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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 金英実(キム・ヨンシル) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1924年10月21日(注)兩江道普天郡で生まれる。父が病気で貧しい生活を送る。1941年居酒屋で働いていた時、背広を着た日本人(実は将校)の「いい職場を紹介してあげる」という話に乗り、朝鮮と中国・ソ連が接する国境地帯に連れて行かれ、以降、慰安婦を強いられる。

(注)「朝鮮人『慰安婦』では1923年10月21日生まれになっている


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本人区長の家に集合し、騙した将校の引率で慰安所に行く。


【考察】

同女を「いい職業を紹介してあげる」と騙して慰安所まで引率したのが日本人将校。証言によると、この将校は、「それからも和服に着替えてどこかにでかけていっては、朝鮮女性を連れてきて『慰安婦』にした」(「朝鮮人『慰安婦』)とあるように、女性を騙して慰安婦にすることを業務としていたようです。
業者に任せておけば良いものを、わざわざ軍人が行っていたという話でも信じ難いのに、将校が行っていたと証言。ウソ臭いことこの上ありません。


また、他の北朝鮮証言者と同じく、慰安所の建物や生活の様子等はなく、如何に日本兵が残虐であったかを伝えることに終始したものになっています。ただ、同女の上げる残虐行為は以下の通りで、他と比べて比較的軽いようです。

 ○「私より年下の『トキ子』が朝鮮語を使ったからと、私たちの前で将校で首を切られてしまった」
 ○「将校とけんかをしたため拷問されました。無理やり水を飲まされて、ふくれ上がったお腹に板を乗せて2人が乗って押したのです」
 ○「重病のために役に立たないものとわかると、病死者も含めてどこかに連れ去られた。彼女たちがどうなったかはわからない。ただ、行って見たことはないが、豆満江がすぐ近くを流れていたので、そこが墓場になったのではないだろうか」
 ○「彼女の部屋に入っていった将校は、生まれた乳児を布で包んでどこかに連れ去った。そして、衰弱した『ジュンコ』が役に立たないと思ったのか、彼女をどこかに連れ去っていった。それっきり私たちは、彼女の消息を聞いていない。」


なお、同女は、13歳の時、口べらしの為に叔母の家に行くのですが、「写真記録 破られた沈黙」では、その叔母は既に中国に行っていなかったことになっているのに対して「朝鮮人『慰安婦』」に掲載されている内容では、ちゃんと叔母の家で世話になっていたことになっています。

-------------- 以下、2007.7.27 追加--------------
また、「いい職業を紹介してあげる」と日本人将校に声をかけられた時、「朝鮮人『慰安婦』」「写真記録 破られた沈黙」では、同女は居酒屋で働いていたことになっていますが、「世界に問われる日本の戦後処理①」では、物乞いをしていたことになっています。
-------------- 以上、2007.7.27 追加--------------


【信憑性】

信憑性なし。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992.10 朝鮮人「慰安婦」 在日本朝鮮民主女性同盟中央常任委員会 ****
 両親、祖母と妹2人、弟1人の7人家族の長女として生まれた。家庭が貧しかったので数え13歳のとき、咸鏡北道の会寧に住んでいた父の妹のところにいった。

 会寧は、私の故郷に比べれればそれでも働き口があるというので、叔母の家で世話になりながら、近所の雑用をして働いた。数え18歳のとき居酒屋で雑用係をしていた

 1941年のある日、そこに背広を着た日本人があらわれて「条件の良い仕事をあっせんしてやろう」と話しかけてきた。「条件の良い仕事」なら故郷の家族に仕送りができるので、家計を助けるためにもやってみたいと思った。故郷を離れたといっても叔母のそばで働いていたので、見知らぬ土地にいくことには不安があった。しかし、少しでも条件の良い仕事をして故郷に仕送りできればと考えていたので、集合場所に指定されていた村の日本人区長の家にいった。いって見ると私と同世代の女性が、既に14、5 人集まっていた。

 区長の家の前にはトラックが迎えにきていた。それに乗って会寧駅にいき、そこで昼食時に汽車に乗り換えてアオヂを経由してウンドクに到着したのは夕刻であった。そこからチョンアクドンにいくと、ほろ付きのトラックが待機していた。それに乗せられて30分ばかり走ったところの山中に連れていかれた。

 その山中には日本の軍人がいっぱいいた。

 私たちは中国と旧ソ連の国境地帯の、少し奥地に入ったところに連れていかれたが、到着してみるとそこには既に、10人位の朝鮮女性がいた。女性たちは私たちに、「なぜこんなところにきてしまったのか。ここからは生きてでることはできないのに」と悲しげに話しかけてきた。私には何のことかわからなかった。

 軍人がやってきて私たちを最初に倉庫に連れていった。今まで着ていた朝鮮服を脱いで和服に着替えろと強制した。私は恐怖と羞恥から拒否すると殴る蹴るの暴行を受け、むりやり裸にされて着替えさせられた。そして、「ここでは朝鮮語を使うと殺す」と脅かされた。

 その日、一緒にきた女性たちの一部は他所へ連れていかれ、彼女たちがどこへ行ったのか、どうなったのか一切わからない。私は人間2人が入ればいっぱいになるような部屋に入れられた。

 夜、麦御飯とスープだけの粗末な夕食をだされたが、恐怖でのどをとおらなかった。ただどうにかして逃げ出さなければとばかり考えていた。そんなことを考えていたときに、私たちを連行してきた男が軍服を着て入ってきた。将校(肩に星が3つ付いていた)の軍服を着てきた。将校はいきなり入ってきて有無をいわさず私を強姦した。この将校は、それからも和服に着替えてどこかにでかけていっては、朝鮮女性を連れてきて「慰安婦」にした。そればかりか、ここにいた女性をどこかへ連れ去りもした。

 最初の日の夜は、その将校の外に7人もやってきて私に暴行を働いた。私が7人という数字を記憶しているのは、それまで想像もできなかったつらい暴行を受けて、この後何人にこんな思いをさせられるのかと思い詰めていたからである。厳しい監視の中で私は逃げ出す方法も考えられないままに、そのままそこで「慰安婦」を強いられることになってしまった。

 食料事情は悪く、ろくな食べ物はなかった。そのために栄養失調と過労のために病気になるものが多かった。重病のために役に立たないものとわかると、病死者も含めてどこかに連れ去られた。彼女たちがどうなったかはわからない。ただ、行って見たことはないが、豆満江がすぐ近くを流れていたので、そこが墓場になったのではないだろうか

 この周辺のアオヂ、チョンアクドン、クロン、サフェなどには付設の慰安所があったが、ホンイリにはなかった。

 慰安所のないところには私たちが派遣させられて奉仕させられた。そこには週に1~2回いかされ、朝から翌朝まで奉仕させられた。時には1泊2日で夜中に帰ってくることもあった。

 私たちのグループは常に14、5 人で、欠員がでるといつのまにか必ず補充されていた。

 ある日、「トキコ」と呼ばれていた私より幼い女性が朝鮮語を使ったという。それをみとがめた将校が私たち全員を呼び集め、その前で見せしめに、幼い「トキコ」の首を日本刀ではねて殺した。あまりの恐ろしさに泣き叫ぶ者、気絶する者もいた。私はただうつむいて声をだすこともできなっかた。それからは、日本語のよくわからない私たちは、ただ目と目で語り合うことしかなかった。

 また、「ジュンコ」と呼ばれていた女性は、妊娠に気付かぬうちにいつしか臨月に近くなっていた。軍人たちは、「ジュンコ」が出産する直前まで「慰安婦」として利用していた。ある日、彼女が出産した。彼女の部屋に入っていった将校は、生まれた乳児を布で包んでどこかに連れ去った。そして、衰弱した「ジュンコ」が役に立たないと思ったのか、彼女をどこかに連れ去っていった。それっきり私たちは、彼女の消息を聞いていない。

 ここにいたらいつか私も殺されると思った。

 1945年8月13日、軍人たちが、「日本に帰るから、お前たちも一緒に連れていく」といった。ここでもこんなに辛い思いをさせられいるのに、日本にいけばどうなるのか見当がつかない。そこで皆と話し合い逃げることに決めた。一緒だと捕まるのでバラバラに逃げようと約束した。

 その夜、私はトウモロコシ畑にひそみ、明け方、山に登っていった。山の中で2日くらい隠れていて、そこから山のふもとの人家を探していき、そこで食べ物をもらった。祖国の解放はその時聞いたが、信じられず捕まることを恐れて、ずっと山の中に潜んでいた。

 秋になって清津にでてきた。


(キム・ヨンシル 1923年10月21日生 両江道普天郡出身)
1993.5 アジアの声 第7集
世界に問われる日本の戦後処理①
「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録
国際公聴会実行委員会 東方出版
 私は、一九二四年一〇月二一日、両江道普天郡で生まれました。家が貧しく、父が病に倒れてからは、母が家庭を支えていました。わが家には両親と五人の子どもたち(二人の息子と三人の娘)がいました。私は、二番目で長女でした。
 非常に貧しかったので、私は一三歳の時、父は私を会寧にいる叔母のもとへ預けました。私は会寧に行きましたが、叔母はすでにその地を去っていました。その結果、私は方々を物乞いして歩き、見知らぬ人の家で女中をしながら、かろうじて生計を立てました。
 私が一八歳の時でした。ある日、背広を着た日本人が、私に歩み寄り、金になる仕事を提供するから自分と一緒に来るように言いました。その仕事がどういうものなのかも知りませんでしたが、物乞いを続けるよりはましだと思い、私は彼について行きました。そこは、すでにたくさんの少女たちでいっぱいでした。そこから私たちは、トラックに乗せられ会寧鉄道の駅へと連れて行かれました。またトラックに乗せられ、三〇分ほど揺られると私たちはある渓谷にたどり着きました。
 そこには一七、八歳ぐらいの少女たちが一〇人余りがいました。彼女たちの中には、まだ一五歳にも満たない子もいました。そこは旧ソ連と中国とに接する国境地帯の、少し奥地に入ったところでした。
 私は、彼女たちに「ここは、いったいどこなの?」と尋ねました。
 彼女たちは答えました。「生きて出ることのできない所にどうして来たの?」と。
 私たちは、出入口にムシロが吊るされ、まるで便所のようなつぎあて小屋に住むことになりました。日本の軍人が私たちのところへやってきて、チマ・チョゴリを脱ぎ日本の着物を着るように命じました。私たちは、その馴染みのない服を着ることをためらいましたが、結局力づくで脱がされました。
 その日から私は、日本人として「エイコ」と呼ばれ、兵士は私の胸に「エイコ」と書かれた名札を貼り付けました。
 部屋には、やっと二人が横になれるくらいの二枚のムシロが広げられていました。私の部屋に初めて入ってきたのは、私に仕事を紹介すると声をかけた男でした。背広を着ていた以前の格好とは違い、中尉の軍服を着ていました。彼は力で私を強姦し、続いて七人の将校が私を強姦しました。
 私は、助けをもとめて「オモニ(お母さん)」と叫びました。しかし、それは無駄なことでした。次の日から私は、二、三〇人の将校や兵士の相手をさせられました。日曜日は、それ以上でした。大麦のおにぎりとわずかな汁を与えられる以外は、何も口にできず、常に飢えに苦しみました。(P.74~75)

 ある日、トキコと呼ばれていた少女が朝鮮語をしゃべりました。将校は、私たちを野原に集めると、みせしめとして彼女の首を刀で斬り落としました。恐怖のあまり、私たちは泣き叫びながらその場から逃げだしました。
 ジュンコという少女が妊娠しました。しかし軍人たちは彼女をいたわりはしませんでした。彼女が出産を終えたのち、将校は彼女とその子どもをどこかへ連れて行きました。それ以来、私たちは彼女について何も聞かされませんでした。
 幾人もの少女たちが「慰安婦」という仕事に耐えられず首を吊って、自殺しました。
 私をだましてここへ連れてきた将校が、ひどく酔っぱらって私に奉仕を強要したのは、ある日曜日のことでした。私は、拒みました。体調が悪かったのです。すると彼は、私の上にまたがり、私の髪をわしづかみにしては私の頭を何度も床へ打ちつけました。私は、将校の腕を噛みました。彼は腕を払い、私の二本の歯が折れました。
 次の日、数人の男が、私に襲いかかってきて、鼻から水を流し込みました。私の胃がふくれあがると、彼らは私のお腹に板をのせ、上から踏みつけて強く押しました。彼らは、私が気を失い意識を取り戻すと、また同じことをくり返しました。ほかの少女たちは、恐怖のあまり目を背けるしかありませんでした。このようなことが日常茶飯事でした。(P.76~77)

(※2007.7.27 追加)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
1924年10月21日生まれ
朝鮮民主主義人民共和国兩江道恵山市在住

 私は、現在の兩江道普天郡で生まれました。家族は両親と兄・弟・妹2人の7人でした。お父さんは病気だったので、お母さんが日雇いをしていたのですが、貧しい生活でした。
 私は数え年で13歳の時、会寧にいるお父さんの妹の家で世話になることになりました。そこまで何日もかかったのですが、お金のない私は物乞いをしたり木の実を採って食べて空腹をしのぎ、農家に泊めてもらったり野宿をしながら旅をしました。ところが、行ってみると叔母さん一家は中国に渡ったとかでそこにはいなかったのです。帰ることもできなくて、その近所で雑用をして働きました。
 1941年、働いていた居酒屋背広を着た日本人が来て「いい職場を紹介してあげる」と言ったのです。どこかの工場で働けるというので、これで家族に仕送りができると思いました。日本人区長の家に行くと、そこにはすでに14~15人の女性が集まっていました。
 迎えに来たトラックに会寧駅に行き、昼過ぎに列車に乗せられました。夕方に着いた青鶴洞の駅からは、幌付きのトラックに30分ほど乗せられて、朝鮮と中国・ソ連が接する国境地帯に着きました。
 そこには10人くらいの朝鮮人女性がいましたが、彼女たちは「なぜこんなところに来てしまったのか。ここからは生きて出れないのに」と悲しげに話しかけてきたのです。私には何のことなのかわかりませんでした。
 倉庫に入れられ、着ていたチョゴリ(朝鮮の上着)を日本の着物に無理やり着替えさせられました。そして「ここで朝鮮語を使うと殺す」と脅されたのです。私は「エイ子」という名前をつけられました。
 麦ごはんとスープだけの夕食を出されたものの、恐怖でのどを通りませんでした。どうにかして逃げようと考えていた時、私たちを連れてきた男が肩に星3つが付いた将校の軍服を着て入って来ました。そして有無をいわさず私を強姦したのです。その夜は、この男の他に7人もが私を強姦しました。
 それからは、毎日20~40人の兵隊の相手をさせられたのです。私たちは週に1~2回、「慰安所」のはに駐屯地へ派遣されることもありました。私たちの人数は常に14~15人で、欠員が出ると補充されていました。
 ある日、私より年下の「トキ子」が朝鮮語を使ったからと、私たちの前で将校で首を切られてしまったのです。あまりの恐ろしさに、泣き叫んだり気絶する人もいました。私は声を出すこともできず、うつむいていました。それからは、日本語のよくわからない私たちは、目と目で語るしかなかったのです。
 1945年8月10日頃、私は酔っ払った将校とけんかをしたため拷問されました。無理やり水を飲まされて、ふくれ上がったお腹に板を乗せて2人が乗って押したのです。このことで私は、死ぬ覚悟で逃げようと決心をしました。
 13日に「我々は日本に帰るのでお前たちも連れて行く」と将校が言うので、その日の夕方に逃げ出したのです。山の中で2日くらい隠れてから、ふもとの人家で食べ物をもらいました。この時、朝鮮の解放(日本敗戦)を聞きました。しかし、信じられなくて山の中に潜んでいて、秋になって清津に出て来ました。
 今まで「慰安婦」だったことは口に出せませんでした。テレビで、名乗り出た人のことを知り、「嫁にもいけなかったこの恨みを持ったまま死ぬわけにはいかない」と思い話をすることにしました。(P.78~82)


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◆◆◆ 金大日(キム・デイル) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1916年11月5日、黄海道の沙里院で生まれる。家は非常に貧しく、12歳(数え年)の時、わずかな米と引き換えにお手伝いさんとして売られ、その後、日本人の経営する紡績工場に売られる。1932年、「福田」という日本人に「食べ物に困らない所に連れて行ってあげる」と言われ、大阪の病院で雑用をさせられる。18歳の時、そこの院長に強姦され、1934年、院長に見知らぬ日本人に引渡され、以降、12年間、上海等で慰安婦を強いられる。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

病院の院長に売られた後、東京から釜山へ渡り、汽車で新京、ハルピン、チチハル、牡丹江等を経由して上海の慰安所に行く。


【考察】

全体的にウソ臭い内容です。

最初、日本人の男に「食べ物に困らない所に連れて行ってあげる」と言われ、通常なら、その後、慰安所に入れられるパターンなのですが、何故か、一旦、大阪の病院で働いています。そして2年後、院長に慰安婦にさせられているのですが、理由は記載されていません。訳が分かりません。強姦した時、拒んだからでしょうか。

また、上海の慰安所に移動するのに、朝鮮半島を縦断して満州の新京を通り、中国の東北部のハルピン等を経由して到着しています。異常に遠回りです。日本から上海に行くなら、長崎か下関から船で行くのが通常でしょう。

おそらく、大阪の病院で2年間雑用をしていたというのは全くのウソ。最初、男に騙されて満州で売春婦をしていたのでしょう。その事実を隠す為に、大阪の病院のエピソードを挿入したわけです。そして、日本から直接、上海に行ったことにすれば良かったものを、なまじ滞在していた経験があったものだから、ご丁寧に満州を経由したことにしてしまったのではないでしょうか。


また、同女は、「転戦する軍隊に従って中国各地を連れ回された」(「朝鮮人『慰安婦』)と証言していますが、「金学順さんの証言」ではシンガポールにも行ったことになっています。もう無茶苦茶です。

さらに、「朝鮮人『慰安婦』」で同女は、「現在では『従軍慰安婦』と言っているが、私が当時、言われたのは『挺身隊』とはっきり記憶している。」と証言しています。
「従軍慰安婦」=「挺身隊」は韓国で一般に広がっている誤認識であり、韓国政府の公式見解「日帝下軍隊慰安婦実態調査」では明確に無関係なものであると結論づけています。明らかに「従軍慰安婦」=「挺身隊」としたい政治的意図を持った発言です。


なお、北朝鮮の元・従軍慰安婦お約束の日本兵の残虐行為は以下の通りです。

○火のついた煙草を鼻や子宮に入れる
○将校が「おれは、飽きたからお前がやれ」と言ってシェパードをけしかける
○戦闘で負けた腹いせに慰安婦に銃を乱射して殺したり、穴を掘って入れ、手榴弾を投げ込む
○妊婦の腹を裂き胎児を刺し殺した後、妊婦も殺す
○慰安婦150人を並ばせて斬首


【信憑性】

信憑性なし。せいぜい、男に騙されて売春婦、もしくは慰安婦になっただけでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992.10 朝鮮人「慰安婦」 在日本朝鮮民主女性同盟中央常任委員会 編 ****
 私の実家は余りにも貧しかった。数え12歳のときに、わずかな米と引きかえに金持ちの家に下女として連れて行かれた。そこから日本人の経営する紡績工場に売られた。1932年、数え16歳のある日、今度はフクダという日本人がやってきて、「食べ物に困らないところに連れて行く」と言った。私は、またもや売られてたのである。

 私は、フクダと一緒に汽車に乗って釜山港に連れて行かれた。そこには朝鮮女性が20人くらい、あちこちから連れてこられていた。自分がどこへ連れて行かれるのか理解できないままに船に乗せられ、下船したのは下関であった。下関に上陸すると同時に、フクダという男は、「これからは朝鮮語を使ってはいけない。もし使ったら殺す」と脅し、そして「これからお前の名前はシズエだ」と行った。そこから連れて行かれたのが大阪の病院であった。

 病院では雑用をさせられた。地で汚れた包帯やガーゼ、患者の大小便で汚れた衣類の洗濯など、日本人が嫌ってしない汚い仕事は全部させられた。

 来る日も来る日もべっ視と屈辱的な扱いの中で、長時間の労働を強いられ、外出する機会も与えられず、病院の雑用を押し付けられていた。

 数え18歳になったお正月の夜、病院の院長だと名乗った男が、私の部屋に入ってきてナイフを突きつけ、「私の言いなりにならなければ殺す」と脅して、叫び声をあげた私の口を手で押さえて暴行した。その日まで、私は院長の顔も知らなければ会ったこともない。院長は「お前は美しいので、前から目をつけていた」と言った。

 それから、しばらく経ったある日、院長「お前のこの病院で2年も奉公したから、今度はもっと良いところに行かせてあげよう」と言って、見知らぬ日本人の男に私を引き渡した。

 その男は、私を東京に連れて行った。そして、日本の軍隊に「挺身隊」として送り込んだ。そこには朝鮮女性が30人くらいいた。1934年のことである。現在では「従軍慰安婦」と言っているが、私が当時、言われたのは「挺身隊」とはっきり記憶している

 そこで、軍隊と一緒に連れて行かれたのが旧満州である。まず、東京から船で釜山へ行き、釜山から汽車で新京、それからハルピン、チチハル、牡丹江であった。そこで私のほかに数人の女性が選ばれて、船に乗せられて連れて行かれたのが上海であった。

 上海には既に朝鮮女性が大勢いた。その女性たちは、「あなたはどうしてこんな所にきたの」と言いながら私を哀れんだ。私は、「お姉さんたちと同じように無理やり連れてこられました」と答えるしかなかった。

 上海では中国人の民家の2畳くらいの部屋に入れられた。部屋の前には番号が40くらいふってあって、私は12番に入れられた。その夜、将校たちが私を暴行した。それからは1日4、50名もの日本兵が私の部屋の前に列をなし、「早く早く」とせかして先を争い、入れかわるとすぐにのしかかってきた。私は起き上がる暇もなかった。

 私が最初に従わせられた軍隊は12師団で、その師団の移動に伴って私たちは引きずり回された。上海の次にはハンカオへ連れて行かれた。そこから南京、トウヨウ、キショウと、転戦する軍隊に従って中国各地を連れ回された

 日本の軍隊のなかでも九州6師団が一番悪かった。他の日本軍は胸に標識をつけていたが、九州6師団はそでに標識をつけていた。

 私はこうして12年間も慰安婦生活を強いられたが、中でも6師団に加えられた数々の暴行は、決して忘れられない。彼らは酒に酔ってやってきて短刀を突きつけて、「おれの言うことを聞かないと殺す」と身体を傷つけたりした。「この朝鮮ピー」とさげすみながら私たちを威嚇した。彼らはまた、ほかの兵士が先に入っていても、「早く出てこい」と言って脅し、先の者がまだいるのに押し入ってきて性行為を強要した。

 私は、こんな「慰安婦」生活がのろわしくなって自殺を2度も図った。2度ともすぐに発見され、生き返らされてしまった。生かしたのはアキカワという大隊長で、「この女は見殺しにするのは惜しい、使い道があるから生かせ」と言った。私には死を選ぶ自由もなかった。

 私は、何か言うと「殺す」と言って脅していた6師団の兵士に、ある日、覚悟を固めて「私も朝鮮人だ。朝鮮人の女の心意気を見せてやる。殺すなら殺せ」と反抗したために縛られて、ひどい拷問を加えられた。それを見ていたアキカワ大隊長が、「それ見ろ。この女は度胸がある。使い物になるから、殺すな」と言って止めた。そのために、私は地獄のような「慰安婦」生活を続けなければならなかった。

 ある時、私は50人もの兵士を相手にして気絶してしまった。その私に彼らは「ノーシン」という薬を飲ませて意識を回復させて行為を継続させようとした。しかし、私がもうろうとして使い物にならないとわかると、たばこに火をつけて鼻や口に押し付けるなどの屈辱を加えた。

 めったなことではたじろがない私が、恐怖に震えたことがある。それは6師団の兵士の蛮行であった。6師団の一将校が、「おれは、飽きたからお前がやれ」と連れてきたセパード犬を私にけしかけたのである。その時はあまりにもの恐怖で、さすがの私も「助けて」と大声で叫び、周囲の部屋から「慰安婦」たちが飛び出してきたほどである。

 こうした屈辱は、私ばかりでなく他の朝鮮人「慰安婦」たちも同じくあじ合わされたばかりか、短刀で傷つけられたり、中には殺された者もいる。

 こんなことがあった。私の隣の部屋にいた全羅道出身の知らぬ間に妊娠した。彼らは妊娠しているのもかまわず性行為を強要し、ついには性行為の最中に流産した彼女のおなかを日本刀で切り裂き、出てきた胎児をごぼう剣で刺し殺し、妊婦までも殺したのである。

 日本の敗戦も濃厚になってきたころ、軍人たちは、私たちが朝鮮語で話したりすると神経質になって、「日本が負けると言っただろう」と執拗に迫り、日本が負けることになったら「お前ら皆殺しにする」と言って脅した。

 日本の敗戦が決定的になったころ、血迷った彼らは、朝鮮人と中国人の慰安婦ら150名くらいを2列に並ばせて、「かかれ」と小隊長が号令をかけた。両端から日本刀を振りかざした兵士らが襲いかかり、皆殺しを始めた。飛び散る血の雨に私は意識を無くして倒れた。私には3、4日くらい時間が過ぎたように思う。意識を取り戻してみたら、その血の海の中で、私のほかに2名が生き残っていた。

 はうようにして近くの中国人の家に助けを求めに行った。「私は朝鮮人です。助けてください」と必死に叫んだ。

 中国人は数日間かくまってくれて、中国服を一着くれた。それを着て朝鮮人の家を探して行き、そこでしばらく世話になった。8月15日の解放は、その朝鮮人に教えられた。

 9月になってどうしても故郷の両親に会いたくて、世話になった朝鮮人の家族に旅費を借りてやっとの思いで故郷に帰ってきた。しかし、両親は既に死亡していた。

 私が日本人からもらったものは病気だけ。子宮はメチャメチャにされ、心臓は悪くなり、腸も悪くて下痢ばかりして、今でも病院に通っている。

 日本軍の通った中国大陸の隅々には、犠牲になった朝鮮女性の血がしみこんでいる。このことを知ってもらいたい。

 日本人に問いたい。立場を変えて、あなた方の娘も姉妹、妻や母が私のような体験をさせられたとしたらどう思いますか。

(キム・デイル 1916年11月5日生 黄海道沙里院市出身)
1993.2 金学順さんの証言
「従軍慰安婦問題」を問う
解放出版社 編 解放出版社
金大日さんは故郷がピョンヤンの「花子」と呼ばれる女性が産気付くと、残忍な田中という者が、酒を多量にくらって、彼女に襲いかかった。彼は臨月間近の彼女を押し倒し、腹部を切り裂き、胎児を刀の先に刺すという悪魔のような蛮行を敢行したと証言した。(P.148)

 上海、シンガポールなどに連行され、「従軍慰安婦」生活を強要された金大日さんは、彼女が上海の「慰安所」にいた時、「そこには伝性病が流行し、数多くの朝鮮女性が一度に命を落とす惨事が発生した。日本軍は患者たちがいる場所に火を放ち、死体をそのまま山中に捨て、シンガポール戦闘で敗戦した残虐無道な日本軍たちは、そのはらいせに従軍慰安婦たちに銃を乱射したり、穴を掘ってその中に入れ、手榴弾で殺した」と証言した。(P.148)

(管理人注:上記内容は「朝鮮民主主義人民共和国「『従軍慰安婦』及び太平洋戦争被害者補償対策委員会」が作成した日本政府宛の告訴状(1992.9)を掲載したもの)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
1916年11月5日生まれ
朝鮮民主主義人民共和国開城市在住

 私の故郷は黄海道の沙里院です。家はあまりにも貧しく、私は数え年で12歳の時、わずかな米と引き換えに、お手伝いさんとして金持ちの家に連れて行かれました。その後、日本人の経営する紡績工場に売られたのです。
 1932年のある日、「福田」という日本人に「食べ物に困らないところに連れて行ってあげる」と言われました。私は、どこに行くかもしらずに船に乗せられたのです。
 下関で船から降りると「お前は今から朝鮮人ではないし朝鮮語を使ってはいけない。名前はシズエにする」と「福田」は私に言いました。そして、連れて行かれたところは大阪の病院でした。
 私は、ここで雑役をしました。血で汚れた包帯・ガーゼや大小便で汚れた患者の衣類の洗濯など、人の嫌がる仕事ばかりをやらされたのです。
 そして、18歳になった正月のことです。それまで、会ったことすらなかった院長が私の部屋に突然入って来て、ナイフを突きつけたのです。そして、「シズエ、俺の言うことを聞かないと死ぬぞ」と言いながら、私の口をふさいで襲いかかってきました。
 そのことからしばらくたったある日、院長「お前はこの病院に2年間も奉公したから、もっと良いところに連れて行ってあげよう」と言い、見知らぬ日本人に私を引渡したのです。1934年のことでした。その男は東京に私を連れて行き、軍隊に「従軍慰安婦」として送り込んだのです。30人くらいの朝鮮人女性は軍隊と一緒に「満州」(中国東北地方)に連れて行かれました。東京から釜山へ渡り、汽車で新京・ハルピン・チチハル・牡丹江を転々としました。兵隊は、途中で動けなくなってしまった女性を「えーい朝鮮人だ」とその場で刺し殺したのです。こうして数え切れないくらいの朝鮮の女性が犠牲になりました。
 そして、私と数人の女性が選ばれて、船で連れて行かれたのが上海でした。そこには朝鮮人女性が数多くいました。彼女たちは「なぜこんなところに来たのか」と言って私を哀れんでくれました。
 軍隊が接収した中国人の民家の中は1畳くらいの広さに部屋が仕切られていて、ここに閉じ込められました。この部屋の前には1~40番までの番号が付けれていました。つまり40人の女性がいたのです。私の番号は12番でした。兵隊は1人ずつコンドームを持って来ましたが、性病にかかった女性もたくさんいました。~(中略)~
 最初の頃は、第12師団に連れ回されて上海・漢口・南京などを転々としました。私は12年間も「慰安婦」生活を強要されたのですが、その中でも九州の第6師団から受けた数々の暴行は決して忘れられません。~(中略)~
 ある時、私は50人もの相手をさせられたので、疲れ果てて倒れてしまいました。「ノーシン」という薬を飲まされたものの、意識はもうろうとしたままでした。そしたら兵隊は、火の付いた煙草を私の鼻や子宮に入れたのです。
 しかも、次の日にはまた私に襲いかかってきました。それでも満足しない将校は「もう俺はあきたので今度はお前の番だ」と、シェパード犬に私を襲うようにけしかけたのです。さすがの私も恐ろしくて「助けてくれ」と悲鳴を上げました。
 そしてこんなこともありました。私の隣の部屋にいた女性が妊娠してしまいました。それにもかかわらず、兵隊たちは性行為を強要した上に、胎児を無理やりだしてごぼう剣で刺し殺し、その女性も殺してしまったのです。兵隊は皆を集め「ほら見てみろ。朝鮮人は死んだぞ」と言ったのです。~(中略)~
 日本の敗戦が決定的になった時、兵隊たちは私たち朝鮮と中国の女性150人ほどを2列に並ばせました。そして、小隊長が号令をかけて首切りを始めたのです。飛び散った血の雨で、私は意識を失って倒れてしまいました。気が付くと血みどろになって、私は死体の中に埋まっていました。その血の海の中で助かったのは、私の他には2人だけでした。
 やっと起き上がって、そこから2キロくらい離れた中国人の家に辿り着きました。そこの中国人に「私は朝鮮人です。助けてください」と必死に頼みました。家の主人は「お前を助けると私が殺されると言ったものの、家の奥の部屋で5~6日間かくまってくれました。それだけでなく、お風呂にも入れてくれて中国人の服までくれたのです。(P.96~102)


◆◆◆ 池石伊(チ・ドリ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1923.6.5(旧暦)、慶尚北道慶州郡で7人兄弟の長女として生まれる。安康普通学校を卒業し、18歳のとき結婚。その後、夫の家族と共に日本へ渡り、約4年後、夫の徴兵とともに朝鮮に戻り、実家の農業などを手伝いながら生活した。22歳の時、村に30歳くらいの朝鮮人の女性がやってきて、中国の紡績工場で働く人を募集していたので志願。1945年3月、汽車に乗って中国に向かい、石門子(シーメンズ)慰安所で慰安婦を強いられる。
終戦後は中国に残り、2000年6月韓国に帰国する。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

無し。女工を募集に来た朝鮮人の女性に引率され、汽車とバスを乗り継ぎ中国に行く。その女性は慰安所の主人の妾だった。


【考察】

慰安所の主人の妾に騙されて慰安婦になったという話で特に不審な点はありません。


【信憑性】

特に不審な点は見あたりません。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房
 1923年6月5日(旧暦)、慶尚北道慶州郡で7人兄弟の長女として生まれる。安康普通学校を卒業し、18歳のとき結婚した。その後、夫の家族とともに日本へ渡り4年ほど住んでいたが、夫が徴兵されるや朝鮮に戻り、実家の農業などを手伝いながら生活した。22歳のとき、村に30歳くらいの女性(朝鮮人)がやってきて、中国の紡績工場で働く人を募集するというので、志願して、1945年3月、汽車に乗り中国に向かった。
 東寧でバスに乗り換え着いたのが石門子慰安所だった。騙されてきたのが悔しくて毎日泣き暮らした。慰安所の建物は古く、雨が降るとすぐ漏れだした。順番で薪を取りに行ったが、大変寒く苦労した。中国にきて実家に手紙を出したが、その後、弟から父が亡くなり、家族がバラバラになったとの知らせが届いた。
 慰安所では「ひさこ」と呼ばれた。「ひさこ」はそこで付けられたのではなく、結婚後、日本で住んでいたときに姑がつけた名前である。朝鮮からハルモニを連れてきたのは慰安所の主人(日本人)の妾だった。
2007.3.25現在 むくげの会HP
※リンク先のNo.2(韓国語)
***** ****
池石伊は小作農であるお父さんとお母さんもとの 5男2女中長女に生まれた。農業をしたが秋に地主にすべて捧げてからは
いつも食べるのが足りずだとお腹がすいていた覚える。
競走で安康国民優級学校を 6年間通った後、十八歳時年が一歳の多くのご主人に詩集に行ったが、婚家が皆、日本に金儲けしに行くせいで彼女も付いて行った。ご主人は日本で運転をしたが4年ぶりに徴兵に引かれて行ってしまった。当時ご主人は 23歳だったし彼女は 22強かったし、子供はいなかった。その年に親政お母さんさえお亡くなりになった。
姑と一緒に朝鮮に帰って来て、彼女は親政に行った。お父さんと一緒に農業をしたが、徴兵に引かれて行った夫から手紙が来た。“必ず帰るから、工場に入ってお金や儲けながら待ちなさい”と言う内容だった。
ちょうど工場で働く女を募集する30歳頃なる女が村に尋ねて来た。紡織工場であると思ったら、その女に何をする工場なのかと問ったら紡織工場だと言った。彼女は、お金を儲けてお父さんに送って上げるつもりだった。戸口をはなして来なさいと言って、はなして来た日まさにこの女に従って故郷の他の女 2人と一緒に汽車に乗って東ニョングに到着、またバスで石門者に来た。行く間、吐き気が深海死んだ人のように、外も眺めることができずに、ご飯もまともに食べることができなかったまま何も食べることができなかった。
あの時が 45年旧暦3月14日、年は23歳だったが初めて慰安所建物を見てからも、それが工場イン竝びにだけ分かった。

(※管理人注:上記は機械翻訳)
2007.4.20現在 ナヌムの家HP
※リンク先は韓国語
***** ****
-それでは親政で弟(妹)たち面倒を見て生きている途中、中国へいらっしゃるようになったんです?
"親政家で農業仕事を助けながら暮していてから、このようになったんです。"

-あの時、どのようにして来るようになりましたか?誰が来て行くとそうだったんですか?
"真実君した夫が手紙を送りました。我家にもお金がなくて、お前の親政にもお金がないから、君が工場でも入って行って働いていなさい。そんな手紙を受けたうえで工場動き手を募集するという人々が来ました。それで本当に工場に入れてくれるかしました。"

-募集する人が朝鮮人だったんですか?
"三十で歳になる朝鮮女が募集するからといって、そっちへ行って話を聞いて見ました。そうだから 『紡織工場だ.どの所と言っても君逹は一人も分からない.』そうです。
どうであれ行ってと言ったら 『戸口をはなして来なさい.』そうです。戸口をはなして御けだのその日で来るようになった。今年時、他の女と二人が一緒に来た。その朝鮮女が一人で連れて来た。汽車に乗って中国に入って来た。あの時が 45年 3月だった。二十二つの歳にお母さんが世を去った。"

-工場行こうと言いながら、あらかじめ手付け金を与えなかったんですか?
"工場来る時私の中に考えが、お父さんにお金をちょっと差し上げていて、親政もちょっと住んで、になってもちょっと暮してしようと思った。来て見るから、私が氷らせて来た(だまされて来たという) ことなの。お金は一つも与えないな。ただ車票だけまかなって。"

-まさに石門者で来ましたか?
"あの時来て下った所が石門者です。東ニョングこのどうもも分からなくて、台頭村がどうもも分からなくて、来てその席にある途中に光復が出ました。"

-その頃汽車が石門者まで入って行きましたか?
"東ニョングまで汽車乗って来て下って、東ニョングからここまでバスに乗って来ました。私は吐き気を酷かったから、汽車乗って来るの間下を見下ろしながら、外も出して見られないして--- 死んだ人と一つだった。死んだ人のようにひかれて来た式だ。何も分からない。私がそのように車が乗る事ができないなから、連続何日乗って来るから外を眺める景況もなくて、しきりに上って来るからご飯も食べる事ができないして、死んだ人と一つだった。"

-来るのに何日を来ましたか?
"それは分からない。
私が死んだ人と一つなのにそれをどう分かるか。ご飯も食べる事ができないして、汽車に伏せに負けて目も開く事ができないして来た。息をしてそうなの死んだ人と一つだった。"

(※管理人注:上記は機械翻訳)

◆◆◆ 李福汝(イ・ボクニョ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1919年4月18日、4人兄弟の長女として生まれる。両親は早くに死亡し、橋の下で雨露をしのぎながら乞食をしたり農家の手伝いをしたりして弟たちを養う。17歳(数え)の夏、住んでいた小屋に巡査か兵隊の日本人2人に無理やりトラックに乗せられ、中国の大連、ハルピン、牡丹江を経てプチャゴルに連れて行かれ、以降、8年間、慰安婦を強いられる。毒殺されそうになって逃げ出して中国人にかくまってもらい、1947年に帰国する。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

巡査か兵隊が同女をトラックに無理やり乗せ、汽車でプチャゴルの慰安所まで連れて行かれる。


【考察】

北朝鮮の証言者のお決まりのパターンの証言です。

強制連行が明白で、慰安所がどういう建物で、どういう人達がいて、どういう風に暮らしていたのか等は全く不明。あるのは、以下の通り、日本兵の残虐さや「天皇=悪」を印象づける内容のみ。

 ○「将校が『天皇と軍の命令だ。言うことを聞かないと殺す』と言いました」
 ○言うことを聞かない女性を木に吊るし、「奴らは刀で彼女たちの乳房をえぐり取ったのです」
 ○殺した女性の首を沸いた湯に入れ「その煮汁を私たちに飲めと強要しました」
 ○「逃げ出せないように足の神経を切られてしまったのです」
 ○逃亡しようとして捕まった同女に対して「兵隊たちは赤く焼いた鉄棒とドラのような鉄板を私のお尻に押し付けたのです」
 ○「ある時、奴らは私たちの食事に毒薬を入れました」
 (※「写真記録 破られた沈黙」より) 


同女の証言の疑問点は以下の通りです。

<同女が連行される際の弟たちの言葉>
 「お姉ちゃん行くな」と弟たちが泣き叫んでいたことになっています。これは、姉が自発的にどこかへ行こうとする時に掛けられる言葉です。無理やり拉致されているのですから、「お姉ちゃんを連れて行くな」が本来、出てくる言葉でしょう。想像に過ぎませんが、売春宿で働くことに決めた同女が弟たちに掛けられた言葉が「お姉ちゃん行くな」で、あまりに強烈に印象に残っている為、修正し忘れたのかも知れません。

<トラックに女性100人>
 いくら大きいトラックと言っても100人も乗ってたと証言するのは無茶過ぎます。複数のトラックだった可能性もありますが、集めた資料の中には複数台だったとの記述はありません。

<足の神経を切られる>
 同女は逃亡しようとして失敗し、足の神経を切られたと証言しています。足の神経なんてどうやって切るのか良く分かりませんが、逃亡防止用に切るとしたら足の腱でしょう。

<慰安婦を毒殺>
日本兵は、慰安婦を毒殺しようとしますが、同女だけ食事に遅れて助かったそうです。同女が中国人に助けられたのが1944年なので、どうやらこれは1944年頃の話のようです。
何故、慰安婦を毒殺しなければならないのか全く分かりません。終戦を迎えたわけでもなく、まだ、慰安婦は必要でしょう。また、何らかの理由があって全員殺害するつもりであったのなら、運良く毒殺を免れた後、足の悪い同女が逃げることができたと言うのも不可解です。


なお、「金学順さんの証言」(以下「金学」)には、北朝鮮の慰安婦関連の組織がまとめた告訴状が掲載されているのですが、そこに記載されている日本兵の残虐行為は、「写真記録 破られた沈黙」(以下「写真」)と整合性がありません。

<乳房をえぐりとられた女性が、そうされた理由>
○「金学」・・・入浴するのに応じなかったので
○「写真」・・・相手をするのを拒否したので
→ 言うことを聞かなかったという点では同じですが、「写真」では、木に吊るされて乳房をえぐりとられただけなのが、「金学」では、逆吊りにされ、乳房をえぐりとっただけでなく、陰部に銃を打ち込んだことになっています。

<人の頭を煮込んだ煮汁>
○「金学」・・・捕まえてきた中国人の頭を煮込んだもの
○「写真」・・・上記の乳房をえぐりとった女性の頭を煮込んだもの


【信憑性】

信憑性なし


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992.10 朝鮮人「慰安婦」 在日本朝鮮民主女性同盟中央常任委員会 ****
私は4人兄弟の長女として生まれたが、両親は弟3人と私を残して亡くなった。乳飲み子の弟は、母の死後まもなく死んでしまった。私は6歳と7歳の幼い二人の弟の面倒を見なければならなかった。

 住む家もなかったので、橋の下で雨露をしのぎながら、もらい乞食をしたり、農家の手助けをして生きるだけの食べ物を得て弟たちを養っていた。

 私が数え17歳の夏であった。弟の一人が風邪気味なので、居住していた小屋に寝かせておいて食べ物をもらって帰ってきたら、日本人の、巡査なのか兵士なのか区別ができない男が二人あらわれて、いきなり有無を言わせずに、私の髪の毛をつかんで大きなトラックに放り上げるように乗せた。弟たちが驚いて「お姉ちゃん行くな」と泣き叫ぶ声に振り返ろうとしたが、男たちに蹴られて車に押し込められた。弟たちの「行くな」という声だけが聞こえてきて、姿は見ることができなかった。

 トラックには、既に大勢の女性が乗っていた。幼い少女から20歳前後の娘たちでいっぱいであった。100人くらいはいたと思う。彼女たちは泣きわめいていたが、男たちは泣き叫ぶ私たちに蹴る殴るの暴行を加えながら黙らせた。周囲をうかがおうとしたら、「何を見ている」と言って足で蹴られた。

 水原の駅から汽車に乗せられてソウルを経て大連に連行された。途中、鴨緑江のペネンという所で汽車が途中で止まったので、こっそり外をのぞいたら、鉄橋が二つに分かれて上がっていて川を横切る船が過ぎ去っていくのが見えた。そんな私を見とがめた男が、「何を見ている」と言って髪の毛をつかんで殴った。私は弟のことも心配だったし、これから何が起きるかもわからないので不安で泣きだしたら、また殴られた。

 途中で娘たちの一部を降ろして行きながら、ハルピン、ボンチョン、牡丹江などを経由して東寧県北満州に到着した。そこで汽車を降りた。そこからはトラックに乗せられてプチャゴルに連れて行かれた。

 プチャゴルには20人くらいの娘たちが連れて行かれた。到着すると将校がでてきて、「天皇と軍の命令だ。言うことを聞かないと殺す」と言って私たちを脅した。私は5号室に入れられたが、やがてあちこちの部屋から悲鳴が聞こえてきた。私はその日のうちに暴行された。

 私は訳がわからないままに慰安婦にされてしまった。

 それからは慰安婦として毎日2、30人の相手をされた。拒否すると見せしめに庭に引きづり出され木につるされ、「降参しろ」と迫った。

 私たちが到着して間もなくのある日、2人の女性が慰安婦を拒否したというので木につるされていた。軍人たちは「慰安婦」たちを全員呼び集めた目前で「降参しろ」と迫った。しかし、彼女たちは「おまえら犬のようなやつに降参するか」と抵抗した。たけり狂った軍人は、私たちの目の前で乳房をえぐり、なぶり殺しにした。私は余りの残酷さに気絶してしまった。

 鬼のような軍人たちは、2人の慰安婦の首を切り取り、それを、かまゆでにして、その煮汁を私たちに飲めと強要した。しかし、それを拒否すれば、私たちも殺される。殺されては生き延びる手立てもない。仕方なしに私たちは、それを飲んだ。こうしたことを、私たちは何度か体験した。

 「慰安婦」たちは、常に20人くらいいた。病気で死亡したり逃亡に失敗して殺されたりした欠員は補充されていた。

 ここの慰安所には8年いたが、そこにいた軍の部隊の名称はわからない。タカシマという名前と、イケダという50歳過ぎの眼鏡をかけたひげを生やした将校(大将)がいたことは記憶している。このイケダは、逃亡に失敗した私に拷問を命令した男である。

 あるとき私は逃亡しようとして失敗した。捕らえられた私は、板にくくり付けられて何十人もの男たちに犯されて、2度と逃げ出さないようにするといって、足の神経を切られた。それがために現在の、この不具の体になった。

 それから私は東寧県に連れて行かれ、そこで騎馬隊-騎兵隊に引き渡された。そこでは、砂地に天幕を張っただけの所に入れられた。そこには鉄条網が張られていたが、私は、そこをくぐって、またも逃亡しようとして失敗した。その鉄条網に鈴がついていたのを知らなかったのである。その時には、火で焼いたドラのような鉄板でお尻の右側に火傷をおわされる拷問を受けた。その時の火傷がケロイド状態で今でも残っている。(調査団のメンバーが肉眼で確認済み)。その火傷のために足がつって歩行困難になってしまった。いまだに、食をするのにもキチンと座ることができない。

 それでも、はってでも逃げようと、私は逃亡することだけ考えていた。

 ある時、チシャ(サラダ菜)に包んでご飯を食べていた慰安婦たちが、2口ほど食べたところで次々と倒れて死亡した。私は、歩行が不自由なので食事に遅れたが、それが幸いして、そのチシャを食べずにすんだ。

 私は、はってそこを逃げ出した。その私を村の中国人が助け出してかくまってくれた。それが1944年であったと思う。中国人は朝鮮に逃げなさいと教えてくれた。1947年清津に帰国した。

 私は、私の青春時代に、花の年齢に、私を拉致して「慰安婦」にし、こんな障害者にした日本軍人を許さない。

(リ・ポクニョ 1919年4月18日生 京畿道出身)
1993.2 金学順さんの証言
「従軍慰安婦問題」を問う
解放出版社 編 解放出版社
 また、李福女さんは、「隣の部屋にいる三〇歳くらいの女性にやつらが群れをなして襲いかかり、入浴するのに応じないと、野獣たちは礼儀を教えてやると、言いながら、「従軍慰安所」にいる女性たちを全て外に集め、その女性を連れ出し、木にさかさに吊るし、飢えた狼のように襲っていき、銃で思いっきり叩き、乳房をえぐり、陰部に銃を撃ち込んだ。そしてやつらは、お前たちも「皇軍」の要求に応えないと、このように殺すと脅した」と言った。
 彼女は続いて「一度は、やつらが捕まえてきた中国人の首を切り、釜ゆでにし、頭を高い杖台に皆が見えるように置いて、その湯を朝鮮女性たちに強制的に飲ませた」と言葉を詰まらせながら証言した。(P.147)


(管理人注:上記内容は「朝鮮民主主義人民共和国「『従軍慰安婦』及び太平洋戦争被害者補償対策委員会」が作成した日本政府宛の告訴状(1992.9)を掲載したもの)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
1919年4月18日生まれ
朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道在住

 私は4人兄弟の長女で、弟3人がいました。ところが、両親は私たちを残して死んでしまい、一番下の乳飲み子だった弟もお母さんに続いて死んだのです。
 住む家もないので、橋の下で雨露をしのぎながら、乞食をしたり農家の手助けをして弟たちを養いました。
 私が数え17歳の夏、住んでいた小屋に帰って来ると、巡査か兵隊なのかわからない日本人の2人の男が現れたのです。彼らは私の髪の毛をつかんで、放り投げるように大きなトラックに乗せました。弟たちが「お姉ちゃん行くな」と泣き叫んだので私は振り返ろうとしたのですが、男たちに蹴られてトラックに押し込められました。その中には、幼い少女から20歳前後までの娘たちでいっぱいで100人くらいいました。男たちは、泣き叫ぶ私たちを殴ったり蹴ったりして黙らせたのです。
 水原の駅から汽車に乗せられ、中国の大連に連れて行かれました。私たちが列車の外をのぞこうとすると、「何を見ている」と兵隊は髪を引っ張ったり足で蹴ったりしました。私は、弟たちのことも心配だしこれから何が起きるかという不安で泣き出したのですが、そしたらまた殴られたのです。
 兵隊たちは、途中のハルピンや牡丹江などで娘たちの一部を汽車から次々と降ろして行きました。私は東寧県で汽車を降ろされ、20人くらいの女性たちとトラックでブチャゴルに連れて行かれました。到着すると将校が「天皇と軍の命令だ。言うことを聞かないと殺す」と言いました。
 私は5号室に入れられ、着いたその日から強姦されたのです。あちこちの部屋からも悲鳴が聞こえてきました。それからは、少ない日でも30人くらいの日本兵を相手にしなければなりませんでした。
 ある日、2人の女性が兵隊の相手をするのを拒否したということで、両手を縛られ庭に引っ張られて来ました。兵隊たちは、私たちを呼び集めて2人を高い木に吊るしたのです。その娘たちは兵隊に「犬のようなお前たちの言うことなんか聞かない」と言いました。そうしたら、奴らは刀で彼女たちの乳房をえぐり取ったのです。血が吹き出しました。あまりにも残酷なので私は気絶してしまいました。
 彼女たちが死ぬと兵隊たちは首を切って沸いた湯の中に入れました。そして、その煮汁を私たちに飲めと強要しました。拒否すれば私たちも殺されるので、生きるために仕方なく飲んだのです。
 女性たちの数はいつも20人くらいで、病気で死んだり逃亡に失敗して殺されたりすると新しい女性が補充されました。ある時、私は逃げようとして捕まってしまいました。板にくくり付けられて何十人もの兵隊に犯され、逃げ出せないように足の神経を切られてしまったのです。
 そして、別の部隊に移されて砂地に天幕を張っただけの所に入れられました。私は、鉄条網の下をくぐって逃げようとしましたが、鉄条網に鈴が付いていたのを知らなかったので再び捕まってしまいました。
 すると、兵隊たちは赤く焼いた鉄棒とドラのような鉄板を私のお尻に押し付けたのです。この時の火傷はケロイドになってしまったので今でも歩くのが困難で、痛くて横になることもできないほどです。
 ある時、奴らは私たちの食事に毒薬を入れました。私は火傷のために早く歩けなかったので食事に遅れたのですが、私が行った時には先に食べていた女性たちがすでに死んでいたのです。私は、這って逃げ出して、その村の中国人にかくまってもらいました。私はここの「慰安所」に8年間いました。
 体の火傷の跡を見てください。正視できないほどです。1947年に帰国しましたが、故郷には帰れませんでしたし、子どもを生むこともありませんでした。(P.38~41)

◆◆◆ 金玉珠(キム・オクジュ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1923年に慶尚北道大邱で9人兄妹の三女として生まれる。10歳の時、父親が死亡し一家は大変な苦労をする。9歳から通った小学校は11歳で退学し、12歳になった3月から、日本人将校の家で5年間住込みの家政婦となる。17歳の時、その将校から、仁川(インチョン)に今の数倍もの給料で家政婦ができる所があるが行ってみないかと言われ承諾する。しかし、仁川(インチョン)からさらに船に乗せられ、海南島(中国南部広東省雷州半島の南方)に連れて行かれ慰安婦を強いられる。

2000年2月死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

汽車で仁川まで行き、以降、船を乗り継ぎ海南島の慰安所まで行く。(※どの程度、公権力の関与等があったかは、集めることができた資料からは不明)


【考察】

日本人将校の家に家政婦として勤めていたところ、もっと条件の良い家政婦の働き口を紹介されて行ってみたら慰安婦にされたという話です。

ただし、下記資料の「ナヌムの家歴史館ハンドブック」には「日本人将校の家」と明記されていますが、「むくげの家HP(韓国)」では単に「日本人の家」としか記載されていません。本当に将校の家だったのか疑問です。

また、同女の資料は少な過ぎて内容を検証できるほどのものがありません。「ナヌムの家歴史館ハンドブック」も概略を記載されているイメージに近く、淡々と事実が綴られているだけで、同女の生の言葉は殆ど伝わってこないものです。

しかし、逆に言えば、この資料の少なさ、つまり、他の証言集でとり上げられていないという事実が、同女の証言の信憑性のなさを裏付ける根拠と言えるかも知れません。なお、同女は1993年に元「慰安婦」であったことを申告し、1997年から「ナヌムの家」(注)で暮らしています。証言はかなり取りやすい状況にあったと言えるでしょう。

(注)「ナヌムの家」・・・元・従軍慰安婦の女性達が暮らしている施設。「ナヌム」とは韓国語で「分かち合い」を意味する。


【信憑性】

慰安婦をしていたというのは本当だと思いますが、所々、ウソが紛れている可能性もあると思います。ただ、既に死亡していることから、今後、新しい情報を入手できる可能性は低く、証言の信憑性を裏付ける、又は否定する資料は出て来ないでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房
 1923年に慶尚北道大邱で9人兄妹の三女として生まれる。2000年2月、永眠。10歳の時、父親を亡くし、一家は大変な苦労をする。9歳から通った小学校は11歳で退学し、12歳になった3月から、日本人将校の家で5年間住込みの家政婦となる。17歳になったとき、その将校から、仁川(インチョン)に今の数倍もの給料で家政婦ができる所があるが行ってみないかと言われる。その給料がそのときの4倍にもなったので、ハルモニは仁川に行くことに決めた。
 しかし、汽車に乗って仁川に着くと、そこから船に乗せられた。その船は、中国の青島など数ヵ所を経由して、海南島の中心都市海口に慰安所はあった。「エビス」という名の慰安所で、そこの主人は日本人女性だった。そこで「慰安婦」として働かされた女性たちは皆朝鮮人で、9人から12人いたという。軍人たちは、慰安所へ来ると軍票を置いていった。軍票は、1日に平均6枚ほどを受け取ったが、それは主人がすべて持っていったそうだ。軍人たちはチップを置いていくこともあり、そういうお金は受け取ることができた。あるいは、月末に最も多くの軍人の相手をした女性には、主人から賞金としていくらかのお金を与えられた。~(中略)~ハルモニは、妊娠して数回流産した。主人がハルモニを民間の病院へ連れていき流産させたのだが、その費用は借金となり、そのうえ利子までつけられた。(P.141~142)
2007.4.29現在 むくげの会HP
※リンク先のNo.36(韓国語)
***** ****
名前 : 金屋株
1923年大邱市大新洞生まれ
ガイ難度で引かれて行き

大邱大新洞で生まれたの. 私は 9兄と妹の中で五番目だ. 男兄弟五つに女兄弟ノイ. クミョンゾ煮たり炒たりして煮たり炒たりしてあまり暮したの. 二つの歳差であるザックウンオンニして. これからはすべて死んで私一人だけ残ったの. 弟三つも妹さんもすべて死んだの. 私は小学校 3年生までデング?うん. 九歳に入って行って十一歳まで通ったの. 大邱水脹学校, その学校は歴史が深い. 俳優申星一利刀ゴハックギョ出身じゃないの. 八十の前酒庫入って行ったの.

学校やめて, そう熱も歳になる 3月に日本人家に入ります年暮したの. 我家はテッゴリもない都合だから, 李優だ(隣り) 人々が紹介をしたことだ. グジブで食べて寝てした月に 2ウォンもらったの. あの時お金 2ウォンは大金だ. 米が二馬, で言葉になるから. 米言った言葉に 70戦, 80戦したよ. お金受ければすべてオメ(お母さん) 持ってくれたの. 五年始終 2ワンシックズデ.

あの時ゴゲで間違ったの. 考えて見れば. それほどある途中十七肉ドエノンゲ, 顔が不鮮明だから年があるから良いんじゃないの. だからマスモドが仁川で働きに行くと問うことだ. 家政婦に一月に 8ワンズンダで. その十七肉泊ったが, 私が月知っているか? 春なのに 3月であっては, 満十六歳しかならなかったが, 私の誕生日が旧暦で十月スムヨッセナルだから. そう何も分からないの. 森で好きでばかりすることだ.

(※管理人注:上記は機械翻訳)

◆◆◆ 尹順萬(ユン・スンマン) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1930年1月15日、忠清南道にて生まれる。父は独立運動をしていて行方をくらました。1941年3月、13歳(数え年)の時、4人の日本兵が来て連行され東京の紡績工場で働かされる。約2年後に大阪に送られ慰安婦を強いられ、その後、あまりに抵抗するので中国の前線に送られる。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本兵が来て連行された。


【考察】

同女の証言について手に入れられたのは下記資料の「写真記録 破られた沈黙」のみで、しかも、同書に掲載されている他の証言に比べて異常に短いものです(※下記資料は同女の証言の全文)。
連行された時の様子も分からなければ、どのように移動したのかも不明。紡績工場や慰安所の様子も全くなし。よく、こんなレベルのものを証言として掲載したなという内容です。

日本兵に連行され、東京の紡績工場で働いた後、大阪で慰安婦にされ、最終的に中国に送られたそうです。言ってる内容も胡散臭いものなら、その内容も漠然的。本人が「慰安婦だった」と言いさえすれば何でもいいのでしょうか。

来日して証言集会に参加する等、証言に積極的な割りには、同書以外の証言集では取り扱われていません。証言として取り上げようが無いからでしょう。


【信憑性】

信憑性云々と言う以前の問題でしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 1930年1月15日生まれ 
 大韓民国ソウル市在住

 私は忠清南道で生まれました。お父さんは、独立運動をしていて行方をくらましました。
 そのことからしばらくすると、家に日本兵が来て叔父さんと叔母さんの夫を連行したのです。叔父さんは九州の炭鉱で働かされ、叔母さんの夫は行方がわからなくなったのです。
 1941年3月4人の日本兵が来て、今度は数え年で13歳の私が連行されました。下関で身体検査をされて、背の高い人と低い人とに分けられました。私は低かったので、東京の紡績工場でしたが、背の高かった人は「慰安所」に連れて行かれたと思います。
 工場での2年間ほどは、毎日のように糸を撚りました。空腹と睡魔との戦いでした。
 ある日、私を含めた7人の朝鮮人女性が大阪に送られました。そこで「慰安婦」にされたのです。
 噛みついたりして、私はいつも激しく抵抗しました。そのため、今度は中国の前線に送られてしまったのです。
 そこでも抵抗しました。そしたら兵隊から髪の毛をわしづかみにされ、左腕をひねって床に倒されたのです。腕は折れて腫れ上がり、あまりの痛さにただ泣いていました。しかも、治療せずに放置されたので、今も曲がったままになっています。
 夫は私の過去を知らないまま亡くなりました。娘が1人いますが、まだ結婚できないのは私のせいだと思っています。
 現在は1人暮らしですが、娘がいるということで生活保護も受けられず、清掃の仕事をして生活しています。(P.90~91)
2003.8.8 しんぶん赤旗 ***** ****
「戦時性的強制問題の解決がなければ目を閉じて死ねない」--。韓国と台湾から来日した「従軍慰安婦」被害者が七日、謝罪と補償を求める要求書を日本政府と参議院に提出し「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」のすみやかな成立を申し入れました。国会では記者会見を兼ねた集会が開かれました。~(中略)~参議院への申し入れでは、韓国の被害者・尹順萬さんが、日本軍兵士から暴行を受け、折られた左腕が今も曲がったままで、右足は切りつけられたため歩くのに不自由していると訴えました。被害者たちは口ぐちに「生きている間に立法による解決を、謝罪と補償を」と求めました。
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