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◆◆◆ 李桂月(イ・ゲウォル)/郭金女(カク・クムニョ)/金英淑(キム・ヨンスク) ◆◆◆
李桂月、郭金女、金英淑の3名は、北朝鮮の元・従軍慰安婦で、「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」に収録されているのですが、以下の通り、共通点があるのでまとめて掲載します。
<共通点>
1.公権力・日本軍に連行されたことが明白
2.慰安所の場所は中国の東北部(北朝鮮に比較的近い場所)。
3.慰安婦の日本名は必ず「~コ」 (ex.マツコ、エイコ)
(※ただし苗字しか出てこないケースもあり)
4.慰安所での内容があまりに希薄。軍人と慰安婦以外の人間は出てこない。
5.日本兵の非道さが他の証言よりも突出している
6.良い、又は、まともな日本兵は出てこない
7.慰安所を脱走時、助けてくれるのは必ず朝鮮人
さらに、最大の共通点は、これらの証言をとったのが全て「朝鮮 日本軍『慰安婦』・強制連行被害者補償対策委員会」という組織だということです。北朝鮮では、1992年に「従軍慰安婦・太平洋戦争被害者補償対策委員会」が発足し、ラジオなどを通して元従軍慰安婦の申告を呼びかけ、219名が申告、内45名が公開証言を行っています。そして、現在、従軍慰安婦関連の調査を行っているのが、この「朝鮮 日本軍『慰安婦』・強制連行被害者補償対策委員会」なのです。
なお、「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」で、この委員会のとった証言が載っているのは今回あげている3名のみです。
【信憑性】
先に結論を述べます。
この3人の証言には、信憑性は全くありません。南北分裂前に慰安婦を強いられたのですから、韓国と北朝鮮の元・従軍慰安婦の証言に異なる特色などあろうはずがありません。
典型的な「従軍慰安婦・日本兵」のイメージで作られた創作でしょう。証言内容には、「悪=日本人」、「善・被害者=朝鮮人」という一部の人達が大好きな世界観が色濃く顕現しています。
また、上にあげた共通点の一部の理由を推測してあげておきます。
○慰安所の場所が中国の東北部 → ゴーストライターが、東南アジア等の他の土地には土地勘がなく、また、ヘタに書くと歴史的事実に反する内容になってしまう恐れがあるから
○慰安婦の日本名が必ず「~コ」 → ゴーストライターが、日本の女性名は「~コ」が多いというぐらいの知識しかなかったから
確かに、たった三人を比べただけなので、上であげた共通点の中には「偶然の一致」のものもあるでしょう。しかし、他の北朝鮮の証言者の証言を見てみても、政治的意図をもって情報を歪曲・捏造しているのは確かのようです。
李桂月(イ・ゲウォル) | |
---|---|
郭金女(カク・クムニョ) | |
金英淑(キム・ヨンスク) |
【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1922.9.6、黄海南道碧城郡に生まれる。5歳の時、父の死亡と共に家を追い出され、2年間乞食生活を送る。8歳の時、面(※地方行政の最下級機関)の書記の家に子守りに入り、13歳の時、書記に旅館の下働きに売り渡される。15歳になった年、村の区長に「よい仕事を斡旋する」と言われ、ハルピン近くにある日本軍の慰安所に連れて行かれる。1939年、日本軍の将校に酒を飲ませて酔わせ、隙をみて逃亡した。
朝鮮民主主義人民共和国在住。
【定型的な証言内容】
<公権力・日本軍による連行>
○私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。~(中略)~駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。~(中略)~日本兵は私たちが逃げるのを恐れて貨車に鍵を掛けたので、私たちは外に出ることができませんでした。(P.83~84)
<慰安婦の日本名>
○マツコ、エイコ、アイコ
<非道な日本兵>
○私は部屋に入って来た将校に「体の調子が悪い」と言って相手をすることを拒絶したのですが、~(中略)~将校は私を押し倒して腹や胸を蹴り、しまいには軍刀のさやで額を殴りました。私のあばら骨は折れ、額からは血が流れ、とうとう私は気を失ってしまいました。(P.85)
○「死んでない」と言いながらたばこに火をつけて私の腹に押し付けました。私の体が熱さと痛さでひくひくとするのを見て、「タナカ」は「おもしろい」と言い、たばこを取り替えながら更にあちこちにたばこの火を押し付けたのです。(P.86)
○日本兵は「皇軍のために頑張れ」と言い、「100人でも200人でも入って来るだけ奉仕しろ」と命令しました。(P.86)
○日本兵は妊娠している女は不必要だと言って軍刀で彼女の腹を切り裂きました。(P.86)
○ある日、日本兵は泣き出すイ・プニの頭を石にぶっつけて殺してしまいました。(P.87)
○五人の女性が逃亡して捕まえられたことがありましたが、日本兵は見せしめのつもりで「慰安婦」たちを全員集合させ、彼女たちを裸にして縛って井戸の中に投げ込んで殺しました。(P.87)
<助ける朝鮮人>
○私は夢中で葦原を抜け出し、どこともわからないまま川辺を走っていきました。すると、川辺で釣りをしている朝鮮人が目に入り、私は彼に助けを求めたのです
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1999.8.13 朝鮮新報「愛知県強制連行真相調査団訪朝報告会/共和国で旧「慰安所」を現地調査」 ***** **** 16歳の時に黄海南道から日本軍人に連行され「従軍慰安婦」生活を強いられた李桂月さん
(※管理人注:16歳は恐らく数え年)
(2007.4.3資料追加)2006.6 証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店 十五歳になった年の3月頃のことです。ある日、村の区長が訪ねて来て旅館の主人に何か話し、私を呼んで「ここで苦労をしなくてもいいように仕事を斡旋するから、いい所に行こう」と言いました。私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。十五歳といっても私は背が低く、体も弱かったので、私は区長にひっぱられるままでした。
駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前の男でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。貨車の中にはすでに二人の娘が乗せられていましたが、二人は私より年下の十四歳と十三歳の少女でした。(P.83~84)
翌日、中国のハルビンに着いて、私たちは汽車から降ろされました。~(中略)~着いた所は民家一つない日本軍の駐屯地でした。「タナカ」は私たちを駐屯地の建物に監禁したのです。(P.84)
【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1923.1.8(注)、忠清南道天安郡(チョナングン)生まれ。生活は苦しく、14歳の時、日本人の家の子守りをし、16歳の時、日本人が経営する製紙工場で女工として働く。1939年10月頃、工場経営者が「ソウルの食品工場で働くことになった」と言って日本人に引渡した。中国牡丹江穆稜(ソ連国境地帯)にある慰安所に入れられる。2年後、警備の歩哨の隙を見て慰安所から逃げ出す。
朝鮮民主主義人民共和国在住。
(注)「続・平壌からの告発」では1924年1月8日生まれになっている
【定型的な証言内容】
<公権力・日本軍による連行>
○翌日、私たちは監督と一緒にいた日本人の警察官に連れられて光州駅に行きました。~(中略)~私たちは声を荒げて「なぜ中国に行くのか。そんな所には生きたくない」と抗議したのですが、警察官は日本語でどなり、私たちを蹴飛ばして無理やり汽車に乗せました。(P.93)
○翌々日、牡丹江に着きました。そこで、私たちを引率して来た警察官は出迎えに来た憲兵将校に「長谷川さん、二〇人を連れて来ました」と報告し、名簿のようなものを渡しました。私たちはまたトラックに乗せられ、日本兵の監視の下で牡丹江から一八〇キロほど離れた穆稜という所に連れて行かれました。(P.94)
<慰安婦の日本名>
○レイコ、エイコ
<非道な日本兵>
○みな処女であり、初めてのことだから恥ずかしくて検診を拒んだのですが、軍医は「言うとおりにしなければ殺す」と脅しました。(P.94)
○私は必死で抵抗したため、日本兵は怒って私を殴ったり蹴ったりしました。そして「子宮を切り取ってやる」と言い、刀で切りつけました。私は血だらけになって気を失ってしまいました。(P.95~96)
○私と同じ工場からひっぱられて来た「エイコ」と呼ばれていた金徳女(キムトンニョ)は、乳首を噛み切られ、破傷風になって死んでしまいました。
○慰安所の建物には地下室がありましたが、日本軍人は死んだ「慰安婦」を山に葬るのではなく、地下室に投げ込んでおいたのです。そして、軍人に反抗したり、逃亡しようとする女性たちを、その地下室に閉じ込めました。(P.96)
<助ける朝鮮人>
○どれほど走ったのか分かりませんが、途中で、朝鮮語の看板が掛けられた建物を見つけたのです。それは、朝鮮人が経営する病院でした。私は夢中で病院の主人に助けを求めました。医者の妻は私をかわいそうに思い、家の中に入れてご飯を食べさせてくれました。(P.98)
※ページ数は「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」のもの
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 2002.10 続・平壌からの告発 伊藤孝司 風媒社 私の故郷は、南朝鮮の忠清南道天安です。兄が一人、姉二人に妹一人の五人兄弟でした。私が八歳の時に父は亡くなり、母が地主の家で働きました。炊事をしたり、衣類を縫ったりという仕事です。もちろん、子供たちは学校には行けませんでした。
私は全羅南道順天の日本人の家で子守りとして働いた後、一六歳の時に全羅南道光州の製糸工場へ働きに行きました。ここは日本人の経営でした。カイコから糸を取るのが仕事で、お腹が空いている時にマユの中のサナギを食べたこともあります。
ここで一年間働いた時、呼ばれて事務所に行くと刑事らしい日本人の男がいました。私が刑事だと思っている理由は、後に列車の中で拳銃を持っているのを見たからです。
「パンや飴を作る『京城』(現在のソウル)の食料工場で働くと、お腹がいっぱりになるので行くように」と言われたんです。私を含めた娘たちの名簿が、会社から刑事に渡されました。
ソウルまで汽車で行き、旅館に泊まりました。その翌日になると、「牡丹江に行こう」と刑事が言い出したんです。「なぜ中国に行くのか?私は行かない!」と抗議したところ、「朝鮮は植民地なので、どっちみちお前たちは死ぬのだ!」と言われ、列車に無理やり乗せられました。
そして翌々日の朝、牡丹江に着きました。駅の待合室に二〇分ほどいると、幌のついた車のトラックがやってきました。降りてきた憲兵に、「長谷川さん、二〇人連れて来ました」と刑事は言っていました。そのトラックに乗せられ、「満州」(中国東北地方)とソ連の国境地帯にある穆稜という所に着きました。
私たちは、憲兵隊が駐屯している三階建ての建物に連れて行かれ、畳の部屋に入れられて鍵をかけられました。出されたご飯も食べず、その夜はみんなで泣いていたんです。
翌日、医者と看護婦が私たちを診察しました。今考えれば、病気を兵隊にうつさないためです。連れて来られた女性の一人は、顔がまっ黄色でした。そのため地下室に入れられてしまい、後に亡くなりました。
大きな建物の中は仕切られていて、一~二〇番までの部屋があり、私は「一番」の部屋をあてがわれました。中はタタミ二畳ほどの二人がようやく横になれるくらいの広さでした。大切な髪を短く切られ、来ていたチマ・チョゴリを浴衣に着替えさせられたんです。このチマ・チョゴリは母が作ってくれたものなので、くやしくて泣きました。日本人に「レイコ」という名前をつけられました。
部屋にいると、憲兵の将校が入ってきました。彼は刀を壁に立てかけてから服を脱ぎ、私にのしかかりました。その当時の私は何も知らない娘でしたから、その日本兵を虎よりも恐ろしく思いました。私は泣き叫んで、将校の手を噛みました。すると血を流した将校は、麻酔の注射を私にしました。一分も経たずに気を失った私は、将校に犯されたんです。~(中略)~
一日に二〇~三〇人もの相手をさせられました。抵抗した私に、「子宮を取ってしまうぞ!」と言って小さなナイフで切りつけてきた将校もいました。刀で刺された太股の傷痕は今も残っています。むこうずねは刀でえぐり取られました。私の体は刀傷だらけです。
「言うことは聞かない」と言って、兵隊が私の腕をねじり上げたことがあります。骨折して腕が動かなくなってしまい、二ヵ月間ぐらいギブスをして生活しました。髪をつかんで引きずられたこともありました。痛いというよりは悔しい思いだけでした。
こうしたことをされたのは、私だけではありません。私と一緒に連行された李春心(※管理人:「証言 未来への記憶」では金徳女となっている)という娘がいました。日本兵は彼女を犯そうとしましたが、彼女は泣き叫びながら激しく反抗しました。すると将校は、彼女の乳首を歯で噛み切ってしまったんです。そこから血が吹き出し、彼女は気絶しました。彼女はその傷で破傷風にかかり、死んでしまったんです。子宮を蹴られて、二日後に死んだ女性もいます。
「言うことを聞かないと地下室へ入れるぞ!」と日本兵は言い、私たちをそこへ連れて行きました。その地下室には、ここで殺された娘たちの死体が捨てられていました。腐った匂いが充満し、少しでもそれを嗅げば頭が痛くなるほどひどい所でした。
逃げようとして捕まった女性がいました。私たちが見ている前で日本兵は、皮のベルトで彼女を叩いたんです。「私たちは逃げないから、その女性をこれ以上叩かないで!」と頼みました。ですが、その女性は一週間後に亡くなり、その地下室へ捨てられたんです。このようにして殺された女性は一〇人ほどになります。
「これでは自分も殺される」と思った私は逃げる決意をしました。一一月頃のある日曜日。歩哨が居眠りをしている隙に、小さな門から一人で逃げ出したんです。朝の四時でした。
八キロメートルほど行った所に「朝鮮病院」と書かれた建物がありました。私は朝鮮語の文字を少しは知っていました。それは朝鮮人が経営する個人病院でした。「助けてください。私は『慰安婦』にされていました」と言うと、医者の妻がごはんを炊き始めたんです。「食事どころではない」と思った私は食べずにいました。すると、「何とか匿ってあげるので、この病院にいなさい」と言ってくれたんです。金という名の医者は咸鏡南道出身で、三五歳くらいでした。(P.75~80)
(※2007.7.17 追加)2006.6 証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店 一九三九年の秋のある日、突然、私と数人の女工が事務室に呼ばれたのです。そこは一〇人余りの女工たちが集められていましたが、みな体も丈夫で顔立ちもきれいな女ばかりでした。事務室には日本人の監督と警察官らしい日本人がいました。私たちが入ると、監督は「明日、京城(ソウル)の食品工場に行くことになった。そこに行けばいっぱい食べられ、きれいな服も着られる」と言い、「旅じたくをしろ」と命じました。~(中略)~翌日、私たちは監督と一緒にいた日本人の警察官に連れられて光州駅に行きました。(P.92~93)
翌々日、牡丹江に着きました。そこで、私たちを引率して来た警察官は出迎えに来た憲兵将校に「長谷川さん、二〇人を連れて来ました」と報告し、名簿のようなものを渡しました。私たちはまたトラックに乗せられ、日本兵の監視の下で牡丹江から一八〇キロほど離れた穆稜という所に連れて行かれました。(P.94)2007.4.9 朝鮮新報 「『官権、軍権動員した組織的犯罪』 朝鮮在住被害者 謝罪と補償求める 」 ***** **** 同通信によると、咸鏡南道端川市新洞里在住の郭金女さんは、16歳だった1939年に日本人にだまされて14人の娘と共に日本軍隊の監視のもと、中国の牡丹江から28キロほど離れたソ満国境地帯の穆稜という所に連れて行かれて1年半も兵営で恥辱の日本軍「慰安婦」生活を強要されたことを告発した。
<以下、管理人>
同記事では、「14人の娘」と共に慰安所に連行されたことになっているが、上記資料の「証言 未来への記憶」では20人。
また、慰安婦生活は1年半となっているが、「証言 未来への記憶」では2年となっている。
(※2007.5.16追加)
【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1927.1.24、平安北道秦川郡(テチョングン)生まれ。10歳の時、地主の妾の家で奉公をする。1940年、13歳の時、日本人の巡査に「お金が稼げる仕事がある」とだまされ、中国の瀋陽にある憲兵隊専用の慰安所に入れられる。五年間後の1945年3月頃、慰安所を脱出してモンゴルに逃れる。
朝鮮民主主義人民共和国在住。
【定型的な証言内容】
<公権力・日本軍による連行>
○主人の「妾」の所に時々訪ねて来ていた日本人巡査が、主人と部屋の中で長時間何かをひそひそと話していました。(P.118)
○私を連れて来た巡査は、しばらくたってから日本軍の将校に私を引渡しました。そして帰ろうとするのです。私は急に不安になって一緒に帰ると泣きすがったのですが、巡査は叱りながら私を押し倒しました。それでも私は巡査について行こうとしたのです。それで、隣に立っていた日本兵らが軍犬を突きつけて私を脅し、ついて行くのを阻みました。(P.119)
<慰安婦の日本名>
○おまえはこれから「オカダ」だと言いました。(P.118)
→ 同女の証言では、同女につけられた「オカダ」以外に慰安婦の日本名はでてきません。普通、名前だけをつけることはあっても、苗字のみをつけることなどないでしょう。
<非道な日本兵>
○彼の性欲を満たすためには私はあまりに幼かったのです。しばらくしてそれに気がついた「ナカムラ」は刀を取り出し、私の陰部に刀を差し込みました。その瞬間、私は「ぎゃあ!」と悲鳴を上げて気を失ってしまいました。(P.120)
○するとその軍人はかんかんに怒り、私の髪を掴んで部屋の床に打ちつけ、靴で全身を蹴り、私の足を踏みつけました。全身にあざができて、私は気を失ってしまいました。そのとき、奴の乱暴で足の骨が折れたのですが、まともな治療も受けられなかったため元に戻らず、結局、障害者になってしまいました。(P.120~121)
○日本兵は、私が反抗すると「朝鮮人のくせに帝国の将校を冒涜するのか」とどなり、「日本軍人を慰安できない者は殺してもいい。私の言うことを聞かないとおまえの肝を取り出して食べてしまうぞ」と脅かしました。(P.121)
○野蛮な日本軍人は「慰安婦」たちが苦しむ姿を見て快楽を覚えたのか、「慰安婦」たちを裸にしては刀で刺したり、噛みついたり、火のついたたばこを押し付けるなど、さまざまな残虐なことをしました。(P.121)
○日本兵は「慰安婦」が妊娠すると、容赦なく殺しました。そのような女性の中に、ボンニョという女性がいました。ある日、日本兵は「慰安婦」たちをみな庭に集合させ、みんなの見ている前でボンニョを木に吊るし、軍刀で彼女の腹を切り裂いたのです。そして、出てきた腸や胎児をめった切りにして、私たちの首に掛けたのです。(P.122)
○そうして、五年の年月が過ぎました。非人間的な虐待や病魔、栄養失調のため、初めの頃は二〇人余りいた「慰安婦」は、五年のあいだに大勢亡くなり、残ったのは数人だけでした。(P.122)
<助ける朝鮮人>
○当時、部隊には数人の朝鮮の青年たちが軍属として駆り出されて来ていましたが、その中にキム・サングクという青年がいました。~(中略)~背が高かった彼は塀を越えるのを手伝ってくれ、私は慰安所から抜け出すことができたのです。(P.123)
※ページ数は「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」のもの
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 2001.7 平壌からの告発 伊藤孝司 風媒社 今は平安南道温泉郡で暮らす金英淑さんは、平安北道泰川郡で生まれた。あまりにも生活は貧しく、母親は家族を捨てて逃げ出した。父親は日本人が経営する金鉱山で働いていたが、日本人の現場監督からひどい暴行を受けて死亡。金さんと弟の二人が残された。その時一〇歳だった金さんは、地主の三番目の妾の家で働くことになった。「水瓶を割ってしまった時など激しい叱責を受けました。夜明けから夜空に星が輝くまで私の涙は乾くことがなかったんです」。
こうした苦しい生活を続けていた時に、心ひかれる話がきた。
「一三歳の時、やって来た日本人の巡査に『ここでそんな苦労をせず、お金の稼げる所へ行こう。おいしい物を食べ、きれいな服も着られるよ』と言われたんです。
この巡査に連れて行かれたのは瀋陽です。そこには日本兵がいっぱいいて、巡査は私を『ナカムラ』という名の将校に引き渡しました。私はだまされたんです」
「慰安所」が谷間に建っていて、高さ五メートルほどの塀で囲われていた。建物は木造平屋で、三〇ほどの部屋が通路の両側に並んでいるという構造だった。途切れることなく金さんの話は続く。
「その日の夜に私の部屋へやって来た『ナカムラ』は、私を押し倒して覆いかぶさってきました。だけど私が若すぎて欲望を満たせなかったため、私の性器をナイフで切り開いたんです。私は気を失いました」。「
将校に殺されそうになったこともある。「カネムラ」という将校に従わなかった金さんは、「言うことを聞かないと肝を取り出して食べるぞ」と脅された。その言葉にひるまず将校を力一杯に突き飛ばしたところ、日本刀で胸を切りつけられたのだ。「傷を見てください!」と金さんは私に言うやいなや、チマチョゴリを脱いで上半身裸になった。
胸から腹にかけて、縦に二〇センチほどの鮮明な傷痕がある。かなり深い傷だったようだ。金さんは、全身に残る他の傷も次々と説明する。肩と尻には短刀で突き刺されたいくつもの傷痕、右足の膝には兵隊に軍靴で何度も蹴られて骨が折れた痕が残っている。
「一日に二〇~三〇人の兵隊の相手をさせられました。妊娠したために腹を切り裂かれたり、軍犬にかまれたりして、ここの女性たちが次々と殺されて行くようすを見ました」と金さんは叫ぶように語った。~(中略)~
この「慰安所」には、金さんが連行されて行った時には二五人の女性がいた。その中には中国人と白人が一人ずついて、他は朝鮮人だった。その鼻が高い白人とは言葉が通じなかった。この場所が中国東北地方ということを考えるとロシア人だろう。
部隊の中には何人からの朝鮮人軍属がいた。一九四五年三月、金さんはその中の金・サングクさんと死を覚悟してここを脱出。その時点で、「慰安所」で生き残っていた女性はわずか五人だった。(P.48~50)
(※2007.7.17 追加)2006.6 証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店 このような中で三年が過ぎ、十三歳になった一九四〇年のことです。主人の「妾」の所に時々訪ねて来ていた日本人巡査が、主人と部屋の中で長時間何かをひそひそと話していました。しばらくたって、私は主人に呼ばれました。部屋に入ると、巡査は私にやさしく話しかけ、「きれいな服を着て、お金をたくさん稼げ所に行こう」と言うのでした。当時、私は世間知らずの幼い子どもであり、つらい仕事で苦労していたので、下働きの生活から抜け出したいという気持ちから「行く」と答えました。(P.118)
私を連れて来た巡査は、しばらくたってから日本軍の将校に私を引渡しました。~(中略)~巡査から私を渡された将校は、私を木造の長屋に連れて行きました。長屋の周りを高い塀が取り囲んでいて、そのうえ、鉄条網が張り巡らされていました。ところどころに軍犬を従えた歩哨が立っていました。(P.119)2007.5.14 朝鮮新報 「『慰安婦』問題 朝鮮国内で噴出する反日感情」 ***** **** 日本軍「慰安婦」被害者のキム・ヨンスクさん(81、平安南道在住)は4月30日、祖国を訪れた在日本朝鮮青年同盟代表団と対面し、13歳の時に日本の警察官の甘言に弄されて中国に渡り、「性奴隷」生活を強要された自身の体験を語った。キムさんは、青年らに「慰安婦」問題など過去の清算から逃れようとする日本当局の動きに立ち向かい完全解決のその日までたたかい続けるよう切実に訴えた。
(※2007.5.16追加)