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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 盧清子(ノ・チョンジャ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1922.2.16、忠清南道の貧しい農家に生まれる。17歳の時、日本人が処女を連行しようとしていると聞き、伯母の家へ逃げる途中で憲兵に捕まり山西省の五台山の慰安所に入れられる。2年3ヶ月後、朝鮮人の商人に助けられ慰安所から逃げ出す。

1991.12月に提訴された「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」に1992.4月に第2次原告の一人として参加する。同裁判は2004.11月、最高裁棄却により敗訴が確定した。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

憲兵に捕まりトラックに乗せられる。トラックのあった場所には多くの兵隊がいた。汽車、トラックと乗り継ぎ五台山まで行く。


【考察】

兵隊が処女を連行しようとしているという話を聞いて、伯母の家へ逃げる途中に捕まって連行されるという話なのですが、如何にも胡散臭い内容です。

「裁判の訴状」(以下「裁判」)と「<証言>従軍慰安婦・女性勤労挺身隊」(以下「証言」)を比べると下記の通り相違点が見られます。

<連行の時期>
○「裁判」・・・1938年3月、16歳の春
○「証言」・・・17歳の秋(※西暦の明記なし)
季節が全く違います。なお、16歳は満年齢で17歳は数え年でしょう。

<捕まった時にいた軍人>
○「裁判」・・・憲兵1人、兵隊6人、及び、同女が乗せられたトラックとは別のトラックに20人ほどの軍人
○「証言」・・・憲兵1人、兵隊10人
人数が半分以下になっています。38人の女性を連行するのに、約27人の軍人は多すぎると考えたのでしょうか。

<監視役の日本女性>
○「裁判」・・・同女が乗ったトラックには、監視役の30歳代の日本人女性が2人乗っていた
○「証言」・・・日本人女性の記述なし
他の、如何にも「強制連行」と言った証言の場合も、連行時に軍人と共に日本人女性が行動していたとの記述は見かけません。そもそも、わざわざ女性を連れてきて監視役にしなくても、兵隊にさせれば済む話です。「裁判」より後の証言では、連行時の日本人女性の記述は見あたりません。

<慰安所での監視>
○「裁判」・・・記述なし
○「証言」・・・最初の頃、二人の日本人の女が監視
不思議なことに、「証言」では、連行時に出て来なかった「監視役の二人の日本人女性」がここで出てきます。

<慰安所の休み>
○「裁判」・・・一ヶ月に一度だけ
○「証言」・・・休みは土曜だけ
月1回の休みが、週一回の休みに変更されています。

<中国兵殺害現場への立会い>
○「裁判」・・・八路軍の兵士を穴の前に立たせ、兵士の首を鎌で切り落とす現場に「勇気ある者にするために見せる」と言われて立ち会わされる。
○「証言」・・・該当する記述なし
単に省略しただけかも知れませんが、南京事件の1シーンを彷彿とさせるもので如何にも創作臭い内容です。そもそも、鎌なんかで首を切り落とせるのでしょうか。西洋の死神が持っているような大鎌でも使ったのでしょうか。そうだとしても使い慣れてない道具を使って首を切り落とせるとは思えません。

<父の死亡原因>
○「裁判」・・・軍属として南洋群島に連行され、そこで死亡した
○「証言」・・・徴用で連行された南洋群島で、日本人に叩かれて背骨を折られ、終戦で帰国してから死亡
単に、「死亡した」としか記述されていなかったのが「日本人に叩かれ背骨を折られた」という情報が加わり、しかも、南洋群島で死亡したはずが、帰国してから死亡したことに変更されています。
なお、「裁判」では、「いつか日本の責任を明らかにして日本に補償をさせ、南洋群島で亡くなった父のために碑を建てたい」と記述されています。どうやら、南洋群島に碑を建てる必要はなさそうです。

<故郷に帰った年>
○「裁判」・・・1947年
○「証言」・・・1945年(※明記されていませんが、「朝鮮に帰って、数ヶ月すると終戦になりました」とあり、さらに「私が自分の故郷に帰ったのは、その年の秋でした」とあります)
さすがに、終戦の年に帰郷したか、その数年後に帰郷したかぐらいの記憶はあると思うのですが。


なお、慰安婦裁判の原告にもなっている同女ですが、「韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会」が編纂した「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(明石書店・1993)には証言が載せられていません。(以下の内容は「『自虐史観』の病理(P.153~165)」藤岡信勝・文春文庫を参考にしました)

同証言集(P.22)には、最終的に証言を載せたのが19人だった経緯について記載されており、まとめると以下の通りです。

 ○韓国挺身隊問題対策協議会に申告された人数・・・110人(1992.12末現在)
    内、生存者・・・55人
      内、連絡可能な者・・・40人
        内、以下の者を除いた人数(=証言が掲載された人数)・・・19人
           ①自分の経験を語りたがらない人
           ②証言がそのたびごとにひどくくいちがったり、話の前後があわず、調査が難しい人
           
同女は、同証言集の発行時に生存しており、また、裁判の原告になっていることから、連絡が不可能だったとか、「自分の経験を語りたがらない」はずがありません。つまり、②に該当して、「証言がそのたびごとにひどくくいちがった」ので、証言集には載せられなかったのです。

なお、裁判の原告になって以降、家族等の状況の変化で証言ができなくなったとも考えられなくもないですが、1994年5月に他の15人と共に来日し、記者会見、羽田首相への面談申し入れ、街頭アピール、皇居前抗議行動等を行っていますし、その可能性はないでしょう。


【信憑性】

信憑性無し。
韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会が編纂した証言集からも落とされてしまっています。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992 裁判の訴状 ***** ****
 原告盧清子(ノチョンジャ。以下、「盧清子」という。)は、一九二二年二月一六日、忠清南道の貧しい小作農に生れた。
 盧清子は、父母、兄妹の家族とともに生活し、家事や農作業を手伝っていたが、一九三八年三月、盧清子が一六歳の春、盧清子の母は、村で「娘が兵隊に連れていかれる」という噂を聞いてきた。
 盧清子は、まさか自分の村にまで、兵隊が来るとは思わなかった。しかし、その五日後、盧清子が畑で作業をしていると、昼ごろ、母が慌ててやってきて、盧清子に持ってきた昼食を食べさせた後、自分のチマ(スカート)を脱いで、それを盧清子の頭に被せ、「兵隊が来た。早く、おばさんの家に逃げなさい」と言った。
 盧清子は、不安でいっぱいだったが、娘であることがわからないように母のチマを頭から被り、徒歩二時間の距離の山の中にあるおばの家を目指して必死で歩いていた。
 約一時間、おばの家までの道を半分ほど歩いたころ、盧清子は、日本人の軍人七人(憲兵一人、兵隊六人)に捕らえられてしまった。軍人たちは、盧清子の手を引っ張ったり、足を掴んだりしたため、盧清子は、到底逃れることができなかった。盧清子は、軍人の一人の肩に無理やり担がれて、そのままトラックに運ばれた。
丘 を上り、下ったところにトラックがあった。一台のトラックには、一八歳前後の女性が盧清子を含め三八人乗った。ほかに監視役の三〇歳代の日本人女性が二人乗った。女性たちが乗ったトラックの後にもう一台のトラックが続いた。それには、二〇人ほどの軍人が乗っていた。
 女性たちはみな手を取り合って「私たちはもうみな死んだ」(死んだも同然だ)と言って、声を出して泣いた。
トラックは、その日の午後村を離れた。
盧清子は他の女性とともに、倉庫のような場所に連れていかれ、握り飯と水を与えられた後、されにトラックは、夜間も走り続けた。
 そして、二日間汽車に乗って、タイチカンに着いた。
 汽車から降りると、待っていたトラックに乗せられ、三、四時間移動して、オオテサンに着いた。
 オオテサンの部隊は、城壁の中にあった。
 三八人の女性はみないっしょに連れてこられた。
 慰安所は、部隊の中にあった。馬小屋のようなところで、小さい部屋が板で仕切ってあった。人が二人やっと入れるくらいの大きさの部屋で、部屋の前はカーテンが掛けられていた。板の底に薄い敷布団が敷いてあった。~(中略)~
 休日は、一か月に一度だけだった。月経のときは、「私はメンスよ」と言って、下着を汚したままにした。月経でも、相手をさせる軍人はいたが、それでも、ふだんよりは、少なくなるからだ。~(中略)~
 もう1つは、捕らえた八路軍の兵士を殺害する現場に立ち会わされたときだった。八路軍の兵士を穴の前に立たせ、兵士の首を鎌で切り落とすと、首が穴に落ちた。軍人は「勇気ある者にするために見せると言って、軍隊慰安婦の女性たちに着物を着るように命令して、殺害の現場に立ち会わせた。盧清子は、その現場に立ち会わなければならなかった日の夜は、悪夢にうなされた。~(中略)~
 盧清子は、脱出を手助けしてくれた商人の事実上の養子となり、養父母とともに、天津で暮らしていたが、養父母が帰国することになったため、一九四七年、盧清子が二五歳のとき、故郷に帰った
 故郷に帰って、盧清子は、父と妹が死亡したことを知った。
 父は、盧清子が連行された五か月後に軍属として南洋群島に連行され、そこで死亡したとのことだった。~(中略)~
 何度も死のうと思ったかもしれない。それでも歯を食い縛って生きてきたのは、いつか日本の責任を明らかにして日本に補償させ、南洋群島で亡くなった父のために碑を建てたいという思いがあったからである。
1992.8 <証言>従軍慰安婦・女性勤労挺身隊 伊藤孝司 風媒社
 ところが、一七歳の秋のことです。畑で働いていたら、村人たちが来て、「日本人が処女たちを連れて行こうとしている」という話をしていきました。そしたら、お母さんが走って来て「兵隊が来たから早く逃げろ」と言ったんです。
お父さんの姉にあたる伯母さんお家に逃げる事になり、お母さんは自分の白いチマ(朝鮮のスカート)を脱いで、私に顔を隠すためにかぶせてくれました。そこからセジェという場所にある伯母さんの所まで三里ありましたが、私は「道を知っているので一人で行く」と言ったんです。
 だけど、伯母さんの家に行く手前の橋の上で、憲兵に捕まってしまいました。
 そこには、先に捕まった娘が一人いました。私は日本語を知らないので、身振りで嫌だと示したんですが、一〇〇メートルほど離れた所の大きな道まで連れて行かれました。すでに夕方になっていました。
 そこには大きなトラックが三台停まっていて、私を捕まえた憲兵の他に、普通の兵隊たち一〇人がいました。トラックに乗せられると、他の所で捕まった娘たちがいました。私の知らない人ばかりでしたが、大田の近くの人たちでした。全部で三八人捕まったんです。
 その時、私には面(村)事務所で書記をしていたいいなずけがいて、五日後には嫁に行く事になっていたんですよ。~(中略)~先ず着いたのは「北支」の天津でした。そこから更に「タイチカン」まで汽車で行き、トラックで「五台山」という最前線の部隊に着きました。部隊から一〇〇~二〇〇メートルほど離れた所に小屋が建っていて、そこに入れられました。三八人はここまで一緒でした。(P.93~94)

 ここへ連れて来られた最初の頃は、二人の日本人の女が私たちを監視していました。(P.95)

 私たちは、その商人の所へ行く事だけは許されていました。この人が私に「そんなにしていたら、いつ死んでしまうかわからないから」と、逃がしてくれてんです。~(中略)~
 この夫婦には子どもがなく、私が気に入ったので、私だけ逃がしてくれたのでした。それは、そこへ行って二年三ヵ月した時で、三月のことです。
 その人の天津の家で、私は隠れて暮らしました。私を養子のように扱ってくれたんです。この夫婦は商売で儲けたので、家を売り払って、私が二五歳の時に私を連れて帰国しました。
 朝鮮に帰って、数ヵ月すると終戦になりました。養父母は、論山に家を建てて畑を買い、私と一緒に生活を始めました。
 私が自分の故郷に帰ったのは、その年の秋でした。養父母には「家族を探したら、必ず帰って来て、ここの娘になります」と言いました。そしたら、養父母は私に「婿をもらって一緒に暮らそう」と言ってくれたんです。
 故郷に戻ってみると、お父さんが亡くなっていました。お父さんは「徴用」で連れて行かれた「南洋群島」で、日本人に叩かれて背骨を折られたんです。終戦で帰国してから亡くなっていました。(P.96~97)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 私が生まれたのは大田の貧しい農家でした。
 数え年で17歳の3月のことです。お母さんと畑で豆の種を蒔いていましたが、昼になってお母さんは家に戻りました。すると、村人たちが来て「日本人が処女たちを連れて行こうとしている」と言うのです。すぐ、お母さんが走って戻って来て「兵隊が来たから早く逃げろ」と言いました。
 伯母さんの家に逃げることになり、お母さんは自分の白いチマ(スカートのような民族衣装)を脱いで、顔を隠すために私にかぶせてくれました。そこから伯母さんのところまで3里ありましたが、私は「道を知っているので一人で行く」と言ったのです。
 峠の手前で女の泣き声が聞こえました。そちらを見たら兵隊と捕まえられている女がいたのです。私はチマをかぶっていたので、兵隊がいるのに気がつかなかったのです。足が震えて逃げられずに捕まってしまいました。その兵隊は、赤い文字で「憲兵」と書かれた腕章をしていました。
 100メートルほど連れて行かれると、そこには大きなトラックが3台停まっていて、兵隊たち10人いました。帆のかかったトラックに乗せられたら、他の所で捕まった娘たちがいました。この時、私を入れて38人が捕まったのです。18歳か19歳が多かったですが、16歳の女もいました。「殺されるのではないだろうか」と、みんなで抱き合って泣いていました。その時、私には面(村)事務所で書記をしていたいいなずけがいて、5日後には嫁に行くことになっていたのです。
 トラックは鉄道の駅に着き、すぐに無蓋の汽車に乗せられました。4昼夜走って着いたのは「北支」の天津でした。そこから、更に「タイカチン」まで汽車で行き、トラックで「五台山」(山西省にある)という最前線の部隊に着きました。そして部隊から100~200メートルほど離れたところに建っていた小屋に入れられました。
 小屋の中は、板で細かく仕切られた部屋がありました。部屋には番号が付いていて、私は7号室でした。外から入れるように部屋ごとに入口があって、そこにはカーテンが掛かっていました。
 その日の夜7時頃、どの部屋にも兵隊が入って来たのです。それは1等兵・2等兵たちでした。私は激しく抵抗したので、兵隊に殴られたり蹴られたりしました。鼻や口から血を出し、お尻に大けがをしました。(P32~36)
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マイケルキム 2011/10/08(Sat)21:00:46 EDIT
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