元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 匿名 ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
6年制の小学校に通った後、看護婦として働く。1943年17歳の時、日本人に「東南アジアで働く看護婦を募集している」と騙され、チモールで慰安婦を強いられる。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
日本の民間人に騙された後、軍用船でチモールに向かう。
【考察】
同女の証言の疑問点は以下の通りです。
<東南アジアで働く看護婦に応募した理由が意味不明>
・・・看護婦をしていた同女は、日本人に「東南アジアで働く看護婦を募集している」と騙され、応募しますが、その理由を「その病院で働いていても将来があるわけではなかったので」と語っています。
なぜ、台湾の病院で働くことには将来がなく、また、東南アジアで働くと将来があると考えたのでしょうか。
<司令官が同女たちを強姦>
・・・同女たち(10人以上)は、処女かどうか調べられた後、「太った四〇歳くらいの司令官が私たち一人ひとりを強姦しました」とあります。その司令官は10人以上を一度に強姦したことになります。いくらなんでも無理でしょう。
<戦後に報酬として日本の軍票を受け取る>
・・・終戦後、同女は台湾行きの船を待つ間、陸軍の手配により配給所で働いています。その時、「そこで働いてお金を残し、銀行に日本の軍票で一万ドル以上貯金しました」と証言しています。終戦後に日本の軍票を受け取り、しかも、銀行が既に無価値となっている日本の軍票を預金として受け入れるなどありえないでしょう。
また、同女が言う「陸軍」はどこの「陸軍」なのでしょうか。日本の陸軍が終戦後に、配給所の仕事を斡旋したとも思えませんし、アメリカの陸軍でしょうか?しかし、配給所の給料は日本の軍票で支払われたことになっています。奇妙な証言です。
「慰安所で受け取った金」をごまかす為に、「終戦後に働いてもらった金」であると嘘をついているとしか思えません。
さらに、何故、ここで「ドル」が出てくるのか訳が分かりません。日本の軍票なら「円」しかありえないでしょう。米軍の配給所で働いたので「ドル」だったと言っているのでしょうか?
仮に、この「ドル」が「台湾ドル」(注1)のことだとすると、現在の換算相場では、1台湾ドル=3.6円なので1万ドル=3.6万円。また、「米ドル」だとすると、同じく約120万円。
あくまで、現在の換算相場で計算したものなので実際の価値は不明ですが、陸軍参謀の年棒が6000円の時代に5ヶ月間(注2)で、配給所でかなりの金額を稼いだようです。ありえないでしょう。
(注1)「台湾ドル」は、通貨の換算相場上の呼称。実際の台湾の紙幣は「圓」となっているようです。
(注2)同女は終戦後に配給所で働き始めて、1945年中に台湾に帰ったと証言しているので、配給所で働いていた期間は最大に見積もって1945年8月~12月で5ヶ月。
<退職手当300ドルの軍票>
・・・300台湾ドルは現在の相場で換算すれば1080円(米ドルなら3.6万円)。この退職手当を5ヶ月働いた配給所でもらえたとは思えませんし、慰安所から出た退職手当でしょう。退職手当が出るとは、それなりに良心的な慰安所だったようです。
【信憑性】
内容が希薄な上、短い中で疑問点があり、また、終戦後に報酬として日本の軍票を受け取ったと語るなど、あからさまな矛盾を披露しています。
信憑性はないでしょう。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1993.5 アジアの声 第7集
世界に問われる日本の戦後処理①
「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録国際公聴会実行委員会 東方出版 私は一人っ子でした。両親にとても大事に育てられました。六年制の小学校にも行かせてもらいました。卒業後は、看護婦として四年間病院で働きました。一七歳のとき(一九四三年)、ある日本人(一般人)が東南アジアで働く看護婦を募集しているということを、友人から聞きました。その病院で働いていても将来があるわけではなかったので、私はそれに応募して女性たちの仲間に加わりました。その時、まだ本当の事を知らない私は大変喜んでいました。
そのグループには一〇人以上の娘が入っていました。皆、看護婦になると信じていました。軍用船のアサママル(浅間丸)に乗って一ヵ月かかりチモールに着きました。オーストラリアを攻撃するための日本軍の基地がそこにありました。私たちは人も住まない山の中に連れて行かれ、ココナッツの葉でできた家に入れられました。最初は、家には何も掲示がかかっていなかったのですが、すぐ後に「慰安所」と書かれた板が張られました。
最初の週に、娘たちが処女かどうか調べるために軍医が来ました。私たち全員をです。その後、とても太った四〇歳くらいの司令官が私たち一人ひとりを強姦しました。そして、毎日午後一時から五時まで、七人から最高一〇人までの「客」に「つく」よう言われました。どの部隊が何人慰安所に行ってよいか、軍が順番を決めていました。兵士たちには出かける前に番号つきの切符が配られました。トラックに乗って慰安所に来て、番号に該当する女性を見つけるのです。夕方になれば私たちは、いつも皆で泣きながら夕食を食べ、涙が手の中の食べ物にこぼれ落ちたものです。夕食後、今度は上官たちが来て一夜を過ごして帰りました。
道の向こうには朝鮮人女性の慰安所があり、一〇人から二〇人の女性たちがいました。彼女たちは陸軍に、私たちは海軍に属していました。戦争が終わる数ヵ月前は、毎晩空襲がありました。三人の娘が死にました。私たちの生命は軍の手の中にありました。私たちは動物のように見られていました。殺そうと虐待しようと彼らの意のままです。人間らしい扱いはまったくありませんでした。
一九四五年に戦争が終わって、私たちはスラバヤに送られ、そこで台湾行きの船を待つことになりました。陸軍が私たちに「配給所」で働くよう手配をしてくれました。
そこで働いてお金を残し、銀行に日本の軍票で一万ドル以上貯金しました。一九四五年、私は台湾に送り返されました。(P.104~105)
受け取ったのは、退職手当の三〇〇ドルの軍票だけでした。戦争が終わったら、私の銀行貯金はわずかな価値に減ってしまいました。強姦と、無茶苦茶にされた青春と、不幸な一生の代償に得たお金が、突然なくなってしまうことに私は耐えられないので、お金は引き出していません。その後、私は貯金通帳をなくしましたが、一緒にチモールへ行った友達はまだそれを持っています。(P.106)1993.7 写真記録 破られた沈黙 ―アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社 小学校卒業後、看護婦として4年間病院で働きました。17歳の時、友人から「ある日本の民間人が東南アジアで働く看護婦を募集している」という話を聞きました。本当のことを知らない私は、それに応募して大変喜んでいました。
看護婦をするものと信じていた10人の女性が、軍用船の浅間丸で1ヵ月かかってチモール島に行きました。オーストラリアを攻撃するための日本軍の基地がそこにあったのです。ココナツの葉でできた家に入れられました。ここには後から「慰安所」と書かれた板が張られました。
最初の週の内に、私たちが処女かどうかを調べるために軍医が来ました。次に、とても太った司令官が自分の部屋に私を連れて行ったのです。そして「寝ろ」と言ってから私を強姦したのです。
兵士たちには「慰安所」に来る前に、番号付きの切符が配られていました。トラックに乗って「慰安所」に来て、番号に該当する女性を見つけるのです。
昼間は兵隊、夜は大尉とか中尉たちが来ました。道の向こうには朝鮮人女性の「慰安所」があり、10~20人の女性がいました。私たちは海軍でしたが、彼女たちは陸軍に属していました。
戦争が終わる数ヵ月前は、毎晩のように空襲がありました。そのため朝鮮人の女性たちが帰国するために乗った船が、爆弾で沈没したのです。私たちも帰国したかったのですが、このことであきらめました。特攻隊の兵隊は戻って来ないし、とても悲しい時期でした。
私たちはいつも皆で泣きながら夕食を食べましたが、涙で食べ物にこぼれ落ちました。
戦争が終わって私たちはスラバヤに移され、そこで台湾への船を待ちました。その間、私たちが「配給所」で働くように陸軍が手配しました。
この残忍な犯罪に対して日本政府に抗議します。人間としての尊厳を私たちに戻してください。謝罪してください。そして犯した罪に対し、私たちに補償をしてください。(P.129~130)
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◆◆◆ 鄭玉順(チョン・オクスン) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1920年12月28日、咸鏡南道豊山郡で生まれる。1933年6月に井戸で水を汲んでいたところ、日本の守備兵に拉致され、駐在所に連れて行かれ警官に強姦される。その後、恵山(ヘサン)にあった日本陸軍の守備隊に連行され、兵隊の性の相手をさせられる。1935年9月に中国の広州に移動し、1936年6月、逃亡を図るが2日後に捕まり、拷問を受けた後、捨てられ、中国人男性に助けられる。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
日本の守備兵に警察署へ拉致され、その後、兵隊にトラックに乗せられ中国東北地方の国境地帯の日本軍守備隊に連れて行かれる。
【考察】
他の多くの北朝鮮の証言者と同じく、慰安所の建物や生活の様子はなく、日本兵の残虐行為の話に終始した内容になっています。
残虐行為は、「人肉スープ」や「子宮への焼いた鉄棒挿入」、「水拷問」等、これでもかというくらい登場します。証言を国連の報告に使用するということで奮発したのでしょうか。
また、他の証言者には見られない「刺青」というものも出てきます(実際に同女の体には落書きのような刺青の跡が残っている)。「兵隊たちは、殺す前に女性たちの肉体に落書きしたのだ」(「平壌からの告発」)とありますが、拷問をした後、殺す前に刺青をするとは、どのような発想に基いてのことでしょうか。全く見当がつきません。
「クマラスワミ報告」によると、同女が入れられた恵山(中国東北地方と朝鮮の国境地帯)の守備隊には約400人の朝鮮人女性がいて、毎日5000人以上の兵隊の相手をしたそうです。その守備隊にはいったい何万人の兵隊がいたのでしょうか。
また、同女は一日に40人も相手をしたとも証言しています。400人の女性がいて、5000人の兵隊なら単純計算で一人頭、12.5人。40人も相手にする必要がありません。
さらに、「平壌からの告発」では異常に細かく日付が記載されています。
・拉致された日・・・1933年6月3日
・15人の女性が殺された日・・・1933年8月27日
・オ・チョンヘが殺された日・・・1933年12月1日
・オ・ズンイが殺された日・・・1934年2月4日
・逃亡した日・・・1936年6月15日
日付があった方が信憑性が高いとでも考えたのでしょうか。普通、ここまで細かく日付など覚えていないでしょう。
なお、「クマラスワミ報告」(以下、「クマ」)と「平壌からの告発」(以下、「平壌」)を比較すると以下の通り相違点があります。
<拉致された年>
○「クマ」・・・13歳の6月(西暦の記載なし)
○「平壌」・・・1933年6月(年齢の記載なし)
→ 1920年12月生まれなら、1933年6月は満12歳、数え年14歳で13歳ではありません。「クマ」の13歳は単純な計算ミスでしょうか。
<同女を拉致した人物>
○「クマ」・・・一人の日本の守備兵
○「平壌」・・・制服を着た三人の男
→ 制服とは軍服のことでしょうか。一人だったのが三人に増えました。
<警察で強姦される歳に口に入れられた物>
○「クマ」・・・靴下
○「平壌」・・・汚い布
→ 大した違いではありません。靴下を汚い布と表現しただけでしょう。
<釘の出た板の上を転がされた理由>
○「クマ」・・・「どうして一日に40人もの大勢の相手をしなければならないのか」と尋ねて、質問したことを罰するため
○「平壌」・・・兵隊が「兵隊一〇〇人の相手ができるのは誰か」と聞いて、その時に手を上げなかったから
→ 理由が全然違っています。
<釘の出た板の上を転がされた人数>
○「クマ」・・・1人の朝鮮の少女
○「平壌」・・・手を上げなかった15人の女性
→ 1人から15人に増えました。
<焼けた鉄棒を陰部に入れられた理由>
○「クマ」・・・性病にかかった朝鮮人少女を「無菌化」するため
○「平壌」・・・梅毒にかかったことを知らせずに将校にうつったため
→ 理由が全然違っています。怒った将校が「無菌化してやる」と焼けた鉄棒を入れたのでしょうか。
<拷問を受け、捨てられた後の状況>
○「クマ」・・・「気が付いてみると、私は恐らく死体として捨てられて山の蔭にいました。私といっしょにいた二人の少女のうち、私とク・ハエ(KuHae)が生き残りました。山のなかに住んでいた50歳の男が私たちを見つけ、衣服と食べるものをくれました」
○「平壌」・・・女性たちが野原に捨てられ、その様子を見ていた中国人男性が息のあった同女ともう一人の女性を運び出して介抱した。
→ 山の陰であったり、野原であったりしています。「クマ」だと、同女らが気がついた後、山のなかに住んでいた男に親切にされただけのようですが、「平壌」だと、捨てる所を見ていた男に運び出されて介抱されています。中国人の親切さが増しました。
--<北朝鮮の証言者、お約束の日本兵の残虐行為>--
○「兵隊一〇〇人の相手ができるのは誰か」と刀を下げた兵隊が聞いた。その時に手を上げなかった一五人の女性は、他の女性への見せしめとして殺された。その方法は、裸にした女性たちの頭と足を兵隊たちがつかみ、一面に釘を打った板の上をゴロゴロと転がしたのだ。噴水のように血が噴きだし、釘には肉片がこびりついた。
○鄭さんたちが泣いているのを見た中隊長は、「慰安婦たちは肉を食っていないので、肉が食いたくて泣いているんだ」と言った。兵隊たちは、殺した頭を釜で煮始めた。そして、鄭さんたちを木刀で叩いて、無理やりその汁を飲ませた
○オ・チョンヘという女性が、将校によって子宮に鉄の棒を押し込まれて殺された
○オ・ズンイとう女性が、梅毒にかかったことを知らせなかったため将校にうつったという理由で殺された。彼女は口に布を詰められ、焼いた鉄の棒を子宮に入れられて即死。引き抜いた棒には肉がこびりついていた
○鄭さんの口にゴムホースが押し込まれ、水が注がれた。膨れ上がったお腹の上に板が乗せられ、兵隊がシーソーのように踏みつけた
○鄭さんたちは、足首を縄で縛られて逆さに吊り下げられた。兵隊は、針がたくさんついた拳大の黒い塊を持って来てそれに墨をつけた。そして、鄭さんや他の女性たちの口をこじ開けて強く押し込んだのである。鄭さんの前歯は折れ、激しい痛みで再び気を失った
○口だけでなく全身に刺青がおこなわれた。兵隊たちは、殺す前に女性たちの肉体に落書きをしたのだ
○兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました
※最後のみ「クラマスワミ報告」。それ以外は「平壌からの告発」より。
【信憑性】
荒唐無稽の内容。信憑性なし。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1996.2 クマラスワミ報告 クマラスワミ **** 現在74歳のチョン・オクスン(ChongOkSun)の証言は、日本帝国陸軍の兵士による性的暴行と日々の強姦に加えて、これらの女性が耐えなければならなかった残酷で苛酷な取り扱いを、とくに反映している。
「私は1920年12月28日、朝鮮半島北部咸鏡南道のプンサン郡フアバル里で生まれました。
13歳の時の6月のある日、私は畑で働いている両親のために昼食の用意をしなければならなかったので、村の井戸に水を汲みに行きました。そこで一人の日本の守備兵が私を不意に襲い、連れて行きました。ですから両親には自分の娘に何が起きたか分かりませんでした。私はトラックで警察に連れて行かれ、数人の警官により強姦されました。私が叫ぶと彼らは口に靴下を押し込み強姦を続けました。私が泣いたので警察署長は私の左目を殴りました。その日、私は左目の視力を失いました。
10日ほどして私はヘイサン市の日本陸軍守備隊の兵営に連れて行かれました。私といっしょに約400人の朝鮮の若い娘がいて、毎日性奴隷として5000人以上の日本兵の相手をしなければなりませんでした――一日に40人もです。
その度に私は抗議しましたが、かれらは私を殴ったり、口にぼろきれを詰め込んだりしました。あるものは、私が抵抗をやめるまで秘所にマッチの棒を押し当てました。私の秘所は血まみれになりました。
一緒にいた一人の朝鮮の少女が、どうして一日に40人もの大勢の相手をしなければならないのかを尋ねたことがあります。質問したことを罰するため、日本の中隊長ヤマモトはこの少女を剣で打つように命じました。私たちが見ていると、彼らは少女の衣類をはぎとり、手足を縛り、釘の出た板のうえを、釘が血と肉片で覆われるまで転がしました。最後に、彼らは彼女の首を切りました。別の日本人ヤマモトは、「お前たちみんなを殺すのは簡単だ。犬を殺すよりもっと簡単だ」と語りました。彼はまた「こいつら朝鮮人少女は食べ物がないといって泣いているから、この人肉を煮て食べさせてやれ」とも言いました。
ある朝鮮人少女は、頻繁に強姦されたため性病にかかり、そのために50人以上の日本兵が病気にかかりました。病気の蔓延を防ぎその朝鮮人少女を「無菌化」するため、彼らは焼けた鉄棒を彼女の秘所に突き刺しました。あるとき彼らは私たちのうち40人を、トラックに乗せて遠くの水たまりに連れて行きました。水たまりは水と蛇でいっぱいでした。兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました。
守備隊の兵営にいた少女たちの半分以上が殺されたと思います。二度逃亡を企てましたが、いつも数日で捕まってしまいました。私たちはいっそうひどく拷問をうけ、私はあまりに多く頭を殴られたので、どの傷もまだ残っています。彼らはまた私の唇の内側や胸、腹、体に入れ墨をしました。私は気絶しました。気が付いてみると、私は恐らく死体として捨てられて山の蔭にいました。私といっしょにいた二人の少女のうち、私とク・ハエ(KuHae)が生き残りました。山のなかに住んでいた50歳の男が私たちを見つけ、衣服と食べるものをくれました。彼はまた朝鮮に帰るのも助けてくれました。私は、日本人のための性奴隷として5年間使役されたのち、18歳のときに、傷つき子を産めない体で、言葉を話すのも難かしいありさまで帰国しました」。2001.7 平壌からの告発 伊藤孝司 風媒社 鄭玉順さんは、咸鏡南道豊山郡把揆里で一九二〇年一二月二八日に生まれた。
一九三三年六月三日、井戸で水を汲んでいたところ、いきなり後ろから髪の毛を強く引っ張られた。制服を着た三人の男に捕まり、連れて行かれたのは把揆里の駐在所だった。ここで汚い布を口に押し込まれて強姦される。抵抗したので目を強く殴られ、この時から左目が次第に見えなくなった。
そして一〇日後、七~八人の兵隊にトラックへ乗せられ、恵山にあった日本軍の守備隊に連行された。恵山は中国東北地方との国境にあり、鄭さんは、一日に約四〇人もの兵隊の相手をさせられる時もあり、子宮からは血が流れ出した。
この年の八月二七日、「兵隊一〇〇人の相手ができるのは誰か」と刀を下げた兵隊が聞いた。その時に手を上げなかった一五人の女性は、他の女性への見せしめとして殺された。その方法は、裸にした女性たちの頭と足を兵隊たちがつかみ、一面に釘を打った板の上をゴロゴロと転がしたのだ。噴水のように血が噴きだし、釘には肉片がこびりついた。それを見ていた時の気持ちを「天と地が逆さまになったような気がした」と鄭さんは表現した。
次に兵隊は、「言うことを聞かない者はまだいるか」と言って、釘の上に転がされて死んだ一人の女性の首を切り落とした。鄭さんたちが泣いているのを見た中隊長は、「慰安婦たちは肉を食っていないので、肉が食いたくて泣いているんだ」と言った。兵隊たちは、殺した頭を釜で煮始めた。そして、鄭さんたちを木刀で叩いて、無理やりその汁を飲ませたのである。
鄭さんはそこまで話をすると、この時に殺された女性たちの名前を指を折りながら一人ずつあげた。ケオリ、タノリ、ミョンスギ、ケチュニ、プンスギー。途中でわからなくなると最初からやり直した。それが終わると、「その守備隊の大隊長は『ニシハラ』、中隊長は『ヤマモト』で小隊長は『カネヤマ』、『慰安所』の監督は朝鮮人の『朴』でした」と語った。鄭さんは日付や人名をくわしく覚えているなど記憶は実に鮮明だ。
一九三三年一二月一日にはオ・チョンヘという女性が、将校によって子宮に鉄の棒を押し込まれて殺された。翌年二月四日にはオ・ズンイとう女性が、梅毒にかかったことを知らせなかったため将校にうつったという理由で殺された。彼女は口に布を詰められ、焼いた鉄の棒を子宮に入れられて即死。引き抜いた棒には肉がこびりついていた。~(中略)~
恵山の部隊は、女性たちを連れて中国へと移動。台湾とも近い所にしばらくいた後、一九三五年九月には広州に着く。市街地から一二キロメートルほど離れた所の立派な建物に入れられた。翌年六月一五日に鄭さんを含めた一二人の女性が逃亡したが、二日後に全員が捕まってしまう。「逃げようと最初に言ったのは誰か。それを言えば首謀者以外は助けてやる」と言われたものの全員が黙っていた。鄭さんは鉄の棒で頭をめった打ちにされた。この時の傷は今も残っている。~(中略)~
次に受けたのは「水拷問」。鄭さんの口にゴムホースが押し込まれ、水が注がれた。膨れ上がったお腹の上に板が乗せられ、兵隊がシーソーのように踏みつけた。鼻と口から水が吹き出した。これが何度か繰り返されて気を失った。
そして、さらに残忍な行為がおこなわれた。鄭さんたちは、足首を縄で縛られて逆さに吊り下げられた。兵隊は、針がたくさんついた拳大の黒い塊を持って来てそれに墨をつけた。そして、鄭さんや他の女性たちの口をこじ開けて強く押し込んだのである。鄭さんの前歯は折れ、激しい痛みで再び気を失った。
口だけでなく全身に刺青がおこなわれた。兵隊たちは、殺す前に女性たちの肉体に落書きをしたのだ。馬車に積まれてきた女性たちが野原に捨てられるようすを中国人の男性が見ていた。彼は、日本兵が去ると息のあった二人の女性を運び出し、ニヵ月間ほど介抱をした。鄭さんは奇跡的に生き残ったのである。(P.43~46)
◆◆◆ 石川たま子(仮名) ◆◆◆
※サイパン帰りのたま子さん
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1908年、横浜に生まれる。17、18歳の時に横須賀の花街で働き始め、「南洋はとても儲かっていいよ」という話を聞いて北マリアナ諸島のテニアン島の娼館に入る。その後、警察から指名されて、他の指名された娼婦たちと共にラバウルの慰安所に移る。さらに、グアムの将校用の慰安所に移った後、テニアンの娼館に戻り、その後、サイパンに渡る。前借金は慰安所にいた時に完済した。終戦後は、収容所に入れられた後、沖縄出身の男にいいよられ、以後、沖縄で生活する。
1991年11月死去。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
警察から指名されて慰安所に入る。
【考察】
慰安所設置の際に、既存の売春宿で働いていた娼婦らを指名して集め、その一人が同女だったという話です。
同女の証言では、以下の通り、他の多くの元・従軍慰安婦と異って悲劇的な強制ではなく、むしろ積極的に客をとろうとする発言が垣間見れて興味深い内容です。
「100人200人なんでもない~(中略)~兵隊なんかつかれているもの、すぐ終わるよ。~(中略)~これを喰ったらすぐ追っ払うのに。追っ払ってすぐ次。一人の人にいつまでもくっついていたらお金になんないもの」
「そんな時休めばいいだろって?だけどやっぱり商売だから休めない。いくら借金がないからって、ヨンタク((怠けること)はできないさ。『ああ、この女は売れないよぉ』っていわれたらしょうがないでしょ。」
また、「たま子は民間の店より慰安所の方がよいといった」とも記述されています。同女が慰安所にいた時に借金を返済していることと、上記、証言を合わせて考えると、兵隊の方が一人当たりの時間が短く人数をこなすことができて、その分、収入も多かったということでしょう。
なお、同女は1988年12月9日号の「朝日ジャーナル」で朝鮮人慰安婦として紹介されていますが、「皇軍慰安所の女たち」で著者、川田文子氏は、「やはり私には日本人としてのたま子さん像をふっきることはできない」と述べています。
確かに、同女の証言の中には朝鮮人を思わせる言動はなく、日本人と考えるのが自然な内容なのですが、著者が「朝日ジャーナル」の記者に問い合わせた際、「福祉事務所にも朝鮮人として届けられているから間違いない」と言われたとも記載されています。
まあ、どちらでもかまわないでしょう。
【信憑性】
特に不審な内容はなく、信憑性はあると思います。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1993.8 皇軍慰安所の女たち 川田文子 筑摩書房 たま子さんが語った少女の頃の思い出は、日本の貧しい家庭の生活背景の中に違和感なく収まっていた。私はたま子さんを日本人と思い込んで話を聞いていた。朝日ジャーナルの記者は、“朝鮮人慰安婦”でなければ記事にならないと、勝手にたま子さんを朝鮮人にしてしまったのではないかと私は勘ぐり、問いあわせた。すると記者はG市の福祉事務所にも朝鮮人として届けられているから間違いないといった。(P.26~27)
「南洋はとても儲かっていいよ」
仲間からそんな話を聞いて、たま子は南洋へ行く気になった。口入れ屋の所在も仲間に教わった。口入れ屋というのは、周旋屋、あるいは女衒などとも呼ばれる花街の雇い主に女たちを世話する仲介人である。口入れ屋の手数料や南洋への旅費をあらかじめさし引かれたが、たま子にとってはかなりまとまった額の前借金を受取り、半分は父に、半分はきものや帯や寝具などを揃える支度金として持ってきた。(P.31~32)
テニアンへ行ったのも、何歳だったのか、判然としない。一七、八歳の時に軍港のあった横須賀の花街で働き始めてから、茨城県の航空基地のあった町、永井荷風の『墨東綺譚』に描かれている玉の井、そして亀戸などを転々とした末、テニアンに渡った。そして最初に入った楼では一番年長であったことを「三」と、それが二三なのか、三〇なのか、三三なのか、二ケタ目の数を明示しなくても当然通じるといった感じでいった。一九〇八(明治四一)年九月一一日生まれのたま子がテニアンへ渡ったのが、二三歳とすれば一九三一(昭和六)年、三〇歳とすれば一九三八年(昭和一三)年、三三歳とすれば一九四一(昭和一六)年となる。亀戸の花街はやたらチンピラがウロウロし、ここでは稼げないと直感したたま子は、再び横須賀に戻ったのだが、茨城県の航空基地のある町や横須賀での体験は、土地柄のせいもあろうが、すでに軍事色の濃い背景となっている。たま子がテニアンへ行ったのは、おそらく三〇歳ないし三三歳であったろう。(P.32~33)
テニアンでたま子が働くことになった「松島楼」の主内間も沖縄県出身者であった。大阪からきたというノブコもたま子と同時に松島楼に抱えられた。
―うちたちが店に入るでしょ。そうすると、松島楼に女が入ったって新聞に載せるでしょ、朝日新聞、よろず新聞、そんなのに出るから新聞とってるところはみんな分かるよね。お客はやっぱり古い女より珍しいでしょ。今度来た女はどんなかね、ってくるでしょ。八百屋なんかに初物が出たらこれは珍しいっていうのと同じで。(P.36)
たま子が軍の慰安所へ行くことになったのは、トラックから再びテニアンの松島楼へ戻っていた時のことだ。
―これはね、慰問だからね、直接行きたくっても行かれないんです。向こうから選ばれて、名前指されて行くんだからね。だから、あたしも行きたいんだけど、といっても行けないのに。どこから決め手てくるか知らないけどさ、警察の人が六か月つとめて来なさいって。
警察から指名されて慰安所へ行くことになったたま子らは、あたかも兵士が出征する時のように同業者らに万歳三唱で見送られた。船には約五〇人もの女が乗っていた。テニアンだけではなくサイパンの各楼からも集められたのだ。
松島楼からは三人が指名され、主人も一緒に船に乗った。松島楼には女将が残って商売を続けた。女が少ない楼では、比較的多い他の楼と話をつけ、女の前借金を清算して連れて行った。~(中略)~
たま子と同じ船でラバウルに着いた約五〇人の女たちは、陸軍、海軍、将校用、数か所の慰安所に分けられた。
たま子は陸軍の慰安所に入れられた。
―将校ばっかり入る倶楽部ね、あんなところなんかみんないい女ばっかり選ばれてるよ。悪い者は行かないよ。そのかわりあんな所に行ったら借金は抜けないよ。儲からない。将校の数が少ないでしょ。ね。
うちたちは普通の兵隊だから朝九時頃から配給とるみたいにたくさん並ぶよ。だから、ごはん食べる暇がないでしょ。賄いの人が握り飯にして持ってくるからね、もう、自分の部屋で食べるさ。おなかが空くからね、お握りを三つも四つも置いといて、おかずもいっぱいどんぶりの中へ入れておいてもらう。兵隊が「ここどうしたんだい」「何やってるのか」って戸を叩くでしょ。ね。いいよ。ごはん食べてるけど、かまわない。開けるよ。毎日、身体があく暇がない。あがりは五時、晩になったらもうゆっくりできるけどね。疲れないよ。一〇〇人や二〇〇人、なんでもない。ウン。ウソじゃない。兵隊なんかつかれているもの、すぐ終わるよ。食いしん坊だから。喰うっていったらすぐだぞ。これを喰ったらすぐ追っ払うのに。追っ払ってすぐ次。一人の人にいつまでもくっついていたらお金になんないもの。
民間の店では雇い主が六分、女が四分で計算されたが、慰安所では五分五分の配分である。といっても、多くの女たちが莫大な額の前借金を負っているから自分のとり分は返済にあてられる。女たちが自由に使えるのは、規定の料金とは別に客がくれるチップだけであった。きものや化粧品、寝具などの経費も借金として計上される。~(中略)~
だけど、あたし、上の人はあんまり好きじゃない。兵隊がいいよ。お金はたくさんとれるし、気ままいっぱい。なにしろ、もう、あんな人はぐずっぽくて、いや。上の人はうるさい。気難しくてね。普通の兵隊三人、四人とった方がずっといい、楽。あんなの一人ぐらいとったって借金抜けないよ。それっぱかりであんた、何になるね。
兵隊は休日しか慰安所を利用できない。また、時間も五時までと定められていた。下士官はカクバンといって一日おき、将校は日時の制限はなかった。兵隊の休日には、慰安所前には白い札を持った兵隊がズラリと列をなした。札は買ってあるのに、五時になっても順番がまわってこず、あぶれてしまう者もいる。そんな時にはたま子は「今度外出した時は必ずいらっしゃいね」と自分の名刺を渡しておいた。すると、次の外出の時には、兵隊は名刺を頼りにたま子のところにくるからだ。けれど、一日何十人と相手をしていたからとてもその兵隊の顔を覚えてなどいられない。~(中略)~
将校には専用の軍人倶楽部があったが、たま子のいた陸軍の慰安所にもよく来ていた。ある日のこと、一人の将校がたま子らを、
「うちの隊へ行かないか」
と誘った。
「ううん、憲兵に二人ともひっぱられて牢屋ん中へ入れられたらたいへん」
「僕は偉いんだよ。明るくならないうちにこっちへ送ってくるから、何もこわくないよ」~(中略)~
たま子も行ってみたいけど、やはりこわかった。
「お風呂にも入れるよ」
慰安所では普段、水風呂にしか入れなかったので、そのことばにつられて、たま子はようやく勇を鼓して行く気になった。
―そしたらね、こわくない。番兵なんかどうするかと思ったらね。鉄砲持って敬礼するでしょ。こっちは(階級が)上でしょ。番兵はいてもなんともいわない。掃除も自分でするんじゃない。下っぱの人がするでしょ。だから、きれいになってる。スリッパもあるしさ。ベッド、フカフカしてさ、下にポコンとおっこちるんだよ。本やらね、なんやかんや、いっぱい見せたりさ、また、お菓子やらいろんなもの持って来てさ、だけど、食べるようじゃないよね。それで、帰る時、パイナップルなんか、桃の缶詰、みかんの缶詰ね、これみんな持って来た。
たま子らは時折、傷病兵の慰問に行った。朝八時頃から一二時頃までいくつもの病棟を残さず廻ってくる。顔が膨れあがっている兵隊、片目が潰れている兵隊、手がない者、足がない者、火傷で顔までも包帯を巻いていている者・・・・・・。軍からの要請があったのか、それとも抱え主の自発的な慰問であったのか、たま子は慰安婦としての仕事で見舞ったのだが、傷病兵の無惨な姿に胸がつまった。~(中略)~
慰問から帰って来てしばらくすると、回復した兵隊が、
「慰問の時まわってきてくれたでしょう、僕のこと覚えてますか」
と訪ねてくる。病院のベッドに横たわっていた時には、白い患者服を着ていたので、その兵隊の階級も、軍隊でどんな種類の仕事をしているかも分からなかったが、軍服を着てくるとはじめて衿章や胸ポケットに縫いつけたマークでそれが分った。
「戦地にいて金なんか持ってたって何にもならない。使えるうちに使わなくちゃ。今日死ぬか明日まで生きのびられるのか、分らないからな。かといって慰安所の他には金を使いたくても使う場所もなし・・・・・・」(P.44~51)
(生理の時)お客とやる時はね、もうきれいに洗って、そしてから海綿、中につめてさ。海綿だったら、ホラ、あれつかないでしょ。海綿に糸つけといてよ、自分でひっぱって、洗浄して、次の人にできるように。一回、この糸がとれなくなっちゃってよ、困ってさ、あわてて医者に行ってとってもらったよ。そんな時休めばいいだろって?だけどやっぱり商売だから休めない。いくら借金がないからって、ヨンタク((怠けること)はできないさ。「ああ、この女は売れないよぉ」っていわれたらしょうがないでしょ。名前の札が玄関にでてるでしょ。二番三番まではいいけど、五番六番になったら、もうね、終いだからね。お客さんが「見番変ってないじゃないか、他所はみんな変ってるよ」っていうのよ。「変りますよ」っていうけど、みんな変らさないものね。みんな意地だからね。あたしも落ちたくないからね。あたしはナイチァー(内地の人間)だけど、沖縄の所へ来てるでしょ、沖縄の人に負けたくないでしょ。
民間の店では玄関の女たちの源氏名を記した札が掛けられていた。その札は稼ぎ高の高い順に並べられている。稼ぎ高が高いということは、いうまでもなくそれだけ客に人気があるということだ。たま子は民間の店より慰安所の方がよいといった。それまで負っていた借金をすべて慰安所にいる時に返済できたということも一因だろうが、それ以上に、慰安所では出入口に並べられる札が稼ぎ高順ではなかったということが最大の理由だ。(P.60~61)
草とりに出てみると、米兵は若い女性とみるとつきまとい用便もできない。手洗い所の前には米兵らの強姦、暴行を防止するためMP(Miritary Police<憲兵>の略称)が立っていたが、安心して入れない。それで女同士数人がその都度囲いをつくり、その囲いの中で用便を足すことにした。そのMPまでもがたま子の顔を見ると、ニタニタしていた。いけ好かない男だと思っていると、ある日、靴を脱いで木に登った。たま子はそれがマンゴーだと知らなかったが、たくさんの熟した実をとったMPは、それをたま子に与え、その代償を求めた。(P.66)
しかし、思い起こせば、この稿にも記した通り、たま子さんの話では、テニアンやサイパンにいた頃は沖縄の人々の中でナイチャー、つまり日本人として通していたのだ。やはり私には日本人としてのたま子さん像をふっきることはできない。
日本人だったが慰安婦だったという経歴から朝鮮人と見做された。そんな風に想像してみた。だが、今となっては確かめる術もない。(P.87)
◆◆◆ 田中タミ(仮名) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
両親は数え6歳の時に離婚。父は次々に事業を起こしては失敗し、ほとんど家に寄り付かず、曾祖母に育てられる。11歳の時、父により、20歳まで年季奉公するという契約で前借金と引き換えに、大森にあった芸者の置屋に預けられ、三味線を習うかたわら使い走り等をする。その後、父に千葉県船橋の遊郭に売られる。15歳の時、家に逃げ帰るが、数週間後、警察から呼び出されて遊郭に戻る。1944年、数え17歳の時、千葉県茂原に慰安所が開設されると同時に移され慰安婦をする(その時、同女はまだ客を取っていなかったが店の主には犯されていた)。終戦直後、民間人に身受けされ、その民間人の元に別居していた妻子が帰ってきたことを機に実家に戻る。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
無し。既存の遊郭から移される。
【考察】
当時、遊郭に売られた女性の状況を知る上で興味深い話です。
同女の話を読むと以下のことが分かります。
・遊郭等に売られる場合、養女という形を取っていたこと
・遊郭から逃げ出した場合、警察が来て取り調べられること(おそらく、養女・前借金という形の人身売買が容認されていて、もし、娘が逃げ出した場合は、契約不履行ということになるのでしょう)
・遊女に外出の自由はなく、必ず用心棒等、見張りの者がついたこと
・数え17歳(満15歳か16歳)で客を取り始めるのは普通だったこと
・慰安婦は他の遊女と違って、お国の為に身を挺して働いていると思われていたこと(全ての人がこのようなプラス・イメージを持っていたわけではないでしょうが)
【信憑性】
特に不審なところはなく、信憑性はあると思います。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1993.8 皇軍慰安所の女たち 川田文子 筑摩書房 だがある日、父が材木商だという男を連れて置屋に来た。そして、材木商の養女にするということで、それまで父が借りていた前借金をその男が置屋に返済した。
ところが、その男は材木商ではなかった。千葉県船橋の遊郭に大吉楼(仮名)という大店を持つ主の甥であった。父はまた金が必要になり、タミを遊郭に売り飛ばしたのだ。芸者の置屋よりは遊郭の方がよほど前借金を出す。その差額を父は得たのである。~(中略)~
父は、タミを遊郭に預けて得た前借金とは別に、主から相当な額の金を引出し、製材業を始めた。単に前借金だけではなく、父の借金の抵当に、タミは遊郭に預けられたのである。(P.181~182)
父は、大吉楼にタミを置いて行く時、「すぐ迎えにくるから」といった。タミは父のことばを信じて待った。しかし、季節が変り年が明けても、父は迎えに来なかった。
待ちきれずに、タミは大吉楼を飛び出した。一五歳だった。逃げても帰るところは家しかない。父は逃げ帰ったタミをだまって家に置いた。だが、数週後、船橋の警察から呼び出しがかかったのだ。~(中略)~
取調べは父とは別々に行われた。タミは大吉楼に戻るのは絶対にいやだといい張った。すると警官は、後手に縛った父を連れて来たのである。父の哀れな姿を見せられて、タミは折れざるを得なかった。しかし、後に警察の署長クラスの人が大吉楼に終始出入りし、主の広い部屋で饗応されているのを見るにつけ、警官が父を縛りあげたのは、タミを大吉楼に戻すための茶番でしかなかったことに気づいたのだ。タミの取調べにあたった警官も、しばしば大吉楼で見かけた。多少とも良心が咎めたのか、その警官はタミと顔を合わせると、目をそらせた。(P.183~184)
前借金で縛られている花魁たちには行動の自由はない。外出が許される場合にも、必ず用心棒など監視する者がついていった。稼ぎ高が店で二番目、主の愛人でもあり、信用されている花魁の場合でさえ、タミが伴をした。(P.185)
農家が点在する千葉県茂原の田園地帯に、忽然と七軒の慰安所が建てられたのは一九四四年秋である。大吉楼の主も軍の要請を受け、出店した。建物は、日頃船橋の店に出入りしていた大工が建てた。~(中略)~
それまで船橋で小間使いとして働いていたタミは、慰安所開設と同時に茂原に連れて行かれた。数え一七歳、それ以前、すでに主に犯されていた。そのようなことがあると借金は棒引きされると、花魁たちから聞いたこともあったが、年端のいかないタミは、自分の身体を武器にして主と借金棒引きの交渉をする知恵も勇気もなかった。
茂原に海軍の航空基地が完成したのは一九四三年である。太平洋戦争開戦前に作られた軍備計画丸五計画では、茂原航空隊を新設する予定であった。通常、海軍の航空基地には、その基地を専用する航空隊があったが、茂原飛行場の場合、基地は完成したものの、茂原航空隊は新設されないまま、第三二一航空隊、第三〇一航空隊等が使用した。飛行場の面積は一九五万平方メートル、幅八〇メートル、長さ一〇〇〇メートルと一二〇〇メートルの滑走路が二本あった。隊員は約四〇〇〇名、零戦や艦載爆撃機等約八〇機が常備していた。
七軒の慰安所はそれぞれ名前がついていた。タミのいたところは、大吉楼と、船橋の店の名をそのまま使った。道を挟んで大吉楼の側に四軒、向かいに三軒、東京にある遊郭州崎から来た業者が多かった。大吉楼以外はいずれももとの店はたたんで来た。
それぞれの慰安所に、六、七人ぐらいずつタミと同じ年ぐらいの若い娘ばかりが集められた。どんな事情があってか、大吉楼に二〇歳を過ぎた姉妹が二人揃って来ていたが、タミたちにはその二人が例外的な年長者に感じられたくらいだ。七軒の慰安所の娘たちの多くが、茂原に来るまでは売春体験いや性体験もなかった娘たちだった。
性病検査は町の医院で行われた。羅患者が出た場合には、即刻軍に、羅患者の所属する慰安所名と源氏名とが伝達された。時折遊びに来た兵隊が、○○楼の××は要注意だ、などと騒いでいるのを聞いた。開設当初は慰安所には一人も羅患者はいなかったのだから、結局、軍人に性病を移されたのである。
料金は軍によって指定されたが、遊郭に比べるとだいぶ安かった。安い料金で業者が応じたのは、税金を低く押えるか免税にするなど、なんらかの措置がとられたのだろうとタミは感じた。
大吉楼の主は船橋に残り、茂原には来なかった。主にかわって慰安所の経営にあたったのは主の甥の木村(仮名)である。そのため、他の慰安所に比べてタミらはいくぶん楽な面があったろうか。たとえば、大吉楼では帳簿をいつでも見ることができた。タミは、一刻でも早く慰安所から抜け出したくて、戻しもすべて返済に当て、帳簿を見せてもらっては借金の残額が減っていくのを励みにしていた。戻しというのは、稼ぎ高から借金返済やきもの、化粧品、飲食費など、日常の経費を差し引かれ娘たちに戻される額である。
また、他の六軒には遊郭と同様にやり手婆がいて、やり手婆のいいなりに軍人の相手をしなければならなかったが、木村は、女たちがいやな客を拒むのを、多少大目に見ていた。大吉楼では、玄関を入ってすぐの六畳の間で女たちは兵隊を待ったのだが、いやな兵隊が来た場合には、その場をうまくとり繕って逃げてくることも許された。もっとも、選り好みをしていれば借金はなかなか減りはしない。(P.186~188)
七軒の"おやま"の女たちは、性だけを売買の対象とされたことには違いないが、一般の遊郭の女たちや私娼などとは区別された。お国のために身を挺して働いている娘たちである、と。タミらが近隣の農家に花など分けてもらいに行くと、「お国のためにねえ……ご苦労なされて」
軍人に対するのと同じことばでねぎらわれることがあった。(P.190)
慰安所はもちろん、軍人軍属以外の民間人の出入りは禁じられている。だが基地の兵隊たちの休日を知っている地元の民間人が、兵隊たちが来られない時間を見計らってこっそり入ってくる。どの慰安所でも、軍から規定された額より高い料金をとれる民間人を隠れて受け入れていた。(P190)
慰安所の女たちは想いを寄せている航空兵が茂原を去ることを知ると、無事を祈念して日の丸の鉢巻を作り差し出した。指を切り、白い晒に血で染めあげた日の丸である。航空兵らの休日は所属する隊によって異なっていたから、女たちの予想より航空兵が慰安所に来るのが二、三日も遅れると、血の日の丸は生臭くなった。
茂原を発つ日時をあらかじめ知らせに来る航空兵もいた。その時間に外に出てみると、慰安所の上をニ、三回旋回し、白いマフラーを大きく振って飛び去った。
兵隊にとって慰安所は軍隊からの最も手近な避難の場であったろう。(P191)
タミは、芸者として働くようになってから茂原時代のことはひた隠しにしていた。
芸者は芸だけで身を立てていくことも不可能ではない。しかし、性の売買とも決して無縁ではない。表向き性の売買は行われないことになっているが、それなしでは生き難い花柳界で、芸者たちの間には厳しい階級性がある。それは性の売買の仕方と深く関わっている。分かりやすくいえば、正当に芸だけで身を立てる層を頂点とすれば、次にごく限られた上客だけを受け入れる層、そして比較的安い料金で数をこなす層だ。金持ちに見受けされ、粋な黒塀、見越の松の瀟洒な家を与えられ、花柳界から身を引くのも芸者の出世頭だろう。つまり、性交渉の相手となる男の数が少なければなるほど上層と見なされるのだ。皮肉にも貞女ニ夫に見えずの家父長制的゛家"に女の性を縛る貞操観念が、花柳界にも投影されていたわけだ。いや、借金返済のために多くの男の性の対象にされる苦痛を克服する手段がより上客に数を絞っていくことだったのである。
芸で身を立てることを範とする芸者たちは、自分たちは遊郭の女郎とは違うと必死に思い込んでいた。必死にそう思い込まなければ、性を買売しなければ生き難い花柳界にあって、なし崩し的に二枚芸者(芸妓鑑札と娼妓鑑札を受けている芸者)になることは目に見えていたからである。(P198~199)
◆◆◆ 都秋枝(ト・チュジ) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1949年10月28日神奈川県川崎市で生まれる。1960年、在日朝鮮人の帰国事業で北朝鮮に帰国。2003年10月18日に豆満江で悪い人たちにジープに乗せられ、日本国総領事館を通じて日本へ拉致され千葉県松戸市に連行される。2007年6月21日に日本を脱出し北京の北朝鮮大使館に保護される。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
ジープに乗せられた後、日本国総領事館を通じて日本に拉致される。
【考察】
豆満江で悪い人たちに拉致されたと証言していますが、日本兵でしょうか、それとも、日本の手先となって働いている朝鮮人でしょうか。
どちらにしても、日本国総領事館を通じて日本に連行されていますから、公権力の関与は明らかのようです。
また、下記記事からは、日本に拉致された後、何をさせられていたかは不明ですが、興味のあるところです。
なお、朝鮮日報の記事で同女は58歳になっていますが、1949年10月28日生まれなら、2007年6月は満57歳、数え年で59歳です。57歳の誤りでしょう。
【信憑性】
書くまでもないでしょう。
脱北して日本に逃げて来たのが、なぜか拉致されたことに。北朝鮮に置いてきた子ども達と会う為にはこれしか方法がなかったのでしょうか。
しかし、気を抜いていると、将来、これが事実として定着しかねないのが恐ろしい所です。
韓国も今は、「何をバカなことを言っているんだ」的な対応ですが、忘れた頃に誰かが「日本は2000年代になっても強制連行していた!」と持ち出してくるかもしれません。なにせ、証人がいるのですから。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 2007.6.26 朝鮮日報「北朝鮮『2003年に日本が北朝鮮女性を拉致』」 ***** **** 北朝鮮は26日、日本が2003年10月18日に北朝鮮女性のト・チュジさん(58)を拉致したと主張した。
在北京・北朝鮮大使館は26日午前9時(現地時間)、北朝鮮大使館で国内外のメディアを対象に共同記者会見を行い、日本が4年前にト・チュジさんを拉致したと発表した。
この会見にはトさんも同席した。この会見でトさんは「2003年10月に豆満江で悪い人たちにジープに乗せられ、在瀋陽日本国総領事館を通じて、日本へ強制拉致された」「3年7カ月間日本で生活したが、今月21日に日本を脱出して、現在は在北京・北朝鮮大使館で保護を受けている」と主張した。
この日トさんは記者団の質問に一切答えず、北朝鮮映画『民族と運命』の主題歌を歌いながら会見場を後にした。
トさんは1949年10月28日に神奈川県川崎市でト・サンダルさんの三女として生まれ、1960年に帰国船に乗って北朝鮮に入国したという。2007.6.27 朝鮮日報「【記者手帳】北朝鮮大使館のおかしな会見」 ***** **** 25日夜、北京の北朝鮮大使館は外国の特派員らに対し、「明日午前9時、大使館で緊急記者会見を行う」と伝えた。緊迫度が増す北朝鮮の核問題に関する発表を予想していた各国の記者約80人は翌朝、1時間前から大使館の外に長蛇の列を作った。
ところが予想は大きく外れた。大使館は「これから、日本に強制的に連行された都秋枝(ト・チュジ)さん(58)の記者会見を開きます」とアナウンスしたのだ。
記者たちの前に現れた中年の女性は、1949年に日本で生まれ、15歳のときに在日朝鮮人の帰国事業で北朝鮮に渡り、現在は5人兄弟の母親だという。ところが、「2003年10月、悪い人たちにそそのかされ、豆満江を越えて中国に渡ったところで無理やりジープに乗せられ、日本へ連れていかれた」と彼女は語った。
そして「日本ではただ子どもたちに会いたいという一心で、酒と睡眠薬におぼれる毎日でした…北朝鮮では“苦難の行軍”(1990年代中盤の食糧不足)のときにも幸せだったのに…」と涙ながらに語り、「日本は子どもが親を殺すような国だ。人間の住む所ではない」と語気を強めながら非難した。
今月21日に日本を脱出したという彼女は最後に「歌を1曲歌う」と言った。そして「ああ、将軍様のおかげで‐わたしたちは一つの家族、将軍様の家族です」と歌った後、記者の質問にも答えず足早に会見場を後にした。
2年前の05年4月にも、北京の北朝鮮大使館で記者会見が開かれた。このときも「核問題に関する発表」を予想して集まった記者たちは、「日本人に拉致された」という安筆花=日本名・平島筆子=さん(69)のメチャクチャな主張を聞かされた。安さんはこの時、「将軍様の家族です」という歌の代わりに「将軍様、万歳!」と叫んだ。
北朝鮮は日本が自国による「日本人拉致問題」を追及し続ける中、「われわれも被害者だ」と主張しようとしているのかもしれない。だが、そうした主張が説得力を持つには、少なくともなぜ拉致が行われたのか、どうやって「脱出」し、どこで生活していたのか、詳しく説明するべきではないだろうか。2年後に同じような「異常ずくめの記者会見」を見させられた外国の特派員たちは皆苦りきった様子だった。
2007.6.26 毎日新聞「脱北者:千葉県滞在の北朝鮮女性が帰国の意思 北京で会見」 ***** **** 【北京・西岡省二】北朝鮮から03年に脱出した後、日本に保護され、千葉県内に滞在していた北朝鮮女性が26日午前、北京の北朝鮮大使館で記者会見し、再び北朝鮮に戻る意思を明らかにした。
女性は川崎市出身の「都秋枝(ト・チュジ)=57」と名乗っている。
都さんは在日朝鮮人と日本人の間に生まれ、在日朝鮮人の帰国事業で1960年、北朝鮮に帰国した。その後、03年10月、中朝国境の豆満江を越えて中国に逃れた後、遼寧省瀋陽の日本総領事館に保護された。その後、日本に渡り、千葉県松戸市で暮らしていた。
都さんは「今の日本は昔住んでいた日本とは大きく違った。氷の大きなかけらのような感じがした」などと語った。
北朝鮮大使館は同日、「日本に強制的に連れて行かれた共和国(北朝鮮)公民の記者会見」と題し、北京駐在の各国記者を集めた。都さんは涙声で語り、記者会見の最後には90年代の北朝鮮映画の主題歌を歌った。
◆◆◆ 鄭書云(チョン・ソウン) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1924年、慶尚南道で地主のひとり娘として生まれる。父が食器の供出を拒んだ為、逮捕され、父の釈放と交換条件に日本の工場で働くことを承諾する。下関経由でインドネシアのスマランに連れて行かれ慰安婦を強いられる。(「私は『慰安婦』ではない」より)
1995年9月、中国で開かれた北京女性大会に、韓国代表として出席、全世界に向かって日本軍の蛮行を知らせた。
2004.2死去。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
無し。下関では一ヵ月~一か月半、収容所に入れられるが日本人の監視員が二人見張っていた。
【考察】
同女の証言の疑問点等は以下の通りです。
<区長に日本の千人針工場で働かせると言われる>(「私は『慰安婦』ではない」)
千人針ついては、街頭の道行く人にお願いして一針ずつ縫ってもらったという話は聞きますが、千人針工場というものは聞いたことがありません。千人の女性がいて、順番に一針ずつ縫って行くような工場でしょうか。あまり効果も無さそうです。
<慰安婦になったのは日本の統治前のインドネシア>(中央日報)
1924年生まれで13歳の時に連行されていますから、同女がインドネシアで慰安婦となったのは1937年頃。日本がインドネシアを統治したのは1942年からなので、全く辻褄があいません。
なお、「私は『慰安婦』ではない 日本の侵略と性奴隷」によると、連行されたのは14歳のようです。どちらにしても、辻褄はあいませんが。
<下関の倉庫には娘が約千人、一緒に船に乗ったのは数千人>(韓国従軍慰安婦問題対策協議会HP)
約千人が収容できるのですから、かなり大きな倉庫で、それがいくつかあったと証言しています。また、同女と一緒に船には数千人の娘たちが乗っていたと証言しています。これまた巨大な船です。
<一日平均50人、土日は100人の軍人を相手>(韓国従軍慰安婦問題対策協議会HP)
24時間ぶっ続けで相手をしたとしても、100人だったら一人当たり約14分。もしかしたら同女はすごいテクニシャンだったのかも知れません。
上の千人と言い、同女は何でもかんでも大きい数字を言えばいいと思っているようです。
<慰安婦を防空壕に生き埋めにする計画を知った朝鮮人兵士が連合軍へ連絡して助かる>(「私は『慰安婦』ではない」)
信じ難い話です。もし、これが本当なら、計画していた日本兵が戦犯として裁かれていてもよさそうですが。
【信憑性】
船に乗った人数にしろ、相手をした人数にしろ、大げさな数字を言っているのは明らかですし、日本統治前のインドネシアで慰安婦をしていたというのも無茶苦茶です。
信憑性はないでしょう。
想像するに、13歳か14歳の時に騙されて売春婦にさせられて、1942年頃に売春宿の経営者が慰安所を開設するのに伴い、一緒にインドネシアに連れて行かれたというところでしょうか。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1997.8 私は「慰安婦」ではない
日本の侵略と性奴隷戦争犠牲者を心に刻む会編 東方出版 私は一九二四年、韓国の田舎の地主のひとり娘として生まれました。私の父はとても頑固な人で、「創氏改名」を拒否したほどでした。「創氏改名」を拒否しても、父が地主であったため、捕まえることは出来ませんでした。植民地時代(1910年~1945年)ではあったものの、特に最初の頃は日本人は地主とはいつも妥協していました。
ある日、町の区長から、その当時韓国では銅で作られた食器を使っていたのですが、その食器をみんな供出しろという命令が下されました。父はかんかんに怒りました。何から何まで朝鮮人から全部奪っていって、それでも足りずに今度は御飯を食べる食器まで供出させるのか、と。それは出来ないと父は怒りました。その命令があった夜、父は家にあったたくさんの食器をすべて父の土地に埋めたのです。けれども、そのことが密告により日本人にばれてしまい、父は逮捕されました。それで私は何回も警察署に行き、父に面会できるよう頼みましたが、ことごとく断られました。
そしてある日、食器供出の話をした区長がまた家にやって来ました。自分といっしょに行けば父との面会が許されるから明日いっしょに行こう、と。私は喜んで、「はい、そうします」と答えました。
父は拷問のために、ほとんど気を失っていました。意識を取り戻した父は、私を見るなりかんかんに怒りました。「若い娘が警察署に来るなんて。早く帰りなさい。そしてもう二度とこういう所には来てはいけない」と言いました。家に帰ると母に父の様子を尋ねられたのですが、拷問で失神していたとはとても言えませんでした。
数日して、区長がまた家に来ましたので、私は針の仕事がとても上手でしたので、区長は今度は、「お嬢さんは針の仕事がとても上手だから、日本の千人針工場に行って働かないか」と言うのです。「お嬢さんがその工場に行って働けば、お父さんはすぐ自由の身になりますよ」。そう言われました。
母は猛反対しました。当時の朝鮮はとても保守的でしたから、若い娘が町に出て仕事をすることなど想像も出来ない時代でした。母はほんとうに、すごく反対したのです。でも私は母を説得しました。父が早く釈放されるためには仕方がないことだからと。そしてとうとう母の承諾を得ました。私は区長に会い、「工場に行って働きます」と言い、工場に行くとその日で父が自由になるということをもう一度確かめますと、区長は「その通りだ」と答えました。
区長について、港町釜山に着きました。釜山から私は船に乗せられ、そして日本の下関に着いたのです。下関に着くと大きな倉庫に入れられましたが、中に入って、私はびっくりしました。数え切れないくらい大勢の少女たちがいたのです。中にはなんと十二歳の少女までいました。日本人の監視員が二人、ずっと見張っていました。食事のたびに、配給されるのは海苔巻きのおむすびが一個だけです。でも、私はとても怖かったために、、三日間何も喉を通りませんでした。三日経って、お腹が空いてやっとおむすびを食べることが出来ました。
毎日のように、次々とたくさんの若い娘が倉庫に運ばれてきました。そしてある日、私が住んでいた村の村長の娘までが連れて来られました。倉庫で一か月か一か月半くらい待たされたと思います。倉庫の中では名前もなく、いつも番号で呼ばれました。私はある日呼び出され、そして、他の少女たちとともにとても大きな船に乗せられました。
アジアのあちこちの港町を通り、船が最後に着いたところは、ジャカルタからそれほど離れていないスマランというところでした。そこに降りた若い娘は、全部で二十三人でした。そして降りるとすぐ、私たちは病院に連れて行かれました。そこで私は強姦されました。三日間、下腹部からずうっと血が出ました。(P.50~52)
日本の軍人の中にも、いい人はいました。その方のことは、福岡から来た「伊藤」という方だということ知りませんが、彼は日本が敗けた時、生き残っている私たち「慰安婦」を防空壕に閉じ込めてそのまま生き埋めにしてしまおうという日本軍の計画を、朝鮮人の兵士たちにこっそりと打ち明けたのです。それを知った朝鮮人兵士たちは手紙を書いて、二日に一度やって来るインドネシア人の洗濯婦にその手紙を託し、早く連合軍に伝えるよう頼みました。そのおかげで私たちは帰ってくることが出来ました。(P.54)
たった十四歳の娘が、自分の国でもない、よその国の軍人のために、進んで戦場にいって身を売ることを想像してみてください。(P.55)2004.2.26 中央日報「全世界に従軍慰安婦の実像を暴露したチョン・ソウン氏死去 」 ***** **** 13歳のとき、インドネシアに連れて行かされ、7年間にわたって日本軍の従軍慰安婦として生きなければならなかった「挺身隊おばあさん」チョン・ソウン氏が、26日未明、慶尚南道鎮海(キョンサンナムド・チンヘ)の自宅で老患で亡くなった。80歳。
チョン氏は、1995年9月、中国で開かれた北京女性大会に、韓国代表として堂々と出席、全世界に向かって、日本軍の蛮行を知らせた人物だ。
チョン氏は、当時「日本の軍医官から不妊手術を受けており、金の代わりに軍票を受けた。1日平均50人ずつ、週末には100人の軍人と性関係を持たなければならなかった」と証言、国際社会に衝撃を与えた。喪家は、鎮海第一病院に設けられた。2007.4現在 韓国従軍慰安婦問題対策協議会HP
※リンク先は韓国語***** **** 私は慶尚南道河東でかなり金持ち集の一人娘に生まれました.
私のお父さんは、私を日本学問を学ぶ必要がない、となさりながら日本学校に行かせなかったです. しかし私は家庭教師を通じて漢字とハングルは学ぶことができました。私のお父さんはまた創氏改名も最後までしなかったです。そして日本が戦争武器で作るために真鍮器を供出するようにしたが, 私のお父さんはそれもしないで、夜に人知れず家で働く掘り起こした何を連れて田を深く売ってその所にさび器を埋めました. ところでそれがぼろを出して、お父さんは警察署に引かれて行って留置場に閉じこめられました. 毎日私は面会に行ったが面会ができなかったです。ところである日、朴球場(現弛張)が家に来て、私が日本紡織工場へ行けばお父さんは釈放されることができると言いました. 私が工場に行くその日、お父さんはすぐ釈放されるはずだというのでした. それは私が行かなければ、私のお父さんは死ぬしかないという脅迫でした. そんな状況で私は拒否することができなかったです. その時私の年15数えました.
私と一緒に、岳陽面兔将娘も一緒に行ったが、その兔将は駐在所所長から岳陽面で娘供出量を割り当て受けると駐在所所長の横っ面を殴って辞表を出しました. その理由で兔将の娘も私と一緒に引かれて行くようになりました。
私たちは韓国人と日本人によって、釜山まで来て釜山で大きい船に乗って日本の下関に到着しました。見下ろしたら歩哨がある大きい倉庫に約千名位になる娘たちが閉じこめられていました。その所にはそんな倉庫がいくつかありました. 私はその所が工場ではないことをすぐ分かりました. ここで私は私の道なのいじめ下った頭を首になりました. そして一日に 3回ずつのりで包んだお握りを受けたが、私はお父さん考えと家を浮かび出た恐ろしさに、それを食べることができなかったです. しかし 3日位が経つと、お腹がとてもすいていてそれを食べるしかなかったです。その時いくらのり巻きをあきれるように食べたのか、今ものり巻きはもちろん長さも見たがらないです. そのように、、その所で正確に憶えることはできないが約 15日位あったようです. ところが、一日は私たちを番号どおり呼びました。そして順番どおり、とても大きい船に乗せました。そのお腹には数千名の女達が一緒に乗りました。
私たちが下関で初めに到着した所は台湾でした。そしてまた船に乗って広東に行ったし、タイ、バンコク、サイゴン、シンガポールを経由して、インドネシアジャカルタに下りました. それからはその所でニューギニア、スマトラ、長芋と等地に配置されたが、配置させる前にジャカルタ陸軍病院に私たちのすべての女性たちを連れて行っては、子宮の中に何かを入れました。ところでどのようにしたのかの下盃があまりにも苦しく痛かったです. そして多分約 3日間下血をしたようです.
一日を休んでまた船に乗って行くのに、私はひどい痛症と下血で言えない苦痛にあいました. 私は 23人位の女性たちとマラングの陸軍部隊に倍速されて、その部隊が移動し次第に付きまとって運命を一緒にしました. 私たちは部隊中で住んだし、食事も軍人たちのような食堂で一緒にしました. 私と一緒に間兔将娘はニューギニアに配置されて行きました。慰安所は代代ごとに一つずつあったし、一慰安所に女が 20-30人ずついたようです.
慰安所は代代ごとに一つずつあったし、
一慰安所に女が 20-30人ずついたようです. 普段には多くの人一部屋を使ったが、軍人たちの来る時は包装を打った各方を利用しました. 一日平均 50人以上の軍人を相対しなければならなかったです. 50人以上を相対してみるとくたびれて気を失う時があります. それでは水を振りかけて我に返るようにした後、また軍人を相対するようにします. それでも性器が水ぶくれになって、到底痛くて歩みも歩くスオブのになって、これ以上軍人を相対することができなくなれば注射を腕に放してやったが、分かってみれば麻薬注射でした. その注射を打てば不十分に痛かったです. 土,日曜日には、100人も越す軍人たちを朝 9時から相対しなければならなかったから、彼らは始める前から 4-5代の麻薬注射を私に当てました.
(後略)
(管理人注:上記は機械翻訳)