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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ ピラー・F・フリアス ◆◆◆


※ピラール・フリアス、ピラール・フィリアスと表記される場合もあり


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1926年10月5日生まれ。1943年16歳の時、ゲリラ捜索に来た日本兵5人に強姦される。一旦、家族と共に別の村に移るが、1年後、また村に戻ってきて、1944年10月頃、他の3人の女性と共に日本兵に連行され慰安婦を強いられる。1945年1月、アメリカ軍の侵攻と共に解放される。

1993年4月東京地裁に提訴。1998年10月。地裁棄却判決。2000年12月東京高裁で棄却判決。2003年12月最高裁で上告棄却・上告受理棄却、敗訴確定。(フィリピン「従軍慰安婦」補償請求訴訟)


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本兵に連行される。


【考察】

下記資料の「フィリピンの日本軍『慰安婦』」(以下、「フィ」)と「私は『慰安婦』ではない」(以下「私は」)、および、「LABAN! Fight for Comfort Women 『Dear Prime Minister Shinzo Abe:Join Me』」(以下「LA」)を比較すると以下の通り内容の相違があります。

<最初に日本兵に暴行を受けた年>
○「フィ」・・・1943年、16歳
○「私は」・・・1943年、16歳
○「LA」・・・1942年(年齢の記載なし)
→ 「LA」だけ異なっています。

<日本兵に強姦された場所と状況>
○「フィ」・・・ココナッツ・プランテーションで20歳の叔母と家畜の世話をし、洗濯をしていた
○「私は」・・・家の前で洗濯をしていた(叔母が一緒だったかは不明だが、家には叔母と従姉がいたことになっている)
○「LA]・・・記載なし
→ ココナッツ・プランテーションは家の前にあったのでしょうか。

<日本兵にナイフで切りつけられる等の暴行を受けた理由>
○「フィ」・・・日本兵にゲリラの妻かと聞かれて否定したので
○「私は」・・・日本兵がゲリラの妻であると言い出したが、何も答えなかったので
○「LA」・・・兵士達が日本語で叫んだが、混乱した同女が反応しなかったので
→ 「フィ」だけ違っています。ゲリラの妻であることを否定して暴行されたら傍若無人としかいいようがないですが、「何も答えなかった(反応しなかった)」のなら、無視したと思って日本兵が怒ったのもうなづけます。

<ナイフで切りつけられた状況>
○「フィ」・・・「ジャングル・ナイフで、私の右目の下の頬を切り、さらに鼻を突き刺しました」
○「私は」・・・「持っていたジャングルナイフで私に対して切り付けてきたのです。私は体を避けるようにしてしゃがんだために、そのナイフが私の鼻の上の方から下に突き抜けるような形で突き刺さりました。右目の下も切られ、血がたくさん流れて」
○「LA」・・・「その兵士は怒って彼女の鼻をナイフで切りつけました」
→ 「フィ」と「LA」では、日本兵が最初から鼻を切り付けようとしたと読み取れる内容ですが、「私は」では状況が詳しく証言されています。どこを切りつけようとしたのか、それとも、単に脅そうとしたのかは不明ですが、同女が避けようとしゃがんだ為に、頬と鼻が傷つくことになったようです。

<強姦に至るまでの日本兵の暴行>
○「フィ」・・・①ゲリラの妻であることを否定、②平手打ち、③ナイフで右目の下の頬を切り、さらに鼻を突き刺す、④頬と鼻にタバコの火を押し付ける、⑤頭をタライの水につける、⑥強姦
○「私は」・・・①日本兵の問いかけに何も答えない、②右頬にタバコの火を押し付ける、③同女が叫び声を上げる、④平手打ち、⑤ナイフで鼻を突き刺す(右目の下も切られる)、⑥頭をバケツの水につける、⑦強姦
○「LA」・・・①日本兵が叫んでいるが無反応、②タバコの火を顔に押し付ける、③同女が泣き叫ぶ、④ナイフで鼻を切りつける、⑤頭をバケツの水につける
→ 流れ的に「私は」と「LA」は一致していますが、「フィ」だけ異なっています(特にタバコとナイフの順番)。
どちらが話の流れとして辻褄が合っているかと言えば、「私は」と「LA」でしょう。何故、「フィ」では順番がぐちゃぐちゃになっているのでしょうか。

なお、「LA」では、この時、同女が強姦されたとは記載されておらず、二度目に日本兵に捕まった時にレイプされて出血しながら連行されたことになっています。「LA」では、この時、同女が処女で出血が止まらなかったことを示しているのでしょう。他の元・慰安婦の証言でも、処女であるにも関わらず複数にレイプされて出血が止まらなかったという話がよく出てきます。
「LA」の記述内では辻褄があいますが、「フィ」や「私は」とは証言が一致していません。なお、「フィ」と「私は」には、連行時に出血していたという記載はありません。

<一緒に強姦された女性>
○「フィ」・・・一緒にいた叔母1人
○「私は」・・・強姦時に叔母は出てこない。
○「LA」・・・強姦話はない
→ 強姦されていなかったり、叔母も共に強姦されていたり。

なお、「日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時企画2005in京都」では、「3人のおばと一緒に性暴力被害にあいました」となっており、強姦の被害者が4人になっています。

<2度目に日本兵に捕まった年>
○「フィ」・・・1944年10月ごろ、18歳
○「私は」・・・1944年(年齢の記載はない)
○「LA」・・・1942年、17歳。(※1942年に日本兵と2度の乱闘があったと記載されている)
→ 何故か「LA」だけ、1度目も2度目も1942年の話になっていて、他の証言と一致しません。(※「フィ」も「私は」も、2度目は1年後の話と記載されていて、同年の話ではありえない)

また、生年の1926年10月が正しいのなら、1942年は17歳ではありません。「フィ」も「私は」も1926年で生年は一致していますが、1925年生まれという話もあるのでしょうか。(※「LA」には生年は記載されていないが、2007年3月に81歳なら1925年生まれになる)。


<監禁されていた女性達が強姦以外にさせられたこと>
○「フィ」・・・日本兵の衣服の洗濯。食事の賄いは一緒に連行されたフィリピン人の三人の男性がさせられた。
○「私は」・・・日本兵の衣服の洗濯や食事作り
○「LA」・・・記載なし
→ 「私は」では、食事作りも同女たちがしたことになっており、フィリピン人の三人の男性は出てきません。


証言毎に話の骨格は一致しているのですが、レイプされていないのがレイプされていたり、叔母も一緒にレイプされていたり、さらには、一緒にレイプされた叔母が3人になったりと、とても信頼できる内容ではありません。



また、同女の証言の疑問点は以下の通りです。

<なぜ、同女は慰安婦として選ばれたのか>
・・・同女は、村にやってきた日本兵に「ついて来い」と言われ連行されます。既に捕らえられていた他の三人の女性同様、慰安婦にするのが目的でしょう。
この時、同女は、以前、ナイフで右目の下を3センチメートル切られ、鼻は穴にまで貫通した傷あとがはっきりと残っている状態です。普通、わざわざ慰安婦として選ばないでしょう。

なお、「私は」では、この顔の傷が原因で当時つきあっていたボーイフレンドと別れることになったと証言しています。

<日本軍は二ヵ月間もゲリラが来るのを待っていた>
・・・「私は」によると、ゲリラのキャンプ地が既にもぬけのカラだったので、日本軍はそこでゲリラが現れるのを待っていたようです。そして、ゲリラを待つ一方で同女達を強姦して過ごす毎日。結局、ゲリラは現れずにアメリカ兵が侵攻してきて移動。日本兵は百人から二百人。
「フィ」によると、これは1944年10月以降の話で、1944年10月と言えばレイテ島での米軍との戦闘が始った月です。そんなのんきなことをしている場合ではないでしょう。


【信憑性】

話の骨格は一致しているものの、細かいところで証言毎の相違が見られます。特に強姦関連のものは看過できるものではなく、また、2回目の連行話も不可解です。

信憑性はないと思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1995.12 フィリピンの日本軍「慰安婦」 ―性的暴力の被害者たち フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団 明石書店
 私は一九二六年十月五日、ルソン島の東南部ビコール地方の南にある南カマリネス州スプコットのアニブ地区の小さな島で生まれました。
 当時、父は雇われて木こりをしており、家族は両親ときょうだい十五人で、私はその長女でした。父はよく働いたので生活は苦しくはありませんでした。
 一九四三年、私が十六歳のとき、日本兵三百名ほどが抗日ゲリラ掃討作戦のためアニブ地区にやってきました。すぐによそへ行ったほうがよいと警告されていたのですが、私の家族は逃げなかったのです。
 そして、両親が日本兵に呼ばれて会議に出ている間、私は二十歳のおばと小さなココナッツ・プランテーションで家畜の世話をし、洗たくをしていました。そのとき、五人の日本兵がゲリラ捜索のためにやってきました。
 そして、私にゲリラの妻かと聞きましたが、私が否定すると、一人の日本兵が私の顔を平手で殴り、腰にさしていた刃わたり二十五セントメートルくらいのジャングル・ナイフで、私の右目の下の頬を切り、さらに鼻を突き刺しました。そのため、右目の下を三センチメートル切られ、鼻は穴にまで貫通した刃のため潰れてしまいました。いまも顔面に傷あとがはっきりと残っています。
 さらに日本兵は、頬と鼻にタバコの火を押し付けた上、頭髪を掴んで頭をタライの水のなかにつけたあと、両手を後手にして木にしばりつけました。おばも同様でした。そして私は、二人の日本兵に両手をしばられたまま、地面に寝かされ相次いで強かんされました。おばは三人の日本兵に強かんされました。日本兵はその後、ニワトリを奪っていきました。少しして、母が帰ってきてくれて助かりました。母は、傷を見て、どうしたのかと尋ね、私はすべて話しました。
 このことがあって、私の家族は九キロメートル離れたカブサオという漁村へ避難しました。そこではお菓子を作って暮らしました。
 その後、日本兵は、アニブ地区の家を学校を除いてすべて焼きつくしたと聞きました。
 カブサオでは一年間過ごしました。自生のバナナ、ココナッツ、キャッサバなどを食べていました。
 一年たった一九四四年十月ごろ、私が十八歳になったころ、アニブ地区に戻りましたが、家は焼かれてなくなっていたので、唯一残っていた学校で家族が暮らすことになりました。
 戻って来て一週間がたった日、父が外出していなかったとき、学校へ二百人ほどの日本兵がやって来て「ついて来い」と言いました。私は抵抗しましたが、なす術もなく、縄でつながれ、午後五時ごろ山まで連行されました。私のほか、女性三人(名前はシルピーナ、マルガリータ、ロシータといいましたが、他の地区から来たので知っている人はいませんでした)、男性三人が同時に連行されていました。
 最初の夜、私はテントのなかに寝かされ、縄でつながれたまま十人以上の日本兵に輪かんされました。
 次の朝、山のなかを歩き、昼ごろ、ゲリラのキャンプ地に着きました。しかし、ゲリラは出発していていませんでした。
 ゲリラキャンプあとには十メートル四方の大きなニッパヤシで屋根を葺いた竹製の建物が一棟あり、私は、他の三人の女性とともにその家に二ヵ月監禁され、百人以上の日本兵に強かんされつづけました
 四人の女性は、強かんされるときも寝るときも、トイレに行くときも食事のときも約一メートル間隔で縄につながれたままでした。
 食事は同様に連行されて来ていたフィリピン人の三人の男性が賄いをさせられました。
 私たち四人は、日本兵の性的奴隷のほか、日本兵の衣服の洗たくを強制されました。また、日本兵に話をするときはまずお辞儀をするように強制され、しないとひどく叩かれました。
 日本兵は強かんするときにコンドームはしなかったのですが、私は性病をうつされたり妊娠したりはしませんでした。
 一九四五年一月、空にはアメリカの飛行機が飛ぶようになり、付近にアメリカ軍が侵攻してきて、日本軍はゲリラキャンプから移動することになりました。私たちは四人の女性は、半日歩いた先の大きな道路で、日本軍から「さよなら」と言われ、解放されました。それ以降、他の三人の女性と会ったことはありません。
 私は、日本軍に見つからないようにと山間部を歩きつづけ、一週間後にアニブ地区に到着し、そこで家族と再会しました。(P.73~76)
1997.8 アジアの声 第11集
私は「慰安婦」ではない
日本の侵略と性奴隷
「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」実行委員会 東方出版
 皆さんこんばんは。私はピラール・フリアスです。一九二六年十月五日にフィリピンのルソン島南カマリネス州のシプコット町アニブ村という所で生まれました。私は、第二次世界大戦中に日本軍によって被害を受けた者です。現在六十九歳になります。
 事件が起きたのは一九四三年のある日のことで、当時私は十六歳でした。その日多くの日本兵が私たちの住むアニブ村にやって来ました三、四百人ぐらいはいたと思います。大きな日本の部隊でした。彼らは私たちの村人のおもな者を「ミーティング」と称して呼び集めました。私の父と母もそれに参加するために家を出ました。父は当時村で「バリオ・キャプテン」と呼ばれる村長のような役割についていましたので、出掛けて行ったのです。家には私と年上の従姉と叔母が残されました。
 そして昼前の十時頃だったと思いますけれども、遠くの方から五人の日本兵たちがやって来ました。
 彼らは口々に「こら、こら、シビリアン(民間人)」「たくさん、たくさん、ゲリラ」という言葉を繰り返しました。私はその意味がよく分かりませんでした。私はその時家の前に出てドラム缶に水を汲み、洗濯をしていました。日本兵の一人が、私がゲリラの妻であると言い出したようでした。そして彼らは私が何も答えないのに業を煮やし、一人の日本兵が私の右の頬に煙草の火を押し付けました。私が叫び声を上げると、さらに別の日本兵が私の顔を平手打ちし、持っていたジャングルナイフで私に対して切り付けてきたのです。私は体を避けるようにしてしゃがんだために、そのナイフが私の鼻の上の方から下に突き抜けるような形で突き刺さりました。右目の下も切られ、血がたくさん流れて、その時非常に大きな怪我を負いました。その傷は今でもはっきり顔に残っています。兵士は今度は私の頭をつかみ、水のいっぱい入ったバケツの中に何度も頭を押し込みましたそれから私の手を縛って木につなぎ、強姦したのです。彼が終わると次の兵士に替わり、再び強姦されました。兵士たちはすべてが終わると立ち去っていきました。
 私が最初の被害を受けて後、私たちの家族は別の村に避難することになりました。それは、アニブ村にやってきた日本兵が「この村にはたくさんゲリラがいる。だからお前たちは別の所へ行け」と命令したからでした。それで私たちは、カブソッドという別の村に避難しました。そして一年ほどたった一九四四年になってから、私たちの家族は元の自分たちの村に戻ることにしました。しかし戻ってみると、もう家はすでに全て焼き払われていました。住む家を無くした私たちの家族は、近くに唯一残っていた学校に一時避難することにしたのです。
 学校の校舎で避難生活をしていると、一週間目になって、またたくさんの日本の部隊がその学校にやって来ました。百人から二百人ぐらいでした。そして三人の女性が、それぞれ紐で腰のところを縛り付けられた状態で兵士たちに連れて来られていました。学校に着いた日本兵士たちは、そこで御飯を炊いて昼食を食べると、私に向かって「お前はいっしょに来るんだ」と命令しました。私は抵抗しましたが、三人の女性たちと同様に彼らによって後ろ手に紐で縛られて、その部隊に連行されたのです。
 日本の部隊は、バランバック山の方に向かいました。おそらく一時頃小学校の校舎を出たと思うのですが、その山の中腹には夕方の五時頃着いたと思います。兵士たちはゲリラのキャンプを捜していたのだと後で知りました。五時頃に着くと、日本兵たちは「休憩」と言い、お米を炊いて料理を作った後、私たちにも食べさせました。
 それから彼らは古いテントを持ち出しました。そして山の中腹でテントを広げ、私たちもそこで寝るように指示されました。そしてそのテントの中で最初の夜、私は日本兵からまた強姦されたのです。兵士たちは次から次へと私を輪姦し続けました。私も他の三人の女たちも抵抗することが出来ませんでした。抵抗しようとすると、その日本兵たちによって、手や拳骨で殴られたり、足で蹴られたり、ひどい暴行を受けたのです。ですから抵抗出来ませんでした。
 翌日また早朝に出発し、お昼頃にようやく彼らの目的であるゲリラのキャンプ地に辿り着きました。けれど何も見つかりませんでした。兵士たちは一ヵ所にとどまってゲリラの現れるのを待つことにしたようです。来る日も来る日もゲリラの現れるのを待つ一方で、兵士たちは私たち四人を強姦し続けたのです。そして昼間になりますと、日本兵たちの衣服の洗濯や食事作りをさせられました。私たちは逃げられないように、いつも腰に紐を結ばれていました。私たちはそこに約二ヵ月監禁されていましたが、彼らが私たちを強姦しない日は一日とてありませんでした。
 一九四四年の終わりか四五年になっていたと思いますけれども、アメリカ兵が日本兵たちに降伏を呼び掛けたために、日本兵たちはそこで終わりを迎えたのでした。日本兵はトラックに乗って駐屯地に移動していったようでしたが、私たちはその場に置き去りにされたのです。ですから私たちは仕方なく自力で帰らなければなりませんでした。私は日本軍に見つからないように自分の村まで約一週間かけて、そのキャンプ地から歩いて帰りました。
 私は、私がもう死んでしまったと思っている両親のところへ戻りました。私が連行されたまま二ヵ月も戻らなかったので、家族は私がまだ生きているとは、まったく思っていなかったのです。
 当時私には、結婚を誓っていたボーイフレンドがいました。けれども、切られた傷が元で私の顔は醜くなってしまい、そのことが原因で彼は私と別れることになってしまったのです。

(P.109~
2005.10 日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時企画2005in京都 ***** ****
フィリピン・マニラ在住。ピラールさんは歌が大好きで、リラ・ピリピナでロラたちが歌っている歌の歌詞をたくさん創作しています。「16歳で日本軍による性暴力の被害にあいました。ゲリラ掃討のために村に来た日本兵に、顔をナイフで刺され、後ろ手に縛られて、3人のおばと一緒に性暴力被害にあいました18歳の時には、日本軍の駐屯地に連れていかれ、ほかのフィリピン女性たちと昼は洗濯などの強制労働、夜は性暴力被害にあうという日々が2ケ月間続きました。日本政府は私の身に起こったことについて謝罪してほしいです。日本政府は私たち被害者の尊厳を今も踏みにじっています」
2007.3.7 LABAN! Fight for Comfort Women 「Dear Prime Minister Shinzo Abe:Join Me」
※リンク先は英語
***** ****
2007年3月7日
国際婦人デーのイブ
日本の内閣総理大臣の安倍晋三への招待状

安倍首相殿、

私達はまだ面識がありませんが、安倍首相をリラ・フィリピナの女性達に会っていただきたくご招待申し上げます。2007年3月2日首相は、「強制だったことを証明する証拠はない。第二次世界大戦下での軍による性奴隷が強制だったことを裏付けるものは何もない」とおっしゃられました。私は1998年から現在に至まで生存中のフィリピンの従軍慰安婦から情報を集めています。どうか、マニラのクエゾン市にある小さなコテージ、ロラス・ハウスにお越し下さい。そこには、元慰安婦達が集まり、首相が強制だったことを証明するのに必要な証拠があります。

もし、そこに81歳のピラー・フリアスがそこにいたら、1942年に彼女が拉致される前に日本人の兵士達と2つの乱闘があったことを語るでしょう。最初の事件では、兵士達が彼女を取り囲んで日本語で叫びました。混乱したピラーは反応しませんでした。いらついた兵士が吸いかけのタバコをこの女性の顔に押し付けて、肌に火傷の痕を残しました。彼女が泣き叫ぶと、その兵士は怒って今度は彼女の鼻をナイフで切りつけました。彼女の顔から血が飛び散って彼女が泣くと彼女の髪の毛を鷲掴みにして、バケツの水の中に彼女の頭を深く突っ込みました。その水は真っ赤に染まりました。兵隊達は彼女の家族の 牛やにわとりや豚などの家畜を盗んだ。又、お米や乾燥食品も奪った。2度目の乱闘では、彼女は違う兵士達に5度もレイプされた。17歳流血している彼女の腰をロープで縛って他の3人の女性達と共にフィリピンのゲリラ部隊を射撃する時に同行させられた。頑丈な麻のロープで一緒にしばられて、4人の少女達は毎晩レイプされた。毎回違う兵士達に一晩に5回レイプされた。

もし、彼女の言葉だけでは十分な証拠にならないとおっしゃるのなら、総理の手を貸して下さい。女性達が話をするのを相手が聞いていると信頼できるとき、女性達は相手の手をとって彼女の傷跡にさわらせるでしょう。ピラー・フリアスの鼻は幅が広くて平らですが、傷痕がその鼻一杯に広がっています。指をその傷痕にそって走らせると実際、兵士がピラーを切りつけたところを感じることができます。指を彼女の腰に走らせると、3人の女性と一緒にロープでしばられて森に引きずられ、毎晩レイプされたときにできた傷痕がわかるでしょう。

これでもまだ強制の証拠と言えませんか?

2007.5.21 朝鮮日報「【フォト】日本軍による傷を見せる元慰安婦」 ***** ****

 20日午前、ソウル水踰クリスチャン・アカデミーハウスで開かれた第8回「日本軍“慰安婦”問題解決のためのアジア連帯会議」で、フィリピンの元慰安婦ローラ・ピラ・イ・プリヤスさんが被害を証言し、日本軍につけられた傷跡を見せている。

2007.5.21 しんぶん赤旗「“ひもで結ばれて拉致”アジア連帯会議 元『慰安婦』が証言」 ***** ****
 フィリピン人のピラール・フィリアスさん(80)は「日本の憲兵、警察がとても怖くて、行かざるを得なかった。腰をひもで結ばれて拉致され、抵抗するとなぐられた。鼻を刺されて、その傷跡が残っている。顔にたばこの火も押し付けられた」と発言。「狭義の強制性はなかった」とする安倍晋三首相の強弁に反論しました。


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◆◆◆ トマサ・サリノグ(Tomasa Salinog) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

愛称:ロラマシン
1928年12月8日生まれ。母は同女を産んだ1ヵ月後に死亡。1942年、13歳の時、家に4人の日本兵がやってきて駐屯所近くの家に連行される。その際、父親は死亡。1年後、同女の部屋に、日本兵が鍵入りのズボンを忘れて行ったことを機に逃亡。その後、奥村という大佐に捕まり、1年弱、その自宅に監禁され慰安行為を強いられる。

1993年4月東京地裁に提訴。1998年10月地裁は棄却の判決。2003年12月最高裁で上告棄却・上告受理棄却、敗訴確定。(フィリピン「従軍慰安婦」補償請求訴訟)
1995年に日本政府が設立した財団法人「女性のためのアジア平和国民基金」の一人200万円の「償い金」の受け取りを拒否。
2000年12月、女性国際戦犯法廷にて証言。
2007年4月死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本兵が家にやってきて連行される。


【考察】

集めることのできた資料は全て、全体的に漠然とした内容。1年間過ごした慰安所の建物や部屋の様子、そして、そこでの生活の様子も出てきません。


また、下記資料の「破られた沈黙」(以下、「沈黙」)と「フィリピンの日本軍『慰安婦』」(以下、「フィ」)を比較すると以下の通り相違点があります。

<連行された夜に強姦された人数>
○「沈黙」・・・5人に強姦される
○「フィ」・・・ヒロオカ大尉に強姦された後、別の兵士に強姦される際、抵抗して頭を殴られ気絶する。意識が戻った時は誰かが私の頭の傷をお湯で拭っていた。
→ 「沈黙」では5人と明記されていますが、「フィ」では2人目に殴られて気絶してしまっています。気絶したのでは、その間も強姦され続けたのかどうかも分からないでしょう。意識を取り戻した後のことは何も記述されていませんが、その後、強姦されたのでしょうか。

<最初に強姦された時間帯>
○「沈黙」・・・「夜中まで次々と強姦された」
○「フィ」・・・「夜中に私は父のことを思い、泣き続けました」とあり、その後、夜明け前に兵士達が入ってきて強姦される。
・・・時間帯が全く異なっています。

<監禁状態から逃げ出せたきっかけ>
○「沈黙」・・・上官から急がされた兵隊が、部屋に鍵の入ったズボンを置き忘れていった
○「フィ」・・・兵士が部屋のテーブルの上に鍵を忘れていった
→ 微妙に違っています。「沈黙」ではズボンを忘れていったことになっていますが、ズボンなんか忘れたらすぐに気付くでしょう。

<一回目の監禁の期間>
○「沈黙」・・・約1年間
○「フィ」・・・・「どのくらいその家にいたかは覚えていません」と記載されている
→ 一方では凡その期間を証言しているのに、一方では覚えていないことになっています。


なお、「沈黙」、「フィ」共に、

 ①日本兵に駐屯地へ連行され、強姦される日々が続く(「沈黙」によると約1年間)
 ②脱走して、ある夫婦にかくまわれる
 ③オクムラという日本兵に捕まり、強姦され、洗濯や掃除をさせられる。(「沈黙」によると一年以内)

という内容で一致していますが、NGO「LOOB」のホームページによると

翌日から約3年間もの間、その将校はロラに掃除洗濯などをさせ、夜は性奴隷としてロラを扱った

となっており、③のオクムラ関連の情報が無くなって、全て、日本軍の駐屯地での話に統合されています。単に省略しただけでしょうか。
さらに、「沈黙」では、①~③が約2年間のはずですが、何故か3年間、性奴隷として扱われたことになっています。

(※「トマサ・サリノグの請願」でも「 それから約2年間、わたしは日本兵士たちによって奴隷として監禁され、強かん、虐待されました」と記載されている)
(※そもそも、このNGOの情報がどのくらいあてになるものかは不明ですが)


また、同女の証言の疑問点は以下の通りです。

<部屋に鍵を忘れていったくらいで逃げ出せるのか>
・・・同女は、兵士が鍵の入ったズボンを忘れていった為に逃げ出すことができます。ズボンなんか忘れたたらすぐに取りに来るでしょうし、また、仮に、同女が鍵を抜き取ったとしても、鍵をかけられないままで済むとは思えません。
部屋にズボンを忘れた日本兵が鍵の管理をしていたのか、それとも、最後の部屋を使用した者が鍵をかけることになっていたのか。鍵かけのルールがどのように決められたのかは分かりませんが、どちらにしても鍵をかける際に鍵がないことに気づくでしょう。

現状の証言だけでは、逃げ出せる機会になり得たということが理解できません。
また、NGO「LOOB」の記事によると、「近所のフィリピン人が脱走を手伝ってくれた」ことになっています。さらにワケが分かりません。

<オクムラという大佐の家で監禁される>
・・・同女は、一回目の監禁から脱走した後、オクムラという大佐に捕まってその自宅に連れていかれ、強姦されたり、洗濯や掃除をさせられ、また、来客があるとその者との性交渉を強要されることもあったと証言しています。
当時の状況はよく分からないのですが、大佐にもなると、個別に住居を構えることがあったのでしょうか?

<2回目の監禁から解放されたのは日本軍が完全にいなくなってから>
・・・「フィ」には「日本軍がサンホセから完全にいなくなって私はオクムラから解放されました」とあります。
この記述だけで、解放された時の状況も不明確なのですが、アメリカ軍の侵攻に伴って日本軍が撤退し解放されたということでしょう。
言葉尻の問題かも知れませんが、「完全にいなくなって」という表現が気になります。オクムラは日本軍全員の撤退を待ってから自分も撤退したのでしょうか。

自宅を持っていたことと言い、オクムラはただの民間人ではないかと疑いたくなります。そう仮定して、「日本軍が撤退して危険になったので自分も移動するなり日本に帰るなりした」と考えれば、上の証言も納得がいきます。


【信憑性】

上であげた証言の相違点や疑問点だけでは信憑性を完全に否定できるものとは思いませんので、現状では、「疑わしい」という判断で留めたいと思います。

もっと詳細な証言を入手できたら、疑問点等も解消出来るかも知れません。


ただし、個人的には、「単に、オクムラという民間人の家に住み込みで働いていた際、無理やり妾状態にされただけではないか」と推測していますが。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.7 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
1928年12月8日生まれ
フィリピン共和国パナイ島アンティケ州在住

 お母さんは、私を産んで1ヵ月で死にました。お父さんは貧しい大工でしたが、2人で平和に暮らしていました。私が13歳の時に日本軍にやって来たので、学校は閉鎖されました。
 お父さんと山の中に逃げたのですが、空腹のうえに劣悪な環境でした。アンティケ州の知事に「危害は加えられないから戻るように」と説得されたので家に帰りました。町中に日本兵があふれていました。
 山から戻って2週間したある夜、2人の日本兵が家に侵入してきました。1人は「広岡」大尉だと後で知りました。外にも2人いました。
 お父さんは私に隠れるように言いましたが、見つかってしまいました。彼らが私を連れ去ろうとしたので、お父さんは抵抗しましたが、「広岡」に刀で切られて倒れました。私が駆け寄って抱きしめた時には、お父さんの首は胴体から離れていたのです。
 日本兵は、泣き叫ぶ私を家から引きずり出し、駐屯地近くの2階建ての古くて大きな建物に連れ込みました。そこは日本軍に「食堂」と呼ばれていて、すでに多数の女性がいました。私は抵抗したのですが、「広岡」大尉に強姦されました。この時に殴られた頭の傷は今も残っています。この夜に5人に強姦されたのです
 日本兵たちに夜中まで次々と強姦されたので、私は何度も意識を失ってしまい何人から強姦されたのかわからないほどでした。空いているベッドで自分の番を待っている日本兵もいました。山のパトロールから帰った兵隊は、ココヤシから作った酒を飲んで凶暴でした。私はまだ初潮も迎えていなかったのに、豚小屋の中の豚のように扱われたのです。私はお父さんを思い出しては泣いていました。
 日本兵は、作戦に出かける時には家中の鍵をかけて行きました。ところが1年ほどしたある日上官から急がされた兵隊が、私の部屋に鍵の入ったズボンを置き忘れて行ったのです。私は逃げ出して、ある老夫婦にかくまってもらっていました。
 ところが、「奥村」という大佐に見つかって再び捕まってしまったのです。「石原産業」の隣にあった「奥村」の家で、彼だけでなく彼の友人たちからも強姦され、洗濯や掃除もさせられました。ここにいたのは1年以内でした
 私はこの日本兵による仕打ちで傷ついたので、日本軍が去ってからも決して結婚しようとしませんでした。
 私は「パナイ・ニュース」で、日本軍に被害を受けた女性たちを調査していると知りました。毛布を100ペソ(約500円)で売って交通費を作り、イロイロ市の女性団体の事務所に行ったのです。(P.162~167)
1995.12 フィリピンの日本軍「慰安婦」 ―性的暴力の被害者たち フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団 明石書店
 私はトマサ・サリノグです。一九二八年十二月八日、アンティケ州州郡のサンホセに生まれました。母は私の生後一ヵ月で亡くなり、きょうだいはおりません。
 一九四二年に日本がフィリピンを占領したときには私は十三歳でした。私は父と山へ疎開しましたが州知事が州都は安全になったと宣言したことを機に家へ戻りました。山から家へ戻る途中に初めて日本兵を見ました。サンホセは日本兵であふれていました。
 日本兵の駐屯所が家のすぐ近くにあったので通りを行く日本兵をよく見かけました。兵士たちは私のじゃまをすることも、私たちを傷つけることもしませんでした。少なくともしばらくのあいだは。
 しかし、二週間後、父と私が寝ているところへ、日本兵が押し入って来ました外にはほかに二人が待機していました。二人の兵士が私を連行しようとしたため、父は抵抗しました。するとそのうちの一人、後でヒロオカ大尉と知るのですが、彼が剣で父の首を打ちました。父を助けようと駆け寄り、抱き起こすと頭がなくなっていました。あまりの悲しさに泣き叫ぶ私を日本兵は容赦なく家から引きずり出しました。私は父の亡骸につきそいたいと、放してくれるよう頼んだのですが、日本兵は気にもとめませんでした。首を切り落とされた父の亡骸はそのままに放置されました。
 私はサンホセのゴビエルノ通りにある二階建ての家に連れていかれました。日本軍の駐屯所がする近くにありました。日本兵は私をなかに入れ、鍵をかけて出ていきました。夜中に私は父のことを思い、泣き続けました
 夜明け前にヒロオカ大尉と他の兵士が部屋に入ってきました。彼らは、弱っていて、打ちひしがれている私にセックスを強要しました。私は強く抵抗しましたが、ヒロオカは私を強かんしてしまいました。ヒロオカの後に次の兵士が強かんしようとしました。私は弱っていましたが、再び強く抵抗すると、その男は何かで私の頭を殴り、私は気絶しました。意識が戻ったときにはだれかが私の頭の傷をお湯で拭っていました
 その後三日間は部屋のなかに一人でおかれ、日本兵は来ませんでした。しかしその後は日本兵が来て私を強かんしました。私は何度も気を失ったので何人に強かんされたかは覚えていません。毎日二人から五人くらいの兵士に強かんされました。
 どのくらいその家にいたかは覚えていません。自分が正気を失ってしまったと思えることもありました。部屋のなかにただ座って何時間もぼんやりと宙をみつめていました。いつも父のこと、どうやって殺されたかを思い出していました。父がどこに埋葬されたかもわかりません。
 ある日兵士が部屋のテーブルの上に鍵を忘れたのを機に逃げ出しました。ある夫婦の家へ逃げ込み、かくまってもらい、私は家事の手伝いをしていましたが、長くは続きませんでした。オクムラという日本兵が来て、引き渡さなければ殺すと夫婦を脅し、私を連れ出しました
 私はオクムラの家へ連れていかれ、奴隷のように扱われました。洗たくや掃除を命じられたほかにオクムラが帰るたびに強かんされました。オクムラは来客があると、その者に私を強かんさせることもしました。けれども私はオクムラの家から逃げだそうとは考えませんでした。逃げたら殺されるか拷問される、という思いと、あの大きな家で多人数の日本兵にセックスを強要されるよりは、オクムラの家のほうがましだという思いからです。
 日本軍がサンホセから完全にいなくなって私はオクムラから解放されました。(P.48~49)
2001.11 NGO「LOOB」 「元従軍慰安婦ロラ・マシンの話」 ***** ****
 それは、ロラ・マシンが本当にまだ「少女」だった13歳のときだった。父親と住んでいた家に日本軍の将校が来て、「彼女を連れて行く」と父親に伝えた。激しく反対する父親に日本兵は怒り、彼女の目の前で父親の首をはねた。ロラが半狂乱で「タタイ!」(タタイ:お父さんの意)と近寄ると、頭がゴロっと床に向かって崩れたという。翌日から約3年間もの間、その将校はロラに掃除洗濯などをさせ、夜は性奴隷としてロラを扱った。この将校だけでなく、他の兵士の相手をさせられることもあった。近所のフィリピン人が脱走を手伝ってくれたが、また見つかって連れ戻されたという。

 日本軍に心も体も傷つけられた彼女は結婚せず、今も父親が殺された家で1人で暮らししている。母親が残してくれた足踏みミシンを使って、洋裁仕事で細々と生計を立ててきた。フィリピン人男性に求婚されたこともあるが、慰安婦だったことが分かって冷たくされたときはショックだった。

 ロラは、今でも父親の殺され方を思い出さない夜はない。何人もの日本人にレイプされた苦しみを思い出さない日はない、と語る。

(注)ロラ・マシンはトマサ・サリノグの愛称(管理人)
2007.3.30 日本軍「慰安婦」問題行動ネットワーク「トマサ・サリノグの請願」 ***** ****
内閣総理大臣 安倍 晋三 様

わたしはフィリピン、アンティケ州サン・ホセ市の住人で、現在78歳のトマサ・サリノグと申します。

1942年に、日本兵士たちがアンティケ州サン・ホセ市の私たちの家に強制的に踏み込んできたとき、わたしは13歳で、一人娘として父と二人で暮らしていました。
わたしの父は、兵士たちが私を連れ去るのを防ごうとして兵士たちにその場で殺害されました。

それから約2年間、わたしは日本兵士たちによって奴隷として監禁され、強かん、虐待されました。

日本兵士たちはわたしから唯一の家族を奪いました。わたしは赤貧の中、一人ぼっちとなり、面倒をみてくれる人もいなくなったため、学校に戻ることはできず、生き延びるために働かなければなりませんでした。戦争と、そして性奴隷にされたため、わたしの人生と将来は破壊されました。

わたしは今や年老い健康も蝕まれています。日本兵士による虐待と、生き延びるために余儀なくされた重労働によって負った病は、今もひき続き深刻さを増しています。

わたしは貧しく健康を害する中で、アジア女性基金の受け取りを拒否しました。
アジア女性基金による償い金では、私の、女性としての人権の侵害と深刻な犯罪行為を償うことはできません。

日本軍がわたしの父親とわたしに対して行った行為に対して、日本政府は責任をとらなければなりません。

安倍首相、わたしたちが語った真実を認めるよう、あなたへ要請します。
それが、わたしが祈り求めてきた正義です。
わたしたちは日本の平和への取り組みについて知っていますが、正義がなければ世界で平和は実現されません。
わたしが死ぬ前に正義が実現されることを願います。

                        トマサ・サリノグ

◆◆◆ 姜日出(カン・イルチュル) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1928年10月26日、慶尚北道尚州郡で12人兄弟の末っ子として生まれる。子ども時代、いとこに連れられて学校に通っていたが、父母の畑仕事の手伝いや、食事の準備などで学校にはあまり通えなかった。1943年16歳の時、当時「処女供出」「報国隊」の名目で若い女性を募集する動きが激しくなっており、家に警察がやってきて軍靴の紐を編む工場で働くと騙され、中国の牡丹江にて慰安婦を強いられる。腸チフスにかかり、1945年初夏、他にうつることを恐れた軍人に焼き殺されそうになるが、朝鮮人たち救われ脱走する。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

家にやってきて工場で働くと騙したのが警察。


【考察】

同女の証言の疑問点等は以下の通りです。

<家は裕福?>
・・・「ナヌムの家歴史館ハンドブック」には、「父母の畑仕事の手伝いや、食事の準備などで学校にはあまり通えず」とあるので、それほど裕福であったとは思えませんが、「戦争と性」では、「家は裕福」と言っています。


<入れられた慰安所の場所>
・・・同女が入れられた慰安所の場所は以下の通り

○「ナヌムの家歴史館ハンドブック」・・・牡丹江の慰安所
○「戦争と性」・・・吉林省長春の慰安所(※長春は満州時代の首都、新京のこと)
○「asahi.com」・・・奉天(瀋陽)、新京(長春)などの慰安所
○「ナヌムの家HP」・・・牡丹江の慰安所

何故か、入れられた慰安所の場所がまちまちです。なお、「ナヌムの家歴史館ハンドブック」には以下の通り記載されており、奉天と長春は牡丹江に向かう際に経由した地としか読めません。
結局、奉天、長春、牡丹江の全ての慰安所にいたということでしょうか??

「その後(※連行された後)、多くの朝鮮人、日本人、中国人の女性たちとともに汽車や車、トラックで中国の奉天(現在の瀋陽)から新京(現在の長春)、牡丹江へと移動させられた。途中で降ろされる女性もいれば、新たに加わる女性もいた。」


<日本軍人が連行?>

・・・「YAHOO!! KOREA」の記事には、以下の通り記載されています。

「小学校で家に帰って来たら日本軍人と警察 2人がトラックをひいて来て強制で積載するに乗せて連れて行った」

(※「北海道新聞」でも軍人と警察が来たことになっています。)
一方、「ナヌムの家HP」では、以下の証言しています。

「学校をやめて 2年頃家で働いてから引かれて行った」
「巡使ふたつが来ました」
「日本人なのか朝鮮の人なのか分からないです」

つまり、連行時は、学校をやめていたので、小学校から帰ってきた時に連行されたというのはおかしいですし、また、やって来たのは、日本人か朝鮮人か分からない巡査二人であって、「日本軍人」ではありません。
意図的に証言を変更しているのでしょう。


<3年間慰安婦?>
・・・「YAHOO!! KOREA」の記事によると、「日本軍慰安婦で3年を送った」と証言していますが、これを「ナヌムの家歴史館ハンドブック」、及び、「ナヌムの家HP」の内容と照らし合わせると。

 ①1943年秋、連行
 ②1944年年初、慰安所に到着
 ③1945年初夏脱走

つまり、慰安婦生活は最大でも「1年8ヶ月」。また、慰安所までの移動時間も入れてもせいぜい「2年足らず」です。


【信憑性】

同女の証言には、「処女供出」の話が出てきたり、入れられた慰安所が証言毎に違っていたりと非常に疑わしい内容です。

細かい所で証言を変更しているのは確かですが、現段階では信憑性を完全に否定できるほどのものは集められていないと考えます。

よって、現時点では「疑わしい」という判断で留めたいと思います。


なお、あくまで推測に過ぎませんが、なんらかの事情(家が貧乏で金が必要だった等)で売春婦になって、奉天、長春、牡丹江と転々とし、最後にいた牡丹江だけが慰安所で、奉天、長春は売春宿だったのではないでしょうか。そして、売春宿も含めた期間が3年。
そう考えれば、入れられた慰安所の場所が証言ごとに異なっていたり、慰安婦を3年間したという発言が出てきたことも辻褄が合うのではないかと思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房
 1928年10月26日、慶尚北道尚州郡安東面で12人兄弟の末っ子として生まれる。そのとき、すでに上の兄弟6人は亡くなっていた。子ども時代、いとこに連れられて学校に通っていたが、父母の畑仕事の手伝いや、食事の準備などで学校にはあまり通えず、14歳ごろからは家にいた
 連行されたのは1943年16歳のときだった。当時「処女供出」「報国隊」の名目で若い女性を募集する動きが激しくなっており、ハルモニの家にも警察が刀をさげてやって来た。そのとき、家にはいとことハルモニしかおらず、とても拒絶できる状況ではなかった。しかも、軍靴の紐を編む工場で働くと騙されたのだ。
 その後、多くの朝鮮人、日本人、中国人の女性たちとともに汽車や車、トラックで中国の奉天(現在の瀋陽)から新京(現在の長春)牡丹江へと移動させられた。途中で降ろされる女性もいれば、新たに加わる女性もいた。牡丹江の慰安所は煉瓦造りの兵舎のような所だった。そこで30余名の女性たちとともに「慰安婦」生活」を強いられた。
 到着後まもなく全員車に乗せられ、軍人病院に連れていかれて身体検査を受けた。工場で働かされるものと思っていたハルモニは、何がなんだかわからなかった。性病検査は耐えがたいものだったが、その後も週に一回ぐらい定期的に検診を受けさせられた。
 慰安所では「オカダ」と呼ばれた。朝鮮人女性をはじめ日本の女性、台湾の女性もいた。ひとつの部屋にいれられ、呼ばれると出て行った。ハルモニは当初年配の将校の相手をさせられた。まだ生理も始っておらず、想像を絶する苦痛を受けたうえ、あふれる血を見て叫んだハルモニを見て、彼は胸倉をつかんで押さえつけながら殴ったり蹴ったりした。そのとき頭を殴られたのが原因で膿が出るなど長い間苦しめられ、いまもそのときの傷跡が残っている。
 その後はひとつの部屋をあてがわれ、1日に7、8名の兵士の相手をさせられた。しかし、暴力は止むことなく続いた。慰安所に来た翌年の春に腸チフスにかかり、高熱が続き、食事も摂れなくなってしまった。1945年初夏の頃、軍人に連れられて車に乗せられて山のふもとに行くと、すでに薪を積み上げ、火を燃やしていた。しかしそのとき、朝鮮人たちが日本の軍人と乱闘のすえ、ハルモニを背負って逃げた。
 逃亡後、ある朝鮮人の家に預けられ、そこでしばらく養生した後、ある朝鮮人男性と結婚した。(P.135~136)
2007.3.13 北海道新聞 ***** ****
従軍慰安婦だった韓国人の姜日出(カンイルチュル)さんが、自宅から日本の官憲に連行される様子を帯広市内で本紙に語った。「カーキ色の服を着た軍人と、黒っぽい服を着て腰にサーベルを付けた巡査に両腕をつかまれ、トラックに乗せられた」十六歳だった。そのまま慰安所に行かされた。いま七十九歳、道内各地で証言を続ける。釧路の集会では、安倍首相が「官憲による強制連行的なものがあったということを証明する証言はない」などと「狭義の強制」を否定したことに、憤りの涙を流したそうだ▼「元慰安婦の証言だけに頼るのは乱暴」と主張する人もいる。首相もかつて、関連文書がないなどとして、軍の直接関与に疑問を呈した。だが軍は敗戦時に大量の文書を廃棄した。見つけるのは至難だ▼日本の巡査に「きれいな服を着てお金をたくさん稼げるところに行こう」と誘われて応じた。十三歳だった女性の証言だ。「強制連行」の印象はわずかだが和らぐ▼だが慰安所から逃げようとしたら軍用犬で脅され、最初の行為を拒むと軍人に刀で刺された。すぐ夜ごとレイプされるようになる。こうした被害を前に、強制の狭義、広義を論議しても何も生まれまい▼結婚できず、故郷からも逃れ、生涯を孤独に生きた人もいる。慰安の名とは逆に、慰めも安らぎも薄かったろう。そんなお年寄りの心の傷に、今また塩を塗り込んでどうするのか。
2007.6.15 YAHOO! KOREA 「姜日出お婆さん『慰安婦関連、日嘘は世界1位』※リンク先は韓国語 ***** ****
【忠州=ニューシース】日本議員などがアメリカワシントンポスト紙に出した広告で波紋が広がっている中に慰安婦出身姜日の出お婆さんは 15日 "日本人たちのオブは仕事作り上げる才は世界 1など"と言いながら怒りを耐えることができなかった.

川お婆さんはこの日忠北忠州ズングサンウェゴで持った '日本軍慰安婦巡回証言' 行事で問題の広告に対する見解を問う記者たちの質問にこのように怒った.

川お婆さんは "小学校で家に帰って来たら日本軍人と警察 2人がトラックをひいて来て強制で積載するに乗せて連れて行った"と '慰安婦動員に強圧がなかった'と言う日本人たちの主張は捏造されたことなのを確かにした.

また '将校や将軍より収入が多かった'は新聞広告主張に対しても "日本軍は慰安婦たちに両替することができるかさぶたを与えたが監禁状態だから実際にこれを両替することができる道はなかった"と "特に日本が敗戦しながらこのかさぶたは皆紙切れになってしまった"と言った.

川お婆さんは引き続き "10代の幼い年令に一日平均 7人の日本軍たちに性暴行にあったし, とても痛くてトイレも行くことができなかった"と目頭を赤くしたりした.

全校生の参加した中にこの学校講堂で進行された巡回証言で川お婆さんは "ナラウル失う苦痛はあまりにも大きくて, 国民が経験するさげすみも想像することができない"と "我が国が再び国を失う事がないように青少年たちが熱心に努力しなければならない"と頼んだ.

慶北常住で生まれた川お婆さんは十六年に軍靴紐作る工場へ行かなければならないという理由で日本軍によって強制に引かれて行って中国モックダンガング(※牡丹江(管理人))から日本軍慰安婦で 3年を送った.

解放以後には中国吉林で看護婦生活をしたし 2001年慰安婦被害者に登録して国籍を回復して京畿道光州分け蟻集で過ごしている.

一方民族史官庫学生サークル 'しらぬまに少しずつ'が主観する慰安婦巡回証言は川お婆さんと李屋ではお婆さんから日製慰安婦の実際を聞く行事で, ズングサンウェゴを始まりに全国 7個高校で進行される.

(※上記は機械翻訳)
2007.8.17 asahi.com「旧日本軍問題の解決を求める証言集会」 ***** ****
 旧日本軍の慰安婦だった女性による講演会「消せない記憶―旧日本軍問題の解決を求める証言集会―」が9月2日午後2時から、高知市本町4丁目の県民文化ホール(オレンジ)で開かれる。全国数カ所で同時期に行う証言集会の一つで、「全国同時証言集会高知実行委員会SALAD」の主催。

 証言する被害者女性の姜日出(カン・イルチュル)さんは朝鮮半島出身。16歳で中国へ連れて行かれ、奉天(瀋陽)、新京(長春)などの「慰安所」で従軍慰安婦として過ごし、72歳まで韓国に帰国できなかった。現在は、元慰安婦が共同生活する韓国の「ナヌムの家」で暮らす。
2007.8 戦争と性
韓国で「慰安婦」と向きあう
高柳美知子・岩本正光 かもがわ出版
 一六歳の時、日本軍によって中国・吉林省長春の慰安所に連行された。六一年たっても、いまだ日本政府が自分たちに謝罪してくれないことに怒りをおぼえる。(P.50)

 私は一二人兄弟の末娘として生まれ、家は裕福でとてもかわいがられた。その末娘をなんで両親が「慰安婦」として出そうとするでしょうか。「慰安婦」はお金を稼ぐために行ったのではない。いま食べられないから、お金で償ってくれと言っているのではない。(P.51)
2007.8.28現在 ナヌムの家HP
※リンク先は韓国語
***** ****
(以下は機械翻訳(管理人))

1943年秋に動員
されて, 1944年年始に中国モックダンガング
(※)慰安所に到着して以後 1945年解放されるこの間に脱出するまで慰安婦で生活した.

(※)牡丹江(管理人)

-下の内容は初インタビューを土台として以後何回のインタビューを通じて確認した内容を補ったのだ.

* * *

お婆さんは 1928年 10月 26日慶尚北道尚州郡化東面蟻酸で生まれた.
お母さんが子供を皆十ふたつを生んだが日の出はその中末っ子だ. 日の出が生まれた時もう上の五つ兄弟が死んで七が残った. 日の出が末っ子だからご両親はもうたくさん老けたし, 農業をした.
"幼い頃に甥たちとすべて一緒に大きくなりました. 学校は和同小学校を私たちのクンゾカと私と学校てがらで, 下に人は学校も行かせるです. とても子供入り多くて. クンゾカしてからは年差が一歳差か? (甥が私を) 弟(妹)のように連れてデングギョッジ.
だから学校に行きかけてから--- 働きに行っている途中ご飯も年だ酒庫, また他の子供達は働きに行けば生える飯をたいていてで枝. だから学校もたくさん下がって, 日本語の中と朝鮮言えばトドリョ迎えました. その時が何だから? 熱六歳か? "
故 : それではです 16歳(1943年), 頃頃その時です? (学校をやめて 2年頃家で働いてから引かれて行った.)
川 : なんかそうだ. そう働きなさいといえば働きに行きます. どんなに行かないんですか. うちのママが連れて働いたが.
故 : それでは主に何か働きましたか? 畑である?
川 : 畑である. 草取りをしてまた感生える時感タガンダでこと守ってください. 秋だから出て感日少ない朝夕方ちょっと肌寒いです.
故 : 秋です? はい. 中国にいらっしゃるようになる時その時の話をちょっと詳しくしてください.
川 : 中国に行く時にも, しきりに抜くことから隠れてデングギョッです. しきりにそうまた抜かないか日が暮れてまた来るようになればまた抜いてそうしている途中私が行ったんです
故 : 何を抜くとグロドンがです?
川 : こんなに選んでいて日本奴が枝行くんだよ.
故 : お婆さん, ところでその時女達を連れて行くというそんなうわさが広がりましたか?
川 : アアいくら選んで. 私の顔が売れました.
故 : どこで出ましたか?
川 : 河東で.
故 : 河東どこで? 学校でそんな話が出ましたか?
川 : いいえ. 警察署で.
故 : 警察署で? 誰がその名前を知らせてくれました?
川 : 弛張がアルキョズォッジ. --- 私が. 誰に言えないです. 私の中国でも言わない. 自分のお寺でも本当私の涙が中に降りました. 子にも話せないです. 誰に言葉ハゴッですか? 及びます, 及びます. 私がそのように掛けがね良くて利口なことがもう馬鹿だなったの, 私の一生と言うこと, このようになったの.
故 : あの時この名前を何だとそうだったです? 従軍慰安婦とそうだったです? それとも慰安婦だとそうだったです? 呼ぶ名前が何だとそうだったです?
川 : そうだったが--- 何 '娘供出', '保国隊' 抜いてそうだったです.
故 : それでその時行くようになった時はどう行くようになりました?
川 : 直接巡使ふたつが来ました.
故 : 巡使たちは朝鮮人です? 日本人です?
川 : その時は何日本語お上手だから, 日本人なのか朝鮮の人なのか分からないです.
故 : そのまま日本語にしましたか? それでははそのまま警察服着て?
川 : はいその時は. 刀だけ見ても恐ろしくてぶるぶると震えるのに. 刀がちょうどこの万ずつ大きいことを満ちて来たが.
故 : それではいつ来ましたか? 昼え?
川 : その時午後円価--- その時また雨がツルツル来てそうだったです. ちょうど驚かしていて.
故 : だから何らの予告もなしに急に来たことです?
川 : 常住へ行かなければなりませんよ. うちのママもいなかったですその時は. 乱また避けて来たから仕事ないかしました.
故 ; 何かこのような紙に行かなければならないそうなこのごろ言葉にすれば令状なのに, そうなことが来ましたか?
川 : はい, はい. だから私がぶるぶると震えて. ママやお父さんもいなくて, 私たちが学校のようにデングギドン甥が一緒にいたの. そうその子を与えながらハルメ全甘さにこれを与えなさいと言いますね.
故 : お婆さんは全然抵抗することはなくてそのまま付いて行きましたか?
川 : 付いて行かなくてはならない, どんなに付いて行かないですか? スンサンデ. 巡使だけ見ても私たちはこんなに中それでもしきりに逃げますよ. 巡使だけ見れば子供達が外に出なくます.
(後にお婆さんは刑事たちが甥を押しのけて, お婆さん腕を紐で縛って連れて行ったと言った.)
故 : 常住に行っては警察署に入りましたか?
川 : 入って行った歌謡, 汽車乗って行きました, その次には.
故 : 警察署に入ってこんなに調査してそうしたですか?
川 : 調査もしないです. もうここですべてしたんです. 私をどこ他の人を送るオチォンダ真書, 誰もそのように考えもしなくて, 家に大人たちも仕事オブゴだから思ったんです. 誰そんなことができますか? 他の人送るから.

常住までは警察たちして車に乗って行ってその日夕方に汽車に乗った. キムチョンでまた違う女達を乗せた.
"代六つが上って来たが, 朝鮮末ができないようにします. 殴ります, 朝鮮末をすれば. すべて日本語にしなければなりません. 足でちょうど満ちます. 便所へ行っても一つ一つ枝, ふたつが出る事ができません."
また他の所で女達を乗せて皆九人になった.
彼らの降りた所は中国沈陽だった.
"中国にあの時奉天(当時には沈陽を奉天と言った)でまた下りました. 下ってまたどこ連れて行きますよ. ことなの行っていて, ちょっとある途中どこに行った上に, 今は長春と言いますね. 長春にまた行ってありました "
"中間に日本女達が上って来ますよ. その女が (何年前に) 敷布団吉林で会ったが去年に死にました. そうだったが私にそうです. "長く長く言わないでね." 出て見て. また "どこ行っている途中解放いい." こんなに言いなさいと. "日本人掘り下げれば限定がない."で."

~(以下略)~


◆◆◆ レメディオス・ヴァレンシア ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1920年2月9日生まれ。9人兄弟で小学校は4年まで通う。1943年10月頃、市場で3人の日本兵に拉致さて強姦。その後、慰安所に入れられる。1944年11月頃、米軍の爆撃のどさくさに紛れて逃げ出す。

1993年4月東京地裁に提訴。1998年10月。地裁棄却判決。2000年12月東京高裁で棄却判決。2003年12月最高裁で上告棄却・上告受理棄却、敗訴確定。(フィリピン「従軍慰安婦」補償請求訴訟)


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本兵に連行される。


【考察】

下記資料の「フィリピンの日本軍『慰安婦』」(以下、「フィ」)と「私は『慰安婦』ではない」(以下「私は」)を比較すると以下の通り内容の相違があります。

<連行された時の状況>
○「フィ」・・・市場で魚を売っていた時に3人の日本兵に連行
○「私は」・・・市場の前で日本の軍隊が行進しており、その道を渡ろうとして3人の日本兵に連行

→ 「私は」の証言にはありませんが、魚を売っていて道を渡ろうとしたのでしょうか。

また、日本軍の行進の規模は分かりませんが、同女が道を渡る為に、わざわざ日本軍に通行許可を取っているところを見るとそれなりの規模であったと思われます。
しかし、行進途中に3人の兵士が女性を拉致して強姦するほど、日本軍の規律が乱れていたとは思えないのですが。


<強姦された場所>
○「フィ」・・・近くの空き家
○「私は」・・・市場の向こう側

→ 市場の向こう側の空き家ということでしょうか。


<強姦された後>
○「フィ」・・・マニラのダコタ地区の大きな二階建ての家に連れて行かれて慰安婦を強いられる
○「私は」・・・ガイソンという基地に運ばれ、8ヶ月監禁されて強姦される。その後、ダコタ地区の家に移される。

→ 「私は」では、強姦と「ダコタの家」の間に、「ガイソン基地」の情報が追加されています。
この基地では8ヶ月間監禁されており、同女が拉致されて解放されるまでの約1年間の3分の2を過ごしたことになります。抜け落ちるわけがない情報です。さらに、「フィ」は、裁判の為に弁護士が聞き取り調査を行ったものです。証言集会などでの証言の場合なら、省略した可能性も考えられなくもないですが、その可能性は限りなく低いと言えるでしょう。

また、ダコタの家は、日本人女性が管理し、監視も日本の民間人男性と、普通の民間経営の慰安所という印象を受けます。「ガイソン基地」は、日本軍の関与度を増すために後から追加した創作でしょう。


【信憑性】

連行時の状況は疑わしい内容であり、また、後から日本軍の基地での監禁話を追加しています。信憑性はないでしょう。

民間経営の慰安所で働いていただけだと思われます。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1995.12 フィリピンの日本軍「慰安婦」 -性的暴力の被害者たち フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団 明石書店
 私は、一九二〇年二月九日、ネグロス島の西ネグロス州バコロド市に生まれました。父母と九人きょうだいの十一人家族で、父は大工をしていました。
 一九三九年に異母きょうだいといっしょにサーカスのグループについてマニラに出てきて、そのまま市内に住んでいました。初めて日本兵を見たのは、義理の弟がガチョウを盗んだことで日本軍の駐屯所(現在のニノイ・アキノ国際空港のあたり)に連れていかれたときのことです。
 一九四三年の十月ごろ、マニラのパコ市の市場で魚を売っていたとき、三人の日本軍兵士に手を引っぱられて抱きかかえられるようなかっこうで、近くの空き家に連行されました。そこは、ニッパヤシで造ったような建物で、十二平方メートルくらいの広さの家でした。一人の兵士が何か言った後、他の兵士は外に出ていきました。そこで、一人の兵士に強かんされました。そのとき、市場で働いていて別の兵士グループに連行された女性もいました。
 その後、うしろに堅い座席のあるトラックで、マニラ市内のダコタ地区にある大きな家に連れていかれました。その家は二階建てで、一階は大きな応接間で三十平方メートルくらいあり、二階は、ベッドを一つおけばあまり余裕もないくらいの部屋が四つありました。そこには、テルミという名前の日本人女性がおり、四人の若いフィリピン女性もいました。テルミは、二十八歳くらいで、私より少し背が高く一五五センチメートルくらいで、その家の一階に住み、食事の世話や医者を連れてくるなど、その家を管理していました。また、日中は、民間の日本人男性が二人ほどいて、私たちを監視していました。家には鍵がかかっていましたが、部屋にはかかっていませんでした。その家があった場所は、現在マニラ動物園構内の入り口付近です。そこでは、毎日のように、一日六人から多いときは十五人くらい、兵士の性行為の相手をさせられました。食事のときだけ下の部屋に行き、あとは、大体二階にいました。他の四人のフィリピン女性も同様でした。性行為に対してお金や物をもらったことはありませんが、医師による性病検査が毎週土曜日にありました。兵士たちはほとんどコンドームをつけていなかったのです。あるとき、兵士が外に連れだそうとしたので抵抗したところ、銃剣で右足のすねの部分を刺されました。今でもそのあとが残っています。
 一九四四年十一月ごろ、私たちは解放されました。米軍がマニラに進駐する前に爆撃があり、皆いなくなったのです。テルミは、私に対し、自分をかくすために山に連れていってくれるかと言っていましたが、結局どこにいったかわからなくなりました。それで、監禁される前に住んでいた家に戻りましたが、家主がいただけで、異母きょうだいなどはいませんでした。(P.64~65)

 また、戦後聞いた話ですが、生地のバコロド市にいた妹は妊娠していたのに、日本兵は彼女の腹を裂き、胎児を銃剣で突き刺して引っ張り出し上にかかげたあと、また戻したということです。(P.65~66)
 
1997.8 アジアの声 第11集
私は「慰安婦」ではない
日本の侵略と性奴隷
「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ・心に刻む集会」実行委員会 東方出版
 最初に、自己紹介させていただきます。レメディオス・バレンシアと申します。生まれはフィリピンのネグロス島にあるバコロド市、一九二〇年二月九日生まれです。今日の証言は私にとって、とても苦しい体験をお話するので、あらかじめ皆さんの理解をお願いしたいのです。
 私がマニラに来たのは、一九三九年です。四一年に戦争が始まりました。そして日本軍によるマニラの爆撃が始まりました。一九四二年の一月には日本の軍隊がマニラに入って来ました。一九四三年のある日、私は市場にいました。市場の前にある通りで日本の軍隊が行進していました。私は、用を足すのに通りの向こうまで行かなければならなかったので、日本軍に通行許可をもらい、道を渡り始めました
 けれども途中で、いきなり三人の兵士に市場の向こう側に連行され、私は強姦されました。そのあと私は、そのままトラックに乗せられ、ガイソンという兵士たちの基地に運ばれました。そこは、現在のマニラ国際空港の辺りです。その基地に私は八ヶ月監禁されました。強姦されるだけでなく、昼間は兵士たちの身の周りの世話をさせられ、おかゆや食事を作ったりしました。兵士たちの服も洗わなければなりませんでした。
 それから私は、マニラのダコタという地域にある大きい二階建の建物に連行されました。二階には四つの小さな部屋があり、テルミという日本人女性が管理していました。すでに、四人のフィリピン人女性がとらわれていて、「慰安婦」をさせられていました。彼女たちの面倒をみていたのはテルミさんでした。私たちは階上に、テルミさんは階下にいて、私たちは食事をとる時だけ下に降り、それ以外はいつも二階にいなければなりませんでした。家には鍵がかかっていて、一日に五、六人から十五人くらいの兵士が部屋に来て、性行為をされられました。
 一九四四年の終わり頃、アメリカの爆撃が始まりました。その頃には私とテルミさんはとても親しくなっていましたので、もし私が逃げることが出来たら、いっしょにどこか山の方に逃げようという話をしたこともあります。テルミさんは、ほんとうに私と友達になりたかったのか、それともただ自分の身の安全のために爆撃を恐れていたのか、いま思い出してもわかりません。爆撃された時は、みんなパニック状態に陥りました。ダコタは海に近いため、最初に爆撃された場所のひとつでした。テルミさんは爆撃で死んでしまったのか、今も生きてどこかにいるのか、私には分かりません。爆撃の時の大混乱でみんなバラバラになったので、私は隙をみて逃げ出すことが出来たのです。
 私は住んでいた家に帰り着くことが出来ました。しかし、家はすでに焼け落ちていました。どこに住めばいいか途方に暮れ、友達の家を転々としました。洗濯をして、お金や食べ物をもらい、その日その日の生活を支える状態が続きました。(P.94~96)

 私ひとりのことではなく、当時妊娠七ヵ月だった私の妹は、日本兵に軍刀でお腹を切り裂かれました。日本兵は胎児を銃剣で突き刺して頭の上まであげ、その子を再び妹のお腹の中に押し込んだのです。(P.97)


◆◆◆ パシータ・サンティリアン ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1928年1月7日生まれ。父は農夫で、4年生まで学校に通う。1943年10月、15人の日本兵に見つかり、尋問を受けた後、母、姉らと共に強かんされ、その時、一緒にいた11人のフィリピン人は、同女と親戚の一人を除いて殺される。同女と叔父は日本兵に連行されるが、約26時間後解放される。

1993年4月東京地裁に提訴。1998年10月。地裁棄却判決。2000年12月東京高裁で棄却判決。2003年12月最高裁で上告棄却・上告受理棄却、敗訴確定。(フィリピン「従軍慰安婦」補償請求訴訟)


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

慰安所には入れられていないが、日本兵に強かんされる。


【考察】

訳の分からない内容です。
同女の証言の疑問点は以下の通りです。

<なぜ、同女は殺されずに連行されたのか>
一緒に捕まった11人のフィリピン人の内、同女と親戚(男性)の二人だけが殺されません。労働力として使う気であったのなら男性をもっと生かしておいた方がよいですし、慰安婦として使う気であったのなら、女性をもっと生かしておいた方がよいでしょう。


<21時間後には解放。その間のエピソードは日本兵のフィリピン人虐殺のみ>
この二人は日本兵に連れられ移動することになりますが、約21時間後(注)には解放されています。訳が分かりません。

日本兵は移動途中で一度だけ同女ら二人を人質として使用しており、山のなかにいるフィリピン人に「山から出てこなければ私たちを殺す」と言って投降を促し、フィリピン人10人を捕まえています。最初から、人質として使用するつもりだったのでしょうか。
しかし、見ず知らずの人間を人質にしてどのくらい効果があるのか、また、そもそも、無関係の人間を人質として利用しようとする発想が出てくるものか非常に疑問です。

また、移動途中であるエピソードは、日本兵がフィリピン人を捕らえては惨殺していたというものだけです。
 ・6人の農夫を斬首
 ・5人のフィリピン人を斬首
最初に殺された9人も入れると、短期間の内に20人が日本兵に殺されたことになります。まるで、日本兵の蛮行を見せるために連行したかのような印象を受けます。

(注)解放された地から同女が住んでいた地まで「徒歩で五時間以上」とあり、また、戻ってから「二十六時間以上何も食べていなかった」とあるので、連行されていた時間は26-5で最長21時間になります。


<連行後、なぜ、同女は殺されずに解放されたのか>
最終的に、捕まえられたフィリピン人の内、同女達を含めた約八人が解放されていますが、殺すか殺さないかの選択基準はいったいどこにあったのでしょうか。

最初に捕まった11人は、洞窟で一緒に隠れていた人達です。もし、日本兵が「この洞窟にゲリラが隠れている」と認識していたのなら、その時、捕まった同女と親戚の男性が殺されないはずがありません。(他の9人は捕まえられた後、すぐに殺された)
しかも、この日本兵らは、同女の母、姉を含む6人の女性を強姦後、殺害したり、「二人の幼い子どもを宙に投げ、銃剣で刺し殺」したりするほどの残忍さです。殺されないわけがないでしょう。


【信憑性】

全体的に理解に苦しむ内容。信憑性はないでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1995.12 フィリピンの日本軍「慰安婦」 -性的暴力の被害者たち フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団 明石書店
 私は、一九二八年一月七日、父ウェナペント・サンティリアン、母フローラ・サンティリアンの末子としてパナイ島北西部のアンティケ州パンダンで生まれました。きょうだいは十四人でしたが、幼くして死んだ者が多く、私が生まれたときは女性が四人、男性が三人の七人でした。父は農夫でした。四年生まで学校に通いました。
 第二次世界大戦がはじまった当時、父はマカバに住み、私は母と兄のプロコピヨ、姉のアディライダの四人でパナンカバンの畑にニッパヤシで建てた小屋に住み、穀物を作っていました。
 一九四三年十月に入ると、日本軍が来るとの情報が入り、私たちはパナンカバンの山のほうにある洞窟にかくれました。この洞窟には、私たち家族を含め十一人のフィリピン人がかくれていましたが、十月三日午前九時ごろ、十五人くらいの日本兵にみつかり尋問を受けました。日本軍には、フィリピン人のガイドや荷物を運ぶ人が同行していて、フィリピン人の通訳を介して尋問を受けました。日本兵は母に対して、「なぜ山のなかにかくれているのか?」と聞きました。母は、「日本兵が怖いのでかくれている」と答えました。日本兵は、さらに、「誰がかくれるように言ったのか?」「ゲリラはどういう武器を持っているか?」などの質問をしました。母は、「ゲリラは遠く離れたところにいる。どんな武器を持っているか知らない」と答えました。
 すると、日本兵は、私たちの手をアバカという繊維で作った親指くらいの太さのロープで後手にしばり、母、姉、私たち七人の女性をつぎつぎと強かんしました。日本兵による強かんは一時間くらい続き、私は五人の日本兵によってつぎつぎに強かんされました。
 日本兵は、強かんの後、フィリピン人男性を殴り、さらに日本刀で母の右目をつぶしたうえ、母や姉たちの首もつぎつぎに切り落としました。日本兵は、まるで木を切るようにつぎつぎにフィリピン人の首を切り落としました。母の首は、三フィート(約九十セントメートル)くらい飛んでいきました。さらに、その場には二歳と三歳くらいの子どもが二人がいました。日本兵は、二人の幼い子どもを宙に投げ、銃剣で刺し殺しました十一人いたフィリピン人のうち、このとき殺されなかったのは、私と、二人の幼い子どもの父親であるコノス・サラカンラオという人の二人だけでした。この人は私の親戚で、前から知っている人でした。コノスさんも日本兵にこん棒で殴られ、身体中アザができました。私もロープで後手にしばられ、つぎつぎと五人の兵士から強かんされたので、身体中が痛みました。
 日本兵は、母や姉の死体をパナンカバンの山のなかにそのまま放置し、生き残った私たち二人を連れて移動しました。私たちは、ブラボートの方向に徒歩で移動させられ、途中川を渡りました。しかし夜になり、日本兵はあるフィリピン人の家に泊まりました。私は外の柱にしばりつけられました。
 そのころ、カブルアンという村の二十歳くらいから四十歳くらいのフィリピン人の農夫も日本兵に捕まりました。十月四日の早朝、まだ外が暗いころ、カブルアンの農夫は日本軍から尋問を受けました。日本兵はカブルアンの農夫にゲリラかどうか聞いていましたが、彼らは「自分たちはゲリラではない。殺さないでくれ。妻は子どもを生んだばかりだ」などと答えていました。しかし、日本兵は、尋問の後、一晩泊まった家の前で六人のカブルアンの農夫の首を切り落として殺しました。彼らを殺した日本兵は、母や姉をパナンカバン山で殺した十五人くらいの日本兵と同じでした。
 十月四日の朝、私たちはブラボードのハイウェー沿いのところまで連れて来られましたが、途中、日本兵は、山のなかにいるフィリピン人に、山から出て来なければ私たちを殺すなどと言って、されに十人くらいのフィリピン人を捕まえました。日本兵は、ブラボードのハイウェー沿いの所でも、新たに五人のフィリピン人の首を切り落として殺した後、私やコノスら約八人のフィリピン人を解放しました。パナンカンの山からブラボードまでは徒歩で五時間以上かかりますが、ロープでしばられた手の皮がむけ、とても痛かったのです。
 日本軍に解放された後、私は母や姉が殺されたパナンカバンの山に戻って泣いていました。すると、近所の人や親戚の人が来て穴を掘り、母や姉や兄の死体を埋葬してくれました。私は、親戚の家に行き、水を飲み、食物を食べました。二十六時間何も食べていなかったのです。その後父が迎えにきたので、マカバの家に戻り、父や兄、姉らといっしょに生活しました。
 私は、日本兵に捕らえられ強かんされたことを父や兄に話しました。近所に住むほとんどの人も、私が日本兵に捕まり強かんされたことを知っています。私は、五人の日本兵に強かんされるという恥ずかしい体験をしたので結婚する気にはならず、これまで一度も結婚していません。(P.58~60)


◆◆◆ ルフィーナ・フェルナンデス(Rufina Fernandez) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1927年7月10日生まれ。6人兄弟(もしくは5人兄弟)の長女。1944年15歳の時、父親を反日ゲリラの容疑者として連行しに来た日本兵に拉致される。その際、家族は日本兵に皆殺しにされる。駐屯地で将校に強姦され、以降、強姦される毎日を送る。何ヶ月か後、米軍が近づいてきた際、将校が同女の首を切り落とそうとするが、腕に当たりそのまま失神する。その後、米軍に助けられる。

1993年4月東京地裁に提訴。1998年10月。地裁棄却判決。2000年12月東京高裁で棄却判決。2003年12月最高裁で上告棄却・上告受理棄却、敗訴確定。(フィリピン「従軍慰安婦」補償請求訴訟)


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

家に日本兵がきて駐屯地まで連行される。


【考察】

下記資料の「写真記録 破られた沈黙」(以下、「写真」)と「フィリピンの日本軍『慰安婦』」(以下、「フィ」)、及び「元『慰安婦』の証言」(以下、「元慰」)を比較すると相違点等は以下の通りです。

<父の死亡理由>
○「写真」・・・日本兵に首をはねられた
○「フィ」・・・日本兵に首をはねられた
○「元慰」・・・日本兵になぐり殺された

<母の死亡理由>
○「写真」・・・日本兵に首をはねられた
○「フィ」・・・日本兵に首をはねられた
○「元慰」・・・日本兵に何度もお腹を殴られて死亡
 → 「元慰」だけ、父も母も死亡理由が異なっています。目の前で殺されたのですから、どのような殺され方をしたくらい覚えているでしょう。

<兄弟の数>
○「写真」・・・兄弟の人数に関する記載なし。ただし、「私が連れられて行く時に最年少の妹が殺されました。残り2人の妹も、泣いていたのに急に泣き声が止まったので、その時に殺されたと思います」とあるので、同女も入れると4人兄弟だと思われる。
○「フィ」・・・「家族は両親と5人のきょうだいで私は一番上でした」とある。5人の中に同女が入っているか不明なので、同女を入れて5人兄弟か6人兄弟。
○「元慰」・・・「私と両親とあと5人兄弟がいて私は長女でした」とあるので、同女も入れると6人兄弟。
 → 「写真」では、殺された兄弟の数は3人になっています。「元慰」には「私の家族はこうしてすべて殺されました」とあり、連行時に家族が皆殺しにあったことになっていますので、残りの兄弟が家にいなかったわけでもありません。それとも、それ以前に、残りの2人(もしくは1人)は病気等で死亡していたのでしょうか。ただし、集めた資料の中では、そのような記述はありません。
なお、「フィ」にも「写真」と同様の記述があり、連行時に殺された兄弟は3人になっています。

<トイレ>
○「写真」・・・記載なし
○「フィ」・・・「私はトイレにいくときだけ部屋の外に出ることができました」
○「元慰」・・・「私たちは外に出ることは許されなかったので、便器がない状態でトイレなどは床にそのままする状態でした」
 → 「フィ」と「元慰」では全く異なる証言をしています。

<毛布>
○「写真」・・・「日本兵は毛布さえくれずに」
○「フィ」・・・「日本軍は、毛布さえ与えず」
○「元慰」・・・「私は毛布一枚与えられただけでした」
 → 「元慰」以外は、毛布が全く与えられなかったことになっています。

<服>
○「写真」・・・記載なし
○「フィ」・・・「服などをもらったこともありません」
○「元慰」・・・「その後は(※逃亡した後)充分な食糧も着るものも与えられませんでした」
 → 「フィ」では服をもらってないことになっていますが、「元慰」の言葉からは、逃亡前は着るものを与えられていたことが伺えます。

<腕を切られた後>
○「写真」・・・記載なし
○「フィ」・・・「私は軍刀で右肩を切りつけられ気を失っていました。私が意識を取り戻したときには誰もおらず、血はすでに乾いていました。外に出ると、アメリカ軍のトラックが通り、私をテントに連れていって治療してくれました」
○「元慰」・・・私の腕は骨が粉々にくだけて皮一枚でようやくつながっている状態でした。私は血の海の中に倒れていました。出血多量で意識が遠ざかっていく中、私は傷ついた体で地面をはっていきました。そして、その時アメリカ軍の兵士が通りかかりました」
 → 「フィ」と「元慰」の証言を合わせて考えると疑問の多い状況です。同女が意識を失って、再び意識を取り戻した時に「血はすでに乾いていました」とあります。腕が皮一枚でつながっているような状態で出血多量で死亡することもなく、血が止まっていたとは考えにくい話です。また、専門的なことは分かりませんが、日本刀で切りつけられて骨が粉々にくだけるものでしょうか。

 なお、上記の3つの資料は、「アメリカ軍が近づいてきて、証拠隠滅の為、将兵が同女の首を切り落とそうとして、仕損じて腕を切った」という内容で一致していますが、「日本軍政下のアジア」では「兵舎から脱走しようとして発見され、日本刀で右腕を斬られて重傷を負った」と全く異なる内容になっています。同女が日本兵に腕を斬られたというのは甚だ疑問です。


同女の証言は、全体的に創ろうと思えば簡単に創れる内容であり、リアリティーに欠けます。また、話の骨格部分は証言毎に一致しているものの、重要な部分での相違も見られます。

さらに、同女の証言では、掃討作戦によるフィリピン人男性の皆殺しの話や、村の焼き討ち、そして、「多くの男達に穴を掘らせた後、射殺」という話も出てきます。日本兵の残虐さを示そうとする恣意性がありありと見えるようです。


【信憑性】

信憑性なし。創作でしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.7 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
1927年7月10日生まれ
フィリピン共和国ルソン島リサール州在住

 「米軍がやって来る」という話が到る所で聞かれるようになり、実際に米軍が来る数ヵ月前から、日本軍はフィリピン人男性を皆殺しにしたり家を焼き打ちにしました。日本軍は、ゲリラを捜し出すのに必死になっており、フィリピン人の男はすべてゲリラとみなしていたのです。たくさんの男たちが、一列に並んで穴を掘らされているのを目撃しましたが、彼らは射殺されてそこに埋められました。自分たちの墓穴を掘らされていたのです。
 殺されるのを恐れて、私の家族は近くの山に逃げました。しかし、食べ物もなく疲れてしまい、お母さんや兄弟は絶望で泣き叫んでいました。お父さんが「帰ろう」と言ったので家に戻ったのです。
 ある夜、寝ていたら日本軍が襲って来ました。日本兵が私とお父さんを連行しようとしました。お父さんとお母さんが抵抗したところ、次々と首をはねられてしまったのです。そして、私が連れられて行く時に最年少の妹が殺されました。残り2人の妹も、泣いていたのに急に泣き声が止まったので、その時に殺されたと思います。生き残ったのは私だけです。
 私は灰色の自動車に乗せられて、家から20軒ほど離れた大きな家に、他の5人の女性と連れて行かれました。ここは日本軍の駐屯地で、50人以上の兵隊がいました。
 私はその中の部屋に閉じこめられ、私を連行した大柄な士官に強姦されたのです。それからは、毎日6人くらいの日本兵に強姦されました。将校たちは褐色の制服を着て長い軍刀と拳銃を持っていましたが、一般の兵士は緑色の制服で将校に比べると身なりも良くなかったです。
 監禁されていた部屋の床はコンクリートなので寒かったのですが、日本兵は毛布さえくれずに、私をまるでブタのように扱ったのです。そのため、喘息と肺炎にかかりました。私は逃げ出そうとしましたが、すぐに捕まってしまい、日本兵に平手で打たれたり蹴られたり銃床で殴られました。
 米軍がこの駐屯地を攻撃して来た時、私を最初に強姦した士官が部屋に入って来て、私の首をはねようとしたのです。その軍刀が私の右肩に当たり、腕がちぎれそうになって気を失いました
 1964年から一緒に暮らすようになった夫は、ジプニーの運転手をしていました。私はセメント袋から紙袋を作る仕事をしていましたが、2人合わせても1日20ペソしかありませんでした。1978年に夫は食道がんで亡くなってしまい、現在の私は無職で、小さな小屋に1人で住んでいます。(P.217~218)
1993.11 日本軍政下のアジア 小林英夫 岩波新書
 ルフィナ・フェルナンデスさん(六六歳)。マニラのシンガロン出身。父はサンミゲル・ビール工場ではたらいていた。女ばかりの五人兄弟の長女として一九二七年、マニラに生まれている。日本軍がマニラに侵攻してきたときは一五歳。英語とタガログ語を学んでいた。日本軍のマニラ侵攻直前に山へ避難し一年以上山中ですごしたが、安全を確認しマニラにもどり、自宅へと帰った一九四四年のある日、日本軍兵士五人が家に乱入した。娘たちに暴行をはたらこうとしたので父が抵抗、そのもみあいのなかで父は殺され、彼女は兵舎に拉致された。そこで兵士達の性的相手をすることを強要されたのである。三ヵ月のち、兵舎から脱走しようとして発見され、日本刀で右腕を斬られて重傷を負ったという。まくってくれた右腕には数ヵ所の刀傷がふかくきざまれていた。(P.206~207)
1995.12 フィリピンの日本軍「慰安婦」 -性的暴力の被害者たち フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団 明石書店
 私は、マニラ・シンガロンのタゴノ・ストリートで生まれました。生年月日は一九二七年七月十日と聞かされています。家族は両親と五人きょうだいで、私は一番上でした。父親は契約労働者(臨時雇用)で、時には収入がなかったこともありました。家族は、薪を売って生活のたしにしていたこともありました。日本軍がマニラを占領した当時、私たち家族の生活はとても貧しかったです。私は一年間だけ小学校にいきました。
 一九四三年までは比較的平和でしたが、アメリカ軍がくる数ヵ月前から、日本軍による地域掃討作戦がはじまりました。この作戦で、日本軍は出会ったフィリピン人の男たちを虐殺し、村を焼き討ちにしました。この日本軍の地域掃討作戦があるたびに、私の家族は近くの山に逃げていました。そのころ、フィリピン人の男はすべてゲリラとみなされ、私が洗礼を受けたときの名づけ親の息子も殺されました。多くの男たちが一列に並んで穴を掘っているのを目撃しましたが、彼らは射殺されてそこに埋められたのです。つまり日本軍によって自分たちの墓穴を掘らされていたのです。
 私は、日本軍の地域掃討作戦を避けて山に逃げていましたが、疲れて、食べ物もなく、母親やきょうだいは絶望して泣き叫びました。その後、私たちは山から戻り、防空壕のなかに避難していました。しかし、父親がシンガロン地区に帰ろうと言い、家族とともに帰りました。ある夜、家で家族みんなが寝ていると、突然日本軍が襲ってきました。日本兵は、私と父親を連行しようとしましたが、父親は抵抗したため、日本兵に首をはねられて殺されました母親も抵抗したために同じように殺されました私が日本兵に連れられていくその目の前で、最年少の妹も殺されました。残りの二人の妹も泣いていましたが、急にその鳴き声が止まったので、そのときに殺されたのだろうと思います
 私は、灰色の日本の自動車(旭日旗がついていた)に乗せられて、他の五人の女性と一緒に大きな家に連れていかれました。その家は私の家から非常に近く、二十軒くらい離れたところにありました。その家は日本軍の駐屯所で日本兵は五十人以上いました。私はその家の中の一つの部屋に閉じこめられ、私を連行した大柄な士官によって強かんされました。当時、私はまだ初潮はありませんでした。
 私は毎日六人ぐらいの日本兵によって、部屋のなかで強かんされました。家族が殺されたために気が動転していましたが、二人の将校を覚えています。将校らは、褐色の制服を着ていて、長い軍刀と拳銃を持っていました。一般の兵士は緑色の制服を着ていて、将校に比較すると身なりもよくなかったのです。私を強かんした者のなかには、兵士ではない別の日本人もいました。彼らは軍服を着ておらず、きちんとした身なりをしていました。彼らは、士官の知り合いだったと思います。私たちは暴力的な日本人を「コラニ」と呼んでいました。私は約三ヶ月間そこに監禁されていました。
 部屋には私一人だけでした。二人の見張りが部屋の外におり、食事はその見張りの兵士が運んできました。私はトイレにいくときだけ部屋の外に出ることができました。洗たく、炊事などを命じられたことはありませんでした。また、日本兵からお金をもらったことも、服などをもらったこともありません。私は一度逃げようとしましたが発見され、すぐに捕まってしまいました。そのとき、日本兵から平手打ちを受けたり、殴られたり蹴られたりしました。
 アメリカ軍がその家を攻撃してきたとき、日本兵が部屋に入ってきて、私の首をはねようとしましたしかしその軍刀は私の肩に当たり、腕がちぎれそうになりました。この日本兵は士官の一人であり、私を最初に駐屯所に連れてきて強かんした男でした。私は軍刀で右肩を切りつけられて気を失っていました。私が意識を取り戻したときには誰もおらず、血はすでに乾いていました。外に出ると、アメリカ軍のトラックが通り、私をテントに連れていって治療してくれました。私は約一ヶ月間そのテントにいました。(P.52~54)
1997.6 元「慰安婦」の証言 -五〇年の沈黙を破って アジア・フォーラム編 晧星社
 私はルフィーナ・フェルナンデスです。一九二七年生まれで六七才になります。私の体験をお話させていただきます。一九四二年のことです。その時の家族構成は私と両親とあと五人兄弟がいて、私は長女でした。私の家族の生活はたいへん貧しく、父は建設労働者の仕事でした。兄弟も多かったので、学校も一年しか行けない状態でした。私たちが当時住んでいたのは、マニラ郊外のシンガロンという町です。
 一九四二年日本軍が占領した時、私は一四才でした。私の家族は日本軍がここに攻め込んでくることを聞いてセントラル・ルソンの山の方へ避難することにしました。山での生活は1年間でしたが、それはひどい状況でした。ます第一に食糧が不足していて、私たちが充分に食べられるものといえば、ココナツの実だけでした。生活も苦しく、状況も悪化していたので、父はマニラに戻る決心をしました。マニラに戻って数ヶ月後のことですが、地下のシェルターに隠れ住むことになりました。ここに潜んでいる間に日本軍がマニラに攻めてきました。そこでは男たちはほとんど殺され、家は焼き払われました。実際に私の祖母の孫にあたる人は逮捕され、その後行方がわからなくなったということを聞いています。ここでの状況があまりにもひどかったので数ヶ月後、前に済んでいたマニラ郊外のシンガロンに移ることにしました。この家に戻るとすぐ私たちの家に日本軍が入りこんできました。彼らは私の父を当時強かった反日ゲリラの容疑者ということで、逮捕しようとしていました。父は前から山に行ったり、マニラに行ったりしていて、反日運動など何ひとつ行っていません。そのことを日本軍の兵士に言いました。しかし、兵士はいっこうに耳をかそうとせず、父を殴りつけました。そして、私は避難生活の間に一五才になっていましたけれど、私を見つけて日本軍の兵士が連れて行こうとしました。それをみた父が逆上して、私を連れ戻そうと日本軍の兵士に抵抗した時に、父は私の見ている前で日本軍の兵士になぐり殺されました。そして次は母の番でした。母も私をかばおうと日本兵の前に立ちはだかると、兵士が何度も何度も母のおなかを殴りつけ、母はそのまま死んでしまいました。私は止めようとしましたが、私も頭をひどく殴られて意識を失った状態で車の中に連れて行かれました。遠ざかる意識の中で泣き叫ぶ兄弟の声が聞こえなくなりました。おそらく彼らも殺されたのだとその時思いました
 私の家族はこうしてすべて殺されました。これは私にとって、とてもつらい信じられない出来事でした。そのことだけでも私は五〇年間日本人と日本軍に対する怒りで苦しみ続けてきました。

 私はふたり将校に車で連れていかれ、部屋に入れられました。その部屋というのは、まるで豚小屋のような部屋でした。そこには私を含めて五人の女性が入れられて、それぞれ、しきりの中に入れられました。私はそのしきりのひとつの中で日本軍の将校からレイプされました。その後で別の六人の日本の軍人がやってきて、私をレイプし続けました。私の体は非常に疲れて、激痛に苦しんでいましたけれど、あまりのつらさと悲しさで泣き叫ぶことさえ忘れていました。そして、そのままの状態で何ヶ月か監禁されていました。この豚小屋のような部屋で私は毛布一枚を与えられただけでした。マットもなくそのまま床に座って寝る生活でした。とても寒く体はこごえそうでした。トイレは外にありましたが、私たちは外に出ることは許されなかったので、便器がない状態でトイレなどは床にそのままする状態でした。私はそういう状態に耐えられず、二回逃亡を試みました。一回逃亡を試みた時です。私は部屋に連れ戻され、その後したたかに殴られました。ほどんど殺される一歩手前まで殴られました。その後は充分な食糧も着るものも与えられませんでした。私は連れて来られた時に身をつけていたものを何度も何度も洗濯して着続けていました。
 それから三週間ほどしてからでしょうか、アメリカ軍がこの地域に近づいたという情報がはいると、最初に私をレイプした将校が私を殺そうとしました。彼は「サムライ」の持っているような日本刀で私の首をはねようとしました。私がちょうど刀を避けようと腕を上げた時に、その刀が私の腕に当たりました。彼はそのまま切ったわけですが、彼が切ったのは私の首ではなくて、私の腕でした。しかし私の腕は骨が粉々にくだけ皮一枚でようやくつながっている状態でした。私は血の海の中に倒れていました。出血多量で意識が遠ざかっていく中、私は傷ついた体で地面をはっていきました。そして、その時アメリカ軍の兵士が通りかかりました。アメリカ軍の兵士は私を見つけるとキャンプにつれて帰り、充分な手当をしてくれました。そこで私はひと月近くアメリカ軍のキャンプで手当をうけてようやく元気になりました。(P.6~8)


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