元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 李玉善(イ・オクソン) ◆◆◆
※李玉仙と表記される場合もあり
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1927年10月(注)、韓国釜山の貧しい家に生まれる。14歳の時、飲み屋の養女として売られ、さらに、別の飲み屋に売られる。
1942年7月、店のお使いの最中に拉致され、中国東北部、延吉の飛行場で重労働させられると共に暴行・強姦される。約1年後、同市内の慰安所に入れられる。
解放後も故郷に戻れず、2000年6月、58年ぶりに韓国へ帰国した。
(注)戸籍上は1928年
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
日本人と朝鮮人の男二人に拉致されトラックで駅まで行き、汽車で延吉(満州)まで連れて行かれる。そこの日本軍の飛行場で働かされ、強姦される。約一年後、延吉市内の慰安所に入れられる。(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」より)
【考察】
1つ目の飲み屋では、早朝から夜中の1時2時まで働きづめで、しかも、客の接待を強要された為、2度ほど逃げ出し、最後には別の飲み屋に両親にも内緒で売られてしまったようです。2つ目の飲み屋での様子は証言にないため不明(※ただし、ナヌムの家のHPの機械翻訳では「芸者集」とある)ですが、そこから、慰安婦として売られたと言うのなら特異な話ではないはずです。
2件目の飲み屋が、「客の接待は拒むは、せっかく買ったのに使えないから売春宿にでも売っぱらっちまえ」と考えたとしても不思議ではありません。また、単に「客の接待」と表現していますが、それが、お酌をする接待ではなく、体での接待だとしたら、嫌で2度も逃げ出したというのも納得できます。(あくまで推測に過ぎませんが)
しかし、同女の証言では、慰安所に入れられるまでの話に「拉致」が入ります。
拉致されたのは、2件目の蔚山(ウルサン)の飲み屋で働いていた時で7月中旬の夕刻の話です。「店の主人から買い物を頼まれ表の通りに出たところ、突然、二人の男に捕ま」り、「どこへ連れて行くんだ、帰してくれ、と抵抗しましたが、そのまま引きづられるように連れ去られた」(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」P.155)と証言しています。
7月中旬の夕刻ですから、まだ明るいでしょう。表通りで捕まり、同女は叫びながら引きづられています。こんな状況で誰も助けてくれずにそのまま拉致されたと言うのは不自然です。しかも、下記資料の通り、拉致したのが「日本人と朝鮮人の二人組」であったり、「朝鮮男2人」であったりします。
また、その後、手足を縛られ猿ぐつわをかまされトラックに乗せられて、蔚山駅で貨物車に乗せられます。
駅では、「私たち全員、今度は汽車に乗り換えるように言われました」(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」P.156)とあるように、この表現を信じれば、自分の足で歩いて貨物車に乗ったようです。それなら、駅で助けを求めるか逃げればいいと思いますが、そのような記述はなく、ただ、「どこかで乗り換えるときがあれば脱出しようと思っていましたが、結局どこにも停まりませんでした」(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」P.156)とあります。
このように同女の拉致の状況は不可解な部分が多くあります。さらに、そのまま慰安所に入れられるのではなく、一旦、飛行場で働くと言う「挺身隊」の要素もあります。如何にも「従軍慰安婦」を意識して作った創作と言う感が拭えません。そもそも、飛行場で強制労働をさせることが目的なら、15、16歳の少女なんか連行せずに男性を狙うでしょう。
なお、拉致された年齢について微妙に違うのは、数え年と満年齢の違いによるものでしょう。
【信憑性】
証言に不可解な部分が多く信憑性があるとは思えません。(特に拉致と飛行場での重労働に関する証言)
決定的に同女の証言を否定するものも見つかりませんでしたが、2000年に58年ぶりに韓国に帰国したと言うことで、1991年に名乗りをあげて訴訟を起こした金学順(キム・ハクスン)さんや文玉珠(ムン・オクス)さん達と違って、公に証言を始める時点から、「強制連行の要素がなければ日本政府に謝罪や補償を要求できない」ということを知っていた可能性もあります。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 編 柏書房 1942年7月中旬の夕刻、使いに出された際に、朝鮮人男性2名に捕まり、中国の延吉(ヨンギル)にある空軍部隊の東飛行場に連れていかれた。そこでは1年ほど下働きをさせられたが、その間、日本軍人たちから日常的に強姦された。その後、一緒にいた女性たち全員が、延吉市内にある慰安所に移され、3年ほど『慰安婦』生活を送った。
慰安所は狭く、10名あまりいた女性が入りきれず、1部屋に2‐3人が入った。はじめは部隊内の庭にゴザを敷いて使うこともあったが、突然軍人たちが部屋に入ってきて、他の同僚が見ている前で、獣のように女性を強姦した。そこにいるときは、サックも使わず、性病検査もなかった。(P.131)
(※2007.4.8追加)2004.1.9 アジアプレスネットワーク
※リンク切れ***** **** 16歳のとき日本軍の「慰安婦」として旧満州(今の中国東北部)に連行され、日本の敗戦後も彼の地に取り残されていた。 2004.4.1 JANJAN ***** **** ある日、店の人からお使いに出された時、日本人と朝鮮人の男性2人に拉致され、行き先も告げられずに無理やりトラックに乗せられた。李さんが到着した場所は中国の延吉にある空軍部隊の飛行場だった。その飛行場の周囲は収容者の脱走を防ぐため高圧電流が流れる鉄条網で囲まれていた。李さんたち労働者は1日に小さな蒸しパン1つだけ与えられて働かされ、不満を訴えると兵隊に血まみれになるまで殴られた。
ある日、軍人がやってきて李さんに車に乗れと言った。李さんは家に戻れると思って喜んだが、連れて行かれたのは慰安所だった。2005.7.29 東京新聞
※リンク切れ***** **** 突然、見ず知らずの男たちに捕まり町から連れ去られたのは一九四二年のことだ。貨物列車で連れて行かれたのは、中国東北部、延吉の日本軍駐屯地に置かれた慰安所。管理人を名乗る男から着物と毛布を渡され、「これは借金だ。返すまで家には帰れない」と言われた。
(※管理人注:当該記事には飛行場での強制連行の話がありません。単に省略しただけか?)2005.10.14 QAB琉球朝日放送
※リンク切れ***** **** 15歳のとき、お使いに出かけ、路上で、日本人と朝鮮人のふたり組の男に突然、両脇を抱えられて連れ去られ 2006.3.2 朝日放送・関西「韓国 元慰安婦たち、静かに寄り添って」
※リンク切れ***** **** 韓国南東部の蔚山(ウルサン)で、住み込みのお手伝いとして働いていた42年、大通りを歩いていると、背の高い男2人に突然、両脇をつかまれた。トラックに放り込まれて両手両足を縛られ、口をふさがれた。連れて行かれたのは中国東北部の延吉。電気の流れる鉄条網に囲まれた飛行場で草刈りや滑走路の掃除をさせられ、食べ物は小さなパンだけだった。
「こんな所では働けない」。抗議すると、3畳ほどの部屋が並ぶ土やれんがの建物へ。風呂に入れられ、着物や足袋、げた、布団を渡された。「これはお前らの借金。稼いで返せ」。その日から「トミコ」と呼ばれ、兵士らの相手を強いられた。2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店 私が十四歳になったある日、母親に呼ばれて行ってみると、釜山駅前のうどん屋がおまえを養女にしたいと言ってきました。そこへ行けば学校にも通えるし、ご飯も好きなだけ食べられる。この際、そこへ行ってみるのはどうだ、と言われました。学校へ通えると言われ、私はすぐさま決心してその食堂へ行くことにしました。ところが行ってみるとそこはお酒も売るような所で、学校へ通うどころか朝は夜明け前に起き、夜は夜中の一、二時まで働きづめでした。結局、養女にするというのは真っ赤なウソでした。しばらく下働きのようなことをしたあと、店の主人に客の接待をするように言われましたが、私は嫌だったので二度ほど逃げ出したもののすぐ捕まり、ひどく殴られました。
私が主人の言うことを聞かずに仕事をしようとしないので、数ヶ月後、今度は蔚山という所にある飲み屋に売られてしまいました。しかも私の両親には内緒で勝手に売り飛ばされたのです。そこでも下働きのような仕事をさせられました。
1942年7月のことでした。店の主人から買い物を頼まれ表の通りに出たところ、突然二人の男に捕まってしまいました。このとき私は15歳でした。一人は朝鮮人、もう一人は日本人でした。この二人の男が私の手を掴んで無理やりひっぱって連れて行こうとしたので、どこへ連れて行くんだ、帰してくれ、と抵抗しましたが、そのまま引きずられるように連れ去られたのです。連れ去られた先には天幕を張った大きなトラックが待っており、その男が私に乗れと命令しました。私は嫌だと言って激しく抵抗しました。するとその男たちはまるで積荷を扱うかのように私のことをポンッとトラックの荷台に投げ込んだのです。そこには私と同じ年頃の少女がほかに五名いました。みんなで泣きながら、帰してくれ、うちに帰りたい、と足をバタバタさせていると、うるさいと言って、私たちの手足を縛り、さるぐつわまでかまされました。
トラックが着いたのは蔚山駅でした。私たち全員、今度は汽車に乗り換えるように言われました。そこにはほかの所から集められたらしい女性たちもいたようです。今でこそ自分が中国に連れて行かれたということは分かりますが、当時はこれから連れて行かれるところが日本なのか、中国なのか、アメリカなのかまったく見当もつきませんでした。しかも私たちが乗せられたのは貨物車で窓もありませんでした。どこかで乗り換えるときがあれば脱出しようと思っていましたが、結局どこにも停まりませんでした。(P.154~156)
延吉で汽車から降ろされ、日本軍(中国東北部に駐屯した関東軍)の東飛行場(現在の延吉社会精神病院前)に連れて行かれました。ちょうど飛行場の拡張工事をしているときで、そこで草むしりや重労働をさせられました。~(中略)~ここでは一番若い子が十四歳、一番年上でも十七歳です。こんな少女たちを日本人たちは連れ出し、そこらの草むらに連れ込んで好き勝手に私たちを獣のように強かんするのです。~(中略)~この飛行場には約一年いたと思います。(P.157~158)
ある日、軍人たちた私たちの所へやって来て外に出るように言いました。これで家に帰れると思い心が浮き立つほどでしたが、実は解放されたのではなく、延吉市内の慰安所に連れて行かれたのです。(P.158)2006.11.19 日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時期企画in大阪 ***** **** 15歳の時、道を歩いていて拉致され、トラックに放り込まれ、口を塞がれ手足を縛られ、中国の延吉にある日本軍飛行場に連れて行かれ、強制労働をさせられた上、乱暴された。電気の通った鉄条網の中に閉じ込められ、家に帰りたいと血が出るほど煉瓦をたたき続けた。そしたら、そんなに帰りたいなら連れて行ってやると言われ、連れて行かれた先が慰安所だった。 2007.1.25 SENKI「日本もイスラエルも被害者だと思っているが」 ***** **** 李玉仙さんは14歳の時、日本人と朝鮮人の2人の男性に路上で拉致され、中国、旧満州へ送られました。3年間の「慰安婦」生活で梅毒に感染し、水銀で治療されたため、子どもが産めない身体になりました。戦後帰国できず、現地で2人の連れ子がいる男性と結婚しました。帰国したのは、その夫が死亡した2000年のことです。
(※2007.4.8追加)2007.2.10現在 ナヌムの家 HP
※リンク先は韓国語***** **** これでヨルダソッの少女オックソンは食堂に養女に行った.
しかし学校を送ってくれるという話は真っ赤な嘘だった. 養女でもなかった. 朝鮮人主人はあらゆる下動きはもちろんスルゾブデまでさせた. オックソンはお酒接待を拒否して二回も逃げてからブッザブヒョがなぐられたりした.
そこでなんケ月以内されて主人は蔚山の居酒屋にオックソンを売ってしまった. グジブは芸者集だった. ここでもオックソンは夜 12時までシックモジルとあらゆる下動きをドマッアした. とても大変で夜に寝てゆばりを洩らしたこともあった.
ここ来たのも 1年がまだならなくて満洲でひかれて来た. 芸者集でおつかいを出てから白昼大道で拉致にあったのだ. あの時が 42年 7月, オックソンの年十六(満15歳)だった.
白昼台として強制拉致
蔚山で午後におつかいを出たが 40歳が過ぎたように見える太っている朝鮮男 2人が手首をぱっと引っ張って ?行くと?そのした. ?嫌いです. 放してやりますか?したらウワックスラン力で ?ザンマルを除いて行くと?と口を阻んでトラックに積んだ.
テンギ髪の毛に朝鮮チマチョゴリを着たままトラックに積まれて蔚山駅に行ったら他の女達も何何ひかれて来ていた.
蔚山駅で汽車に乗って二日位かかって倒文に到着した. 女達はジムチァトング(貨物室)にのせられたが窓がなくてどこで行く分からなかった. ご飯も与えなかった.
汽車を乗り換えるようになれば逃げることもできると期待したが一度も乗り換える事なしに倒文に到着した.
一緒に来た女達は 15人ほどだった. そのうちには十四歳もあってオックソンとおない年もあった. 汽車から飛びおりて死のうという公論もしたが決行することができなかった.
倒文に到着してオックソンを含んだ 5人は駅の近くの留置場に監禁された. ここでまたひと晩を寝たが特にオックソンだけは独房に監禁した. その理由は今もわからない. あの時までもご飯は与えなかった.
(※管理人注:上記は機械翻訳)2007.3.22 CRI Online「韓国社会 日本要人による慰安婦問題歪曲言論を批判」 (中国国際放送局) ***** **** 「従軍慰安婦」の被害者、79歳の李玉善(イー・オクソン)さんは(音響の2)「私はその時、蔚山(ウルサン)でお手伝いさんをしていた。ある日、町に出た際、2人の男性が突然目の前に現れた。彼らは私を捕まえて連れ去った。私は15歳だった。抵抗する力はなかった」と強制連行された経験を述べました。
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◆◆◆ 李京生(イ・ギョンセン) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1917.6.29、咸鏡北道漁郎郡で生まれた。3歳で母を、6歳で父と祖母を亡くし、 8歳の時に地主の家に子守として入る。1929年の12歳の時、地主の家で寝ていた所、日本人の警官が来て無理やりトラックに乗せ拉致される。慶尚南道昌原の軍の秘密工場に連れて行かれ、以降、慰安婦を強いられる。
(「金学順さんの証言 『従軍慰安婦問題』を問う」より)
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
寝ていたところを日本人の警官に拉致されて、トラックで軍の秘密工場に連れて行かれる。
(「金学順さんの証言 『従軍慰安婦問題』を問う」より)
【考察】
一般的に、慰安所は1932年の上海事変を期に設置されたとされていますが、同女は1929年に慰安婦にされたと証言しています。しかし、以下の通り、同女の証言の信憑性の無さは明らかです。
まず、「金学順さんの証言 『従軍慰安婦問題』を問う」(以下(「金学」)と1998.8.7朝鮮新報(以下「朝鮮」)とでは、連行された時の状況が全く異なっています。
(※「金学」の内容は、北朝鮮の「『従軍慰安婦』及び太平洋戦争被害者補償対策委員会」が1992.9に発表した告訴状を掲載したもの)
<連行された時の状況>
地主の家で子守として勤めていた頃
○「金学」・・・寝ていた時に日本の警官が突然入ってきて無理やり連れていかれる
○「朝鮮」・・・地主と村の区長が部屋に来て、日本の工場に連れていくからと引っ張っていく
有無を言わさず無理やり拉致されたのが、工場で働くと言われて連れて行かれたことになっています。
現実的な内容に修正されたと見るべきでしょうか。なお、他の資料を見てみると、区長に「良い所へ連れて行ってあげよう」等と言われたものが多いようです。
また、「金学」では、同女は寝ていたにも係わらず、
「ある夜、サーベルと銃を付けた日本の警官が、区長の案内を受けて、突然、地主の家に来た」
・・・寝ていたのに、どうして警官が区長の案内を受けたことを知っているのでしょうか?
「彼らは地主に目配せをしてうなずいた。そして寝ていた私の部屋に踏み込み」
・・・しかも、同女の部屋に踏み込む合図に目配せをしたことも知っています。
被害者目線ではなく、まるで小説の作者目線です。いい加減な証言もあったものです。
さらに、同女が妊娠した時には、「将校は『天皇に忠誠を尽くさない朝鮮人の子どもは必要ない』と言って、私のお腹を割いて胎児を殺してしまった」と証言しています。よく出血多量で死亡しなかったものです。
------------------ 以下、2007.7.14 追加 ---------------
なお、上記と一部重複しますが、下記資料の「金学順さんの証言 『従軍慰安婦問題』を問う」(以下、「金学」)、「写真記録 破られた沈黙」(以下、「写真」)、「平壌からの告発」(以下「平壌」)を比較すると以下の通り相違点があります。
<連行された場所等>
○「金学」・・・自分の部屋で寝ていた時、部屋に踏み込んできて無理やり連行
○「写真」・・・区長の家で連行
○「平壌」・・・庭が騒がしいので自分の部屋からのぞいて見たら、区長達がいて連行
<区長と共にいた人>
○「金学」・・・サーベルと銃を付けた日本の警官
○「写真」・・・長い刀を腰に差した3人の男
○「平壌」・・・日本刀を下げた三人の憲兵
→ 警官であったり、ただの男であったり、憲兵であったり。刀を持っていたことは一致しています。
<一緒に連行された人>
○「金学」・・・十代の四人の少女たち(トラックの中で一緒にいるのに気づく)
○「写真」・・・キム・グァンソン、パク・スボン、尹春鮮の3人の友達(区長の家に呼ばれてきていた)
○「平壌」・・・四人の女性(トラックの中で一緒にいるのに気づく)
→ 「写真」だけ何故か、友達と共に連行されたことになっています。
<堕胎手術をした人>
○「金学」・・・記載なし
○「写真」・・・将校が「天皇に忠誠を尽くさない朝鮮人の子どもは必要ない」と言って、腹を割いて胎児を殺した
○「平壌」・・・将校が「天皇に忠誠を尽くさない朝鮮人の子どもはいらないが、お前はまだ使い物になる」と言い、子宮ごと胎児を取り出す手術を受けさせられる。取り出された胎児は日本刀で切り刻まれ、バラバラにされて川に捨てられた
→ 「写真」では将校が腹を割いたことになっていますが、「平壌」ではちゃんと手術を受けたとこになっています。
また、「写真」では、将校が腹を割いたと読むのが自然な文章ですが、実は「腹を割いた」の主語は軍医なのでしょうか。
連行時の状況は、「区長が段取りした」という点では一致していても、その他の内容はバラバラです。寝込みを襲われたり、区長の家に呼ばれて行った後だったりしています。
なお、北朝鮮の証言者、お約束の日本兵の残虐行為は以下の通りです。(「朝鮮人『慰安婦』」より)
○彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた。
○将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した
○日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした
------------------ 以上、2007.7.14 追加 ---------------
【信憑性】
信憑性はありません。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1992.10 朝鮮人「慰安婦」 在日本朝鮮民主女性同盟中央常任委員会 **** 私は3歳で母を亡くし、6歳のときには父を亡くし、育ててくれた祖母とも死に別れた。孤児となった私は、地主の家の子守や下女として一人で生きてきた。
12歳になったある日、区長が呼んでいるというので行ってみたら、既にキム・グワンソン、パク・スボク、ユン・チュンソンの3人がきていた。みんな私と年齢が前後する女の子たちであった。区長は、私に「お前は哀れな星の下に生まれて苦労している。きょうからお前の人生を変えてやろう。良い所へ連れていってあげるがどうだ」と言った。
私はそれまでのみじめな境遇が辛かったので、今より良い暮らしがあるのなら「行きましょう」と答えた。区長は、「私が呼び出したら朝でも夜でもすぐくるんだよ」と言った。幼い私は、「はい、すぐきます」と答えた。
夜になって区長の家から使いがきたので、私は急いでいった。区長は立派な日本人が迎えにきたといった。見ると長い刀を腰にさした男が3人きていた。私たちは怖くなって「アッー」と声をだしてしまった。それを見た区長は、「お前たちを良い所へ連れていってくれるのに怖がるな」といった。そしてその男たちに私たちを引き渡すと、村の外まで見送ってくれながら、「きょうからお前たちの運命が変わるのだ。いい所にいけよ」と励ますようにいって家に帰ってしまった。どうしていいのかわからないままに、私たちはその男たちの後についていった。
男たちの後についていくとやがて駅前に出た。そこで汽車の貨車に乗せられた。良い所に連れていってくれるとは言われてみても、そこは子供だから、次第に心細くなり、4人してめそめそしたりしていた。
明け方近くなって降りろというので降りたら、駅前に車が迎えにきていた。車には2人の日本人が乗っていた。私たちは、見知らぬ3人の日本人についてくるだけでも怖かったのに、また2人ふえたのでもっと怖くなった。しり込みする私たちをみて、男たちはまるで豚のしっぽをとって車に乗せるように、私たちを5人がかりでほうり上げて乗せた。
どれくらい行ったのか記憶に残っていないが、まわりが明るくなったころ、やがて山の中に到着した。彼らは「降りろ」といったが、私たちはおじけづいてじっとしていたら、ひきずり降ろされた。そして、「ここが良い所だから入れ」と言って家の中に連れ込まれた。そこが慶尚道・昌原にあった軍の秘密工場であることは、ずっと後で知った。
指定された部屋の中でしばらくじっとしていると、日本の着物を一抱え持った看護婦が入ってきて、「朝鮮服を脱いでこれに着替えなさい」と命令した。もじもじしているとむりやり脱がされて裸にされ、浴衣を着せられて胸に「ミイコ」という名札を付けられた。そして、「お前はきょうから朝鮮人ではなく日本人だ。日本帝国の天皇陛下のために働かなければならない。お前の名前はミイコだ、朝鮮語を使ってはならない」といった。それからは約半月の間、雑穀の入った食事を三度与えられるだけで、仕事はさせなかった。苦労ばかりしてきた私は、区長が言っていたように良い所へきたのかな、と単純に思ったりした。
やがて半月が過ぎると今度は将校がやってきて「足を洗え」「つめを切れ」などと命令するだけで、仕事らしいことは何もなかった。ただ、「風呂に入れ」とか「身体検査」と言われれば体重計に乗ったりして、言われるままに行動していた。そんなことでまた半月が過ぎた。
ある日の朝、前庭に集まれというので行ってみたら、少女たちが20名くらいいた。その少女たちと一緒に私たちも一列に並ばされた。私たちの前に将校たちがやってきた。その中で星が4つ着いた将校が、一列に並んだ少女たちをなめるように見回していたが、一番背が低いので端っこにいた私を、自分のそばに引っ張りだした。次に少しくらいの低い将校が、同じようにして他の少女を選んだ。
こうして順番に将校が気に入った少女を選びだし、自分の部屋に連れていった。私はその時、8号室に入れられた。私と一緒にきたユン・チュンソンは隣の9号室であった。やがて昼食がすむと、工場から800メートルほど離れたところにある場所に連れていかれた。そこでも8号室に入れられた。そこは将校が入る部屋だと後で聞いた。
夜になって男が部屋に入ってきたが、それは朝、私を選んだ将校であった。その将校の名前は「トウギョウ」といった。彼は、12歳の私を暴行した。あまりにも幼い体なので膣が引き裂かれてしまった。翌朝の8時か9時ころ、医者と看護婦がやってきて治療してくれた。そんな状態にもかかわらず、その将校は毎夜のように襲ってきた。
それは、私だけではなく他の部屋でも同じであった。9号室のユン・チュンソンは恐怖と嫌悪感から拒否して叫んだので、口をふさいで窒息死させられてしまった。
こうした行為を強いられて1か月もしたころ、トウギョウという将校は「もうお前に飽きた。好きにしろ」と言ってこなくなった。それからは毎日のように7、8人くらいの兵士がやってきた。こうして、この秘密工場での私の「慰安婦」生活が始まった。
これは、慶尚北道安東出身のオクランという18歳の女性のことである。彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた。
忠清北道のキム・サムニョという20歳前後の女性は美しい人であった。彼女のところには数十人の兵士たちが列をなしていた。この屈辱的な暴行に耐えられなくなった彼女は、死を覚悟して抵抗した。日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした。こうして、3人もの女性が殺されるのを見せられた私たちは、恐怖のために抵抗も逃げ出すこともできなかった。
16歳になった私は、知らぬ間に妊娠していた。それを知った将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した。その時に受けた傷が今でも残っている。
それから間もなくであったと思う。そこで賄い婦をしている朝鮮人のシン・ファジャというおばさんが私たちのところに忍んできて、「お前たちはみんな可愛い顔しているね。こんな可愛い子たちがここで朽ち果てるのはかわいそうだ」「ここは秘密工場だから、ここにきた女性たちは生きてでられないよ」といって「何とかして逃げなさい」と教えてくれた。それから一緒にきた私たち3人は逃げ出す方法を計画した。
当時の兵士たちは将校と違って思い通りに酒を飲めなかった。お酒を飲みたがっている彼らの弱みを知っている私たちは、酒を与えて酔いつぶす計画をたてた。私たちは、将校が飲み残した酒やつまみをこっそりとっておいて集めて3本分の酒を用意した。
土・日曜日は将校たちが家族のもとに帰っていく。その日をねらって門番の兵士に酒を与えた。酒につられた彼らは、私たちの計画にはまり、私たちはやっとの思いで逃げ出すことができた。私たちは3人がバラバラになって逃げた。それっきり私は同郷の友人たちの消息を知らない。
私は電線のない深い山奥をめざして逃げた。そこでひっそりと住んでいる老人夫婦の家をみつけて、かくまってもらい、老人夫婦の好意でそこに住みついた。
18歳の時に、山村の人々の世話で、身寄りのない若者と所帯をもった。結婚式も何もない貧しい者が寄り添った暮らしには、家財道具も何もなかった。周辺の人々が持ち寄ってくれた必要最低限の道具で2人の生活は始まった。しかし、私は常に追手の影におびえていた。私は夫に哀願を繰り返し、中国に逃げようとせっついた。そして中国の瀋陽に渡っていったのである。
解放は中国で迎えた。祖国の解放を知った私は、今度は故郷に帰りたくて、また「朝鮮に渡ろう」と夫に哀願した。夫は「お前は、前には中国にいこうとせっつき、今度は朝鮮に帰ろうと騒ぐ。いったいなぜなんだ」と聞いたが、私は過去のことは一切いわなかった。
1960年代に祖国に帰国した。祖国では協同農場の一員として夫婦で働いてきた。私たちの農場は稲作を主としてやっている。私は農民として働ける暮らしがうれしくて、本当に良く働いた。
ことしの3月27日にただ一人の身内である夫を亡くし、一人ぽっちになってしまった。夫にも過去を隠して暮らしてきた自分の半生がなんであったかを考えると、涙にくれるばかりであった。むなしかった。
今までにも、「慰安婦」時代を思い出して夜中に飛び起きて胸の締めつけられる思いを何度したことか。黙ってしまってきた過去を告発して楽になりたい、と思った。何日も考えた末に、みずから平壌中央テレビを訪ねていき、「私が元慰安婦です」と最初に名乗りをあげた。
(リ・ギョンセン 1917年6月29日生 咸鏡北道魚郎郡出身)
(※2007.5.2追加)1993.2 金学順さんの証言 「従軍慰安婦問題」を問う 解放出版社 編 解放出版社 それは一九二九年に「従軍慰安婦」として連行された李京生さんの証言を通じても明らかにされている。彼女は「日本軍は朝鮮女性を『慰安婦』として連行することが、いかにも中日戦争以降からのように弁明しているが、私が経験した凄惨な運命に照らしてみれば、それは一九二〇年代からだったことを満天下に告発する」としながら、「私の故郷は咸鏡北道漁郎郡です。私は一二歳のときのある夜、サーベルと銃を付けた日本の警官が、区長の案内を受けて、突然、地主の家に来た。彼らは地主に目配せをしてうなずいた。そして寝ていた私の部屋に踏み込み、私の首をつかんで、むりやりトラックに乗せ、貨物のように運んだ。私は突然の出来事で声を上げることも泣くこともできなかった。砂ぼこりをかき上げながら村を抜け出したトラックの荷台でゆられていた私は、自分の目の前に何かがいることに気付いた。それは荷物ではなく、私と同じ年頃の娘たちだった。彼女たちもやはり強制的に拉致された十代の少女たちだった」と証言した。
彼女は続いて「私を含め、四人の少女たちが外も見れない有蓋車(ふたのある貨車)に乗り、慶尚南道昌原に着いた時は夜明けだった。そこには二〇余名の朝鮮人少女たちが、すでに拉致されていた。私は八人の同年代の娘たちと共に、荷車に乗せられ、鉄条網が高く張りめぐらされた秘密工場に連れていかれた。工場は火薬のにおいに溢れていた。秘密の火薬工場のようだった。そしてここで、十代の少女たちが、『従軍慰安婦』として日本軍たちの性のオモチャになった」と証言した。(P.140~141)
尹という姓を持った少女が、列をなして群がってくる日本軍に辱めを受けた後、けがまで負わされ、後は窒息して死んでしまった(P.148)
(管理人注:上記内容は「朝鮮民主主義人民共和国「『従軍慰安婦』及び太平洋戦争被害者補償対策委員会」が作成した日本政府宛の告訴状(1992.9)を掲載したもの)1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社 12歳のある日、区長に呼ばれて行くとキム・グァンソン、パク・スホン、尹春鮮の3人の友達も来ていました。区長が「お前たちは苦労しているので良い所へ連れて行ってあげよう」と言うので同意しました。
夜になって区長の家に行くと、長い刀を腰に差した3人の男がいたのです。私たちは怖くなってしまいましたが、どうしていいのかわからないままに連れられて行きました。
汽車に乗せられてからは、心細くなって泣きべそをかいていました。明け方近くに降ろされると、2人の日本人が自動車で迎えに来ていました。まわりが明るくなった頃に山の中に着き、そこの工場の中の部屋に入れられたのです。後で知ったのですが、ここは慶尚南道昌原にあった秘密の軍需工場でした。
部屋の中でじっとしていると、日本の浴衣を持った看護婦が入って来て、「朝鮮服を着替えなさい」と命令しました。ためらっていると無理やり脱がされて浴衣を着せられられ、「ミイ子」という名札を胸に付けられたのです。そして「お前らはこれからは朝鮮人ではなく日本人だから朝鮮語を使うな。大日本帝国の天皇陛下のために貢献しろ」と言われたのです。(P.20)
慶尚北道安東から来た18歳の女性は、兵隊に激しく反抗しました。そのため、裸にされて大きな木に一日中逆に吊るされたのです。それでも「1日20~30人もに強姦されるくらいなら死んだほうがましだ」と言ったので、私たちの前で殺されたのです。死体は、刀で腕・足とばらばらに切られました。兵隊はそれを叺につめて「魚の餌にしてしまえ」と川に放り込んだのです。
16歳の時に私は妊娠してしまいました。将校は「天皇に忠誠を尽くさない朝鮮人の子どもは必要ない」と言って、私のお腹を割いて胎児を殺してしまったのです。(P.23~24)
(※2007.4.22追加)1998.8.7 朝鮮新報「」強制連行、「従軍慰安婦」問題東京シンポ、大阪報告会から」 ***** **** 「目前で4人が殺された/李京生さん(81)」
咸鏡北道漁郎郡で生まれた。3歳で母を、六歳で父と祖母を亡くし、8歳の時に地主の家に子守として入った。
1929年の12歳の時、地主の家に3人の日本人が来て一緒に酒を飲んでいた。その夜、地主と村の区長が部屋に来て、日本人が工場に連れていくからと、私を外に引っ張っていった。
外に出ると車が止まっていて、中には私のほかに4人の娘が乗っていた。皆私と同じ年位だった。
到着した慶尚南道昌原という所の人里離れた場所には鉄条網があり、10メートル間隔で日本の軍隊の歩哨が立っていた。
工場で働くと言っていたのに、最初は東郷という将校の足を洗ったり、爪を切ったりさせられた。
何ヵ月かして、広い空地に集められ、一列に並ばされた私たちの中から将校が気に入った娘を選んでいった。その日、私を選んだ将校に暴行された。
その後、「慰安婦」として1日、20人の軍人の相手をさせられ、休みの日はさらに多くの軍人が列を成した。拒否したり声を上げると殴る、蹴るの暴行を受けた。私のいた慰安所で4人の娘が殺されるのを目撃した。死体は近くの川に捨てられた。
日本は自分たちのやったことを認めるべきだ。あれだけ多くの朝鮮人女性を殺してなぜ、平気でいられるのか理解できない。補償は心からやるべきだ。2001.7 平壌からの告発 伊藤孝司 風媒社 李京生さんは、一九一七年六月ニ九日に咸鏡北道漁郎郡の貧しい小作農家で生まれた。一人っ子だった。三歳の時、両親は伝染病で次々と亡くなってしまう。彼女を引き取ったお祖母さんも三年後に亡くなる。それからは乞食をするしかなかった。家々を回って食べ物をもらい、倉庫や積み上げられたワラの中に潜り込んで寝泊まりをした。このような生活を二年間ほどした時、それを見かねたお年寄りが、鄭という名の地主の家で働くように世話をしてくれた。
与えられるのは冷えたご飯、寝るのは倉庫のような場所。仕事は子守・掃除に水汲みだった。大きな水瓶を頭に乗せて運ぶのが大変で、落として瓶を割ると二日も食事が与えられなかった。
このつらい生活を四年間した一九二九年一二月頃のある日。自分の部屋にいた李さんは、庭が騒々しいのでのぞいて見た。日本刀を下げた三人の憲兵を区長が連れて来ていた。そして、自分の部屋を指さしているのだ。「苦労しているので工場で働かせてやる」と区長に言われ、門の所に停まっていたトラックに無理やり乗せられた。夜だったのでトラックの中は暗かった。「荷物が積んである」と思ったが、それは縛られた四人の女性だった。
連れて行かれたのは、慶尚南道昌原の山中に造られた工場。後になって、火薬や手榴弾を作る軍需工場とわかった。女性たちは工場の敷地内の建物に入れられる。同じ形をした木造平屋の建物五棟が並び、その中は小さな部屋に仕切られていた。すでにたくさんの女性が入って、李さんよりみんな年上だった。慶尚道の女性もいた。李さんが入れられた部屋は「八号室」。日本人の看護婦に、着ている者をすべて脱ぐように言われ、浴衣を着せられた。そして、朝鮮語を使わないようにと命じられた。
翌朝、小麦と豆を混ぜたにぎり飯一つとタクワンが与えられた。食べずにいると、陸軍の軍服を着た日本人将校が部屋に入って来て、「天皇のために身を捧げるのなら良い待遇をしてやるが、言うことを聞かないと殺す」と言った。その日から、工場で仕事をするのではなく、将校の手足を洗ったり爪を切ったりといった身の回りの世話をさせられた。
二十日ほどした時、工場の広場に女性たちは一列に整列させられる。将校たちは、その中から女性を選ぶと列から引っ張り出した。その日の夜、自分を選んだ「トウゴウ」という名の将校に李さんは強姦された。李さんはまだ一二歳で、しかも体は小柄だった。膣は引き裂かれ、部屋の中は血だらけになる。翌朝、軍医と看護婦が治療をしてくれたが、将校は毎晩のように襲ってきた。
何週間かすると、将校に代わって兵隊たちが来るようになった。一晩に一〇人~二〇人。日曜日にはさらに多くの兵隊が来たので、気絶することもあった。コンドームを使うことになっていたが、使わない兵隊もいた。軍医による性病の検診が週一回あり、「六〇六号」という性病治療の注射を受けた。
この「軍慰安所」には二〇数人の女性がいた。慶尚北道安東から連行されて来た一八歳の女性は、あまりにも多くの兵隊の相手をさせられるので噛みついたりして強く反抗した。すると裸にされ、絞めたニワトリのように足を縛られて電柱に逆さ吊りにされた。一日たつと彼女は死にかかっていたが、「言いなりになるくらいなら死んだほうがましだ」と言った。それを聞いた兵隊たちは彼女をなぶり殺しにし、首・腕・足・胴とバラバラに切断したのである。
一部始終を見せられていた李さんたちは泣き叫んだ。気絶すると兵隊たちに無理やり起こされ、「はっきり見ろ!言うことを聞かないとこうなるぞ」と言われた。女性の死体は叺(ワラで編んだ大きな袋)に詰められ、工場近くを流れる大きくて深い川に投げ捨てられた。抵抗したために殺された女性は他にも何人かいた。
一九三三年の一月に生理が始まる。一五歳だった。三月になって妊娠しているのに気づいた。将校は軍医に妊娠を確認させると、「天皇に忠誠を尽くさない朝鮮人の子どもはいらないが、お前はまだ使い物になる」と言った。そして妊娠三ヵ月の時、子宮ごと胎児を取り出す手術を工場内の病院で受けさせられたのである。手術の際、軍医の他に一人の看護婦がいたことと、背中に注射を打たれて全身麻酔をかけられたのを覚えている。取り出された胎児は日本刀で切り刻まれ、バラバラにされた女性が投げ込まれたのと同じ川に捨てられた。軍医は手術の傷口を治療してくれたが、「それは少しでも早く兵隊の相手を再びさせるためでした」と李さんは言う。五月中旬から元の生活に戻った。
李さんは、同じ故郷から来た四人の女性と、ここから逃げ出す計画を立てた。将校は、李さんたちの部屋で飲み食いすると残った酒を置いて行った。それを少しずつ瓶に貯め、便所近くの土の中に隠した。そうして作った三本の酒を歩哨たちに与えることにしたのだ。
将校は土曜日・日曜日には家族の元に帰るので、その時を狙って計画を実行。八月か九月だった。最初は怒鳴られて追い返された。三回目に声をかけた時、「酒を持って来い」と歩哨たちが言った。将校と違って、兵隊は思うように酒が飲めなかったので成功した。鉄条網の下へと向かった。運良く老夫婦にかくまわれたが、一九四五年八月一五日まで、常に追手におびえながらの暮らしだった。(P.36~40)
(※2007.7.14追加)
◆◆◆ 朴玉善(パク・オクソン) ◆◆◆
※「朴玉仙」と表記されている場合もあり
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1924年、慶尚南道密陽郡に生まれ貧しい農村で育つ。1941年、17歳の時、友達と水汲みに出かけた際に、日本人に捕まえられそのまま中国と旧ソ連の国境地帯、穆陵の慰安所に入れられる。源氏名は「アライアキコ」。
戦後も帰ることができずに中国で生活。2001年に韓国に帰国した。(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」より)
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
腕章をつけた日本人の男二人に拉致され、軍人の見張りが乗ったトラックに乗せられる。トラックで駅まで行き軍人専用車両に乗せられ慰安所まで連れて行かれる。慰安所には一時間毎に歩哨が来て確認をしていた。(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」より)
【考察】
下記資料の「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」と「ナヌムの家のホームページ」を比べれば、同女の証言の信憑性の無さは明らかです。
「友達と川に水汲みに行った時に軍人に拉致された」のが「友達に紡績工場で働こうと誘われた」と全く違う証言をしています。
果たして、途中から証言内容を変更したのか、それとも、日本人向けと韓国人向けでは証言を使い分けているのか。。。
【信憑性】
信憑性なし。
おそらく、ナヌムの家のHPに記載されている内容が真実に近いものでしょう。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 2001.9.18 朝鮮日報 「在中慰安婦ハルモニが60年ぶりに帰国」 ***** **** 日本軍慰安婦として中国に連行された朴玉善(パク・オクソン/78)さんが60年ぶりに故郷の地を踏んだ。
16日仁川(インチョン)国際空港に到着した朴さんは、迎えに来た弟の朴某(74)さんを抱きしめて嗚咽した。朴さんは18歳だった1941年、故郷の慶尚(キョンサン)南道・密陽(ミルヤン)で中国黒龍江省の日本軍慰安所に連れて行かれた。日本敗戦後、退却した日本軍に混じって山の中をさまよった朴さんは、ムリンという奥地の村に定着して今まで暮らしてきた。中国に住む慰安婦被害者の調査に乗り出した韓国挺身隊研究所のコ・ヘジョン所長が今年の4月、朴さんに会い、探しに探した末、釜山(プサン)に住む朴さんの弟の朴某さんを見つけた。
弟と甥達の公式招請で帰国した朴さんの国籍は中国、戸籍は死亡処理されている。訪問ビザで訪韓した朴さんは、これから国籍変更と戸籍回復のための裁判を受ける予定だ。女性部権益企画課のパク・ムンスクさんは「現在中国には朴さん以外にも慰安婦被害者が約10人ほどいるが、故郷が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)だったり、あまりにも年老いているため帰国を推進することは難しい」と話した。
(※2007.4.12 追加)2004.8.17 ナヌムの家での証言 ***** **** 18歳のころ食べ物もなく、草といっしょに穀物を食べる毎日で、勉強もさせてもらえなかった。ある日小川に洗濯に行った帰りに兵隊に腕を捕まれてトラックに無理やり乗せられた。中には他にも若い女性がたくさんいた。トラックにホロをして外から見えないようにされた。泣くと怒鳴られた。貨物列車に乗せられ「いいところに連れて行ってやるから静かにしろ。」と言われそのまま連れて行かれた。 2005.10.05 高知新聞「元慰安婦の痛みに思いを 高知大生らが証言集会企画」
※リンク切れ***** **** 17歳の時、友達と水くみに出掛けた際、日本人につかまる。送り込まれたのは中国と旧ソ連国境の穆陵(ムリン)の慰安所だった。 2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店 その日も日が暮れてから友達と二人で近くの小川まで瓶を頭に担いで下りて行きました。私たち以外は誰もいなくて水は澄んでとてもきれいでした。ひしゃくを使っていつものように水を汲んで、また頭にのせて家へ帰ろうとすると、後ろの方から「ちょっと待て!」という声がしました。私は自分が呼び止められているとは思わずそのまま行こうとしました。するとまた「ちょっと待て!」という声がして振り向くと、土手の方から二人の男がこちらに向かって走って来ました。私たちはそこから立ち去る余裕もなくその二人の男に捕まってしまいました。二人とも腕に腕章をはめた日本人の男でした。~(中略)~両腕を抱えられ、引きずられるようにして私たちは連れて行かれてしまいました。~(中略)~村を出てからもかなりのあいだ歩かされた気がします。しばらくして辿り着いた所に、大きな軍のトラックが停めてありました。~(中略)~中には同じ年頃の女の子たちが二〇名くらいいました。~(中略)~私たちを乗せるとトラックは走り出しました。見張りのための軍人が二人一緒に荷台にいました。~(中略)~トラックが止まり降ろされた所はどこかの駅でした。そこで今度は汽車に乗せられましたが、トラックは汽車のすぐそばまで行き、乗り換えのときは両側に軍人たちが並ぶので逃げることは不可能でした。車両は民間人が乗る車両と軍人専用の二つがありましたが、私たちが乗せられたのは軍人専用のものでした。(P.143~144)
汽車とトラックの乗り継ぎを何度か繰り返し、到着したのは当時「スブナスヤン」と呼ばれていた所でした。川をはさんでこちら側が中国、向こう側がソ連という国境地帯(中国と旧ソ連の国境地帯・穆陵の慰安所と思われる)でお互いの集落がよく見えていました。(P.146)2007.2.10現在 ナヌムの家 HP
※リンク先は韓国語***** **** 現在国籍:中国
生まれ年度:1924年
故郷:慶南蜜陽
動員年度:1941年
当時慰安所:ヘイルング将星モックルング隣近
慰安所あった期間:4年
当時日本名前:アキコ
中国居住地:中国黒竜江省モックルングヒョンモックルングジン
~(前略)~私の十八つの肉の時の親もこっそりと・・・・・・友をするが来て・・・・・・内と名前が同じだ。性が違う。“ねえ、オックソンよ、中国にお針工場に(人)使うから、私たち・・・・・お針工場にいや入って行くか?”そうヒソヒソと“皆行くと言うから、私たちいや行くか?”~(中略)~ただ工場に行くと言ったから行くんだよ・・・・・・その次に親の密かに出るからじっとナオルレだから何も包みもオブオッスムダ。~(中略)~
それで友逹行くとします. そう私たち夜でナワッスムダ. じっと. 家で, 誰もこっそりと. それで家から出ているのにこんなあそこ逆転みたいなのにガッスムダ. 家でゴルオガッスムダ. だからその人々ががトックします. 人, そのつましい青年たちが,
全部女達, すべて朝鮮女達です. そこ全部来てあります. そう私たちも行くからそう良い仮者してそうだって車にオルラッスムダ. 車にオルルだから阻むでんと着せます.
しばらくどこに行くか行くから下って汽車乗りこみなさいします.
女達を密陽だけではなく多くの所でモダで(集めて) 来たようです. 汽車乗るから風(天幕)みたいなこと着せます. 軍隊たちその風あるんじゃないですか? どの逆転なのかいいね. 自動車他高からは分からないです. 自動車に乗った時その自動車後に女達がたくさんタッスムダ. そうだって自動車から降りてボニカイェがトックします. 青年たちが. そうだって車に乗りこみなさいします. 補材期同じこと覆います. 軍人満ちてからいいね. ジムチァみたいなこと. 乗りなさいとそんな人は男です. 日本人です. 朝鮮末もして日本語もします. そのように私たちを連れて行く男たちが何人もなるかは考えいや出ます. 私たち弾後にその次には男たちがハナンジふたつなのか…… 夜になったらよくモルゲッスムダ. そう乗ってガッドレッスムダ. どうも行って…… 汽車駅へ行って汽車乗って…… あの時からはなんか行ったの. ところで (中国に) オニカイェ軍隊こんな車また出迎えナワッスブデ?だ.
故郷の家から出る時服は着たとおりナワッスムダ. 朝鮮チマチョゴリだ. ゴムのはき物新旧. 荷物でもいや包んで来ました. そのまま逃げるのに……
ただ工場行くと言ったら行くんだよ…… その次に親の密かに出るからじっとナオルレだから何も包みもオブオッスムダ.
あの時が多分秋頃なる長いです. そよそよと寒かったんだろう.
故郷では名前いやゴチョッスムダ. ここ来て直したの. ‘Araiアキコ’と. 名前も成都日本式で直しなさいと言って, 商店にも日本語なければ品物も売らないと言ってそんな時代だが, 家では…… 朝鮮でネウェハだから水も栗に汲んで.
昼に水いやギルオッスムダ. 女と. ~(中略)~
汽車に乗って行く時にもずっと紡績工場に行ったと思ったの。ただ十八つに一二十人乗って行くからすべて紡績工場であると思ったの、そうするには分からなかったです。どう分かりますか?~(後略)~(※管理人注:上記は機械翻訳)
◆◆◆ 朴頭里(パク・トゥリ) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1924.9.2、慶尚南道密陽郡に生まれる。多少余裕のあった家に生まれるが父が女遊びで財産を使い果たす。1940年の数えで17歳頃、やってきた朝鮮語と日本語を話す男に「日本の工場で金になる仕事がある」と騙され、台湾にて慰安婦を強いられる。
1992.12.2、日本国の公式謝罪と賠償を求めて提訴した10人の内の一人。2003.3.25最高裁にて上告棄却・上告受理破棄、敗訴確定。(釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟(別名:関釜裁判))
2006.2.19死去
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
無し。村に工場の働き手を募集に来た男3人に連れられ、台湾の彰化の慰安所まで連れて行かれる。3人の内のリーダー格であった人物が慰安所の主人だった。
【考察】
裁判の証言(以下「裁判」)と「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」(以下「証言」)を比べて見ると、大まかな流れは変わりませんが、以下の通り、細かい所で全く異なる内容をなっています。
<村にきた男>
○「裁判」・・・日本語と韓国語を話す男でしたが、韓国語が上手だったのでたぶん朝鮮人だと思います。
○「証言」・・・50代くらいの背の高い日本人でした。彼は朝鮮語を使いましたが、あまりうまくありませんでした。
「たぶん朝鮮人」だったのが、完全に「日本人」に変わって朝鮮語もヘタになっています。しかも、「証言」では、「日本で暮らしている朝鮮人だとばかり思っていたのですが、台湾に着いたときに日本人だと知りました」と語り、「裁判」とは全く異なることを言っています。これは完全にウソでしょう。
<慰安所の主人>
○「裁判」・・・村にだましに来た男と同一だとも日本人だとも証言していない
○「証言」・・・同女を連れて行った日本人の男が慰安所の主人
慰安所の主人まで日本人になってしまっていますが、これは、「裁判」では触れなかっただけかも知れません。
<軍人の暴力>
○「裁判」・・・「もし朝鮮の言葉で話をしたりすれば、相手は日本の軍人なので、それこそ叩き殺されるぐらいひどい目にあわされました」
○「証言」・・・「軍人たちは私を殴ったりしませんでした」
日本を非難するのに都合のいいように情報が変更されている一方で、不利な方向にも変わっています。訳が分かりません。
なお、同女が入れられた慰安所は以下の通り、軍専用ではなく民間人も利用していたようです。
「民間人の客は、日本人と台湾人でした。民間人の中にも一時間くらい「一見さん」もいれば、一晩泊まっていくような人も一月に何人かいました。」(「証言」P106~107)
【信憑性】
細かい所は、コロコロと証言を変えているようで信用できませんが、大まかな所は本当のことでしょう。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1992.2 裁判の証言 ***** **** ~(前略~
私の家族は父と母、そして兄弟が7人で、兄弟は私も含めて女は4人、男は3人でした。父親の仕事は若い頃は何をしていたのか知りませんが、私の知っている限りでは大工をやっていました。家は貧しくて、一家そろって藁葺きの屋根の家に住んでいました。
私が17歳のときに、私の村に「日本の工場で働けば金儲けができる」という話が村の娘たちにもちかけられ、男たちが村の娘たちを集めにやって来ました。日本語と韓国語を話す見知らぬ男でしたが、韓国語が上手だったのでたぶん朝鮮人だと思います。
私もお金を稼ぐために日本の工場に行って働こうと思いました。その時にしていた仕事は、洗濯をしたり山に薪を取りに行ったりといった仕事をしていました。あまりよく覚えていませんが、私が故郷を後にしたのは暑くもなく寒くもなかったので、たぶん春か秋だったと思います。
初めは父も母も日本の工場に働きに行くことには反対していましたが、嫁に行くにはお金も必要だし、嫁に行く前に日本の工場に働きに行ってお金を稼ぎたいと私が思っていたので、仕方なく承諾しました。
日本へ行くことになった日、父は仕事で家を留守にしており、家には母がいました。娘たちは一ヵ所に集められてから釜山に行き、釜山から船に乗せられました。~(中略)~
船から降りたとき、そこが台湾だということも分かりませんでした。降りたときも船酔いの状態がひどかったので、船を降りてからまず病院に連れていかれました。
病院から家に連れていかれて、その後何日かたってから周りの人に「ここは台湾だ」ということを教えてもらって、そこで初めて台湾に連れて来られてたということが分かりました。
病院から工場に連れていかれるのかと思っていましたが、連れていかれたのは軍人相手に体を売る「慰安所」でした。その時だまされて連れてこられたことが分かりました。~(中略)~
その「慰安所」の主人には奥さんがいました。主人とは別に管理人がいて、言うことを聞かないと暴力をふるうのは管理人でした。
私はその「慰安所」で日本名を「ヒジコ」と呼ばれていました。私は「慰安所」に連れて来る日本の軍人からお金はもらっておらず、「慰安所」の主人からも一銭ももらっていません。
「慰安所」では日本語しか喋らせてもらえず、もし朝鮮の言葉で話をしたりすれば、相手は日本の軍人なので、それこそ叩き殺されるぐらいひどい目にあわされました。~(後略)~2002.7.30 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房 村にやって来た日本人男性に、日本にある工場での就職を斡旋すると持ちかけられる。(P.124)
ハルモニを村から連れ出した日本人男性は、その慰安所の主人だった。(P.125)2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店 連行されたのは一七歳になった年、一九四〇年に間違いないと思います。(P.103)
ある日、村に男が三人来ました。三人がバラバラに分かれてそれぞれ女たちを募集していました。うちに来た男は五〇代くらいの背の高い日本人でした。この日本人の男が三人の中の責任者のようでした。彼は朝鮮語を使いましたが、あまりうまくありませんでした。それで両親と私は、彼のことを日本で暮らしている朝鮮人だとばかり思っていたのですが、台湾に着いたときに日本人だと知りました。ほかの二人は朝鮮人だったと思います。その人は、私を日本の工場に入れてあげると言いました。私は日本でお金を儲けて両親に仕送りしたいと言いました。(P.103~104)
私を三浪津から連れて行った日本人の男がその家の主人でした。(P.106)
軍人たちは私を殴ったりしませんでした。(P.108)2007.2.10現在 ナヌムの家 HP
※リンク先は韓国語***** **** 軍隊慰安婦では 1940年 17才時行って 1945年 22歳に帰国した. 私が故郷で住む時男 3人が私たちの村で女 10人ほどを募集した. 日本工場に入れてくれると言った. 1940年 晩春ではなかった.~(中略)~
お客さんは主に日本軍人だったがには民間人もいた. 民間人はデマンオッを口は台湾人だった. 私はその慰安所にだけ 5年あった. 韓国で私を連れて行った人が慰安所の主人だった. 彼は日本人だった. 彼は私たちの外にも韓国で 15,16歳になる田舍娘たちをたくさん連れて来た. 慰安所には平均 20人余りの慰安婦があった. 韓国で代理で来る娘たちは私たちの慰安所を経って他の所に行った. しかしどこに行ったのか私は分からない.
◆◆◆ 宋神道(ソン・シンド) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1922年11月24日、忠清南道(チュンチョンナムド)生まれ。数え年12歳の時に父が死亡、1938年、16歳の時、母親が決めた結婚が嫌で嫁ぎ先から逃げ出し、以降、家にも帰れず、友達の家に泊まったり人の家の手伝いをしたりして過ごす。大田(テジョン)で、42、3歳の女性に「無理して嫁御に行く必要ない、戦地さ行けば国のために働くにもいいし、とにかく結婚なんかしなくてもよし、心配ない」と騙され、中国の武昌で慰安婦を強いられ、以降、戦地を転々とする。
戦後、日本人の元軍曹に「結婚して一緒に日本さ行こう」と誘われ日本へと向かうが、日本に到着すると捨てられる。以降、日本にて生活を送る。在日コリアン。
1993年4月5日、日本国に対し、「国会における公式謝罪」と「謝罪文の交付」を求めて東京地裁に提訴。2003年3月28日最高裁第二小法廷が上告棄却・上告受理棄却の決定を出し敗訴が確定した。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
無し。朝鮮人の女性(人間ブローカー)にそそのかされた後、新義州の紹介所(注)に集合し、高さんという朝鮮人の男に連れられて武昌の慰安所に行く。
(注)紹介所・・・簡単に言えば人身売買の仲介所。お金が必要な者が娘等を売ったり、人手の必要な者が人を買ったりする所。買い入れ先の選定にはある程度本人の意思が尊重されたようです。
【考察】
家に帰るに帰れずに他家の手伝い等をしていたところを、人間ブローカーに目を付けられて慰安婦として売られたという話です。証言によって、そのブローカーが男であったり女性であったりしますが、根本的なところでの証言の食い違いはないと言えるでしょう。
また、慰安所に行くことになった経緯について以下の通り記述されています。
「大田(テジョン)で、四十二、三ぐらいのばあさんが、無理して嫁御に行く必要ない、戦地さ行けば国のために働くにもいいし、とにかく結婚なんかしなくてもよし、心配ないと。なんだとかかんだとかうまいこと言ったから、その口車に乗ってそのババアにくっついて行ったわけだ。国のためって言われても分からないから。戦地と言っても分からないから。手任し足任せ。今考えたら、それが「慰安婦」になるってことだったんだよね。」(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」P.45)
果たして、同女が騙されたと言えるのか微妙なところです。「戦地」も分からないなら、仮に「兵隊を慰安する仕事」というような婉曲的な説明をされたところで理解できなかったでしょう。
恐らく、「それが「慰安婦」になるってことだったんだよね。」と述べているところを見ると、振り返って考えてみると慰安婦になることの説明はなされていたと言うことでしょう。
【信憑性】
全体として信憑性はあると思います。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1993.8 皇軍慰安所の女たち 川田文子 筑摩書房 家に帰れば婚家に追いやられることは目に見えている。神道は忠清南道の生まれ育った村を出、近くの町大田へ行った。
「嫁になど行かなくても、戦地に行って働けば金になり、一人で生きて行ける。戦地へ行って御国のために働かないか」と美しい身なりの初老の女性に誘われたのはそれから数か月後である。神道は大田で子守など他人の家の手伝いをしていた。寝るところを与えられ、日々食べさせてもらう他は何の報酬も得られなかった神道は、金になるという話に心惹かれた。戦地がどんな所か分からず、不安は残った。
神道を誘った初老の女性は、確か母の知合いで、神道の村にも娘を集めるため来たことがあった。後にその女性が“人間ブローカー”であることを知るのだが、神道が戦地行きを決めて間もなく、警察に連れて行かれ、二日間も拘留されて身体検査まで受けた。その検査は身が縮みあがるほど恥ずかしかった。(P.101~102)
初老の“人間ブローカー”は神道を平壌に連れて行った。平壌には大勢の若い娘が集められていた。神道は自分と同じ年頃の娘たちを見た時、こんなに大勢戦地に行くのだもの、なにも怖がることはないのだと少し気が楽になった。
その建物は、その後の経験で分かったのだが、娘たちを売り買いするいわば市場となっていた。戦地から軍の要請を受けてやって来た慰安所経営者やその雇用者である帳場と、各村や町で娘を集めた“人間ブローカー”との間で取引きがなされたのだ。人間ブローカーは、そこまで娘たちを連れて来るのにかかった経費にて手数料を上乗せした額を慰安所経営者あるいは帳場から受け取り、娘たちを引き渡す。その時慰安所経営者や帳場が支払った額は、そのまま娘たち一人一人の借金になった。娘たちは、前借金を一銭も受け取らなくても否応なしに借金を負わされてしまうのだ。神道は黄海道出身のコウさんという男に買われた。
数日後、娘たちは平壌を発ち、北上して満州に入り、さらに天津へと連れて行かれた。
戦地へ行って御国のために働けば金になると人間ブローカーから聞かされていたが、仕事の内容は知らされなかった。(P.104~105)
コウさんに連れられて神道らが武昌に着いた時、中国人の姿はほとんど見られなかった。日本軍侵攻を知って、家も家具なども放置して逃げ出してしまったようだ。中国人の姿を見かけるようになったのは、一、二か月経ってからである。~(中略)~
神道らは煉瓦造りの大きな建物に入れられた。裏手には山があったが、その建物の裏口を出たところに中国人の遺体が横たわっていた。殺されてまだ何日も経っていなかっただろうと思う。周囲には黒ずんだ血糊がべっとり付いていた。(P108)
(※2007.7.5 追加)1998.11.22 山形市集会 ***** **** そんな時、ある男が、「お国のために働いて、めしを食わせるところがあるからいかないか」と言ってくれた。 2005.6 イアンフとよばれた戦場の少女 川田文子 高文研 そんなある日、大田で四二、三歳くらいの女性に「戦地に行って、御国のために働かないか」と声をかけられました。~(中略)~その女性は、母親と同じ北朝鮮の出身で、母親とは知り合いだと、宋さんの気持ちを和らげるようにいいました。(P.51)
「人間ブローカー」に連れられて、大田を発つ時、他にふたりの娘も一緒でした。宋さんらは平壌を経て新義州に連れて行かれました。「人間ブローカー」は、紹介所という看板のある建物で、宋さんらをコウさんという朝鮮人男性に引き渡しました。新義州は、中国との国境の町です。新義州からの引率者はコウさんに変わりました。女性の数は十数人、若い人ばかりです。宋さんは年下の方でした。~(中略)~そこは武昌という町でした。(P.52~54)2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店 そうこうするうちに、大田で四十二、三ぐらいのばあさんが、無理して嫁御に行く必要ない、戦地さ行けば国のために働くにもいいし、とにかく結婚なんかしなくてもよし、心配ないと。なんだとかかんだとかうまいこと言ったからその口車に乗ってそのババアにくっついて行ったわけだ。国のためって言われても分からないから。戦地と言っても分からないから。手任し足任せ。今考えたら、それが「慰安婦」になるってことだったんだよね。~(中略)~平壌から新義州に行ったら「紹介所」って看板が掛かってて、オレと同じくらいの女やら、もっと年取った女やらいっぱいいたんだ。そこから高さんていう男の人に連れられて、汽車に乗って天津という所に行ったの。それから大きな汽船に乗って漢口へ。漢口からまた船に乗って武昌へ。(P.45)
◆◆◆ 朴永心(パク・ヨンシム) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1921.12.15平安南道(ピョンヤンナムド)南浦(ナムポ)市で生まれる。14歳の時、洋品店に奉公に出される。1939.8月17歳の時、「お金を稼げるいい仕事がある」という日本人の巡査に騙されて南京市内の慰安所に入れられる。1942年慰安所の主人と共にビルマ(※現ミャンマー)のラシオの慰安所に移り、しばらくして、さらに松山(※拉孟・中国雲南省)の慰安所に移る。松山にて中国兵の捕虜となる。
2000.12月、女性国際戦犯法廷で証言を行う。
2006.8月死去。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
同女を騙した日本人巡査に平壌駅で憲兵に引渡され、以降、その憲兵に南京の慰安所まで引率される。その憲兵には「逃げようとしたら殺すぞ」と脅される。
【考察】
同女が、自分であると証言している写真があるのですが、それは、1944年9月3日、松山(※拉孟・中国雲南省)にてアメリカ写真部隊が撮影したもので、「中国弟8軍の兵士によって捕虜にされた4人の日本人女性」と記されているものです。(※恐らく、日本人と朝鮮人の区別がつかなかったのでしょう)
「雲南・ビルマ最前線における慰安婦達-死者は語る」(浅野豊美)のレポートには「ラウンドアップ」と言う米兵向け新聞の当該写真の4人に対するインタビューが掲載されています。そのインタビューによると
○慰安婦達の年齢は、24歳から27歳
→ 1944年9月なら同女は満22歳で、数え年なら24歳。おそらく数え年を申告したのでしょう。
(※他ページで「22歳のはずだからおかしい」と指摘している所があったので敢えて記載)
○1942年に、シンガポールにて基地の世話や病院の手伝いをすると日本の官憲に騙された
→ 同女が朝鮮で騙されたのは1939年
○4人は「朝鮮(1942年6月発) → シンガポール・ラングーン経由 → 松山の慰安所」
→ 同女の証言は、以下の通りでかなり食い違っており、ビルマへと向かった時期だけは一致しています
「朝鮮(1939年発) → 南京の慰安所(1938年着・1942年初夏発)→
上海の港 → シンガポール・ラングーン経由 → ビルマのラシオの慰安所(1942年着)
→ 松山の慰安所」
インタビューでは4人は朝鮮から共に行動してきたことになっていますが、インタビュー時の状況も分からないので、この記事の内容をそのまま同女の証言と捉えることはできません。当時、身重のまま戦地を逃げ延びてきた同女が疲弊しきっていて、インタビューに参加しなかった可能性も十分あります。
また、南京では、同女がいた慰安所の建物も見つかっており、南京にいたというのも信憑性があります。(ただし、同建物の写真が掲載されている写真を見ましたが、どのくらい証言と一致しているのかは不明)
しかし、騙したのが「日本人巡査」で、南京の慰安所に連れていったのが「憲兵」というのは疑わしいと思っています。「慰安婦になった経緯」については、他の多くの元・従軍慰安婦も脚色や捏造を行っている所です。
同女の証言の最大の疑問点は以下の記述です。
「玄関を入ると正面に階段があり、薄暗い階段を上って二階に連れて行かれました。~(中略)~「キンスイ楼」の女たちを取り仕切っていたのは朝鮮人の夫婦でした。~(中略)~主人は私に日本の着物に着替えるように言いました。私は「なんでこんなものを着なければいけないのか」と抵抗したのですが、主人は大きな声でどなりながら無理やり私が来ている服をはぎ取ったのです。そして、「今日からおまえの名前は『歌丸』だ」と言いました」(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」P.23~25)
同女は、慰安所についてすぐに、初対面の慰安所の主人から「歌丸」という名前を付けられています。「歌丸」は他の慰安婦達のように、思いつきで適当に付けられた名前と違って、名前の中に「歌」という要素があって、歌が上手いから付けられたと考えるのが自然な名前です。そんな名前が、初見でろくに話してもいない同女にいきなり付けられるとは思えません。
しかも、同女は以下のような記載がある通り、実際に歌がうまいのです。
「私は、気晴らしによく朝鮮の歌を歌いました。そのうち日本兵のあいだで歌がうまいと評判になり、日本兵の前で歌わされることもありました。」(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」P.32)
「歌丸」は、同女が歌がうまかったから付けられた名前でしょう。慰安所の主人はこの名前を付ける前に「同女は歌がうまい」ということを知っていたはずです。
しかし、証言にはそんなことは書かれていません。つまり、「歌丸」という名前がつけられる前に、慰安所の主人がいつ、どうやって「同女は歌がうまい」ということを知ったのかという情報が抜け落ちていて、その代わりに「巡査に騙されて憲兵に連れて来られた」という情報があるわけです。
確たる証拠がありませんので推測の域を出ませんが、「巡査に騙されて憲兵に連れて来られた」というのは全くの嘘でしょう。本当は、「キーセンとして歌を披露していたところを慰安所経営者にスカウトされて、または騙されて慰安婦になった」というところではないでしょうか。少なくとも慰安所で始めてその主人と会ったと言うのは考えにくい話です。
-------------以下 2007.4.3追加-----------------------------------------------
また、同女が自ら証言する時は必ず、連行されたのは「1938年3月」だと証言しています。下記資料の米陸軍の調査報告には「1939年8月」とあり、また、「南京に連行される時『暑くて汗びっしょりになった』」(戦場の『慰安婦』-拉孟全滅戦を生き延びた朴永心の軌跡(P.20))とも話しており、真夏であったことは間違いなさそうですが、何故「3月」にこだわるのか疑問です。南京に行くことになったのは「8月」で、そもそも慰安婦となったきっかけとなる出来事が「3月」に起こったのではないでしょうか?
「歌丸」と「3月」に慰安所に入れられることになった本当の経緯が隠されていそうです。
なお、2005.5.19の朝鮮新報(以下「朝鮮」)と「戦場の『慰安婦』-拉孟全滅戦を生き延びた朴永心の軌跡」(以下「戦場」)では下記の通り証言内容に相違点があります。
<連行時の同女の同意の有無>
○「朝鮮」・・・「両親に聞かないといけない」と抵抗したが、無理やり車に乗せられた
○「戦場」・・・「お金が稼げる仕事がある」という言葉を信じた
無理やり連れて行かれたのが、無理やりではなくなっています。また、「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」では「お金を稼げるなら親孝行ができると思ってついて行くことにしたのです」(P.21)と、むしろ、同意したことになっています。
<南京の慰安所の様子>
○「朝鮮」・・・3階建てのレンガ造りの建物で、各部屋の大きさは2×2.5メートルくらい。
○「戦場」・・・2階建ての大きなレンガ造りの建物で各部屋は6畳ほど。
3階建てが2階建てになり、5㎡が6畳(約10㎡)と2倍の広さになっています。「戦場」には南京で見つかったとされる慰安所の写真が掲載されており、その建物に合わせて証言内容を変更したのでしょう。見つかったとされる建物が本当に同女がいた慰安所の建物か疑わしいものです。
<女性を殺し鍋で煮たスープ>
○「朝鮮」・・・日本人に肉入りのスープをもらい食べたら、要求に応じなかった朝鮮人の女性の肉で作ったスープだと笑いながら言われる
○「戦場」・・・そのような記述無し
あからさまなウソでしょう。
-------------以上 2007.4.3追加----------------------------------------------
蛇足ですが、上で述べた「ラウンドアップ」にも以下の通り日本の官憲が陸軍夫人部隊を募集したとの内容が記載されています。
○1942年の4月初め、日本の官憲が朝鮮の平壌近くの村に来た。彼らは、ポスターを貼ったり大会を開くなどして、シンガポールの後方基地勤務で基地内の世話をしたり病院の手伝いをする挺身隊(原文では、“WAC” organizations(※陸軍夫人部隊(管理人注)))の募集を始めた。
○応募の際に貰った1,500円(米ドルで12ドル:原文)で、治療代を工面した
私は、先に大金を受け取っていることから、業者が「今、官憲で応募しているアレだ」と騙したのではないかと思っています。(※挺身隊や従軍看護婦が応募の時点でお金を受け取ることなどなかっただろうと言う推測を元にしています。この事実関係については別途調査したいと思います)
【信憑性】
騙したのが「日本人巡査」で「憲兵」に引率されたというのは非常に疑わしいですが、否定できる確たる証拠はありません。
南京等で慰安婦をしていたのは本当でしょうが、時に人肉スープを食べさせられたと証言する等、所々、ウソが紛れている可能性大です。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1944 米陸軍の調査報告
※中国雲南省昆明での朝鮮人と日本人の捕虜の尋問データ***** **** 平安南道出身、23歳、Pak Yong-sim(パク・ヨンシム)。1939年8月朝鮮を出る 1999 雲南・ビルマ最前線における慰安婦達-死者は語る
※財団法人 女性のためのアジア平和国民基金「慰安婦」関係資料委員会 編「『慰安婦』問題調査報告・1999」に掲載されたレポートの一つ浅野豊美 **** この写真史料に映像として刻まれている松山の慰安婦については、2つの対応資料を米国と台湾で見つけることができた。最初に紹介したいのは、ワシントンのナショナルアーカイブに保存されている「ラウンドアップ」というビルマにいた米軍兵士の間で読まれていた新聞である。(P.63)
インタビューをもとにまとめられたこの記事によると、慰安婦達の年齢は、24歳から27歳で、捕虜となるまでの経緯は下のようであった。
1942年の4月初め、日本の官憲が朝鮮の平壌近くの村に来た。彼らは、ポスターを貼ったり大会を開くなどして、シンガポールの後方基地勤務で基地内の世話をしたり病院の手伝いをする挺身隊(原文では、“WAC(※陸軍夫人部隊(管理人注))” organizations)の募集を始めた。4人はどうしてもお金が必要だったのでそれに応じたという。ある女の子は、父親が農民で、ひざを怪我してしまったので、応募の際に貰った1,500円(米ドルで12ドル:原文)で、治療代を工面したという。そのような形で集められた18人の女の子の集団は、同年6月にいよいよ朝鮮から南へと出港することとなった。~(中略)~しかし、船が約束のシンガポールに立ち寄っただけで、そのまま通過してしまってからは心配な気持ちが広がり始めた。ビルマのラングーンから北へと向かう列車に積み込まれたときには、もはや逃れられないと運命を悟ったという。~(中略)~一団が、怒江最前線にある松山陣地に到着すると、4人はある1人の年上の日本人女性によって監督されることとなった。(P.64~65)2000.12.8 朝鮮日報「戦犯国際法廷で南北が日本側の責任を訴え」 ***** **** 17歳の時、連れて行かれた中国の南京、上海、雲南省などを転々とし、‘若春’という日本名で慰安生活を送った。性的奴隷になりたくなくて反抗したが、日本の軍人が振り回した短刀で首にけがを負った。今もその傷跡が残っている 2002.5 女性国際戦犯法廷の全記録・第5巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録 VAWW-NET Japan 緑風出版 一七歳のときでした。一九三八年三月だったと思います。ある日、日本の巡査が軍服に帯剣のいでたちで洋服店に現れました。彼はいい金儲けの口があるが行かないかというので、そのままついて行きました。そうして私は日本軍の性奴隷になったのです。~(中略)~最初に連れられて行ったのが南京でしたが、そこの「キンスイ」楼に入れられました。私はそこで歌丸という日本名で呼ばれました。そこで三年ほど性奴隷の生活を強要されたと思います。
たしか一九四二年頃だったと思います。ある朝、表へ呼ばれました。出てみると七名の別の女性たちもいました。皆朝鮮女性たちでした。一緒に行こうと言うのでした二名の日本人兵士がいました。その二名が私たちを監視しながら慰安所を後にしました。別の慰安所に行くというのです。2003.12 戦場の『慰安婦』-拉孟全滅戦を生き延びた朴永心の軌跡 西野瑠美子 明石書店 17歳のある日のことだった。店に赤い帽子を被り黒い制服を着た、見るからに恐ろしい形相の日本人の巡査が現れた。「お金が稼げる仕事があるが、お前もいかないか」巡査の日本語は片言しか分からなかったが、稼ぎのいい仕事があるという誘いは、永心の心を動かした。腰に付けたサーベルは怖かったが、巡査が怖かったからついていったのではない。「お金が稼げる仕事がある」という言葉を信じたのだという。一九三九年八月のことだった。永心は同じ村の二十二歳の娘らと一緒に平壌駅に連れていかれたが、そこにはすでに十数名の娘たちが集められていた。巡査は娘たちを憲兵に引渡すと、そそくさと姿を消した。(P.19~20)
慰安所の一階には、慰安所を管理する日本語の上手い朝鮮人夫婦が住んでいた。(P.21)2004.6.9 人民網「旧日本軍の『慰安所』取り壊さず保存か 南京市」 ***** **** 昨年10月、80歳を超える高齢の韓国人元慰安婦、朴永心さんが南京市を訪れ、利済巷の建物2棟を、「慰安所」が置かれた場所と確認した。 2005.5.19 朝鮮新報「<日本の過去を告発する>『慰安婦』として連行された朴永心さん(83)」 ***** **** 早くに母を亡くし、継母と炭鉱で働く父のもとで育った私は14歳の時、南浦市の洋服店で食事係として働いていた。1938年3月のある日、日本人巡査が店に来て、「いい仕事があるから紹介してやる」と言った。私は、「両親に聞かないといけない」と抵抗したが、無理やり車と汽車に乗せ、どこかに連れて行かれた。移動している間、監視が厳しくてトイレにも行けなかった。その時になって初めて「いい仕事があるのではない。騙された」と思ったが、時はすでに遅かった。
私が最初に連れて行かれたのは、中国・南京だった。南京には日本軍の兵営が多かったが、そのうちの一つから約500メートル離れたところに「慰安所」があった。「慰安所」は3階建てのレンガ造りの建物で、各部屋の大きさは2×2.5メートルくらい。部屋の中央にベッドが一つずつ置かれていた。
自分にあてがわれた部屋に入った瞬間、私は鳥肌が立ったが、ここで何が起きるかはまだわからなかった。軍人が部屋に入ってきて初めて何をされるか悟った私は、絶対応じないと抵抗した。するとその軍人は、殴る蹴るなどの暴行を加えた後、軍刀を私の首にあてがい、「これでも応じないか」と脅した。~(中略)~
日本人は本当にケモノのような奴らだ。ある日、「飯もろくに食ってないから、今日は肉入りスープをご馳走してやる」と言いながら、私たちにスープをくれた。何も知らずに食べた私たちを見て、奴らはそのスープは朝鮮の女の肉で作ったスープだと言いながら笑った。自分たちの要求に応じなかった女性を殺し、鍋で煮たというのだ。
(※2007.4.3資料追加)2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店 ある日、店に日本人の巡査がやって来ました。腰にサーベルをつけた怖い顔の男です。巡査は私に「お金が稼げるいい仕事があるから、おまえも行かないか」と誘いました。私は少しの日本語は分かりましたが、巡査が怖くてどんな仕事なのか詳しい話を聞くことができませんでした。でも、「お金が稼げる仕事だ」ということは理解でき、お金を稼げるなら親孝行ができると思ってついて行くことにしたのです。17歳の年、私は、同じ村の二十二歳の娘と一緒に平壌駅に連れて行かれました。~(中略)~巡査は、私たちを憲兵に引き渡すとそそくさと姿を消してしまいました。私たちは屋根のついた貨車(有蓋貨車)に詰め込まれました。~(中略)~一緒に乗り込んできた憲兵は「逃げようとしたら殺すぞ」と私たちを脅し、娘たちが互いに話すことも禁じました。~(中略)~降ろされたのは日本軍の駐屯地の近くのレンガ造りの建物で「キンスイ楼」という、日本軍慰安所でした。(P.21~23)
「キンスイ楼」の女たちを取り仕切っていたのは朝鮮人の夫婦でした。(P.24)
(※管理人注:同証言は「戦場の『慰安婦』-拉孟全滅戦を生き延びた朴永心の軌跡」等の資料を元に再編集したもの)