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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 文玉珠(ムン・オクチュ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1924.4.3大邱(テグ)生まれ。9歳の時、独立運動をしていた父が帰宅し長患いの後、死亡。暮らし向きは楽ではなかった。1940年16歳の時、帰宅途中に軍服を着た日本人に連行され、満州にて慰安婦生活を強いられる。約1年後、将校を騙して朝鮮に帰る。1942年、女中をしている時に友人から「食堂で働かないか」と誘われ、1942年にビルマ(現ミャンマー)にて慰安婦となる。慰安婦時に軍事郵便貯蓄にて26,145円の貯蓄をし、また、別途、5,000円を実家に送金。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」その他より)

1991年12月、金学順(キム・ハクスン)、金田きみ子(仮名)らと共に日本政府に謝罪と補償を求めて提訴。2004年11月最高裁棄却により敗訴確定。(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟)
1992年に日本の郵便局を相手に26,145円の貯金返還の訴訟を起こす。2003年3月最高裁上告棄却により敗訴確定。(戦時郵便貯金の払い戻し訴訟(別名:下関裁判))
1996.10.26死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

満州の慰安所に行った際は、帰宅途中に軍服を着た日本人に憲兵隊の事務室に連れて行かれ、翌日、普通の服を着た日本人と朝鮮人の男に引渡され、満州まで連れて行かれる。また、ビルマに行く際は朝鮮人の男女に引率され軍用船を使用。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)


【考察】

同女が慰安婦として3年弱の間に貯めた金額は、実家への送金分も含めると、31,135円。(※利息は含まず)
当時の大卒の初任給が100円から150円、陸軍参謀の年棒が6600円ですので、現在の貨幣価値に直すと、単純計算でも6千万円は超えます。(※現在の初任給を20万円として2000倍した)
当該軍事郵便貯金については、日本の敗戦と共に失効したものと勘違いしていて、その後、通帳もなくしてしまったようです。さらに、1965年の日韓基本条約に基づき、韓国は、1975年7月から2年間、貯金通帳など有価証券の支払いを受け付けていますが、これも知らなかったようです。なお、貯金原簿については 熊本貯金事務センターにて存在が確認されています。

金学順(キム・ハクスン)さんと同じく「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」で強制連行されたことに証言が変更されています。具体的に言うと、1942年にビルマに行く前に、「1940年に『軍服を着た日本人』に連行されて満州で慰安所に入れられ、日本人将校を騙して故郷まで帰ってきた」というエピソードが追加され、軍人に連行されたことになっています。
また、ビルマへ向かう際も、「釜山港から船に乗りました。船は軍用船六隻か七隻がいっしょに出発しましたが、私たちの乗った船がいちばん最後でした。私の記憶では、私のような女たちが三、四百人を超えるほどで、船中いっぱいだったように思います」と、他にもたくさん女性達がいて軍の関与を暗示する記述が加わっています。
ただし、金学順(キム・ハクスン)さんとは違い、次の通り、証言を変更した理由も記載されています。

「昨年、若い頃検番で知り合った李さんのすすめで、はじめてこの事実を申告した時にも、中国の話は明らかにしませんでした。その時は、はずかしいことをみんな話そうかどうしようかと迷って、南方へ行った話だけしました。けれども、私の話がみんな知られてしまった今、何をかくす必要があるかと思って、思い出すまま全部を話しました。今、すべてを話し終わって胸がすっとしました」(証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(P.179)

この言い訳を信じるか否かですが、強制連行の部分のみが都合よく、そっくり抜け落ちていたことには疑いの目を向けざるを得ません。

さらに、「文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の『慰安婦』だった私」(以下「文玉」)になると、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下「証言」)とまた内容が下記の通り異なってきます。

13歳の時、満州に行く前に福岡県大牟田で働いているのですが、そこは
 ○「証言」・・・遠い親戚で古物商
 ○「文玉」・・・親戚という記述はなく、売春宿
その家を逃げ出した理由が
 ○「証言」・・・約束した学校に行かせず、毎日、家の手伝いばかりさせていたから
 ○「文玉」・・・学校に行かせるというのはウソで、大きくなったら身売りさせられると分かったから

朝鮮に帰った後、16歳の時、満州の慰安所に行くことになったきっかけは
 ○「証言」・・・憲兵隊と思われる軍服を着た日本人に突然、路上で連れて行かれる
 ○「文玉」・・・日本人の憲兵と朝鮮人の憲兵と朝鮮人の刑事に突然、路上で連れて行かれる
→連行したのが1人から3人に増えています。

連行後、駅で引渡された相手が
 ○「証言」・・・普通の服を着た日本人の男と朝鮮人の男
 ○「文玉」・・・日本人憲兵と朝鮮人刑事
→一般人から憲兵と刑事に変わっています

満州で慰安所に入れられた際
 ○「証言」・・・女の人達に聞いて初めてそこが慰安所であることが分かる
 ○「文玉」・・・大牟田で働いていた時の経験ですぐに売春宿だと分かる

満州から逃げ帰る際、母が病気で死にそうだからと騙して証明書を発行してもらう相手が
 ○「証言」・・・主計将校(物品を管理する将校)
 ○「文玉」・・・憲兵

帰郷後、18歳の時、ビルマの慰安所に入るきっかけになったのが
 ○「証言」・・・偶然知り合った友達の誘い
 ○「文玉」・・・満州の慰安所で働いていた友達のヒトミとキファの誘い
→「文玉」では、なぜか、満州の慰安所にいたヒトミとキファまでもが朝鮮に帰ってきています。さらに、ビルマに行く途中で同じく満州の慰安所にいたアキミとヒフミにも再会しています。奇妙にも、満州時代の友達が4人もせいぞろいし、しかも、ビルマの同じ慰安所に入れられることなります。
なお、「証言」では、途中で出会ったのは満州の慰安所にいた金ケファのみになっています。(金ケファは、「文玉」で食堂で働こうと誘ったキファと同一か?)

釜山港から船に乗るのですが
 ○「証言」・・・同じにような女が3、400人超える程だった
 ○「文玉」・・・同じような女が150~200人ほど港に集まった
→同じような女が半分に減っています。

「文玉」では、満州の慰安所で働いていた4人の友達が偶然、ビルマの同じ慰安所で働いたことになっており、この偶然はあまりにも出来すぎでしょう。しかも、友達と偶然の再会を果たした場所から彼女らを引率したマツモトという朝鮮人はビルマの慰安所の主人でもあり、顔見知りだったと記述されています。おそらく、満州から朝鮮への帰郷はなく、単に満州からビルマへとマツモトという慰安所経営者に引き連れられて移動しただけでしょう。
また、日本で働いていた場所が売春宿だったことを考えると、「朝鮮→強制連行→満州の慰安所」もさらに疑わしいものになります。

これら一連の変更を考慮して実際、どうだったのかを推理してみると

 1)日本の売春宿で働いていた
 2)身売りを強要され拒否したから、または、その他の理由で満州の慰安所に売られた
 3)満州の慰安所からビルマの慰安所に移った

と言うところではないでしょうか。


なお、「裁判の訴状」では、

「毎晩、集まった切符を文玉珠らは、松本に渡し、月に一回、半額が現金で女性たちに渡された」

と、揚げ高の半額を給料として受け取ったと証言しているのに、「文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の『慰安婦』だった私」では

「マツモトは、わたしたちから切符を受け取るだけですこしも金をくれなかった。食べ物や着るもの、ちょっとした化粧品を買いたかった。わたしたちは一致団結してストライキを打つことにした。いつもわたしがリーダーとなって、金をくれないのなら働かないといって交渉した。そうやって実力行動を起こしたときだけ、マツモトは金をわずかばかり、そう一円か二円だけくれるのだった。」

と、慰安所経営者の松本は給料をくれずに、ストライキをした時だけ1円、2円もらえたと証言しています。
元・慰安婦の「お金は一円ももらってません」という証言はよく耳にしますが、それが如何にいい加減なものかが良く分かります。


【信憑性】

同女の証言の強制連行の部分については信憑性がないと言えるでしょう。

なお、蛇足ですが、「文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の『慰安婦』だった私」を読んでみると、同女が聡明な方で、死と隣り合わせに戦っていた兵士達がまさに慰安されていたことが分かります。多くの貯金をためることが出来たのも、この方がそれだけ「チップをあげたい」「便宜を図ってあげたい」と思わせる方だったからでしょう。
全くお話しにならない元・従軍慰安婦の方がいるのも事実ですが、ウソつき呼ばわりして単に否定したり、やたら被害者であることを強調したりするだけでなく、時には、我々のおじいさん、ひいおじいさん達が戦場で、慰安婦の方々に慰め勇気付けられていたという事実に思いを馳せてみることも必要でしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1991 裁判の訴状 ***** ****
貧しい人だけが行く私立の夜間学校に三年間行ったところで、お金がなく中退せざるを得なかった。その後、朝鮮人や日本人の家の女中に行き、洗濯や掃除をした。五年くらい女中をしてから、家の近くの靴下の家内工場で二~三年間働いた。その後しばらく家にいた。当時は仕事があまりなく、失業をしていたのである。そんな時に、文玉珠は少し顔を知っていた男から「ちょっと遠いところだが、食堂で働けばお金が儲かる」という話を聞かされた。その男は大邱に住んでいる朝鮮人だが、洋服を着てネクタイをして靴を履いていた。その男の姓は宋(ソン)で、日本名は松本と言った。
どこへ行くのか聞いたら、はっきりと教えてくれなかったが、「暖かい国だ」と言ったので、外国に行くのだと思った。松本は「故郷に金を送ったら家族が楽に暮らせるというので、文玉珠は生活が苦しいので、やむなく行くことにした。
二十日後に出発することになった。家族に知られたら叱られて行かせてもらえないので、誰にも知らせないまま家を出た。従って、家からは何も持ち出せなかった。出発前にはお金は貰えず、着いてから必要なものは何でもくれるということをきかされた。
一九四二年七月九日に、今と同じ場所にあった大邱駅から汽車で釜山に出発した。~(中略)~

慰安所受付で、兵隊は料金と引き替えに慰安所切符を受け取り、部屋に入り文玉珠らに渡していた。毎晩、集まった切符を文玉珠らは、松本に渡し、月に一回、半額が現金で女性たちに渡された。しかし、このなかからご飯のおかずや服やたばこを自分で買い、つらい時は、酒も飲んだので、みんな生活費になってしまった。貯金した一万五千円のお金は、兵隊からのチップであった。慰安所のある所には、「野戦郵便局」があり、兵隊が利用していた。一般の人は利用できなかった。慰安婦は軍属扱いであったので、文玉珠もここに貯金していた。自分で行ったり、兵隊に頼んだりした。~(後略)~
1992.5.22 毎日新聞 ***** ****
一九四三年から一九四五年の間十二回振り込みがあり、その預金残高は二万六一四五円に上っている。
1992.8.10 <証言>従軍慰安婦・女子勤労挺身隊 伊藤孝司 風媒社
そんな時に、会えば挨拶する程度の顔見知りの男の人から「ちょっと遠い所だが、食堂で働けばお金が儲かる」という話があったんです。その人は大邱に住んでいる朝鮮人ですが、洋服を着てネクタイをして靴を履いていました。~(中略)~その男の姓は「宋(ソン)」で、日本名は「松本」と言いました。年は四〇歳くらいでした。(P.80)
一九四二年の七月九日に、今と同じ場所にあった大邱駅から汽車で釜山(プサン)に出発しました。(P.81)

(※2007.4.6追加)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 そんな時に、会えば挨拶する程度の顔見知りの男の人から、「ちょっと遠い所だが食堂で働けばお金がもうかる」という話があったのです。その人は大邱に住んでいる朝鮮人ですが、洋服を着てネクタイをして靴を履いていました。その頃は、こんな服装をしているのは刑事などの限られた職業の人だけだったのです。その男の姓は「宋」で、日本名は「松本」と言いました。年は40歳くらいで、日本語も上手でした。
 どこへ行くのか聞いたら、はっきり教えてはくれませんでしたが、「暖かい国だ」と言ったので、外国に行くのだと思いました。松本は「故郷に金を送ったら家族が楽に暮らせる」と言うので行くことにしたのです。家族に知られたら反対されるので、誰にも知らせないまま家を出ました。(P.26)

(※2007.4.22追加)
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 私が十三歳になった頃でした。父方か母方かはよくわかりませんが、日本に住んでいた遠い親戚がうちの田舎に訪ねて来ました。その時、その人たちは母に、お使いでもさせながら、本当の娘のように学校にもやり、いい人をみつけてお嫁にも行かせるから、私を日本に連れて行かせてほしいと頼みました。勉強させてやれないことにいつも心を痛めていた母は、二言もなく承諾し、私も勉強できると思って、その親戚について日本に向かいました。親戚の家は福岡の大牟田にあり、大勢の人夫を使って古物商をしていました。~(中略)~長い髪を切られて悲しんでいる私の気持ちなど知らんぷりで、約束した学校には行かせず、毎日、台所の洗いもの、洗濯、掃除や、自分の子どもの世話ばかり見させようとしました。六ヵ月ほどこうして過ごしましたが、しまいにはなぜ私がこうしていなければならないのか、腹立たしくなりました。それで、私は古物商の人たちのお使いをして、もらったお金を貯めはじめました。そうして、その人たちに家に帰る方法を聞いておき、だまってその家を出てしまいました。(P.160~161)

 一九四〇年
、私は、満十六歳になりました。この年の秋の暮れ頃でした。~(中略)~ハルコ(※日本名を使っている朝鮮人の友達(管理人注))の家を出て自分の家に帰りかけました。まだいくらも歩かないうちに、軍服を着た日本人が私に近寄って来ました。彼は、突然、私の腕を引っ張って、日本語で何か言いました。その頃は、巡査という言葉を聞くことさえ恐ろしい時代だったので、私は何も言えず彼に引っ張られるまま連れて行かれました。連れていかれた先は、憲兵隊ではないかと思われます。そこには、私と同じ年頃の女の子が一人先に来ていました。~(中略)~次の朝になると、軍服を着た日本人は、私たちを外へ連れ出しました。彼は私たちを駅前に連れて行って、普通の服を着た日本人の男と朝鮮人の男に渡しました。~(中略)~私たちは当時の中国東北部、逃安城というところで汽車を降りました。~(中略)~
 先に来ていた女たちは二十人ほどでした。私は「こんなところになぜ女の人たちがたくさんいるのだろう」といぶかしく思いながらも、疲れていたので、その日は何も考えずに寝てしまいました。次の日、私は女の人たちに「ここは何をするところなの」と聞きました。すると、誰かが、「あんたたち、お金をもらって来たんじゃないの?」と聞き返しました。私が「いいえ、捕まえられて来たの」というと、その人は「ここは慰安所で、軍人たちがお客に来るところなのよ」と言いました。私が「軍人が来るからといって、私たちとどう関係あるの」と言うと、その人はひどく困ったように「軍人たちが寝ることところなのよ」と言いました。その人たちの説明や、くやしそうなようすをみても、私には、軍人が寝ることと自分がどう関係があるのか理解できませんでした。(P.162~164)

 いっしょにいた人の中では、金ケファと、大邱からいっしょに来たフミコの名を覚えています。慰安婦生活をほとんど五年から十年もしているという人もたくさんいました。私は憲兵に捕まる前から「フミハラ(文原)」という姓を使っていましたが、その頃有名だった映画を見て、そこに出てくる女優の名をとって「ナミコ」と名をつけました。(P165)

 来てからちょうど一年ばかりたった九月でした。主計将校が私に、慰安所の外で所帯をもっていっしょに暮らそうと言いだしました。そこで私は彼に、「私が連れて来られた時、母が病気で死にそうでした。だから、あなたといっしょに暮らす前に、まず朝鮮に行かせて下さい。行ってきたら、きっといっしょになります」と言いました。そんなことを言って哀願する私に、彼は、本当に帰って来るねと何度も念を押しながら朝鮮に往復できる証明書を出してくれました。(P.166)

 大明洞の近所に、偶然知りあった友人が一人いました。一九四二年七月はじめ、この友人が「お金をたくさんくれる食堂に行こうと思うんだけど、あんたも行かない?」と聞きました。私はもうだめにされた身体だと思っていたので、どうせのことならお金でもたくさん稼ごうと思って、すぐ承知しました。次の日、私は家族にもだまってそっと家を出て、その友人といっしょに釜山行きの列車に身を託しました。私は何としてもお金をもうけて、私たちのために苦労している母を助けてあげたかったのです。
 釜山に着くと、駅前には二人の男女が待っていました。二人とも朝鮮人でしたが、男は松本といって、後でわかったことですが、私たちを管理する人でした。そして、女の方は私たちと同じ慰安婦で、ただその男について出てきたようです。この二人は、まごまごしている私たちをある旅館に連れて行きました。そこには、すでに十五、六人の女たちが来ていました。ここで、私は満州でいっしょに過ごした金ケファと再会しました。私は一方でうれしく思いながらも、本当にびっくりしました。~(中略)~
 私たち十八人は、一九四二年七月十日、釜山港から船に乗りました。船は軍用船で、六隻か七隻がいっしょに出発しましたが、私たちの乗った船がいちばん最後でした。私の記憶では、私のような女たちが三、四百人を超えるほどで、船中いったいだったように思います。~(中略)~
 私たちは紆余曲折のあげく、台湾、シンガポールを経てビルマ(ミャンマー)に到着しました。(P.167~168)

 私は創始改名による姓の「文原」をそのまま使い、名前は「ヨシコ」とつけました。マンダレー以来、私は物品を管理しているホンダ・ミネオと次第に親しくなりました。(P.171)

 そこで、私はまた軍部隊に行って、母親が亡くなったので葬式の費用に金を送りたいと頼み、いくらかのお金を家に送りました。私の通帳にはそれでもまだお金がかなりたくさんありましたが、ビルマのどこかで通帳をなくしてしまいました。その当時、お金を送る時に、ある軍人が全額送れと言いましたが、私も将来故郷に帰ったら生活が苦しいだろうからと思って、とっておいたお金でした。
 お金の話が出たので、お話しすることですが、私はお金を貯めるために本当に努力しました。アキヤブにいた時、将校たちは、日本語もうまいし歌も上手だといって私をほめてくれました。そして、誕生日のパーティーや送別会をする時には朝鮮人の中では文原ヨシコのほかにはいないといって、日本人慰安婦といっしょに私をよんでくれました。そうすると、私たちは決められた場所に行ってお酒のお酌もし、踊りを踊ったり、歌を歌ったりするのですが、一週間に二、三度はそんなことがあって、その度によばれて行きました。上手に相手をつとめると彼らはチップをはずんでくれるので、私はこの金を使わずに貯金しました。
 私はそれほど可愛い方ではありませんでしたが、「とてもきれいだ」といった馴染みの将校たちが、時々、私の部屋にやってきて泊まって行き、彼らが来ると兵士たちは入って来ませんでした。この時将校たちにもらった金も使わずに貯めました。こうして貯めたお金の他にも、酒やたばこもただでもらうことが多かったので、私はお金ができると、少しずつ野戦郵便局に貯蓄しました。そしてその後もお金ができれば、通帳に積み立てておいたのです。(P.175~176)
1996.2 文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私 森川万智子 梨の木舎
 わたしは十二歳になっていた。
 そのころ、日本の九州大牟田で料理屋をしているという夫婦が訪ねてきた。その主人は六十歳くらい、妻は四十歳くらいだったと思う。
 「商売が繁盛していて人手が足りない。子供たち二人が放りっぱなしなので、子守をしてもらえないだろうか。きてくれるのだったら学校にもやってやろう、ゆくゆくは自分の家から立派に嫁にもだしてやろう」といった。~(中略)~
 店はなるほど繁盛していた。わたしは突然、朝から晩まで騒然としている調理場に放りこまれた。学校に行かせてもらえるどころか、毎日、子守、掃除、洗濯。それから一日中、薪を燃やしている竈の火の番、使い走りといった用事をいいつけられた。とにかくじっとしている暇はなく、なんとも忙しいところだった。
 「大牟田市中島町釜山館」
 忘れられない住所と屋号だ。中島町というのは男たちが遊ぶ街だった。釜山館は「乙種料理屋」といっていたが、売春宿だった。(P.19~21)

 大牟田には五、六ヵ月もいただろうか。大牟田で十三歳の誕生日がきたのを憶えているが、それほど長くはいなかった。というのは、「学校に行かしてやる、お嫁にもだしてやる」という主人の言葉は真っ赤なうそで、何年か釜山館の下働きをして体が大きくなったら、わたしも身を売らなければならなくなるということがわかったからだった。(P23)

 わたしはそのとき十六歳になっていた。~(中略)~夕方、歩いて二十分ほどの家に帰る途中、「ちょっとこい」と呼び止められた。日本人の憲兵と、朝鮮人の憲兵と、朝鮮人の刑事だった。わたしは怖くて声も出ない。後をついていった。なんの用かと聞くことなど、とてもできなかった。朝鮮人であるわたしたちにとって、憲兵といったら、この世でいちばん恐ろしい存在だった。~(中略)~連れて行かれたのは憲兵の詰め所だった。そこには少女が一人いた。~(中略)~翌朝、わたしと少女は大邱駅から汽車に乗せられた。別の日本人憲兵と朝鮮人刑事に引渡された。(P.28~29)

 連れていかれた家は大きな民家で、部屋がたくさんあった。「グンポール」という名がついていた。二十人ほどの朝鮮人の若い女たちがいた。そのうちの三人ほどは赤色や桃色の派手な日本の着物を着ていた。わたしはすぐに大牟田の釜山館と芸者や女郎のねえさんたちを思い出して、ここは男の相手をする家だということがわかった主人は朝鮮人の六十歳くらいの男だった。(P.30)

 女たちはみんな大邱から引っ張られてきていた。名前はヒフミ、カナリヤ、キミコ、ハツコ、ヒトミ、キファ、アキミ、ヒロコなどといった。日本の名前をつけろと主人にいわれ、わたしは、そのころ流行った映画『不如帰(ほととぎす)』の主人公の武雄と波子にちなんで、ナミコに決めた。(P.31)

 わたしを特別に可愛がってくれている憲兵に頼んでみた。その憲兵が許可をだす権限をもっている、ということは知っていた。だから、わたしはずっと「憲兵さん、憲兵さん」といって、気に入ってもらえるように振る舞っていたのだ。
 「母が病気だから大邱に戻って看病したいのです。かならず戻ってくるから、汽車の切符を買うための証明書を書いてください。」
 憲兵は証明書を出してくれた。主人にも「かならず帰ってくるから、おねがいです」となんどもいって慰安所を出してもらった。
 一緒に釜山行きの汽車に乗ったのは、肺病になって働けなくなった二人と、仮病を使ったもう一人と、わたしの四人。友達の名前は憶えていない。(P.36~37)

 わたしは十八歳。若かった。「日本軍の食堂に働きに行こうよ。金もうけできるよ。」とわたしを誘いにきたのは、ヒトミとキファの姉妹だった。トアンショウのグンポールで働いていたときの友達で、そのときは近所に住んでいた。~(中略)~
 二日後、母にはいわず、ヒトミとキファと三人で列車で釜山に向かった。いえば反対されるに決まっている。荷物は着替えを二、三枚とタオルを入れた小さな手提げ袋だけだった。金も少ししか持っていなかった。
 指定された甲乙旅館という名の旅館に行って、わたしはびっくり仰天した。アキミが、ヒフミがいる。トアンショウで一緒だった友達がそこにきている。わたしたちは奇遇を喜んで、「まあ、どうしたの、あなたも南の国にいくの、一緒でよかったね」といい合った。きょうはここで一晩泊まるのだ、といわれた。そこには、マツモトという朝鮮人の男と、六十歳をすぎた朝鮮人の男と、その甥がいた。この男たちがわたしたちを引率したのだった。マツモトは顔見知りの男だった。~(中略)~
 マツモトに引率されて軍専用の岸壁にいった。そこには百五十人から二百人ほどの娘たちが集まっていた。(P.45~46)

 「だまされてきたんだなあ、かわいそうに。おまえたちは間違ったよ、ここはピー屋(慰安所)なんだ。」娘たちは天地がひっくりかえるほど仰天した。ピー屋が何をするところか、知らない娘もたくさんいる。でも、わたしは少し違った。驚くには驚いたけれど、その瞬間、ああ、やはりそうかと、と妙に納得したのを憶えている。(P.56)

 マツモトは、わたしたちから切符を受け取るだけですこしも金をくれなかった。食べ物や着るもの、ちょっとした化粧品を買いたかった。わたしたちは一致団結してストライキを打つことにした。いつもわたしがリーダーとなって、金をくれないのなら働かないといって交渉した。そうやって実力行動を起こしたときだけ、マツモトは金をわずかばかり、そう一円か二円だけくれるのだった
 わたしの手もとには、少しずつもらったチップが貯まって大きな金額になった。(P.75)

 またつらいことが起きた。トアンショウでも一緒だった二つ年上のアキミが血を吐いたのだ。(P.82)

 同じ組の六人、つまりヒトミとキファ姉妹、ツバメ、ヒロコ、ヒフミ、そしてわたしで、なんとか故郷に帰る方法はないかと考えた。(P.114)

 アユタヤの病院にいたときには、母に送金もした。
 ラングーンで受け取っていた母からの電報を将校にみせて、「母の葬式に金がいるから、お金を送りたい」というと、許可がでた。貯金からおろして五千円を送金した。係の兵隊にたのむと、「貯金があるのなら、ぜんぶ送ったほうがいい」といった。わたしは、「あとのお金は、朝鮮に帰ってからおろすからいいです」と答えて送らなかった。届くかどうか心配だったし、せっかく貯めた貯金がなくなるのも心細かった。(P.137~138)


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