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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ ジャン・ラフ・オハーン(Jan Ruff O'Herne) ◆◆◆


※「ジャンヌ・オヘルネ」と表記されている場合もあり


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

オランダ人。オーストラリア在住。
1923年に当時のオランダ領東インド(現インドネシア、ジャワ島)に生まれる。1942年3月、19歳の時に日本軍にアンバラワの収容所に入れられ、2年後の1944年2月にスマランで慰安婦生活を強いられる。3ヶ月後に解放されてボゴールの収容所に入れられ、次に送られたクラマットの収容所で終戦を迎える。

2002年6月に、戦時下における人権や女性の権利を保障するために行った国際的な貢献を称えられてオーストラリア2等勲章を授与される。
2007.2.15米国下院外務委員会アジア太平洋環境小委の「慰安婦聴聞会」にて李容洙、金君子らと共に証言を行う。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本軍の収容所からトラックにて慰安所に移される。


【考察】

同女の証言は、インドネシアで行われた「白馬(シロウマ)事件(スマラン事件とも言う)」の話に間違いありません。
「白馬事件」とは、スマラン市内にあった日本軍の幹部候補生隊が17才以上のオランダ人女性を収容所から連行して、スマラン市内に4つの慰安所を開設したものです。開設の2ヶ月後、日本から抑留者の視察にやってきた大佐がこの事実を知ってジャカルタの第一六軍司令部に報告、ただちに慰安所は閉鎖されました。また、この「白馬事件」は、戦後の1948年に女性たちの告発によりBC級裁判の法廷で裁かれ、死刑を含む11名の有罪者を出しており(有罪者の中には軍人の他に慰安所を経営していた日本人業者も含まれていた)、法廷では慰安婦にされた35名のうち25名が強制だったと認定されました。

この事件は、裁判後、長い間、一般には知られていなかったのですが、1992年7月に朝日新聞がオランダに残っているこの戦争犯罪法廷関係の記録を基に報道したことにより、日本でも広く知られるようになりました。

なお、1994年のオランダ政府報告書では、オランダ領インドネシア各地の慰安所で働いていた200~300人の白人女性のうち少なくとも65人を強制売春の犠牲者だと判定しています。(逆に言えば、高額の報酬で慰安婦になることに同意した者もいたということ) 。


下記資料を見ると、2つの中央日報の記事は、意図的な歪曲と捏造に満ち満ちています。オハーンさん本人が書いた書籍と比べてみるとそれは、あまりにも明白です。

《2007.2.9》中央日報
「2年後21歳のヤーンさんを含むオランダ人女性100人をジャカルタ南ボゴールに連行した。そこで彼女らは日本軍の性の奴隷になるという話を聞いて驚愕した。」
 
 → オハーンさんが慰安婦を強要されたのはスマランでの3ヶ月のみで、それ以外の、ボゴールを含む収容所にいた時に強姦や性交渉を強要されたという証言はありません。むしろ、ボゴールでは強姦未遂事件を起こした日本人衛兵が、収容された人達の前で拳銃自殺を強要されています。また、ボゴールに来た女性100人は慰安所から解放されきた人達です。
「スマラン」を出すと、既にBC級裁判で裁かれた内容だと分かってしまう為、意図的にボゴールに変更したのでしょうか。それとも、単なる勘違いでしょうか。

《2007.2.16》中央日報
「19歳だった42年、日本軍がインドネシアを占領した後、収容所に入れられた。オハーンさんは「その日の夜、日本式の花の名前が入った名前を付けられ、髪が薄い日本軍将校が待つ部屋に連れて行かれた。彼は刀を抜いて"殺す”と脅した後、服を破り、最も残忍に私を強姦した。その夜は何度強姦されたか分からない」と身震いしながら話した。オハーンさんは「一緒に連行されたオランダ人少女らと3年半、毎日こうした蛮行にあい、飢えて苦しみ、獣のような生活をした」と語った。」

→ 記事では、「収容所に入れられた」の後にオハーンさんの「その日の夜」という言葉を持ってきて、「収容所に入れられた夜に強姦された」と誤読するように仕組まれています。実際には、収容所に入れられた2年後に慰安所に入れられたのであって、それまで強姦はなされていません。
さらに、記事では、その慰安婦生活が「3年半」続いたかのように錯覚させる文章になっています。3年半はあくまで収容所生活も含めた期間であって、慰安所生活は3ヶ月のみです。

意図的に誤読するように仕組まれた卑怯な歪曲文章と言わざるを得ません。


【信憑性】

白馬事件を報道したのが朝日新聞で、裁判がBC級裁判、そして、朝日新聞の報道(1992.7)と同女の証言開始時期(1992年)が一致していることを考えると、若干怪しさを感じなくもないですが、現段階では信憑性ありとしたいと思います。

なお、同女の証言内容は、既にBC級裁判で死刑1名、懲役刑10名の判決が下され裁かれているものであり、また、同女の証言により国際社会が新たに知った事実というわけでもありません(忘れられていましたが)。
少なくとも、韓国の元・従軍慰安婦達の証言と同列に扱うべきではないでしょう。

-------------------以下、2007.6.17追加-------------------
<ご参考>
「慰安婦と戦場の性」(秦郁彦・新潮選書)には、上記BC級裁判で死刑となった人物の手記が掲載されていますので、参考として引用します。

--------------------------------------------
 さて、この白馬事件の実態を知るには被告側の言い分も聞いておく必要があろうが、死刑になった岡田慶治少佐は「青壮日記」と題した獄中手記を残している。日中戦争期の戦場体験から書き起こした半自伝だが、事件について次のように書いている。

 将校クラブの婦人たちをよく可愛がってやったつもり……その彼女たちが告訴している。それも嘘八百を並べて……時勢が変わったので我々に協力していたことになっては彼女達の立場がないのかと想像……起訴状を見ると首謀者にされている……「そうか飼犬に手を咬まれたのだ。もう何も言うことはない」と覚悟した……敵の銃口の前に立って、日本軍人の死に態を見せてやることではなかろうか。

 開き直ったとも思えそうな論旨だが、それなりの情状は存在したようである。
 岡田手記によると、発端は、州庁で希望者を募って慰安所を作ろうとする構想を聞いた能崎少将が、内務官僚出身の宮野スマラン州長官に話をつけ、上官の池田大佐、大久保大佐から命じられて実施面を担当させられたのだという。
 個々の選定にはタッチせず、将校クラブが開館する前々夜に集まった女性と初顔合わせして色々な注文を聞き入れてやったので「(彼女たちは)とても朗らかで若い将校と心中でもしてくれなければいいがと、心配しているくらいです」と視察に来た参謀へ報告したという。(P.220)
--------------------------------------------
なお、この岡田慶治少佐が関わった慰安所は、ジャン・ラフ・オハーンが入れられた慰安所とは別のようです。
-------------------以上、2007.6.17追加-------------------


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.5 アジアの声 第7集
世界に問われる日本の戦後処理①
「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録
国際公聴会実行委員会 東方出版
 私の名前はジャンヌ・オヘルネです。オランダ人です。一九四二年、私が一九歳の時、オランダ領東インドを侵略した日本軍によってジャワにある捕虜収容所に入れられました。第二次世界大戦中、三年半にわたって日本の捕虜収容所で生活させられました。~(中略)~
 私は最初、アンバラワ収容所に、母と二人の妹といっしょに入れられました。約二年間そこにいました。一九四四年二月のことでした。収容所の重労働から戻る途中でした。突然収容所が騒がしくなりました。日本の軍人たちが大勢トラックで到着したのです。最初、点呼のために呼び出されるのだと思いました。しかしそうではなく、「一七歳以上の独身女性は中庭に整列しろ」という命令が出されました。私たちはこの命令に不吉な感じを受け、何か変だと疑わしい気持ちになりました。「あなたもそうよ、ジャンヌ」、母が言いました。その声は震え、目は恐怖に満ちていました。
 収容所全体が恐怖ですっぽり包まれ、中には隠れようとする少女もいました。私たちは長い列に並ばされ、何人もの軍人が列に向かって歩いてくるのを見て、怖くて震えました。軍人たちの顔つきに不吉な予感がしました。上から下までじろじろ見て、お互いに笑ったり、私たちの誰かを指さしたりしていました。若い私たちはおびえ、うなだれ、顔を上げる勇気もなくそこに立っていました。日本人は列にそってゆっくり歩きながら、時々、私たちの顔を見るため無理やりあごをあげさせました。
 彼らは歩きながら、にやにや笑ったり、指をさしたり、私たちの体に触ったりしました。何か話し合った後、半分が帰ってよいと言われました。私は長い列に残されたままでした。恐ろしさで体全体が震えていました。そこからまた誰にするか選び、最後に十人の少女が前に出ろと言われました。その他の少女たちは心配する母親の元に帰ってゆきました。私は残った十人の内の一人でした。
 女性たちの泣き声や叫び声が聞こえてきました。勇敢に日本人にはむかい、私たちを取り戻そうとしているのです。
通訳を通して、所持品を一つのバッグに詰めて、ただちに正門に集まるよう言われました。そこには私たちを連れて行くトラックが待っていました。詳しいことは何も聞かされませんでした。少女たちと母親たち、収容所にいる全ての人が力の限り抵抗しました。あたりは悲鳴や叫び声、泣き声に包まれました。
 しかしすべては無駄でした。凶暴な敵の前に押え付けられ、力なく従うしかない私たちは、まるで屠殺場に連れて行かれる羊のようでした。わずかな荷物を詰めている間も監視の目は続きました。私は聖書、祈祷書、十字架を鞄に入れました。その時、私にとってこれらが一番大事に思えたからです。私を守って強くしてくれる武器のように思えました。
 看守に付き添われ、私たちは正門へ行きました。そこでそれぞれ母親や家族に別れを告げました。母と私は言葉もなく、ただお互いの目を見て抱き合いました。その瞬間、二人は互いの腕に抱かれたまま、まるで死んでしまっているように感じられました。
 みんな泣きながら無理やりトラックに入れられました。六人の少女が、新たに私たちのみじめなグループに加えられました。結局一六人の少女が、不本意にもアンバラワ収容所から連れてゆかれたのです。
 私たち一六人は、恐怖におののく動物のように、かたまってうずくまりました。どこに連れて行かれるのか想像もつきません。
 しばらくして、セマランへ通じる幹線道路を走っていることが分かりました。市街地近く来ると、セマラン郊外の丘陵地帯の道に入りました。トラックは一軒の大きな家の前で止まりました。七人が降りろと言われました。私もその一人でした。連れてこられた家がどんな目的で使われているのか、その後すぐに分かりました。一人ひとりに部屋があてがわれました。その夜、私も他の少女たちも眠ることができなかったので、みんなで大きなベッドに集まり、恐怖の中で抱き合って、祈ることで勇気を奮い立たせようとしました。
 次の日、多くの日本人が家にやって来て、私たちは居間に呼ばれました。日本人の性の慰みのためにここにいるのだと、彼らは説明しました。つまり売春宿に連れてこられたのです。いつでも彼らの言う通りに従わなければならず、家から出ることは許されませんでした。事実、家は監視されていて、逃げようとしても無駄でした。私たちがこの家にいる目的はただ一つ、日本人のセックスの相手をすることです。強制売春の奴隷にされたのです。(P.80~83)

(※2007.7.27 追加)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 私はオランダ人です。私が19歳だった1942年、オランダ領東インドを侵略した日本軍によって、ジャワにある捕虜収容所に入れられました。収容所には3年半いたのです。最初、アンバラワ収容所にお母さんと2人の妹と一緒に入れられ、ここに約2年間いました。
 1944年2月のことでした。大勢の日本の軍人たちがトラックで到着したので、収容所が騒がしくなりました。「点呼のために呼び出されるのだ」と思いましたがそうではなく、「17歳以上の独身女性は中庭に整列しろ」という命令が出されました。
 収容所全体が恐怖で包まれ、隠れようとする少女もいました。並ばされた私たちは、何人もの軍人が列に向かって歩いて来るのを見て怖くて震えました。~(中略)~
 少女たちと母親たち、収容所にいるすべての人が力の限り抵抗しました。あたりは悲鳴や叫び声・泣き声に包まれました。しかし、敵の前には従うしかありませんでした。私は聖書・祈祷書・十字架を鞄に入れました。その時、これらが私を守ってくれる武器のように思えたからです。6人の少女が加えられ、結局16人が無理やりトラックに入れられました。
 トラックは、セマラン郊外の丘陵地帯の道に入り、大きな家の前に止まりました。私を含む7人が降りろと言われました。そして、1人ひとりに部屋があてがわれました。その夜、私たちは恐怖の中で抱き合って、祈ることで勇気を奮い立たせようとしました。
 次の日、やって来た日本人が「日本人の性の慰みのためにここにいるのだ」と私たちに説明しました。私たちは強制売春の奴隷にされたのです。私は恐怖で全身が震え、足元が崩れ落ちていくように感じられました。「こんな人権をまったく無視したことは絶対許されない。それなら死んだほうがました」と大声で抗議しました。日本人は笑いながら「もし命令に従わなければ家族が面倒なことに巻き込まれる」と脅したのです。(P.141~142)

(※2007.4.24追加)
1999.3 オランダ人「慰安婦」ジャンの物語 ジャン・ラフ・オハーン 木犀社
1942年3月1日、日本軍がジャワに侵攻してきたとき、わたしは19歳でした。~(中略)~荷造りをして、収容所へ向かう準備をせよとのことでした。(P.50~52)
あれは1944年2月のことです。~(中略)~わたしたちのみじめな一団に、別の六人が加わりました。合計十六人の娘が意に反してアンバラワの収容所から無理やり連れだされたのです。(P.79~87)
つぎの日、日本人将校が館にやってきて、わたしたちは全員居間に呼ばれました。~(中略)~彼らがわたしたちにわからせたのはこうです。-おまえたちをこの館に置く目的はただひとつ、日本人将校の性の楽しみのためだ。日本軍人がおまえたちとセックスできるようにだ。おまえたちはつねにおとなしくいうことをきくべし。館を、要するに娼館を出ることはまかりならぬ。館は四六時中見張られているので、逃げようとしても無駄だ-(P.95)
どれほどのあいだ、わたしたちはスマランの娼館にいたのでしょう?正確にはおぼえていませんが、少なくとも三ヵ月はいました。~(中略)~わたしたちのもとに位の高い軍人がおおぜいやってきて、事務室では、怒号の飛びかう言い争いが続きました。突然、わたしたちは荷物をまとめて退去するよう命じられました。(P.125~127)
2002.6.12 人民網「オランダ人「慰安婦」が豪州AOを受勲」 ***** ****
1942年19歳の時に日本軍に連行され、「慰安婦」として売春を強いられた。
2007.2.9 中央日報「日本の従軍慰安婦に連行されたオランダ人女性が証人に」 ***** ****
日本軍は4ヵ月後(※1941年12月の4ヶ月後(管理人))、ジャワを占領し、ヤーンさんの家族を含むオランダ人たちを収容所に入れた。そして、2年後21歳のヤーンさんを含むオランダ人女性100人をジャカルタ南ボゴールに連行した。そこで彼女らは日本軍の性の奴隷になるという話を聞いて驚愕した。

ヤーンさんは2001年、オーストラリアABC放送とのインタビューで「あのとき、私たちが『ジュネーブ協定違反』と叫ぶと日本軍はにやにや笑った」と回想した。ヤーンさんらはそのとき、日本式の名前を1人ずつ与えられた。ヤーンさんには何かの花の名前が付けられたが、記憶から消してしまった。彼女は過去を隠して暮らした時代、花が嫌いだった。慰安婦生活を思い浮かべるからだ。英語が分からなかった2人の娘に、誕生日のプレゼントとして花をくれると言われても素直に笑えなかった。ヤーンさんは慰安所に入ってから少し立って髪の毛をすべて刈ってしまった。「はげ頭のように見えれば日本軍が嫌やがるだろう」と思ったからだ。しかし日本軍はそんな姿にもっと好奇心を感じたようだと彼女はABC放送で明らかにした。それとともに「あのときのあの恐怖を絶対忘れることができない」と話した。


(※管理人注)「私たちが『ジュネーブ協定違反』と叫ぶと日本軍はにやにや笑った」とあるが、「ジュネーブ条約」の誤訳であろう。

○ジュネーブ協定・・・第一次インドシナ戦争を終結させるための終戦協定。1954年に締結。
○ジュネーブ条約・・・戦時国際法としての傷病者及び捕虜の待遇改善のための国際条約。1864年締結。)
2007.2.16 中央日報「米議会で初の‘慰安婦聴聞会’…韓国・オランダ人女性3人が証言」 ***** ****
19歳だった42年、日本軍がインドネシアを占領した後、収容所に入れられた。オハーンさんは「その日の夜、日本式の花の名前が入った名前を付けられ、髪が薄い日本軍将校が待つ部屋に連れて行かれた。彼は刀を抜いて"殺す”と脅した後、服を破り、最も残忍に私を強姦した。その夜は何度強姦されたか分からない」と身震いしながら話した。オハーンさんは「一緒に連行されたオランダ人少女らと3年半、毎日こうした蛮行にあい、飢えて苦しみ、獣のような生活をした」と語った。
2007.3.10 産経新聞「オランダ女性の事例 末端将兵の行為 厳罰ずみ」 ***** ****
 米国議会の一部やニューヨーク・タイムズが「慰安婦」非難で日本軍の強制徴用の最大例として強調するオランダ人女性のケースは実際には日本軍上層部の方針に逆らった末端の将兵が勝手に連行し、その違法行為が発覚してすぐ日本軍自身により停止されていた事実が明らかとなった。しかもこの違法の性的徴用の責任者たちは戦後の軍事裁判で死刑を含む厳刑に処されており、今回の日本非難はすでに責任のとられた案件の蒸し返しとなっている。 

 8日付のニューヨーク・タイムズは日本の慰安婦問題を安倍晋三首相がそのすべてを否定したかのような表現でまた報じたが、そのなかでオランダ人の元慰安婦だったというジャン・ラフ・オハーンさん(84)の「インドネシアの抑留所にいた1944年、日本軍の将校に連行され、慰安所で性行為を強要された」という証言をとくに強調した。同紙はオハーンさんの2月15日の米下院外交委員会公聴会での証言を引用しており、「日本政府からの公式の謝罪が最重要」と述べたとして、日本軍が組織的に総数20万人もの女性を強制徴用したという糾弾の最大の根拠としている。

 ところが慰安婦問題に詳しい日米関係筋などによると、オハーンさんは戦後すぐにオランダ当局がインドネシアで開いた軍法会議で裁いた「スマラン慰安所事件」の有力証人で、その証言などにより、上層部の方針に違反してオランダ女性を連行して、慰安所に入れた日本軍の将校と軍属計11人が48年3月に有罪を宣告され、死刑や懲役20年という厳罰を受けた。オハーンさんは同公聴会で日本側が責任をとることを求めたが、責任者は60年近く前にすでに罰せられたわけだ。

 日本政府には批判的な立場から慰安婦問題を研究した吉見義明氏も著書「従軍慰安婦」のなかでオランダ政府の報告書などを根拠にスマラン慰安所事件の詳細を記述している。同記述では、オハーンさんらオランダ女性を連行したのはジャワの日本軍の南方軍幹部候補生隊の一部将校で、
(1)軍司令部は慰安所では自由意思の者だけ雇うようはっきり指示していたが、同将校たちはその指示を無視した
(2)連行された女性の父のオランダ人が日本軍上層部に強制的な連行と売春の事実を報告したところ、すぐにその訴えが認められ、現地の第16軍司令部はスマラン慰安所を即時、閉鎖させた
(3)同慰安所が存在したのは2カ月だった
(4)主犯格とされた将校は戦後、日本に帰っていたが、オランダ側の追及を知り、軍法会議の終了前に自殺した?などという点が明記されている。

---------------------------------------------
(以下、管理人)

上記記事によると、同女は戦後の軍法会議の有力な証人になったことになっている。しかし、情報の出所が不明確であり、裏取りもせずに信じるには躊躇する内容である。

同女の自伝的書籍である「オランダ人『慰安婦』ジャンの物語」(ジャン・ラフ・オハーン、木犀社、1999.3)には、以下の通りの記述がある。

「トムは、日本のこの戦争犯罪を報告することが肝心だと考え、わたしをイギリス軍警察本部にある軍当局の上層部へ連れていきました。わたしは当局に自分の話を語りましたが、それっきり何も聞かされることはありませんでした」(P.155~156)

この同女の話が該当の軍法会議の証拠として使用されたか否かは不明であるが、少なくとも、積極的に法廷に立って証言したわけではないようである。(あくまで同女の証言を信じるという前提ではあるが)


ちなみに、Wikipediaにも以下の通り記載されており、同女が軍事法廷で証言したことになっている。

「戦後スマラン事件の軍事裁判で被害者の一人として証人と証言し彼女が慰安婦にされた事は軍事法廷が認定している(従軍慰安婦 吉見義明 岩波書店 1995) 」

しかし、根拠として提示されている書籍を確認してみたところ、同女が軍事裁判で証言したとの記載はない。
ただし、以下の記述がある。

「オフェルネとプローグの証言は事件後ほぼ五〇年たってからのものである。この証言内容は、いくつかのくいちがいをのぞけば、敗戦直後になされた裁判での証言とおどろくほど共通している。」(P184)

恐らく、「オフェルネ(※同女のこと)の証言」と別人がした「裁判での証言」の双方を同女の証言であると誤読したのではないかと思われる。


(※2007.8.15 追加)


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無題
 一方に偏らない良いサイトなのですが、強制肯定派からすると、これでも批判対象なんですかねぇ。

 蘭軍裁判が、虐待・拷問・一方的証言による連合国でも突出して過酷な判決であった事は別にして、慰安所閉鎖時に何故、日本軍の処罰が行われなかったかについて疑問があり、こちらに辿り着きました。
 
 蘭側資料では、当時「憲兵が地位を失ったようだ」という欧米人の証言がありますが(女性基金資料)、戦場ではない軍政下の蘭印で「軍紀が適正維持されていた」とすれば、憲兵が強姦事件・強制売淫事件を見逃すとは考え難く、後日事実が判明したというなら、憲兵以上に実行犯が処罰されなければなりません。

 「わたしたちのもとに位の高い軍人がおおぜいやってきて、事務室では、怒号の飛びかう言い争いが続きました。」
 
 オハーンは、後述する承諾書署名など、都合の悪い事実は証言していないようですが、(原文は判りませんが)高位の軍人らはまず本人たちに、廃業の意思確認をしたのではなかったか。
 高位の軍人多数が慰安所に訪れ、慰安所管理者と怒号が飛び交ったとの事ですが、管理者が強制売淫事件の犯人であったのなら、憲兵を同行させて逮捕させれば済む事です。
 管理者が当時民間人であったとしても、佐官が無法な要求をしない限り、予備役の下士官クラスが怒号飛び交う言い争いをしたというのも考え難い。
 
 慰安婦募集に際し、抑留所蘭人リーダーの協力で応募リストを作成していた、女性はマレー語と蘭語の2通の承諾書にサインしなければならなかった、完全民営の桜クラブ事件で獄死した青地氏は、「承諾書だけでなく面接して自由意思を確認していた」という日本人証言があります。

 以上の慰安婦募集要綱を満たしていれば、当事者を処罰する事は出来ず、慰安所巡察義務のあった憲兵が慰安婦の廃業トラブルを処理出来なかった点についてのみ、部内処分が行われたのではないかと推定しています。
 
 オハーンがいた第4分遣所は女性5000名規模の抑留所であったようですが、強姦未遂事件でも慰撫のため自決強要した例があるというのに、強姦・強制売淫事件でも泣き叫ぶ以外の抵抗が無かったというのも信じ難い事です。
福原 2007/08/19(Sun)06:20:42 EDIT
補足
慰安所事務室からの怒号について

 将校団内の怒号であったのかもしれませんでした。
 であるにしても、適法に開設した慰安所の閉鎖に関するものであったという論旨は変わりません。
 多数の将校が訪れたのは、師団本部の方針が確定しておらず、手分けして全慰安婦に事情聴取する為ではなかったか。

 慰安所閉鎖後、母親や家族の待つ抑留所ではなく、ボゴールに移された点について、事実強制連行が行われたのかに疑念が強くなりました。
福原 2007/08/19(Sun)12:27:13 EDIT
福原さん
ご指摘の通り、以下の点で疑問点があることは私も同意します。
○ボゴールでの強姦未遂事件に対しては自決という重い処罰を課しているのに、慰安所を設立した実行犯が処罰されなかったのはおかしい。
○承諾書については、「オランダ人『慰安婦』ジャンの物語」に「責任者の将校が書類を取り出して、署名をさせようとしました。それは日本語で書かれていて、当然わたしたちには読めません。~(中略)~わたしたちは拒否しました。署名しませんでした」とあります。何故、この慰安所だけ日本語の承諾書だったのか、また、署名なしで済ませたのか疑問。

ただ、「実は強制連行がなかった」と考えると、
○オハーンが何故、慰安婦として応募したのか分からない。
・・・オハーンの生い立ち等の証言はしっかりしたもので、他の証言者が、如何にもとってつけたように、「裕福だった」「良家の出だ」と言っているのとは違い、よっぽどの理由がない限り、自ら慰安婦に志願したとは思えない。
○何故、慰安所を全て閉鎖したのか分からない。
・・・廃業トラブル(注)だとすると、個別の問題であり、慰安所全体を閉鎖する理由としては弱いのではないでしょうか。

注)具体的に言うと「予想していた以上にきつい等の理由で、慰安婦が廃業を申請したが認められなかった」という認識でよろしいでしょうか?

また、
>強姦・強制売淫事件でも泣き叫ぶ以外の抵抗が無かったというのも信じ難い
→ 慰安所開設の為の人選の際に、収容されていた人達のリーダー達が所長に猛然と抗議したが受け入れられなかったと証言されています。また、慰安所に憲兵が見回りにきていたとしても、オハーン達にはそれが訴えるべき警察のようなものだという認識すら無かったのかも知れません。

>慰安所閉鎖後、母親や家族の待つ抑留所ではなく、ボゴールに移された点
→ ボゴールには慰安所で働いていた約100名が収容されており、到着と同時に日本人から口止めをされているところを見ると、慰安所の件が広まるのを恐れた為だと思われます。なお、ボゴールには、オハーンの家族が後で移動してきて再会しています。


以上、確かに疑問点はあるものの、「強制連行はなかった」と考えると根拠が弱く、そう結論づけるには無理があるのではないかと思います。
くらじ 2007/08/19(Sun)20:22:20 EDIT
ご丁寧なレス頂きまして、有難うございます。
 基本的には、60年以上前に戦犯裁判が行われ、「犯人」は死刑並びに懲役刑を受けているのはご承知の通りです。また、蘭は国・個人の請求権を放棄していますが、56年日蘭議定書に基づき日本は1千万ドルを見舞金として支払い、蘭政府は後に元慰安婦への支援などを行い、女性基金からも「準賠償」が行われています。
 
 刑事も民事も終了している点を敢えて隠蔽し、日本批判・・・憎しみを拡散させている元慰安婦の言動に対し、日本の強制否定派も「スマランは一部の不心得者が行った犯罪」と安易に蒸し返しを納得している点に疑問がありました。
 

>慰安所を設立した実行犯が処罰されなかったのはおかしい。

 戦後、強制売淫・強姦事件などで蘭軍に処罰されている訳ですが、事実であったとするなら、日本軍が慰安所管理者・応募事実も無いのに連行を許可した抑留所長・連行実行者、担当将校を処罰していた筈。
 
>署名をさせようとしました。それは日本語で書かれていて。

 日本女性相手ではないのですから、女性基金資料にある通り、彼女は蘭語・マレー語2通の承諾書にサインした筈。
 元娼婦も応募しており、同一の慰安所で同じ蘭人承諾書の言語が違ったり、一部承諾書無しの慰安婦が就業許可されていたとは考え難い。日本の官僚機構は、文書・記録について適正に処理・運営していたと思います。
 
>オハーンが何故、慰安婦として応募したのか分からない。

 45年当時は食料物資が欠乏し、ある抑留所では3割が栄養失調死・病死する例があり、戦後関係者は処刑されています。彼女の分遣所も同様の状況にあったと思われます。


>何故、慰安所を全て閉鎖したのか分からない。

 スマランに4軒あった慰安所全てを閉鎖したのかは判りませんが、廃業希望者が多ければ少数で営業を続けるわけにも行かず、一旦閉鎖したのち再開となったのではないでしょうか。
 
>「予想していた以上にきつい等の理由で、慰安婦が廃業を申請したが認められなかった」

 元々は、別抑留所からの申し出によって軍が調査に入ったのが事実であったとすれば、(勿論戦争犯罪を訴えたのであれば、隠蔽は不可能)例えば「父親が不道徳だと怒っている」のを聞いての場合もあるでしょうし、事実廃業したかったので「いい機会」であったのかもしれません。
 
>人選の際に、収容されていた人達のリーダー達が所長に猛然と抗議したが受け入れられなかった

 女性基金資料には、積極的に協力・リストアップしたリーダーもいたとの事ですが、「猛然と抗議したのに連行された」記録は、今のところ判りません。
 事実であれば、彼女の分遣所では、5000名vs日本人将校1、下士官1、朝鮮人軍属3、兵補15、計20名の監視員ですから反乱は容易、他の抑留所も同じような監視体制ですから、大変な事態になったでしょうね。
 下士官が所長をしていた抑留所で、リーダーはリストを作らず、所長が「応募者はいない。」と報告して、何の強制もありませんでした。(戦後も、所長と拘留者の交流が続いたとの事)・・・戦後に死刑を出した兵站部門・軍上層の強制は無かったということと思います。
 

>到着と同時に日本人から口止めをされているところを見ると、慰安所の件が広まるのを恐れた為だと思われます。

元慰安婦の証言でしょうか。
 強制連行したのが事実であれば、分遣所5000名の抑留者の反感・抵抗を和らげるため、まず抑留者の前で家族の下に戻し、関係者を処分した筈。
 慰安所が知られる事は、公然募集の時点で11万から13万余の抑留者全てに知られてしまっている事で、連行事件が事実であればそれもすぐに知れ渡るものです。
 
 募集に自らサインした不道徳な女性(基金資料)と蔑視される・・・乏しい食料と厳しい環境に耐えている元の分遣所に、十分な食事や医薬品・物資を得ていた彼女たちは戻れなかった、または父親からの申し出であったとすれば軍が彼女たちを慮って戻さなかったのかもしれません。
福原 2007/08/20(Mon)03:53:11 EDIT
福原さん
> 刑事も民事も終了している点を敢えて隠蔽し、日本批判・・・憎しみを拡散させている元慰安婦の言動に対し、日本の強制否定派も「スマランは一部の不心得者が行った犯罪」と安易に蒸し返しを納得している点に疑問がありました。

 この疑問については、私も大いに同意するところです。オハーンの証言内容を見ていると、証言開始当初は「戦犯裁判のことを知らなかった」としか思えない内容です(さすがに、現時点で知らないはずはないと思いますが)。
もし、「実際は、戦犯裁判に証人として出廷していた」等の事実が明らかになれば、オハーンの証言を突き崩していけるのではないかと思っています。もしそうであるなら、自らの証言で死刑まで出しておいて、まだ、憎しみを持続して世界で証言しまくっている姿には、異常さを感じざるを得ないでしょう。

>45年当時は食料物資が欠乏し、ある抑留所では3割が栄養失調死・病死する例があり、戦後関係者は処刑されています。彼女の分遣所も同様の状況にあったと思われます。

 例え、飢えていたとは言え、敬虔なキリスト教徒であるオハーンが慰安婦に志願するとは思えません。考えられるとしたら、家族に充分な食事を与えることを条件に志願したというところでしょうか。

>スマランに4軒あった慰安所全てを閉鎖したのかは判りませんが、廃業希望者が多ければ少数で営業を続けるわけにも行かず、一旦閉鎖したのち再開となったのではないでしょうか。

 小田島大佐の勧告を受けて、第一六軍司令部がただちに慰安所の閉鎖を命令し、その時、四軒とも閉鎖されたようです。また、その後、再開されたと推測するなら、それを示す根拠が必要でしょう。
廃業トラブルにしては大げさすぎだと思います。

>勿論戦争犯罪を訴えたのであれば、隠蔽は不可能

 戦争犯罪を訴えたとしても、犯罪を犯したのが軍で、訴えた相手も軍なら握りつぶされる可能性はあるでしょう。

>例えば「父親が不道徳だと怒っている」のを聞いての場合もあるでしょうし、事実廃業したかったので「いい機会」であったのかもしれません。

 収容所での貧困を避けるために慰安婦に応募したとするならば、「廃業したかった」とか「父の怒り」で慰安婦をやめたというのは少し安易すぎるかと思います。オハーンは、キリスト教徒で、かつ、処女であり、慰安婦に自ら志願したのなら、それ相応の覚悟があったはずです。
考えられるとしたら、自分の意思とは無関係なところで、何か重大な事件等が起きて慰安所が廃止になったというところでしょうか。

>女性基金資料には、積極的に協力・リストアップしたリーダーもいたとの事ですが、「猛然と抗議したのに連行された」記録は、今のところ判りません。

「オランダ人『慰安婦』ジャンの物語」には、「キャンプ・リーダーの、有能でしっかり者のイルデラ夫人が、形相をかえて収容所長の事務室へ乗り込んでいきました。ほかの女たちもそのすぐあとに続きます。一同はその命令に猛然と抗議し、同時に、若い娘だけを並ばせる理由を聞き出そうとしました。イルデラ婦人は手荒く押しのけられ、その命令がくりかえされました。」P.81とあります。

>事実であれば、彼女の分遣所では、5000名vs日本人将校1、下士官1、朝鮮人軍属3、兵補15、計20名の監視員ですから反乱は容易、他の抑留所も同じような監視体制ですから、大変な事態になったでしょうね。

 抗議の規模にもよるでしょう。オハーンの証言によると抗議したのは、リーダー+女性(何名か不明)であり、暴動になるような規模ではなかったでしょう。

>下士官が所長をしていた抑留所で、リーダーはリストを作らず、所長が「応募者はいない。」と報告して、何の強制もありませんでした。(戦後も、所長と拘留者の交流が続いたとの事)・・・戦後に死刑を出した兵站部門・軍上層の強制は無かったということと思います。

 結局、「抑留所の所長の判断しだい」ということになるのではないでしょうか。
まともな所長であれば、募集だけしてみて応募がなければそれで終了。上役の好感を必死に得ようとするような所長であれば、「どうぞどうぞ、抑留所まで来て好きなの選んでください」とおべっかを使ったかもしれません。

>元慰安婦の証言でしょうか。
「オランダ人『慰安婦』ジャンの物語」に「ボゴールの収容所に着くとすぐに日本人から、自分たちの身に起きたことは絶対に口外するなと言われました」(P.129)とあります。

>強制連行したのが事実であれば、分遣所5000名の抑留者の反感・抵抗を和らげるため、まず抑留者の前で家族の下に戻し、関係者を処分した筈。
>慰安所が知られる事は、公然募集の時点で11万から13万余の抑留者全てに知られてしまっている事で、連行事件が事実であればそれもすぐに知れ渡るものです。

オハーンの証言を信頼すると、アンバラワ収容所では若い女性が選定されて別の所に連れ去られただけで、慰安婦にすることを明示されたわけではありません。収容所に残った人達に、連れ去られた女性が慰安婦にされたという確証があったわけではなく、「単にお茶汲みに使われるだけかも」と言った能天気な想像も可能です。ただし、状況から判断して、慰安婦の可能性が高いと考えた人達がいて抗議したようですが。
また、「従軍慰安婦」(吉見義明・岩波新書)P.177~178によると(※一部内容省略。戦犯法廷の資料に基くものと思われます)
 ハルマヘラ抑留所・・・11人が連行
 アンバラワ抑留所・・・女性たちが激しく抗議したが、むりやり計18名の女性が連行された(判決文では17名)
 ゲダンガン抑留所・・・「猛烈な反対」が起きたため、強制徴集をあきらめて、売春婦だったといううわさのあった十数人の「志願者」を連行した。
おそらく、ゲダンガンでは「慰安婦」であると明示されていたでしょう。アンバラワは上述の通りで、ハルマヘラについては、パターンがアンバラワと似ていることから、こちらも明示されなかったのではないかと思います。
よって、強制的に慰安婦にしたことを隠すために、慰安婦達を別の収容所に入れたというのは納得できる話だと思います。
 
なお、集められたのは、病気や年少で返された者を除いて35人だったそうです。しかし、「オランダ人『慰安婦』ジャンの物語」P.129では、「そこには百人以上のオランダ女性がいました。全員、日本軍による性暴力の被害者でした」と記載されていて、ボゴールの収容所に慰安婦が100名以上いたことになっています。
残りの65名はどこから来た慰安婦なのでしょうか。疑問点がまた一つ・・・

>募集に自らサインした不道徳な女性(基金資料)と蔑視される・・・乏しい食料と厳しい環境に耐えている元の分遣所に、十分な食事や医薬品・物資を得ていた彼女たちは戻れなかった、または父親からの申し出であったとすれば軍が彼女たちを慮って戻さなかったのかもしれません。

 オハーンの証言によると、理由も行き先も告げられずにボゴールの収容所に移動させられたようです。つまり、オハーンがいた慰安所では、上記のような主張をする機会がそもそもなかったことになります。(他の慰安所ではどうだったのか不明ですが)
 また、元いた抑留所に戻ることにそれほどのマイナス要素があるならば、わざわざ慰安婦を辞める必要はないのではと思います。廃業を主張するに至った慰安所の環境改善等を要求するだけで事足りるのではないでしょうか。


以上、やはり、私の結論としては、いくら「実は強制連行ではないのでは?」と議論しても明確な根拠・資料がない限り「机上の空論」の域をでることはできないと考えます。
オハーンの証言に疑わしい部分があるのは認めますが、「疑わしきは罰せず」で、「戦犯裁判の資料にオハーンの証言が見つかって、全く異なる発言をしていた」等の明確な資料が新たに見つからない限り、現状の証言を否定するというのには無理があるのではないでしょうか。
くらじ 2007/08/20(Mon)21:58:49 EDIT
オハーン証言の位置付けの違いですね。
>(オハーンが)「実際は、戦犯裁判に証人として出廷していた」等の事実が明らかになれば、

 宣誓供述のみであっても、戦犯裁判が行われ「犯人」が処刑されたことを知らない筈はありません。

>敬虔なキリスト教徒であるオハーンが慰安婦に志願するとは思えません。

 勿論、「家族のため」は十分有り得る事でしょうが、「敬虔なキリスト教徒であるオハーン」・・・本人主張であっても第三者証言であっても、慰安婦に応募しなかった証拠にはなりません。
 
>小田島大佐の勧告を受けて、第一六軍司令部がただちに慰安所の閉鎖を命令し・・・廃業トラブルにしては大げさすぎだと思います。
>戦争犯罪を訴えたとしても、犯罪を犯したのが軍で、訴えた相手も軍なら握りつぶされる可能性はあるでしょう。

 Wikiには4軒閉鎖とありますが、ソースが確認出来ていません。将校倶楽部など4軒であれば、それ以外の(蘭人慰安婦がいた)桜倶楽部などが何故閉鎖対象外だったのかの理由が問題になりますね。
 閉鎖後、現地民を募集して再開営業したという説に矛盾は無いようです。
 
 陸軍省の俘虜管理部の大佐・・・「本省の担当官から勧告」されているという蘭側資料が正しいのであれば、現地軍として大げさな対応は有り得ます。
 陸軍省にも知られた「事件」であれば、共謀して又は現地軍単独で握り潰せるものではありません。日本軍には軍紀・・・軍刑法が無かったのなら、可能性はあるでしょうが。
 
 私は、日本軍も戦争犯罪を行ったとは、当然に考えています。ただスマラン事件については、全てが蘭側主張を前提に語られている点について疑問があるのです。
 基金の山本氏は、逮捕前に日本で自決した将校の遺書について「他の資料 と比較し、遺書には、あまり信憑性のない慰安所. 開設計画経過の状況が、慰安所の実施状況とともに、記述している。・・・やはり事件経過の概要に関 して言えば、・・・スマラン慰安所事件判決文3点が一番信頼できる資料と言えよう。」と述べています。
 本人たちが訴追を予想していなかった事件について、日本で自決した将校が戦争犯罪を否定し、打ち合わせたわけでもない別の将校たちが、現地で虐待拷問を受け、発狂者まで出しながら具体的に戦争犯罪を否定しているのに、「信憑性が無い・蘭軍裁判判決が一番信頼できる。」・・・まず自身の先入観を疑わなければなりません。
 
>慰安婦をやめたというのは少し安易すぎる
 
 条件提示を見て、安易に応募した女性が、また安易に辞めたいと思っても、不思議に思いません。
 
>「キャンプ・リーダーの、有能でしっかり者のイルデラ夫人が、形相をかえて収容所長の事務室へ乗り込んで

 オハーンの証言は参考にはなりますが、「日本語の承諾書だった」などのように、事実であるとは限りません。
 慰安婦の募集に際しては、州庁が抑留所リーダーの協力を得て希望者リストを作成し(リーダーが関与しなければ、日本の監視体制でリストは作れません。)、このリストに基づいて軍が選定したのです。
 希望者としてオハーンをリストに載せたリーダーが、「若い娘だけを並ばせる理由」を聞き出そうとする・・・有り得ません。
 
>リーダー+女性(何名か不明)であり、暴動になるような規模ではなかったでしょう。 

 強制売淫事件を疑った米軍に対し、朝鮮人男性が「日本軍の強制があれば日本人を殺したろう」と証言しているし、済州島で強制連行があれば暴動が起きていたろうというのは事実だと思うのに、現在は「朝鮮・韓国人は日本軍に抵抗出来なかった」情けない話になっているわけです。
 同意なしが事実であれば、慰安婦が募集されている状況を知っていた抑留者が、若い女性がどこかに連行されていったのですから、5000名の抑留者が抵抗する手段は無数にあるのに、「日本軍に抵抗出来なかった」・・・同じ話が出来上がっているわけですね。
 
>上役の好感を必死に得ようとするような所長であれば

 州庁が募集する等、システムが出来上がっているのに、これを所長の独断で逸脱した場合、抑留者の反発を招くのは必至であり、抑留所が混乱する責任は、結局所長が負わなければなりません。
 
>「オランダ人『慰安婦』ジャンの物語」に「ボゴールの収容所に着くとすぐに日本人から、自分たちの身に起きたことは絶対に口外するなと言われました」
>別の所に連れ去られただけで、慰安婦にすることを明示されたわけではありません。
>ゲダンガンでは「慰安婦」であると明示されていたでしょう。アンバラワは上述の通りで、ハルマヘラについては、パターンがアンバラワと似ていることから、こちらも明示されなかったのではないかと思います。

 前述した通り、州庁が公募した慰安婦の身に起きたことは、抑留者全てが知っているので、オハーン証言は虚偽です。
 『「猛烈な反対」が起きたため、強制徴集をあきらめて』・・・矛盾が多いですね。
 
>オハーンの証言によると、理由も行き先も告げられずにボゴールの収容所に移動させられたようです。・・・廃業を主張するに至った慰安所の環境改善等を要求するだけで事足りるのではないでしょうか。

 オハーンの証言は参考にしかならない事と、当時の状況をつき合わせてその証言を検討して行けば、事実が少しづつ見えてくるようです。
 現地軍としては、陸軍省からの勧告は違法でなくとも管理不行き届きを指摘されている訳ですから、事情聴取内容と共に閉鎖報告をしてケリを付けたのかもしれませんね。

 くらじさんは、オハーン証言を疑わしくとも否定しないというお立場のようですが、別にそれが誤りだと思っているわけではありません。

 スマラン事件そのものは戦犯裁判で決着し、講和条約で確定しています。しかし、オハーン個人の感情は兎も角、戦勝国がアムネスティを無視して日本批判を継続しようとしている以上、朝鮮人元慰安婦と共に強制が確定されているスマラン事件についても検証すべきではないかと考えています。
 スマラン事件の被告たちは、オハーンらの疑わしい証言だけで、反証は一切認められず処刑されているのです。

 日本軍が強制売淫事件を握り潰した、その先入観がプロパガンダによるものではないかと疑うべきと思いますね。
福原 2007/08/21(Tue)03:04:21 EDIT
>上役の好感を必死に得ようとするような所長であれば・・・補足
 階級が上であったとしても、別部隊の者が抑留所を訪れ、直属上官の命令書も無しに抑留者拘引する事は、日本軍では有り得ません。
福原 2007/08/21(Tue)03:32:59 EDIT
補足から得られる組織的強制
 「幹候隊員が分遣所から女性を連行した」
 これが事実なら、隊員は強制売淫の共同正犯ですから訴追対象であるにも関らず、蘭軍が放置したというのも有り得ない話ですが・・・。
 直属上官でもない幹候隊員による女性連行を、抑留所長が認めたのが事実であるなら、共通する上部・・・16軍本部から組織的強制命令が出ていたという事になりますね。
 
 何が事実だったのかは、なかなか判りませんが、現在知り得る情報の中で状況をつき合わせていくと、慰安所リーダーが希望者リスト作成に積極関与、選抜された希望者は2通の承諾書に署名した後、身体検査を経て慰安所におくられたというのが一般的事実。
 オハーン証言は、希望者リスト掲載は無視または間接否定・承諾書署名は否定、つまり異常状態を証言しています。
 現在知り得る情報の中で、異常が起きた状況証拠は見つかっていませんので、重要部分について事実を証言しているとは思えないというのが結論です。
 
 お付き合い有難うございました。
福原 2007/08/21(Tue)13:59:25 EDIT
ご無沙汰でした
 くらじさんのブログの方時折拝見してます・・・お元気そうで何よりです。

 投稿済みコメの訂正なのですが、蘭人慰安婦承諾書2通のソースが見つかりません。
 基金資料だと、マレー語と日本語併記の1通のようです。

 ヒダリの方にもこちらの資料性評価は高いようで、紹介コメを時折見ます。

 当然こればかりに関わっているわけではないでしょうが、貴重な資料のまとめとして是非生かしておいて下さいますようお願いします。

 また引用させて頂く事もあるかと思いますので、その節は宜しくお願いします。

調べるたびに、無益な事をしている気持ちになりますが・・・
 スマラン関係で、刑死した少佐の獄中日記に「抑留女性募集は州庁案、幹候隊が話に乗って軍が了承、州庁が抑留所リーダーに応募者リスト作成を依頼」旨の記載がありますが、ネット上では州庁の役人は法廷に誰一人召喚されていないというものでした。
 ところが、スマラン州長が懲役5年起訴され無罪になっているんですね。
 リスト作成・募集に関与していたから起訴されたのに、リーダーがリストは憲兵から受け取った・元慰安婦もリスト掲載応募を否定したために無罪になったようです。

 スマラン事件のケダンガン抑留所と同じ徴募状況(こちらは憲兵・民間業者に州長同行)のマゲラン州ムンティラン抑留所が不起訴になっているのは、リーダーはアンバラワと同じ主張をしたけれど、副リーダーが交換者・応募承諾リスト作成を認めてしまった為のようです。
 ・・・それではまた
福原 URL 2009/07/10(Fri)03:30:45 EDIT
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