げるのを恐れて貨車に鍵を掛けたので、私たちは外に出ることができませんでした。(P.83~84)

<慰安婦の日本名>

 ○マツコ、エイコ、アイコ

<非道な日本兵>

 ○私は部屋に入って来た将校に「体の調子が悪い」と言って相手をすることを拒絶したのですが、~(中略)~将校は私を押し倒して腹や胸を蹴り、しまいには軍刀のさやで額を殴りました。私のあばら骨は折れ、額からは血が流れ、とうとう私は気を失ってしまいました。(P.85)

 ○「死んでない」と言いながらたばこに火をつけて私の腹に押し付けました。私の体が熱さと痛さでひくひくとするのを見て、「タナカ」は「おもしろい」と言い、たばこを取り替えながら更にあちこちにたばこの火を押し付けたのです。(P.86)

 ○日本兵は「皇軍のために頑張れ」と言い、「100人でも200人でも入って来るだけ奉仕しろ」と命令しました。(P.86)

 ○日本兵は妊娠している女は不必要だと言って軍刀で彼女の腹を切り裂きました。(P.86)

 ○ある日、日本兵は泣き出すイ・プニの頭を石にぶっつけて殺してしまいました。(P.87)

 ○五人の女性が逃亡して捕まえられたことがありましたが、日本兵は見せしめのつもりで「慰安婦」たちを全員集合させ、彼女たちを裸にして縛って井戸の中に投げ込んで殺しました。(P.87)

<助ける朝鮮人>

 ○私は夢中で葦原を抜け出し、どこともわからないまま川辺を走っていきました。すると、川辺で釣りをしている朝鮮人が目に入り、私は彼に助けを求めたのです


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1999.8.13 朝鮮新報「愛知県強制連行真相調査団訪朝報告会/共和国で旧「慰安所」を現地調査」 ***** ****
16歳の時に黄海南道から日本軍人に連行され「従軍慰安婦」生活を強いられた李桂月さん

(※管理人注:16歳は恐らく数え年)
(2007.4.3資料追加)
2006.6 証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
 十五歳になった年の3月頃のことです。ある日、村の区長が訪ねて来て旅館の主人に何か話し、私を呼んで「ここで苦労をしなくてもいいように仕事を斡旋するから、いい所に行こう」と言いました。私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。十五歳といっても私は背が低く、体も弱かったので、私は区長にひっぱられるままでした。
 駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前の男でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。貨車の中にはすでに二人の娘が乗せられていましたが、二人は私より年下の十四歳と十三歳の少女でした。(P.83~84)

 翌日、中国のハルビンに着いて、私たちは汽車から降ろされました。~(中略)~着いた所は民家一つない日本軍の駐屯地でした。「タナカ」は私たちを駐屯地の建物に監禁したのです。(P.84)


郭金女(カク・クムニョ)

【生い立ち・慰安婦となった経緯等】

1923.1.8(注)、忠清南道天安郡(チョナングン)生まれ。生活は苦しく、14歳の時、日本人の家の子守りをし、16歳の時、日本人が経営する製紙工場で女工として働く。1939年10月頃、工場経営者が「ソウルの食品工場で働くことになった」と言って日本人に引渡した。中国牡丹江穆稜(ソ連国境地帯)にある慰安所に入れられる。2年後、警備の歩哨の隙を見て慰安所から逃げ出す。

朝鮮民主主義人民共和国在住。


(注)「続・平壌からの告発」では1924年1月8日生まれになっている


【定型的な証言内容】

<公権力・日本軍による連行>

 ○翌日、私たちは監督と一緒にいた日本人の警察官に連れられて光州駅に行きました。~(中略)~私たちは声を荒げて「なぜ中国に行くのか。そんな所には生きたくない」と抗議したのですが、警察官は日本語でどなり、私たちを蹴飛ばして無理やり汽車に乗せました。(P.93)

 ○翌々日、牡丹江に着きました。そこで、私たちを引率して来た警察官は出迎えに来た憲兵将校に「長谷川さん、二〇人を連れて来ました」と報告し、名簿のようなものを渡しました。私たちはまたトラックに乗せられ、日本兵の監視の下で牡丹江から一八〇キロほど離れた穆稜という所に連れて行かれました。(P.94)

<慰安婦の日本名>

 ○レイコ、エイコ

<非道な日本兵>

 ○みな処女であり、初めてのことだから恥ずかしくて検診を拒んだのですが、軍医は「言うとおりにしなければ殺す」と脅しました。(P.94)

 ○私は必死で抵抗したため、日本兵は怒って私を殴ったり蹴ったりしました。そして「子宮を切り取ってやる」と言い、刀で切りつけました。私は血だらけになって気を失ってしまいました。(P.95~96)

 ○私と同じ工場からひっぱられて来た「エイコ」と呼ばれていた金徳女(キムトンニョ)は、乳首を噛み切られ、破傷風になって死んでしまいました。

 ○慰安所の建物には地下室がありましたが、日本軍人は死んだ「慰安婦」を山に葬るのではなく、地下室に投げ込んでおいたのです。そして、軍人に反抗したり、逃亡しようとする女性たちを、その地下室に閉じ込めました。(P.96)

<助ける朝鮮人>

 ○どれほど走ったのか分かりませんが、途中で、朝鮮語の看板が掛けられた建物を見つけたのです。それは、朝鮮人が経営する病院でした。私は夢中で病院の主人に助けを求めました。医者の妻は私をかわいそうに思い、家の中に入れてご飯を食べさせてくれました。(P.98)

※ページ数は「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」のもの


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
2002.10 続・平壌からの告発 伊藤孝司 風媒社
 私の故郷は、南朝鮮の忠清南道天安です。兄が一人、姉二人に妹一人の五人兄弟でした。私が八歳の時に父は亡くなり、母が地主の家で働きました。炊事をしたり、衣類を縫ったりという仕事です。もちろん、子供たちは学校には行けませんでした。
 私は全羅南道順天の日本人の家で子守りとして働いた後、一六歳の時に全羅南道光州の製糸工場へ働きに行きました。ここは日本人の経営でした。カイコから糸を取るのが仕事で、お腹が空いている時にマユの中のサナギを食べたこともあります。
 ここで一年間働いた時、呼ばれて事務所に行くと刑事らしい日本人の男がいました。私が刑事だと思っている理由は、後に列車の中で拳銃を持っているのを見たからです。
 「パンや飴を作る『京城』(現在のソウル)の食料工場で働くと、お腹がいっぱりになるので行くように」と言われたんです。私を含めた娘たちの名簿が、会社から刑事に渡されました。
 ソウルまで汽車で行き、旅館に泊まりました。その翌日になると、「牡丹江に行こう」と刑事が言い出したんです。「なぜ中国に行くのか?私は行かない!」と抗議したところ、「朝鮮は植民地なので、どっちみちお前たちは死ぬのだ!」と言われ、列車に無理やり乗せられました。
 そして翌々日の朝、牡丹江に着きました。駅の待合室に二〇分ほどいると、幌のついた車のトラックがやってきました。降りてきた憲兵に、「長谷川さん、二〇人連れて来ました」と刑事は言っていました。そのトラックに乗せられ、「満州」(中国東北地方)とソ連の国境地帯にある穆稜という所に着きました。
 私たちは、憲兵隊が駐屯している三階建ての建物に連れて行かれ、畳の部屋に入れられて鍵をかけられました。出されたご飯も食べず、その夜はみんなで泣いていたんです。
 翌日、医者と看護婦が私たちを診察しました。今考えれば、病気を兵隊にうつさないためです。連れて来られた女性の一人は、顔がまっ黄色でした。そのため地下室に入れられてしまい、後に亡くなりました。
 大きな建物の中は仕切られていて、一~二〇番までの部屋があり、私は「一番」の部屋をあてがわれました。中はタタミ二畳ほどの二人がようやく横になれるくらいの広さでした。大切な髪を短く切られ、来ていたチマ・チョゴリを浴衣に着替えさせられたんです。このチマ・チョゴリは母が作ってくれたものなので、くやしくて泣きました。日本人に「レイコ」という名前をつけられました。
 部屋にいると、憲兵の将校が入ってきました。彼は刀を壁に立てかけてから服を脱ぎ、私にのしかかりました。その当時の私は何も知らない娘でしたから、その日本兵を虎よりも恐ろしく思いました。私は泣き叫んで、将校の手を噛みました。すると血を流した将校は、麻酔の注射を私にしました。一分も経たずに気を失った私は、将校に犯されたんです。~(中略)~
 一日に二〇~三〇人もの相手をさせられました。抵抗した私に、「子宮を取ってしまうぞ!」と言って小さなナイフで切りつけてきた将校もいました。刀で刺された太股の傷痕は今も残っています。むこうずねは刀でえぐり取られました。私の体は刀傷だらけです。
 「言うことは聞かない」と言って、兵隊が私の腕をねじり上げたことがあります。骨折して腕が動かなくなってしまい、二ヵ月間ぐらいギブスをして生活しました。髪をつかんで引きずられたこともありました。痛いというよりは悔しい思いだけでした。
 こうしたことをされたのは、私だけではありません。私と一緒に連行された李春心(※管理人:「証言 未来への記憶」では金徳女となっている)という娘がいました。日本兵は彼女を犯そうとしましたが、彼女は泣き叫びながら激しく反抗しました。すると将校は、彼女の乳首を歯で噛み切ってしまったんです。そこから血が吹き出し、彼女は気絶しました。彼女はその傷で破傷風にかかり、死んでしまったんです。子宮を蹴られて、二日後に死んだ女性もいます
 「言うことを聞かないと地下室へ入れるぞ!」と日本兵は言い、私たちをそこへ連れて行きました。その地下室には、ここで殺された娘たちの死体が捨てられていました。腐った匂いが充満し、少しでもそれを嗅げば頭が痛くなるほどひどい所でした。
 逃げようとして捕まった女性がいました。私たちが見ている前で日本兵は、皮のベルトで彼女を叩いたんです。「私たちは逃げないから、その女性をこれ以上叩かないで!」と頼みました。ですが、その女性は一週間後に亡くなり、その地下室へ捨てられたんです。このようにして殺された女性は一〇人ほどになります。
 「これでは自分も殺される」と思った私は逃げる決意をしました。一一月頃のある日曜日。歩哨が居眠りをしている隙に、小さな門から一人で逃げ出したんです。朝の四時でした。
 八キロメートルほど行った所に「朝鮮病院」と書かれた建物がありました。私は朝鮮語の文字を少しは知っていました。それは朝鮮人が経営する個人病院でした。「助けてください。私は『慰安婦』にされていました」と言うと、医者の妻がごはんを炊き始めたんです。「食事どころではない」と思った私は食べずにいました。すると、「何とか匿ってあげるので、この病院にいなさい」と言ってくれたんです。金という名の医者は咸鏡南道出身で、三五歳くらいでした。(P.75~80)

(※2007.7.17 追加) 
2006.6 証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
 一九三九年の秋のある日、突然、私と数人の女工が事務室に呼ばれたのです。そこは一〇人余りの女工たちが集められていましたが、みな体も丈夫で顔立ちもきれいな女ばかりでした。事務室には日本人の監督と警察官らしい日本人がいました。私たちが入ると、監督は「明日、京城(ソウル)の食品工場に行くことになった。そこに行けばいっぱい食べられ、きれいな服も着られる」と言い、「旅じたくをしろ」と命じました。~(中略)~翌日、私たちは監督と一緒にいた日本人の警察官に連れられて光州駅に行きました。(P.92~93)

 翌々日、牡丹江に着きました。そこで、私たちを引率して来た警察官は出迎えに来た憲兵将校に「長谷川さん、二〇人を連れて来ました」と報告し、名簿のようなものを渡しました。私たちはまたトラックに乗せられ、日本兵の監視の下で牡丹江から一八〇キロほど離れた穆稜という所に連れて行かれました。(P.94)
2007.4.9 朝鮮新報 「『官権、軍権動員した組織的犯罪』 朝鮮在住被害者 謝罪と補償求める 」 ***** ****
 同通信によると、咸鏡南道端川市新洞里在住の郭金女さんは、16歳だった1939年に日本人にだまされて14人の娘と共に日本軍隊の監視のもと、中国の牡丹江から28キロほど離れたソ満国境地帯の穆稜という所に連れて行かれて1年半も兵営で恥辱の日本軍「慰安婦」生活を強要されたことを告発した。

<以下、管理人>
同記事では、「14人の娘」と共に慰安所に連行されたことになっているが、上記資料の「証言 未来への記憶」では20人
また、慰安婦生活は1年半となっているが、「証言 未来への記憶」では2年となっている。


(※2007.5.16追加)




金英淑(キム・ヨンスク)

【生い立ち・慰安婦となった経緯等】

1927.1.24、平安北道秦川郡(テチョングン)生まれ。10歳の時、地主の妾の家で奉公をする。1940年、13歳の時、日本人の巡査に「お金が稼げる仕事がある」とだまされ、中国の瀋陽にある憲兵隊専用の慰安所に入れられる。五年間後の1945年3月頃、慰安所を脱出してモンゴルに逃れる。

朝鮮民主主義人民共和国在住。


【定型的な証言内容】

<公権力・日本軍による連行>

 ○主人の「妾」の所に時々訪ねて来ていた日本人巡査が、主人と部屋の中で長時間何かをひそひそと話していました。(P.118)

 ○私を連れて来た巡査は、しばらくたってから日本軍の将校に私を引渡しました。そして帰ろうとするのです。私は急に不安になって一緒に帰ると泣きすがったのですが、巡査は叱りながら私を押し倒しました。それでも私は巡査について行こうとしたのです。それで、隣に立っていた日本兵らが軍犬を突きつけて私を脅し、ついて行くのを阻みました。(P.119)

<慰安婦の日本名>

 
○おまえはこれから「オカダ」だと言いました。(P.118)
 → 同女の証言では、同女につけられた「オカダ」以外に慰安婦の日本名はでてきません。普通、名前だけをつけることはあっても、苗字のみをつけることなどないでしょう。

<非道な日本兵>

 ○彼の性欲を満たすためには私はあまりに幼かったのです。しばらくしてそれに気がついた「ナカムラ」は刀を取り出し、私の陰部に刀を差し込みました。その瞬間、私は「ぎゃあ!」と悲鳴を上げて気を失ってしまいました。(P.120)

 ○するとその軍人はかんかんに怒り、私の髪を掴んで部屋の床に打ちつけ、靴で全身を蹴り、私の足を踏みつけました。全身にあざができて、私は気を失ってしまいました。そのとき、奴の乱暴で足の骨が折れたのですが、まともな治療も受けられなかったため元に戻らず、結局、障害者になってしまいました。(P.120~121)

 ○日本兵は、私が反抗すると「朝鮮人のくせに帝国の将校を冒涜するのか」とどなり、「日本軍人を慰安できない者は殺してもいい。私の言うことを聞かないとおまえの肝を取り出して食べてしまうぞ」と脅かしました。(P.121)

 ○野蛮な日本軍人は「慰安婦」たちが苦しむ姿を見て快楽を覚えたのか、「慰安婦」たちを裸にしては刀で刺したり、噛みついたり、火のついたたばこを押し付けるなど、さまざまな残虐なことをしました。(P.121)

 ○日本兵は「慰安婦」が妊娠すると、容赦なく殺しました。そのような女性の中に、ボンニョという女性がいました。ある日、日本兵は「慰安婦」たちをみな庭に集合させ、みんなの見ている前でボンニョを木に吊るし、軍刀で彼女の腹を切り裂いたのです。そして、出てきた腸や胎児をめった切りにして、私たちの首に掛けたのです。(P.122)

 ○そうして、五年の年月が過ぎました。非人間的な虐待や病魔、栄養失調のため、初めの頃は二〇人余りいた「慰安婦」は、五年のあいだに大勢亡くなり、残ったのは数人だけでした。(P.122)

<助ける朝鮮人>

 ○当時、部隊には数人の朝鮮の青年たちが軍属として駆り出されて来ていましたが、その中にキム・サングクという青年がいました。~(中略)~背が高かった彼は塀を越えるのを手伝ってくれ、私は慰安所から抜け出すことができたのです。(P.123)

※ページ数は「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」のもの


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
2001.7 平壌からの告発 伊藤孝司 風媒社
 今は平安南道温泉郡で暮らす金英淑さんは、平安北道泰川郡で生まれた。あまりにも生活は貧しく、母親は家族を捨てて逃げ出した。父親は日本人が経営する金鉱山で働いていたが、日本人の現場監督からひどい暴行を受けて死亡。金さんと弟の二人が残された。その時一〇歳だった金さんは、地主の三番目の妾の家で働くことになった。「水瓶を割ってしまった時など激しい叱責を受けました。夜明けから夜空に星が輝くまで私の涙は乾くことがなかったんです」。
 こうした苦しい生活を続けていた時に、心ひかれる話がきた。
 「一三歳の時、やって来た日本人の巡査『ここでそんな苦労をせず、お金の稼げる所へ行こう。おいしい物を食べ、きれいな服も着られるよ』と言われたんです。
 この巡査に連れて行かれたのは瀋陽です。そこには日本兵がいっぱいいて、巡査は私を『ナカムラ』という名の将校に引き渡しました。私はだまされたんです」
 「慰安所」が谷間に建っていて、高さ五メートルほどの塀で囲われていた。建物は木造平屋で、三〇ほどの部屋が通路の両側に並んでいるという構造だった。途切れることなく金さんの話は続く。
 「その日の夜に私の部屋へやって来た『ナカムラ』は、私を押し倒して覆いかぶさってきました。だけど私が若すぎて欲望を満たせなかったため、私の性器をナイフで切り開いたんです。私は気を失いました」。「
 将校に殺されそうになったこともある。「カネムラ」という将校に従わなかった金さんは、「言うことを聞かないと肝を取り出して食べるぞ」と脅された。その言葉にひるまず将校を力一杯に突き飛ばしたところ、日本刀で胸を切りつけられたのだ。「傷を見てください!」と金さんは私に言うやいなや、チマチョゴリを脱いで上半身裸になった。
 胸から腹にかけて、縦に二〇センチほどの鮮明な傷痕がある。かなり深い傷だったようだ。金さんは、全身に残る他の傷も次々と説明する。肩と尻には短刀で突き刺されたいくつもの傷痕、右足の膝には兵隊に軍靴で何度も蹴られて骨が折れた痕が残っている。
 「一日に二〇~三〇人の兵隊の相手をさせられました。妊娠したために腹を切り裂かれたり軍犬にかまれたりして、ここの女性たちが次々と殺されて行くようすを見ました」と金さんは叫ぶように語った。~(中略)~
 この「慰安所」には、金さんが連行されて行った時には二五人の女性がいた。その中には中国人と白人が一人ずついて、他は朝鮮人だった。その鼻が高い白人とは言葉が通じなかった。この場所が中国東北地方ということを考えるとロシア人だろう。
 部隊の中には何人からの朝鮮人軍属がいた。一九四五年三月、金さんはその中の金・サングクさんと死を覚悟してここを脱出。その時点で、「慰安所」で生き残っていた女性はわずか五人だった。(P.48~50)

(※2007.7.17 追加)
2006.6 証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
 このような中で三年が過ぎ、十三歳になった一九四〇年のことです。主人の「妾」の所に時々訪ねて来ていた日本人巡査が、主人と部屋の中で長時間何かをひそひそと話していました。しばらくたって、私は主人に呼ばれました。部屋に入ると、巡査は私にやさしく話しかけ、「きれいな服を着て、お金をたくさん稼げ所に行こう」と言うのでした。当時、私は世間知らずの幼い子どもであり、つらい仕事で苦労していたので、下働きの生活から抜け出したいという気持ちから「行く」と答えました。(P.118)

 私を連れて来た巡査は、しばらくたってから日本軍の将校に私を引渡しました。~(中略)~巡査から私を渡された将校は、私を木造の長屋に連れて行きました。長屋の周りを高い塀が取り囲んでいて、そのうえ、鉄条網が張り巡らされていました。ところどころに軍犬を従えた歩哨が立っていました。(P.119)
2007.5.14 朝鮮新報 「『慰安婦』問題 朝鮮国内で噴出する反日感情」 ***** ****
日本軍「慰安婦」被害者のキム・ヨンスクさん(81、平安南道在住)は4月30日、祖国を訪れた在日本朝鮮青年同盟代表団と対面し、13歳の時に日本の警察官の甘言に弄されて中国に渡り、「性奴隷」生活を強要された自身の体験を語った。キムさんは、青年らに「慰安婦」問題など過去の清算から逃れようとする日本当局の動きに立ち向かい完全解決のその日までたたかい続けるよう切実に訴えた。

(※2007.5.16追加)


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◆◆◆ ジャン・ラフ・オハーン(Jan Ruff O'Herne) ◆◆◆


※「ジャンヌ・オヘルネ」と表記されている場合もあり


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

オランダ人。オーストラリア在住。
1923年に当時のオランダ領東インド(現インドネシア、ジャワ島)に生まれる。1942年3月、19歳の時に日本軍にアンバラワの収容所に入れられ、2年後の1944年2月にスマランで慰安婦生活を強いられる。3ヶ月後に解放されてボゴールの収容所に入れられ、次に送られたクラマットの収容所で終戦を迎える。

2002年6月に、戦時下における人権や女性の権利を保障するために行った国際的な貢献を称えられてオーストラリア2等勲章を授与される。
2007.2.15米国下院外務委員会アジア太平洋環境小委の「慰安婦聴聞会」にて李容洙、金君子らと共に証言を行う。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本軍の収容所からトラックにて慰安所に移される。


【考察】

同女の証言は、インドネシアで行われた「白馬(シロウマ)事件(スマラン事件とも言う)」の話に間違いありません。
「白馬事件」とは、スマラン市内にあった日本軍の幹部候補生隊が17才以上のオランダ人女性を収容所から連行して、スマラン市内に4つの慰安所を開設したものです。開設の2ヶ月後、日本から抑留者の視察にやってきた大佐がこの事実を知ってジャカルタの第一六軍司令部に報告、ただちに慰安所は閉鎖されました。また、この「白馬事件」は、戦後の1948年に女性たちの告発によりBC級裁判の法廷で裁かれ、死刑を含む11名の有罪者を出しており(有罪者の中には軍人の他に慰安所を経営していた日本人業者も含まれていた)、法廷では慰安婦にされた35名のうち25名が強制だったと認定されました。

この事件は、裁判後、長い間、一般には知られていなかったのですが、1992年7月に朝日新聞がオランダに残っているこの戦争犯罪法廷関係の記録を基に報道したことにより、日本でも広く知られるようになりました。

なお、1994年のオランダ政府報告書では、オランダ領インドネシア各地の慰安所で働いていた200~300人の白人女性のうち少なくとも65人を強制売春の犠牲者だと判定しています。(逆に言えば、高額の報酬で慰安婦になることに同意した者もいたということ) 。


下記資料を見ると、2つの中央日報の記事は、意図的な歪曲と捏造に満ち満ちています。オハーンさん本人が書いた書籍と比べてみるとそれは、あまりにも明白です。

《2007.2.9》中央日報
「2年後21歳のヤーンさんを含むオランダ人女性100人をジャカルタ南ボゴールに連行した。そこで彼女らは日本軍の性の奴隷になるという話を聞いて驚愕した。」
 
 → オハーンさんが慰安婦を強要されたのはスマランでの3ヶ月のみで、それ以外の、ボゴールを含む収容所にいた時に強姦や性交渉を強要されたという証言はありません。むしろ、ボゴールでは強姦未遂事件を起こした日本人衛兵が、収容された人達の前で拳銃自殺を強要されています。また、ボゴールに来た女性100人は慰安所から解放されきた人達です。
「スマラン」を出すと、既にBC級裁判で裁かれた内容だと分かってしまう為、意図的にボゴールに変更したのでしょうか。それとも、単なる勘違いでしょうか。

《2007.2.16》中央日報
「19歳だった42年、日本軍がインドネシアを占領した後、収容所に入れられた。オハーンさんは「その日の夜、日本式の花の名前が入った名前を付けられ、髪が薄い日本軍将校が待つ部屋に連れて行かれた。彼は刀を抜いて"殺す”と脅した後、服を破り、最も残忍に私を強姦した。その夜は何度強姦されたか分からない」と身震いしながら話した。オハーンさんは「一緒に連行されたオランダ人少女らと3年半、毎日こうした蛮行にあい、飢えて苦しみ、獣のような生活をした」と語った。」

→ 記事では、「収容所に入れられた」の後にオハーンさんの「その日の夜」という言葉を持ってきて、「収容所に入れられた夜に強姦された」と誤読するように仕組まれています。実際には、収容所に入れられた2年後に慰安所に入れられたのであって、それまで強姦はなされていません。
さらに、記事では、その慰安婦生活が「3年半」続いたかのように錯覚させる文章になっています。3年半はあくまで収容所生活も含めた期間であって、慰安所生活は3ヶ月のみです。

意図的に誤読するように仕組まれた卑怯な歪曲文章と言わざるを得ません。


【信憑性】

白馬事件を報道したのが朝日新聞で、裁判がBC級裁判、そして、朝日新聞の報道(1992.7)と同女の証言開始時期(1992年)が一致していることを考えると、若干怪しさを感じなくもないですが、現段階では信憑性ありとしたいと思います。

なお、同女の証言内容は、既にBC級裁判で死刑1名、懲役刑10名の判決が下され裁かれているものであり、また、同女の証言により国際社会が新たに知った事実というわけでもありません(忘れられていましたが)。
少なくとも、韓国の元・従軍慰安婦達の証言と同列に扱うべきではないでしょう。

-------------------以下、2007.6.17追加-------------------
<ご参考>
「慰安婦と戦場の性」(秦郁彦・新潮選書)には、上記BC級裁判で死刑となった人物の手記が掲載されていますので、参考として引用します。

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 さて、この白馬事件の実態を知るには被告側の言い分も聞いておく必要があろうが、死刑になった岡田慶治少佐は「青壮日記」と題した獄中手記を残している。日中戦争期の戦場体験から書き起こした半自伝だが、事件について次のように書いている。

 将校クラブの婦人たちをよく可愛がってやったつもり……その彼女たちが告訴している。それも嘘八百を並べて……時勢が変わったので我々に協力していたことになっては彼女達の立場がないのかと想像……起訴状を見ると首謀者にされている……「そうか飼犬に手を咬まれたのだ。もう何も言うことはない」と覚悟した……敵の銃口の前に立って、日本軍人の死に態を見せてやることではなかろうか。

 開き直ったとも思えそうな論旨だが、それなりの情状は存在したようである。
 岡田手記によると、発端は、州庁で希望者を募って慰安所を作ろうとする構想を聞いた能崎少将が、内務官僚出身の宮野スマラン州長官に話をつけ、上官の池田大佐、大久保大佐から命じられて実施面を担当させられたのだという。
 個々の選定にはタッチせず、将校クラブが開館する前々夜に集まった女性と初顔合わせして色々な注文を聞き入れてやったので「(彼女たちは)とても朗らかで若い将校と心中でもしてくれなければいいがと、心配しているくらいです」と視察に来た参謀へ報告したという。(P.220)
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なお、この岡田慶治少佐が関わった慰安所は、ジャン・ラフ・オハーンが入れられた慰安所とは別のようです。
-------------------以上、2007.6.17追加-------------------


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.5 アジアの声 第7集
世界に問われる日本の戦後処理①
「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録
国際公聴会実行委員会 東方出版
 私の名前はジャンヌ・オヘルネです。オランダ人です。一九四二年、私が一九歳の時、オランダ領東インドを侵略した日本軍によってジャワにある捕虜収容所に入れられました。第二次世界大戦中、三年半にわたって日本の捕虜収容所で生活させられました。~(中略)~
 私は最初、アンバラワ収容所に、母と二人の妹といっしょに入れられました。約二年間そこにいました。一九四四年二月のことでした。収容所の重労働から戻る途中でした。突然収容所が騒がしくなりました。日本の軍人たちが大勢トラックで到着したのです。最初、点呼のために呼び出されるのだと思いました。しかしそうではなく、「一七歳以上の独身女性は中庭に整列しろ」という命令が出されました。私たちはこの命令に不吉な感じを受け、何か変だと疑わしい気持ちになりました。「あなたもそうよ、ジャンヌ」、母が言いました。その声は震え、目は恐怖に満ちていました。
 収容所全体が恐怖ですっぽり包まれ、中には隠れようとする少女もいました。私たちは長い列に並ばされ、何人もの軍人が列に向かって歩いてくるのを見て、怖くて震えました。軍人たちの顔つきに不吉な予感がしました。上から下までじろじろ見て、お互いに笑ったり、私たちの誰かを指さしたりしていました。若い私たちはおびえ、うなだれ、顔を上げる勇気もなくそこに立っていました。日本人は列にそってゆっくり歩きながら、時々、私たちの顔を見るため無理やりあごをあげさせました。
 彼らは歩きながら、にやにや笑ったり、指をさしたり、私たちの体に触ったりしました。何か話し合った後、半分が帰ってよいと言われました。私は長い列に残されたままでした。恐ろしさで体全体が震えていました。そこからまた誰にするか選び、最後に十人の少女が前に出ろと言われました。その他の少女たちは心配する母親の元に帰ってゆきました。私は残った十人の内の一人でした。
 女性たちの泣き声や叫び声が聞こえてきました。勇敢に日本人にはむかい、私たちを取り戻そうとしているのです。
通訳を通して、所持品を一つのバッグに詰めて、ただちに正門に集まるよう言われました。そこには私たちを連れて行くトラックが待っていました。詳しいことは何も聞かされませんでした。少女たちと母親たち、収容所にいる全ての人が力の限り抵抗しました。あたりは悲鳴や叫び声、泣き声に包まれました。
 しかしすべては無駄でした。凶暴な敵の前に押え付けられ、力なく従うしかない私たちは、まるで屠殺場に連れて行かれる羊のようでした。わずかな荷物を詰めている間も監視の目は続きました。私は聖書、祈祷書、十字架を鞄に入れました。その時、私にとってこれらが一番大事に思えたからです。私を守って強くしてくれる武器のように思えました。
 看守に付き添われ、私たちは正門へ行きました。そこでそれぞれ母親や家族に別れを告げました。母と私は言葉もなく、ただお互いの目を見て抱き合いました。その瞬間、二人は互いの腕に抱かれたまま、まるで死んでしまっているように感じられました。
 みんな泣きながら無理やりトラックに入れられました。六人の少女が、新たに私たちのみじめなグループに加えられました。結局一六人の少女が、不本意にもアンバラワ収容所から連れてゆかれたのです。
 私たち一六人は、恐怖におののく動物のように、かたまってうずくまりました。どこに連れて行かれるのか想像もつきません。
 しばらくして、セマランへ通じる幹線道路を走っていることが分かりました。市街地近く来ると、セマラン郊外の丘陵地帯の道に入りました。トラックは一軒の大きな家の前で止まりました。七人が降りろと言われました。私もその一人でした。連れてこられた家がどんな目的で使われているのか、その後すぐに分かりました。一人ひとりに部屋があてがわれました。その夜、私も他の少女たちも眠ることができなかったので、みんなで大きなベッドに集まり、恐怖の中で抱き合って、祈ることで勇気を奮い立たせようとしました。
 次の日、多くの日本人が家にやって来て、私たちは居間に呼ばれました。日本人の性の慰みのためにここにいるのだと、彼らは説明しました。つまり売春宿に連れてこられたのです。いつでも彼らの言う通りに従わなければならず、家から出ることは許されませんでした。事実、家は監視されていて、逃げようとしても無駄でした。私たちがこの家にいる目的はただ一つ、日本人のセックスの相手をすることです。強制売春の奴隷にされたのです。(P.80~83)

(※2007.7.27 追加)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 私はオランダ人です。私が19歳だった1942年、オランダ領東インドを侵略した日本軍によって、ジャワにある捕虜収容所に入れられました。収容所には3年半いたのです。最初、アンバラワ収容所にお母さんと2人の妹と一緒に入れられ、ここに約2年間いました。
 1944年2月のことでした。大勢の日本の軍人たちがトラックで到着したので、収容所が騒がしくなりました。「点呼のために呼び出されるのだ」と思いましたがそうではなく、「17歳以上の独身女性は中庭に整列しろ」という命令が出されました。
 収容所全体が恐怖で包まれ、隠れようとする少女もいました。並ばされた私たちは、何人もの軍人が列に向かって歩いて来るのを見て怖くて震えました。~(中略)~
 少女たちと母親たち、収容所にいるすべての人が力の限り抵抗しました。あたりは悲鳴や叫び声・泣き声に包まれました。しかし、敵の前には従うしかありませんでした。私は聖書・祈祷書・十字架を鞄に入れました。その時、これらが私を守ってくれる武器のように思えたからです。6人の少女が加えられ、結局16人が無理やりトラックに入れられました。
 トラックは、セマラン郊外の丘陵地帯の道に入り、大きな家の前に止まりました。私を含む7人が降りろと言われました。そして、1人ひとりに部屋があてがわれました。その夜、私たちは恐怖の中で抱き合って、祈ることで勇気を奮い立たせようとしました。
 次の日、やって来た日本人が「日本人の性の慰みのためにここにいるのだ」と私たちに説明しました。私たちは強制売春の奴隷にされたのです。私は恐怖で全身が震え、足元が崩れ落ちていくように感じられました。「こんな人権をまったく無視したことは絶対許されない。それなら死んだほうがました」と大声で抗議しました。日本人は笑いながら「もし命令に従わなければ家族が面倒なことに巻き込まれる」と脅したのです。(P.141~142)

(※2007.4.24追加)
1999.3 オランダ人「慰安婦」ジャンの物語 ジャン・ラフ・オハーン 木犀社
1942年3月1日、日本軍がジャワに侵攻してきたとき、わたしは19歳でした。~(中略)~荷造りをして、収容所へ向かう準備をせよとのことでした。(P.50~52)
あれは1944年2月のことです。~(中略)~わたしたちのみじめな一団に、別の六人が加わりました。合計十六人の娘が意に反してアンバラワの収容所から無理やり連れだされたのです。(P.79~87)
つぎの日、日本人将校が館にやってきて、わたしたちは全員居間に呼ばれました。~(中略)~彼らがわたしたちにわからせたのはこうです。-おまえたちをこの館に置く目的はただひとつ、日本人将校の性の楽しみのためだ。日本軍人がおまえたちとセックスできるようにだ。おまえたちはつねにおとなしくいうことをきくべし。館を、要するに娼館を出ることはまかりならぬ。館は四六時中見張られているので、逃げようとしても無駄だ-(P.95)
どれほどのあいだ、わたしたちはスマランの娼館にいたのでしょう?正確にはおぼえていませんが、少なくとも三ヵ月はいました。~(中略)~わたしたちのもとに位の高い軍人がおおぜいやってきて、事務室では、怒号の飛びかう言い争いが続きました。突然、わたしたちは荷物をまとめて退去するよう命じられました。(P.125~127)
2002.6.12 人民網「オランダ人「慰安婦」が豪州AOを受勲」 ***** ****
1942年19歳の時に日本軍に連行され、「慰安婦」として売春を強いられた。
2007.2.9 中央日報「日本の従軍慰安婦に連行されたオランダ人女性が証人に」 ***** ****
日本軍は4ヵ月後(※1941年12月の4ヶ月後(管理人))、ジャワを占領し、ヤーンさんの家族を含むオランダ人たちを収容所に入れた。そして、2年後21歳のヤーンさんを含むオランダ人女性100人をジャカルタ南ボゴールに連行した。そこで彼女らは日本軍の性の奴隷になるという話を聞いて驚愕した。

ヤーンさんは2001年、オーストラリアABC放送とのインタビューで「あのとき、私たちが『ジュネーブ協定違反』と叫ぶと日本軍はにやにや笑った」と回想した。ヤーンさんらはそのとき、日本式の名前を1人ずつ与えられた。ヤーンさんには何かの花の名前が付けられたが、記憶から消してしまった。彼女は過去を隠して暮らした時代、花が嫌いだった。慰安婦生活を思い浮かべるからだ。英語が分からなかった2人の娘に、誕生日のプレゼントとして花をくれると言われても素直に笑えなかった。ヤーンさんは慰安所に入ってから少し立って髪の毛をすべて刈ってしまった。「はげ頭のように見えれば日本軍が嫌やがるだろう」と思ったからだ。しかし日本軍はそんな姿にもっと好奇心を感じたようだと彼女はABC放送で明らかにした。それとともに「あのときのあの恐怖を絶対忘れることができない」と話した。


(※管理人注)「私たちが『ジュネーブ協定違反』と叫ぶと日本軍はにやにや笑った」とあるが、「ジュネーブ条約」の誤訳であろう。

○ジュネーブ協定・・・第一次インドシナ戦争を終結させるための終戦協定。1954年に締結。
○ジュネーブ条約・・・戦時国際法としての傷病者及び捕虜の待遇改善のための国際条約。1864年締結。)
2007.2.16 中央日報「米議会で初の‘慰安婦聴聞会’…韓国・オランダ人女性3人が証言」 ***** ****
19歳だった42年、日本軍がインドネシアを占領した後、収容所に入れられた。オハーンさんは「その日の夜、日本式の花の名前が入った名前を付けられ、髪が薄い日本軍将校が待つ部屋に連れて行かれた。彼は刀を抜いて"殺す”と脅した後、服を破り、最も残忍に私を強姦した。その夜は何度強姦されたか分からない」と身震いしながら話した。オハーンさんは「一緒に連行されたオランダ人少女らと3年半、毎日こうした蛮行にあい、飢えて苦しみ、獣のような生活をした」と語った。
2007.3.10 産経新聞「オランダ女性の事例 末端将兵の行為 厳罰ずみ」 ***** ****
 米国議会の一部やニューヨーク・タイムズが「慰安婦」非難で日本軍の強制徴用の最大例として強調するオランダ人女性のケースは実際には日本軍上層部の方針に逆らった末端の将兵が勝手に連行し、その違法行為が発覚してすぐ日本軍自身により停止されていた事実が明らかとなった。しかもこの違法の性的徴用の責任者たちは戦後の軍事裁判で死刑を含む厳刑に処されており、今回の日本非難はすでに責任のとられた案件の蒸し返しとなっている。 

 8日付のニューヨーク・タイムズは日本の慰安婦問題を安倍晋三首相がそのすべてを否定したかのような表現でまた報じたが、そのなかでオランダ人の元慰安婦だったというジャン・ラフ・オハーンさん(84)の「インドネシアの抑留所にいた1944年、日本軍の将校に連行され、慰安所で性行為を強要された」という証言をとくに強調した。同紙はオハーンさんの2月15日の米下院外交委員会公聴会での証言を引用しており、「日本政府からの公式の謝罪が最重要」と述べたとして、日本軍が組織的に総数20万人もの女性を強制徴用したという糾弾の最大の根拠としている。

 ところが慰安婦問題に詳しい日米関係筋などによると、オハーンさんは戦後すぐにオランダ当局がインドネシアで開いた軍法会議で裁いた「スマラン慰安所事件」の有力証人で、その証言などにより、上層部の方針に違反してオランダ女性を連行して、慰安所に入れた日本軍の将校と軍属計11人が48年3月に有罪を宣告され、死刑や懲役20年という厳罰を受けた。オハーンさんは同公聴会で日本側が責任をとることを求めたが、責任者は60年近く前にすでに罰せられたわけだ。

 日本政府には批判的な立場から慰安婦問題を研究した吉見義明氏も著書「従軍慰安婦」のなかでオランダ政府の報告書などを根拠にスマラン慰安所事件の詳細を記述している。同記述では、オハーンさんらオランダ女性を連行したのはジャワの日本軍の南方軍幹部候補生隊の一部将校で、
(1)軍司令部は慰安所では自由意思の者だけ雇うようはっきり指示していたが、同将校たちはその指示を無視した
(2)連行された女性の父のオランダ人が日本軍上層部に強制的な連行と売春の事実を報告したところ、すぐにその訴えが認められ、現地の第16軍司令部はスマラン慰安所を即時、閉鎖させた
(3)同慰安所が存在したのは2カ月だった
(4)主犯格とされた将校は戦後、日本に帰っていたが、オランダ側の追及を知り、軍法会議の終了前に自殺した?などという点が明記されている。

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(以下、管理人)

上記記事によると、同女は戦後の軍法会議の有力な証人になったことになっている。しかし、情報の出所が不明確であり、裏取りもせずに信じるには躊躇する内容である。

同女の自伝的書籍である「オランダ人『慰安婦』ジャンの物語」(ジャン・ラフ・オハーン、木犀社、1999.3)には、以下の通りの記述がある。

「トムは、日本のこの戦争犯罪を報告することが肝心だと考え、わたしをイギリス軍警察本部にある軍当局の上層部へ連れていきました。わたしは当局に自分の話を語りましたが、それっきり何も聞かされることはありませんでした」(P.155~156)

この同女の話が該当の軍法会議の証拠として使用されたか否かは不明であるが、少なくとも、積極的に法廷に立って証言したわけではないようである。(あくまで同女の証言を信じるという前提ではあるが)


ちなみに、Wikipediaにも以下の通り記載されており、同女が軍事法廷で証言したことになっている。

「戦後スマラン事件の軍事裁判で被害者の一人として証人と証言し彼女が慰安婦にされた事は軍事法廷が認定している(従軍慰安婦 吉見義明 岩波書店 1995) 」

しかし、根拠として提示されている書籍を確認してみたところ、同女が軍事裁判で証言したとの記載はない。
ただし、以下の記述がある。

「オフェルネとプローグの証言は事件後ほぼ五〇年たってからのものである。この証言内容は、いくつかのくいちがいをのぞけば、敗戦直後になされた裁判での証言とおどろくほど共通している。」(P184)

恐らく、「オフェルネ(※同女のこと)の証言」と別人がした「裁判での証言」の双方を同女の証言であると誤読したのではないかと思われる。


(※2007.8.15 追加)


◆◆◆ 尹頭理(ユン・ドウリ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1928年釜山生まれ。建築業を営んでいた父が亡くなった後、家運が傾く。1942年、15歳の時、ゴム工場に働きに行くがその後、軍服工場に移った。1943年、その工場の日本人に下心を持たれたので職場を変えることになり、手袋工場を見に行った帰りに釜山鎮(プサンヂン)駅の前で巡査に呼び止められ、そのまま釜山影島(ヨンド)の第一慰安所に連行されて慰安婦を強いられる。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

巡査に呼び止められて警察署に連れて行かれ、その夜、軍人二人に軍用トラックに乗せられ倉庫のような部屋に移される。翌日、3人の軍人に警備船のような船に乗せられ日本に行く。日本で「君が代」を歌い、「皇国臣民の誓詞」を唱えて、班分けした後、再び、船で釜山に向かい慰安所に入れられる。慰安所の経営者は日本人で、受付は日本人軍属が行い、軍人が3、4人見張りに立っていた。


【考察】

慰安所は戦地での兵士の強姦等を防止する為に設置されていたもので、韓国には慰安所などないはずです。しかも、(2007.6.27 元兵士の証言で朝鮮に慰安所があったとの証言があるようなので削除)

証言では「その一帯には雲雀町という日本人の遊郭街がありましたが、影島橋を渡り左に五百メートルほど離れた場所に位置していました。~(中略)~山下という日本人軍属が玄関に座っていて、軍人たちが来れば空いた部屋に入れと部屋を決めるのでした。~(中略)~また敷地内には交代で見張りに立つ軍人が三、四人いました。(P.306)」とあります。わざわざ遊郭街の近くに慰安所を設置し、受付に軍属1人と見張り役3、4人の軍人がいたことになっています。
もし、仮に、そこに慰安所があったとしても、わざわざ4、5人の人員を貼り付けていたとは思えません。そこまで日本軍も暇ではなかったでしょう。

しかも、同女は、慰安所に入れられる前、一旦、船で釜山から日本に連行されています。そこでやったことは、「君が代」を歌い「皇国臣民の誓詞」を唱えて班分けをしただけ。そして、再び船で釜山に戻ってから慰安所に入れられています。非効率的な行動です。また、釜山⇔日本間は「警備船のような船」を使用して五十人もの女性が乗っていたと証言しています。当時の船事情には詳しくないですが、五十人も乗れるような警備船のような船があったのでしょうか。


【信憑性】

同女の証言の信憑性は薄いと言わざるを得ません。特に強制連行の証言や慰安所への軍人の関与は疑わしいものです。単に遊郭街の売春宿で働いていただけではないでしょうか。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
夕方五時か六時頃、釜山鎮駅前にある南部警察署を通り過ぎようとすると、歩哨に立っていた巡査が来いと呼ぶのです。私は何もしていないので大丈夫だろうと思って、警察署の中に入って行きました。一九四三年九月初旬のことでした。警察署の中には私のような少女たちが数人いました。~(中略)~「いいところに就職させてやるからじっと座っていろ」と言いました。夜の十一時頃になると、軍用トラック一台が来て二人の軍人が私たち全員を乗せてでました。~(中略)~この軍人にどこに連れて行くのかと聞くと、いいところに就職させてやるとだけ言うのです。~(中略)~私たちは軍用トラックに乗せられ、どこかわからないところで下ろされました。そこには五人の女の子が私たちより先に来ていました。私たちと合わせて計十人が倉庫のような部屋で一晩を明かしました。翌日の夜、私たちは軍人の引率で「ブルルン」という音の出る警備船のような船に乗りました。船の中には二十歳にもならないような幼い少女たちが五十人ほどいて、三人の軍人が一緒に乗っていました。その船は日本に行きましたが、日本のどこかわかりません。~(中略)~船から下り、かなり歩いて倉庫のような部屋に着きましたが、そこには若い女性がたくさんいました。そこでまた一夜を明かしました。翌朝全員が集まって「君が代」を歌い、「皇国臣民の誓詞」を唱えた後、いくつかの班に分けられました。~(中略)~釜山で私のように捕まえられたスンジャも私と同じ班になりました。~(中略)~スンジャと私のいた班は二番目に船に乗りました。~(中略)~何時間か行くと、釜山の影島(ヨンド)に再び戻ってきました。~(中略)~一九四三年九月、釜山の影島にある第一慰安所に行くことになりました。(P.303~304)


◆◆◆ 文必ギ[王+基](ムン・ピルギ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1925年慶尚南道生まれ。家はさほど苦しくはなかった。1943年18歳の時、勉強もできるし、金儲けもできるという男の言葉に騙されて、満州で3年間、慰安婦生活を強いられる。

2000.12月、女性国際戦犯法廷で証言を行う。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

家の近くのトラックに乗せられる場所には日本人巡査が来ており、釜山駅からは軍用列車に乗り、以降は日本の軍人達が慰安所まで引率。


【考察】

同女の証言は、以下の通り「従軍慰安婦」を意識し過ぎた内容になっていて、私は逆に胡散臭さを感じます。以下、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」に記載されている証言。

○「日本人の手先として働いていた五〇代くらいの男の人がいました。ある日その人が私に、勉強もできてお金も儲かる所に行かせてあげると言いました。(P.119)」
  ・・・騙したのはあくまで日本人の手先 

○「そこには村の派出所に勤務する日本人巡査のタナカという人も来ていました。(P.119)」(※「そこ」とは、同女を連行する為のトラックが停められていた場所)
  ・・・日本の公権力の関与を匂わす記述

○「私たちが乗った汽車には民間人用の車両と軍人用の車両がありましたが、私たちは軍人用の車両の方に乗りました日本の軍人が私たちを引率していましたが、軍人たちは私たちを別々に座らせて互いに話もできないようにしました。(P.120)」
  ・・・日本の軍人たちが引率

○「慰安所にいた朝鮮人男性が、女を連れて来いという日本の軍人の依頼を受けて、故郷に行ってキヨコを騙して連れて来たのだと言っていました。(P.121)」
  ・・・主犯格が日本の軍人であったことを明示

○「慰安所から近い部隊に所属する軍人たちが交替で派遣されて歩哨に立ちました。(P.121)」
○「歩哨兵がいつも私たちをいつも監視していました。(P.126)」
  ・・・ここでも軍の関与を示唆。慰安所に歩哨を置いて監視する程、暇ではないと思うのですが

○「軍人は全員日本人です。もし、朝鮮人が入って来たなら思いっきり泣きつくこともできたでしょうが、三年間、朝鮮人の軍人は一人も見ることがありませんでした。ほかの「慰安婦」の中には朝鮮人を見たと言っていた人もいました。(P.123)」
  ・・・女性を性奴隷として扱うのは日本人だけで、朝鮮人はいてもホンのわずかと言うことでしょうか

以上、恣意的な感じ(※あくまで「感じ」)がする記述が多数見受けられます。
また、同女は

 「慰安所に送られて三年目の二十歳のとき終戦を迎えました。(P.127)」

と、「終戦」という言葉を使用しています。8月15日は日本人にとっては終戦記念日でも、韓国人にとっては植民地支配から解放された「光復節」です。他の元・従軍慰安婦の方々も「終戦」ではなく「解放」という言葉を使用しています。
裏に日本人のゴーストライターがいたのではと疑いたくなります。


【信憑性】

このパターンの証言をする人は、複数の証言を突き合わせると必ずと言っていいほどボロが出てくるものですが、現在、突き合せるべき資料がない為、現段階では信憑性の判断は保留します。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
普陽郡の私の村には、日本人の手先として働いていた五〇代くらいの男の人がいました。ある日その人が私に、勉強もできてお金も儲かる所に行かせてあげると言いました。私は勉強ができないことをとても恨めしく思っていたので、勉強できるという言葉に引かれて承諾しました。~(中略)~私が満十八歳になった一九四三年秋のことです。~(中略)~数日後の夕刻、再びその男が家に来て、ちょっと用があるから出て来いと言うので、両親には何も言わずに家を出ました。すると、家から少し離れた場所にトラックが停められていました。そこには村の派出所に勤務する日本人巡査のタナカという人も来ていました。その二人が私をトラックに乗せて釜山に連れて行きました。~(中略)~食堂で朝食をとったあと、他の四人の女たちと一緒に釜山駅を出発しました。私たちが乗った汽車には民間人用の車両と軍人用の車両がありましたが、私たちは軍人用の車両の方に乗りました日本の軍人が私たちを引率していましたが、軍人たちは私たちを別々に座らせて互いに話もできないようにしました。~(中略)~汽車に一緒に乗って行った私たちは全員、満州にあった軍慰安所に配属されました。(P.119~120)
2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子編集 明石書店
(※管理人注:同書の内容は「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」を転載したもので内容は同じ)


◆◆◆ 文玉珠(ムン・オクチュ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1924.4.3大邱(テグ)生まれ。9歳の時、独立運動をしていた父が帰宅し長患いの後、死亡。暮らし向きは楽ではなかった。1940年16歳の時、帰宅途中に軍服を着た日本人に連行され、満州にて慰安婦生活を強いられる。約1年後、将校を騙して朝鮮に帰る。1942年、女中をしている時に友人から「食堂で働かないか」と誘われ、1942年にビルマ(現ミャンマー)にて慰安婦となる。慰安婦時に軍事郵便貯蓄にて26,145円の貯蓄をし、また、別途、5,000円を実家に送金。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」その他より)

1991年12月、金学順(キム・ハクスン)、金田きみ子(仮名)らと共に日本政府に謝罪と補償を求めて提訴。2004年11月最高裁棄却により敗訴確定。(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟)
1992年に日本の郵便局を相手に26,145円の貯金返還の訴訟を起こす。2003年3月最高裁上告棄却により敗訴確定。(戦時郵便貯金の払い戻し訴訟(別名:下関裁判))
1996.10.26死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

満州の慰安所に行った際は、帰宅途中に軍服を着た日本人に憲兵隊の事務室に連れて行かれ、翌日、普通の服を着た日本人と朝鮮人の男に引渡され、満州まで連れて行かれる。また、ビルマに行く際は朝鮮人の男女に引率され軍用船を使用。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)


【考察】

同女が慰安婦として3年弱の間に貯めた金額は、実家への送金分も含めると、31,135円。(※利息は含まず)
当時の大卒の初任給が100円から150円、陸軍参謀の年棒が6600円ですので、現在の貨幣価値に直すと、単純計算でも6千万円は超えます。(※現在の初任給を20万円として2000倍した)
当該軍事郵便貯金については、日本の敗戦と共に失効したものと勘違いしていて、その後、通帳もなくしてしまったようです。さらに、1965年の日韓基本条約に基づき、韓国は、1975年7月から2年間、貯金通帳など有価証券の支払いを受け付けていますが、これも知らなかったようです。なお、貯金原簿については 熊本貯金事務センターにて存在が確認されています。

金学順(キム・ハクスン)さんと同じく「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」で強制連行されたことに証言が変更されています。具体的に言うと、1942年にビルマに行く前に、「1940年に『軍服を着た日本人』に連行されて満州で慰安所に入れられ、日本人将校を騙して故郷まで帰ってきた」というエピソードが追加され、軍人に連行されたことになっています。
また、ビルマへ向かう際も、「釜山港から船に乗りました。船は軍用船六隻か七隻がいっしょに出発しましたが、私たちの乗った船がいちばん最後でした。私の記憶では、私のような女たちが三、四百人を超えるほどで、船中いっぱいだったように思います」と、他にもたくさん女性達がいて軍の関与を暗示する記述が加わっています。
ただし、金学順(キム・ハクスン)さんとは違い、次の通り、証言を変更した理由も記載されています。

「昨年、若い頃検番で知り合った李さんのすすめで、はじめてこの事実を申告した時にも、中国の話は明らかにしませんでした。その時は、はずかしいことをみんな話そうかどうしようかと迷って、南方へ行った話だけしました。けれども、私の話がみんな知られてしまった今、何をかくす必要があるかと思って、思い出すまま全部を話しました。今、すべてを話し終わって胸がすっとしました」(証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(P.179)

この言い訳を信じるか否かですが、強制連行の部分のみが都合よく、そっくり抜け落ちていたことには疑いの目を向けざるを得ません。

さらに、「文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の『慰安婦』だった私」(以下「文玉」)になると、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下「証言」)とまた内容が下記の通り異なってきます。

13歳の時、満州に行く前に福岡県大牟田で働いているのですが、そこは
 ○「証言」・・・遠い親戚で古物商
 ○「文玉」・・・親戚という記述はなく、売春宿
その家を逃げ出した理由が
 ○「証言」・・・約束した学校に行かせず、毎日、家の手伝いばかりさせていたから
 ○「文玉」・・・学校に行かせるというのはウソで、大きくなったら身売りさせられると分かったから

朝鮮に帰った後、16歳の時、満州の慰安所に行くことになったきっかけは
 ○「証言」・・・憲兵隊と思われる軍服を着た日本人に突然、路上で連れて行かれる
 ○「文玉」・・・日本人の憲兵と朝鮮人の憲兵と朝鮮人の刑事に突然、路上で連れて行かれる
→連行したのが1人から3人に増えています。

連行後、駅で引渡された相手が
 ○「証言」・・・普通の服を着た日本人の男と朝鮮人の男
 ○「文玉」・・・日本人憲兵と朝鮮人刑事
→一般人から憲兵と刑事に変わっています

満州で慰安所に入れられた際
 ○「証言」・・・女の人達に聞いて初めてそこが慰安所であることが分かる
 ○「文玉」・・・大牟田で働いていた時の経験ですぐに売春宿だと分かる

満州から逃げ帰る際、母が病気で死にそうだからと騙して証明書を発行してもらう相手が
 ○「証言」・・・主計将校(物品を管理する将校)
 ○「文玉」・・・憲兵

帰郷後、18歳の時、ビルマの慰安所に入るきっかけになったのが
 ○「証言」・・・偶然知り合った友達の誘い
 ○「文玉」・・・満州の慰安所で働いていた友達のヒトミとキファの誘い
→「文玉」では、なぜか、満州の慰安所にいたヒトミとキファまでもが朝鮮に帰ってきています。さらに、ビルマに行く途中で同じく満州の慰安所にいたアキミとヒフミにも再会しています。奇妙にも、満州時代の友達が4人もせいぞろいし、しかも、ビルマの同じ慰安所に入れられることなります。
なお、「証言」では、途中で出会ったのは満州の慰安所にいた金ケファのみになっています。(金ケファは、「文玉」で食堂で働こうと誘ったキファと同一か?)

釜山港から船に乗るのですが
 ○「証言」・・・同じにような女が3、400人超える程だった
 ○「文玉」・・・同じような女が150~200人ほど港に集まった
→同じような女が半分に減っています。

「文玉」では、満州の慰安所で働いていた4人の友達が偶然、ビルマの同じ慰安所で働いたことになっており、この偶然はあまりにも出来すぎでしょう。しかも、友達と偶然の再会を果たした場所から彼女らを引率したマツモトという朝鮮人はビルマの慰安所の主人でもあり、顔見知りだったと記述されています。おそらく、満州から朝鮮への帰郷はなく、単に満州からビルマへとマツモトという慰安所経営者に引き連れられて移動しただけでしょう。
また、日本で働いていた場所が売春宿だったことを考えると、「朝鮮→強制連行→満州の慰安所」もさらに疑わしいものになります。

これら一連の変更を考慮して実際、どうだったのかを推理してみると

 1)日本の売春宿で働いていた
 2)身売りを強要され拒否したから、または、その他の理由で満州の慰安所に売られた
 3)満州の慰安所からビルマの慰安所に移った

と言うところではないでしょうか。


なお、「裁判の訴状」では、

「毎晩、集まった切符を文玉珠らは、松本に渡し、月に一回、半額が現金で女性たちに渡された」

と、揚げ高の半額を給料として受け取ったと証言しているのに、「文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の『慰安婦』だった私」では

「マツモトは、わたしたちから切符を受け取るだけですこしも金をくれなかった。食べ物や着るもの、ちょっとした化粧品を買いたかった。わたしたちは一致団結してストライキを打つことにした。いつもわたしがリーダーとなって、金をくれないのなら働かないといって交渉した。そうやって実力行動を起こしたときだけ、マツモトは金をわずかばかり、そう一円か二円だけくれるのだった。」

と、慰安所経営者の松本は給料をくれずに、ストライキをした時だけ1円、2円もらえたと証言しています。
元・慰安婦の「お金は一円ももらってません」という証言はよく耳にしますが、それが如何にいい加減なものかが良く分かります。


【信憑性】

同女の証言の強制連行の部分については信憑性がないと言えるでしょう。

なお、蛇足ですが、「文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の『慰安婦』だった私」を読んでみると、同女が聡明な方で、死と隣り合わせに戦っていた兵士達がまさに慰安されていたことが分かります。多くの貯金をためることが出来たのも、この方がそれだけ「チップをあげたい」「便宜を図ってあげたい」と思わせる方だったからでしょう。
全くお話しにならない元・従軍慰安婦の方がいるのも事実ですが、ウソつき呼ばわりして単に否定したり、やたら被害者であることを強調したりするだけでなく、時には、我々のおじいさん、ひいおじいさん達が戦場で、慰安婦の方々に慰め勇気付けられていたという事実に思いを馳せてみることも必要でしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1991 裁判の訴状 ***** ****
貧しい人だけが行く私立の夜間学校に三年間行ったところで、お金がなく中退せざるを得なかった。その後、朝鮮人や日本人の家の女中に行き、洗濯や掃除をした。五年くらい女中をしてから、家の近くの靴下の家内工場で二~三年間働いた。その後しばらく家にいた。当時は仕事があまりなく、失業をしていたのである。そんな時に、文玉珠は少し顔を知っていた男から「ちょっと遠いところだが、食堂で働けばお金が儲かる」という話を聞かされた。その男は大邱に住んでいる朝鮮人だが、洋服を着てネクタイをして靴を履いていた。その男の姓は宋(ソン)で、日本名は松本と言った。
どこへ行くのか聞いたら、はっきりと教えてくれなかったが、「暖かい国だ」と言ったので、外国に行くのだと思った。松本は「故郷に金を送ったら家族が楽に暮らせるというので、文玉珠は生活が苦しいので、やむなく行くことにした。
二十日後に出発することになった。家族に知られたら叱られて行かせてもらえないので、誰にも知らせないまま家を出た。従って、家からは何も持ち出せなかった。出発前にはお金は貰えず、着いてから必要なものは何でもくれるということをきかされた。
一九四二年七月九日に、今と同じ場所にあった大邱駅から汽車で釜山に出発した。~(中略)~

慰安所受付で、兵隊は料金と引き替えに慰安所切符を受け取り、部屋に入り文玉珠らに渡していた。毎晩、集まった切符を文玉珠らは、松本に渡し、月に一回、半額が現金で女性たちに渡された。しかし、このなかからご飯のおかずや服やたばこを自分で買い、つらい時は、酒も飲んだので、みんな生活費になってしまった。貯金した一万五千円のお金は、兵隊からのチップであった。慰安所のある所には、「野戦郵便局」があり、兵隊が利用していた。一般の人は利用できなかった。慰安婦は軍属扱いであったので、文玉珠もここに貯金していた。自分で行ったり、兵隊に頼んだりした。~(後略)~
1992.5.22 毎日新聞 ***** ****
一九四三年から一九四五年の間十二回振り込みがあり、その預金残高は二万六一四五円に上っている。
1992.8.10 <証言>従軍慰安婦・女子勤労挺身隊 伊藤孝司 風媒社
そんな時に、会えば挨拶する程度の顔見知りの男の人から「ちょっと遠い所だが、食堂で働けばお金が儲かる」という話があったんです。その人は大邱に住んでいる朝鮮人ですが、洋服を着てネクタイをして靴を履いていました。~(中略)~その男の姓は「宋(ソン)」で、日本名は「松本」と言いました。年は四〇歳くらいでした。(P.80)
一九四二年の七月九日に、今と同じ場所にあった大邱駅から汽車で釜山(プサン)に出発しました。(P.81)

(※2007.4.6追加)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 そんな時に、会えば挨拶する程度の顔見知りの男の人から、「ちょっと遠い所だが食堂で働けばお金がもうかる」という話があったのです。その人は大邱に住んでいる朝鮮人ですが、洋服を着てネクタイをして靴を履いていました。その頃は、こんな服装をしているのは刑事などの限られた職業の人だけだったのです。その男の姓は「宋」で、日本名は「松本」と言いました。年は40歳くらいで、日本語も上手でした。
 どこへ行くのか聞いたら、はっきり教えてはくれませんでしたが、「暖かい国だ」と言ったので、外国に行くのだと思いました。松本は「故郷に金を送ったら家族が楽に暮らせる」と言うので行くことにしたのです。家族に知られたら反対されるので、誰にも知らせないまま家を出ました。(P.26)

(※2007.4.22追加)
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 私が十三歳になった頃でした。父方か母方かはよくわかりませんが、日本に住んでいた遠い親戚がうちの田舎に訪ねて来ました。その時、その人たちは母に、お使いでもさせながら、本当の娘のように学校にもやり、いい人をみつけてお嫁にも行かせるから、私を日本に連れて行かせてほしいと頼みました。勉強させてやれないことにいつも心を痛めていた母は、二言もなく承諾し、私も勉強できると思って、その親戚について日本に向かいました。親戚の家は福岡の大牟田にあり、大勢の人夫を使って古物商をしていました。~(中略)~長い髪を切られて悲しんでいる私の気持ちなど知らんぷりで、約束した学校には行かせず、毎日、台所の洗いもの、洗濯、掃除や、自分の子どもの世話ばかり見させようとしました。六ヵ月ほどこうして過ごしましたが、しまいにはなぜ私がこうしていなければならないのか、腹立たしくなりました。それで、私は古物商の人たちのお使いをして、もらったお金を貯めはじめました。そうして、その人たちに家に帰る方法を聞いておき、だまってその家を出てしまいました。(P.160~161)

 一九四〇年
、私は、満十六歳になりました。この年の秋の暮れ頃でした。~(中略)~ハルコ(※日本名を使っている朝鮮人の友達(管理人注))の家を出て自分の家に帰りかけました。まだいくらも歩かないうちに、軍服を着た日本人が私に近寄って来ました。彼は、突然、私の腕を引っ張って、日本語で何か言いました。その頃は、巡査という言葉を聞くことさえ恐ろしい時代だったので、私は何も言えず彼に引っ張られるまま連れて行かれました。連れていかれた先は、憲兵隊ではないかと思われます。そこには、私と同じ年頃の女の子が一人先に来ていました。~(中略)~次の朝になると、軍服を着た日本人は、私たちを外へ連れ出しました。彼は私たちを駅前に連れて行って、普通の服を着た日本人の男と朝鮮人の男に渡しました。~(中略)~私たちは当時の中国東北部、逃安城というところで汽車を降りました。~(中略)~
 先に来ていた女たちは二十人ほどでした。私は「こんなところになぜ女の人たちがたくさんいるのだろう」といぶかしく思いながらも、疲れていたので、その日は何も考えずに寝てしまいました。次の日、私は女の人たちに「ここは何をするところなの」と聞きました。すると、誰かが、「あんたたち、お金をもらって来たんじゃないの?」と聞き返しました。私が「いいえ、捕まえられて来たの」というと、その人は「ここは慰安所で、軍人たちがお客に来るところなのよ」と言いました。私が「軍人が来るからといって、私たちとどう関係あるの」と言うと、その人はひどく困ったように「軍人たちが寝ることところなのよ」と言いました。その人たちの説明や、くやしそうなようすをみても、私には、軍人が寝ることと自分がどう関係があるのか理解できませんでした。(P.162~164)

 いっしょにいた人の中では、金ケファと、大邱からいっしょに来たフミコの名を覚えています。慰安婦生活をほとんど五年から十年もしているという人もたくさんいました。私は憲兵に捕まる前から「フミハラ(文原)」という姓を使っていましたが、その頃有名だった映画を見て、そこに出てくる女優の名をとって「ナミコ」と名をつけました。(P165)

 来てからちょうど一年ばかりたった九月でした。主計将校が私に、慰安所の外で所帯をもっていっしょに暮らそうと言いだしました。そこで私は彼に、「私が連れて来られた時、母が病気で死にそうでした。だから、あなたといっしょに暮らす前に、まず朝鮮に行かせて下さい。行ってきたら、きっといっしょになります」と言いました。そんなことを言って哀願する私に、彼は、本当に帰って来るねと何度も念を押しながら朝鮮に往復できる証明書を出してくれました。(P.166)

 大明洞の近所に、偶然知りあった友人が一人いました。一九四二年七月はじめ、この友人が「お金をたくさんくれる食堂に行こうと思うんだけど、あんたも行かない?」と聞きました。私はもうだめにされた身体だと思っていたので、どうせのことならお金でもたくさん稼ごうと思って、すぐ承知しました。次の日、私は家族にもだまってそっと家を出て、その友人といっしょに釜山行きの列車に身を託しました。私は何としてもお金をもうけて、私たちのために苦労している母を助けてあげたかったのです。
 釜山に着くと、駅前には二人の男女が待っていました。二人とも朝鮮人でしたが、男は松本といって、後でわかったことですが、私たちを管理する人でした。そして、女の方は私たちと同じ慰安婦で、ただその男について出てきたようです。この二人は、まごまごしている私たちをある旅館に連れて行きました。そこには、すでに十五、六人の女たちが来ていました。ここで、私は満州でいっしょに過ごした金ケファと再会しました。私は一方でうれしく思いながらも、本当にびっくりしました。~(中略)~
 私たち十八人は、一九四二年七月十日、釜山港から船に乗りました。船は軍用船で、六隻か七隻がいっしょに出発しましたが、私たちの乗った船がいちばん最後でした。私の記憶では、私のような女たちが三、四百人を超えるほどで、船中いったいだったように思います。~(中略)~
 私たちは紆余曲折のあげく、台湾、シンガポールを経てビルマ(ミャンマー)に到着しました。(P.167~168)

 私は創始改名による姓の「文原」をそのまま使い、名前は「ヨシコ」とつけました。マンダレー以来、私は物品を管理しているホンダ・ミネオと次第に親しくなりました。(P.171)

 そこで、私はまた軍部隊に行って、母親が亡くなったので葬式の費用に金を送りたいと頼み、いくらかのお金を家に送りました。私の通帳にはそれでもまだお金がかなりたくさんありましたが、ビルマのどこかで通帳をなくしてしまいました。その当時、お金を送る時に、ある軍人が全額送れと言いましたが、私も将来故郷に帰ったら生活が苦しいだろうからと思って、とっておいたお金でした。
 お金の話が出たので、お話しすることですが、私はお金を貯めるために本当に努力しました。アキヤブにいた時、将校たちは、日本語もうまいし歌も上手だといって私をほめてくれました。そして、誕生日のパーティーや送別会をする時には朝鮮人の中では文原ヨシコのほかにはいないといって、日本人慰安婦といっしょに私をよんでくれました。そうすると、私たちは決められた場所に行ってお酒のお酌もし、踊りを踊ったり、歌を歌ったりするのですが、一週間に二、三度はそんなことがあって、その度によばれて行きました。上手に相手をつとめると彼らはチップをはずんでくれるので、私はこの金を使わずに貯金しました。
 私はそれほど可愛い方ではありませんでしたが、「とてもきれいだ」といった馴染みの将校たちが、時々、私の部屋にやってきて泊まって行き、彼らが来ると兵士たちは入って来ませんでした。この時将校たちにもらった金も使わずに貯めました。こうして貯めたお金の他にも、酒やたばこもただでもらうことが多かったので、私はお金ができると、少しずつ野戦郵便局に貯蓄しました。そしてその後もお金ができれば、通帳に積み立てておいたのです。(P.175~176)
1996.2 文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私 森川万智子 梨の木舎
 わたしは十二歳になっていた。
 そのころ、日本の九州大牟田で料理屋をしているという夫婦が訪ねてきた。その主人は六十歳くらい、妻は四十歳くらいだったと思う。
 「商売が繁盛していて人手が足りない。子供たち二人が放りっぱなしなので、子守をしてもらえないだろうか。きてくれるのだったら学校にもやってやろう、ゆくゆくは自分の家から立派に嫁にもだしてやろう」といった。~(中略)~
 店はなるほど繁盛していた。わたしは突然、朝から晩まで騒然としている調理場に放りこまれた。学校に行かせてもらえるどころか、毎日、子守、掃除、洗濯。それから一日中、薪を燃やしている竈の火の番、使い走りといった用事をいいつけられた。とにかくじっとしている暇はなく、なんとも忙しいところだった。
 「大牟田市中島町釜山館」
 忘れられない住所と屋号だ。中島町というのは男たちが遊ぶ街だった。釜山館は「乙種料理屋」といっていたが、売春宿だった。(P.19~21)

 大牟田には五、六ヵ月もいただろうか。大牟田で十三歳の誕生日がきたのを憶えているが、それほど長くはいなかった。というのは、「学校に行かしてやる、お嫁にもだしてやる」という主人の言葉は真っ赤なうそで、何年か釜山館の下働きをして体が大きくなったら、わたしも身を売らなければならなくなるということがわかったからだった。(P23)

 わたしはそのとき十六歳になっていた。~(中略)~夕方、歩いて二十分ほどの家に帰る途中、「ちょっとこい」と呼び止められた。日本人の憲兵と、朝鮮人の憲兵と、朝鮮人の刑事だった。わたしは怖くて声も出ない。後をついていった。なんの用かと聞くことなど、とてもできなかった。朝鮮人であるわたしたちにとって、憲兵といったら、この世でいちばん恐ろしい存在だった。~(中略)~連れて行かれたのは憲兵の詰め所だった。そこには少女が一人いた。~(中略)~翌朝、わたしと少女は大邱駅から汽車に乗せられた。別の日本人憲兵と朝鮮人刑事に引渡された。(P.28~29)

 連れていかれた家は大きな民家で、部屋がたくさんあった。「グンポール」という名がついていた。二十人ほどの朝鮮人の若い女たちがいた。そのうちの三人ほどは赤色や桃色の派手な日本の着物を着ていた。わたしはすぐに大牟田の釜山館と芸者や女郎のねえさんたちを思い出して、ここは男の相手をする家だということがわかった主人は朝鮮人の六十歳くらいの男だった。(P.30)

 女たちはみんな大邱から引っ張られてきていた。名前はヒフミ、カナリヤ、キミコ、ハツコ、ヒトミ、キファ、アキミ、ヒロコなどといった。日本の名前をつけろと主人にいわれ、わたしは、そのころ流行った映画『不如帰(ほととぎす)』の主人公の武雄と波子にちなんで、ナミコに決めた。(P.31)

 わたしを特別に可愛がってくれている憲兵に頼んでみた。その憲兵が許可をだす権限をもっている、ということは知っていた。だから、わたしはずっと「憲兵さん、憲兵さん」といって、気に入ってもらえるように振る舞っていたのだ。
 「母が病気だから大邱に戻って看病したいのです。かならず戻ってくるから、汽車の切符を買うための証明書を書いてください。」
 憲兵は証明書を出してくれた。主人にも「かならず帰ってくるから、おねがいです」となんどもいって慰安所を出してもらった。
 一緒に釜山行きの汽車に乗ったのは、肺病になって働けなくなった二人と、仮病を使ったもう一人と、わたしの四人。友達の名前は憶えていない。(P.36~37)

 わたしは十八歳。若かった。「日本軍の食堂に働きに行こうよ。金もうけできるよ。」とわたしを誘いにきたのは、ヒトミとキファの姉妹だった。トアンショウのグンポールで働いていたときの友達で、そのときは近所に住んでいた。~(中略)~
 二日後、母にはいわず、ヒトミとキファと三人で列車で釜山に向かった。いえば反対されるに決まっている。荷物は着替えを二、三枚とタオルを入れた小さな手提げ袋だけだった。金も少ししか持っていなかった。
 指定された甲乙旅館という名の旅館に行って、わたしはびっくり仰天した。アキミが、ヒフミがいる。トアンショウで一緒だった友達がそこにきている。わたしたちは奇遇を喜んで、「まあ、どうしたの、あなたも南の国にいくの、一緒でよかったね」といい合った。きょうはここで一晩泊まるのだ、といわれた。そこには、マツモトという朝鮮人の男と、六十歳をすぎた朝鮮人の男と、その甥がいた。この男たちがわたしたちを引率したのだった。マツモトは顔見知りの男だった。~(中略)~
 マツモトに引率されて軍専用の岸壁にいった。そこには百五十人から二百人ほどの娘たちが集まっていた。(P.45~46)

 「だまされてきたんだなあ、かわいそうに。おまえたちは間違ったよ、ここはピー屋(慰安所)なんだ。」娘たちは天地がひっくりかえるほど仰天した。ピー屋が何をするところか、知らない娘もたくさんいる。でも、わたしは少し違った。驚くには驚いたけれど、その瞬間、ああ、やはりそうかと、と妙に納得したのを憶えている。(P.56)

 マツモトは、わたしたちから切符を受け取るだけですこしも金をくれなかった。食べ物や着るもの、ちょっとした化粧品を買いたかった。わたしたちは一致団結してストライキを打つことにした。いつもわたしがリーダーとなって、金をくれないのなら働かないといって交渉した。そうやって実力行動を起こしたときだけ、マツモトは金をわずかばかり、そう一円か二円だけくれるのだった
 わたしの手もとには、少しずつもらったチップが貯まって大きな金額になった。(P.75)

 またつらいことが起きた。トアンショウでも一緒だった二つ年上のアキミが血を吐いたのだ。(P.82)

 同じ組の六人、つまりヒトミとキファ姉妹、ツバメ、ヒロコ、ヒフミ、そしてわたしで、なんとか故郷に帰る方法はないかと考えた。(P.114)

 アユタヤの病院にいたときには、母に送金もした。
 ラングーンで受け取っていた母からの電報を将校にみせて、「母の葬式に金がいるから、お金を送りたい」というと、許可がでた。貯金からおろして五千円を送金した。係の兵隊にたのむと、「貯金があるのなら、ぜんぶ送ったほうがいい」といった。わたしは、「あとのお金は、朝鮮に帰ってからおろすからいいです」と答えて送らなかった。届くかどうか心配だったし、せっかく貯めた貯金がなくなるのも心細かった。(P.137~138)


◆◆◆ 黄錦周(ファン・クムジュ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1922年、忠清南道扶餘に生まれる。1941年20歳の時、日本人の班長に「日本の軍需工場に行けば金が儲かる、一家で少なくとも1人は行かなくてはならない」と言われて奉公先の娘たちに代わって志願し、以降、吉林の慰安所で慰安婦を強いられる。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)

2000.12月、女性国際戦犯法廷で証言を行う。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

集合場所の駅で日本の軍人に引渡され、軍用列車にて満州の吉林に行く。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)


【考察】

下記資料の通り、連行された年でさえ14歳~20歳と、数え年と言うものを考慮してもフォローするのは不可能。

1992年の「従軍慰安婦と戦後補償」では「ソウルの金持ちの家で小間使いをして以来、ずっと、色々な家で子守、女中をしてきました」はずが、1993年の「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」では、夜学に通って休学していた情報が加わり、しかも、養父である崔(チェ)という人の妾の家と本妻の家の二つでのみで女中していたことになっています。
さらに、最初、崔(チェ)さんの妾の家で女中をしていましたが、妾と折り合いが合わずに本妻の家に変えてもらいます。そこで、単に本妻の家に連れて行ってくれただけの人に、最初に養女になった時と同額の100円を渡して借金が200円になるというおかしな状況を披露しています。
おそらく売られた数を減らしたかったのでしょう。しかし、中途半端に取り繕った為に矛盾が生じています。

また、夜学は休学中だったはずが、2001年のTBSのTV放送では、「学校を卒業する25日前に日本軍に引っ張りだされ」と発言して、休学していなかったどころか卒業間際だったことに変更になっています。

自らの過去を願望を交えて変更し、全ての不幸を日本軍のせいにして「虚構の過去」が築きあげられていく過程をまざまざと見せ付けられているようです。


なお、1997.3.11の産経新聞では以下の通り証言の食い違いが指摘されています。
生まれた年 慰安婦にされた年
朝日新聞の記事(1995.7.24夕刊) 1922年 17歳(1938年か1939年)
伊藤孝司氏編著 「証言 従軍慰安婦女子勤労挺身隊」(風媒社、1992.8) 1927年 シンガポール陥落の年
(1942年)

------------- 以下、2007.4.22追加 ------------
上記、産経新聞には記載されていませんが「証言 従軍慰安婦女子勤労挺身隊」の記述によると同女が慰安婦をしていた期間は以下の通り約「15ヵ月」になり、「1942年4月」に騙されて慰安婦になったという記述と全く一致していません。(※3年4ヶ月にならなければおかしい))

  吉林省(約8ヶ月) → サハリン(2、3ヶ月) → 吉林省(3、4ヶ月) → 終戦



また、下記資料の「写真記録 破られた沈黙」(以下「写真」)と「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下「証言」)を比べると以下の通り内容が異なっています。

<生まれた年>
○「写真」・・・1927年8月15日
○「証言」・・・1922年8月15日
→ 5年も生年が変更されるなどありえないでしょう。

<父が留学した大学>
○「写真」・・・明治大学
○「証言」・・・「日本に留学」としか記述されていない
→ 具体的な大学名を出すとウソがばれるからやめたのでしょうか。

<日本で父がしていた仕事>
○「写真」・・・大学卒業後、日本で司法の代書をしていた
○「証言」・・・靴磨きや新聞配達をしながら苦学。留学が終わろうとする頃、病気になり故郷に戻って伯父の司法書士事務所で仕事の手伝い
→ 大学を卒業して働いていたのが、卒業前に故郷に戻ってきて、しかも、日本でしていた仕事を朝鮮で行っていたことに変更されています。

<金持ちの養女となった歳>
○「写真」・・・12歳(明記されていませんが、計算すると1939年頃)
○「証言」・・・13歳(1934年)
→ 12歳と13歳の違いは、満年齢と数え年の違いでしょうが、生年に合わせて1934年のことになっています。

<工場に行くことになった歳>
○「写真」・・・1942年4月
○「証言」・・・1941年陰暦2月・20歳
→ 何故か1年だけ、慰安婦になった年が早まっています。

<吉林省から移動した場所>
○「写真」・・・「サハリンだったと思います」
○「証言」・・・「どこだったかわかりません」
→ 全く不明になっています。

<慰安婦生活をした期間>
○「写真」
  ・・・吉林省(約8ヶ月)  → サハリン(2、3ヶ月)  → 吉林省(3、4ヶ月)  → 終戦
○「証言」
  ・・・吉林省(期間不明) → 不明地(8、9ヶ月) → 吉林省(しばらくして) → 終戦
→ 慰安婦になった年も変更になったのですから、当然のことながら一致しません。「証言」では吉林省にいた期間が明記されていません。ヘタに細かく書くと矛盾がばれてしまいますから、賢いやり方と言えます。

------------- 以上、2007.4.22追加 ------------


【信憑性】

証言の信憑性は全くありません。
「吉林の慰安所で働かされた」と言う証言は一貫していますので、吉林で働いていたというのは本当でしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992.4 元兵士たちの証言 従軍慰安婦 西野留美子 明石書店
 十七歳のときです。工場で働けるといわれ、トラックに乗せられました。汽車に乗ったら、どうもようすがおかしいのです。両方の扉は塞がれ、外が見えないようにと窓は油紙みたいなもので全部おおわれていました。着いたところが、満州の吉林でした。着くと、おおきなトラックがきて、十五名、二十名と分けられ、運ばれていきました。
 西も東もわからないところに連れていかれ、カーテンで仕切られた部屋に入れられました。最初に入ってきたのは、将校でした。将校は、顔の美しい女だけをどこかへ連れていきました。
 私はいなか育ちで日本語もよくわからず、着物を脱げといわれていることがわからないので黙っていると、その将校は日本刀で私の服を切って裸にしました。
「助けて!助けて!」と懇願しました。
「天皇陛下の命令だ!軍隊の命令だ!私の命令だ!命令をきかないと殺されるぞ」
 わびてわびて・・・・・・そのうちにこわくて気絶してしまいました。その私を、自分の宿舎に連れていっておもうままにしました。この後は話せません・・・・・・。
 私は処女でしたから、初めてのことで、犯されて気が遠くなっていると、将校は部下に、「もとの部屋に連れていけ」と命じました。
 そのうちに私は、淋病、梅毒にかかり、六〇六号の注射を打たれました。妊娠したことも、自分ではわかりません。六〇六号は劇薬なので、妊娠していても流産してしまいます。性病にかかると痛くて、そのうえ顔や全身が腫れます。そうすると、そういう女たちを別の部屋に隔離してしばらくそこで治療します。少しよくなると、また、兵隊の相手をさせるのです。三回ぐらいそれを繰り返していた女は、そのうちにいなくなりました。行方不明です。死んだり、病気になったり、前線に連れていかれて女がいなくなると、また新しい娘たちが補充されてきました。
 一日に五十人から六十人の兵隊の相手をして、休みの日には、七十人から八十人の相手をして、あげくのはてに性病になり、血や膿がでるようになりました。痛くてどうにもならないというと、私たちは犬畜生でもないのに、男の性器をなめろというのです。いやだというと、顔をひっぱたき、強制的に口に入れました。私は犬ではない!人間の娘です!
 そのうちに、部隊が移動することになり、サハリンに連れて行かれました。荷物みたいにです。それから二、三ヵ月たって、また、吉林に帰ってきました。身も心も傷つき、ずたずたになり三年がたちました。
 ある日、人の声がしないのでおかしいと思って外をみると、兵隊たちは誰もいません。水でもなんでもいいから飲みたいと思い、外に出ていくと、一人の兵隊がいました。
「きのう天皇陛下が敗戦を宣言したから、みんな逃げていったのだ。おまえたちも早く逃げないと殺される」
逃げ遅れた兵隊は、そういうとどこかへ去っていきました。(P.120~122)

(※2007.7.12追加)
1992.7 従軍慰安婦と戦後補償 高木健一 三一書房
一九二二年、忠清南道扶餘で生まれました。生家は貧しく、十二歳の時、一○○円で売られ、ソウルの金持ちの家で小間使いをして以来、ずっと、色々な家で子守、女中をしてきました数えで十七歳の時、女中をしていた咸鏡北道ハムン郡の金持ちの家に、工場供出の員数割り当てがきて、その家には十九歳と十五歳の娘がいたのですが、私が工場に行くことになったのです(P.47)
1992.8 <証言>従軍慰安婦・女子勤労挺身隊 伊藤孝司 風媒社
 一九二七年八月一五日生まれ~(中略)~
私は五歳の時に、ソウル(当時は「京城」)の知り合いのおばさんに引き取られていましたが、一二歳の時に、お父さんの薬を買うために、一〇〇円のお金をもらって、ソウルのあるお金持ちの家の養子になりました。
 養父の家族は咸興(ハムン)にいました。だけど、養父はソウルで商売をしていて、そこに妾がいたんです。私はこちらの家に行きました。ここで二年間いましたが、あまりにも苦労をしたので、養父に別の所で働きたいと言ったんです。
それで、咸興の本妻の家に移る事になりました。そこには娘三人と息子二人がいました。娘は一九歳・一五歳・八歳でした。
ここでは学校に行かせてくれ、食べ物・着る物・寝る所は、そこの子どもたちとほとんど一緒でしたが、掃除・洗濯・炊事とお手伝いさんのように働いたんです。この咸興に三年間いました。
この家にも面(村)長から、工場の「募集」の話が来ました。これを断ると日本人に殴られたり、いろんな事をされたんです。だから、この家からも誰か一人は行かなくてはならなかったんです。
 一番上の娘は日本の大学に合格していたし、私は養子だったので「自分が行く」って言ったんです。
面長も日本人の指示で「募集」をやっていたから、私がどこへ連れて行かれるのか、知らなかったと思います。もし、私たちが「慰安婦」にさせられるという事がわかっていても、拒否はできなかったでしょう。
私だけでなく、集められた誰もが工場に働きに行くものと思っていました。みんな田舎の娘ばかりだったんで、工場へ金を稼ぎに行くというのが嬉しかったんです。私は清潔な白いチョゴリ(朝鮮の上着)と黒のチマ(朝鮮のスカート)を着て行きました。これはシンガポールが「陥落」した年(一九四二年)の四月の事でした。(P.117~118)

私が連れて行かれて一ヵ月ちょっとした時に、私より少し年上だった女の人は、将校と激しい喧嘩をしたんです。殴られて何度も食らいついていき、失神しても気がついたらまた反抗したんです。そして、「兵隊の相手はしない」と言ったら、その裸の女は性器を拳銃で撃たれて殺されたんです。
「慰安所」の中での出来事だったので、みんなが見に行くと「あんまり言う事を聞かないとこうなるぞ」と、見せしめに女たちの前で撃ったんです。こんなひどい事を日本人がしたのを知ってますか。(P.124)

 この吉林省には8ヶ月くらいいてから、船に乗せられて違うう所へ連れて行かれました。私はそこはサハリン(当時は樺太)だったと思います。~(中略)~ここに二、三ヵ月いました。
 それから、吉林省に戻ったんです。~(中略)~
 そこで三、四ヵ月して解放(日本敗戦)になったのです。(P.124~126)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 私は忠清南道扶餘で生まれました。お父さんは明治大学を卒業して、日本で司法の代書を仕事にしていました。~(中略)~
 私は5歳の時に、ソウル(当時は「京城」、以下同じ)の知り合いのおばさんに引き取られていましあ。12歳の時に、お父さんの薬を買うために100円のお金をもらって、ソウルの金持ちの家の養子になりました。
 養父の家族は咸興はいました。だけど、養父は商売をしていたソウルに妾がいたのです。私はそこに2年間いましたが、あまりにも苦労したので咸興の本妻の家に移ることになりました。そこには娘3人と息子2人がいました。娘は19歳・15歳・8歳でした。
 この家にも、面(村)長から工場の「募集」話が来ました。これを断ると日本人に殴られたりいろんなことをされたのです。だから、この家からも誰か1人は行かなくてはならなかったのです。一番上の娘は日本の大学に合格していたし、私は養子だったので「私が行く」って言ったのです。
 私だけでなく、集められた誰もが工場に働きに行くものと思っていました。みんな田舎の娘ばかりだったので、工場へ金を稼ぎに行くというのが嬉しかったのです。私は清潔な白いチョゴリ(朝鮮の上着)と、黒のチマ(スカートのような民族衣装)を着て行きました。これはシンガポールが「陥落」した年(1942年)の4月のことでした。(P.9~10)

 この吉林省には8ヶ月くらいいて、船に乗せられて別のところへ連れて行かれました。私はそこはサハリン(当時は樺太)だったと思います。トラックに数時間ゆられて日本軍の部隊に着きました。陸軍と違う色の軍服を着た部隊だったので海軍だと思います。吉林省よりも寒くて雪も多かったです。ここに2~3ヶ月間いて吉林省に戻りました。
 それから3~4ヶ月すると解放(日本敗戦)になったのです。(P.16)

(※2007.4.22追加)
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 私は一九二二年、陰暦の八月十五日に扶餘で生まれました。私が長女で、妹が一人、弟が一人いました。経済的には豊かではありませんでしたが、はソウルで中学を卒業した後、日本に留学しました。父よりも二十歳年上の伯父が水原で司法書士をしながら父の学費を援助しましたが、それだけでは足りなかったので、父は靴磨きや新聞配達などをして苦学したそうです。ところが留学も終わろうとする頃、父は病気になりました。故郷に戻り水原の伯父の司法書士事務所で仕事の手伝いをしましたが、病気は悪くなる一方でした。~(中略)~
 私は崔さんに父のことを話しました。その人は、父親は大事にしなさいと言いながら百円をくれました。その代償に、私は崔さんの養女となり、ソウルにいる崔さんの妾の家で手伝いをすることになったのです。~(中略)~私が十三歳の時(1934年)のことでした。(P.104)

 崔さんの妾は意地悪でしょっちゅう殴るので、私はひどく苦労しました。二年間そこで暮らしましたが、養父である崔さんにそのことを訴えると、咸興の本妻の家に移してくれました。咸興の家に私を連れて行ってくれた人が本妻から百円受け取って行きました。私の借金は二百円になったわけです。(P.104~105)

 夜学の二年生を修了して1年ほど休学していたときのことです。私が住んでいた村の班長は日本人でしたが、~(中略)~その夫人が村を歩き回って「日本の軍需工場に三年の契約で仕事をしに行けばお金が儲かる、一家で少なくとも一人は行かなくてはならない」と暗に脅迫しました。~(中略)~養母が困っているのを見て、私は自分が行くと養母に告げました。~(中略)~二十歳になった年(1941年)の陰暦二月のことでした。(P.105~106)

 駅で五十代の朝鮮人男性が私たちの一行を引率し、日本の軍人に引渡しました。軍人は私たちを軍用列車に乗せました。軍用列車の他の車両には軍人が乗っていました。一つの車両に私たちの一行と他の女たちも合わせて五十人ほど乗っていました。他の車両にも女たちがいたようでしたが、よくはわかりませんでした。(P.106)

 汽車から降りるとなにやら放送する声が聞こえました。何の放送かと尋ねると、吉林駅だということでした。(P.107)

 ある日、移動する部隊があるので一緒に行きたい者はついて行ってもいいと言われました。~(中略)~トラックに乗って出発したのですが、吐き気がひどく外を見ることもできなかったので、どこをどのように行ったのかわかりません。船にも乗ったような気がします。軍人たちは私たちを慰安所に降ろしました。慰安所の建物は吉林の慰安所と似ていました。どこだったのかはわかりませんが、爆撃がひどくて夜は灯火することもできませんでした。~(中略)~八、九ヵ月ほどしたある日、軍人たちが吉林の方に後退する気配を察した私は、ひとり死にものぐるいで軍人たちの中に混ざってそこを出ました。そうしてもといた部隊に戻ったのです。満州に戻ってしばらくした頃、解放を迎えました。 (P.113)
1996.1.4 国連・経済社会理事会 クマラスワミ報告 ***** ****
17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私は労働者として徴用されたのだと思いました。
1995.7.24 朝日新聞「元従軍慰安婦 黄錦周の世界 1」 ***** ****
 この年さあ、日本が中国と戦争を始めたのは。大騒ぎで軍人だ、補給部隊だって集めて。私は十六になった秋から、若い娘の動員も始まるんさ。三年契約で軍需工場で働くってんで。~(中略)~
 近所の若い娘たちはどんどん動員されてくだろ、私が十七になると、もう私たち四人しかいない。日本人の班長が、会うたびに「どうするのか」てきくし。
 義母は食事ものどに通らなくなって。私を出すか、クムジャを出すか。~(中略)~
 私は聞いちゃいられない。部屋に入って、「私が行きます」っていったんさ。私が行かなきゃ。もしクムジャが行ったら居ても立ってもいられないからね。
1995.7.25 朝日新聞「元従軍慰安婦 黄錦周の世界 2」 ***** ****
多い日で十五人ぐらい、クリスマスは二十人近かったね

(※管理人注:日本にクリスマスの慣習が根付いたのは戦後)
1997.夏 日韓社会科教育交流団韓国を訪問 ***** ****
満18歳になった時のある日、男がやって来て村から娘を出すように伝達をしました。
1997.12.5 元日本軍「慰安婦」の証言を聞く集会(福岡) ***** ****
1922年扶餘生まれ。父の発病後家運が傾き、13歳のとき家をでて、奉公に出ました。村の班長(日本人)「日本の軍需工場に行けば、お金がもうかる。一家に一人は行かなくては」と脅かされ、奉公先の娘たちにかわって、1941年、二十歳で国を離れましたが、ついた所は慰安所でした。敗戦のときは、軍隊に置き去りにされ、やっとの思いで逃げ帰りました。
戦後、苦しい生活と性病の後遺症に悩まされ、悔しい思いをだいて生きてきました。
2001.5.17 TBS「ここが変だよ日本人」 ***** ****
私は19歳学校を卒業する25日前に日本軍に引っ張りだされ仕方なく慰安所に行ったんだ!
2001.7.17 黄錦周さんの証言を聞く会 東京大学にて ***** ****
14歳のとき、いわゆる「少女供出」で満州に連行され、皇軍兵士のセックスのはけ口にされたつらい体験を語りました。
2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子編集 明石書店
(※管理人注:同書の内容は「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」を転載したもので内容は同じ)


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