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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 金君子(キム・グンジャ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1926年生まれ。10歳で父、14歳で母をなくし、16歳の時、巡査をしている人の養女になる。1942年3月、養父から「お金を稼げるところがあるから」と言われて朝鮮人の軍人に連れられ、中国吉林省の琿春(フンチュン)の慰安所にて慰安婦を強いられる。

2007.2.15米国下院外務委員会アジア太平洋環境小委の「慰安婦聴聞会」にて李容洙、ジャン・ラフ・オハーンらと共に証言を行う。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

家から慰安所まで引率したのが朝鮮人の軍人。(ナヌムの家歴史館ハンドブック)


【考察】

同女は、養父から何をするのかを明示されずに中国へと行ったようです。この事実から、養父は何をするのかを知っていたと思われます。もし、養父も含めて騙されたのなら、騙された内容を同女に告げるはずだからです。同女は養父に慰安婦として売られたと考えるのが自然でしょう。

集めた資料では2006.3.2朝日新聞のみが「工場で働かせてあげる」と具体的内容を告げていることになっています(父ではなく、朝鮮人2人の言葉のようですが)。
詳しい証言は、あまり手に入れられなかったのですが、朝日新聞だけがこの情報を載せているのも奇妙な話です。
朝日新聞は1991.8.11に「女子挺身隊の戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた」と金学順(キム・ハクスン)さんの証言を歪曲した例もありますし、「工場」という言葉をあえて挿入したのは、「『女子挺身隊=従軍慰安婦』という等式を世に浸透させたい」という意思の表れでしょうか。それとも、養父、本人ともに騙されたことにしたかったのでしょうか。

また、引率した人は、証言毎に軍人であったり、そうでなかったりしています。以下の資料では、「ナヌムの家歴史館ハンドブック」と「東京の高校生平和のつどい」のみ軍人となっていて、その他では職業は記載されておらず、「ナヌムの家HP」では単に「30代ぐらいの朝鮮男」とあります。
この統一感の無さから、引率したのが軍人だったと言うことは非常に疑わしいと言えるでしょう。

なお、慰安婦になった年齢が16~17歳ですが、数え年と満年齢の混同でしょう。


【信憑性】

慰安所まで引率したのが軍人だったと言うのは、強制連行を意識して後から付け加えた創作でしょう。
その他の内容については信憑性はあると思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
2002.7.30 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房
 1926年、江原道平昌郡で3姉妹の長女として生まれる。
 父親を10歳のときに亡くし、母親も14歳のときに亡くなる。その後、母方の叔母の家で過ごすこととなるが、生活は苦しく、16歳のときある巡査の家の養女となる。その養父に「お金を稼げる場所があるので行っておいで、稼げなかったら帰ってくればいいから」と言われ、家まで連れにきた朝鮮人の軍人と一緒に、故郷を後にする。1942年3月のことであった。
 迎えに来たその男はハルモニを貨物列車に乗せ、中国の琿春へ連れていった。ハルモニを含む8人の女性が、そこへ連れて来られたそうだ。着いた先では、すでに9人の女性が働かされていた。表の門の上に「キンカク慰安所」とかかれた旅館のような所で、1年半くらいを過ごした。軍人たちは、土日にひっきりなしにやって来た。一人で来ることはなく、将校に連れられて団体でやって来たという。前の庭では100人以上の軍人が、列をなして自分の順番が来るのを待っていた。多い日には、1日に40人ほどの相手をしなければならなかったそうだ。~(中略)~
 二度目に連れていかれた場所は、「コガ市」という所であった。部隊が移動するので、慰安所もともに移動させられたのである。7人の女性が連れていかれた。そこでの生活も琿春にいたときとほとんど変わりなかった。ハルモニは、そこで解放を迎えたのである。(P.128)
2005.6.23 北海道新聞 ***** ****
 ある日、養父から「お使いに行っておくれ」と言われて、汽車に乗せられた。女性たちがたくさんいて、兵隊の姿も見えた。
 着いたのは、中国吉林省琿春の「慰安所」。翌日から兵隊たちが小さな紙の券を手に小屋の前で列をつくった。広さは三畳ほど。堅い木の寝台に裸電球。一日三十人の相手をさせられた。「ジュンコ」と呼ばれた。十七歳だった。日本語がわからなくて、よく殴られた。ただ、「コノヤロウ」「バカヤロウ」「チョウセンジン」という単語は今でも覚えている
2005.11 東京の高校生 平和のつどい ***** ****
養父に「お金を稼げるところがあるから」と言われて、朝鮮人の軍人に連れて行かれました。
2006.03.02 朝日新聞 ※リンク切れ ***** ****
17歳の時、家に朝鮮人2人が来た。「工場で働かせてあげる」。
2007.2.10現在 ナヌムの家 HP ***** ****
- 動員過程
叔母集から 16歳の頃まで住んで江原道鉄原に養女に行った. その家お父さんがチェ・チォル誌という人だったが巡使だった. 十七肉(1942年) 3月にチェ・チォル誌が私に金儲けしに行きなさいと言って 30代ほどなる韓国男と一緒に行った. 初めに私はおつかいを送るかと思って検定スカートに薄緑色チョゴリを着て荷物もなく何も持たなくてそのまま行った. ところで汽車を乗ってみるから私のような女が 8人が貨物室にあった. 見知らぬ女達だから黙黙と座っていた. ところでその汽車には軍人たちがとても多かった. どこに行く分からなくてずいぶん長い間行った. 汽車から降りてまたトラックに乗ってずいぶん長い間行ったら旅館同じ家が出た. 離層集であるその家に降りて入って行ったらその所に先に来た女達が九ミョングツムがあった. その所がすぐ薫春だった.
2007.2.16 中央日報「米議会で初の‘慰安婦聴聞会’…韓国・オランダ人女性3人が証言」 ***** ****
続いて、16歳だった42年に中国に連行された金君子さんが証言した
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◆◆◆ 姜徳景(カン・ドクキョン) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1929年慶尚南道普州(チンジュ)に生まれる。1944年、高等科1年生だった15歳の時、担任教師の日本人の勧めで女子挺身隊として富山県の不二越工作機械工場で働くことになる。仕事の辛さとひもじさに耐えられなくなり友達と共に脱走。憲兵に捕まって強姦され、松代の慰安所に送られた。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)
1997.2.2死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

工場を脱走した後、憲兵に捕まって慰安所に入れられる。


【考察】

~ 2007.6.25「日本国内に慰安所はないはず」との認識は誤認であった為、それに関する内容を削除・修正 ~
  ※ご参考・・・資料「日本国内の慰安所

 本来、日本国内にないはずの慰安所が出てくるのは疑問です。すくなくとも日本国内や朝鮮半島・台湾そして満州といった、日本が実質統治していた地域の都市部に日本軍の慰安所などないはずなのです。あったとすれば売春宿でしょう。

しかし、一方で、
証言の内容は真に迫っていると思います。少なくとも挺身隊で日本に来て脱走したというところまでは真実でしょう。

同女は工場を脱走した時にコバヤシという憲兵に捕まっているのですが、慰安所に入れられた後の会話で

 「そして私が不二越にいたことに気づいたようで『おまえは工場にいたのか?』と聞かれました」(証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち)

とあり、連行された時には当該憲兵が、同女が挺身隊であったことを知らなかったことが分かります。そもそも、この憲兵の勘違いが原因ではないでしょうか(例えば、売春宿からの脱走者と思った等)。

また、証言には、憲兵に捕まった時の同女と憲兵とのやりとりが無く、何故、この憲兵が同女を慰安所へ送ろうと考えたのかは不明です。あくまで推測ですが、同女が工場に送り返されたくなかったが為に、自分がどこから来たのかを答えなかったことがこの憲兵の勘違いの一因になっているのではないでしょうか。

---------------------- 以下、2007.4.23追加 ------------------------
なお、「写真記録 破られた沈黙」(以下、「写真」)と「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下、「証言」)を比べると以下通り内容に相違点が見られます。

<生まれた月>
○「写真」・・・1929年6月13日
○「証言」・・・1929年2月
→ 何故か異なっています。2月と6月なので旧暦と新暦の違いでもありません。

<挺身隊に行くことになった時期>
○「写真」・・・1943年秋で15歳(数え年)
○「証言」・・・1944年6月頃、16歳(※明記されていないが数え年)
→ 1年ずれて、年齢もそれに合わせてずれています。他の元・女子挺身隊の証言を見ると、1944年6月が正しいようです。本当に挺身隊だったのかも疑いたくなります。

<1回目の脱走の後>
○「写真」・・・「『模範的に働いていたおまえたちが、どうしてこんなことをしたのか』と言われたものの罰は受けませんでした」
○「証言」・・・何度もぶたれた
→ 罰は受けなかったとしていたものが、何度もぶたれたことに変わっています。

<慰安所に入れられた後>
○「写真」・・・最初、同女を捕まえた兵隊の相手だけだったのが、3日後からは他の兵隊の相手もさせられた
○「証言」・・・3日後、同女を捕まえた憲兵の小林が来て、それから軍人たちが来るようになった
→ 慰安所に入れられてすぐに慰安行為を強いられていたのが、3日後から慰安行為を強いられるようになったことに変わっています。

<移動後の場所>
○「写真」・・・「マツヤマ」か「マツシロ」
○「証言」・・・思い出せない
→ 一方では、地名を覚えていて証言しているのに、一方では、思い出せないと言っています。「写真」では、わざわざ長野の「松代」(※戦時中、松代大本営があった)に行って証言をしています。
ただし、双方とも、「天皇陛下が来られる」という旨の記述があるので、やはり、本土決戦を想定して天皇移転を準備していた松代のようです。

-------------------- 以下、2007.6.27追加 --------------------
また、「写真」の69ページには、同女の写真と共に「市民たちが解体・保存している松代の『慰安婦の家」跡で座り込んでしまった。自分はここにいたのではないかと思ったからだという。」というコメントが載せられています。

しかし、この慰安所跡は以下の<ご参考>の通り、朝鮮人労務者向けの慰安所です。もし、そこにいたのなら、同女は主に朝鮮人労務者を相手にしていたことになり、そうすると、証言の中に朝鮮人労務者が一切出てこないのは、少なくとも正確なことを言っていないことになります。

-----------------<ご参考>-------------------------
<秦郁彦「慰安婦と戦場の性」新潮選書1999.6>

「松代には西松組が七千人の朝鮮人労務者のために作った十五軒の慰安所があった」(日垣隆「松代大本営の真実」1944、136ページ、「週刊金曜日」97年2月14日号の馬場千奈津稿、NHK衛生第一TV「戦争・心の傷の記憶」98年8月14日放映) (P.188)


<松代大本営の保存をすすめる会編「新版 ガイドブック 松代大本営」新日本出版社2006.7>

「同年(注:1944年)11月ごろから、20歳前後と思われる4人の朝鮮人女性が、『親方』と呼ばれる朝鮮人の一家4人と、買い出し役をしていたらしい1人の下働きの男と一緒に住み込み、客に料理を出し、性の相手をさせられた。~(中略)~
 ここを利用したのは誰か。はっきりわかっていないが、日本の軍人たちは来ていなかったようである。崔小岩さんが「行ったことがない」と証言しているように、朝鮮人労務者も、過酷な労働の中で慰安所に出向くのは不可能と考えるのが妥当だろう。児沢さんの証言も合わせてみると、朝鮮人の中でも、現場の頭などをしていたような上層部の人たちが来ていたのではないかと考えられる。」(P.54~55) ※松代の慰安所跡の当時の様子等

「『慰安所』 児沢聡さんの証言 『~(前略)~次の日に詳しく聞いたら、そろそろ朝鮮人の労務者が入ってくるから、付近の婦女子にいたずらしねように、慰安婦を連れてきて料理屋兼ねてやるから貸してくんねかって言ってきたから~(後略)~』」(P.55) ※慰安所跡の家主の証言
-------------------------------------------------
-------------------- 以上、2007.6.27追加 --------------------

---------------------- 以上、2007.4.23追加 ------------------------


-------------------- 以下、2007.6.17追加 ------------------------
「慰安婦と戦場の性」(秦郁彦・新潮選書)で、秦郁彦氏は以下の通り、推理しています。

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 問題は上等兵らしき階級章をつけたコバヤシ憲兵の素性だが、この時期に富山地区憲兵隊(少佐以下20人前後)に勤務していた竹田安之憲兵軍曹、下徳浩令憲兵兵長は、(1)憲兵は他兵科から転科してくるので、上等兵はきわめて少数で、多くが下士官以上、兵は市内巡回などでは単独行動を許されていなかった。(2)一般兵と異なる憲兵の外観は、白地に赤文字の腕章をつけ、軍刀、ピストルを携行、長靴をはいていた。(3)憲兵隊には乗用車、トラックはなく、行動はサイドカー、自転車、乗馬によった。(4)不二越の近辺には遊郭があった、と回想している。
 二人とも心当りの事実はない、そういう氏名の憲兵はいなかったと断言するが、姜証言を素直に推理すると、コバヤシは遊郭と関わりのある業者で、軍服に似た国民服を着用していた可能性が高い。(P.187)
--------------------------------------------
-------------------- 以上、2007.6.17追加 ------------------------


【信憑性】

日本国内の慰安所に入れられたという証言は非常に怪しいものです。単に売春宿に入れられただけではないでしょうか。 2007.6.27削除

同女が本当に松代の慰安所跡にいたなら朝鮮人労務者のことが出てこないので、「もしかすると、一般の日本人や朝鮮人も含めて、『兵隊』もしくは『軍人』と言っているのではないか」という疑念が生じます。(ただし、「写真記録 破られた沈黙」では、「ここにいたのではないか」と可能性を示唆しているだけです。)
現時点では、判断は保留します。(2007.6.27追加)


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
1929年6月13日生まれ 大韓民国ソウル市在住(P.58)

 高等科1年に通っていた時に、受け持ちの先生が家庭訪問で家に来ました。先生は「日本へ行くのは天皇陛下に忠義を尽くす道だ。白いご飯も食べられて、お金もくれるし勉強も続けられる。」と勧めたのです。私のクラスから2人が行くことになったのです。1943年の秋のことでした。(P.61)

 そして「不二越」に行ってから3~4ヵ月したある日、明け方に友達と逃げ出したのです。前に行ったことのある伏木の朝鮮人の家に行き、昼ご飯をもらいました。だけど、すぐに寄宿舎の舎監2人が来て、捕まってしまったのです。「模範的に働いていたおまえたちが、どうしてこんなことをしたのか」と言われたものの罰は受けませんでした。(P.65)

 最初は、私を捕まえた兵隊の相手だけでしたが、3日後からは他の兵隊たちの相手もさせられるようになりました。兵隊は毎日やって来ました。1日に4~5人で、土曜日・日曜日には10人以上でした。ですから、土曜日はまるで死刑執行の日のように私には思われました。(P.67)

 それから何日かすると私を最初に犯した兵隊が来て、そこの部隊の兵隊と女たちを一緒に3台のトラックに乗せました。途中には右側に小高い山、左側には川か海が見えました
 着いたところは前よりも大きい部隊でした。まわりには畑が広がっていました。この部隊からは山が見えて、そのふもとには防空壕や村がありました。この防空壕は相当大きくて、この中でも兵隊の相手をさせられました。ここに来てから少しすると雪が降りました。(P.67)
 入れられた小屋には約20人の娘がいました。連れられてた小屋には約20人の娘がいました。連れて来られた私たち5~6人は、ここで生活することになりましたが、その女たちは他の所で暮らしているらしく、2~3日ごとにやって来ました。「慰安所」はここだけでなくて他にもあったようです。
 小屋は、建物の真ん中にある扉から出入りするようになっていました。中には5~6の部屋と食堂がありました。やって来たのは兵隊たちと、軍服は着ていたけれど階級章を付けていない者たちでした。
 私は女性たちの中で一番年下でした。私が「姉さん」と呼んでいた一番年上の女性に「ここはどこですか」と聞いてみました。そしたら「マツヤマ」だとか「マツシロ」とか言ったのです。
 兵隊の「小林」にも聞いたところ、口に手を当ててシィーと言いながら「ここは天皇陛下が来るところ」とか「避難に来るところ」と言いました。(P.68)

(※2007.4.23 追加)
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 私は一九二九年二月、慶尚南道普州の水晶洞で生まれました。父は早くに亡くなり、母が再婚したので私はほとんど母の実家で育ちました。母方の暮らしはまあまあ裕福な方でした。(P286)

 一六歳になった一九四四年六月頃、女子勤労挺身隊一期生として日本に行きました。吉野国民学校高等科1年生のときです。高等科一年の日本の担任の先生が家庭訪問に来て、挺身隊に出るように言われました。勉強もできるしお金にもなるという話でした。先生が帰った後、私にだめだと言って母が泣いたりわめいたりして大変でしたが、私は行くことにしました。私のクラスから級長と私の二人が行きました。級長だった友だちはクラスで一番勉強ができ、家も金持ちでした。(P.287)

 不二越工場に到着してから二ヵ月ほど経った頃、お腹がすいて明け方に逃げだしたことがあります。以前行ったことのある新湊の朝鮮人の家に班長の友だちと一緒に逃げました。その家に隠れていたのですが、どうしてわかったのか寄宿舎から捕まえに来ました。工場に引っ張って行かれ何度もぶたれました。模範を見せなければならないおまえたちがこんなことをして、と怒鳴りつけられました。(P.291)

 工場からいくらも離れていない所でうろうろ迷っているうちに軍人に捕まってしまいました。友達とは死んでも手を離さないで行こうと言っていたのに、捕まってトラックに乗ってみると私だけでした。私を捕まえたのは赤地に三つ星の階級章をつけた憲兵でした。~(中略)~再び車に乗ってある部隊に到着しました。部隊の横に見張りが二人立っていました。その部隊の後ろにテントのような家があり、しばらくここにいろと言われました。そこにはすでに五人の女性がいましたが、彼女たちは何も言わずにただ私を見るだけでした。(P.292)

 そこにしばらくいてから部隊が移動しました。高級タクシーのように車体の長い国防色の自動車一台とトラック三台に分乗し、女たちは軍人と一緒にトラックに乗って暗いうちに移動しました。
 二度目の場所には丸一日もかからず着いたようでした。車に乗って移動するとき片側にはずっと海が見えていて、反対側には山がありました。到着すると近くに池のような川のようなものがあり、大部分は畑でしたが周囲は森のように木が繋がっていました。雪がたくさん降っていました。部隊はとても広く、平べったくて屋根の平らな建物が何ヵ所かありました。前のところとは違って民家もかなりありました。(P.294)

私はポクスン姉さんに、ここから富山県まで遠いのか、ここはどこなのか聞きました。ポクスン姉さんは富山は知らないと言いました。私たちがいた地名を聞いた気もしますが、思い出せません。(P.295)
2002.7.30 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房
1944年6月頃、女子勤労挺身隊1期生として日本へ渡る。日本人の担任の先生が家庭訪問し、挺身隊員となるよう言いに来たのである。勉強もでき、お金も稼げると付け加えた。~(中略)~ハルモニは、そこから2度逃亡を試みた。最初に見つかったときは、工場に連れ戻され、ひどく殴られたという。2度目に逃亡を試みた際には、憲兵につかまってしまい、そのままトラックに乗せられた。ハルモニをつかまえた憲兵は、移動中の山中でハルモニを強姦した。それから部隊へと連れていき、その裏側にあるテントのような家にとどまるよう命令した。そこにはすでに、5人ほどの女性がいた。一つずつ仕切られた狭い空間で、1日に10人ほどの軍人の相手をしなければならなかった。(P.140)

(管理人注:ハルモニ・・・韓国語でおばあさんという意味)
2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
(※管理人注:同書の内容は「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」を転載したもので内容は同じ)


◆◆◆ 呉五穆(オ・オモク) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1921年全羅北道井邑の貧しい家の長女に生まれる。1937年満16歳の時、同村の金という男に紡績工場に就職させてやると言われ、友人とついて行く。満州で慰安婦を強いられ、その後、部隊と共に移動し南京で終戦を迎える。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

無し。同村の金に引率され、満州で日本人に引渡される。


【考察】

証言内容には特に不審点は見当たりません。


【信憑性】

信憑性はあると思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 満十六歳になった一九三七年の頃でした。両親はいい人がいれば私をお嫁に行かせたいと言いました。こうしたある日、井邑に住む金という男の人が私に「紡績工場に就職させてあげる。いっしょに行く友達がいれば言いなさい」と言いました。~(中略)~それで、私はお金を稼ごうと思い、その頃家によく遊びにきていたオクヒといっしょについて行きました。~(中略)~オクヒといっしょに金について井邑駅に行ってみると、三人の女の子がいました。~(中略)~再び汽車に乗って三、四日かかって満州で降りました。奉天付近で私たちが金に「工場に行くと言ったのに話しが違うのではないか」と言うと、金は「言う通りにしろ」と言いながら、私たちを日本人に引き渡すと姿を消してしまいました。その後は、日本人のあとについて、さらに北の方に向かいました。満州の果てだと言っていましたが、正確な地名はわかりません。(P.96)

 井邑からいっしょに行った私たち五人は、ここから日本軍部周辺のテント村に入って行きました。~(中略)~
 私は最初は軍人に食事を運ぶ仕事をしながら、一般の兵隊たちの相手をしなければなりませんでした。慰安所の管理人たちのなかには日本人も朝鮮人もいました。彼らが女たちに「誰それは今日どこそこへ行け」と命令すれば、女たちは部隊内に呼ばれて入って行き、一日に五、六人、多いときは十人くらいの軍人たちの相手をさせられました。(P.97)

◆◆◆ 李英淑(イ・ヨンスク) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

孤児で、大阪で十歳頃まで女中奉公をしていた。両親が朝鮮人だった為、1937年15歳の時、朝鮮に帰り、冷麺屋で働いたり、女中をしたりして生活をする。1939年、日本で就職させてやるという朝鮮人がいるので一緒に行こうと友達に誘われ、以降、広東で慰安婦生活を強いられる。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

釜山まで朝鮮人の夫婦に引率され、釜山で日本人の軍属に引渡される。


【考察】

朝鮮人夫婦に騙され釜山で日本人の軍属に引き渡され、以降、広東まで引率されています。この引渡しまでに一行は、釜山と新義州を行ったり来たりしていますが、引率してくれる人を探していたのでしょう。そして、やっと見つけたのがこの日本人の軍属だったのではないでしょうか。


【信憑性】

証言内容には特に不審点は見当たりません。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 一九三九年の十二月、十七歳になった年でした。ある日、就職させてくれるという朝鮮人がいるから、日本に一緒に行こうとその子(※友達(管理人注))が言いました。~(中略)~友だちと一緒に、故郷が平安道新義州にあるという朝鮮人夫婦に会いましたが、そこには私たちの他に四人の女の子がいました。~(中略)~その人達と一緒に、釜山の旅館で一週間、船がくるのを待っていました。けれども、船が来なかったのでしょうか、汽車に乗って新義州に行こうということになり、朝鮮人夫婦について新義州に行きました。その朝鮮人の男は、私たちの行動が気に入らないと、鉄の棒を指の間にはさませて拷問を加えるなど、ひどく虐待しました。新義州で一週間程、朝鮮人の民家にいましたが、明け方に汽車に乗ってまた釜山へ行きました。釜山に着いたのは、わずかな距離の見分けもつかないほど真っ暗な夜でした。私たちは日本人に引き渡されました。その日本人は軍属で、軍服は着ていましたが階級章はありませんでした。(P.71)

 主人は日本人夫婦でした。男は四十歳、女は三十五歳くらいに見えました。(P.76)

◆◆◆ 李用女(イ・ヨンニョ) ◆◆◆


※李容女と表記されている場合もあり


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1926年京畿道驪州(ヨジュ)生まれ。家が非常に貧しく8歳から奉公に出る。11歳の時、一家でソウルに上京し14歳で父親に飲み屋に売られる。その後、1942年、満16歳の時、その飲み屋の女主人に「金をたくさん稼げるところがあるから行かないか」と言われ承諾し、以降、ビルマ(現ミャンマー)のラングーンで慰安婦生活を強いられる。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

無し。ラングーンへは朝鮮人の男性と女性の何人かが引率。


【考察】

同女に「金をたくさん稼げる良いところがあるけど行かないか」と勧めた飲み屋の女主人が慰安所で働くかを知っていたかどうかは不明ですが、同女が承諾した後、小遣いを与えて休ませているところを見ると、この女主人が前金を受け取っていたのでしょう。


【信憑性】

証言には特に不審なところもなく信憑性があると言えるでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 女主人「金をたくさん稼げる良いところがあるけど行かないか」と言いました。一人で行くのではなく何人か行くのだから安心しろと言いました。どこへ行くのかと聞くと日本だと言いました。日本のどこにどうやって行くのか、そんなことはまったくわかりませんでした。お金をたくさん儲けて良いものを食べ良いものを着て、見物もできるというので行こうと思ったのです。~(中略)~女主人は薬を一包作って「これさえ飲めば、船に乗って日本に行くときも船酔いしない。すぐ家に帰って休んでいなさい。知らせる時までこれを小遣いにお使い」と言いながらお金をくれました。(P.230~231)

 それから「集合」という通知が来ました。一九四二年、私が満十六歳の時でした。~(中略)~朝鮮人の男性と女性が何人かで引率しました。~(中略)~1ヶ月以上かかって船はビルマのラングーンに到着しました。(P.231~232)
2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史観後援会 編 柏書房
 一家はたいへん貧しく、8歳のころから奉公に出る。11歳のときに家族とともにソウルに出て製菓工場などで働くが、14歳のときから1年ほど奉公していた家の女主人「日本でお金をたくさん稼げるところがあるから行ってみないか」と持ちかけられる。結局、その女主人の言葉に騙され、1942年、汽車で釜山まで行き、そこから船に乗り台湾・シンガポールを経てビルマ(ミャンマー)のラングーン(ヤンゴン)に連れて来られる。着いた先は、日本ではなかった。

 ラングーンからは汽車に乗り、ある村まで行き、そこで「慰安婦」生活が始まった。(P.138~139)
(※2007.4.7追加)


◆◆◆ 李容洙(イ・ヨンス) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1928.12.13生。韓国の大邱(テグ)の金持ちではないが、ご飯を豊かに食べていける家庭に生まれる。16歳の時に、日本人の男に台湾へ連れ去られ、以降、慰安婦を強いられる。(参考:「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」)

2007.2.15米国下院外務委員会アジア太平洋環境小委の「慰安婦聴聞会」にて金君子、ジャン・ラフ・オハーンらと共に証言を行う。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

船で台湾へ向かっている時、軍人達に繰り返し強姦される。(参考:「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」)


【考察】


同女の証言には全く信憑性がありません。

それは、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」「証言集会(同志社大学)」の連行時の内容を比べると明白です。(以下、「証言」・・・「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」、「同志社」・・・「証言集会(同志社大学)」)

友達と川辺で貝を採っていた時に、見知らぬ男2人が見ていたのは同じなのですが、その後、連行されるのが
 ○「証言」・・・それから何日かたったある日の明け方
 ○「同志社」・・・その後、1ヶ月か2ヶ月が経った頃。ある日の夜
同女の家の窓を叩いたのが
 ○「証言」・・・一緒に貝採りをしていた友達
 ○「同志社」・・・軍人に首の方に何かを突きつけられた、ある女性
その後
 ○「証言」・・・友達の招きに従い、母には何も言わないでこっそり家を出て友達の後に付いて行く
 ○「同志社」・・・怖くなって居間で座っていたところ、その女性と軍人が入ってきて、口を塞がれ、背中に何かを突きつけられて連れて行かれる

「証言」では、その後、友達に付いて行くと川のほとりで日本人の男の人(※国民服に戦闘帽をかぶっていた)が立っていて、ワンピースと革靴をもらい、「もう他のことは考えもしないで即座について行くことにしました。」となっています。また、その男が慰安所の経営者でした。

「証言」と「同志社」では、連行された時の話が全く別物になっており、物に目が眩んで人さらいについて行ったのが、軍人に無理やり拉致されたことに変更されています。しかも、「同志社」では、日本軍人の理不尽な暴力もかなり追加されています。

今回は、連行時のみにスポットを当てて比較しましたが、まあヒドイものです。

さらには、「同志社」では、連行された時に母が側にいなかったことを恨んでいて、証言集会の20日前に、母がいなかった理由を「赤ちゃんが泣いていたので、部屋から離れていた」と弟から初めて聞いたと語っているのですから開いた口が塞がりません。(※父のもとに行っていたと思っていたら、赤ちゃんをあやしていたということだったので、誤解による恨みが晴れたという話)
「証言」では「私は足音をしのばせてそろそろとプンスンの後について行きました。母には何も言わないで、そのままプンスンの後について行きました」と記述されており、自ら母にばれないように出て行っています。
このような、観衆を取り込む為のテクニックを駆使している所を見ると、「プロ証言者」と言ってもいいかも知れません。

------------------ 以下、2007.4.23追加 ------------------
<連行時の証言の変遷>

1993.7「写真記録 やぶられた沈黙」

 1944年夏、友達の母親に「豊かな生活ができる」所へ行かないかと誘われるが断る。  
 その何日か後、その友達が家に誘いに来て外に出ると、軍服みたいな服を着た男がおり、ワンピースと赤い靴をもらって感激してついて行く。


 → 明記はされていませんが、「友達は母親に言われて同女を呼びにきた」ということを想像させる内容です。


1993.10「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」

 1944年秋 友達と川で貝を採っていたら、日本人の男の人と老人に行こうという仕種をされ逃げる。
 その何日か後、友達が家に誘いに来て、ついて行くと国民服を着た日本人の男がいて、ワンピースと革靴をもらって感激してついて行く。

 → 夏から秋に変更され、また、最初、友達の母親に誘われたという記述が削除され、その代わりに貝採りのエピソードが追加されて「人さらい」色が濃厚になっています。さらに、連れ去った男が日本人だったという情報も追加されています。
 友達の母親のエピソードを削除した為、友達が何故、同女を呼びに来たかを説明する為に貝採りのエピソードが必要になったのでしょう。「日本人の男が先に友達をたらしこんだ後、同女を呼びに行かせた」ということを想像させる内容になっています。

------------------ 以下、2007.6.19追加 ------------------
1996.8「私たちと戦争責任」

 1943年、友達と川で魚を捕っていたら、軍服を着た男二人(日本人かどうかは不明)に指差され逃げる。
 同10月のある日の明け方、女の人が家の中に入ってきて「黙っておいで」と言われて引っ張って行かれる。この女の人には「韓国語で話すな」と言われる。
 堤防の所に連れて行かれると前に見た男がいた。先に来ていた親友に赤いふろしきを渡され、その中には靴が入っていた。


 → 何故か1年前倒し。日本人かどうか不明確になった代わりなのか、国民服が軍服に変更されています。
 また、家に来たのが、友達から女の人に変更されています。その女の人は「韓国語を話すな」と同女に言っているので人身売買の業者関連なのでしょうか、それとも、男に脅されていた被害者の1人なのでしょうか。
 さらに、靴をもらって「感激してついて行った」という同女が責めを負うべき情報は削除されて、あくまで合意なしで連れて行かれたことになっています。
------------------ 以上、2007.6.19追加 ------------------


2005.4「証言集会(同志社大学)」

 1944年、友達と川で貝を採っていたら、軍服を着た人と白い服を着た人が見ていたので怖くなって逃げる。
 その1、2ヶ月後、軍人と首に何かを突きつけられた女の人が家に来て、同女も口を塞がれ背中に何かを突きつけられて連れ去られる。


 → 1年前倒しされたものが、何故か元に戻っています。
 家に1人でやってきた女の人の他に軍人も一緒に家に入ってきたことになり、女の人はその軍人に首に何かを突きつけられていたことになっています。完全に被害者です。さらに、女の人に「黙っておいで」と言われて引っ張られて行った話が、「口を塞がれて何かを突きつけられて」とかなり強制色が強まりました。
どうやら、1996年~2005年の間に、同女の「軍による強制連行」の話が出来上がったようです。


同女の証言を時系列に並べてみると、日本を批判し易いように徐々に証言を変えて来たのが良く分かります。証言の変遷から推測するに、友達の母親の誘いに乗って売春婦もしくは慰安婦にさせられてしまったという所でしょうか。
「私が慰安婦として強制連行された当事者であり、証人だ」(2007.3.4朝日新聞)などと、恥ずかしげもなく良く言えたものです。

------------------ 以上、2007.4.23追加 ------------------


------------------ 以下、2007.8.28追加 ------------------

<ご参考・連行された西暦と年齢>

同女の証言毎の連行された西暦と年齢をまとめると以下の表の通りです。

14歳~16歳とばらばらですが、まず、大前提として知っておかなければならないのは、韓国では、今でも満年齢より数え年を使用するのが一般的だと言うことです。年齢を満年齢で言うか、数え年で言うかで最大2歳の差が出てきます。

数え年とは、生まれた時に1歳で、正月毎に+1する数え方。同女の場合、12月13日生まれなので、12月13日~31日は「数え年=満年齢+1」になり、それ以外は「数え年=満年齢+2」になります。

1928年生まれの同女の満年齢と数え年は以下の通りとなります。

  1942.1.1   ・・・ 満年齢13歳 数え年15歳
  1942.12.13 ・・・ 満年齢14歳 数え年15歳
  1943.1.1   ・・・ 満年齢14歳 数え年16歳
  1943.12.13 ・・・ 満年齢15歳 数え年16歳
  1944.1.1   ・・・ 満年齢15歳 数え年17歳
  1944.12.13 ・・・ 満年齢16歳 数え年17歳
  1945.1.1   ・・・ 満年齢16歳 数え年18歳
  1945.12.13 ・・・ 満年齢17歳 数え年18歳
  1946.1.1   ・・・ 満年齢17歳 数え年19歳
  1946.12.13 ・・・ 満年齢18歳 数え年19歳

証言 1928年12月生まれの連行時の年齢
連行された年 連行された年齢
1993.7 破られた沈黙 1944年夏 16歳 満15歳、数え17歳
※不一致
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 1944年秋 満16歳 満15歳、数え17歳
※不一致
1996.8 私たちと戦争責任 1943年10月 14歳 満14歳、数え16歳
1998.8 英文中国日報 1944年 数え年16歳 満15歳、数え17歳
※不一致
2005.4 証言集会(同志社) 1944年 韓国の年齢で16歳 満15歳、数え17歳
※不一致
2007.2 JANJAN 記載なし 15歳 ******
2007.3 フランス ルモドン紙 1944年秋 14歳 満15歳、数え17歳
※不一致
2007.8 戦争と性
(※西暦の記載は無いが、1946年春に帰郷して母が「私の娘は3年前に死んだ」と言っているので、おそらく1943年)
15歳 ******

つまり、連行された西暦は1943年か1944年で、季節は夏か秋。また、連行された年齢から算出される西暦も1943年か1944年になります。
 ※14歳を満年齢だとすると、1943年に連行(数え年だと1941年に連行されたことになる)
 ※15歳を満年齢だとすると、1944年に連行(数え年だと1942年に連行されたことになる)
 ※16歳を数え年だとすると、1943年に連行(満年齢と明記されているものもあるが、1945年に連行されたことになり、あり得ない)

なお、連行された年と年齢が一致しているのは③の「私たちと戦争責任」のみであり、西暦の証言は「1944年」が圧倒的に多いものの、年齢から逆算した西暦は「1943年」が圧倒的に多いことになります。


ちなみに、同女が故郷に帰った年は明記されていないものがほとんどなのですが、曖昧なものも拾い集めてみると、以下の表の通りとなります。

証言 備考
帰ってきた年 帰ってきた年齢
1993.7 破られた沈黙 明記なし
(おそらく、1946年or1947年の12月13日) (注1)
19歳
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 麦が青い芽を出す頃
(西暦不明)
記載なし
2007.8 戦争と性 1946年春 (注2) 17歳
(注1)同女が故郷に帰った時の母の「私の娘は3年前に死んでしまっていない」という発言、及び、その時、同女の法要を行っていて、誕生日(12月13日)に法要をしていたと記述がある。
同書では、1944年夏に連行されたと証言しているので、1946年12月に帰ったとすると約2年4ヶ月で3年には足らず、1947年12月だとすると約3年4ヵ月になる。
また、帰ってきた年齢は19歳と明記されており、これが数え年なら1946年になる。(満年齢なら1947年)

(注2)こちらは、帰ってきた年が明記されているが連行された年は明記されていない。「破られた沈黙」と同じく、「私の娘は3年前の夜に死んだ」という発言があるので、そこから逆算すると、連行された年は、1943年になる。

どうやら、1946年に故郷に帰ってきたというのが正しそうです。

なお、同女の証言では、「同女の法事をしている時に帰ってきた」という内容が多いのですが、法事が誕生日に行われていたとすれば12月に帰ってきたことになり、②、⑧の春に帰ってきたという証言と矛盾します。おそらく、法事の際に帰ってきたというのは、物語をドラマティックなものにする為の演出でしょう。
ちなみに、②、⑧では、法事の話は出てきません。

------------------ 以上、2007.8.28追加 ------------------

---- 2007.8.28 <何故、「1944年から3年間」なのか>を削除 ----



【信憑性】

信憑性は全くありません。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
1928年12月13日生まれ
大韓民国ソウル市在住
 
 私大邸で生まれました。家は貧しくて、国民学校に入学したもののすぐに夜学に移りました。
 1944年夏のある日、酒屋をやっていた友だちのお母さん「今のような苦しい生活をしている必要はないじゃないか。私の言うところに行けばご飯がたくさん食べられ、豊かな生活ができる」と言いました。ですが私は「嫌だ」と言って飛び出て来ました。
 それから何日かすると、その友だちが私の家に来て手招きするのです。外に出ると、そこには軍服みたいな服を着た男がいて、3人の娘を連れていました。その男は私に包みを渡しました。友だちが「それは簡単服(ワンピース)と赤い靴が入っている」と言いました。私はこうした新しい物を生まれて初めてもらった嬉しさで感激しました
 この男に「一緒について来るように」と言われ、私と友だちも含めた5人の娘が連れられて駅に行きました。それまで私は汽車に乗ったことがありませんでした。汽車の中では、私は車酔いで泣いていました。(P.72~73)

(※2007.4.23 追加)
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 一九四四年、私が満十六歳の秋のことです。~(中略)~
 当時、私の着ていたものといったらみすぼらしくて話にもなりませんでした。それから幾日かたったある日、プンスンと川辺で貝をとっていたら、向こうの土手の上に見たことのない老人と日本人の男の人が立っているのが見えました。老人が私たちの方を指さすと、男の人は私たちの方へ降りて来ました。老人はすぐ何処かに行ってしまい、男の人が私たちに手真似で行こうという仕種をしました。私は怖くなりましたが、プンスンは知らんぷりをして反対の方に逃げました。
 それから何日かたったある日の明け方、プンスンが私の家の窓をたたきながら「そうっと出ておいで」と小声で言いました。私は足音をしのばせてそろそろとプンスンが言う通りに出て行きました。母にも何も言わないで、そのままプンスンの後について行きました。~(中略)~行ってみると川のほとりで見かけた日本人の男の人が立っていました。その男の人は四十歳ちょっと前ぐらいに見えました。国民服に戦闘帽をかぶっていました。その人は私に包みを渡しながら、中にワンピースと革靴が入っていると言いました。~(中略)~それをもらって、幼心にどんなに嬉しかったかわかりません。もう他のことは考えもしないで即座について行くことにしました。(P.132~133)

 船上で一九四五年の新暦のお正月を迎えました。~(中略)~このように強姦されたのは私だけではありませんでした。プンスンも他の娘たちも私と同じことを軍人からされたと言っていました。その後も私たちはその船の中で随時軍人たちにそういうやり方で同じことをされました。(P.135~P.137)

 大邱から私たちを連れて来た男が慰安所の経営者でした。(P.137)
1996.8 アジアの声 第10集 私たちと戦争責任 戦争犠牲者を心に刻む会 当方出版
 私は、弟が四人と私の五人姉弟でした。どこでもそうでしょうが、私も一人娘ということで、父は自分が食べなくても、私に食べさせてくれました。そのくらいかわいがってくれていました。
 私はまだ幼い十四歳の時です。友達と川へ魚を捕りに行きました。その時堤防の上から、日本の人かどうか分かりませんが、軍服を着た男性二人が私たちを指さしました。私達が遊んでいるのに堤防の上から私達に対して指さしているのを見たら、まだ子どもだった私はもう怖くて、その場に父はいませんでしたが、「お父さん、お父さん」と言いながら一人で逃げてお父さんを呼びに行きました。逃げる途中に山があって、そこに小さい家がありました。中に入るとおばあさんが一人いたので、「おばあさん、かくまってください」と頼んだら、「この子は馬鹿じゃないか。いったい誰が捕まえに来るっていうのかい」と言われました。でも「捕まえに来るから」と言い張り、泣きながら「ちょっと外を見てきてください」と頼むと、おばあさんは「外には誰もいないから、早く帰りなさい」と言いました。それでも私はとても怖いので、黒いはかまを一着頭にかぶって、顔が見えないようにして走って家へ帰りました。
 その日からどのくらいたってからか忘れましたが、ある日明け方のまだ暗いうちに、だれかが私の家の透かし窓を叩きました。目を覚ましてみると、女の人がいて、「黙って出ておいで」と私を呼ぶのです。家の玄関には戸がなかったので、女は細い廊下に入ってきて、私を引っ張って連れて行きました。おかげで私は木で作られた靴を履くこともできず、裸足のままでした。私が女に韓国語でたずねると、女は「韓国語で話すな」と言いました。連れて行かれたのは堤防で、前に見た男がいました。その男はいつも帽子をかぶっていました。その男と女についていくと、踏切がありました。上を汽車が通り、下を車が通る、そして人がその横をを歩くようになっていて、そこの階段を上っていったら少女がすでに三人いました。その中にいた私の親友が赤いふろしきを渡してくれたので、触ってみると靴が入っているのがわかりました
 私たちは四人になり、駅に連れていかれたのですが、そこでは私が韓国語を使うと殴られました。(P.61~62)

 今考えると、十月に連れていかれたのにもうとても寒い思いをする十二月になっていました。(P.64)

 朝、港から船に乗った時には、さすがに、何も知らない私でも今度はもう家に帰れない、どこかに連れていかれて殺されるだろうなと思いました。~(中略)~一九四三年十二月頃でした。(P.64)

 (※2007.6.19 追加)
1998.8.23 英文中国日報 ***** ****
日本軍の性奴隷として足かけ三年間従事~(中略)~1944年のある夜、韓国の故郷からどのようにして日本軍により誘拐され~(中略)~慰安所に送られた時はわずか数え年16歳であった。
2002.6.26 日本共産との会合 ***** ****
十四歳で銃剣をつき付けられて連れてこられた
2004.12 京都での市民集会 ***** ****
1944年、16歳の時に「軍服みたいな服を着た男」に連行され~(中略)~日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された。
2004.12.5 京都新聞 ※リンク切れ ***** ****
16歳でわけが分からないまま連行され、~(中略)~1944年ごろ、旧日本軍に拉致され、台湾で約3年間従軍慰安婦として
2005.4.21 証言集会(同志社大学) ***** ****
私はいつも母と一緒に寝ていたのですが、ある日の夜寝ていたら、コソコソと音が聞こえました。起きて見てみたら、ある女性が首のほうに何かを突きつけられながら、こちらを覗いていました。それでそこをよく見てみたら、帽子を深くかぶった軍人が立っていました。その女性が、私を見て何も言わずに手振りで私を呼んでいたので、私は怖くなり、部屋を出て外の居間のところで座っていました。するとその女性と軍人が一緒に居間まで入ってきて、その女性が片手で私の肩を抱いて、もうひとつの手で口を塞いで私を連れて行きました。~(中略)~その時、私は韓国の年齢で16歳でした。
2005.8.11 朝日新聞 ※リンク切れ ***** ****
韓国の大邱から15歳ごろ連行された
2007.2.16 中央日報「米議会で初の‘慰安婦聴聞会’…韓国・オランダ人女性3人が証言」 ***** ****
1944年16歳の時に台湾に慰安婦として連行され
2007.2.26 JANJAN「米公聴会でも証言した李容洙さんが、埼玉で再び「証言・告発」 ***** ****
15歳のとき、小銃で脅され、大連から、台湾に連行され新竹海軍慰安所で特攻隊員の慰安婦とされた
(※2007.3.24追加)
2007.3.6 le Monde.fr 「Le combat de Lee Yong-soo, ancienne "esclave sexuelle" au service de l'armee imperiale japonaise」
※フランスのルモンド紙 リンク先はフランス語
***** ****
現在の韓国南東部、大邸に近くで生まれたイさん(マダム・イ)が14歳のときだった。『1944年の秋のある朝のことです。寝ていると、わたしを呼ぶ女の声がします。出て行きました。日本兵がひとりいて、わたしを捕まえ、力ずくでわたしを連行したのです』。汽車は彼女をピョンヤンから中国の大連へと運んだ。大連で彼女は台湾行きの船に乗せられ、自殺パイロット(カミカゼ)の基地の軍用売春宿に配備された
(※2007.4.4追加)
2007.4.30 朝鮮日報「79歳元慰安婦、ハーバード大学で涙の訴え」 ***** ****
 「強姦しようとする日本兵に抵抗すると、足をメッタ切りにされました。血まみれになってもその痛さにも気づかず必死に“助けて”としがみつきました。しかし容赦ない日本兵は電気による拷問までしました。恐ろしさのあまり叫んだ“お母さん”という声は、今も耳に残っています」

 28日午後、米ハーバード大学ケネディー・スクール(行政大学院)の講義室。さまざまな人種の聴衆約100人が見守る中、時には感情を抑えきれず絶叫に近い声を上げる高齢の韓国人女性の話に耳を傾けた。16歳の時に強制連行された後2年間、日本兵の「慰安婦」をさせられたイ・ヨンスさん(79)は、ハーバード大の学生の前で同日、当時の「地獄の日々」について証言した。1944年に強制連行された後、繰り返し受けた無差別な暴行・強姦・拷問の悪夢を60年以上経った今でも忘れることのできないイさんの叫びに、聴衆は嘆き、目頭を熱くした。~(後略)~

(管理人:慰安婦をした期間を「2年間」と言っています。しかし、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」では、連行時の船上で「一九四五年の新暦のお正月を迎えました」と証言しており、この証言を信頼するなら慰安婦をしていた期間は約8ヶ月です。

(※2007.5.1追加)
2007.8 戦争と性
韓国で「慰安婦」と向きあう
高柳美知子・岩本正光 かもがわ出版
 ヨンスさんは韓国の大邸(テグ)の出身。一五歳の夏、友だちとよもぎをとりに行った。夕方になり、土手を見たら戦闘帽の男がいて、自分たちをめがけて降りてきたのであわてて家に帰った。何日かすると友だちが私の家に来て手招きするのでついていくと、戦闘帽の男と三人の少女がいた。怖くなって逃げようとしたが、友だちが「行こう」というのでついていった。男が風呂敷包みをくれた。中に赤い靴と洋服が入っていた。
 そのあと、わけもわからないまま列車や船にのせられ、慶州、平壌、大連、上海、そして台湾へ。恐怖にふるえる一五歳の少女ヨンスさんの姿が目に浮かび、胸が苦しくなった。
 ヨンスさんは語ります。「大連からの船には日本海軍の軍人約三〇〇人と二〇歳にもならない私たちが五人。想像してください。ある日、台湾の慰安所に連行され、軍人がやってきて日本人の姉さんに何かささやくと、姉さんが泣きながら着物を着せて化粧もしてくれ、『言うことをきかなかったら、あんた死んでしまうからね』と言った」。そして軍人は抵抗するヨンスさんの髪をつかんでひきずり、軍刀で足を切りさいた。その話をした時、ヨンスさんは突然立ちあがり私たちの前でスカートのすそをめくり、五〇センチほどもありそうな、たてに切りさかれた傷あとを見せてくれました。みんな、アッと息をのんでしまいました。切られたヨンスさんは数日間、気を失っていたそうですが、姉さんたちが自分の指を切った血で、“輸血”してくれたりして、やっと意識を回復したそうです。そしてそのあと毎晩のように「兵隊をとらされた」そうです。
 ヨンスさんはある日、二一歳の特攻隊員と出会います。彼は出撃の前夜、彼女のところへ形見の洗面道具を一式持ってきて、「オレは明日、死にに行く」と言い、そして星空を見上げてヨンスさんに言ったそうです。「あの星の中にオレもいるし、父も母もトシコ(ヨンスさんがつけられた日本名)もいる。お前は死なないで生きていてくれ。オレは幽霊になって、お前の恋しいおかあさんのところへお前を連れていってやるから、死なないでくれ」
 彼が出撃して三日間というもの、ヨンスさんは何も食べず、「死にに行った」という意味もわからずに、二人で星空を見上げた大きな木の下で毎日彼が帰ってくるのを待っていたそうです。(P.59~61)

 イ・ヨンスさんは日本の敗戦によって解放され、一七歳一九四六年春、帰還船で帰国。テグの母のもとへ走って帰ったものの、誰にも被害体験を語ることが出来なかったといいます。(P64)

 一九四六年にテグに帰り着いた彼女が「オンマー・ヨンスです」と言っても、「私の娘は三年前の夜に死んだ」といって彼女の顔も見ず、「幽霊だ」といって部屋に入ってしまったお母さん。(P.65)

(管理人:連行時の内容は、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」と近いものになっている。

また、軍人に軍刀で足を切りさかれた後、姉さんたちが指を切って輸血をしてくれたと言う、ワケの分からないエピソードが追加されている。)


(※2007.8.28追加)
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