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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 金允心(キム・ユンシム) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1930年全羅南道海南生まれ。1943年13歳の時、友達とゴム縄遊びをしていたところ、トラックがやってきて「トラックに乗りたいなら乗ってみないか」と言われ乗るとそのまま光州まで連れていかれ監禁される。その後、汽車、船と乗り継ぎハルピンへ連れて行かれ慰安婦を強いられる。1回目の脱走の時に、訪れた家が日本の軍人の家で、スパイ容疑をかけられ拷問された後、慰安所に戻される。2回目の脱走の時には、中国人の船に忍び込み、その後、朝鮮に戻る。(「元『慰安婦』の証言 -五〇年の沈黙をやぶって」より)

1998年、自伝「海南(ヘナム)の空へ」で、チョン・テイル文学賞を受賞。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

軍人一人、巡査(もしくは軍人)一人、が乗った車に拉致される。


【考察】

下記資料の「元『慰安婦』の証言」(以下「元慰」)と「私は『慰安婦』ではない」(以下、「私は」)、及び、「海南(ヘナム)の空へ」(以下、「海南」)を比べると以下の通り相違点があります。

<拉致された乗り物>
○「元慰」・・・トラック
○「私は」・・・自動車
○「海南」・・・自動車
→ 最初、トラックと証言していたものが、途中から自動車になっています。「元慰」ではトラックに乗せられて連行されたのは同女一人です。車が珍しいほどの田舎にわざわざトラックでやってきて、一人だけ連行するのはあまりにも非合理的な行動なので、せめて、自動車に変更したのでしょうか。

<車に乗っていた人>
○「元慰」・・・巡査一人、軍人一人、韓国語のうまいおじさん
○「私は」・・・軍人二人(※別途運転手がいたと思われます)
○「海南」・・・おじさん、巡査一人、軍人一人
→ 「私は」だけ微妙に違っています。

<一緒に拉致された人>
○「元慰」・・・自分一人
○「私は」・・・友だち二人も一緒に車に乗る
○「海南」・・・自分一人
→ 友達二人も一緒に拉致されたことになっているのは「私は」だけです。「私は」では、一緒に拉致された友達は寝ている間にどこかへ送られてしまったようです。

<汽車に乗った時間>
○「元慰」・・・次の日の夜
○「私は」・・・記述なし
○「海南」・・・次の日の朝
→ 微妙な違いですが

<船で受けた行為>
○「元慰」・・・該当する記述なし
○「私は」・・・手足を縛って水に漬けられる
○「海南」・・・手足を縛られ船の端に座らされ、海に放り投げてやると脅されただけ
→ 水に漬けられた話が、単に脅されただけに変わっています。

<ハルピンの慰安所に一緒に入れられた女性>
○「元慰」・・・4人
○「私は」・・・30人
○「海南」・・・5人
→ 7倍以上に増えた後、減っています。「私は」では、とにかく女性達が次々と死んでいったことになっています。辻褄合わせの為に、慰安所の女性を増やしたのでしょう。

<ハルピンの慰安所の建物の様子>
○「元慰」・・・「家」としか記述されていない
○「私は」・・・「私たちが暮らすと言われた家は洞窟のようで、入り口だけ木で作ってありました。その中に入れられロウソクの明かりで毛布を敷いて寝ました」
○「海南」・・・テント小屋で部屋はタタミ2枚分ごとに仕切られていた
→ 洞窟のような家とテント小屋では全く違います。良心的に解釈して「中が洞窟のように暗かった」と言うことでしょうか。

<脱走(1回目)後、日本の軍人に捕まった時の様子>
○「元慰」・・・足をふいた後、ある家を見つけて訪ねたら、スパイ容疑をかけられる
○「私は」・・・やっと見つけた家に入るとスパイ容疑をかけられる
○「海南」・・・足を洗わせてもらおうと、ある家に入ったらスパイ容疑をかけられる
→ せっかく見つけた家が日本の軍人の住む家だったわけですが、微妙な表現の中に大きな違いがあります。
「私は」は、漠然としてその時の様子が全く不明ですが、「元慰」と「海南」では、その家にたどり着くまで、どろ道でぬかるんでいたので裸足になって逃げていたことになっています。
そして、「元慰」では、足をふいた後に家を訪ねているので、恐らく、助けを求めるか、食事を分けてもらうか等の理由のために玄関から入っていったのでしょう(※ただし、玄関から入ったとは明記されていません)。そして、「だれだ。入れ」と招き入れられています。玄関から訪ねてくるスパイなんかいるわけがなく、なぜ、スパイ容疑をかけられたか不明です。
そこに気がついたのか、「海南」では、家に入った目的が「足を洗うため」と明示されています。「元慰」と違って、家を訪ねる前に足をふいたという記述もなく、泥足のままです。その時の様子は具体的に記述されていませんが、足を洗おうと軍人の家の庭先の井戸あたりでウロウロしていたところを見つかったのなら、「誰だ!手をあげろ」とスパイ容疑をかけられた辻褄も合ってきます。

<後から連れて来られた女性>
○「元慰」・・・追加なし(※1回目の脱走後、捕まって戻された後、「『お姉さん』四人と私をいれて五人で軍人たちとすごしたのです。」とあり最初から人数は変わっておらず、また、その後、女性が追加されたとの記述はありません)
○「私は」・・・具合が悪いと傍目からも分かるようになった女性や臨月の女性は連れて行って、別途、十人ずつ五人ずつ人と連れて来る
○「海南」・・・追加で連れて来られたことを示す記述なし
→ 一緒に入れられた女性の数と言い、追加された女性の数と言い、「私は」だけ大判振る舞いです。その分、死んだことになっていますが。

<脱走するようアドバイスしてくれた人>
○「元慰」・・・労務者のおじさん
○「私は」・・・ある軍人
○「海南」・・・労務者のおじさん
→ 何故か、「私は」だけ異なっています

<一緒に脱走(2回目)した人数>
○「元慰」・・・同女のみ
○「私は」・・・同女を含めて三人(※逃げてる最中に離れ離れになって結局一人になる)
○「海南」・・・同女のみ
→ 「私は」だけ異なっています

なお、連行された年齢が13歳と14歳で異なっていますが、満年齢と数え年の違いでしょう。(ただし、朝鮮新報の記事では、慰安所に来たのが16歳になっている。)


その他、同女の証言内容の疑問点は以下の通りです

○同女がハルビンの慰安所に到着するまでの経路は以下の通りです。

 全羅南道海南(朝鮮半島南端) → <車> → 光州(朝鮮半島南部) → <鉄道>
 → どこかの波止場 → <船> → どこかの波止場 → トラック → ハルビン

ハルビンは中国東北部で海に近い場所にあるわけではなく、結構、内陸部です。そんな場所に行くのに途中、船を使用して、後はトラックで行ったというのは甚だ疑問です。また、ハルビンは満州鉄道が通っており、鉄道を使用するのが普通でしょう。なお、「私は」では「船から降ろされてみると、何もない野原。『そこで暮らすのだ』」とあり、慰安所の場所が海のすぐ近くであったことになっています。

○食事は、「塩水をぬったおにぎりを1日に3回与えられるだけ」(しかも、1個だけ)だったと証言していますが、そんな粗末な食事の割りには、脱走時に一晩中、走り(又は歩き)続けるなど結構、体力があります。

○1943年に連行されて1946年6月に朝鮮で母と再会したと記載されている(「海南」)ので、同女は、約3年間慰安婦生活をしていたことになります。2年間も慰安所で過ごしていながら、そこでの生活を語った内容があまりにも希薄でリアリティに欠けます。また、同女の自伝本である「海南」では、慰安所での内容が他よりも充実していてもおかしくないのですが、他の証言とほとんど同じです。管理人も出てこないし、性病検査やサックの話もない、一緒にいた他の女性がどのような人達であったかも不明です。


【信憑性】

証言毎に所々、全く違う内容を証言していますし、全体的にウソ臭い内容です。人さらいにさらわれて売春宿に売られただけではないでしょうか。慰安所で慰安婦をしていたということすら疑問です。信憑性はないでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1997.6 元「慰安婦」の証言 -五〇年の沈黙をやぶって アジア・フォーラム編 皓星社
私が一三歳、一九四三年の春のことです。~(中略)~小学校を卒業していました。ある日のこと、外で友だちとゴム縄遊びをしていました。急にトラックが一台やってきました。
私の故郷はたいへんな田舎だったのでトラック一台を見ることも子どもの大きな関心をよびました。私はゴム縄遊びをやめて、トラックについていきました。トラックには巡査が一人、軍人が一人、韓国語のうまいおじさんが一人の合計三人乗っていました。韓国語のうまいおじさんが「トラックに乗りたいなら乗ってみないか」と言いました。私はその言葉を聞いてうれしく思いました。私は足をトントンさせてトラックに乗りました。するとその人たちはすばやくトラックを発車させたのです。私はおどろいて、泣きながら「降ろしてください」と頼みましたが、聞いてもらえませんでした。トラックは長い時間走って、光州(カンジュ)に着きました。そして、私が連れて行かれたところには、私より年長の「お姉さん」が一八人いました。私はそこで「お姉さん」たちと話をしました。そこで閉じこめられたのです。
ある晩「お姉さん」たちと一緒に連れ出されて、次の日の夜、夜行列車に乗せられました。それはたいへん汚い汽車でした。日が昇って、汽車はどこだかわからないところに着きました。そこで汽車を降りて、食事をとりました。そこは波止場のある港でした。そこから船に乗ってまたどこかに連れて行かれました。着いたところで閉じ込められました。~(中略)~いく日かして、急に外へ連れ出されました。目がくらみそうでした。そこには軍人が乗った車が何台かありました。その軍人トラックは、私たちと何人かが乗ると発車し、どこへともなく出発しました。何日も走りました。私たちが連れて行かれたところは広い野原に見渡すかぎり軍人がいるようなところでした。そこは臨時におかれた兵営で、普通の家はどこにも見あたりませんでした。私が連れて行かれた家には、私と四人の「お姉さん」と合わせて五人が入れられました。~(中略)~私たちが着いたところは「ハルピン」というところでした。(P.20~21)

ある妊娠した女性の話をします。九ケ月になっても後ろ手にしばられて、たたされたまま「関係」を強要されていました。また、赤ちゃんを産んだ方がいます。看護婦がやってきて、産まれたばかりの赤ちゃんを袋に入れました。泣き声もきこえました。双子だったように思えました。胎盤も一緒に袋に入れていたのです。看護婦は赤ちゃんの入った袋をどこかにもって行ってしまいました。その女性は二度と赤ちゃんと会うことはありませんでした。(P.22)

ある日、私は五〇銭のお金をもっていました。そのお金をもって脱出しようと思いました。その晩は雨が降っていました。その家を逃げ出したのです。故郷へ、お母さんのところへ逃げよう。雨が降って、土はぐちゃぐちゃでした。冬がすぎ、春がきていましたが、まだ土は固く風は冷たく吹いていました。深い闇の中、私は屠殺場のような家を逃げ出したのです。靴を脱いで、手に持ちました。どろ道はぬかり、足の甲まで沈んでしまうようでした。どのくらいかして私は力がぬけていくようでした。私は足をふいて、とある家を探したずねました。これがどうしたことか、その家も日本の軍人が住んでいる家だったのです。私はたいへんあわてました。そこにいた軍人たちも私を見て「だれだ。入れ」と言いました。私はあまりに疲れてしまっていました。~(中略)~
そして、その憲兵たちに言いました。「私は軍人たちといっしょに生活していました。故郷のお母さんに会いたくて、夜、逃げてきました」と。憲兵たちは電話で連絡して、その通りだということを確認すると、私を元の場所に戻しました。また夜のえじきになったのです。「お姉さん」四人と私をいれて五人で軍人たちとすごしたのです。(P.22~23)

飛行機の音がすると、私たちは防空壕に入りました。あちこちに防空壕があり、それは日本軍のためのものがほとんどでした。ある日のこと、日本の軍人たちが防空壕に逃げた時、労務者のおじさんが私たちに言いました。「お姉さんたち、ここにいたら、家に帰ることはできなくなるよ。一日も早くここを逃げなさい。今家に行かないと永遠に親兄弟に会えなくなるよ」と。その言葉を聞いて考えました。春雨がぼそぼそと降る晩、私はその怖い家を逃げ出しました。一晩中歩いて、夜が明けました。そこは港の波止場でした。数知れずの船がありました。私はそのひとつに乗りました。(P.24)
1997.8 私は「慰安婦」ではない
日本の侵略と性奴隷
「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」実行委員会 東方出版
 私は韓国から来た金允心です。私は日帝時代(日本による植民地時代)、14歳の時、国民学校を卒業して二か月ほどして、日本の軍人たちに捕まえられて行きました。どうだったかというと、友達と三人で外でゴム跳びをして遊んでいたら、自動車が一台来たんです。うちは全羅南道海南という所で、田舎でした。そこでは生まれてから死ぬまで汽車を一度も見ずに死んだ人が多いです。今現在もそんな田舎です。
 だから自動車が一台来た時、私たちはほんとうに嬉しくて、ゴム跳びを止めて、自動車の横に立って触ってみました。すると、軍人二人が後ろに座っていて、「自動車がそんなにいいか。上がってこい。乗せてやる」と言いました。
 それで三人で乗りました、嬉しくて。ちょっとだけ回ってから連れて帰ってくれると思ったのに、「降ろしてください」と言うと、「もう少し行けば、汽車にも乗せてやるし船にも乗せてやる。黙って座っていろ」というので、こわくてじっとしていました。
 遊んでいたゴム跳びのゴムを握ってどんなに泣いたことか、降ろしてくださいと頼んでも降ろしてくれず、夜どおし車で走りました。そして連れて行かれた所は、後で知ったことですが、全羅南道光州市というところでした。
 どこかの家に着いて中に入ると、旅館なのか、そこには女の人がたくさん来ていました。そして私たち三人も彼女たちと一緒に置かれました。その日の夕方、寝て目が覚めると、一緒にいた友達は何処かに送られて居なくなっていて、私だけその女の人たちと残されていました。
 それから私は見知らぬ女の人と一緒に汽車に乗せられました。夜どおし汽車に乗って翌朝降りて、そこから今度は船に乗りました。泣いて泣いて泣き疲れて、「降ろして」「家に帰して」とすがりつくと、船の人たちは、ゲートルという紐があったのですが、それで私の手も足も縛って水に漬けるんです。「泣くな」といって。それでもどうしていいのか分からなくて泣いてばかりいました。するとまた水に漬けられて・・。そうやって二日ほど乗っていたでしょうか。暗くなると船の中で寝ました。
 さいなまれ、もうあきらめて、その人たちの行く所について行くしかありませんでした。船から降ろされてみると、何もない野原。「そこで暮らすのだ」と言い、およそ30人にもなる女の人たちを降ろしました。私たちが暮らすと言われた家は洞窟のようで、入り口だけ木で作ってありました。その中に入れられロウソクの明かりで毛布を敷いて寝ました。(P.58)

時に、女たちが体の具合が悪くなって伏せっていると、顔が黄色くなってきて、そうなるとご飯もくれません。人数分計算して持って来たご飯、小さな握り飯一個なのに、伏せっている女たちにはやらないのです。それから一日経つと、その女たちは担架に乗せられて何処かに運んで行かれ、二度と戻りませんでした。また、ちょっとでも具合が悪くなるとご飯をくれず、言うことを聞かないとご飯をくれず、具合が悪いと言って傍目にも悪いように見えると、担架に乗せて連れて行かれた女たちも、二度と戻りませんでした。連れ出されていく女の人からは口で言えないような本当にひどい匂いがしました。腐っていく匂いのようでした。
 このように苦痛を数知れず受けながら暮らしました。子どもを身篭って臨月を迎えた女たちもみんな運んで行ってしまいました。そうするとまた、何処からか新しく女たちを運んできました。十人ずつ、五人ずつ、軍人たちが連れて来て、そこで暮らすようになります。(P.59)

ある晩、夕ご飯を食べて暗くなった頃、お金を靴下の中に隠して、とにかく逃げ出しました。その道は行っても行っても進まず、一晩中歩いて夜が明けた頃、やっと大きな家があったので中に入りました。私は家族で暮らしている民間の人たちだと思ったのに、あろうことか、そこも軍人たちが住む家でした。「おまえはここに何しに入ってきたのか」。何と言えばいいのでしょう。(P.61)

来る日も来る日もそんな生活を続けて、泣いて泣いて、顔が腫れて、それをある軍人が見ました。その軍人は、誰もいない時にやって来て、「ここでこんなふうに殴られて死んでしまう人間も多い。いくらも経たないうちに、ここにも居られなくなる。アメリカ人がもう少ししたら来るだろうから。そうしたらおまえたちは殺されるかもしれないから、そうなって死のうが、逃げる途中で捕まって死のうが同じことだ。俺の言うことをよく聞いて、ここから逃げ出せ」と言いました。
一緒にいた女たちと心配しながらも三日ほど思案したあげく、ある夜、三人で逃げ出しました。(P.63)
1998.8.4 朝鮮新報 「日本の戦時下での強制連行に関する東京シンポジウム」 ***** ****
金さんは、外でゴム飛びをしている時に連れていかれ「慰安婦」にされたが、あまりにもつらくて逃亡し、1回目はつかまって拷問され、2回目に成功したが、いつも過去におびえていたと、肉体的苦痛に加え、精神的苦痛を訴えた。
1998.8.7 朝鮮新報 「強制連行、『従軍慰安婦』問題東京シンポ、大阪報告会から」 ***** ****
 全羅南道海南で生まれ8人兄弟の3番目だ。家は裕福だった。
 ある日、家の外でゴム飛びをして遊んでいると、車が近付いてきて、いきなり私を乗せて行った。車からトラックに乗り換え、中国のハルピンに着いた。
 私は、世間知らずな16歳の娘だった。部屋に入れられると夜、軍人が幾人か来て服を脱げと言われた。その日、あまりにも泣いたので顔は浮腫み、お腹は空いて、とにかく生きるために従った。真冬でも寝間着のような薄着で過ごした。
 ある日、庭から人の手のようなものが見えたので掘ってみると死体が出てきた。妊娠して病院に行ったとばかり思っていた娘が、生き埋めにされていた。
 私は怖くて、抜け出そうと決め、逃げ出した。1度目は掴まり、その時軍人から酷い拷問を受けた。意を決してまた、抜け出した。2回目に成功し、家に帰ることができた。
2000.4 海南(ヘナム)の空へ
戦場からソウル、そして未来への日記
キム・ユンシム パンドラ
 それから数日後、私は父の目を盗んで門の外にそっと抜け出した。そして、他の子と一緒にゴム跳びをしていた。そのとき突然、自動車が1台やってきた。私の故郷はとても山奥だったので、自動車が1台来ただけでも、たいそうな見世物だった。私はゴム跳びをやめて自動車のそばまで行き、あちこち触ってみた。すると、自動車の中からおじさんがひとり出て来た。自動車の中には巡査ひとりと軍人のおじさんがいた。そのおじさんは私に、自動車に乗せてやろうといった。私は嬉しくて自動車に飛び乗った。
 ところが、どうしたことだろうか。私を乗せた車は、あっという間に峠の道を越えてしまった。私は足をドンドン踏み鳴らし、降ろしてほしいと哀願した。でも、彼らはそんなことには耳も貸さず、泣いたら降ろしてやらないといい、矢のように走りつづけた。
 私はその日の夜、泣きに泣いた。車に乗せられて知らないところにきてしまった。私が連れて行かれたところには、私より大きいお姉さんがたくさんいた。私はその場にしゃがみこんで、わんわん泣いた。そこにいたお姉さんたちが泣くなといった。泣いたらご飯ももらえないし嫌われるから、泣かないでがまんしろ、と私はお姉さんたちと一緒にそこに一晩泊まり、次の日の朝、汽車に乗せられた。とても汚い、荷物を運ぶ汽車だった。私たちは夜通し汽車に乗っていた。
 夜が明けたときは、どこかの船着場だった。私たちはそこで降ろされた。ある食堂の薄暗い部屋にしゃがみこみ、干葉の汁にご飯をひとさじ入れたものを、まるでご馳走のようにおいしく食べた。でも、それもつかのま、私はまた母のもとに帰りたくなり、故郷の家が懐かしく、兄に会いたくなった。だけど、あまりにも怖くて、逃げることなど考えられなかった。
 また、夜がきた。私は生まれて初めてみる船に乗せられ、どこかに連れて行かれた。私は母に会いたくて、船の中でも泣いてはまた泣いていた。すると、私たちを連れて行ったおじさんが、家に帰してやるから出て来いという。私は両手で涙をふきながら、船室の外に出た。でも、そのおじさんは私の手足をゲートルの紐で縛った。
 お前はうるさくて手におえないから海に投げてやるといい、手足を縛られた私を船の端に座らせた。私は怖くなって、もう絶対に泣かないから、どうか助けてくださいと哀願した。私は何度も何度も謝った。そのおじさんは、頭数さえごまかせれば家に帰してやりたいんだがと、ひとりでブツブツいっていた。そして、こんど泣いたら海に捨てるぞといいながら私の縄をほどき、船の中に入れといった。私は、夜なのか昼なのかもわからない船の中に閉じ込められていた。
 ある日、彼らが私たちに船の外に出て来いといった。私はお姉さんたちのチマの裾にしがみついて外に出た。そこは、どこかの波止場だった。軍人のトラックが何台かあり、私たちを乗せるために来たのだという。私たちは数台に分かれてトラックに乗った。私が乗ったトラックには、私を含めて6人いた。
 私たちを乗せたトラックは、何も見えない広い平原に到着した。見えるのは軍人のトラック、防空壕、そして軍人の住んでいるテント小屋だけの、見知らぬ土地だった。そこは中国のハルビンだといわれた。
 そこでは、夢にも想像できない恥ずかしい歴史、死よりも惨めな人生、14歳の少女にも思いもよらない地獄の日々が続いた。(P.21~25)

 それまで見たことも聞いたこともなかった中国の地。何を話しているのかわからない言葉。私たちが住むことになった家は軍人の家と同じテント小屋で、部屋はタタミ2枚分ごとに仕切られていた。民家は一軒もなかった。お姉さんたちと私は、その仕切られた部屋で暮らした。食べるものなど何もなかった。塩水をぬったおにぎりを1日に3回与えられるのがすべてだった。私はあまりにもお腹がすいて、おにぎりをひとつもらえるなら、軍人のいうことを何でもきいた。(P.27)

 でも、そんな生活のなかで、私は50銭ためた。そのお金を持って、そこから逃げだそうと考え、いつも機会を狙っていた。考えただけでも胸がドキドキした。そんなある日の夜、激しい雨が降った。私は50銭と、脱いだ靴を握りしめ、死を覚悟してそこから逃げだした。私の故郷、母のもとに帰らなければという思いだけで走った。冬が過ぎ、もう春になっていたが、地面はまだ解けていなかった。毎日、激しい風が吹いた。屠場のようなテント小屋を抜けだし、当てもなく泥道を走った。足の甲まで泥で覆われてしまった。
 どれくらい走ったことだろう。私はすっかり力尽きてしまい、足を洗わせてもらおうと、ある家に入った。ところが、なんということだろう。こともあろうに、そこも日本軍が住んでいる家だったのだ。
 私は慌てふためいた。日本の軍人たちも私を見て驚き、「誰だ、手をあげろ!」と叫んだ。私は驚きのあまり、泣きだしてしまった。(P.31~32)

ひとりの労務者が私たちにいった。「お嬢さんたちは、いま故郷に帰れなければ、永遠に帰れないだろう」と。その人は姓を金本といった。私たちはようやく、自分たちが関東軍(旧満州に駐留した日本の軍隊)のところにいるということを知った。(P.34)

 そうだ。いま帰らなくては、私はすっくと立ち上がると、怖くて鳥肌の立つくらいいまいましいテント小屋を、また抜け出した。
 息が切れるほど夢中で走った。どれほど走ったことだろう。すっかり夜が明けていた。そこは船着場だった。(P.38) 
2000.5.10 朝鮮新報 「恥ずべきは自分ではなく、日本政府」 ***** ****
 1930年、全羅南道の南端の町、海南の裕福な家庭に生まれる。14歳の時に友だちとゴム跳びをしている最中に日本軍人に連れ去られ、中国ハルピンの 慰安所 に送られる。その時から地獄の日々が続いた。
 畳み2枚分ごとに仕切られた部屋で暮らした。与えられた食事は1日3回、塩水をぬったおにぎりだけだった。夜になると、軍人が無慈悲に、情け容赦なく襲いかかってきた。中には、銃と刀をぶら下げてくる軍人もいた。犯されて、体中は病んだ。軍人はそれに気を止めず、決まって下着を両手で引き裂いて、暴行を加えた。
 このような地獄の生活の中でも なんとしても生き残って、コヒャン(故郷)に帰り、オモニに会わなければ と、歯を食いしばって生きたという金允心さん。
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◆◆◆ 金田きみ子(源氏名)(本名:朴福順) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦となった経緯等】

1921年10月22日、慶尚北道で生まれる。金田きみ子は慰安婦時につけられた名前。
父は牧師をしていたが抗日運動に参加して迫害され逃亡、きみ子は伝道の家の女中となる。1938年春、友人らから「良い働き口へ一緒に行こう」と誘われて棗強の慰安所へ到着する。約6年間、慰安婦生活を送った後、朝鮮人の柳(ユウ)部隊長に相談し、1944年、24歳の秋、朝鮮に帰郷。

1991年12月、金学順(キム・ハクスン)、文玉珠(ムン・オクス)らと共に日本政府に謝罪と補償を求めて提訴。2004年11月最高裁棄却により敗訴確定。(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟)

1997年、日本の「女性のためのアジア平和国民基金」による元従軍慰安婦への償い事業から一時金を受け取ったことにより、韓国内で非難にさらされる。(※批判の理由は「国民基金に反対する意図から集められた募金を、国民基金を受け取った人に渡すことは募金者の意思に反するし、国民基金と募金の両方を受け取ることは逆に不公平になる」ということのようです)

2005.1.27死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本人の紹介者に騙され、日本人の警官か軍人の家の前に集合。二人の日本人の軍人に引率され、棗強の慰安所まで行く。


【考察】

証言をそのまま信じるなら、日本軍が工場勤務と称して集まってきた女性を強制的に慰安婦にしたと言うことでしょうか。


「裁判の訴状」によると、同女の慰安所生活は以下の通りで、合計すると4年強になり、6年間慰安婦生活を送ったとする記述と矛盾しています。(※「一年余り」や「一年前後」を、無理やり「一年半」と解釈すれば6年になりますが)

 棗強(約23日) → 石家荘(1年余り) → 棗強(1年前後) → ピョンアン(1年前後) → リュータマル(1年前後)

 ※最初、棗強にいた時、3日目に軍人に胸を刺され負傷。その後、20日休養した後、石家荘に移動
 ※「その後、ナツメキョウ、ピョンアン、斉南のリュータマルの部隊の慰安所でそれぞれ一年前後全部で6年間を慰安所で過ごさなければならなかった」


なお、同女は、金学順、文玉珠らと共に日本政府を相手に慰安婦として最初に訴訟を起こした三人の内の一人ですが、金学順、文玉珠とは違い、「<証言>従軍慰安婦・女子勤労挺身隊(伊藤孝司・風媒社・1992.8)」、及び、「証言 強制連行された朝鮮人軍人慰安婦たち(韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会・明石書店・1993.10)」には、証言が掲載されていません。

裁判の原告にもなっておきながら、その後に発売された証言集に証言が載せられていないのは疑問です。家庭の事情等、状況の変化により証言ができなくなった可能性もありますが、1996年以降にマスコミに同女の発言が取り上げられていることを考えるとそれは無いでしょう。


【信憑性】

裁判の原告になって以降に発売された証言集に同女の証言が取り上げられていないことを考えると、証言に統一性がなく取り上げようがなかったのではないかと考えられます。
信憑性は無いと考えて良いでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1991 裁判の訴状 ***** ****
(前略)
 1938年春、一六歳と一八歳の二人の友人が、金田きみ子を「いっしょに工場にお金を儲けに行こう」と誘った。
 芙蓉の伝道夫人の家から三〇から四〇分歩いたところに日本人の街があった。紹介者の家は、その街の中にあった。紹介者の日本人の家を訪ねると、その家には、床の間に日本刀が飾ってあった。紹介者の日本人は、「工場に勤める大勢の人を募集に来た。お金がたくさん儲かる。」と言った。給料はいくらか等細かい話しは聞かなかった。金田きみ子と二人の友人とさらにもう一人の友人を加えた四人は、二人の日本人男性(軍人ではない)に連れられてソウルに来た。日本人の警官か軍人の家と思われる建物に着くと、すでに一〇人くらいの女性が集められていた。
 翌日の早朝、二人の日本人の軍人が引率して、約一五人の女性たちを列車に乗せた。軍人は「支那の天津の工場に行く」と説明した。列車は走り続け、翌日の午前一一時ころ天津に着いた。列車の中で握り飯が配られた。故郷を離れ、他の朝鮮人の乗客がいなくなって、金田きみ子は次第に不安になった。
 列車を降りると、ジープ二台、トラック一台が来ていた。ジープに軍人が各二人、トラックに五人くらい乗っていた。金田きみ子ら女性たちはトラックに乗せられ、トラックとジープは枯れ草の中を走り、ペータンの部隊に着いた。
 工場に行くのではないことがわかり、女性たちは「帰らせてくれ」と泣いたが、軍人たちは女性が逃げないように監視した。
食堂に連れていかれ、食事に出たが、恐怖で食べられなかった。なぜ、こんなところに連れてこられたのかわからなかった。食堂には金田きみ子ら一五人の女性のほかに三〇人から四〇人の女性がいた。先に食堂に来ていた女性に「何をするところか」と聞くと、二〇歳くらいのその女性は、「死ぬ以上の苦しみがあるが、命令に従わなければいけない」と言った。金田きみ子は、そのように言われ、洗濯や食事など軍人の世話をさせられるのだと思った。軍隊慰安婦にさせられるなどということはまったく想像できなかった。軍人がいるだけで怖かった。朝鮮語で話しをしていると、「朝鮮語で話をするな」と怒鳴られた。
 翌日、ペータンから二〇人くらいの女性が五、六台の馬車に乗せられ、天津に戻り、再び列車に乗せられ、列車は約四時間後、トッヒョン(徳懸)に着いた。
 トッヒョンから馬車で三時間走り、夕方、ナツメキョウ(棗強)に着いた。馬車の前後にはジープが付いて走っていた。
 ナツメキョウのカネヤマ部隊は、城壁の中にあった。二〇人全員が大きなテントに入れられた。
 あくる日、午前中は、洗濯、掃除をさせられた。昼食の後集合がかけられ、軍人が女性たちに「ここまで来るには、みなさんは覚悟をしてきたでしょう。」と言うので、女性たちは「私たちは工場に来ると思っていた。帰らせてくれ。」と言った。すると軍人は「何を文句を言うか。軍人は国のため、おまえたちのため、戦っているのだ。これからは少しだけ苦労すればよい日が来るのだ。」と言って、女性たちにそれぞれ部屋を与えた。
 女性たちは、午後三時ころ、各自二畳ほどの狭い部屋に入った。床には黍で織った敷物が敷いてあった。部屋の前にはカーテンが掛けてあった。部屋の数は四〇から五〇はあった。金田きみ子とともに連れてこられた女性のほかには女性はいなかった。金田きみ子の部屋は「八号」だった。金田きみ子という通名は、ここで与えられ呼ばれた名前だった。
 一人の女性は、連れてこられた直後に射殺された。金田きみ子は、言うことをきかなかったため、三日目に軍人に銃剣で胸を刺され負傷した。その傷は今でもはっきり残っている。
 傷の治療のため、二〇日ほど部屋で過ごした後、他の四人の女性とともに、ソッカジャン(石家荘)の部屋に連れていかれた。ナツメキョウからトラックでトッヒョンに戻り、トッヒョンから列車で北京に行き、北京から馬車で五時間くらい移動したところに部隊があった。近くに阿片の工場と畑があった。
 金田きみ子は、ここで一年余りの月日を過ごした。
 ここでの金田きみ子の部屋は「三号」だった。もはや殺されないため従うほかなかった。三人を相手にすると痛くて動くこともできなくなった。
 部隊では中国人も働いていた。一ヵ月くらいから中国人に勧められて阿片を吸うようになった。地獄のような苦しみから逃れたいためだった。
 金田きみ子は、その後、ナツメキョウ、ピョンアン、斉南のリュータマルの部隊の慰安所でそれぞれ一年前後、全部で六年間を慰安所で過ごさなければならなかった
(後略)
1996.12.10 共同通信 ***** ****
関係者の話によると、金田さんは集会の席で「私たち元慰安婦はきょう、明日死ぬかもしれない命。死んでから何億円もらっても意味はない」などと発言。
 その上で「日本政府に賠償を要求したい気持ちは変わらないけれども、一時金二百 万円のほかに医療・福祉事業から三百万円の計五百万円を一括して支給してもらえる なら受け取りたいと思っている」と訴え、アジア女性基金の取り組みに理解を示した
1997.6.20 共同通信 ***** ****
 日本の「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金、原文兵衛理事長)による元従軍慰安婦への償いの事業で、韓国の元慰安婦七人が今年一月に一時金を受け取ったことに対し、国家賠償を求めて民間基金は受け取るべきではないとする韓国内の支援団体やマスコミが猛反発、七人は厳しい批判にさらされ続け、心に深い傷を受けている。
 追い打ちをかけるように、最近、元慰安婦支援のために行われた市民運動の募金で、七人だけが対象者から外された。七人は「同じ被害者なのに」と不当性を訴えている。
 一方では、七人に続いて一時金の受け取り希望の意向を漏らす被害者が出るなど新しい動きも出ている。
 韓国では七人が一時金を受け取ると、受け取りを拒否している一部の被害者が韓国政府に対し、七人には政府の生活費支援(月五十万ウォン=約六万四千円)を中止するよう求めた。さすがに、これには韓国政府が「そういうことはできない」と回答したが、七人への風当たりは想像を超える厳しいものだった。
 韓国では昨年十月に約四十の市民運動団体が「日本軍慰安婦問題の正しい解決のため市民連帯」を結成、基金の一時金と同額を被害者に支援するため三十億ウォン(約四億円)を目標に募金活動を行った。しかし集まった募金総額は約五億五千万ウォンにとどまった。
 市民連帯では、募金は百五十一人の元慰安婦と中国から帰国の元慰安婦四人の合計百五十五人に一人当たり約三百五十万ウォン(約四十八万円)を支払う予定だ。しかし、基金から一時金二百万円と医療・福祉事業費三百万円の計五百万円を受け取った七人には募金の配分をしない方針だ。
 七人の一人、金田きみ子さん(75)=仮名=は「同じ苦しみを受けた元慰安婦なのに、なぜ差別されなければいけないのだ」と怒りをぶつける


◆◆◆ 李得南(イ・トクナム)(仮名) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦となった経緯等】

1918年慶尚南道居昌(コチャン)生まれ。貧しい生活な上、酒とばくちをする父親の横暴に苦しめられる。17歳の時、縁談話が持ち上がり、口減らしの為に売られるような気がして家出をするが、怖くなって家に戻る。その後、再び家出をして満州でカフェを営んでいた叔母の元へ行き家事手伝いをして過ごす。1939年22歳の時、日本人の男に騙され、カフェで働いていた他の女性達と共に漢口に連れて行かれ慰安婦生活を強いられる。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

無し、日本人の男に連れられ、汽車を乗り継ぎ漢口の慰安所に入れられる。朝鮮人男性が慰安所の経営者。


【考察】

叔母の経営するカフェはただのカフェではなく、外で男性の相手もするカフェだったようで、もともとは、単なる引き抜きの話のようです。(ただし、他の女性達も慰安所に連れて行かれるとは思っていなかった)
同女は他の女性達と共に、叔母に何の相談もせずに男について行ってしまったようで、せめて一言断っていれば賛成されずに慰安所で働くこともなかったでしょう。


【信憑性】

証言には特に不審なところもなく信憑性があると言えるでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 「新天地」カフェでは、私より年上の女性が二人仕事をしていました。その姉さんたちは、私にとっても親切にしてくれました。私は仕事を探しながら、姉さんたちの手伝いもしてあげていました。カフェには、日本人と商売でやって来る朝鮮人が多く出入りしていました。その中に、常連の日本人男性で、三十歳くらいの、膚が白く、度の強い金ぶちめがねをかけた人がいました。
 ある日彼が来て「ここより給料がいいカフェを紹介してやる」と姉さんたちに言いました。その時炊事場で手伝いをしていた私を見て、「かわいい娘だ」と言いながら、誰かとたずねたのです。姉さんたちが「あれは主人の姪だ」と答えると、一緒に連れて行こうと言いました。姉さんたちが、「あの子はカフェのようなところで働く子ではないけれど、仕事を探しているから一度聞いてみる」と言いました。それで私に、「私たちはお金がもっと儲かる所に移るけど、あんたも一緒に来て、今のように洗濯やお手伝いをしてくれたらお給料もたくさんあげるから」と言って誘うのでした。
 私はお姉さんたちについて行くことにしました。一九三九年、私が二十二歳の年でした。(P.214~215)

 私は少々不安になってきました。叔母に何も言わずに来たのが心にひっかかっていたので、彼が戻って来た時に、帰して欲しいと頼みました。すると「お前にどれだけのお金を使ったと思っているんだ。汽車賃や旅館の費用をみんな返せ」と言って、げんこつで顔を殴られて気絶してしまいました。
その夜、寝ていると、姉さんたちの話し声が聞こえました。
「そこがどんな所だと思って、一緒に行こうと誘ってしまったんだろう。私たちはもう汚れた体だけれど、キヌエはまだ生娘なのに、私たちのせいで・・・・・・」。一緒に来たトキコ姉さんの声でした。あとで知ったのですが、姉さんたちは「新天地」のカフェにいた時も、こっそり外で男性の相手をすることがあったそうです。けれども、軍人の相手をする慰安婦として行くことは夢にも知らず、ただ、もうちょっと儲けのいいカフェを紹介してくれると思い、その日本人からお金をもらったのだと言いました。私は泣き続けながら、「家に返して」とだだをこねましたが、その度にめちゃくちゃに殴られました。その傷あとが今も私の額に残っています。
 私たちが旅館を出発する日に、彼は日本人の女性二人を連れて来ました。合計八人が、彼と一緒に汽車に乗って漢口に向かいました。汽車の中では座る座席がなく、足がパンパンにむくむほど立ったままでした。
 漢口に到着すると私たちを連れてきた日本人は、金山(金)と名乗る三十代後半の朝鮮人男性に私たちを引き渡しました。(P.216)


◆◆◆ 沈美子(シム・ミジャ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1924.2.4黄海道(ファンヘド)鳳山郡(ポンサングン)で生まれる。父は両班(ヤンバン)(注)出身のソンビ(儒学者)だった。12歳の時、鳳山小学校へ通い、16歳の時、先生に「日本の地図を作ってくれ」と依頼され、アサガオの花を並べた地図の刺繍を作る。その刺繍に対して警察官から「どうしてサクラでなくアサガオなのか」と難癖をつけられ警察署に連行される。その後、父が独立運動家だと言われ拷問を受け、気を失い、気がついたら福岡の慰安所だった。以降、慰安婦を強いられ日本で終戦を迎える。

1991.12月に提訴された「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」に1992.4月に第2次原告の一人として参加する。同裁判は2004.11月、最高裁棄却により敗訴が確定した。

(注)両班・・・高麗・李朝時代に、官僚を出すことができた最も上の支配階級。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

警察署に連行された後、拷問を受けて気を失い、気がついたら福岡の慰安所に入れられていた。


【考察】

同女は警察に、電気を流されたり、爪に針を差し込まれたり、焼きゴテを押し付けられたり等の拷問を受けたと証言していますが、如何にもな拷問で胡散臭い内容です。

果たして、日本地図をアサガオにしたくらいで警察に連行されるものでしょうか。サクラは現在でも、日本の国花の1つとして親しまれていますが、別に法律で定められているわけでもありません。当時の状況が分からないので何とも言えないところですが、それくらいで警察に難癖をつけられたと言うのは非常に疑問です。ムクゲにしたと言うのなら、まだ理解できなくもないですが。


また、「裁判の訴状」(以下「裁判」)と「<証言>従軍慰安婦・女性勤労挺身隊」(以下「証言」)の内容を比べると下記の通り、相違点が見受けられます。

<警察官による強姦>
○「裁判」・・・同女を警察の宿直室に連行した警察官は、耳を強く噛んだりして抵抗する同女に怒り、殴ったり蹴ったりして強姦を遂げる
○「証言」・・・強姦されそうになった時、警察官の耳を思い切り噛んだら、驚いて宿直室を飛び出していく
→ 強姦された話が、されなかったことに変更されています。

<拷問をした警官>
○「裁判」・・・同女を連行し強姦した警官
○「証言」・・・同女を連行し強姦しようとした警官と別の警官

<慰安行為を開始する時期>
○「裁判」・・・福岡で気がついて、その翌日から
○「証言」・・・明記されていないが、少なくとも気がついてから3日間は慰安行為は開始していない
→ 朝鮮半島中部から福岡までの移動途中に全く意識が戻ることがないほどの拷問を受けたのに、意識が戻った翌日から慰安行為を開始するのはおかしな話です。3日間は休んでいたことに変更されています。
なお、「裁判」では「ある軍人が沈美子も連れ出そうとしたが、同室の女性の一人が、『私が代わってあげる。』と言って、その軍人の相手をしてくれた。しかし、沈美子も、それによって仕事の中身がわかり、同室の女性に迷惑をかけるのもわるいと思ったので、翌日から慰安婦の仕事をするようになった。」と記述されています。16歳だった同女は、やけにあっさりと慰安婦を受け入れています。

<拠点の移動>
○「裁判」・・・福岡約1年半→神戸約8ヶ月→大阪(終戦まで)
○「証言」・・・ずっと福岡。神戸、大阪、和歌山、流山へはあくまで福岡からの出張。和歌山にいた時に終戦。
→ 「証言」では、和歌山と流山の慰安所が追加され、ずっと福岡を拠点としていたことになっています。しかも、「私はここに一年半いました」と福岡に1年半しかいなかったという「裁判」と同じ情報が残っていて、証言内容が矛盾しています。

<慰安婦になった理由>
○「裁判」・・・「沈美子がそこにいたあいだに連れてこられた女性のほとんどは朝鮮女性であり、目的を全く知らされずに連れてこられた人たちであった。慰安所に来るまで、彼女らのほとんどは、工場の仕事と思っていた
○「証言」・・・「九割が『工場に就職させてあげるから』とだまされて連れて来られ、一割が私と同じように学校で捕まえられた人でした。『国語(日本語)を使わなかった』『学校の神社に参拝しなかった』とか、『『皇国臣民の誓い』を暗唱できなかった』という事で捕まった人もいました」
→ 「証言」では「ほとんど」以外の人たちが慰安婦にさせられた理由を具体的に記述しています。確率的には、私が今まで見てきた証言者の中に「学校で捕まえられた人」が2、3人いなくてはおかしいのですが、今の所、該当する人はいません。

<日本兵の残虐行為>
○「裁判」・・・「性行為を拒否して殴り殺された」
○「証言」・・・「銃で女の陰部を撃ってそのままトラックで行ってしまった」、「銃剣で女の乳房を切った兵隊もいました」、「三人の女が脱走を図って捕まり、殺された」
→ 慰安所での日本兵の残虐行為に統一性がなく、「証言」ではエスカレートしています。

<天皇陛下の命令>
○「裁判」・・・「天皇陛下の命令で、朝鮮の女はみな慰安婦にさせられる」
○「証言」・・・「天皇陛下から命令がくだって、朝鮮の女たちを面(村)・市・邑から『慰安婦』として徴発する」
→ 双方とも同女を贔屓にしていた将校の言葉として記載されていて内容は同じですが、朝鮮女性が強制連行されたのは天皇陛下の命令だったそうです。如何にも恣意的な捏造です。


なお、慰安婦裁判の原告にもなっている同女ですが、「韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会」が編纂した「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(明石書店)には証言が載せられていません。(以下の内容は「『自虐史観』の病理(P.153~165)」藤岡信勝・文春文庫を参考にしました)

同証言集(P.22)には、最終的に証言を載せたのが19人だった経緯について記載されており、まとめると以下の通りです。

 ○韓国挺身隊問題対策協議会に申告された人数・・・110人(1992.12末現在)
    内、生存者・・・55人
      内、連絡可能な者・・・40人
        内、以下の者を除いた人数(=証言が掲載された人数)・・・19人
           ①自分の経験を語りたがらない人
           ②証言がそのたびごとにひどくくいちがったり、話の前後があわず、調査が難しい人
           
同女は、同証言集の発行時に生存しており、また、裁判の原告になっていることから、連絡が不可能だったとか、「自分の経験を語りたがらない」はずがありません。つまり、②に該当して、「証言がそのたびごとにひどくくいちがった」ので、証言集には載せられなかったのです。

なお、裁判の原告になって以降、家族等の状況の変化で証言ができなくなったとも考えられなくもないですが、その後の韓国での水曜集会(※)にも参加しているようですし、2004年の最高裁の判決時も傍聴席にいたようです。その可能性はないでしょう。

※水曜集会・・・毎週水曜日に、韓国の日本大使館前に集まって行われている抗議活動


【信憑性】

同女が証言する慰安婦になった経緯は甚だ疑わしいもので、しかも、韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会が編纂した証言集からも落とされてしまっています。信憑性はないでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992.4 裁判の訴状 ***** ****
原告沈美子(シン・ミジャ。以下、「沈美子」という。)は、一九二四年二月四日、朝鮮黄海道の農村で出生し、鳳山国民学校に通学していた。
一九四〇年三月一五日、当時鳳山国民学校の担任であったミリイチ先生が沈美子の家に家庭訪問をした際、木槿の絵を下絵にした朝鮮地図の掛け軸が玄関に飾ってあるのを見て、「よくできている」と褒めてくれた。そして、こんどは花をつけた日本地図の刺繍を作ってほしいと、沈美子に言った。
 沈美子は、母が人からチマ・チョゴリをつくるよう頼まれて預かっていた絹の布を切り取り、これに、朝顔を背景にあしらった日本の地図を刺繍した。沈美子は、このため母から非常に怒られたが、学校にこの日本地図の刺繍を持って行くと、ミリイチ先生はとてもきれいだと言って褒めてくれ、教務室に掛けて飾った。
ところがある時、警官が学校に来て沈美子を呼び出し、なぜ日本の地図に日本の花である桜を描かなかったのかと追求し、学校の隣にあった警察署に沈美子を連行した。
 警官は沈美子を警察署の宿直室に連込み、いきなり顔を寄せてきたので、沈美子は抵抗して警官の耳を強く噛んだ。その警官は非常に怒り、沈美子を殴ったり蹴ったりして強姦を遂げた
当時、沈美子の父は満州に行ったまま家にほとんど帰らなかった。そこで、その警官は、沈美子に対して、この点を追求し、お前の父は独立運動家であり、お前も同じ思想を持っているのだろうと決め付けて、拷問を加えた。例えば、沈美子の両足を重ねて電気線で縛り、電気を通じさせた。沈美子は体じゅうが痺れ、そのため現在に至るまで骨盤と足に症状が残っている。この拷問によって、沈美子は二、三日間、頭がボーッとなってしまったが、意識が回復すると再び拷問が再開された。爪の間に竹を差し込まれたり、焼きごてを肩に押しつけられたりした。その痣は、現在も左肩周辺に四ヶ所残っている。食事はもちろん与えられなかった。沈美子は拷問中耐えられなくなって意識を失ってしまったが、次に気がついた時には知らない場所に移されていた。
「ここはどこか。」と同室の女性たちに聞くと、日本の「福岡」というところだといわれた。海が近くにあった。そこは、軍の慰安所だったのである。二十数名の女性たちが一つの建物に入れられていた。
 沈美子は、何日か気を失っていたらしく、体じゅうが痛み、体のあちこちが出血していた。同室の女性たちが塩水で治療してくれた。同室の女性たちに、「ここは何をするところか。」と聞くと、「しばらくいたらわかるから。」と言うだけで、教えてくれなかった。
 しばらくして、軍人がやってきて女性を一人ずつ部屋から連れ出して行った。ある軍人が沈美子も連れ出そうとしたが、同室の女性の一人が、「私が代わってあげる。」と言って、その軍人の相手をしてくれた。
 しかし、沈美子も、それによって仕事の中身がわかり、同室の女性に迷惑をかけるのもわるいと思ったので、翌日から慰安婦の仕事をするようになった。~(中略)~
 この慰安所は、連行される女性たちの集結地点にもなっていたらしく、女性たちはしばらくここにいてから他の場所へ移されて行くようであった。そのため女性たちの出入りは非常に激しかった。わずか数時間いただけで、すぐ他の場所へ移されていく女性もいたようである。沈美子は日本語ができたので、しばらくして「班長」と呼ばれるようになり、通訳をしたり他の女性を指導する立場として利用されるようになった。そのため、比較的長く、約一年半その慰安所にいた。
 中国人女性も五、六人来たことがあったが、沈美子がそこにいたあいだに連れてこられた女性のほとんどは朝鮮女性であり、目的を全く知らされずに連れてこられた人たちであった。慰安所に来るまで、彼女らのほとんどは、工場の仕事と思っていた。大阪の履物工場から連れてこられた女性もいた。~(中略)~
 その後、テント付きのトラックで神戸の慰安所に移動し、そこに約八か月いたあと、さらに大阪の慰安所に移された。神戸も大阪も、将校専用の慰安所があった。~(中略)~
 沈美子は、一九四五年八月一五日大阪で日本敗戦を迎えた。その後、友人の知り合いの人に紹介され、しばらく大阪の工場で働くなどしていたが、故郷が恋しくなり、一九五三年韓国に帰国した。現在では、生活保護として月に三万ウォンおよび米一〇キログラムを支給されている。
1992.4 元兵士たちの証言 従軍慰安婦 西野留美子 明石書店
 一九四〇年、十六歳のときです。日本人の担任の先生に頼まれ、日本の地図に刺繍をしました。ところが、数日後、勉強していた私は教務室に呼ばれました。そこには、日本人の警官がいました。
「おまえは、わが国の国花がなんだか知っているか?」
 警官の問いに、私は桜の花だと答えました。
「桜の花だと知りながら、なぜ、アサガオの刺繍をしたのだ」
警官は私をなじりました。
「桜よりもアサガオの花のほうがきれいだと思ったから、アサガオの刺繍をしたのです」
 するとその警官は、「おまえの思想はまちがっている」といい、私を警察に連れていきました。そして、宿直室で、私を強姦しようとしました。私は無垢の乙女で、貞操を守ろうと抵抗して、その警官の耳をかじりました。すると、その警官は怒って、竹串で、私のつめのなかを突き刺し、まっ赤に焼いたコテで、私の肩を焼きました。ひどい拷問を受けて、私は気を失ってしまいました。
 それから何日かたって、私は日本の福岡に連れて行かれました。先にきていた女の人たちに、何をするところなのか聞きますと、「時間がたてばわかるよ・・・・・・」と、彼女たちは言いました。
 しばらくすると仮小屋のカーテンで仕切った部屋に入れられました。憲兵や警察の上官がやってきて、顔のきれいな女だけを選んでどこかへ連れていき、自分たちの妾にしました。
 兵隊が、一人、二人と入ってきて、私たちはもてあそばれました。それからというもの、私は、毎日、二十名から三十名、土、日曜日には、四十名から五十名の兵隊の相手をしなくてはなりませんでした。
 三ヶ月ぐらいたってから、一人の憲兵がかわいそうに思ってか、私を連れだし、ぜんざいを食べさせてくれました。ぜんざいを食べながら外をみると、着物姿の日本の女が、若い兵隊と流行歌を歌いながら連れだって逢引きしていました。それを見て、私はとても悲しくなりました。どうして私たち韓国の女がこんな目にあわせなければいけないのかと憤慨しました。
「天皇陛下が、韓国の女を挺身隊にしろと言ったんだ」と、憲兵が言いました。それを聞いた私は、とても切ない気持ちになりました。(P117~119)

(※2007.7.12 追加)
1992.8 <証言>従軍慰安婦・女性勤労挺身隊 伊藤孝司 風媒社
 私が五年生の時は十六歳でした。~(中略)~
 ところが三月中旬のある日、作文の授業中の教室に、学校の守衛が来て先生に何か話したんです。私は先生に行くように言われて、教務室に行きました。そこには、日本人の四〇歳近くの警察官と校長先生がいました。
 警察官は私に「この刺繍を作ったのか」と聞くので、何のためらいもなく「そうです」と答えたんです。すると「朝鮮の地図はムクゲで作ったのに、どうしてこれはサクラではなくアサガオなのか。日本の花が何なのか知っているのか」と言ったんです。私は「サクラよりもアサガオの方がきれいだから」と答えました。サクラの花だと刺繍すると浮き出て見えないんですよ。
 すると、その警察官は、私の思想が疑わしいと怒鳴ったんです。この時、校長先生は警察官に何も言ってくれませんでした。
そして、学校のすぐそばの「鳳山警察署」に連れて行かれました。学校と警察署との間は、三軒しか家がないほど近くでした。
警察官は、宿直室で私に暴行しようとしたんです。小学校の女の子たちは、白いチョゴリと、学年を表す白い線の入った黒の短いチマを着ていました。それで、警察官はそのチマをまくり上げたんです。その時、警察官の耳が私の口のあたりにきたので、思い切り噛んだら驚いて飛び出して行きました。(P.138~139)

 三~四時間すると、前と違う警察官が来ました。取り調べ室で「昨日、お父さんはどこに行っていたのか」と聞くので「お父さんは私が三歳の時から出歩いているので知らない。顔も覚えていないくらいだ」と答えたんです。
 私は小学校に通うようになってから「夜学校」へ行って、皆に号令をかけて軍事訓練をさせたり、「皇国臣民の誓い」を言わせた事がありました。そのため、私はそこに通っている女に「日本の手先になって自分たちをいじめている」と言われた事さえありました。それなのに「お前も父親も思想がおかしい」と言われて、拷問をされたんです。
 最初は電気拷問でした。両足を縛られ、両手を広げたまま体が動かないようにされて、電気を流されたんです。体全体がしびれ、冷たい水に入れられた時のような感じがしました。三回くらい流されたんです。次は編み物で使うような竹の針を、手の爪の下に差し込まれました。それから、赤く焼けたコテを肩と首に押しつけられたんです。自分の体の肉が焼けた臭いを嗅いで、気を失ってしまいした
 今でも左手親指の爪には、その跡がはっきりと残っています。足は電気を流されたために発育しなかったし、今でもしびれるので階段を登るのが大変なんです。そして焼ゴテの跡は今も残っています。
 気がついたら、狭い部屋に押し込まれていました。どれだけの間、気を失っていたのかわからないんです。傷は痛いし、おなかが空いていたので立ち上がれませんでした。
入口のカーテンを開けてみたら、陸軍の将校が行き来しているのが見えました。しばらくすると、朝鮮人の女が何人か来て「この女はまだ死んでない」と、私を見て言いました。私が「何か食べさせてくれ」と言うと、干パンと水を持って来てくれました。
「どうしてここへ来たのか」と聞かれたので、いきさつを話しました。女たちが「ここは福岡だ」と言うので、私は「朝鮮に福岡があるのか」って聞いたんです。私は日本まで連れて来られたと思ってなかったからです。私は日本語が話せたので、兵隊にも聞いたら、やはり日本の福岡でした。~(中略)~
 三時か四時になると、女たちは二人に減りました。すると女が「兵隊が来たら拷問で腫れたり膿んだりした所を見せなさい」と言うんです。兵隊たちが来たので、いきさつを話したら同情してくれて、何もされませんでした。
 翌日になり、朝食の済んだ八時半に大尉が来ました。私の傷を見たあと、いきさつを聞いて「かわいそうだ。あんまり心配するな」と慰めてくれて、出て行ったんです。そしたら、兵隊が、包帯、赤チン・塗り薬・内服薬を持って来ました。その兵隊に聞いたら、大尉はここの所長でした。
 三日したら、「着ている物を洗濯しなさい」と、所長が軍服を持って来ました。私の服は血が付いていたからです。兵隊は毎日けがの手当てをしてくれて、しばらくはそのまま過ぎました。
 私にはここがどういう所なのか、わかりませんでした。他の女たちは、私よりも三~四歳年上だったので、私はみんなを「姉さん、姉さん」と呼びました。その「姉さん」たちの所には兵隊が次々と出入りするので、なぜなのかと聞きました。それで、ここは「慰安所」というもんだと知ったんです。
 所長は二~三日おきに、干パンなどを持って来ました。この所長が、私の最初の相手になりました。対馬出身の「高(たか)」という姓の人でした。
 私はここに一年半いましたが、私が連れて行かれて七~八か月した時に「高」は転勤して行きました。「高」はその時に、故郷が同じ「鈴木」という憲兵大尉に、私の面倒をみて欲しいと頼んだそうです。(P.138~142)

 ある時、「ナガレヤマ」の部隊に「慰安婦」を連れて行くトラックがあって、私も乗って行きました。私は他に行ってみたち、という好奇心があったからです。そしたら、一晩すると福岡の部隊が連れ戻しに来たんです。(P.144)

 女たちが集まって話しをしている時に、私は「どうしてここに来る事になったのか」と聞いた事があります。そしたら、九割が「工場に就職させてあげるから」とだまされて連れて来られ、一割が私と同じように学校で捕まえられた人でした。
 「国語(日本語)を使わなかった」「学校の神社に参拝しなかった」とか、「『皇国臣民の誓い』を暗唱できなかった」という事で捕まった人もいました
。先生と恋仲になったため、先生の妻が腹を立てて「慰安婦」にさせられた、という女学生もいました。(P145)
 
 たいていの女は性病にかかっていたので、兵隊があまりしつこいと痛かったんです。それを拒むと、兵隊は怒って殴ったり蹴ったりしました。ひどい場合には、銃で女の陰部を撃って、そのままトラックで行ってしまった、という事もありました。「ダーン」という銃の音を聞きました。移動で来た兵隊は、部屋の中まで銃を持って来ていたんです。
また、銃剣で女の乳房を切った兵隊もいました。女はまだ息があったんですが、兵隊は部屋のカーテンをちぎって女を包み、どこかへ連れて行ってしまったんです。(P.147)

 そして、「鈴木」はある時、私に重要な話をしたんです。「天皇陛下から命令がくだって、朝鮮の女たちを面(村)・市・邑(植民地下では町にあたる)から『慰安婦』として挑発する」と教えてくれたんです。それは一九四二年か三年の事でした。
 この後、「鈴木」が「ナガレヤマ」に転勤したので、一緒に行きました。ここに行くには車・船・車と乗り継いで、一二時間かかりました。
 ただ、私は「ナガレヤマ」には移ったのではなく、短い時には一週間、長いと二ヵ月の間隔で福岡と行ったり来たりしていました。(P.148)

 私は「鈴木」に連れられて「ナガレヤマ」だけでなく、神戸・大阪・和歌山にある部隊にも、福岡から行ったり来たりしました。そこにも「慰安所」があったんです。(P.149)

 和歌山に二回目に行った時に、終戦になったんです。(P.150)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 私は5年生の時は16歳でした。担任の「林」先生は、私の家の前を通って自分の家に帰っていたので、よく立ち寄って行きました。夕方、ちょうど通りかかった「林」先生を、お祖母さんが「芋を蒸したので、食べていってください」と呼び止めたのです。
 その時、部屋の壁には私の刺繍が飾ってありました。それは、ムクゲの花と枝を並べて朝鮮の地図の形にしたものでした。先生は、芋を食べながらその刺繍を見て、「誰が刺繍したのか」とお祖母さんに尋ね、縄跳びをしていた私を呼びました。先生は「日本の地図も作ってくれ」と言ったのです。
 私は、アサガオの花を並べた地図の刺繍を作り学校に持って行きました。「林」先生は、クラスのみんなの前で、「こんなに美しいのを作ってくれました」とほめてくれました。校長先生もとても喜んでくれて、教務室に飾ってもらったのです。
 ところが3月中旬のある日、作文の授業中に呼ばれて教務室に行きました。そこには日本人の40歳近くの警察官と校長先生がいました。警察官は私に「この刺繍を作ったのか」と聞くので、何のためらいもなく「そうです」と答えました。すると、「朝鮮の地図はムクゲで作ったのに、どうしてこれはサクラではなくアサガオなのか。日本の花が何なのか知っているのか」と言ったのです。私は「サクラよりもアサガオの方がきれいだから」と答えました。すると、その警察官は、私の思想が疑わしいと怒鳴ったのです。この時、校長先生は警察官に何も言ってくれませんでした。今、考えてもこのことには憤りを感じます。
 そして、学校のすぐそばの「鳳山警察署」に連れて行かれました。学校と警察署との間には3軒しか家がないほど近くでした。
 警察官は、宿直室で私に暴行しようとしたのです。小学校の女の子たちは、白いチョゴリ(朝鮮の上着)と、学年を表す白い線の入った黒の短いチマ(スカートのような民族衣装)を着ていましたが、警察官はそのチマをまくり上げたのです。警察官の耳が私の口あたりにきたので、思い切り噛んだら驚いて飛び出して行きました。
 3~4時間すると、前と違う警察官が来ました。取り調べ室で「お父さんは昨日どこに行っていたのか」と聞くので「お父さんは私が3歳の時から出歩いているので知らない。顔も覚えていないくらいだ」と答えたのです。
 そしたら「お前も父親も思想がおかしい」と言われて拷問されたのです。最初は電気拷問でした。両手を広げて体を動かさないようにされ、両足も縛られて電気を流されたのです。体全体がしびれ、冷たい水に入れられた時のような感じがしました。3回くらい流されたのです。
 次は、編み物で使うような竹の針を、手の爪の下に差し込まれました。それから、赤く焼けたコテを肩と首に押しつけられたおです。自分の体の肉が焼けた臭いを嗅いで、気を失ってしまいました。
 気がついたら狭い部屋に押し込まれていました。どれだけの間、気を失っていたのかわからないのです。傷は痛いしお腹が空いていたので、立ち上がれませんでした。しばらくして、朝鮮の女が何人か来て、「まだ死んでない」と私を見て言いました。私が「何か食べさせてくれ」と言うと、干パンと水を持って来てくれました。
 「どうしてここへ来たのか」と聞かれたので、いきさつを話しました。女たちが「ここは福岡だ」と言うので、私は「朝鮮に福岡があるのか」って聞いたのです。私は日本に連れて来られているとは思わなかったからです。(P.43~44)

(※2007.4.23 追加)

◆◆◆ 盧清子(ノ・チョンジャ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1922.2.16、忠清南道の貧しい農家に生まれる。17歳の時、日本人が処女を連行しようとしていると聞き、伯母の家へ逃げる途中で憲兵に捕まり山西省の五台山の慰安所に入れられる。2年3ヶ月後、朝鮮人の商人に助けられ慰安所から逃げ出す。

1991.12月に提訴された「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」に1992.4月に第2次原告の一人として参加する。同裁判は2004.11月、最高裁棄却により敗訴が確定した。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

憲兵に捕まりトラックに乗せられる。トラックのあった場所には多くの兵隊がいた。汽車、トラックと乗り継ぎ五台山まで行く。


【考察】

兵隊が処女を連行しようとしているという話を聞いて、伯母の家へ逃げる途中に捕まって連行されるという話なのですが、如何にも胡散臭い内容です。

「裁判の訴状」(以下「裁判」)と「<証言>従軍慰安婦・女性勤労挺身隊」(以下「証言」)を比べると下記の通り相違点が見られます。

<連行の時期>
○「裁判」・・・1938年3月、16歳の春
○「証言」・・・17歳の秋(※西暦の明記なし)
季節が全く違います。なお、16歳は満年齢で17歳は数え年でしょう。

<捕まった時にいた軍人>
○「裁判」・・・憲兵1人、兵隊6人、及び、同女が乗せられたトラックとは別のトラックに20人ほどの軍人
○「証言」・・・憲兵1人、兵隊10人
人数が半分以下になっています。38人の女性を連行するのに、約27人の軍人は多すぎると考えたのでしょうか。

<監視役の日本女性>
○「裁判」・・・同女が乗ったトラックには、監視役の30歳代の日本人女性が2人乗っていた
○「証言」・・・日本人女性の記述なし
他の、如何にも「強制連行」と言った証言の場合も、連行時に軍人と共に日本人女性が行動していたとの記述は見かけません。そもそも、わざわざ女性を連れてきて監視役にしなくても、兵隊にさせれば済む話です。「裁判」より後の証言では、連行時の日本人女性の記述は見あたりません。

<慰安所での監視>
○「裁判」・・・記述なし
○「証言」・・・最初の頃、二人の日本人の女が監視
不思議なことに、「証言」では、連行時に出て来なかった「監視役の二人の日本人女性」がここで出てきます。

<慰安所の休み>
○「裁判」・・・一ヶ月に一度だけ
○「証言」・・・休みは土曜だけ
月1回の休みが、週一回の休みに変更されています。

<中国兵殺害現場への立会い>
○「裁判」・・・八路軍の兵士を穴の前に立たせ、兵士の首を鎌で切り落とす現場に「勇気ある者にするために見せる」と言われて立ち会わされる。
○「証言」・・・該当する記述なし
単に省略しただけかも知れませんが、南京事件の1シーンを彷彿とさせるもので如何にも創作臭い内容です。そもそも、鎌なんかで首を切り落とせるのでしょうか。西洋の死神が持っているような大鎌でも使ったのでしょうか。そうだとしても使い慣れてない道具を使って首を切り落とせるとは思えません。

<父の死亡原因>
○「裁判」・・・軍属として南洋群島に連行され、そこで死亡した
○「証言」・・・徴用で連行された南洋群島で、日本人に叩かれて背骨を折られ、終戦で帰国してから死亡
単に、「死亡した」としか記述されていなかったのが「日本人に叩かれ背骨を折られた」という情報が加わり、しかも、南洋群島で死亡したはずが、帰国してから死亡したことに変更されています。
なお、「裁判」では、「いつか日本の責任を明らかにして日本に補償をさせ、南洋群島で亡くなった父のために碑を建てたい」と記述されています。どうやら、南洋群島に碑を建てる必要はなさそうです。

<故郷に帰った年>
○「裁判」・・・1947年
○「証言」・・・1945年(※明記されていませんが、「朝鮮に帰って、数ヶ月すると終戦になりました」とあり、さらに「私が自分の故郷に帰ったのは、その年の秋でした」とあります)
さすがに、終戦の年に帰郷したか、その数年後に帰郷したかぐらいの記憶はあると思うのですが。


なお、慰安婦裁判の原告にもなっている同女ですが、「韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会」が編纂した「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(明石書店・1993)には証言が載せられていません。(以下の内容は「『自虐史観』の病理(P.153~165)」藤岡信勝・文春文庫を参考にしました)

同証言集(P.22)には、最終的に証言を載せたのが19人だった経緯について記載されており、まとめると以下の通りです。

 ○韓国挺身隊問題対策協議会に申告された人数・・・110人(1992.12末現在)
    内、生存者・・・55人
      内、連絡可能な者・・・40人
        内、以下の者を除いた人数(=証言が掲載された人数)・・・19人
           ①自分の経験を語りたがらない人
           ②証言がそのたびごとにひどくくいちがったり、話の前後があわず、調査が難しい人
           
同女は、同証言集の発行時に生存しており、また、裁判の原告になっていることから、連絡が不可能だったとか、「自分の経験を語りたがらない」はずがありません。つまり、②に該当して、「証言がそのたびごとにひどくくいちがった」ので、証言集には載せられなかったのです。

なお、裁判の原告になって以降、家族等の状況の変化で証言ができなくなったとも考えられなくもないですが、1994年5月に他の15人と共に来日し、記者会見、羽田首相への面談申し入れ、街頭アピール、皇居前抗議行動等を行っていますし、その可能性はないでしょう。


【信憑性】

信憑性無し。
韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会が編纂した証言集からも落とされてしまっています。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992 裁判の訴状 ***** ****
 原告盧清子(ノチョンジャ。以下、「盧清子」という。)は、一九二二年二月一六日、忠清南道の貧しい小作農に生れた。
 盧清子は、父母、兄妹の家族とともに生活し、家事や農作業を手伝っていたが、一九三八年三月、盧清子が一六歳の春、盧清子の母は、村で「娘が兵隊に連れていかれる」という噂を聞いてきた。
 盧清子は、まさか自分の村にまで、兵隊が来るとは思わなかった。しかし、その五日後、盧清子が畑で作業をしていると、昼ごろ、母が慌ててやってきて、盧清子に持ってきた昼食を食べさせた後、自分のチマ(スカート)を脱いで、それを盧清子の頭に被せ、「兵隊が来た。早く、おばさんの家に逃げなさい」と言った。
 盧清子は、不安でいっぱいだったが、娘であることがわからないように母のチマを頭から被り、徒歩二時間の距離の山の中にあるおばの家を目指して必死で歩いていた。
 約一時間、おばの家までの道を半分ほど歩いたころ、盧清子は、日本人の軍人七人(憲兵一人、兵隊六人)に捕らえられてしまった。軍人たちは、盧清子の手を引っ張ったり、足を掴んだりしたため、盧清子は、到底逃れることができなかった。盧清子は、軍人の一人の肩に無理やり担がれて、そのままトラックに運ばれた。
丘 を上り、下ったところにトラックがあった。一台のトラックには、一八歳前後の女性が盧清子を含め三八人乗った。ほかに監視役の三〇歳代の日本人女性が二人乗った。女性たちが乗ったトラックの後にもう一台のトラックが続いた。それには、二〇人ほどの軍人が乗っていた。
 女性たちはみな手を取り合って「私たちはもうみな死んだ」(死んだも同然だ)と言って、声を出して泣いた。
トラックは、その日の午後村を離れた。
盧清子は他の女性とともに、倉庫のような場所に連れていかれ、握り飯と水を与えられた後、されにトラックは、夜間も走り続けた。
 そして、二日間汽車に乗って、タイチカンに着いた。
 汽車から降りると、待っていたトラックに乗せられ、三、四時間移動して、オオテサンに着いた。
 オオテサンの部隊は、城壁の中にあった。
 三八人の女性はみないっしょに連れてこられた。
 慰安所は、部隊の中にあった。馬小屋のようなところで、小さい部屋が板で仕切ってあった。人が二人やっと入れるくらいの大きさの部屋で、部屋の前はカーテンが掛けられていた。板の底に薄い敷布団が敷いてあった。~(中略)~
 休日は、一か月に一度だけだった。月経のときは、「私はメンスよ」と言って、下着を汚したままにした。月経でも、相手をさせる軍人はいたが、それでも、ふだんよりは、少なくなるからだ。~(中略)~
 もう1つは、捕らえた八路軍の兵士を殺害する現場に立ち会わされたときだった。八路軍の兵士を穴の前に立たせ、兵士の首を鎌で切り落とすと、首が穴に落ちた。軍人は「勇気ある者にするために見せると言って、軍隊慰安婦の女性たちに着物を着るように命令して、殺害の現場に立ち会わせた。盧清子は、その現場に立ち会わなければならなかった日の夜は、悪夢にうなされた。~(中略)~
 盧清子は、脱出を手助けしてくれた商人の事実上の養子となり、養父母とともに、天津で暮らしていたが、養父母が帰国することになったため、一九四七年、盧清子が二五歳のとき、故郷に帰った
 故郷に帰って、盧清子は、父と妹が死亡したことを知った。
 父は、盧清子が連行された五か月後に軍属として南洋群島に連行され、そこで死亡したとのことだった。~(中略)~
 何度も死のうと思ったかもしれない。それでも歯を食い縛って生きてきたのは、いつか日本の責任を明らかにして日本に補償させ、南洋群島で亡くなった父のために碑を建てたいという思いがあったからである。
1992.8 <証言>従軍慰安婦・女性勤労挺身隊 伊藤孝司 風媒社
 ところが、一七歳の秋のことです。畑で働いていたら、村人たちが来て、「日本人が処女たちを連れて行こうとしている」という話をしていきました。そしたら、お母さんが走って来て「兵隊が来たから早く逃げろ」と言ったんです。
お父さんの姉にあたる伯母さんお家に逃げる事になり、お母さんは自分の白いチマ(朝鮮のスカート)を脱いで、私に顔を隠すためにかぶせてくれました。そこからセジェという場所にある伯母さんの所まで三里ありましたが、私は「道を知っているので一人で行く」と言ったんです。
 だけど、伯母さんの家に行く手前の橋の上で、憲兵に捕まってしまいました。
 そこには、先に捕まった娘が一人いました。私は日本語を知らないので、身振りで嫌だと示したんですが、一〇〇メートルほど離れた所の大きな道まで連れて行かれました。すでに夕方になっていました。
 そこには大きなトラックが三台停まっていて、私を捕まえた憲兵の他に、普通の兵隊たち一〇人がいました。トラックに乗せられると、他の所で捕まった娘たちがいました。私の知らない人ばかりでしたが、大田の近くの人たちでした。全部で三八人捕まったんです。
 その時、私には面(村)事務所で書記をしていたいいなずけがいて、五日後には嫁に行く事になっていたんですよ。~(中略)~先ず着いたのは「北支」の天津でした。そこから更に「タイチカン」まで汽車で行き、トラックで「五台山」という最前線の部隊に着きました。部隊から一〇〇~二〇〇メートルほど離れた所に小屋が建っていて、そこに入れられました。三八人はここまで一緒でした。(P.93~94)

 ここへ連れて来られた最初の頃は、二人の日本人の女が私たちを監視していました。(P.95)

 私たちは、その商人の所へ行く事だけは許されていました。この人が私に「そんなにしていたら、いつ死んでしまうかわからないから」と、逃がしてくれてんです。~(中略)~
 この夫婦には子どもがなく、私が気に入ったので、私だけ逃がしてくれたのでした。それは、そこへ行って二年三ヵ月した時で、三月のことです。
 その人の天津の家で、私は隠れて暮らしました。私を養子のように扱ってくれたんです。この夫婦は商売で儲けたので、家を売り払って、私が二五歳の時に私を連れて帰国しました。
 朝鮮に帰って、数ヵ月すると終戦になりました。養父母は、論山に家を建てて畑を買い、私と一緒に生活を始めました。
 私が自分の故郷に帰ったのは、その年の秋でした。養父母には「家族を探したら、必ず帰って来て、ここの娘になります」と言いました。そしたら、養父母は私に「婿をもらって一緒に暮らそう」と言ってくれたんです。
 故郷に戻ってみると、お父さんが亡くなっていました。お父さんは「徴用」で連れて行かれた「南洋群島」で、日本人に叩かれて背骨を折られたんです。終戦で帰国してから亡くなっていました。(P.96~97)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 私が生まれたのは大田の貧しい農家でした。
 数え年で17歳の3月のことです。お母さんと畑で豆の種を蒔いていましたが、昼になってお母さんは家に戻りました。すると、村人たちが来て「日本人が処女たちを連れて行こうとしている」と言うのです。すぐ、お母さんが走って戻って来て「兵隊が来たから早く逃げろ」と言いました。
 伯母さんの家に逃げることになり、お母さんは自分の白いチマ(スカートのような民族衣装)を脱いで、顔を隠すために私にかぶせてくれました。そこから伯母さんのところまで3里ありましたが、私は「道を知っているので一人で行く」と言ったのです。
 峠の手前で女の泣き声が聞こえました。そちらを見たら兵隊と捕まえられている女がいたのです。私はチマをかぶっていたので、兵隊がいるのに気がつかなかったのです。足が震えて逃げられずに捕まってしまいました。その兵隊は、赤い文字で「憲兵」と書かれた腕章をしていました。
 100メートルほど連れて行かれると、そこには大きなトラックが3台停まっていて、兵隊たち10人いました。帆のかかったトラックに乗せられたら、他の所で捕まった娘たちがいました。この時、私を入れて38人が捕まったのです。18歳か19歳が多かったですが、16歳の女もいました。「殺されるのではないだろうか」と、みんなで抱き合って泣いていました。その時、私には面(村)事務所で書記をしていたいいなずけがいて、5日後には嫁に行くことになっていたのです。
 トラックは鉄道の駅に着き、すぐに無蓋の汽車に乗せられました。4昼夜走って着いたのは「北支」の天津でした。そこから、更に「タイカチン」まで汽車で行き、トラックで「五台山」(山西省にある)という最前線の部隊に着きました。そして部隊から100~200メートルほど離れたところに建っていた小屋に入れられました。
 小屋の中は、板で細かく仕切られた部屋がありました。部屋には番号が付いていて、私は7号室でした。外から入れるように部屋ごとに入口があって、そこにはカーテンが掛かっていました。
 その日の夜7時頃、どの部屋にも兵隊が入って来たのです。それは1等兵・2等兵たちでした。私は激しく抵抗したので、兵隊に殴られたり蹴られたりしました。鼻や口から血を出し、お尻に大けがをしました。(P32~36)

◆◆◆ 裵奉奇(ペ・ポンギ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1915年忠清南道新禮院に生まれる。1944年29歳の時、紹介業者に騙され沖縄に連れてこられ、慰安婦として働かされる。

1991.10月死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

コンドウという男に連れられ、釜山から下関に渡り、下関で一度、シンガポールに向かう日本軍の船に乗るが、門司で下ろされ、そこで半年間、待機する。その後、鹿児島に移動し日本軍の輸送船に乗って沖縄に行く。


【考察】

同女は紹介業者に騙されたことになっていますが、果たして本当に騙されたのか疑問です。紹介業者の言葉は、「南の島に行って働けば、金が儲かる。黙って寝ていてもバナナが口に入る」(イアンフとよばれた戦場の少女)等と言うような漠然としたものしか記述されていませんが、普通、この言葉だけを丸々信じてついて行こうと考える人はいないでしょう。
しかも、当時、同女は29歳です。7歳の時に一家離散し、3回の離婚も経験しています。辛酸をなめ続けた人生を送っており、このような甘言をそのまま信じるとは思えません。世間知らずの子供ならともかく、通常、仕事の具体的内容を聞いて当然ですが、同女の証言には「工場で働く」「食堂で働く」等の言葉はありません。無いと言うことは、逆に、具体的に何をするか知っていたからではないでしょうか。

さらに、同女を誘ったのは「女紹介人」(イアンフとよばれた戦場の少女)で、女性専門の人身売買業者です。もし、具体的に仕事内容を告げられなかったとしても、それが売春業関連だと分かって当然ではないでしょうか。(※紹介人と言っても売春業のみの斡旋をしていたわけではないようですが)

なお、「ナヌムの家歴史館ハンドブック」では、より限定的に「慰安婦紹介業者」になっています。相手が「慰安婦紹介業者」なら、やる仕事は「慰安婦」以外にありません。良心的に解釈して、後から考えてみると「慰安婦紹介業者だった」と言うことでしょうか。


【信憑性】

慰安婦をするということを本当に知らなかったのかは甚だ疑問ですが、下記資料を見る限り、本人の言葉として「騙された」と明記されているものもありませんでした。
全体として信憑性はあると思われます。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.8 皇軍慰安所の女たち 川田文子 筑摩書房
 ポンギさんが、“女紹介人”に「いい儲け口がある」と誘われたのは咸鏡南道の興南においてである。興南は、水俣に本社を置く、当時の日本窒素肥料株式会社と同資本が国策に基いて、中国侵略の兵站基地として開発した工業都市である。
 この興南を発ったのが一九四三年暮、翌年春、釜山から下関に来て、その約半年後に日本軍と一緒に沖縄に来た。那覇に着くと、ポンギさんら五一人の朝鮮女性は三グループに分けられた。慶良間諸島行き、大東島行き、そして那覇に留まる者たちである。慶良間行きはさらに三組に分けられた。座間味島、阿嘉島、それにポンギさんが行った渡嘉敷島である。~(中略)~
 日本軍が慶良間に上陸したのが一九四四年九月、ポンギさんらが到着したのが一一月、日本軍が駐屯した二か月後には慰安所が開設されたのだ。
 米軍は一九四五年三月三日、沖縄本島上陸に先がけて、慶良間海峡を艦船の停泊地とするため慶良間猛攻を開始する。米軍が上陸した二六日から二八日にかけて、座間味、慶留間、渡嘉敷の住民あわせて約七〇〇名が集団自決に追い込まれた。ポンギさんは日本軍とともに渡嘉敷では最も山深い二三四高地に籠り、炊事班に組み入れられた。
 そして、敗戦、米軍の石川収容所に沖縄の人々に混って収容された。そこを出てからは、ことばは分らず知る人もなく、住む所も金もなく、地元の人々でさえ日一日を過ごすことが困難な焦土と化した沖縄で、一人生きていかなければならなかった。
 「だまされて連れて来られて、しらんくにに棄てられてるさね」
 何度聞いたか知れないこのことばを、私はポンギさんの寂しい口調そのままに諳んじることができる。(P.16~17)

(※2007.7.5 追加)
2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 編 柏書房
裵奉奇ハルモニは忠清南道新禮院で、貧しいムスム(農家の作男)の次女として生まれた。8歳になっても学校に行けずに、あの家この家を雑用をしながら転々とするなど、不遇な幼少時代を過ごした。17歳のときに結婚したが、生活力のない夫と2年後に別れた。ハルモニが沖縄に着いたのは1944年11月で、「楽園のような所で就職させてやる」という慰安婦紹介業者の一言に騙されてのことだった。光復を迎えても、ハルモニは故郷に帰れなかった。(P.58)
2005.6 イアンフとよばれた戦場の少女 川田文子 高文研
 ポンギさんは二〇歳の頃から職を求めてあちこちの町を転々とするようになりました。そして、興南という町で働いていた時に日本人と朝鮮人、二人組の「女紹介人」に声をかけられたのです。「女紹介人」は、「南の島に行って働けば、金が儲かる。黙って寝ていてもバナナが口に入る」などと暖かい南の島が楽園であるかのように甘いことばで誘いました一九四三年、もう、だいぶ寒い季節になっていました。それからしばらくして、再び「女紹介人」が来ました。ポンギさんは布団などは処分し、着替えだけを持って二人組について行くことにしました。
興南から京城(現ソウル)に行き、旧正月が終わってから釜山の旅館に移り、コンドウという男に連れてられて約六〇人の若い女性が玄界灘を渡りました。下関に着いたのは、まだ肌寒い早春でした。下関で一度、シンガポールに向かうという日本軍の船に乗りました。ところが、翌朝、下ろされて門司で半年くらい待機していました。この間に数人の女性が逃亡しました。
 一九四四年一一月、五一人の女性は鹿児島に移され、日本軍の輸送船に乗せられました。船上では日本軍とともに敵襲された際の避難訓練を受けました。輸送船は那覇港に到着しましたが、その年の一〇月一〇日、空襲を受けた那覇の市街地は見渡す限り焼け野原になっていました。
コンドウは朝鮮から連れてきた五一人を慶良間諸島に二一人、大東島に一〇人、那覇に二〇人と三組に分けました。慶良間に向かった二一人はさらに七人ずつに分けられました。こうしてポンギさんは慶良間諸島のなかの一つの島、渡嘉敷に着きました。興南を出てからほぼ一年が経過していました。十・十空襲後の那覇の焼け野原を目の当たりにして不安を覚えたものの、非常に厳しい戦況になっていたことは、ポンギさんらは知るよしもありませんでした。(P.19~20)
二九歳のポンギさんは最年長でした。(P.22)
2006.1.22 JANJAN 「ふたたび『沖縄のハルモニ』を読んでみた」 ***** ****
 朴ハルモニ(あるいはヨネさん、本名:ペ・ポンギさん)は1914年に忠清南道の貧しい小作人の家に生まれ、7歳のときに一家離散、以後は子育てなどの労働をしながら育ち、学校には通っておらず、読み書きはできない。17歳のときに結婚したが、この初婚を含めて三度、結婚に失敗している。三度の結婚の失敗などは、すべて貧困によるものらしい。19歳(1933年)でふるさとを出て以来、29歳(1943年)まで、今の韓国・北朝鮮を流浪するが、その間の暮らしぶりは、必ずしもはっきりとはしていない。
 29歳の時(1943年)「仕事せんで金はもうかる」という甘言によって騙され、釜山、門司、鹿児島を経て、1944年秋に沖縄に到着、11月から渡嘉敷島で従軍慰安婦として「仕事する」ことになった。


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