元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ マルディエム ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1929年2月7日、ジャワ島のジョグジャカルタに4人姉妹の末っ子として生まれる。父と母は貴族の使用人で経済的には困っていなかった。生後7ヶ月で母親をなくし、1939年10歳の時、父が死亡。叔父の養女となるが叔父の価値観に従えず、3ヵ月後、他家で住み込みの召使いになる。1942年13歳の時、芸能活動に興味をもっていた同女は、「レストランで働く人と芝居をやる人」を探している日本人に応募し、ボルネオ島のバンジェルマシン郊外のトラワンの慰安所で3年間慰安婦を強いられる。
2000年12月、「国際女性戦犯法廷」で証言。
同女を扱ったドキュメンタリー映画に「Mardiyem-マルディエム- 彼女の人生に起きたこと」がある。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
「正源寺」(日本人の歯医者で市長)という人物、もしくはインドネシア人グループに引率され、汽車と船を乗り継ぎ慰安所まで連れて行かれる。慰安所の経営者は「キクチ」という日本人。なお、この慰安所は、昼は軍人、夜は民間人(もしくは軍属)を相手にしていた。
【考察】
下記資料の1997年の「元『慰安婦』の証言」(以降「元慰」)、及び「インドネシアの『慰安婦』」(以降、(イ慰)と2001年の「インドネシア従軍慰安婦の記録」(以降「イ従」)を比べると以下の通り証言が異なっています。
<13歳時の生活状況>
○「元慰」・・・「13歳になっていましたが、~(中略)~父も母も貴族の使用人で経済的に困っているというわけではありませんでした」
○「イ慰」・・・特に、当時の経済的状況等についての記述なし
○「イ従」・・・父も母も死亡しており、他家で住み込みの召使いをしていた。
→「元慰」や「イ慰」では、当時、既に両親が死亡していたことは語られていません。ただし、「イ従」によると、住み込みの召使いをしていたので生活には困っていなかったようです。「元慰」の内容は、ウソとまでは言えないでしょうが、正確ではない証言です。
また、「イ従」によると、父親の死亡後、叔父の養女となりますが、その叔父はジャワの価値感を強調する人で、同女は家に閉じこめられていたようです。そのことに耐えられずに、叔父の家を出たようで、明記はされていませんが、叔父の許可を得て召使いをしていたとは考えられず、おそらくは、当時、同女は保護者がいない状況だったと思われます。
<募集した人物>
○「元慰」・・・日本人歯科医の「ソウゲンジ」がカリマンタンからやって来て募集
○「イ慰」・・・日本人歯科医でバンジャルマシン市長の「正源寺」が舞台役者や歌手等を引き連れてきて募集
○「イ従」・・・徴募人グループのリーダー格はアリ・ブロスで、そのグループには日本人はいなかった。ただし、その指導をしていたのが「ショーゲンジ」医師。
→「元慰」・「イ慰」と「イ従」では、「正源寺」の役回りが全く異なっています。「イ慰」によると「正源寺」は当時、バンジャルマシンの市長だったようです。例え、軍から慰安所設置の要請を受けたとしても、市長自らが募集して回るなどありえないでしょう。
<15歳未満で資格のない同女にOKを出した人物>
○「元慰」・・・インドネシア人医師に13歳で資格がないと言われた際、「ソウゲンジ」が問題ないと言った。
○「イ慰」・・・「正源寺」が「かまわんだろう」と言った。
○「イ従」・・・募集したインドネシア人グループは、同女が年齢を偽っていることを知っていたが黙認した。
→「元慰」・「イ慰」では、「正源寺」がわずか13歳の同女に売春行為を許可した張本人になっていますが、「イ従」では黙認したのはインドネシア人の徴募人グループになっています。
<慰安所まで引率した人物>
○「元慰」・・・明記なし(※前後の内容から「ソウゲンジ」であろうと推測される)
○「イ慰」・・・「正源寺」
○「イ従」・・・インドネシア人の徴募人グループ
<慰安所への移動時の日本軍トラック>
○「元慰」・・・トラワンへの移動時にトラックを使用。日本軍のトラックとは記載されていない。
○「イ慰」・・・移動時にトラックの記載はない。
○「イ従」・・・スバラヤで軍用トラックを使用。運転手は軍人。また、バンジャルマシンでも同じ日本軍のトラックを使用。
→何故か「イ従」だけ、移動時に日本軍のトラックが出てきます。「正源寺」の関与が薄れた代わりとして、日本軍の関与を追加したのでしょうか。
<慰安所オープンの日に集まった人>
○「元慰」・・・「たくさんの人」とあるだけで日本兵とは記載されていない。また、「パンジェルマシン中から人が集まってきていました」とある。
○「イ慰」・・・記載なし
○「イ従」・・・「慰安所はすでに客たちで溢れており、それは日本人兵士たちに他ならなかった」
→「元慰」では、民間人も含まれていたと解釈するのが自然な記述だったのが(※同慰安所は民間人も相手にしていた)、「イ従」では集まった客の全てが日本人兵士になっています。
<同女の最初の相手>
○「元慰」・・・単に「医者のアシスタント」としか記載されておらず、身体検査を受けた病院との関連も記述されていない。
○「イ慰」・・・「最初の日、マルディエムさんは六人の兵士に犯された」とある。
○「イ従」・・・午前中の身体検査の際、同女を調べた医者の助手。また、検査の際、処女であることを知り、真っ先に買いに来たのだろうという旨の記述がある。
→「元慰」では語られていない具体的な情報が「イ従」では追加されています。「イ従」によると、同女が病院から慰安所に戻ったのは午前11時頃で、その時には既に慰安所の前にたくさんの日本兵がいたようです。
もし、その病院の助手が同女を一番に買うには、同女の検査をした後、全員の検査終了を待たずに、即座に病院を抜け出して並ばなければ不可能でしょう。それとも慰安所経営者に金を握らせて一番を取ったのでしょうか。しかし、高位の将校でもない単なる医者の助手がそんなことをしたら、並んでいた他の日本兵が黙っていないでしょう。ウソ臭い証言です。
また、ウソ証言だからか、「イ慰」では医者の助手は登場しません。もしかすると、軍の病院の助手も「兵士」に含まれているのでしょうか。
<慰安所の客>
○「元慰」・・・昼の12時から5時までは軍人が利用、5時から夜の12時までは民間人が利用。
○「イ慰」・・・昼の12時から5時までは軍服を着た軍人が利用、5時から夜の12時までは私服の軍属が利用
○「イ従」・・・昼の12時から5時までは日本兵が利用、5時から夜の12時までは日本の民間人が利用
→「イ慰」だけ、午後の利用者が「軍属」になっています。
<中絶手術の際、麻酔・鎮痛剤を使用しなかった理由>
○「元慰」・・・「彼女(※医師)もやりたくてやったわけではありませんでした。命令されたのです」とある。
○「イ慰」・・・「麻酔薬も手術に必要な機材も充分になかった。」とある。
○「イ従」・・・「おそらく、日本側としては、マルディエムさんに、彼女が二度と妊娠することがないよう、一種のトラウマを植え付けたかったのだろう。」とある。
→「元慰」と「イ従」は、日本人経営者が医師に命令して、麻酔・鎮痛剤無しでの堕胎処理をさせたことになっているのに対して、「イ慰」は、単に戦時中で薬等が無かった為になっています。
<堕胎後の胎児>
○「元慰」・・・「慣習にしたがって名前をつけました。名前があれば私が死んだ後も拝んでもらえます。『マルディヤマ』と名付けました。」とある。
○「イ慰」・・・「その子を棄てないよう医師に懇願し、マルディヤマと名付けて埋葬した。」とある。
○「イ従」・・・「しかも、まだ若い娘のマルディエムさんに、自分の目ですでに形を形成している赤ん坊を見るように強制したのだ。」とある。
→「イ慰」では、同女自身が胎児を棄てないように懇願して埋葬までしているのに、「イ従」では、日本人経営者がトラウマを植え付ける為に胎児を見るよう強制しています。
1997年の「元慰」・「イ慰」と2001年の「イ従」で大きく異なっているのは、日本人歯科医の「正源寺」の役割です。「元慰」・「イ慰」では、この「正源寺」が虚偽の内容で慰安婦を募集し、13歳で資格のないの同女を積極的に黙認しています。完全に本件の主犯格として扱われています。
この「正源寺」は、バンジャルマシンの市長をしていたようで、市長自らが慰安婦を募集し、集まった女性達を慰安所まで引率するなど、おかしな話です。
その点を誰かに指摘されたのか、「イ従」では、それまで出てこなかった「インドネシア人の徴募人グループ」が出てきて、募集、引率は全てそのグループが行っており、そのグループの指導を「正源寺」行っていたことになっています。しかも、それまでは、同女が「正源寺」に直接会っていたのが、結局、一度も姿を見ることがなかったことに変更されています。
いい加減な証言です。本当に市長の「正源寺」が関与していたのかも疑わしいものです。
さらに、「イ従」では、「その船に乗り込んだとき、マルディエムさんは、本能的にいやな予感がした。その船に乗って二日間の航海中に、マルディエムさんは、彼女の仲間たちの一部が乗組員たちと、あるいはほかの客たちと親密な関係になっていることがわかった。」という記述があります。
この記述から、同女たちの一部に娼婦がいたことは明らかでしょう。「親密な関係」とは単なる恋愛の親密さではありません。そうならば、「いやな予感」などするはずがないからです。
ここから分かることは、「娼婦がいて、恐らく、その娼婦たちは慰安婦をすることを知っていた」と言うことです。もし、娼婦から足を洗って、レストランの給仕や舞台俳優等になろうとしていたのなら、移動中の船で客をとったりしないでしょう。
また、「元慰」・「イ慰」・「イ従」では、同女が妊娠した際、中絶用の薬を飲ませられますが効き目がなかった為、ウリンの病院に連れて行かれ、ドイツ人の女性医師に麻酔や鎮痛剤なしで掻爬されて堕胎したと証言しています。
しかし、下記資料の「《非戦・平和コンサート》横浜開港記念会館」では、中絶処理をしたのが慰安所経営者の「チカダ」になっています。「チカダ」が中絶薬を飲ませたが効き目がなかったので、同女の上に乗って無理やり中絶させたことになっています。
証言など、いくらで作り変えても構わないとでも考えているのでしょうか。
【信憑性】
「正源寺」に関する証言の変更はひどいものです。おそらく、慰安所で働いていたというのは本当でしょうが、いったい、どこまで本当のことを言っているのか不明です。
信憑性はありません。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1997.6 元「慰安婦」の証言 -五〇年の沈黙を破って アジア・フォーラム編 晧星社 インドネシアのジャワ島ジョグジャカルタからやってきましたマルディエムと申します。ずいぶん昔のことです。やっと今日お話できます。一九四二年から話します。カリマンタンから日本人の医者で「ソウゲンジ」という人がやってきました。その人が言うには、カリマンタンで働く人を探しているということでした。レストランで働く人や芝居をやる人を探しているということでした。その募集の話も公式なものではなく、口から口へと伝えられていました。私は一三歳になっていましたが、芝居が好きだったので、その話に興味を持ちました。私の父も母も貴族の使用人で、経済的に困っているというわけではありませんでしたが、歌手になりたいと思っていたので、この募集に応じたのです。私は一九二九年二月七日生まれで、応募の年齢には達していませんでしたが応募しました。ジョグジャカルタで使用人になろうとは思っていませんでした。カリマンタンのバンジェルマシンで募集していたのは、レストランで働くか芝居の役者でした。実際、芝居をやっている人が一緒に来ていたので、その話を信用したのです。手続きも、どこかに行ってするのではなく、その人に「応募したい」と言っただけです。
応募の気持ちを伝えてから三日後に、ジョグジャカルタのススドラさんというインドネシア人の医者に行って身体検査をするよう言われました。「ソウゲンジ」さんは歯医者でした。検査の結果、一五歳という応募資格のない一三歳でまだ生理もないということがわかってしまいました。ススドラさんは「ソウゲンジ」さんに「一三歳で資格がない」と言うと「ソウゲンジ」さんは「問題ない」と言いました。そして採用されて、四、五日してから、トゥドゥ駅に集まれと言われました。行ってみるとそこでたくさんの人が応募していたことがわかりました。ジョグジャカルタの人が四〇人、アンバラワンの人が八人で合計四八人でした。私たちは仲間ということがわかりました。ジャワ人は青い服、他の人は黄色の小さな花柄の模様のついた服を着ていました。スラバヤまで汽車で行き、ホテルでバンジェルマシン行きの船が出るまで待ちました。スラバヤには一週間から一〇日くらいいました。「ミキ丸」という船が来て二日二晩かけてバンジェルマシンに着きました。そこでは「ソウゲンジ」さんの使用人で東ジャワ出身の人の家に泊まりました。
また一週間から一〇日くらいすると、アンバラワンから来た八人は、レストランで働くことを希望していたので分けられました。その他の四〇人のうち、一六人は芝居をやることになりました。残りの二四人は(私もはいっていましたが)トラックに乗せられて、トラワンというところに連れて行かれました。トラワンというのは、バンジェルマシンの中心ではなく、郊外にあります。そこで、二四人は個室を与えられました。個室には一から二四の番号がふってありました。その中には、ベッドと毛布(シーツ)と机と二つの椅子がありました。ぜいたくではなかったけれど、一人で暮らすにはちょうど良いと思いました。私は一一号室を与えられました。すべて日本名をつけられました。六号室の人は「マサコ」三号室は「サクラ」などです。私は今でも一〇名ぐらいの日本名を覚えています。二四名のインドネシア名はすべて言えます。私自身は「モモエ」という名をつけられました。その意味するところはまだわかりませんでした。
夜になって私たちは泣きました。一五歳以下の人が四人いました。翌朝になると、そこを運営している責任者の「チカダ」に軍の病院に連れて行かれ、身体検査をされました。何のためかはまだわかりませんでした。病院から帰って仔細がのみこめました。そこにはたくさんの人が集まっていました。その日は「慰安所」のオープンの日だったのです。市場のように人が列をつくって待っていました。その人たちを二四人で相手しなければならないので、たいへんでした。最初に私が客をとらされた人というのは、医者のアシスタントで、彼は一時間の時間を買ったわけですが、一時間もいないで用が済むとすぐ帰っていきました。最初に経験した人ですから、その人の風貌を忘れることができません。よく覚えています。当時、私は一三歳だったので、続けて六人も客をとらされるとものすごい出血がありました。もうこの仕事は耐えられないと思い、こんなにつらいなら死んだ方がましだとさえ思いました。あまりにも出血がひどかったので、休憩させてくれるようにお願いしました。この日はオープンの日でバンジェルマシン中から人が集まってきていました。バンジェルマシンは南カリマンタンの州都です。でも耐えられないので、部屋の前にある「モモエ」という札を裏返しにして客をとっていることにして休んでいました。外には出られませんでした。(P.13~15)
昼の一二時から五時までは軍人が利用しました。五時から夜の一二時までは民間人が利用しました。(P.15)
そして「チカダ」に中絶のため医者に連れて行かれました。中絶のためウリンの病院に強制的に連れて行かれたのです。戦争中だったので、麻酔も鎮痛剤もなしに掻爬されました。手術したのはドイツ人の女性医師ですが、彼女もやりたくてやったのではありませんでした。命令されたのです。(P.16)1997.5 インドネシアの「慰安婦」 川田文子 明石書店 長い年月、インドネシアを植民地として支配してきたオランダを短期間の戦闘で破り、日本が軍政を敷いたのは一九四二年三月九日である。
日本が軍政を敷いてまだ間もない頃、正源寺寛吾はドクトル・ソスロドロ、舞台役者のアリブロッス、その下で働いていた歌手のレンチを率いてジョグジャカルタにやってきた。
レンチは、マルディエムさんと幼なじみである。(P.12)
レンチは、「ボルネオ」に行って一緒に芝居をしよう」と、マルディエムさんを誘った。
マルディエムさんの家族は、代々王宮に仕えてきた。礼儀作法を厳しく躾けられ、母や姉と同じように王宮に仕える窮屈な生活から抜け出したいと思っていた。ブルネオに行って、レンチやジャパールのように舞台に立てたらどんなに楽しいか、夢が大きく膨らんだ。(P.13)
出発前、希望者は全員、王宮の近くにあったドクトル・ソスロドロの知人の医院で健康診断を受けた。マルディエムさんは、その時一三歳だったが、身上書では年齢を一五歳にした。一三歳ではボルネオに連れていってもらえないような気がしたからである。ドクトル・ソスロドロは、この少女の策略を一目で見破った。
「まだ、子どもですよ」
「いや、かまわんだろう」
バンジャルマシンでの仕事に耐えられないのではないかとのドクトル・ソスロドロの危惧を打ち消したのは、正源寺であった。
翌日、指定された時間にジョグジャカルタの駅前に行ってみると、大勢の同じ年くらいの少女たちが集まっていた。列車に乗ったのが午前八時か九時頃、正源寺に集められた少女は四八人だった。誰ひとり、どんな目的のために集められたのか知らなかった。~(中略)~
スラバヤに着いたのが、午後三時過ぎ、パンニリ・ホテルに宿泊した。他の客が入る余地はなく、正源寺が引率する少女たち一行の貸切となった。ホテルで船待ちをして、ボルネオに渡ったのは約二週間後である。
ジョグジャカルタで四八人の少女を徴集した責任者、正源寺寛吾は『ジャガタラ閑話』(ジャガタラ友の会 一九八八年刊)によれば、当時、バンジャルマシンの市長であった。(P.14~15)
正源寺は、バンジャルマシンでは「ドクトル・ギギイ正源寺」として知られていた。ギギイはインドネシア語で「歯」のことである。つまり歯科医であるが、国家試験を受け、医師としての資格を取得した今日の歯科医とは異なり、シンガポールの日本人歯科医から技術を習得した。(P.16)
彼女たちはひとりひとりその小部屋に入れられた。凹字型の建物の中庭の正面入口に別連棟のしっかりした建物があった。慰安所が開設されると、事務所あるいは受付と呼ばれるようになった建物である。他の二四人のうち、八人は食堂に、一六人は劇場で働いていることを知ったのは、後になってからのことだ。
正源寺にかわって少女たちを管理するようになったのはチカダという四〇歳前後の日本人である。チカダは数人のインドネシア人男性を使っていた。出発前にジョグジャカルタでも身体検査を受けたが、小部屋に入れられて間もなく、少女たちは性病の有無を調べる検査を軍医から受けた。その後も毎週土曜日の朝、同じ軍医から性病検査を受けた。さらに、毎朝、衛生兵からも身体検査を受けた。(P.21)
最初の日、マルディエムさんは六人の兵士に犯された。その日の鮮血と、体の中にぽっかりと空洞が空いたようなひりひりとした痛みは、未だに忘れることができない。その時にはまだ初潮を迎えていなかった。心身ともに未成熟なまま一三歳になって間もないマルディエムさんは、その日から軍人の性的「慰安」に応じなければならなくなったのである。
トラワンの慰安所では、軍属待遇の役所の人や電話局員なども受け入れていた。ただし、利用者は日本人に限られていた。正午から午後五時までが軍服を着た軍人、それ以降深夜一二時までが私服の軍属、料金は一時間で軍人が二円五〇銭、軍属が三円五〇銭、泊まりは一二円五〇銭だった。(P.22)
痩せていた一四歳のマルディエムさんの身体の変化に最初に気づいたのは、チカダである。すぐに医師の診察を受けさせられた。妊娠五ヵ月になっていた。バンジャルマシンのウーリン病院に連れていかれ、1週間薬を飲んだが、堕胎できなかった。中絶手術が施されることになった。麻酔薬も手術に必要な機材も充分になかった。ドイツ人の女性医師は麻酔薬を使わず子宮の中の子を掻爬した。頭の芯まで達する激しい痛みであった。掻爬された子はまだ生きていた。男の子だった。その子を棄てないよう医師に懇願し、マルディヤマと名付けて埋葬した。自分の名とヤマグチからとった名前である。(P.28)2001.8 インドネシア従軍慰安婦の記録 ブディ・ハルトノ/ダダン・ジュリアンタラ著 宮本謙介訳 かもがわ出版 マルディエムさんは、生後七ヵ月の時に母親を亡くし、片親だけで育った。(P.47)
それから、近所の人がやってきて、初めてマルディエムさんの父が亡くなったことを知ったのである。これは1939年のことであった。そのとき、マルディエムさんは10歳ぐらいだった。~(中略)~結局、彼女は叔父と一緒に暮らすことになった。その叔父さんは、ワック・ドゥルと呼ばれて、ハジの称号を持ち、ムルトルルタンに住んでいた。叔父には子供がなかったので、マルディエムさんが養女として引き取られることになった。ところが、叔父はジャワの価値観を非常に強調する人で、マルディエムさんはあまり居心地が良くなかった。とくに、女の子の活動範囲を大いに制限するという彼の主義のために居心地が良くなかった。マルディエムさんは、その年齢ゆえに家に閉じこめられることになった。以前父が生きていたころ、当然のことのように発揮できたマルディエムさんの自由な精神をもってしては、ワック・ドゥル叔父さんの所に留まるのは三ヵ月ほどが限度であった。やがて彼女は、お手伝いか、召使いとして自立して生きていくことを決意した。彼女は、ンドロ・マングンさんの家で雇われることになった。(P.50~51)
芸能に対する愛着から、マルディエムさんは、この理想を実現するためのあらゆる機会に対して、いつも耳を研ぎ澄まし、非常に敏感であった。音楽の友達たちは、マルディエムさんの理想と強い希望に大いに理解を示した。そのころ、ミス・ルンチがやってきて、ボルネオで歌手になるチャンスがあるという情報をもたらした時、マルディエムさんは、深く考えることなく、またその情報の真偽を確かめることもなく、すぐさま関心を示した。その仕事についての口伝えの情報に、マルディエムさんはすぐに飛びつき、彼女はボルネオ行きの準備を整えていた。(P.55)
ミス・ルンチの説明で、マルディエムさんは、その求人を信用するようになった。その後、ミス・ルンチ自身がマルディエムさんのボルネオ行きの登録をすることになった。
第二に、マルディエムさんは、その労働力の調達を指導しているのがショーゲンジ医師で、インドネシア人のススドロ医師が手助けをしているとの情報を得た。
第三に、仕事の募集は秘密裡に行われていた。それどころか、応募者が自分で登録することはなく、ほかの人を通してなされた。マルディエムさんが知っていたことは、ミス・ルンチによってすでに登録が済まされたということだけで、近いうちに身体検査があるとのことであった。その身体検査で、マルディエムさんは年齢を偽っていると指摘された。なぜなら、当時、彼女はまだ初潮を経験していなかったからである。当初、マルディエムさんは十五歳と言ったが、実際は一九二九年生まれの十三歳になったばかりだった。一方、募集したグループの側は、マルディエムさんが年齢を偽っていることは知っていたが、そのことには触れず、結局、マルディエムさんの出発が確定した。(P.59~60)
マルディエムさんは、彼女がスラバヤ行きの汽車でいつトゥグ駅を出発したのか、正確なことを記憶していない。マルディエムさんは、この出発に関わる行政上の手続きのことは、何も知らなかったと認めている。出発に関わるすべての書類は、彼女の出発の段取りも含めて、徴募人グループのリーダー格のアリ・ブロスによって処理された。マルディエムさんによれば、参加者や応募した集団は、ただついて行くだけであった。というのも、アリ・ブロスがすべてを取り仕切っていたからだ。
スラバヤ行きの汽車で出発したとき、マルディエムさんによれば、徴募人グループに日本人は全く含まれていなかった。すべては、インドネシア人によって取り行われた。(P.61)
それから彼女たちは、お互いに知り合うようになった。彼女たちのグループは、40人のジョグジャカルタ出身者と八人のアンワラワ出身者から構成されていることもわかった。~(中略)~マルディエムさんのグループは、アリ・ブロスにより引率されていた。労働者徴用の指導者として、最初に知らされたショーゲンジ医師は現れなかった。~(中略)~
スラバヤに着くと、四八人の一行は、一台の軍用トラックに出迎えられた。この出迎えの時に、軍が初めて姿を現した。トラックの運転手が、軍人だったのである。その後、一行は、スラバヤのブラウラン地域にあるパヌルホテルで宿泊することになった。~(中略)~というのも、ボルネオ行きの船を待たされたからだ。彼女らは、およそ二週間ほど滞在することになった。(P.62~63)
ずいぶん待たされてから、ようやくニチマル号という船がやってきた。その船は、ごく普通の木造船で、日本軍によって略奪されたボルネオ島民のものだった。船には、先に日本人が乗っていたようだ。その船に乗り込んだとき、マルディエムさんは、本能的にいやな予感がした。その船に乗って二日間の航海中に、マルディエムさんは、彼女の仲間たちの一部が乗組員たちと、あるいはほかの客たちと親密な関係になっていることがわかった。(P.63~64)
ボルネオ、正確に言えばバンジャルマシンに着くと、一行は以前と同じトラック、つまり日本軍のトラックに出迎えられた。~(中略)~
やがて彼女らは、バン・カディルの家に連れてこられたのだとわかった。ショーゲンジ医師はそこにはおらず、その医師はまだジャワにいると知らされた。一行はすぐには目的地に向かって出発しなかった。バン・カディルの家は中継場所にすぎなかったが、結局、仕事が決まる日まで、そこに七日間滞在した。(P.65)
二四人の一行を乗せた車は、トゥラワンへ向かった。目的地は一軒の大きな家であった。~(中略)~各自、部屋を割り当てられると、次に日本名もあてがわれた。マルディエムさんは、日本名を「モモエ」と決められていた。(P.66~67)
マルディエムさんは、その最初の夜をどう過ごしたか、いまでもよく覚えている。その夜、ほとんどの仲間たちは、眠ることができなかった。一晩中眠ることなく過ごしたその翌日、マルディエムさんと仲間たちは、軍用トラックで病院の身体検査に連れていかれた。診断室で、マルディエムさんは三人から検査を受けた。体の隅から隅まで調べられた。診察が終わると、マルディエムさんと友人たちは、トゥワランの慰安所に再び戻された。慰安所はすでに客で溢れており、それは日本人兵士たちに他ならなかった。時間は昼前の一一時ごろだった。
マルディエムさんが部屋に戻ると、慰安所の使用人が彼女の所にやってきて、客にできる限りのサービスをするようにと言った。「この人は、客から施しを受けているんだ」と思った。その命令に含まれる意味が、まだ子供だったマルディエムさんには、実際のところよくわからなかった。考える暇もなく、頬に髭をたくわえた一人の日本人がやってきた。マルディエムさんは、もちろんよく覚えている。その人物こそ、つい先ほど身体検査でマルディエムさんを調べた職員だった。その髭の日本人は、病院で医者の助手をしていた。マルディエムさんは、その男こそ、彼女がまだ処女で初潮の経験もないということを一番よく知っているのだと悟った。(P.71~72)
マルディエムさんが妊娠を知ったあと、使用人は、彼女を堕胎のためウリンの病院に連れて行った。一週間の間、マルディエムさんは、流産に効くと言われて、いろいろな薬を与えられた。しかし、一週間たってもマルディエムさんは、いっこうに流産しなかった。ついに七日目になって、医務員は手術室に彼女を連れて行った。初めマルディエムさんは、手術を受けるのだと思ったが、実際はとても手術などと呼べるものではなかった。
その中絶手術は、原始的なものだった。「私は強く圧えつけられました(diplenet)」。マルディエムさんのお腹は、医師によって強く押えつけられた。痛みが、マルディエムさんの体全体をおそった。「その痛みのために、私は自分の手を動かすことができないほどだった。ひどく衰弱してしまった」。手術は、麻酔も使わない方法であった。おそらく、日本側としては、マルディエムさんに、彼女が二度と妊娠することがないよう、一種のトラウマを植え付けたかったのだろう。
その身体の痛みは、すぐに回復することができた。しかし、心に残った深い傷は、胎内にいた赤ん坊のことであった。しかも、まだ若い娘のマルディエムさんに、自分の目ですでに形を成している赤ん坊を見るように強制したのだ。妊娠五ヵ月の赤ん坊は、すでに成長していて、体形ができ始めていた。手術が終わった後で、マルディエムさんは、赤ん坊を見せられた。そのようなやり方こそ問題なのだ。「私は、その赤ん坊が動いていたのを覚えている。彼はまだ生きていた。その子は男の子だった」。
罪の意識が、すぐに心の奥深くを占めた。「あれは殺人だったのです。私は自分の血を分けた子を殺してしまった」。それこそが、マルディエムさんの中にあった感情である。そのときマルディエムさんは、すでに子供の名前を用意していた。生まれたら、マルディヤマと名付けるつもりだった。それはマルディエムとヤマという言葉に由来している。(P.85~86)2005.8 《非戦・平和コンサート》横浜開港記念会館 ***** **** 私の名前はマルディエム
インドネシアのジョグジャカルタに住んでいました。
インドネシアに日本軍が来たのは一九四二年三月 その時私は十三歳。
舞台で歌うことを夢見る、無垢な少女でした。
「女優にならないか」「ボルネオで大きな舞台に出られるよ」
そんな言葉を聞かされて、浮き立つ気持ちで汽車と船でバンジャルマシンに連れて行かれました。
デッキのすみに歌手になりたき少女らを乗せ船は行く青きボルネオ
十三歳は歌手になれると騙されて皇軍兵士の「慰安婦」とさる
同じような少女たちが私の他に四十七人いました。
着いたところは、舞台ではありませんでした。
大きな建物の二十くらい部屋がある中で、十一号室に入れられ、まだ生理もない私に、六人の男たちが襲いかかってきたのです。
いったい何が起きているのか、恐怖と痛さで、夢中で叫びました。
痛い!やめて!お願い!
でもやめてくれませんでした……
そこは、「慰安所」だったのです。
初潮さえなき十三歳初めの日六人の兵にレイプされしと
慰安所の十一号室に入れられて「モモエ」と呼ばるる十三歳よ
三時間に十一回も…、それはその日だけではありませんでした。
慰安所の前に住んでいた日本人の「チカダ」は慰安所を経営していました。
ある日私は、チカダに怒鳴ったのです。「痛くて出血しているのよ!」
血が床に滴り落ちていました。
「だめだ!」チカダは怖い顔で言いました。私は血のついた下着を彼の顔に投げつけました。
あらゆることが時間で決められていました。
昼の十二時からずっと…、夜になるとまた七時から真夜中まで
毎晩二十人から三十人の兵士が来る、まだ幼い私なのに
あと何時間こうしていなければならないのか、
十四歳になったとき妊娠しました。
妊娠がどういうものか私には判りませんでした。だから、五ヵ月になっていました。
「チカダ」は薬を持ってきました。中絶の薬でした。でもそれは効き目がなかったのです。
「チカダ」は私の上にのしかかりました。
痛い!やめて!
私の下腹部を強く押すのです。く、苦しい、痛い!止めて!
気の遠くなるような時間、これ以上ないような…引き裂かれるような痛み、
気を失えたらどんなに良かったでしょう。
何かがドロッと出ました。生きていました。
涙も出ました。
腹押され五か月の胎児出されたり身ごもりに気づかぬ十四歳は
チカダは、私を床に突き飛ばし、背中を蹴りました。
私の髪の毛をつかんで腕に巻きつけ、私を投げたのです。
優しくなでられるために伸ばした私の黒髪は、無理やり引っ張られ抜けてしまいました。
その後、チカダは、私を、…レイプしたのです。2007.5.15現在 Mardiyem-マルディエム- 彼女の人生に起きたこと ***** **** 歴史の証言者として ~闘うマルディエム~
マルディエムさんは気高く強い女性だ。背筋をピンと伸ばし、インドネシアの『慰安婦』の声を人々に知ってもらうために、精力的に活動している。相手がインドネシア政府でも日本政府でも、彼女は丁寧な言葉で元『慰安婦』の現状を語り、正式な謝罪と個人への補償を訴える。ジャワの古き良き女性の慎ましさと、何者にも負けない力強さの2つをあわせもっている。
13歳で『慰安婦』に
ジョグジャカルタの王宮に仕える厳格な家で彼女は育った。13歳の時、歌手になれると騙されて慰安所に連れていかれ『慰安婦』になった。初めてのレイプの日、彼女はセックスの意味も知らない子供だった。その子供を最初に犯したのは慰安所の軍医の助手。そして、その日の内に6人の日本兵に11回レイプされた。下半身から出血が止まらず、慰安所の彼女の部屋の床は血で真っ赤に染まったという。
慰安所で誓ったこと
その日から3年半、昼となく夜となく、多くの兵士がコンドームと慰安所の切符を持って彼女の部屋を訪ね、ある者は彼女を殴りながら、ある者は卑猥な体位を強制しながら、ある者は避妊もせずに、彼女を犯し続けた。泣けば殴られる。逃げようとしたら日本兵に殺された。
妊娠したのは14歳の時。セックスすると子供が出来ることも知らなかった。麻酔のない手術室でお腹を押されて中絶した。一ヶ月も経たない内にまた、慰安所でのレイプは始まった。
『殴られる度、蹴られる度に思ったわ。私は将来、ここで自分が経験した全ての出来事を絶対に明らかにして、『歴史の証言者』になってやると。だから、死ぬわけにもいかないし、生きて家に帰ってこの悲惨な事実を伝えなきゃ、そう思うことで命をつないでいたの。』
1945年の8月に慰安所から解放された時、貯金してると聞かされていた慰安所の賃金は跡形もなくなった。遠く離れた実家に帰ることも出来ず、連合軍のレイプにおびえながら安全な場所を探して山の中を逃げまわった。16歳の時、夫と知り合って結婚。やっとの思いで実家に戻った時、彼女は23歳になっていた。
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◆◆◆ マリア・ロサ・ルナ・ヘンソン(Maria Rosa L.Henson) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1926.12.5(注)マニラ首都圏パサイに地主と妾の子として生まれる。1942年2月、日本軍人によるレイプ体験ののち1942年3月、母の従兄弟の誘いにより抗日ゲリラ、フクバラハップ(フク団)に参加、1943年、銃と弾薬をトウモロコシ袋の中に隠して運んでいる時、日本軍の検問所で同女だけ連行され、以降、駐屯所で慰安婦を強いられる。9ヶ月後の1994年1月、駐屯所となっていた施設をゲリラが襲撃し救出される。
1992年9月にフィリピン人被害女性として初めて名乗り出る。
1993年4月東京地裁に提訴。1998年10月地裁は棄却の判決。2003年12月最高裁で上告棄却・上告受理棄却、敗訴確定。(フィリピン「従軍慰安婦」補償請求訴訟)
当初、アジア女性基金に反対していたが、1996年8月、第一号として200万円の「償い金」を受け取る。
1997年8月死去
(注)・・・「ある日本軍『慰安婦』の回想」では、1927.12.5生まれになっている
【考察】
同女の証言は以下の通り、どうも物語として出来過ぎている感じがします。
最初、薪採りに行って日本兵にレイプされ、2週間休んで、再び薪採りに行ったら同じ日本兵にレイプ。この時、レイプした日本軍将校「田中」は、同女が慰安所に入れられた後に異動してきて再会。
また、この「田中」がある村を襲撃するという話をしているのを偶然聞き、しかも、その村が同女の母親が住んでいる村。
そして、その話を聞いた翌日、日光浴をする機会(※一週間に二度、定期的に行われていた)があり、その時、有刺鉄線の向こうを偶然通りかかった知り合いの村人にそのことを伝え、村人達は逃げて無事。その後、同女が情報を流したと拷問され、気を失っている際に抗日ゲリラが駐屯所を襲撃し助けられ村に戻る。
また、集めた資料間に内容の大きな相違はないのですが、以下の通り、疑問点があります。
<レイプ時の将校「田中」の行動が意味不明>
・・・同女がレイプされた際、まず、二人の日本兵が同女を連れ去ろうとしますが、「バカ!」と言って将校「田中」がやってきてその日本兵を殴ります。明らかに静止しようとする行動ですが、その後、二人から同女を取り上げてレイプします。殴った後に気が変わったのでしょうか。
また、駐屯地で再会した「田中」は慰安婦を強いられている同女に同情的で親切であり、かつ、紳士的です。本当にレイプされたのでしょうか。
<叔父達に悲鳴は聞こえなかったのか>
・・・1度目のレイプの際、一緒に薪採りに行った叔父達とは離れた場所にいて同女1人だったようです。しかし、同女の悲鳴が届かない程、離れた場所にいたのでしょうか。
<2度も同じ場所で同じ日本兵にレイプ>
・・・同女は、薪を採りに行った時に日本兵にレイプされています。1度レイプされて2週間、家で休んだ後、母の許しも得ずに再び同じ場所に薪採りに行って、同じ日本兵にレイプされています。
当時、生理も迎えていない少女であり、普通ならトラウマになって、レイプされた場所なんかに行きたくないと思うでしょう。しかも、その薪採りの場所はマッキンレー要塞だったと記述されています。再び、日本兵に会う可能性大です。何故、わざわざ、母の許しも得ないで再び薪取りに行ったのか非常に疑問です。
<日本兵を拒めば必ず殺される>
・・・同女が慰安所に入れられた時にいた女性が6人。助け出された女性も6人。誰かが殺されたという話は出てきません。「必ず殺される」という確信はどこからきたのでしょうか。
<天皇に忠実だから同女を逃がすことができない>
・・・「田中」は、同女から逃がして欲しいと懇願された際に、「天皇陛下に忠実な軍人として自分には私を逃すことはできない」と答えています。これが本当なら、天皇自ら、アジア各地の女性を拉致してきて性奴隷とすることを指示していたことになりますが、当然のことながらそのような事実はなく、また、軍としても、現地女性のレイプ等は厳に禁じています。真に天皇陛下に忠実な軍人なら、同女に関する事実を本部に報告して、直ちに解放すべきでしょう。
如何にも、政治的意図で恣意的に挿入された内容です。
<何故、村は再び日本軍に襲撃されなかったのか>
・・・同女が襲撃情報を伝えた為、村の住人は逃げて助かりますが、その後、意識不明の状態で助けられた同女は、その村の母の家で介抱されています。つまり、襲撃日に村から一旦、逃れた後、何日か後には村に帰ってきていたことになります。ゲリラの村と認定されて焼き討ちされようとしたのですから危険は継続しているはずです。そんな村に帰ってきていたというのは非常に不可解な話です。
もし、本当に考えなしに帰ってきたのなら、再び、日本軍の襲撃があってしかるべきなのに、尋問に来たと言う話さえもなく、あるのは、日本軍による労働人員の徴用の話と、1年後に突然、家に来た日本兵に叔父が連れ去られそうになったという話だけです。単なる普通の村の扱いです。
<夜八時以前にゲリラが司令部を襲撃>
・・・同女が道のそばで意識不明で寝かされているのを、母の従姉が見つけたのは夜の8時頃です。そこから推測すると、遅くとも夜6時~7時頃に襲撃をしたことになります。えらく早い時間帯です。襲撃するのなら真夜中でしょう。また、「その夜は幸運にも日本人警備兵が少ししかいなかった」という記述があるように、特に日本軍の動向を掴んでいてその時間帯を選んだわけでもないようです。
<司令部襲撃時、日本兵が気づいたのは女性たちも逃げ出した後>
・・・同女のいた慰安所の営業時間は午後2時から10時までであり、ゲリラが襲撃したのは営業時間の真っ最中で兵隊達が行列していたはずです。そんな中、6人の慰安婦を気づかれずに助け出すなど不可能でしょう。
<ゲリラは助け出した同女を道端に置いていった>
・・・瀕死で意識不明の状態の同女を助け出したゲリラは「パムペンへの道のそば」に同女を置いていきます。パムペンは同女の村です。つまり、同女の顔を知っている者がいて、パムペンの者だと分かっていたことになります。それならば、同女がゲリラの一員であることも分かったはずで、他の拷問を受けた捕虜達と共にアジトに連れて行って治療するのが通常であると思います。
しかも、日本軍の追跡を逃れている最中ですから、村人に見つかるよりも先に日本軍に見つかる可能性もあります。アジトに連れて行かないまでもせめて、誰かに預けるか、村まで連れて行くべきでしょう。中途半端な行いです。
----------以下、2007.7.27追加--------------
なお、「世界に問われる日本の戦後処理①」(以下、「世界」)と「ある日本軍『慰安婦』の回想」(以下、「日本」)を比較すると、以下の通り相違点があります。(微妙なものばかりですが)
<同居人>
○「世界」・・・「一人暮らしの母」とある
○「日本」・・・「母と私とエミルは、アンヘレス郊外の村、パムパンに住むことになりました」とあり、同女が連行された後は、母とエミルがいたはず。
<日本兵の相手をする時間帯>
○「世界」・・・「朝夕関係なく」日本兵の相手をさせられたとある
○「日本」・・・「午後の2時から10時ま」でが、日本兵の相手をする時間になっている
<駐屯地内の移動>
○「世界」・・・「駐屯地の中は歩き回れますが、外には出られません」とある
○「日本」・・・同様の記述はないが、「朝に水浴びをするとき、それが私が六人の少女たちと遭う、唯一の時間」とある
→ 「日本」の方が、部屋に監禁状態であったことを示唆する内容になっています。駐屯地内を歩き回れるのなら、他の少女たちともしょっちゅう会っていたでしょう。
<ゲリラが日本軍の駐屯地を襲撃した理由>
○「世界」・・・同女が村の焼き討ち作戦を知らせたことにより、同女が駐屯地にいることを知り襲撃した
○「日本」・・・捕虜になった仲間達を助ける為(※パムパン村襲撃の前日にゲリラが捕らえられ、それがきっかけでパムパン襲撃が決定した)
----------以下、2007.7.27追加--------------
----------以下、2007.8.24追加--------------
<<日本軍のせいで言語障害??>>
「フィリピンの日本軍『慰安婦』」で、同女は以下の通り証言しています。
「私の言語障害は、日本軍の手にかかったことによる心の傷と拷問によるものです」
つまり、日本軍の性奴隷となったことの精神的ストレスと、拷問によって言語障害になったと言っているわけです。(※同書には記載されていないが、他では拷問の際、頭を壁に打ちつけられて気絶したことになっている)
しかし、症状関連の証言を見ると以下の通り。
「犬のようによだれを垂らし、はってしか歩けず、食事はスプーンで食べさせてもらわなければならない赤ん坊のような状態が約一年続きました。髪の毛は抜け落ち、目の焦点は定まらず、ほぼ一年間、私は一歳半の赤ん坊のようでした。」
これは、精神的ストレスや、脳への強い衝撃を受けたことが原因ではなく、明らかに、脳マラリアの症状でしょう。
---------------------------------------------------
<脳マラリア>
原虫が寄生した赤血球が脳内の血管などの微細な血管に詰まり血流を阻害することにより発生する。意識低下、言語のもつれなどの神経症状が起こる。進行すると昏睡状態に陥り、死亡する。
---------------------------------------------------
実際に、同女は以下の通り
「拘留の最後の時期に私は脳性マラリアにかかりました」
と、マラリアにかかっていますし、その後、2ヶ月間昏睡状態が続いたとも証言しています。
同女が慰安所を助け出される際の証言に辻褄の合わない箇所が多いことを鑑みると、脳マラリアが原因で生じた言語障害を日本軍の仕業にする為に拷問話を創作したのでしょう。
----------以上、2007.8.24追加--------------
【信憑性】
あまりにも物語じみていて創作臭い内容であり、不可解な部分も多くあります。証言毎に特に大きな内容の相違はないのですが、証言開始時からバックにゴーストライターもしくはアドバイザーがいたのでしょう。いったい、どこまでが本当でどこからがウソか不明です。信憑性は無いと思います。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1993.5 アジアの声 第7集
世界に問われる日本の戦後処理①
「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録国際公聴会実行委員会 東方出版 私はマリア・ロサ・ルナ・ヘンソンといいます。年は六六になります。結婚して子供が三人いますが、夫は一九五四年に亡くなりました。
一九四一年一二月五日は私の誕生日でしたが、そのお祝いの三日後の一二月八日に戦争が始まったのです。その日、私は学校に行っていましたが、戦争になったというので家に帰されました。日本人がハワイの真珠湾を爆撃したのです。
翌九日には、母親と他の家族と一緒にブラカン州ノルサガライのイポダムに、いったん疎開しました。さらに、私たちは日本軍がフィリピンに来るまで、イポダム近くのビグティ村にある洞窟に潜んでいました。クリスマスと新年はそこで迎えました。
ウェインライト将軍がマニラを開城すると宣言したので、私たちは徒歩で山を越えて家に戻りました。そして、ニュー・マニラを歩いて通り、現在住んでいる場所まで移動し、そこで私は育ち、現在に至っています。
当時、私たちは生活の糧がなかったので、隣の家の人についてリサール、タギグ、バラグバグにあるキャンプ・マッキンレー(現在のボニファシオ要塞)まで行き、薪を集めて生計をたてていました。そこには木がたくさん生えていて、私たちは木を切って薪にして売ったのです。~(中略)~
ある日、私は自分の家で使う薪を集めて歩いていました。叔父たちは木を切っていました。その時、私は二人の日本兵に会いました。驚いている私を彼らはつかまえ、連行して行きました。私はどうしてよいか分かりませんでしたし、殺されるかもしれないと恐れていました。そこにもう一人の日本兵がやってきました。彼は将校だったと思いますが、名前は「タナカ」と言いました。彼は二人の日本兵に何か叫んで殴りました。そして私を連れて行き、強姦しました。強姦の後、私を今度は二人の日本兵に渡しました。それは非常につらい体験でした。出血があり、歩けませんでした。
幸い、近くの農民が通りかかり、私を彼の家まで運んでくれました。日本人にされたことをその家の人たちに隠すことはできませんでした。家に帰りたかったのですが、四キロほどあるので無理でした(線路に沿って歩くだけだったのですが)。こうして、私は彼の家に二日間滞在しました。
約二週間も休養をし、元の体調に戻ったので、薪集めをする隣人や親類たちのグループに再び加わりました。しかしまた、あのサーベルを持った将校と思われる日本兵が待ち伏せており、私をみるとすぐに強姦しました。私はどうすることもできませんでした。母に出来事を話し、彼らはこれからも私を待ち伏せするだろうと話し合いました。
三月までに、母と父の故郷であるパンパンガ州のアンヘレス市へ帰ることに決めました。私はパサイで生まれ育ったので、アンヘレスには祭りのような特別な行事がある時に行っただけでしたが、私がこれまでのことを忘れ、二度とあのような目にあわないように、アンヘレスに移ることを決めたのです。私たちは、母方の兄妹や親類と一緒にパムパン村に住みましたが、私たちの家は森の中にあり、陸の孤島のようでした。
私は、当時組織されていたゲリラ集団のフクバラハップに自発的に加わりましたが、これは多分、日本兵との体験からくる怒りに基づくものだったと思います。私たちのグループは「ニ-四-四〇-九」と呼ばれピナツボ司令官が指揮をとりました。ラピドは当時私の仲間でしたが、彼は現在ではスムロン司令官として知られています。私の役割は、このゲリラ勢力のために市民から薬や古着を集めることでした。部隊が村の周辺に近付くと、私は先に村に行って村人たちから米や甘藷などの食物をもらうのです。そして、それを部隊に持って帰りました。
一九四三年まで、このような仕事を続けました。四月の聖週間のある日、私たちが水牛の荷車に乗って、マガランから家に帰ろうとしていた時のことでした。荷車には食糧の乾燥とうもろこしを四袋積んでいましたが、袋の中には四五口径の拳銃と弾薬、それに手榴弾を入れていました。ある病院(その名前は思い出すことができません)近くの検問所まで来ました。それは私たちのパムパン村に通じる道の近くでした。当時、みんな通行証を持たされており、日本人の番兵が私たちの通行証を見て通ってよいと言いました。私たちは三人で、私一人が女性でした。二人の男性は私の後に続き、とうもろこしの入った袋を運んでいました。通過し終わった時、私は日本兵に呼び止められ、二人の仲間はそのまま行ってよいと言われました。心の中で私は「またなの・・・・・・」と思いました。ただ、拳銃を押収されなかったのは救いでした。私は日本軍が駐屯地にしていた病院に監禁されました。数日後、そこで六人の女性と会いました。その駐屯地で私は、兵士たちのセックスの相手をさせられました。時には一二人の日本兵の相手をさせられ、その後少し休んで、また一二人ほどの相手です。息つく暇も無く、彼らの性の慰みにされました。
そのため私たちはとても疲れました。日本兵が全員事を終えた後、やっと休息できたのです。女性は七人しかいなかったので、わずかな休みしかもらえなかったのでしょう。年端のいかない私にとって、それは苦痛にみちた体験でした。
駐屯地に三ヵ月いましたが、その後アンヘレスの精米所に連れて行かれました。そこに移されたのは夜でした。精米所に到着した時、私たちは再び日本兵の相手をさせられました。朝夕関係なく、二〇回はゆうに超えました。日本人の宿泊所や家に連れて行かれたこともありました。その一つが、パミントゥアン歴史館だったことを記憶しています。そこには数回連れて行かれました。拒めば必ず殺されるので、拒否することができませんでした。
午前中は見張りがいます。駐屯地の中は歩き回れますが、外には出られません。他の女性たちと言葉を交わすことさえできないのです。その内の二人は中国人だったと思います。残りの女性は、パンパンガ州出身者のように思えましたが、互いに話すことは許されませんでした。
時々私たちは、一人の医者(タヤグ医師だったと記憶していますが)に検診してもらいました。彼は年配で大柄な人でした。時には日本人医師が診ました。
駐屯地の指揮官の交替があったのは一九四三年の一二月だったと思います。新しい指揮官の顔に見覚えがありました。どこで会ったのか考えていました。その指揮官も私の顔を何度となく見ました。そして、マッキンレー要塞で会った人だねと尋ねてきました。私はいくらか日本語が分かっていたので、「はい」とただうなずきました。彼は、「私の名前は田中だ」と言いました。英語は少し話せるようでした。私は日本語で「アナタ・・・・・・」とか何とか話しかけましたが、彼は多分「愛している」と言ったと思います。彼はこれまでと違う扱いをしました。できるだけ他の日本兵を私に近づかせませんでした。でも、彼よりも地位の高い将校に対しては、黙っていました。時々、食物をくれたりもしました。私にお茶を出してくれと、頼むこともありました。他の女性たちとは会うことも、会話することも許されませんでした。私は、早く自由になれるよう神に祈っていました。私だけではなく、私たち全員が。そのうち、私はマラリアにかかりました。日本人との相手をさせられている時でも、悪寒があって、腸さえもぞくぞくするようでした。熱があると言ったら、銃剣で殴られました。私が嘘をついていると思ったのでした。医者がマラリアだと言ったので、やっと休養を許されました。アルタブリッド(薬)をのみました。その後、多量の出血があり、医者は流産したと言いました。
この頃、私たちは毎晩、日本兵の宿泊所に連れて行かれ、辱めをうけました。終われば精米所に連れ戻されました。ある時、私たちの町パムパンにゲリラがいることを日本軍がつきとめました。私を死んだとあきらめている母がそこに住んで居るのです。私のことは、母の耳に届いていないはずです。ひょっとしたら、ゲリラの仲間が、私が捕らわれの身になっていることを母に伝えてくれるのではないかと思いました。一人暮らしの母を、私は非常に心配しました。
しばらくして、大佐と田中の話を耳にし、パムパンでゲリラの囲い込み作戦を行うことを知りました。翌日、私はパムパンを通る人を探して待っていると、ある人が私の村の人とわかりました。すばやく、耳元で日本兵が村を焼き討ちにするので避難するように囁きました。夜中に田中と何人かの兵士が私たちの村に行きましたが、住民が誰も居なかったので、怒って駐屯地に帰ってきました。そして、田中と大佐は口論をしました。大佐が言うには、私が話を聞いて、村の住民に伝えたいうのです。私は罰を受けなければなりませんでした。私は階下に連れて行かれ、ひどく殴られました。銃剣で殴られ床に倒れました。田中は大佐より位が低かったので、どうすることもできませんでした。それは一九四四年の一月のことでした。私の顔はあざだらけになり、手を縛られ、他の囚人と一緒にさせられました。しばらくして、意識を取り戻しました。私が最後に覚えていたのは、田中が私に水を飲むのを助けてくれたことです。それが彼を見た最後でした。
あとで分かったことですが、私が意識を失っている間、フクバラハップが、日本軍の駐屯地であった精米所を襲い、私は解放されました。一月ということでしたが正確な日付は分かりません。私が彼らにパムパン村で日本軍がやろうとしていた作戦を知らせたので、私たちが駐屯地につかまえられていることを知り、そこを攻撃してくれたのです。
意識を取り戻した時、私は家に帰っていました。そして、母が微笑んでいました。私は母に抱きつきました。私は非常な高熱で病気になっていました。正規の医者がいなかったため、偽医者の治療を受けました。二ヶ月間意識を失くしたままで、液状物を、スプーンで口に運ばれるだけで何とか生命を維持していたのです。ある日、私は突然意識を回復し、全てが輝いているように思えました。話をしたかったのですができません。声を失っていたのです。だから今でも私の声はこのようなのです。(P.56~62)
(※2007.7.27追加)1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社 1926年12月5日生まれ
フィリピン共和国ルソン島マニラ首都圏パサイ市在住
私はルソン島パンパンガ州パサイで生まれました。お父さんはアンヘレス市の大地主で、お手伝いさんとして使っていたお母さんに私を生ませたのです。私はお父さんが借りた家で、お母さんと生活していました。
1941年12月8日は学校に行っていましたが、戦争が始まったというので家に帰されました。翌日、お母さんと他の家族と一緒に疎開しました。
1942年2月頃、薪を集めていて2人の日本兵と偶然出会いました。2人は驚いている私を捕まえたのです。私は殺されるかもしれないと思いました。そして、刀を持った「田中」という名前の兵隊がもう1人やって来て、私を強姦したのです。出血があり歩けませんでしたが、農民が通りかっかって彼の家に運んでくれました。
そこに2日間いて、歩けるようになったので家に戻りました。お母さんは「殺されなかっただけでも幸運だった。騒がずに沈黙を守るように」と言いました。
2週間休養して元の体調に戻ったので、再び隣人や親戚たちと薪集めをしていました。しかし、あの士官らしい日本兵が待ち伏せをしていて、再び私を強姦したのです。
2度とこのような目にあわないようにと、お母さんの故郷のアンヘレス市郊外に移りました。
私は2度も日本兵に強姦された怒りから、抗日ゲリラ集団の「フクバラハップ」に加わりました。私の役割は、ゲリラ部隊のために市民から薬・古着・食料を集めることでした。
1943年4月のある日、水牛の引く荷車に乗って私と2人の男が家に帰ろうとしていた時のことでした。病院前の検問所で、日本兵は通行証を見て通ってもよいと言っていったんは通してから、私だけを呼び止めたのです。荷車の中には45口径の拳銃と弾薬、それに手榴弾が、乾燥トウモロコシの袋の中に隠してありました。ここで、拳銃を押収されなかったのがせめてもの救いでした。
私は、日本軍が駐屯していた病院に監禁されました。ここで、他の6人の女性とともに日本兵の性の慰みものにされたのです。日本兵は次々とやって来たので、息つく暇もありませんでした。
3ヶ月後に、そこから300メートル離れた精米所だった建物に連れて行かれ、そこでも日本兵の相手をさせられました。ここから別の場所に連れて行かれることもありました。
1日に20回を越えるほど日本兵の相手をさせられたのです。若い私にとって苦痛に満ちた体験でしたが、拒めば必ず殺されるので、それもできませんでした。
日本人の医師に週1回くらいの割合で検診を受けました。妊娠して流産もしました。
私は、日本語がいくらかわかりました。ある時、日本兵が話しているのを聞いて、日本軍が私の村にゲリラがいることをつきとめて、村を襲おうとしているのを知ったのです。私は村の人が通るのを待っていて、このことを伝えたので住民は避難しました。しかし、このために私はあざだらけになるほど銃剣で顔をひどく殴られ、意識を失ってしまいました。
目を覚ましたとき、お母さんが家の中で頬笑んでいるのが見えました。後で、ゲリラがこの駐屯地を攻撃し、私を救い出してくれたことを知りました。私は、拷問とマラリアのために2ヵ月間も意識がなかったのです。(P.147~155)1995.12 ある日本軍「慰安婦」の回想 M・R・L.ヘンソン 岩波書店 二月のある日、私は母に「叔父さんたちといっしょに出かけたい」とせがみ、許しを得ました。家で使う薪を採りたかったのです。母は行かせたがりませんでしたが、常々私がせがんでいたので、願いを容れてくれたのです。草木をかきわけて行くのでたくさん切傷やあざができましたが、料理の燃料が手にはいるのでご機嫌でした。
ところが、そんなある日のこと、叔父や近所の人たちと離れて、乾いた木片を束ねる準備をしていたときでした。突然二人の日本兵が私の両腕を掴みました。私は仰天して悲鳴をあげましたが、彼らはやみくもに私を連れて行こうとします。そのとき、「バカ!」という叫び声が聞こえました。フィリピンの言葉で「バカ」は「牛」を意味するので、私は牛のことかと思いました。「バカ!」と叫んだ日本軍将校が近寄ってきて、私を捕まえていた二人の兵隊を殴りました。将校だと分かったのは、その軍人が長くてカーブしたサーベルを下げていたからです。その将校は私を二人の兵隊の手からもぎとって、レイプしました。その後、彼は二人の兵隊に私を与えました。その兵隊たちは順番に私をレイプし、立ち去りました。(P.46~47)
それから約二週間、私は家で休んでいました。母の言いつけを守り、その事件のことは誰にも知らせませんでした。いっしょに薪を採りに行った近所の人々も知りません。叔父たちも私が道に迷ったと思い込んでいました。
けれども、二週間がたち、元気が出てきた私は、「叔父さんや近所の人の見えないところには行かないわ」と、母の許しもなく、薪採りに出かけました。しかし、薪の採れる場所に着くと、そこでまたあの日本軍将校に出くわしてしまったのです。
その将校は、叔父や近所の人たちが見ている目前で私を拉致しました。殺されるかもしれないので、誰も抵抗できませんでした。私を助けることができなくて、叔父たちは泣き叫んでいました。レイプした後、その軍人は立ち去りました。(P.48)
一九四二年三月二九日、日本の侵略に抵抗する人民の軍隊としてフクバラハップ(Hukubara-hap「抗日人民軍」、通称フク団)が誕生しました。
家を貸してくれた母の従兄弟は、新しく生まれたフクバラハップの第四九中隊の議長でした。彼は私にフクバラハップに参加するように誘い、私の意志を問いました。私は応諾しました。そうして私は自分の意志で進んでフクバラハップに参加しました。辛い体験をした私は日本軍に怒りをいだいていたからです。でもその体験は組織の誰にも話しませんでした。(P.49)
一九四三年四月のある日、組織の指示があり、近くの町、マガランに乾燥トウモロコシを集めに行く密使の一人に加わりました。男性ゲリラ二人といっしょに行きました。一人は「ラビド」、もう一人は「バト」というニックネームでした。本名は分かりません。二人とも、私と同じ第四九中隊に属する同志でした。けれどもかれらと行動をともにするのは初めてでした。
私たちはカラバオの曳く荷車に乗って出かけました。四月はフィリピンでは乾季です。屋根のない荷車に日ざしがたいそう熱く照りつけました。
マラガンで乾燥トウモロコシ四袋を積み込み、パムパンに帰る途中、日本軍の検問所がありました。荷車が検問所に近づいて行くとき、そばに座っていた同志が、「気をつけろ、トウモロコシの下に銃と弾薬があるんだ」とささやきました。私は神経がはりつめました。検問所の警備兵が銃を見つけたら、すぐさま殺されてしまうでしょう。
私は荷車を降りて、警備兵に通行証を呈示しました。当時、人々はどこの誰かを示す通行証を携帯しなければならなかったのです。警備兵がトウモロコシの袋をさわったり押したりして検査し、通ってもよい、と言いました。
ところが検問所から三〇メートルほど通りすぎると警備兵が口笛を吹き、戻ってくるように合図するではありませんが。私たちは青ざめて、お互いの顔を見合わせました。警備兵が袋を開けたら、銃が見つかってしまいます。たちまち命はなくなってしまうでしょう。
けれども、その警備兵は私だけに戻ってくるよう手をあげて合図し、他の同志たちは行ってもよいことになりました。それで銃は無事でしたが、私は自分の身が危うくなったことを感じながら、検問所に戻りました。レイプされるかもしれない、と思いました。
警備兵は私をある建物の二階に連行しました。現在でもその建物がありますが、今ではヒルクレスト・タイル・ストアになっており、昔の面影はありません。日本軍の占領の前は、病院でした。北部ルソンに続く国道、ヘンソン通りに面していて、そのときには日本軍の司令部兼駐屯地に転用されていました。そこに六人の女性がいるのを見ました。警備兵は私を竹の寝台がある小さな部屋に連れて行きましたが、その夜には何も起きませんでした。
その翌日、自分がたくさんの兵隊たちに性の相手をしなければならないのだと知りました。最初に一二人の兵兵隊がたてつづけにレイプしました。それから三〇分くらい間があり、またもや一二人の兵隊です。私はひどく出血し、身体がめちゃめちゃに傷つけられたと感じました。翌朝には、立ち上がることすらできませんでした。~(中略)~
昼の二時から夜の一〇時まで兵隊たちが行列をつくって私をレイプする日々が始まりました。他の六人の少女の部屋にも、兵隊たちが行列をつくっていました。(P.68~70)
元病院の建物には、三ヵ月間、監禁されていました。それから、そこからわずか四ブロックほど離れただけの、大きな精米所に移されました。これも、ヘンソン通りに面した建物でした。その精米所も司令部に転用されており、将校たちがそれぞれ自分の部屋を建物の中に持っていました。~(中略)~
精米所に移されて四ヵ月ほど過ぎた、一九四三年一二月のある日のことでした。前任の将校が別の司令部に異動し、新しい大佐と大尉が精米所に来ました。新しい大尉を見て、「どこであの将校を見たのだろう?」と自問しました。彼の顔に見覚えがありました。
その将校は私を呼び、「おまえは、マッキンレー要塞で逢った、あの娘か?」と聞きました。私はお辞儀をし、そうだと答えました。私のことをマッキンレー要塞で彼がレイプした娘だと気づいたそのときから、彼はずいぶん私に親切になり、よく話しかけてきました。(P.75~76)
他の六人と話すことは許されませんでした。朝に水浴びするとき、それが私が六人の少女たちと逢う、唯一の時間でした。(P.79)
私はタナカに、自分が脱出するのを許してほしいと嘆願したものです。けれど、彼は天皇陛下に忠実な軍人として自分には私を逃すことはできない、と言いました。タナカが日本兵に私レイプするな、と命令できれば・・・・・・・。でも、彼にはそんなことは言えなかったのです。なぜなら、それは日本軍の意思に反することでした。タナカは私を憐れみましたが、自分より階級の高い大佐に逆らうことなどできませんでした。天皇にたいそう忠実だったのです。タナカは日本の天皇は至上の存在であり「神」だ、と話していました。それがタナカの信仰だと分かりました。「神」とまでに信じる天皇に逆らうことは、何一つできなかったのです。(P.84~85)
一九四四年一月のある日、たぶん朝の一〇時くらいだったと思います。タナカ大尉が私を呼んで、彼の部屋にお茶を二人分持ってくるように言いました。
お茶を運んでドアに近づくと、私の耳に、タナカが大佐と議論している声が聞こえました。私には当時、日本語を話すことはできませんでしたが、おおよそ聞き取ることができました。
「明日の夜、パムパンでゾーニングせねばならない。そこの住民たちはゲリラだからだ。パムパンでゲリラを捕まえてきた。いま、そいつらは階下にいる」と大佐が言います。
私は部屋に入り、お茶をテーブルに置いて、部屋を出ました。「アス」、「バン」、「スル」、「モヤソ」、「パムパン」。そんな言葉を聞いた私は、声こそ立てませんでしたが、心が悲鳴をあげました。(P.87~88)
その後、幸運なことに、警備兵が私たち七人を日光浴のために階下に連れて行きました。そこは、兵隊たちが訓練をしている場所でした。精米所の構内で、向こうは道路です。有刺鉄線で囲いがはりめぐらせてあり、逃げ出せないようになっています。三人の警備兵が周辺を歩き回り、ときどき冗談を言い合っています。
そのとき、有刺鉄線の近くに一人の老人が通りかかるのを見つけました。パムパンの住人でよく見知った顔でした。警備兵の方をそっと見ると、彼らは冗談を言い合い笑っています。私は大急ぎでその老人にささやきました。「今晩、貴方の村が焼討ちされます。村から逃げて下さい。」そして、私はくるりと背中を向けました。何事も起こらなかったように。(P.88~89)
それから一時間以上してからのことです。私は、大佐とタナカが階段を上がってくるのを聞きつけました。大佐は私を寝台から引きずりおろし、めちゃくちゃに殴りました。大佐は私の手をひっぱって階下へ連れ降り、拷問しました。暴行された私の目は一瞬にして腫れ上がり、顔中が血だらけになりました。全身にあざができました。
大佐は私の手を縛り上げました。瞼が腫れて目を開けられません。それでも無理に目をひらいて周りを見回すと、数人のゲリラが捕虜になっているのが見えました。彼らもあざだらけになっていて、手を縛られています。
日本軍がパムパンの村に到着したとき、村には誰もいなくなってしまって、もぬけのからでした。みんな逃げてしまっていたのです。大佐は、彼らの相談を聞いていたのは私一人だと言い、私が焼討ち作戦を台無しにした、と疑って、激怒していました。~(中略)~
誰かが、私の顎をもちあげました。腫れ上がった瞼をなんとか開けてみました。タナカ大尉が私に一杯のお茶をくれようとしています。カップがくちびるのところにありました。そのとき、大佐の叫び声が聞こえました。大佐はやってくるなり私の頭を壁に打ちつけました。精米所の壁は、家の屋根にも使われる分厚い波状のGIシートで作られており、したたか頭をぶつけられた私は気絶しました。
私の意識はそこで失われ、再び意識をとりもどしたのは、二ヵ月もたった後でした。
後で母に聞いたところによると、ゲリラたちが捕虜になった仲間を解放するためにその夜駐屯所を攻撃し、拘束されていた私を見つけ、気絶しているところを救出してくれたのです。
一九四四年一月でした。私は九ヵ月間も日本軍に性奴隷としてとらわれていたのです。
一九九二年に公に名乗り出た後、私を救出してくれたゲリラの一人に逢えました。バラハディアさんです。
彼の話によると、私を救出したそのとき、彼はてっきり私がもう死んでしまっている、と思ったそうです。他の六人の少女たちもみんな救出され、逃げて行ったのに、私だけぐったりと気を失っていたからです。
バラハディアさんは私を救出した体験を話してくれました。
「ゲリラが捕虜になったと分かれば、私たちの連隊が駐屯地を攻撃することになっていたのです。精米所にたくさんのゲリラが捕らえられていました。だから精米所を攻撃する計画を練って、三日間相談しました。10人のチームで、武器を持って行ったのですよ。その夜は、幸運にも日本人警備兵が少ししかいなかったので、攻撃に気付かれずにすみました。精米所の後ろの小さな穴から物音をたてずに中に入ったのです。日本兵が私たちに気付いたのは、ゲリラが全員縛りを解かれ、女性たちも逃げ出した後でした。貴方を救出したのは一番最後でしたよ。貴方をみて、もう死んでいると思ったからです。私が貴方の鼓動に気付き、それで、もう一人のゲリラと二人で外に運び出しました。そして、道の端に寝かせておいたのです。」
ゲリラたちは日本軍の追跡を逃れ、私をパムパンへの道のそばに置いてゆきました。それを母の従姉のアンナが見つけ、アンナが母を呼んだのです。夜の八時頃でした。アンナと母は助けの人を呼んで、私のために走ってもらったそうです。(P.89~93)1995.12 フィリピンの日本軍「慰安婦」 -性的暴力の被害者たち フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団 明石書店 私はマリア・ロサ・ルナ・ヘンソン、六十五歳です。マニラのパサイ市に住んでいます。私は一九二七年十二月五日パンパンガ州に生まれました。学校へは七年生まで通いましたが、成績は優秀でした。幼いころの夢は医師になることでした。
一九四一年、第二次世界大戦がはじまったとき、私は十四歳の誕生日を迎えたばかりでした。
母と私は親戚と一緒に近くの地方へ疎開し、ほら穴にかくれていました。一九四二年のはじめごろのことです。家から数キロメートル離れた先で薪を集めていると、タナカ大尉をはじめとする日本兵三人に強かんされました。それから二週間後、再びタナカに強かんされたのです。何度も強かんされるなどという不幸がどうして私にふりかかったのでしょう。
この後、私は志願してフクバラハップという抗日ゲリラになりました。私を強かんした日本軍に対する怒りからだったと思います。それから約一年がたち、検問で日本軍に足止めされました。病院を接収した日本軍の駐屯所に私は連れていかれました。そこには女性が六人いました。次の日から毎日、日本兵の性的な相手をすることを強いられたのです。ほかの六人の女性も同じです。その駐屯所では、十二人の兵士に一日中強かんされることもありました。また将校用の兵舎や家へ連れていかれることもありました。ほかの女性には生理のときには休みが与えられましたが、私にはまだ生理がなかったので、一日として休めたことはありませんでした。
この、性奴隷としての、辛く残酷な体験は九ヶ月続きました。拘留の最後の時期に私は脳性マラリアにかかりました。また、村人に日本軍の攻撃を知らせたかどで拷問されました。鎖につながれていたところを、囚人の救出にきたゲリラに発見され、助け出されました。こうしてやっと苛酷な苦難から生還できたのです。ゲリラが来たときに私はマラリアの熱と拷問のため意識を失っていました。ニヵ月後、意識を取り戻したときには母の家にいました。母の顔を見て私は泣きました。言語障害があったのですが、なんとか、何が起こったのか伝えることができました。母もそれを聞いて泣きました。私と母はとても仲がよく、秘密を打ち明ける相手もいつも母でした。
それから五十年がたちました。私はこの法廷で、九ヶ月間、日本軍の性奴隷とされた経験がおよぼした影響を明らかにしたいと思います。あの経験は常に私につきまといました。夢に出てくることもありました。同じ年齢の少女たちを見るたびに辛い思いをしたものです。彼女たちは、笑い、幸せそうで、汚れも知らず、歌ったり、踊ったり、友だちと楽しそうにしていました。一方、私は家の中にかくれていました。私に起こったことを誰かに知られるかもしれないと恐れたからです。私の言語障害は、日本軍の手にかかったことによる心の傷と拷問によるものですが、このためいつも笑い者にされました。犬のようによだれを垂らし、はってしか歩けず、食事はスプーンで食べさせてもらわなければならない赤ん坊のような状態が約一年続きました。髪の毛は抜け落ち、目の焦点は定まらず、ほぼ一年間、私は一歳半の赤ん坊のようでした。近所の人たちからはどうにかなってしまったのだと思われました。唯一、本当のことを知っていた母でさえ、私がおかしくなってしまったと思いはじめるようになっていました。私は敵意をもっているように見える人、私の陰口をいう人を怖れました。自分を恥じるようになり、自尊心も、自信も失ってしまいました。常に人からかくれていたいと思い、頭を地面に埋めてしまいたい気分でした。いつもあの経験が私につきまといました。(P.41~46)
(※2007.8.27 追加)
◆◆◆ 劉面換(リュウ・ミエンファン) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
山西省羊泉村で生まれる。1941年(推定)15歳の時、突然、家にやってきた漢奸(注)に拉致され、進圭村に40日間監禁され強姦さえる。
1995年8月に、他3名と共に日本政府に謝罪と賠償を求めて提訴。 2001年5月東京地裁、請求棄却。2004年12月東京高裁、控訴棄却。2007年4月最高裁、上告棄却。(中国人「慰安婦」損害賠償請求訴訟(第一次)・原告 李秀梅、劉面換、周喜香、陳林桃)
注)中国人で日本軍の手先になったもの
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
慰安所には入れられておらず、近くの村の石洞に監禁される。
【考察】
同女の家まで来て連行したのは、3人の「漢奸」で、最初に同女を強姦したのも「漢奸」です。日本兵ばかりでなく、積極的に「漢奸」が参加していたことが分かります。
「ガイサンシーとその姉妹たち」には、以下の通りの記述があり、同女が監禁された進圭社には多くの「漢奸」がいたようです。
「この家は日本軍が村に駐留している時、傀儡軍の“清郷隊”の本部となっていました」(P.140)
「家はあの時清郷隊の本部となっていた。全部で30数人がここで寝起きしていた」(P.140)
※清郷隊・・・地元の住民により組織され、日本軍に協力した武装組織
また、同書には、以下のような進圭社の老人の証言が記載されています。
「彼らの大隊長は吉田と言い、中隊長は今井といった。副中隊長は堀武といい、下にロバと赤ら顔がいて、谷川が小隊長のとき日本軍は引きあげた。しかし女性を乱暴するのは主にロバと赤ら顔、キバというような人たちだった」
「ロバというのは森曹長のあだ名で、村人が赤ら顔と呼んでいた伊藤が情報班長だったあと、曹長に昇進した。キバはもともと砲兵だった。古兵だったので、誰も素行の悪い彼をどうしようも出来なかった。一九四二年夏の太行山戦役で中隊長の今井が死んだあとは、ここに2個分隊しか残らなかった。10人あまりがいるだけで、木坂が親分で、ロバ、赤ら顔が曹長になった。その後、43年夏に岩本という人が隊長として転任してきたが、あの人は若くてこれらの古兵をどうしようもできなかった」(P.152~P.153)
ここから見えてくるのは、「好き勝手する一部の日本兵とそれを統率できない部隊長。そして、それに便乗して暴行・強姦に参加する一部の中国人」という状況です。隊長は統率できないばかりか、本部に報告すると自分の責任が問われるために黙認していたのでしょう。
【信憑性】
同村や近くの村で同様の被害にあった女性達の証言と内容の齟齬はなく、信憑性はあると思います。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1997.6 元「慰安婦」の証言 -50年の沈黙をやぶって アジア・フォーラム編 晧星社 私は山西省の羊泉村で、農民の父母と三人でくらしていました。私が一五歳のとき(一九四一年と推定されます)の三月のある朝、三人の「漢奸」(中国人で日本軍の手先になったもの)が突然家に来て、私の家族を全員外に連れ出しました。村の中の大きな蔵の中に私たちは入れられました。そこには、すでに三、四〇人の人たちが入れられていました。若い女性も混じっていました。しばらくすると、日本人の兵隊で隊長らしい人が、通訳と部下の兵隊を連れて入ってきました。この部隊はあごの全面に髭があり、色白の背が高い人で、年齢は三〇歳ぐらいのように見えました。後になって「毛隊長」とよばれているのを知りました。この隊長が私の傍らにやってきて、通訳を通して「あなたはとてもきれい」と繰返し言いました。そして、私を含む三人の女性を選び出し、三人を外に出すように漢奸に指示しました。
私も、私の母親も泣いて抵抗しましたが、漢奸は私もいれて三人の女性を蔵の外に無理矢理連れ出しました。そして、私は蔵の外に出されると、首から腕に縄をかけられ銃剣で小突かれながら、三、四時間歩かされて、日本軍の駐屯地に連れていかれました。そこは進圭村の日本軍の駐屯地で、そこにある石洞に私たち三人は入れられました。そこは奥の方が少し高くなったオンドルになっていて、藁が敷いてあって、その他のところは地面のままで何もありませんでした。入口には鍵がかけてあり、とじこめられたのです。用便の時には、戸をたたいて開けてもらわなければなりませんでした。
石洞に来てまもなく漢奸がやってきて、いきなり私のズボンをぬがせようとしました。私が抵抗すると、何度も顔を殴りつけ、布切れを口の中におしこみ、私を強姦しました。その夜更けに、別の漢奸がやってきて、私を別の建物の一室に連れて行きました。そこは隊長の部屋で、私は翌朝まで隊長に何度も強姦されたのです。
次の日から四〇日間、私は毎晩夜遅く、漢奸に隊長の部屋に連れて行かれ、明け方まで隊長に強姦され続けました。しかも昼は昼で、石洞の中で三人の漢奸に代わるがわる犯され、さらに二人の日本兵も石洞にやってきて私を強姦しました。食事は一日二回、とうもろこしのお粥のようなものを一杯もらうだけで、用便の時以外は石洞にとじこめられ、外にでることはできませんでした。
そのうち、私は顔がむくんできて、いつも腹痛があるという状態になりました。これは、村に帰ってから医者にみてもらったところ、子宮が糜爛しているためだということでした。また石洞につれてこられる時、銃底で小突かれた左肩のつけ根が痛み、左手首が動かなくなっていました。私が病気になったのを伝えきいた村の父親が親戚や知人から一〇〇銀を集め、私をもらい下げにきてくれたのです。こうして私は村に帰ることができました。
村に帰ってから二ケ月後に、また日本兵と漢奸がやってきて私を探しましたが、この時は父が私を隠して難をのがれました。しかし、村では私が日本兵に陵辱されたことが知れわたり、結婚する相手がなかなかみつかりませんでした。一九歳の時に一〇歳年上の再婚の男性とようやく結婚しました。しかし、その後も私の体調はすぐれず、夫の農業の手伝いもできませんでした。(P.31~32)2006.9 ガイサンシーとその姉妹たち 班忠義 梨の木舎 15歳になった年の旧暦3月20日頃のこと、朝ごはんを食べていると、20人前後の日本兵と“黒腿”(注・日本軍の手先となった中国人傀儡軍のこと。黒いゲートルを脚に巻いていたことに由来)が家に入って来た。集会に参加しろ!と言いながら私を家から外に引っ張り出した。抵抗すると顔を殴られた。外に出ると両手を縛られ板の下まで引っ張られ、進圭社へ連れて行くというので、行かないと言ったら、銃床で骨が折れそうなほど肩を殴られた。銃剣を突きつけられて仕方なく4時間歩いて行った。
進圭社に着いたのは午後の1時を過ぎていた。普通の農家のようなヤオドンに入れられた。
私のほかに劉ニ荷さんと、もう一人、馮伝香という女性が一緒に連れて行かれた。その部屋に着いてまもなく、私たち3人は中庭に呼び出され、1列に並ばされた。そのあとから“ロバ隊長”(注・日本人隊長某のあだ名)がやって来た。“ロバ隊長”は私たちをひと回りして眺めると、私を指差して、中国語で「君は一番いい娘だ」と言い残して帰った。そして、私はまた農家のヤオドンに閉じ込められた。ほかの二人は別の場所に連れ出された。
私が監禁されたヤオドンに蓋山西もいた、と村人からあとになって聞いたけれど、私は彼女に会ったことはない。彼女が監禁されたのは私より先だった。
昼過ぎに、ヤオドンに私を連れてきた漢奸(注・日本軍の手先となった中国人。“黒腿”と同じ意)の一人、林是徳に強姦された。抵抗すると何度も顔を殴られ、布を口に押し込まれ、別の二人の漢奸にも強姦された。その後、3人の日本兵に犯された。家の外には見張りがいて、日本兵は銃剣で脅しながら私を犯した。叫ぼうとしても怖くて声が出なかった。
彼らが帰ったあと、私はオンドル(部屋の奥に一段高くなっているところ)から起き上がれなかった。ズボンは地面に捨てられたままになっていた。オンドルは小さく、敷きものも何もなくて、麻で編んだ袋だけが置いてあった。私はその麻袋の上に座り、よく見ると袋の上に血がついていた。
私はゆっくりとオンドルを降りてズボンを取り、穿いてから泣いた。ひたすら泣いて、泣き続けた。夜になると、辺高和という漢奸が私を呼び出し、途中で彼が私を犯した。連れて行かれたところは“ロバ隊長”の住む家だった。
それは小さい家で、中にベッドが一つ置かれていて、そばに椅子があった。私を中に入れると、辺高和は彼に「礼」をして帰っていった。周りの家はみな日本兵が住んでいるようで、窓ガラスから外の家の蝋燭の光も見えた。
“ロバ隊長”は低い声で、私に服を脱ぐように言った。私がじっと動かず脱がないでいると、彼は枕の下から刀を取り出して、“脱がなければお前を殺す”と脅かした。殺す、と聞いて、私は怖くなり抵抗出来なった。
彼は近寄ってきて私の服のボタンをはずし、それからベッドの上に引っ張っていって、私を犯した。その夜3回も私を犯した。私の下半身から出血したのを見て、彼はちり紙を取って私に渡した。夜が明ける頃、辺高和が再びやってきて、私を監禁部屋に連れ戻した。
翌日の夜になると、また、“ロバ隊長”の所に連れて行かれ、また2回犯された。
私の身体はもう耐えられなかった。40数日間、昼間は毎日5人から8人くらいの日本兵に強姦され、夜になると隊長の部屋に連れて行かれ、毎晩強姦された。体がむくんで腫れ上がり、歩くことさえ出来なくなった。食事は1日に2回、水っぽいトウモロコシや粟のスープのようなもので、冷たくて食べられない。お腹がいつも痛くて、昼も夜も恐怖でいっぱい。ついに動けなくなって、見張りが進圭社にいる親戚に連絡をとり、父に知らせた。「娘がひどい病気になっているから、早く迎えに来い」
父は親戚から銀貨一〇〇枚を集めて引き取りに来たのに、許されなかった。父は「娘は病気ですので、家に戻って回復したらまた送り返します」と言って、初めて家に連れて帰ることが出来た。家に戻って、2、3ヵ月薬を飲み続けた。その間にまた日本兵と漢奸が呼び戻しに来たが、父は私を隠し、「医者に行っています、まだ治っていません」と言ったら帰って行った。私はその後、そのままずっと病院へ行けず、日本兵に銃床で叩かれた左腕の付け根が変形して、左腕が右腕より少し短くなってしまった」
彼女は進圭社に連れて行かれた時、日本兵と一緒に来た“黒腿”のうちの二人を知っていた。一人は林是徳、もう一人は辺高和という。この二人は劉さんの家に時々出入りする共産党の工作員だった。それがいつの間にか日本人側に寝返っていたのだ。(P.37~40)
劉面換さんはこんなことも教えてくれた。彼女の住んでいるこの三〇〇人足らずの小さい村から、5人の女性が日本軍トーチカに連行され侮辱された。それから死んだり、逃げたりして、今も村に残っているのは彼女だけ、と。(P.41)
◆◆◆ 李秀梅(リ・シュウメイ) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1927年(推定)、山西省西藩郷李庄村で生まれる。1942年15歳の時、突然、家にやってきた日本兵に拉致され、進圭村の石洞にて5ヶ月間監禁・強姦される。
1995年8月に、他3名と共に日本政府に謝罪と賠償を求めて提訴。 2001年5月東京地裁、請求棄却。2004年12月東京高裁、控訴棄却。2007年4月最高裁、上告棄却。(中国人「慰安婦」損害賠償請求訴訟(第一次)・原告 李秀梅、劉面換、周喜香、陳林桃)
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
慰安所には入れられておらず、近くの村の石洞に監禁される。
【考察】
「元『慰安婦』の証言」では、同女の家に入ってきた日本兵が「花姑娘」と言ったと証言しており、これは明らかに中国語です。
近くの村で同様に拉致・監禁された女性たち(劉面換・陳林桃)の証言を勘案すると、日本兵と共に多くの漢奸(※日本人の手先となった中国人)が行動していたことは明らかであり、「花姑娘」と言ったのは漢奸でしょう。そして、この漢奸たちは女性への暴行・強姦にも参加していたようです。同女の証言には「日本兵」しか出てきませんが、どうやら、この「日本兵」は「日本兵+漢奸」のようです。
なお、「ガイサンシーとその姉妹たち」には以下の通りの記述があります。
「この家は日本軍が村に駐留している時、傀儡軍の“清郷隊”の本部となっていました」(P.140)
「家はあの時清郷隊の本部となっていた。全部で30数人がここで寝起きしていた」(P.140)
※清郷隊・・・地元の住民により組織され、日本軍に協力した武装組織
また、「ガイサンシーとその姉妹たち」には、進圭村の以下のような老人の証言が記載されています。
「彼らの大隊長は吉田と言い、中隊長は今井といった。副中隊長は堀武といい、下にロバと赤ら顔がいて、谷川が小隊長のとき日本軍は引きあげた。しかし女性を乱暴するのは主にロバと赤ら顔、キバというような人たちだった」
「ロバというのは森曹長のあだ名で、村人が赤ら顔と呼んでいた伊藤が情報班長だったあと、曹長に昇進した。キバはもともと砲兵だった。古兵だったので、誰も素行の悪い彼をどうしようも出来なかった。一九四二年夏の太行山戦役で中隊長の今井が死んだあとは、ここに2個分隊しか残らなかった。10人あまりがいるだけで、木坂が親分で、ロバ、赤ら顔が曹長になった。その後、43年夏に岩本という人が隊長として転任してきたが、あの人は若くてこれらの古兵をどうしようもできなかった」(P.152~P.153)
他の同様の証言者(劉面換・陳林桃)の証言も総合して勘案すると見えてくるのは、「好き勝手する一部の日本兵とそれを統率できない隊長。そして、それに便乗して暴行・強姦に参加する一部の中国人」という状況です。隊長は統率できないばかりか、本部に報告すると自分の責任が問われるために黙認していたのでしょう。
【信憑性】
誇張や創作と思われる証言はなく信憑性はあると思います。ただし、漢奸の存在は意図的に隠しているようです。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1997.6 元「慰安婦」の証言 -50年の沈黙をやぶって アジア・フォーラム編 晧星社 山西省西藩郷李庄村で生まれました。一五歳の時(一九四二年)の農暦八月、母親と自宅にいたところ、突然四人の日本兵が入ってきました。男たちはうれしそうに「花姑娘」と言いながら入ってきました。当時五〇歳くらいだった母親を無視し、オンドルに座っていた私のところへ来て、私を連れ出しました。私は怖くて震え、泣き叫んでいましたが、口の中につめものをされ、暴力的に家から連れ出されたのです。
私は両手を結わえられてロバに乗せられて両側は兵士に固められて、進圭村という村にある日本軍の駐屯地まで運ばれました。ここで監禁されたところは、この地方によくある石洞の一つでした。幅一・七メートル、奥行きが約三・三メートルで奥の半分はオンドルになっていました。オンドルの上には麻袋や藁が置かれていて、私が連れてこられた時、そこには二人の女性がいました。石洞の中には、便器用の桶があるだけで何にもないところでした。入り口は鍵がかけられ、中国人の門番がいました。この石洞から出られたのは、排泄物を捨てにいく場合ぐらいで、そのまわりの様子はよくわかりません。監禁されてから、四、五日後、赤ら顔の「ロバ隊長」とよばれる日本兵が入ってきました。この隊長はまず先にいた女性を強姦し、続いて私を強姦しました。その日から、戦闘に出かける日以外は、毎日、日本兵たちが私たち三人を強姦しに入れかわり立ちかわりやってきました。三人の日本兵がやってきて、私たち三人を同時に強姦することもありました。石洞の中で順番を待つ兵士が、私たちが強姦されるのを見ていることもありました。一人の日本兵の強姦が終わると、続いて別の日本兵がすぐやってきて強姦することもありました。強姦は生理日でもかまわず行われました。私は多い時には、日に一〇人、少ない時でも二、三人に強姦されました。私たちが抵抗すると日本兵は暴行を加えました。私はある時ベルトで殴られ、そのバックルが右眼にあたり怪我をしました。この怪我がもとで、私は後に右眼を失明してしまいます。また、皮の長靴で大腿部を蹴られて怪我をしました。この怪我がもとで、今では右足が左足より短くなっています。顔や腹、腰などはしょっちゅう殴られました。(P.29~30)2006.9 ガイサンシーとその姉妹たち 班忠義 梨の木舎 私は兎年生まれで、15歳の時(1942年)の旧暦8月、今でいう9月に、日本人が進圭社に入ってきて砲台をつくった。
ある日彼らが私が住んでいた李庄村にやって来た。私が家で母親と二人で靴作り(注・当時は布靴を自分たちで作っていた)をしていたところに、4人の日本兵が銃を持って家に入って来た。そしてオンドルの上に座っていた私を引っ張った。怖くて、お母さん、と叫んだ私をされに引っ張り、追いかけてきた母を1人の日本兵が2回も蹴って倒した。私は村の下まで引っ張られていった。
私が泣いて母を叫ぶと口い布を入れられ、両手を縛られて村の外まで来るとロバに乗せられた。こちら側から降りようとすると“殺すぞ”と言われ、顔に平手打ちを受けた。向こう側に降りても“殺す”と言われて、怖くなり何も出来なくなった。
進圭社に連れて行かれて、小さい窓のあるヤオドン(窰洞)に監禁された。私のほかに侯冬娥さん、板先梅さんがいた。3人が一緒に監禁された。そして5ヵ月間閉じ込められた。
昼も夜もズボンを穿くことが出来ない。私たち3人は同じオンドルの上にころがされ、彼らに強姦された。この男が出て行ったら他の男がやって来る。やって来る日本兵の数は多い日もあれば少ない日もあった。多い時は20~30人も来る。だから1日中服を着ることが出来ない。彼らがどこかに出発する時、やっと服を着ることが出来る。“赤ら顔”隊長(注・日本人隊長某のあだ名)にはいつもトーチカに呼ばれた。泣いて嫌がっても行かなければならない。行かないと彼に殴られる。力ずくで連れて行かれる。これ以上の苦しみはない。“生理がきたから、今日はやめてほしい”と言っても、彼らは出来ないことはない、と言ってまた同じように陵辱する。どんなに苦しくても引っ張られて陵辱された。
冬侯娥さんは半月ぐらい一緒にいたけれど、ある日担がれて家に戻っていった。板先梅さんは数日で家に返されたから、冬侯娥さんも行ってしまうと、残ったのは私一人だった。私は彼らから陵辱を受けないようにと、毎日顔を洗わず髪の毛も梳かないで、そこから逃げることを考えた。でも、死ぬことも逃げることも出来なかった。いつものよういトーチカへ呼ばれる。彼らは私の汚い顔が嫌で、そこに行く前に必ず私に顔を洗わせた。
私は9月にヤオドンに閉じ込められ、旧正月まで5ヵ月間も監禁された。私の体は歩くことも動くことも出来ず、トーチカにも行くことが出来なった。そうすると“赤ら顔”隊長は今度はヤオドンまでやって来て私を陵辱する。その時私は必死に抵抗した。彼に腕を強く引っ張られたので千切れるかと思った。私は思い切って彼の腕を噛んだ。必死に抵抗する私に隊長は怒ってズボンから皮ベルトを抜き、私の頭や顔を殴ったので、バックルが私の右目にあたってその後右目は見えなくなってしまった。その時痛めつけられ、左足を軍靴で蹴られ、棍棒で体中をめった打ちにされたので、私の片方の足の骨が折れた。私の足はみてわかるように片方が短くなり、引きずって歩くしかない。体が不自由になり、格好良く人の前を歩くことは出来ない。私は彼らに賠償してほしいです。(P29~31)
◆◆◆ 陳林桃(ツェン・リンタウ) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
山西省羊泉村で生まれる。20歳の旧暦6月、川で洗濯をしていると、漢奸(注)2人を先頭に多くの日本軍がやってきて連行され、進圭村にて20数日間監禁、強姦される。
1995年8月に、他3名と共に日本政府に謝罪と賠償を求めて提訴。 2001年5月東京地裁、請求棄却。2004年12月東京高裁、控訴棄却。2007年4月最高裁、上告棄却。(中国人「慰安婦」損害賠償請求訴訟(第一次)・原告 李秀梅、劉面換、周喜香、陳林桃)
注)中国人で日本軍の手先になったもの
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
慰安所には入れられておらず、近くの村で監禁される。
【考察】
同女が連行される際、日本軍の先頭に立ってやってきたのは2人の漢奸。また、進圭社にて監禁される前に羊泉村で集会が行われていますが、その時、「集会には50人くらいの手先がいた」と証言しています。
「ガイサンシーとその姉妹たち」には、以下の通りの記述があり、日本兵と共に多くの漢奸が行動していたようです。
「この家は日本軍が村に駐留している時、傀儡軍の“清郷隊”の本部となっていました」(P.140)
「家はあの時清郷隊の本部となっていた。全部で30数人がここで寝起きしていた」(P.140)
※清郷隊・・・地元の住民により組織され、日本軍に協力した武装組織
また、同女の証言では明記されていませんが、同じ村から同様に監禁・強姦された劉面換の証言を勘案すると、強姦・暴行には漢奸達も参加していたようです。
なお、「ガイサンシーとその姉妹たち」には、以下のような進圭社の老人の証言が記載されています。
「彼らの大隊長は吉田と言い、中隊長は今井といった。副中隊長は堀武といい、下にロバと赤ら顔がいて、谷川が小隊長のとき日本軍は引きあげた。しかし女性を乱暴するのは主にロバと赤ら顔、キバというような人たちだった」
「ロバというのは森曹長のあだ名で、村人が赤ら顔と呼んでいた伊藤が情報班長だったあと、曹長に昇進した。キバはもともと砲兵だった。古兵だったので、誰も素行の悪い彼をどうしようも出来なかった。一九四二年夏の太行山戦役で中隊長の今井が死んだあとは、ここに2個分隊しか残らなかった。10人あまりがいるだけで、木坂が親分で、ロバ、赤ら顔が曹長になった。その後、43年夏に岩本という人が隊長として転任してきたが、あの人は若くてこれらの古兵をどうしようもできなかった」(P.152~P.153)
ここから見えてくるのは、「好き勝手する一部の日本兵とそれを統率できない部隊長。そして、それに便乗して暴行・強姦に参加する一部の中国人」という状況です。隊長は統率できないばかりか、本部に報告すると自分の責任が問われるために黙認していたのでしょう。
【信憑性】
同村や近くの村で同様の被害にあった女性達の証言と内容の齟齬はなく、信憑性はあると思います。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 2006.9 ガイサンシーとその姉妹たち 班忠義 梨の木舎 私が捕まったのは、ナツメを食べ始める頃だ。私は亥年の生まれで、15歳の時2歳年上の夫と結婚した。夫は19歳の時、一九三九年に八路軍に入った。その後5年間も家に帰って来なかった。夫が八路軍に入って3年目に私は捕まった。20歳の時、旧暦でいう6月のことよ。
その日私は村の中の池でふとんカバーを洗っていた。朝ご飯を食べたあと、お母さんから「ふとんをはずして洗ってきなさい」と言われたので、私はそのとおりにふとんカバーをはずして洗いに行った。
まもなく大勢の日本軍がやって来た。日本軍の手先になっていた張昇如、張孟生が先頭に立っていた。彼らはたばこを一服する時間も惜しんで、すぐに私の側にきて銃床で私を叩き、「この女です」と言った。
私は怖くてなんと言えばいいのかわからなかったが、やっと「この洗濯物を家に置きに行かせてください」と頼んだ。でも許されなかった。家に戻る間に私が逃げるのでないかと疑っていた。後ろには手先がいっぱいいた。私に前に歩かせて、彼らは、銃剣で後ろから私を突きつけながら脅した。私は「歩いているでしょう、なぜ捕まらなくてはいけないのか?」
そして羊泉村で集会をしたあと李庄村に連れて行かれた。羊泉村で捕まったのは私一人だった。集会には50人くらいの手先がいた。
李庄村に着いたら、一頭のロバに乗せられた。李庄村では私と侯冬娥さんの二人だけになった。彼らは進圭社まで送って集会をして終わったら家に送り返す、と言う。私と侯冬娥さんは別々のロバに乗せられた。2、3人の手先が前を歩いて後ろには日本人がついていた。私と侯冬娥さんは真ん中に挟まれて、逃げられないようにされた。
進圭社維持会(注・日本軍が村につくらせた傀儡組織)では、人名のたくさん書かれたリストを持ち出してきて、「どうしてこの人を連れて来たのか?本人はどこに行ったのか?その人は劉玲月か?」と言った。
実は張孟生は劉玲月さんの義姉の夫だったから、私を捕まえさせて彼女を逃がしたのだ。それで私がひどい目に遭った。日本人は銃床で私を殴りながらたずねた。「名前は?」私は「陳林桃と言います」。また叩いて「名前は!?」。私は「陳林桃です。殺されても陳林桃です」と言いました。「あなたたちが捕まえたいのは、劉玲月でしょう。私は違います」
日本軍のリストには私の夫の名前もあった。私の夫は八路軍に参加していた。日本人は、「おまえの夫は兵隊に入っている。おまえは八路軍の妻だ」と言った。私は、「夫はすでに戦死した」と言った。彼らは信じないで、私に夫を呼び戻させようとした。
私は進圭社に20数日間監禁され、ずっと侯冬娥さんと一緒だった。夜になるとぞくぞくと男が来て、その音を聞くだけで怖くてどのくらいの人が来たのか覚えていない。今も怒りが胸に湧いてくる。彼らは銃を持っている。それで私を殴って陵辱するの。抵抗すると銃床で突き飛ばされた。足の骨を折られた。侯さんは隣の部屋に監禁されていた。私の足が折れても構わず私を侮辱する。その夜は立ち上がれなかった。今でもこの骨が突き出ているよ。
私の恨みはずっと晴れなくて、苦しかった。木坂隊長と“赤ら顔”隊長を探し出して、彼らに賠償させて、私の病気を治してほしい。(P.46~48)
◆◆◆ 万愛花(ヴァン・アイファ) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1929年12月12日生まれ。内蒙古で生まれる。家が貧しく4歳の時に幼な妻として山西省の盂県羊泉村に売られる。11歳の時から抗日運動に参加、15歳の時に中国共産党に入党。1943年に3回、日本軍に捕まって強姦・拷問を受ける。
1998年10月30日、他の9人の原告と共に日本政府の公式謝罪と損害賠償を求めて提訴。2003年4月、東京地裁は原告の被害事実は認定したものの請求は棄却。2005年3月、東京高裁は控訴を棄却。
2000年12月、女性国際戦犯法廷で証言中に卒倒し病院に運ばれる。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
慰安所には入れられていない。
【考察】
「写真記録 破られた沈黙」(以下、「写真」)によると同女が日本兵に捕まったのは以下の通りとなります。
1回目・・・満14歳(数え16歳)・1943年6月7日(6月28日脱出)
2回目・・・満14歳(数え16歳)・1943年8月18日(9月16日脱出)
3回目・・・満14歳(数え16歳)・1943年12月8日(1944年1月28日生還)
※全て旧暦。「数え」は生まれた時に1歳で1月1日を越える毎に1歳を加算する方法。つまり、同女の場合、12月12日~31日は満年齢+1歳となり、その他は+2歳となります。
しかし、「日本軍による中国女性への性暴力を明らかにする証言集会 in 神戸」(以下「神戸」)では、日本兵に捕まったのは1943年と、西暦は一致しているものの、「15歳の6月のはじめ」と証言しており、1943年6月なら同女は満年齢でも数え年でも15歳ではありません。
----------------- 2008.2.25 以下に「黄土の村の性暴力」の情報を追加 ----------------
さらに、「写真」、「神戸」、「黄土の村の性暴力」(以下「黄土」)、「ガイサンシーとその姉妹たち」(以下「ガイ」)と比べると以下の通り証言内容に相違点があります。
<生まれた年>
○「写真」・・・1929年12月12日生まれ
○「神戸」・・・1929年
○「黄土」・・・1930年1月11日
○「ガイ」・・・1930年1月
→ おそらく、旧暦と新暦の違いでしょう。
<1回目の監禁>
○「写真」・・・1943年6月7日~28日(※3週間)
○「神戸」・・・1943年6月の初めに捕まり、1週間経たないうちに逃走
○「黄土」・・・1942年6月半ば頃に捕まり、約1週間後に逃走 (※1943年の可能性があることの記載あり)
○「ガイ」・・・6月7日に捕まり、数日後逃走(※西暦の記載なし)
<1回目の監禁時の強姦>
○「写真」・・・「毎日、多くの日本兵に強姦され、私は何度も気を失いました」
○「神戸」・・・記載なし
○「黄土」・・・「二回目や三回目の拉致の時のようなひどい拷問はありませんでしたし、強姦も受けませんでした」
○「ガイ」・・・「銃尻で殴られたりといった暴行を受け、強姦された」
→ 強姦されたり、されなかったり
<1回目の逃走>
○「写真」・・・日本兵たちが会議を開いている隙に逃走
○「神戸」・・・記載なし
○「黄土」・・・日本軍がどこかの村へ掃蕩に行った際に逃走
○「ガイ」・・・日本軍が棗園村へ出かけた隙に逃走
→ 会議だったり、掃討だったり。どこかの村だったり、棗園村だったり。
<2回目の監禁>
○「写真」・・・8月18日~9月16日(※約1ヵ月)
○「神戸」・・・7月に捕まり10日くらいで逃走
○「黄土」・・・8月頃。何日監禁されていたか覚えていないが、1週間前後より長かった。
○「ガイ」・・・8月19日に捕まり、約1週間で逃走
→ 1回目も2回目も、「写真」では異常に細かい日付を証言しておきながら、監禁されていた期間に統一性がありません。
<3回目の監禁>
○「写真」・・・12月8日~1月28日
○「神戸」・・・記載なし
○「黄土」・・・12月8日か1月8日頃(※期間についての記載なし)
○「ガイ」・・・12月8日に捕まり、正月になった時に死んだと思われ捨てられる
<3回目の拷問の後>
○「写真」・・・死んだと思われ川に投げ込まれ、お年寄りに助けられる
○「神戸」・・・逃走。ただし、その時のことは語りたくないと証言。
○「黄土」・・・死んだと思われ裸で川辺に捨てられ、老人に助けられる
○「ガイ」・・・凍った河に棄てられる。
→ 「神戸」では、3回目も逃走したことになっています。
また、「写真」では、3回目の拷問の後、真冬の川に裸で投げ込まれたことになっていますが、「黄土」では、川辺に捨てられただけになっています。そりゃ、瀕死の状態で真冬の川に投げ込まれたら生きているはずがないでしょう。
<3回目に解放された後>
○「写真」・・・「丸3年もの間は動くこともできずに寝ていました」
○「神戸」・・・「4回目はどうしても捕まりたくないと、中国のほぼ半分を逃げまわる生活を送った」
○「黄土」・・・自分で少し動けるようになったのは1947年のこととある。
○「ガイ」・・・記載なし
→ 「写真」では、動くこともできずに寝ていたはずが、「ガイ」では、逃げ回っています。
<耳たぶが引きちぎられた時とその状況>
○「写真」・・・1回目の監禁時。共産党員の名前を聞かれても黙っていたので、ひどく殴られる。その時に、右耳の肉の一部がイヤリングと共に引きちぎられた
○「神戸」・・・記載なし
○「黄土」・・・3回目の監禁時。「耳にしていたイヤリングが強姦した日本兵の指輪に引っかかり、その兵隊が思い切り引っ張ったので、耳たぶが引きちぎられました」
○「ガイ」・・・記載なし
→ 尋問時だったり、強姦時だったり。1回目だったり3回目だったり。
----------------- 2008.2.25 以上に「黄土の村の性暴力」の情報を追加 ----------------
その他、同女の証言の疑問点は以下の通りです。(「写真」の証言より)
<三光作戦で隣村は全滅>
・・・何故、同女の村は三光作戦で殺し尽くされなかったのでしょうか。
そもそも、「三光作戦」は中国側のプロパガンダで人民に徹底抗戦を呼びかけ、士気高揚を図るためのもの。実際に日本側でそのような作戦が取られていたわけではなく、太平洋戦争時に日本が「鬼畜米英」と言っていたのと同レベルのものです。
もし、本当にそのような作戦が取られていたなら、同女の村がその作戦のえじきにならなかったのはおかしな話です。
<副村長がキリストのように壁に手足を釘で打ち付けられ何日間も血を流し続けて死んだ>
・・・詳しい描写が無いので何とも言えませんが、手足を釘で打ちつけただけでは体の重みで肉が裂けて、磔状態を保つことは不可能です。如何にも創作臭い内容です。
なお、同女と同じ羊泉村で日本兵の犠牲になった劉面換や陳林桃の証言ではこのような副村長の話や全滅させられた隣村の話は出てきません。
<強姦中にわき毛と陰毛を全て抜き取られる>
・・・私には、わき毛と陰毛を抜き取ることに何の意味があるのか全く分かりません。しかも、他の兵隊が強姦している最中にです。マニアックな日本兵もいたものです。
また、「ガイサンシーとその姉妹たち」によるとこの行為には中国人も加わっており、さらに、それが原因で腋がつるつるになってしまったそうです。毛を抜いたぐらいで永久脱毛にならないと思うのですが。
【信憑性】
信憑性なし。
同村で同じように日本兵の被害者となった劉面換や陳林桃の証言と比べても明らかに異色で突出した内容です。
恐らく同女が日本兵と漢奸(※日本人の手先となった中国人)に酷い暴行を受けたことがあるのは事実だと思いますが、あまりにも誇張や創作を挿入し過ぎです。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1993.5 アジアの声 第7集
世界に問われる日本の戦後処理①
「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録国際公聴会実行委員会 東方出版 私は一九二九年一二月一二日、内蒙古呼市河林格爾韮菜溝村に生まれました。原名は劉春蓮といいます。漢族です。家が貧しかったので、四歳の時に山西省盂県羊泉村の李五学家に童養娼(一種の奴隷妻。封建時代、とくに農村で幼少の女児を労働力として、また将来の妻として売り買いしたー訳者、以下同じ)として売られました。私は幼少の頃、背が高かったので、高く売るために年齢を四歳水増しして、八歳として売られました。当時、李五学家には父親と三人の妹がおりました。日本軍が山西省に入ってきて、あちこちで三光(殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす)作戦を実施し、隣の村では全村が焼かれ、多くの人々が日本軍によって殺害されました。殺された人の中には、老人や女や子供もおり、死体は乾いた井戸に投げ込まれて、その上から石を井戸に入れて埋めたことなどを見聞きし、小さい時から日本軍を憎んでいた私は、一一歳の時に農村の抗日活動に参加しました。
しかし、私は日本軍によって三回にわたって捕えられ、多数の日本兵によって陵辱され、終生消えることのない傷を身体と心に受けました。
一回目は、一九四三年六月七日(旧暦)のことです。日本軍が掃討作戦にやってきたので、私はそれを知って近くの桃荘にあるドブ穴に隠れましたが、ついに発見されました。そして、羊泉村から三六華里(一六キロメートル)ほど離れた進圭社村の東側にある日本軍の拠点に連れていかれました。そこは漢奸(日本侵略者に対する怒りを込めた蔑称。日本鬼子、東洋鬼ともいう)(※漢奸は、中国人で日本軍の手先となっていた者のこと。この説明は誤り(管理人))側の「維新会」のある建物の中で、私はその建物の一室に監禁されました。私と相前後して捕らえられた同じ村の四人の女性も、別々の部屋に監禁されました。彼女たちの名前は、陳林桃、劉面換、馮北香、劉ニ荷、といいます。私たちは、顔を会わすことも許されず、捕らえられたその日から、日本兵たちがやってきて、彼らの気の向くままに強姦されました。昼夜を問わず、その場に何人いようともお構いなしに日本兵がやって来て、強姦していくのです。そのやり方は惨忍で、口で言い表せるものではありません。毎日数多くの日本兵によって輪姦を繰り返され、私は何度も気を失いました。赤ら顔の将校や歯の長い将校たちもやって来て、私を陵辱していきました。六月二八日、日本兵たちが会議を開いている隙を見つけて、私はその家から逃げ出し、羊泉村から一つ村を越したところにある趙家荘村にまで逃げました。しばらく経っても日本の鬼共はやってこない様子だったので、私は羊泉村に戻りました。
二回目は、同じ年の八月一八日(旧暦)、私は川辺で洗濯をしていた時に、西煙というところに拠点をおく日本軍と、進圭社村に拠点をおく日本軍が挟み撃ちをするようにして、羊泉村に侵攻してきて、私は逃げる間もなく再び捕らえられました。そして前回と同じように、進圭社村の東側の日本軍の拠点地に連れて行かれ、監禁され、いっそうひどく日本の鬼たちの蹂躙を受けました。一回目の時もそうでしたが、鬼共は私に村の中の地下の幹部や、八路軍の支持者の名前を言うように脅迫し、言わないと私をひどく殴りつけ、いっそうひどく私を虐待しました。食事もいい加減なもので、与えられたとしても彼らの残飯で、ふた口ばかり口にできるだけで、彼らの機嫌が悪い時などは食事も与えられず、本当に耐えがたい状況でした。この時も、日本軍が●(※市+今)園村に掃討戦に出かけている隙に、私は再び逃走しました。旧暦九月一六日のことです。私は、あちこち逃げましたが、家に病人がいて看病する必要があったので、日本軍が来ないのを見て、再び羊泉村に戻りました。
ところが、同じ年の一二月八日(旧暦)の早朝、突然、日本軍がやって来て、村を包囲しました。村の若い人たちは逃げましたが、私は病人を看病していたので逃げられず、三たび鬼たちに捕まってしまい、彼らによって大きなロバの背にくくりつけられ、進圭社村の東側の日本軍の拠点地に連れ戻されました。その後は、いっそうひどい虐待が待ち受けていました。再び毎日、数多くの日本兵によって輪姦が繰り返されました。ある時、一人の日本兵が淫行を続けている最中に、もう一人の日本兵が私の両手を頭の上で押さえつけました。そして、側にいる男が私のわき毛と陰毛を次々と抜き取ったのです。私は何度も気を失いました。彼らは思いを果たした後、今度は私を散々に殴ったり、罵ったりしました。私の股間やあばら骨の何ヵ所かが骨折するまで続き、私は身体の形まですっかり変形してしまいました。もとの大柄で丈夫な身体は、すっかり萎えてしまいました。本来一メートル六五センチもあった身長が一メートル四七センチまで縮められました。ある時、ビンタを受けましたが、私の右側の耳輪(イヤリング)が日本兵の指輪の角でひっかけられ、一部の肉が耳輪もろとも引きちぎられました。今も右の耳の一部が欠損したままになっています。
鬼たちは私をさんざんに虐待し、私はほとんど意識不明になりました。鬼たちは私のわき毛を引きちぎって、私が反応するかどうかを確かめ、私がビクとも動かないのを見たようです。もう私には生きる力もないことを確かめた後、彼らは、私を裸のままで村の近くの川に投げ込みました。旧暦一月二八日のことです。幸いにも、村の老人が私を助けてくれました。その後、丸三年、私は動くこともできず、ずっと床についたままの状態でいました。(P.91~94)
(※2007.7.30 追加)1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社 1929年12月12日生まれ
中華人民共和国山西省太原市在住
私は内蒙古で生まれた漢民族です。家が貧しくて、4歳の時に幼な妻として山西省盂県羊泉村の人に売られました。高く売るために、背の高かった私は「8歳」として売られたのです。
日本軍が山西省に入って来て、あちこちで三光作戦(殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす)をおこないました。隣の村では家を焼いて、村人たちを殺して井戸に投げ込んで埋めてしまいました。村には1人も人がいなくなってしまったのです。女性は強姦されました。
私の村の副村長は、イエス・キリストのように両手両足を釘で壁に打ち付けられ、何日間も血を流して死んでいきました。
私は小さい時から日本軍を憎み、11歳から抗日運動に参加しました。しかし、日本軍に1943年のうちに3回も捕まり、多数の日本兵に陵辱されたのです。
最初に捕まったのは6月7日(旧暦、以下同じ)でした。日本軍が「掃討作戦」でやって来たので、隠れたものの発見されてしまいました。日本軍の拠点に連れて行かれ、建物の一室に監禁されました。同じ村の4人の女性も別々に監禁されました。食事は与えられてもわずかで、彼らの機嫌が悪いと与えられませんでした。
私たちは捕まったその日から、昼夜を問わず蹂躙されたのです。毎日、多くの日本兵に強姦され、私は何度も気を失いました。
また、日本軍は私に「村の抗日分子や八路軍(共産党軍)支持者の名前を言え」と迫りました。けれども、私は黙ったまま絶対に言わなかったので、ひどく殴られたのです。その時に、右耳の肉の一部がイヤリングと共に引きちぎられてしまったのです。
6月28日に、日本兵たちが会議を開いている隙に窓から逃げ出し、羊泉村に戻りました。
それから2ヵ月もしない8月18日、日本軍が村を挟み打ちにし、川で洗濯をしていた私は再び捕まりました。そして、前と同じ扱いを受けました。この時は、日本軍が「掃討作戦」に出かけている隙に闘争しました。これは9月16日でした。あちこちと逃げたものの、家には病人がいたので、村に戻ったのです。
12月8日の早朝に、日本軍に村が突然包囲されました。若い人たちは逃げましたが、私は病人を看護していたので三たび捕まってしまいました。ロバの背にくくり付けられて、日本軍の拠点に連れ戻されました。
そして再び、毎日多くの日本兵に強姦されました。しかもある時、1人の日本兵が私を強姦している最中に、他の日本兵が私の両手を押さえつけておいて、もう1人の日本兵が私のわき毛と陰毛をすべて抜き取ったのです。
そして次に、散々に殴ったり蹴ったりしたので、腰やあばら骨が折れてしまったのです。165センチあった身長が147センチに縮んでしまったのです。大柄で丈夫だった体は変形してすっかり萎えてしまったのです。私は3日間も意識を失いました。私に生きる力がないと思った日本軍は、私を裸のまま冷たい川に投げ込んだのです。1944年1月28日のことでした。
幸いにもお年寄りに助けられました。しかし、丸3年もの間は動くこともできずに寝ていました。(P.135~139)1997.8 アジアの声 第11集 私は「慰安婦」ではない 日本の侵略と性奴隷 「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ・心を刻む集会」実行委員会 当方出版 私、万愛花が日本に参りましたのは、すでに亡くなりました中国のおじいちゃん、おばあちゃんたち、それから小さい幼い子どもたち……、あの戦争中に故なく殺されたたくさんの中国の人たちのためです。あの時中国で、日本軍が何をやったかを訴えるために、私は中国の被害者の代表として日本に参りました。
そんな殺人者たちにも、それぞれに自分の父母がおり、おじいさん、おばあさん、あるいは子どもたちもいるはずです。それなのになぜ中国に侵略してきて、言い尽くせない酷いことをしたのですか。「三光政策」というのは、、「殺しつくす、焼きつくす、奪いつくす」というとても残虐な行為です。そんなことをして、何のいいことがありますか。
私は優秀な共産党員です。日本の鬼は、私の青春、私の人生、私のすべてを踏みにじりました。しかも今に至るまで、知らん顔をしているのです。(P.33~34)
私は十一歳で中国の共産党に入党しました。私は、生家の貧しさのため、四歳の時に内モンゴルから山西省盂県羊泉村に養女として売られてきましたので、私のそばには身内は一人もいませんでした。それで、私は八路軍(抗日軍の呼称)のために、毛沢東主席のために、少しでも手伝いしようと思い、積極的に抗日活動に参加したのです。
私の住んでいるところは八路軍の本拠地でした。私は日本軍が知らないうちに、内緒で八路軍に、靴とか食料品とかいろいろ必要な物資を調達して運び、私は共産党のためにたくさんの貢献をしました。
けれども私は三回、日本軍に捕まえられて、彼らの本拠地に連行されました。連行され、合わせると三ヵ月もの間監禁されて、夜となく昼となくひどい暴行を受けました。そのうえ、数多くの日本軍人に輪姦されました。その体験はあまりにも残忍で、とても言葉で表現できるものではありません。
ある日、二人の日本の鬼が一人ずつ、押し倒した私の両手を引っ張りあげ、もう一人の日本軍人は私の頭を押しつけ、もう一人が私のわき毛、そして陰毛を、一本一本全部引き抜きました。私はとえも残虐な踏躙をうけました。しかし、彼らがどれほど私を残虐にいじめても、私は共産党員の名前を一人も口に出しませんでした。死んでもいいと思いました。
一九四三年、とても寒い真冬の十二月に、私を残虐に輪姦して、身体のあちこちが骨折するまで暴行を加えたあげく、日本の軍人は冷たい川に私を裸のまま投げ捨てました。私の命は神様が救ってくれたものです。
命は助かったけれども、その後の三年間、私はほとんど身動きできずに伏せっていました。そのうえ、歩けるようになってからも村の人々からも「汚い女」と蔑みの目で見られ、村で生活できなくなり一人で逃げ出しました。今は、山西省に住んでいます。(P.35~36)
(※2007.6.17追加)1998.11 日本軍による中国女性への性暴力を明らかにする証言集会 in 神戸 ***** **** 万愛花 1929年内モンゴル生まれ。4歳で童養女息として盂県羊泉村に売られる。共産党児童団・党員。 1943年6月・8月・12月と3回日本軍に捕まり、盂県進圭社村の日本軍が駐在する民家に監禁される。3回とも強姦・拷問され、3回目には外の木に吊され気絶するまで殴打され、水をかけてまた殴られた。強姦・輪姦され、裸で冬の川に捨てられたが、近所の中国人に助けられた。
3回目の来日になる。内モンゴル生まれで、4歳で童養女息(トンヤンシー)として山西省に売られてきた。13歳で児童団に入り、15歳で中国共産党に入党した(15歳までは童養女息で入党できなかったが、15歳でやっと入れた)。日本軍に捕まったのは、共産党の嫌疑をかけられたからだった。15歳の6月にはじめて捕まって、逃げたい一心で方法を捜し、1週間経たないうちに逃走した。日本軍に捕まったときは、家にカネがあればよいが貧乏な童養女息だったから助けにきてくれる人もないし、一人で考えた。6月ころ捕まって1週間で逃げ出し、7月には羊泉でまた捕まった。2回目も共産党の嫌疑をかけられた。このときも10日くらいかかって逃げた。1943年6月(旧暦)~12月までに3回にわたって拉致監禁された。3回目も逃走したが、そのときのことは言いたくない。昔は身長も160㎝くらいで高く、身体も丈夫だった。切られたり、拷問をされて身体がこんなに小さくなった。3回の監禁生活で身体は滅茶苦茶にされた。悔しいのは、一生女性としての感情的な生活を送ったことがないことだ。解放後もまわりからは不思議な目で見られ、毎日が辛かった。4回目はどうしても捕まりたくないと、中国のほぼ半分を逃げまわる生活を送った。逃亡生活の中で日本軍が中国でいかに残虐なことをやったのかを見た。年寄りから子どもまで、殺して井戸に入れ石を投げ込むのを目撃した。2003.10.3 しんぶん赤旗 「旧日本軍の性暴力 謝罪せよ 中国人女性が意見陳述 東京高裁で控訴審弁論」 ***** **** 万さんは、日本軍からひどい暴行を受け、首が身体にめりこんでしまい、腰骨も折られて、「高かった背が縮まってしまった」とのべました。日本軍兵士は万さんが死んだと思い、川べりに捨てましたが、村人に助けられ、九死に一生を得ました。家も肉親も失い、一年以上ほとんど身体が動かせず、養女に助けられ生きのびたことを、声をつまらせながら語りました。「どうして日本軍は重い罪を犯したのに認めないのか。謝罪し、正義を取り戻してほしい」と泣き崩れました。 2004.4.25
黄土の村の性暴力
大娘たちの戦争は終わらない石田米子・内田知行 創土社 【日本軍が盂県羊泉村に出現するまで】
私は、民国19年12月12日(1930年1月11日)に、当時の綏遠省(今は内モンゴル自治区)和林格尓県(今の区郡フホホトの南約50キロ)の韮菜溝村に生まれました。少数民族の多い地方ですが、私は漢族です。父親や劉二台、母親は張搬女という名前で、私のもともとの名前は劉春蓮です。父は普劇の地方劇団を率いる座長でした。父にはアヘン吸飲癖があり、アヘンを買う金が必要になって、私を「童養●(※女+息)」〔幼いうちに売春婚で買われる嫁〕として売りました。私が四歳の時でしたが、高く売るために四歳にしては体が大きかった私を八歳だと偽って売ったのです。~(中略)~
1934年に、私は盂県羊泉村の山の麓にある李五小の家に買い取られました。李五小の家は貧しく、本人はすでに20代後半を過ぎていました。李五小の父は村廟の管理人で、村の知識人でした。とても良い人で、李五小の妹とともにまだ小さかった私の世話をしてくれました。しかし、李五小は怖い人でした。殴られたことはありませんが、温かくもしてくれませんでした。「ガキは要らない」と言って、家に寄りつきませんでした。李五小は私がこの家に売られてきた時には、もう村の未亡人と関係をもっていましたから、幼い私など相手にしなかったのです。~(中略)~
1940年か41年頃だったか、李喜順が抗日村長だった時に、とてもたくさんの日本兵が村に侵入し、村を包囲しました。日本軍は西煙砲台や進圭社砲台にいて、いつも里まで下りてきました。「赤ら顔(紅臉)隊長」「キバ(牙?)隊長」「ロバ(毛驢)隊長」とあだ名された日本兵を覚えています。当時は河東砲台のことは知りませんでした。
【羊泉村での抗日活動と一回目の連行】
数えの14歳になった1942年〔趙双兵の調査による〕のことだったと思いますが、私は羊泉村の共産党組織に入党しました。本当は18歳にならないと入党できませんでした。しかし、私は一生懸命に抗日の活動を手助けしましたし、私自身もその活動によって気持ちが積極的になりました。実際仕事もできたから、「この子はとてもよくできる。大人よりもいいよ」と、入党を勧められたのです。~(中略)~
入党後、私は積極的に八路軍の抗日運動を支援するようになりました。この三人が私に直接、共産党の指示を与えました。この人たちがやれと言うことは、死をも恐れず、昼間であろうと夜であろうとただちに実行しました。私は「積極分子」だったので、何でも自分から進んでやりました。八路軍兵士用の布靴をつくったり、日本軍が村に入ってくると合図の「消息樹」を倒して知らせたり、日本軍の特務のそばで遊んでいて、何を言っているか聞いて大人に報告をしたり、「日本軍の動きに注意しろ」というような共産党の命令を、情報員として下の村に伝令したりしました。また、村々を回って歌ったり踊ったりしながら、共産党の活動を宣伝することも重要な任務でした。ええ、いまでも当時歌った歌を覚えています。もちろん、歌えますよ。~(中略)~
私が日本軍に最初に連行されたのは、まだ李五小の家にいた1942年の初夏でした。箒の草の伸び具合からして、6月半ば頃ではなかったと思います。日本軍が侵入すると、村人は「日本の鬼(日本軍)が来た」と叫んで逃げ出しました。〔万愛花の被害は1943年の可能性もある〕。
私は、病気で臥せっている李五小の父親を置き去りにして逃げることはできませんでした。私は彼を「お父さん」と呼んでいましたし、彼が私を育ててくれたのです。でも、李五小の父親は、「早くおまえも逃げなさい」と言ってくれました。そこで私は山の下の方にある窰洞にかくれました。でも、同じ所にかくれていた二人の男性と一緒に捕まってしまい、村の前の河原へ連行されました。
そこには、すでに何人もの男性が連行されていました。日本兵が刀を抜いて私たちを殺そうとした、その時です。親日村長・高銀鎖の父親が、「やめてください。彼女はまだ子どもです。許してやってください」とひざまずいて命乞いをしてくれました。通訳が「キバ隊長」にそのことを伝えました。すると、「キバ隊長」は刀を収めました。私は一命を取りとめることができたのです。ですから、この高おじいさんと通訳は私の命の恩人です。他の男の人たちがどうなったかは、はっきり分かりません。
私は河原で縛られ、後ろから拳銃を突きつけられたまま、30華里(15キロ)の道のりを進圭社まで歩いて連行されました。進圭社のある窰洞に着くと、日本兵は、「おまえは共産党員か」とか「誰が共産党員」か、名前を言え」とか「おまえは村でどういう仕事をしているのか」などと尋ねました。私は、何を聞かれても「知らない」「分からない」と答えました。日本兵は、「答えれば、いい服を着たりできるのだし、いい暮らしをすることだってできる。だが、答えなければ貧しい八路軍の生活のままだ。言わないで殺されてもいいのか」と脅しました。それでも答えないでいると、彼らは大勢でワーワー言いながら怒り、髪の毛を掴んで壁に頭をぶつけたり、手で顔や体中を殴ったり蹴ったり、銃の台座で殴ったりというような暴行を加えました。これが、最初の連行で受けた被害です。拉致された期間はそんなに長くはありませんでしたから、二回目や三回目の拉致の時のようなひどい拷問はありませんでしたし、強姦も受けませんでした。~(中略)~
監禁されてから一週間くらい経ったある晩、日本軍がどこかの村へ掃蕩に行ったという話を耳にしました。周囲が静かになるのを見すまして、窰洞の窓を壊して一人で逃げました。~(中略)~
その後、私は羊泉村から遠くない豊盛坡の李五小の妹の家に逃れ、そこに一ヶ月くらいかくまってもらいました。その後、「村の仕事や抗日の地下活動を再開してほしいから早く帰ってくるように」と連絡を受け、羊泉村に戻りました。帰ってみると、家は焼かれ、逃げた人はまだ戻っていないというありさまでした。
【李季貴との再婚と二回目の連行】
~中略~
結局、私の「離婚」も「再婚」も李喜順たち村の幹部の判断でした。私は「売り物」にすぎず、村長たちは私をよその村に買い取らせたくはなかったのです。帰村してから、村の幹部たちは、私に「強姦されたか」としつこく尋ねました。私はもちろん否定しましたが、彼らは「売り物」を値踏みしていたのかもしれません。~中略~
2回目に日本軍に連行されたのは、同じ年(1942年)のスイカを食べる頃だったので、八月頃だったと思います。一度捕まったので、なるべく人に会わないようにしていました。人影がない時に、池の所で洗濯をしていました。その時、「日本の鬼が来たぞ」という叫び声が聞こえました。私は立ち上がって逃げようとしましたが、日本兵と「漢奸」がすぐそばまで来ていて、私の髪の毛を掴んで体を持ち上げました。彼らは猛烈に殴る、蹴るを繰り返しました。振り返る余裕もなく、誰がいたかも分かりませんでした。
日本軍は西煙鎮と進圭社の両方から来ました。わざわざ私を捕まえに来たというわけではないと思います。八路軍と戦争をするために、羊泉村の両側から攻め込んできた時、洗濯している私がいるのを見て、捕まえたのです。村には日本軍だらけというほど、日本軍が入ってきました。
この時、私は一人で捕まり、連行された時も一人でした。一回目と同様に、後ろ手に縛られ、背中に拳銃を突きつけられたまま、進圭社まで歩かされ、また同じ窰洞に閉じ込められました。拷問は一回目の時よりもひどかったです。私が前に逃げたので、日本軍は憎しみを募らせていたのではないかと思います。「共産党員の名前を言え」と言われ、言わずにいると、軍服のベルトで叩いたりして拷問されました。さらに、両側から二人づつ四人で棒で押さえつけ、軍靴で蹴り、手元にあるもので殴り、銃の台尻で叩きました。骨折した私が意識不明になり、昏睡状態に陥ると、水をぶっかけて蘇生させ、叩いたり棒や板を体の上に置いて乗りました。死んだかどうかを確認し、叫べば生きている、というわけで、また拷問を繰り返すといった状態でした。
庭の大きなアカシアか柏の古木に、手を縛って吊るされたのは、この時だったと記憶しています。吊るされていた時間は分かりません。木に吊るされたまま、ベルトや棒で殴られて気絶し、降ろして放されたあと、部屋で意識が戻ったことが二度あります。この木にはたくさんの男女が吊るされ、その挙げ句に殺された人たちも大勢いました。
それだけではありません。二回目の連行の時は日本兵に強姦され、まるで獣のように輪姦されました。連行された最初の夜は、衣服を全部脱いで丸裸にされ、何人いたか、複数の日本兵に次々に犯されたのです。強姦した兵は、自分の服を脱いで犯し、終わると次の兵が来ました。待っている兵は周りで見ながら笑ったりしていました。何度犯されたか数えくれないくらい犯されました。毎日というわけではありませんでしたが、日本兵は昼でも夜でも、時間ができると来て、私を犯していきました。
彼らはいつも強姦してから拷問に入るのです。共産党員の名前を言わせるのが拷問の目的です。拷問の後では体が傷だらけになるので、拷問の前に強姦するのです。翌日少しは回復しているのを見て、また同じことを繰り返しました。骨折や受けた傷はそのままで強姦するのです。毎日のように犯されるために出血している陰部を洗っては犯されました。男たちは皆コンドームを付けていました。子どもをつくらないためではありません。性病に感染したくなかっただけです。
監禁されていた期間は最初の時(一週間前後)より長かったはずです。実際には何日間だったかは覚えてはいません。ある夜、日本軍がラッパを鳴らして出発した後、残っていた監視を見ると眠っていました。そこで、右側の戸を必死に押し開けてその隙間から逃げました。~(中略)~
【三回目の連行と羊泉村からの離別】
旧正月をひかえたその年(1942年)の12月8日(新暦1943年1月13日)か、あるいは明けて正月8日(新暦1943年なら2月12日)頃、共産党員を捕まえるためにたくさんの日本軍が村に入って来ました。この時も日本軍は西煙鎮と進圭社の両方向から羊泉村を挟み撃ちにし、村を包囲して共産党員を捕まえ、連行したました。共産党員でなくても村人はみんな逃げました。私はその時、家の中で裁縫をしていました。家には私と李季貴の父親がいるだけでした。たぶん綿入れを縫っていたのだと思いますが、仕事に集中していたせいか、日本軍が突然家に入って来たのに気づかず、いきなり髪をひっつかまれて捕まりました。私と分かっていて捕まえに来たのかどうか分かりません。私を捕まえると、銃床で殴り、進圭社までの30華里の道のりを、彼らは馬に乗り、私は後ろ手に縛れたままで、「漢奸」に銃で監視されながら連行されました。捕まったのはもちろん私一人ではなく、村人たちが多く捕まったのですが、その人たちが進圭社に連行されたかどうかは分かりません。
前二回と同じ窰洞の部屋に監禁されました。私が閉じ込められていた窰洞は、もともと帳という農民の家でしたが、日本軍に接収されて、進圭社の「漢奸」に使われていたようです。三回捕まり、三回とも同じ窰洞の同じ部屋に、いずれも一人で監禁されたのです。前二回は、日本軍の隙をついて自力で逃げました。しかし、今度は前の時とは違いました。私が前に逃げ出したので、窓も戸も板で塞いでしまってありました。食べるのも用を足すのも、すべてこの窰洞の中でしなければなりませんでした。この窰洞では、他の被害女性を見たことはありません。窰洞はきれいに掃き清められており、庭ではいつも日本兵が監視していました。日本兵の他に、羊泉村の人ではない「漢奸」もいました。
この窰洞で、「おまえは共産党員か」と質問され、「名簿を出せ」と言われても答えないでいると、二回目の時よりもされにひどい強姦と輪姦、拷問が繰り返されました。「ロバ隊長」一人ではなく、日本兵と「漢奸」が寄ってたかって私に暴行を加えました。前の時と同じように、拷問で体が傷だらけになる前に強姦され、輪姦されました。昼も夜も毎日来て犯しました。私がなにも語らないという抵抗を続ければ続けるほど殴り、輪姦したのです。従わないと殴り、出血し続けている陰部を洗っては犯しました。腕の上にも頭の上にも人が被さり、叩かれ、馬乗りにされて辱めを受けた私は、気を失って何も分からなくなりました。
それが済むと、庭の木に吊り下げられました。手首ではなく、指を一本一本細い紐で結わえて吊り上げ、ぶら下げられた状態のまま、腋毛を抜くのです。激痛が走り、指と指の間も間接がはずれて変形してしまいました。また、銃床で殴られ、軍靴で蹴られ、肩の付け根や腿がすべて骨折すると、太い棒を押し当てて接骨しようとしました。釘を打ち付けた板で頭のてっぺんを殴られたために釘が頭に刺さって深い傷になりました。この傷跡からは今でも髪の毛が生えません。耳にしていたイヤリングが強姦した日本兵の指輪に引っかかり、その兵隊が思い切り引っ張ったので、耳たぶが引きちぎられました。耳たぶはその時の傷で変形し、深い傷跡が残ってしまいました。倒れた時に、地面に転がっていた石にぶつかって傷を負い、今も体中のあちこちに窪んだ傷跡が残っています。
「キバ隊長」は、「共産党員の名簿を吐かないなら殺してやる」とか「殺せ」というようなことを繰り返し言いながら殴り、部下にもそれを命じました。彼らは右に左に、顔が腫れあがって目が見えなくなるほど殴り、死んでも構わないというように私を殴り続けました。私が死んでも言わないということが分かると、業を煮やした日本兵は、今度はたくさん水を飲ませて木の棒で腹を押し、口から水を吐かせました。逆さ吊りにし、腕をねじ曲げたまま殴り続け、気を失うと水をぶっかけ、息を吹き返すとまた殴り続けたのです。彼らは最後に、ひざまずかせた私の頭と両肩を押さえつけ、上から力いっぱい押しました。すると、体中傷を受けてフラフラになっていた腰は、その重量に耐え切れず、腰骨が完全に砕けて立てなくなりました。
この拷問によって、とうとう私は意識を失い、死んだようになってしまいました。いくら水をぶっかけても息を吹き返さない私を見て、日本兵は今度こそ死んでしまったと思いました。そして、私を裸のまま、真冬の川辺に捨てたのです。幸運にも、瀕死の私は一人の老人に助け出されて九死に一生を得ることができました。
(※2008.2.25追加)2006.9 ガイサンシーとその姉妹たち 班忠義 梨の木舎 彼女は「このつるつるの腋の下は、やつらとその手先となった中国人に真っ裸にされて、木に吊るされ、一本一本腋毛を抜かれた」と説明した。腰のほうは4人の男に2本のてんびん棒に両肩をかけられたまま、何度も地面に叩き付けられたうえ、蹴られたり殴られたりして背骨が潰れたと言う。(P.12)
万愛花さんは、もとの名を劉春蓮と言い、一九三〇年1月、今の内モンゴル自治区のある村で生まれた。4歳の時人身売買の男に山西省盂県の羊泉村に連れて行かれて、名前を劉林魚と変えらたが、村人はその発音が難しいので、いつの間にか「劉玲月」と呼ぶようになった。「童養○〔女+息〕」(注・将来、買った家の息子の嫁にするため、子どもの時から引き取られた女の子という意味で、中国の昔の風習の一つでもあった)として現地の人に売られたが、正確が活発で、機敏で、正義感の強い彼女は11歳になった頃、村の抗日活動に参加し、八路軍に靴を作ったり、情報を伝達したりした。数え年で13歳になった時、村人から選ばれて婦人隊長や副村長などを担当した。
万さんが言う数え年で14歳の6月7日(旧暦)、進圭社に連行された。暗いヤオドンに監禁され、共産党の情報を出せ、と銃尻で殴られたりといった暴行を受け、強姦された。数日後、日本軍が棗園村へ出かけた際に彼女は監禁部屋の窓から逃げ出した。逃げ出してからもすぐには家に戻らず、豊勝坡という村へ行き、のちに夫となる李五小の妹の家に隠れた。1ヵ月ほどいて家に戻った。
旧暦の8月18日、家の近くの池で洗濯しているところをまた日本兵と傀儡軍に包囲され、捕まった。前に監禁されたヤオドンに再び閉じ込められ、今度はされなる拷問と侮辱を受けた。強姦してから拷問されえる。共産党員の名前を言わせようと、木から吊るされ、銃床で腰を叩かれ、足でお腹を蹴られる。釘のついた板で頭を叩かれ、その傷跡が今も残っている。約1週間後に豊勝坡村を点々と逃げ隠れし、最後に義理の親戚関係にあったという万おばさんの家まで逃げた。
万おばさんの家では暫く起き上がれず、万おばさんが看病してくれ、2ヵ月ほどそこにいて家に戻った。万おばさんと義理の親子となって、名前も万愛花とつけてもらった。
家に戻るとすでに粟の取り入れも終わり、次第に寒くなって旧正月を迎える準備をしていた。その年の12月8日に万さんは三度捕まった。日本軍は今度こそ逃げられないようにと、彼女の両手をロープで縛り、ロープの端を馬の鞍にくくりつけ、万さんを馬のうしろから歩かせて、進圭社まで引っ張って行った。
今度はもっとひどい拷問、強姦、輪姦を受けた。共産党の情報を出せ、名簿を出せ、と脅迫され、時には吊るし上げ、時には拷問椅子など、多くの拷問を受けたが、目を閉じて耐えた。最後には彼女は頭を逆さまに木に吊るされた。日本軍か傀儡軍か、意思朦朧の彼女には分からなかったが、腋毛を一人の男が1本、次の男が1本と、次々に全部抜かれた。正月になった時ついに彼女は拷問で意識がなくなり、死んだと思われて進圭社の凍った河に捨てられた。村のある老人に拾われて家に運ばれ、ようやく救われた。(P268~270)