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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 黄錦周(ファン・クムジュ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1922年、忠清南道扶餘に生まれる。1941年20歳の時、日本人の班長に「日本の軍需工場に行けば金が儲かる、一家で少なくとも1人は行かなくてはならない」と言われて奉公先の娘たちに代わって志願し、以降、吉林の慰安所で慰安婦を強いられる。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)

2000.12月、女性国際戦犯法廷で証言を行う。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

集合場所の駅で日本の軍人に引渡され、軍用列車にて満州の吉林に行く。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)


【考察】

下記資料の通り、連行された年でさえ14歳~20歳と、数え年と言うものを考慮してもフォローするのは不可能。

1992年の「従軍慰安婦と戦後補償」では「ソウルの金持ちの家で小間使いをして以来、ずっと、色々な家で子守、女中をしてきました」はずが、1993年の「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」では、夜学に通って休学していた情報が加わり、しかも、養父である崔(チェ)という人の妾の家と本妻の家の二つでのみで女中していたことになっています。
さらに、最初、崔(チェ)さんの妾の家で女中をしていましたが、妾と折り合いが合わずに本妻の家に変えてもらいます。そこで、単に本妻の家に連れて行ってくれただけの人に、最初に養女になった時と同額の100円を渡して借金が200円になるというおかしな状況を披露しています。
おそらく売られた数を減らしたかったのでしょう。しかし、中途半端に取り繕った為に矛盾が生じています。

また、夜学は休学中だったはずが、2001年のTBSのTV放送では、「学校を卒業する25日前に日本軍に引っ張りだされ」と発言して、休学していなかったどころか卒業間際だったことに変更になっています。

自らの過去を願望を交えて変更し、全ての不幸を日本軍のせいにして「虚構の過去」が築きあげられていく過程をまざまざと見せ付けられているようです。


なお、1997.3.11の産経新聞では以下の通り証言の食い違いが指摘されています。
生まれた年 慰安婦にされた年
朝日新聞の記事(1995.7.24夕刊) 1922年 17歳(1938年か1939年)
伊藤孝司氏編著 「証言 従軍慰安婦女子勤労挺身隊」(風媒社、1992.8) 1927年 シンガポール陥落の年
(1942年)

------------- 以下、2007.4.22追加 ------------
上記、産経新聞には記載されていませんが「証言 従軍慰安婦女子勤労挺身隊」の記述によると同女が慰安婦をしていた期間は以下の通り約「15ヵ月」になり、「1942年4月」に騙されて慰安婦になったという記述と全く一致していません。(※3年4ヶ月にならなければおかしい))

  吉林省(約8ヶ月) → サハリン(2、3ヶ月) → 吉林省(3、4ヶ月) → 終戦



また、下記資料の「写真記録 破られた沈黙」(以下「写真」)と「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下「証言」)を比べると以下の通り内容が異なっています。

<生まれた年>
○「写真」・・・1927年8月15日
○「証言」・・・1922年8月15日
→ 5年も生年が変更されるなどありえないでしょう。

<父が留学した大学>
○「写真」・・・明治大学
○「証言」・・・「日本に留学」としか記述されていない
→ 具体的な大学名を出すとウソがばれるからやめたのでしょうか。

<日本で父がしていた仕事>
○「写真」・・・大学卒業後、日本で司法の代書をしていた
○「証言」・・・靴磨きや新聞配達をしながら苦学。留学が終わろうとする頃、病気になり故郷に戻って伯父の司法書士事務所で仕事の手伝い
→ 大学を卒業して働いていたのが、卒業前に故郷に戻ってきて、しかも、日本でしていた仕事を朝鮮で行っていたことに変更されています。

<金持ちの養女となった歳>
○「写真」・・・12歳(明記されていませんが、計算すると1939年頃)
○「証言」・・・13歳(1934年)
→ 12歳と13歳の違いは、満年齢と数え年の違いでしょうが、生年に合わせて1934年のことになっています。

<工場に行くことになった歳>
○「写真」・・・1942年4月
○「証言」・・・1941年陰暦2月・20歳
→ 何故か1年だけ、慰安婦になった年が早まっています。

<吉林省から移動した場所>
○「写真」・・・「サハリンだったと思います」
○「証言」・・・「どこだったかわかりません」
→ 全く不明になっています。

<慰安婦生活をした期間>
○「写真」
  ・・・吉林省(約8ヶ月)  → サハリン(2、3ヶ月)  → 吉林省(3、4ヶ月)  → 終戦
○「証言」
  ・・・吉林省(期間不明) → 不明地(8、9ヶ月) → 吉林省(しばらくして) → 終戦
→ 慰安婦になった年も変更になったのですから、当然のことながら一致しません。「証言」では吉林省にいた期間が明記されていません。ヘタに細かく書くと矛盾がばれてしまいますから、賢いやり方と言えます。

------------- 以上、2007.4.22追加 ------------


【信憑性】

証言の信憑性は全くありません。
「吉林の慰安所で働かされた」と言う証言は一貫していますので、吉林で働いていたというのは本当でしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992.4 元兵士たちの証言 従軍慰安婦 西野留美子 明石書店
 十七歳のときです。工場で働けるといわれ、トラックに乗せられました。汽車に乗ったら、どうもようすがおかしいのです。両方の扉は塞がれ、外が見えないようにと窓は油紙みたいなもので全部おおわれていました。着いたところが、満州の吉林でした。着くと、おおきなトラックがきて、十五名、二十名と分けられ、運ばれていきました。
 西も東もわからないところに連れていかれ、カーテンで仕切られた部屋に入れられました。最初に入ってきたのは、将校でした。将校は、顔の美しい女だけをどこかへ連れていきました。
 私はいなか育ちで日本語もよくわからず、着物を脱げといわれていることがわからないので黙っていると、その将校は日本刀で私の服を切って裸にしました。
「助けて!助けて!」と懇願しました。
「天皇陛下の命令だ!軍隊の命令だ!私の命令だ!命令をきかないと殺されるぞ」
 わびてわびて・・・・・・そのうちにこわくて気絶してしまいました。その私を、自分の宿舎に連れていっておもうままにしました。この後は話せません・・・・・・。
 私は処女でしたから、初めてのことで、犯されて気が遠くなっていると、将校は部下に、「もとの部屋に連れていけ」と命じました。
 そのうちに私は、淋病、梅毒にかかり、六〇六号の注射を打たれました。妊娠したことも、自分ではわかりません。六〇六号は劇薬なので、妊娠していても流産してしまいます。性病にかかると痛くて、そのうえ顔や全身が腫れます。そうすると、そういう女たちを別の部屋に隔離してしばらくそこで治療します。少しよくなると、また、兵隊の相手をさせるのです。三回ぐらいそれを繰り返していた女は、そのうちにいなくなりました。行方不明です。死んだり、病気になったり、前線に連れていかれて女がいなくなると、また新しい娘たちが補充されてきました。
 一日に五十人から六十人の兵隊の相手をして、休みの日には、七十人から八十人の相手をして、あげくのはてに性病になり、血や膿がでるようになりました。痛くてどうにもならないというと、私たちは犬畜生でもないのに、男の性器をなめろというのです。いやだというと、顔をひっぱたき、強制的に口に入れました。私は犬ではない!人間の娘です!
 そのうちに、部隊が移動することになり、サハリンに連れて行かれました。荷物みたいにです。それから二、三ヵ月たって、また、吉林に帰ってきました。身も心も傷つき、ずたずたになり三年がたちました。
 ある日、人の声がしないのでおかしいと思って外をみると、兵隊たちは誰もいません。水でもなんでもいいから飲みたいと思い、外に出ていくと、一人の兵隊がいました。
「きのう天皇陛下が敗戦を宣言したから、みんな逃げていったのだ。おまえたちも早く逃げないと殺される」
逃げ遅れた兵隊は、そういうとどこかへ去っていきました。(P.120~122)

(※2007.7.12追加)
1992.7 従軍慰安婦と戦後補償 高木健一 三一書房
一九二二年、忠清南道扶餘で生まれました。生家は貧しく、十二歳の時、一○○円で売られ、ソウルの金持ちの家で小間使いをして以来、ずっと、色々な家で子守、女中をしてきました数えで十七歳の時、女中をしていた咸鏡北道ハムン郡の金持ちの家に、工場供出の員数割り当てがきて、その家には十九歳と十五歳の娘がいたのですが、私が工場に行くことになったのです(P.47)
1992.8 <証言>従軍慰安婦・女子勤労挺身隊 伊藤孝司 風媒社
 一九二七年八月一五日生まれ~(中略)~
私は五歳の時に、ソウル(当時は「京城」)の知り合いのおばさんに引き取られていましたが、一二歳の時に、お父さんの薬を買うために、一〇〇円のお金をもらって、ソウルのあるお金持ちの家の養子になりました。
 養父の家族は咸興(ハムン)にいました。だけど、養父はソウルで商売をしていて、そこに妾がいたんです。私はこちらの家に行きました。ここで二年間いましたが、あまりにも苦労をしたので、養父に別の所で働きたいと言ったんです。
それで、咸興の本妻の家に移る事になりました。そこには娘三人と息子二人がいました。娘は一九歳・一五歳・八歳でした。
ここでは学校に行かせてくれ、食べ物・着る物・寝る所は、そこの子どもたちとほとんど一緒でしたが、掃除・洗濯・炊事とお手伝いさんのように働いたんです。この咸興に三年間いました。
この家にも面(村)長から、工場の「募集」の話が来ました。これを断ると日本人に殴られたり、いろんな事をされたんです。だから、この家からも誰か一人は行かなくてはならなかったんです。
 一番上の娘は日本の大学に合格していたし、私は養子だったので「自分が行く」って言ったんです。
面長も日本人の指示で「募集」をやっていたから、私がどこへ連れて行かれるのか、知らなかったと思います。もし、私たちが「慰安婦」にさせられるという事がわかっていても、拒否はできなかったでしょう。
私だけでなく、集められた誰もが工場に働きに行くものと思っていました。みんな田舎の娘ばかりだったんで、工場へ金を稼ぎに行くというのが嬉しかったんです。私は清潔な白いチョゴリ(朝鮮の上着)と黒のチマ(朝鮮のスカート)を着て行きました。これはシンガポールが「陥落」した年(一九四二年)の四月の事でした。(P.117~118)

私が連れて行かれて一ヵ月ちょっとした時に、私より少し年上だった女の人は、将校と激しい喧嘩をしたんです。殴られて何度も食らいついていき、失神しても気がついたらまた反抗したんです。そして、「兵隊の相手はしない」と言ったら、その裸の女は性器を拳銃で撃たれて殺されたんです。
「慰安所」の中での出来事だったので、みんなが見に行くと「あんまり言う事を聞かないとこうなるぞ」と、見せしめに女たちの前で撃ったんです。こんなひどい事を日本人がしたのを知ってますか。(P.124)

 この吉林省には8ヶ月くらいいてから、船に乗せられて違うう所へ連れて行かれました。私はそこはサハリン(当時は樺太)だったと思います。~(中略)~ここに二、三ヵ月いました。
 それから、吉林省に戻ったんです。~(中略)~
 そこで三、四ヵ月して解放(日本敗戦)になったのです。(P.124~126)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 私は忠清南道扶餘で生まれました。お父さんは明治大学を卒業して、日本で司法の代書を仕事にしていました。~(中略)~
 私は5歳の時に、ソウル(当時は「京城」、以下同じ)の知り合いのおばさんに引き取られていましあ。12歳の時に、お父さんの薬を買うために100円のお金をもらって、ソウルの金持ちの家の養子になりました。
 養父の家族は咸興はいました。だけど、養父は商売をしていたソウルに妾がいたのです。私はそこに2年間いましたが、あまりにも苦労したので咸興の本妻の家に移ることになりました。そこには娘3人と息子2人がいました。娘は19歳・15歳・8歳でした。
 この家にも、面(村)長から工場の「募集」話が来ました。これを断ると日本人に殴られたりいろんなことをされたのです。だから、この家からも誰か1人は行かなくてはならなかったのです。一番上の娘は日本の大学に合格していたし、私は養子だったので「私が行く」って言ったのです。
 私だけでなく、集められた誰もが工場に働きに行くものと思っていました。みんな田舎の娘ばかりだったので、工場へ金を稼ぎに行くというのが嬉しかったのです。私は清潔な白いチョゴリ(朝鮮の上着)と、黒のチマ(スカートのような民族衣装)を着て行きました。これはシンガポールが「陥落」した年(1942年)の4月のことでした。(P.9~10)

 この吉林省には8ヶ月くらいいて、船に乗せられて別のところへ連れて行かれました。私はそこはサハリン(当時は樺太)だったと思います。トラックに数時間ゆられて日本軍の部隊に着きました。陸軍と違う色の軍服を着た部隊だったので海軍だと思います。吉林省よりも寒くて雪も多かったです。ここに2~3ヶ月間いて吉林省に戻りました。
 それから3~4ヶ月すると解放(日本敗戦)になったのです。(P.16)

(※2007.4.22追加)
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 私は一九二二年、陰暦の八月十五日に扶餘で生まれました。私が長女で、妹が一人、弟が一人いました。経済的には豊かではありませんでしたが、はソウルで中学を卒業した後、日本に留学しました。父よりも二十歳年上の伯父が水原で司法書士をしながら父の学費を援助しましたが、それだけでは足りなかったので、父は靴磨きや新聞配達などをして苦学したそうです。ところが留学も終わろうとする頃、父は病気になりました。故郷に戻り水原の伯父の司法書士事務所で仕事の手伝いをしましたが、病気は悪くなる一方でした。~(中略)~
 私は崔さんに父のことを話しました。その人は、父親は大事にしなさいと言いながら百円をくれました。その代償に、私は崔さんの養女となり、ソウルにいる崔さんの妾の家で手伝いをすることになったのです。~(中略)~私が十三歳の時(1934年)のことでした。(P.104)

 崔さんの妾は意地悪でしょっちゅう殴るので、私はひどく苦労しました。二年間そこで暮らしましたが、養父である崔さんにそのことを訴えると、咸興の本妻の家に移してくれました。咸興の家に私を連れて行ってくれた人が本妻から百円受け取って行きました。私の借金は二百円になったわけです。(P.104~105)

 夜学の二年生を修了して1年ほど休学していたときのことです。私が住んでいた村の班長は日本人でしたが、~(中略)~その夫人が村を歩き回って「日本の軍需工場に三年の契約で仕事をしに行けばお金が儲かる、一家で少なくとも一人は行かなくてはならない」と暗に脅迫しました。~(中略)~養母が困っているのを見て、私は自分が行くと養母に告げました。~(中略)~二十歳になった年(1941年)の陰暦二月のことでした。(P.105~106)

 駅で五十代の朝鮮人男性が私たちの一行を引率し、日本の軍人に引渡しました。軍人は私たちを軍用列車に乗せました。軍用列車の他の車両には軍人が乗っていました。一つの車両に私たちの一行と他の女たちも合わせて五十人ほど乗っていました。他の車両にも女たちがいたようでしたが、よくはわかりませんでした。(P.106)

 汽車から降りるとなにやら放送する声が聞こえました。何の放送かと尋ねると、吉林駅だということでした。(P.107)

 ある日、移動する部隊があるので一緒に行きたい者はついて行ってもいいと言われました。~(中略)~トラックに乗って出発したのですが、吐き気がひどく外を見ることもできなかったので、どこをどのように行ったのかわかりません。船にも乗ったような気がします。軍人たちは私たちを慰安所に降ろしました。慰安所の建物は吉林の慰安所と似ていました。どこだったのかはわかりませんが、爆撃がひどくて夜は灯火することもできませんでした。~(中略)~八、九ヵ月ほどしたある日、軍人たちが吉林の方に後退する気配を察した私は、ひとり死にものぐるいで軍人たちの中に混ざってそこを出ました。そうしてもといた部隊に戻ったのです。満州に戻ってしばらくした頃、解放を迎えました。 (P.113)
1996.1.4 国連・経済社会理事会 クマラスワミ報告 ***** ****
17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私は労働者として徴用されたのだと思いました。
1995.7.24 朝日新聞「元従軍慰安婦 黄錦周の世界 1」 ***** ****
 この年さあ、日本が中国と戦争を始めたのは。大騒ぎで軍人だ、補給部隊だって集めて。私は十六になった秋から、若い娘の動員も始まるんさ。三年契約で軍需工場で働くってんで。~(中略)~
 近所の若い娘たちはどんどん動員されてくだろ、私が十七になると、もう私たち四人しかいない。日本人の班長が、会うたびに「どうするのか」てきくし。
 義母は食事ものどに通らなくなって。私を出すか、クムジャを出すか。~(中略)~
 私は聞いちゃいられない。部屋に入って、「私が行きます」っていったんさ。私が行かなきゃ。もしクムジャが行ったら居ても立ってもいられないからね。
1995.7.25 朝日新聞「元従軍慰安婦 黄錦周の世界 2」 ***** ****
多い日で十五人ぐらい、クリスマスは二十人近かったね

(※管理人注:日本にクリスマスの慣習が根付いたのは戦後)
1997.夏 日韓社会科教育交流団韓国を訪問 ***** ****
満18歳になった時のある日、男がやって来て村から娘を出すように伝達をしました。
1997.12.5 元日本軍「慰安婦」の証言を聞く集会(福岡) ***** ****
1922年扶餘生まれ。父の発病後家運が傾き、13歳のとき家をでて、奉公に出ました。村の班長(日本人)「日本の軍需工場に行けば、お金がもうかる。一家に一人は行かなくては」と脅かされ、奉公先の娘たちにかわって、1941年、二十歳で国を離れましたが、ついた所は慰安所でした。敗戦のときは、軍隊に置き去りにされ、やっとの思いで逃げ帰りました。
戦後、苦しい生活と性病の後遺症に悩まされ、悔しい思いをだいて生きてきました。
2001.5.17 TBS「ここが変だよ日本人」 ***** ****
私は19歳学校を卒業する25日前に日本軍に引っ張りだされ仕方なく慰安所に行ったんだ!
2001.7.17 黄錦周さんの証言を聞く会 東京大学にて ***** ****
14歳のとき、いわゆる「少女供出」で満州に連行され、皇軍兵士のセックスのはけ口にされたつらい体験を語りました。
2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子編集 明石書店
(※管理人注:同書の内容は「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」を転載したもので内容は同じ)


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