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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 河順女(ハ・スンニョ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1920年普州(チンジュ)生まれ(※戸籍上は1918年になっている)。家が貧しく小学校に正規の入学年齢より遅れて入学する。その為、学友達にからかわれ学校に行くのが嫌だったが、どうしても行けと父親に叱られて着のみ着のままで家出。その後、光州で女中をしていたが、20、21歳の時、金になるからと日本人と朝鮮人の男に誘われるままついて行き、上海で慰安婦生活を強いられる。

1992.12.2、日本国の公式謝罪と賠償を求めて提訴した10人の内の一人。2003.3.25最高裁にて上告棄却・上告受理破棄、敗訴確定。(釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟(別名:関釜裁判))
2000.5.5死亡。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

無し。騙した日本人と朝鮮人に連れられ、大阪経由で上海へ行く。その日本人が同女の入れられた慰安所の経営者だった。


【考察】

裁判の証言(以下「裁判」)と「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下「証言」)を比べると以下の点で大きく異なっています。

慰安所の主人に頭を棍棒で殴られた後、病院で治療を受けさせてくれたのは
 ○「裁判」・・・東京出身の衛生兵らしい優しい日本人
 ○「証言」・・・ヤマモトという名の陸軍少尉
その後
 ○「裁判」・・・その後1ヶ月くらいは顔が腫れ上がったため、軍人の相手はせずに働いていた
 ○「証言」・・・ヤマモトという名の陸軍少尉が「飯炊きだけをして軍人の相手をするな」と言ってくれ、以降、炊事洗濯をして終戦を迎える

「裁判」では、親切な計らいをしてくれた陸軍少尉の記述が抜け落ちています。裁判を意識して、ヤマモト陸軍少尉のエピソードを削除したのでしょう。「証言」の内容を信じるなら同女が慰安婦をしていたのは約1年間です。(ただし、「裁判」では上海についてからずっと慰安婦をしていたと読み取れる内容になっています)

恐らく、「証言」の内容が真実で、「裁判」の内容は弁護士か支援者の入れ知恵でしょう。


【信憑性】

一部内容を変更する等、細かい所で嘘が紛れている可能性もありますが、全体としては信憑性があると思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992 裁判の証言 ***** ****
私が従軍慰安婦として連行されたのは、19歳だった1937年の春だったと思います。買い物に行こうと家を出たとき、洋服を着た日本人と韓式の服を着た朝鮮人の青年が私に話しかけ、「金儲けが出来る仕事があるからついてこないか」と言いました。私は当時としては婚期に遅れた年になり、金儲けをしたいと思っていた矢先だったので、どんな仕事をするか分からないまま、ソウルにでも行くのだろうと思って、彼らについていくことにしました。そのまま家の人にも何の連絡もせずについていくと、私の他に3人の娘がいました。1人は私と同じ歳で、あとの2人は私より年下でした。~(中略)~主人は激怒して、炊事場で「殺してやる」と包丁を持ち出しました。チョウさんが止めてくれましたが、いつも女性たちを殴るために主人が帳場においている長さ50センチくらいの樫の棍棒で体中を殴られ、最後に頭を殴られ大出血しました。~(中略)~3日くらい後に、慰安所に来ていた東京出身の衛生兵らしき優しい日本人がやってきて、私を陸軍病院に連れていってくれました。そこで頭の傷を7針縫いました。チョウさんの話では、そこの衛生兵は主人から慰安婦が働かないからなぜ親切にするのか、もう慰安所に来るなと言われたそうです。
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 そんなある日、二十か二十一歳になった頃だったと記憶しています。子供を寝かしつけ、近所の女中たちと集まって話をしていたところ、朝鮮人の男一人と日本人の男一人が近づいてきました。~(中略)~自分たちについて日本の大阪に行けば、たくさんお金がもうかると話しました。金に欲が出てどんな仕事なのかも聞きもせず、ついていってしまったのです。主人へは断りもしませんでした。(P.86)

 私たちを上海まで連れてきた日本人の男がその家の経営者だということがわかりました。(P.87)

 ご飯を炊いてお膳につくと、経営者が食べるなと言いました。それでも座って食べていると、逃げ出した奴めと言いながらはげしく殴られました。殴られた傷が完全に治ったころ、軍人が頻繁に訪ねてきて私が断ろうとすると、経営者は棍棒で頭を殴りました。頭からひどく出血したため、私はそのまま気絶してしまいました。~(中略)~私が相手をしたことのあるヤマモトという名の陸軍少尉は、頭に包帯を巻き横になっている私を呼ぶと、病院へ連れて行き、治療を受けさせてくれました。~(中略)~頭の傷が回復した後はその家で飯炊きをして暮らしました。私を病院へ連れていったその少尉は、飯炊きだけをして軍人の相手をするなと言いました。それでその後は、食事をつくり洗濯をして暮らしながら解放を迎えたのです。(P.91~92)
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◆◆◆ 朴玉蓮(パク・オクリョン) ◆◆◆


朴順愛(パク・スネ)(仮名)と同一人物


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1919年(戸籍上は1920年)4月20日、全羅南道茂朱(ムジュ)生まれ。16歳の時、貧しい家庭に事情も知らず嫁いだが、その家を逃げ出し、1936年18歳の時、金持ちの後妻になる。1938年20歳で息子を出産。1941年23歳の時、猜疑心の強い夫に紹介所に売り渡される。紹介所(注)で慰問団を募集するという話を聞き、「野戦病院で軍人の服を洗い、彼らが負傷したら治療してやればいい」ということだったので自ら志願、以降、ラバウルで慰安婦生活を強いられ、1944年正月頃に朝鮮に帰郷。

(注)紹介所・・・簡単に言えば人身売買の仲介所。お金が必要な者が娘等を売ったり、人手の必要な者が人を買ったりする所。買い入れ先の選定にはある程度本人の意思が尊重されたようです。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

朴という人物が募集をし、その朴と金、趙の3人の引率の元、軍艦に乗ってラバウルに向かう。この3人は慰安所で事務の仕事をしていた。


【考察】

夫に紹介所に売られた後、「野戦病院で軍人の服を洗い、彼らが負傷したら治療してやればいい」と言う話に騙されて慰安婦になったという話です。


【信憑性】

証言には特に不審な点は見当たりません。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 猜疑心がぶり返したのか、夫は私の髪を見ると因縁をつけるのです。そして私から子どもを取り上げると、私を紹介所に売り渡しました。私が二十三歳(一九四一年)、陰暦十月のころでした。(P.255)

 しばらくすると慰問団を募集するという噂が耳に入りました。「野戦病院で軍人の服を洗い、彼らが負傷したら治療してやればよい」といわれ、三年ほど働けば借金も返せるし、お金も儲けられるということでした。募集人員は二十五人で、私はクムスンと一緒に志願しました。~(中略)~陰暦の十二月ごろでしたが、その後、紹介所でしばらくの間、船が来るのを待ちました。(P.256)

 ソウルを発つとき、朴氏と金氏、趙氏の引率する私たち二十五人と、ハヤシという男の引率する二十五人の合わせて五十人の女がいました。夜に釜山に到着してすぐ船に乗りました。下関に到着後、船の中で一晩すごしました。~(中略)~下関から更に南へ向かい、到着するまで一度も船を乗りかえることはありませんでした。船は軍艦で、食堂や劇場、病院、風呂もあり、馬まで乗せていました。(P.257)

事務室には私たちを連れて来た朴氏と金氏、趙氏がいて、毎朝、券の計算をしました。(P.259)
2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房
 1919年(戸籍上、1920年)4月20日、全羅北道茂朱郡で農業を営む両親のもと、6人姉妹の3女として生まれる。普通学校に2年生まで通ったが、学校に行くのが嫌でやめ、その後夜学でハングルを学んだ。
 16歳のとき、貧しい家に嫁いだものの逃げ帰り、18歳(1936年)で再び金持ちの家に後妻として入る。夫は家柄も良く財産もあったが、非常に嫉妬心が強く、酒が入ると殴られた。2年後の20歳のときに息子を産んだ。夫は2年間、日本に出稼ぎに行って帰ってくると猜疑心も酷くなっており、虐待を受けたあげくには息子を取り上げ、業者にハルモニを売り渡した。23歳になった年(1941年)の10月頃だった。
 ソウルにある紹介所で慰問団の募集の噂を聞いて、夫が受け取った身売り金を早く返し、強制的に別れさせらえれた幼い息子と一緒に暮らしたい一念で志願した。野戦病院で軍人たちの服を洗濯したり負傷軍人を看護したりする仕事で、およそ3年も働けば借金も返せるとのことだった。ソウルを出発した後、釜山を通って下関まで行き、そのまま軍艦で1ヵ月半かけて到着したのが南太平洋最南端の激戦地パプア・ニューギニアのラバウルだった。
 軍人を相手にするなど、夢にも思わなかった。食事のとき以外は部屋から出ることもなく、内から戸を閉めた。慰問所の主人が探しにきては「そんなことをしてどうやって借金を返すつもりだ」と脅した。逃げようにも四方を海に囲まれていて、逃げることもできなかった。
 「しずこ」と呼ばれ、1日に20~30人ほどの相手をしながら「慰安婦」生活を送った。軍人には必ず日本語を使えと、慰安所の主人から熱心に日本語を教えられた。性病にかかる人も多く、野戦病院から週に1度、検診に来た。性病にかかると606号注射を打って1週間ほど治療を受けるが、このときばかりは「休暇」の札を下げることができた。ハルモニは、生理のときにもそうしたそうだ。(P.132~133)

(※2007.4.26 追加)

◆◆◆ 金卿順(キム・キョンスン) ◆◆◆


崔明順(チェ・ミョンスン)(仮名)と同一人物


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1926年、ソウル生まれ。父が借金の保証人になって失敗して以降、苦しい生活を送る。1945年19歳のとき町内会の人が来て、「家でぶらぶらしているのなら就職したらどうだ」と言われて、反対する母を無視してこっそり家を出る。その後、広島のスハラという将校の妾にされる。何度も朝鮮に帰してくれと懇願したところ、妾にされて2ヶ月後、日本人二人に引き渡され大阪の慰安所に入れられる。4ヶ月後、病いが重くなった為、朝鮮に帰される。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

将校の妾になった後、将校の息子に日本人二人に引渡されて慰安所に入れられる。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)


【考察】

町内会の人に騙されて妾として売られたと言う話です。最初、広島のスハラという軍人の女中兼妾にされますが、そこの主人や奥さん、息子に、何度も何度も朝鮮に帰してくれと懇願していて、それが疎まれて慰安所に入れられてしまったようです。主人の奥さんは病気で寝ていたようで、おそらく、妾を持つことを奥さんも承知の上だったのではないでしょうか。その奥さんに対しても「私がいるから主人が奥さんのところに行かないと思うんです。私を朝鮮に帰せば主人は奥さんを愛するようになるでしょう」と言っていたようで、次第に奥さんも癇癪を起こして同女に対してつんけんするようになり、それでも、同じことを言い続けていたようです。

そもそも、戦地での強姦等を防止用に設置された慰安所が大阪にあったという事実は信じがたいものです。単なる売春宿だったのではないかと思います。 2007.6.27削除

--------------------以下 2007.6.27追加 --------------------

同女は、大阪の慰安所に入れられたと証言しています(注1)。
大阪なら、近くの歓楽街に繰り出せば済む話ですし、性病防止の為なら釧路(注2)のケースのように、遊郭から衛生状況の良い店を選んで指定すれば良い話です。

また、仮に大阪にあったとして、同女の証言によると、慰安所の入り口には軍人が3、4人いたとあります。そんな人員を裂いてまで慰安所を設置する意味などあるのでしょうか。


(注1)「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」では、「オオサカという言葉を聞いたような気がします」とあり、かなりあいまいなもののようです)

(注2)<第三魚雷雷艇隊戦時日誌 1944年7月>
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 三魚艇隊機密第二号ノ二
 第二 出征中ノ事項
  (ロ) 七月二十日海軍指定食堂及当市遊郭ヲ視察点検シ洗滌室ノ完備其ノ他衛生状況良好ト認ムル所六軒ヲ指定シ兵員ノ慰安所トシ七月二十八日総員ニ対シ衛生講話ヲ行ヒ一般衛生ニ関スル諸注意事項ヲ達シ伝染病及性病患者ノ発生防止ヲ計レリ
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--------------------以上 2007.6.27追加 --------------------


--------------------以下 2007.4.26追加 --------------------
また、「写真記録 破られた沈黙」(以下、「写真」)と「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下「証言」)を比べると次の通り相違点が見られます。

<生年>
○「写真」・・・1927年
○「証言」・・・1926年
→ 当時の韓国では、西暦はあまり重要視されていなかったらしく、生年がずれるのはよくあることのようです。

<姉を連れ去った人物>
○「写真」・・・日本人
○「証言」・・・不明。ただし、「『あの娘は日本人に連行されたのだ』とみんながひそひそ話をしているのを聞いたことがあります」とあり。
→ 「写真」では、日本人であったと明示していますが、「証言」では単なる噂話になっています。

<家の状況>
○「写真」・・・「お父さんは煙草の専売局に勤めていたので、貧しくはなかったのです」
○「証言」・・・「父が他人の借金の保証人になって失敗して以後、間借り住まいをしながら何度も引っ越しをくり返し、生活の苦しかったことを覚えています」
→ 家の状況は正反対です。

<学校をやめた理由>
○「写真」・・・落第させられそうになったため
○「証拠」・・・引っ越しして学校が遠くなり、月謝も払えなくなったため
→ 貧乏であったことを明らかにした為、学校をやめた理由も本当の内容に変更したのでしょう。

<徴用で取られて広島にいた兄>
○「写真」・・・一番上のお兄さん
○「証言」・・・次兄(長兄は金儲けをする為に満州に行った)
→ 何故、こんなところで食い違いが生じるのでしょうか。

<慰安婦になったきっかけ>
○「写真」・・・役所に勤めている日本人に「日本に金儲けに行かないか」と誘われる
○「証言」・・・町内会の男に「日本に行って働けば金も稼げる」と言われる
→ 役所の日本人が町内会の男に代わっています。
 なお、双方とも、具体的に何の仕事をすると言われたのか全く記載されていません。本当に「金儲け」としか聞いていなかったのなら、あまりに軽率。それとも具体的に書けない理由でもあるのでしょうか。

<一緒に誘いに乗った娘>
○「写真」・・・隣の家の娘
○「証言」・・・該当する記述はなく、同女1人だったと思われる
→ なお、「写真」では、一緒に働きに行こうとしたと記載されているだけで、その後、隣の家の娘は一切出てきません。

<下関で引渡された人物>
○「写真」・・・将校の「スハラ」
○「証言」・・・2人の日本人(この日本人達に「スハラ」の家まで連れていかれる)

<広島にいた兄の死んだ日>
○「写真」・・・1945年11月
○「証言」・・・故郷に帰ってきた翌年
→ この兄は広島で原爆にあって、それが原因で死亡しているのですが、「翌年」だと1946年以降になります。
--------------------以上 2007.4.26追加 --------------------


【信憑性】

慰安所に入れられたという話は信じがたく、単に売春宿に売られてのではないでしょうか。所々、ウソが紛れていそうです。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 私はソウル(当時は「京城」)で生まれ、お兄さん2人・お姉さん1人の4人兄弟でした。
 そのお姉さんは、15歳で日本人に引っ張られて行き、しばらく行方不明になりました。3年目の春に帰って来ましたが、病気にかかっていました。お母さんはこのことを他の人に秘密にするため引っ越しをしました。結局、お姉さんはその年の秋に亡くなってしまったのです。
 私は12歳で「普通学校」に入りましたが、5年生の時に落第させられそうになったのでやめてしまいました。
 18歳の頃の私は「顔がきれいだ」と評判でした。それで、役所に勤めている日本人に目を付けられて「日本に金儲けに行かないか」と誘われました。お母さんは、お姉さんが引っ張られたためにみじめに死んだことを話して断りました。しかも、お父さんは煙草の専売局に勤めていたので、貧しくなかったのです。
 一番上のお兄さんが、戦争が始まってから「徴用」にとられて広島にいました。その日本人は「お兄さんにも会わせる」と言いました。それで私は、隣の家の娘と2人で働きに行こうと思ったのです。1945年正月のことでした。
 釜山から船に乗りましたが、たくさんの朝鮮人女性が乗っていました。~(中略)~
 下関に着いたのは夕方で、船から降りると髭をはやして体格の良い日本人に引渡されました。恐ろしい思いをしたまま連れて行かれたのは、広島にあるその男の家でした。こたつで体を温めてからの、夕食のご飯とみそ汁がおいしかったです。
 ところがその夜、その男に体を奪われたのです。とても痛かったのですが、声も出ませんでした。その家の他の部屋には、その男の病気の妻がいたのです。この男は「スハラ」という名前で、部屋には星の付いた将校の軍服・刀・馬に乗る時の鞭が置いてありました。~(中略)~
 「スハラ」は私をかわいがってくれたものの、いくら「帰してくれ」と頼んでも聞いてくれませんでした。それだけでなく、2人の男に私を引き渡したのです。私は大阪の倉庫に連れて行かれました。
 そこの入り口には歩哨が立っていて、事務所ではやって来た兵隊から切符を受け取っていました。建物の中は小さく区切った部屋がありました。部屋の数は通路の片側に10ずつでしたので、20部屋くらいでした。部屋は布団1枚敷けるだけの広さで、私は炊事場の隣でした。炊事場の向かいが便所でした。~(中略)~
 お兄さんは広島で原爆に遇い、肋骨が折れただけでなく体全体が膿んでしまいました。帰国したものの、1945年11月に亡くなりました。(P.93~94)

(※2007.4.26追加)
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 私はソウル駅前東子洞82番地で生まれました。私の上には姉と二人の兄がいました。父が他人の借金の保証人になって失敗して以後、間借り住まいをしながら何度も引っ越しをくり返し、生活の苦しかったことを覚えています。~(中略)~
 私が九歳くらいになった頃、長兄と姉は学校に通っていました。姉は私より八歳年上でしたがたいそうきれいだったので、みんなから「姉さんの半分くらいでもなれればいいのに」とよく言われたものです。ところがある日、その姉が行方不明になりました。~(中略)~
 そして二、三年が過ぎた頃、姉は乞食のような姿で家に帰って来ました。骨だけのやせさればえた姉を一目見るために、何十人もの人が押し寄せました。みんなは女がきれいすぎると不幸になるのだと言いました。私が母の使いで出かけたとき、「あの娘は日本人に連行されたのだ」とみんながひそひそ話しをしているのを聞いたことがあります。~(中略)~
 当時長兄は結婚していましたが適当な仕事もなく、次兄は印刷所に勤めていました。私は小さい時からとりわけ次兄と仲が良く、次兄のいうことなら何でもしたし、兄も私のいうことを何でも聞いてくれました。両親よりも好きだった次兄は、二十歳になると徴用されて行きました。その後長兄は金をもうけるのだと自分の家族を連れて満州へ行き、結局両親と私だけが残りました。~(中略)~
 また他の町へ越したのが一九四五年、私が満十九歳になった年でした。新暦の正月だと記憶してますが、町内会の男が来て、「家でぶらぶらしているのなら就職したらどうだ」と言いました。もしも何もしないで家にいたら、挺身隊に出されて行くことになるだろう。日本に行って働けば金も稼げるし、挺身隊にも行かないですむからと言うのです。~(中略)~母に行くなと言われたのに夜通しあれこれ考えた末、こっそり身の回りの物を包んで、母が出かけている間に町内会の男を訪ねて行きました。~(中略)~一晩中汽車に乗って釜山で下りると、その男は二人の日本人の男に私を引き渡しました。(P.270~P.272)

 汽車から下りて二人の日本人の男が私をある家に連れて行きました。四十歳ぐらいの日本人の男が私を見て笑いながらとても喜びました。~(中略)~家の中を見わたしてみると、病気で寝ている奥さんと、二十歳ぐらいの息子がいました。~(中略)~それから後、主人は毎夜私と寝ました。~(中略)~主人の姓は「スハラ」といい、息子は「ジロウ」といいました。スハラは軍人でしたが、朝に軍服を着て出かけるのを見ると、肩には赤い布の上に星がついた階級章がありました。(P.274~275)

 ある日、スハラが朝出かけたあと、奥さんと息子とが一緒にいるとき、またお願いしました。すると奥さんと息子が自分たちだけで何とかするからと言って、息子が私に荷物をまとめろと言いました。~(中略)~私はどこかの駅に連れて行かれました。その息子が日本人二人に何かを言うと、私をその男たちに引き渡しました。(P.276)

 入口で監督する軍人が三、四人いましたが、彼らにもよく叩かれました。(P.278)

 おばさんは私がここはどこかと聞いても、そんなことは聞いてはいけないと言いましたが、でもちらっとオオサカという言葉を聞いたような気がします。(P.279)

 そうするうち次兄が日本から帰ってきましたが、広島で原爆が落とされたとき火傷を負い、体が腫れあがっていました。被爆した兄は、肋骨がボロボロに砕けて、翌年亡くなりました。(P.282)


◆◆◆ 金学順(キム・ハクスン) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1924.10.20、中国東北(満州)の吉林省に生まれる。生後間もなく父が他界し、2歳の時、母に連れられ平壌へ。14歳のとき母が再婚し、15歳の時、40円を受け取ってキーセン(※芸妓、芸妓兼娼婦のこと)を養成する家の養女となる。17歳の時、キーセン学校を卒業するが、19歳にならないと役所からキーセン許可がおりない為、1941年、養父に連れられ中国に行き慰安婦となり、4ヵ月後に朝鮮人男性と共に逃げ出す。

1991年8月に韓国で初めて慰安婦として名乗りを上げて証言を行い、同12月に文玉珠(ムン・オクチュ)、金田きみ子(仮名)らと共に日本政府に謝罪と補償を求め東京地裁に提訴。2004.11月に最高裁棄却により敗訴が確定した。(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟)
1997.12.16死去


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

北京で軍人に連行され、慰安所に入れられる。


【考察】

下記資料を見ると、1991.8.11の朝日新聞の記事は「挺身隊+強制連行」と他の資料と全く異なった内容になっています。当該記事については、掲載された数日後には全く異なる証言がなされていること(1991.8.15ハンギョレ新聞)、また、裁判資料も後者の証言と一致していることを考えると、多くの方が指摘している通り朝日新聞の記事は記者による歪曲でしょう。なお、当該記者は慰安婦裁判の原告である「太平洋戦争犠牲者遺族会」の常任理事の娘婿でした。


また、「裁判の訴状」(以下、「裁判」)と「金学順(キム・ハクスン)さんの証言」(以下、「金学」)、及び、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下、「証言」)の内容を比べると下記の通り、相違点が見受けられます。

<父の死亡理由等>
 ○「裁判」・・・死亡理由の記載なし
 ○「金学」・・・三・一独立運動に参加した独立運動家で、日本軍の銃に撃たれて亡くなった
 ○「証言」・・・独立運動をしていたとは記載されているが、死亡理由については、「どのように亡くなったかくわしい事情は分かりません」と記載。
 →「金学」だけ日本軍に殺されたことになっています。

<キーセンになった理由>
 ○「裁判」・・・理由の記載なし
 ○「金学」・・・母の再婚相手が嫌で家を飛び出した後、一人で稼がなければならなかったから
 ○「証言」・・・母が同女をキーセンを養成する家の養女に出した
 → 「金学」では、家出して自ら養女になった話だったのが、「証言」では、母が養女に出したことに変更されています。

<中国へ向かうことになった年>
 ○「裁判」・・・1939年数え17歳
 ○「金学」・・・17歳(西暦の記載なし)
 ○「証言」・・・1941年満17歳
 → 17歳は一致していますが、西暦は異なっています。同女は1924年生まれなので、17歳が数え年なら1939年、満年齢なら1941年になります。どちらが正しいのでしょうか?

<朝鮮ではキーセンの許可が降りなくて養父に連れられ向かう地>
 ○「裁判」・・・「そこへ行けば金儲けできる」とだけ書かれており、「そこ」が中国をさすのか「鉄壁鎮」をさすのか不明。
 ○「金学」・・・満州(※満州に行く途中の北京で連行される)
 ○「証言」・・・中国
 → 「裁判」では、最初から「鉄壁鎮の慰安所を目指していた」とも読み取れる内容になっています。
また、同女の働いていた慰安所は「鉄壁鎮」という場所にあり、鉄壁鎮とは満州の鉄壁鎮のことでしょう。つまり、「金学」では、北京で軍人に連行された後に図らずとも目的地に辿り着いたことになっています。それではまずいと言うことで「証言」では目的地を漠然とした「中国」に変えたのでしょうか。

<北京で日本の軍人に職務質問を受けるのが>
 ○「裁判」・・・職務質問、および、それに連なる強制連行の話は出てこない
 ○「金学」・・・食堂で食事をとろうとしている時
 ○「証言」・・・食堂で昼食をとり出てくる時
 → 「金学」、「証言」では、「裁判」にはない「北京で軍人に捕まった」という情報が追加されています。ただし、上記の「金学」と「証言」は微妙な違いですが。

<職務質問をした将校が>
 ○「裁判」・・・職務質問、および、それに連なる強制連行の話は出てこない
 ○「金学」・・・長い刀を背中にしょっていて、その刀を養父につきつけたり振り回したりする
 ○「証言」・・・刀の話は出てこない
 → 刀を背中にしょってる将校などありえない話なので「証言」では削除したのでしょう。

<養父と別れた場所>
 ○「裁判」・・・鉄壁鎮(慰安所のあった場所)
 ○「金学」・・・北京
 ○「証言」・・・北京
 →「金学」、「証言」では共に、北京で軍人に捕まって養父と離れ離れになります。養父と鉄壁鎮で分かれたとしている「裁判」とは大きな違いです。

「裁判」と「金学」、「証言」との一番大きな相違は、「北京での軍人による強制連行」の有無です。
「裁判」では、鉄壁鎮まで養父と一緒に行って、そこで別れて慰安所に入れられたのが、「金学」、「証言」では、北京で軍人に捕らえられ、、そこから鉄壁鎮の慰安所に連行されたことになっています。
如何にも、後から取って付けた話です。


--------------- 以下 2007.6.23追加 ----------------------
<ご参考>

「強制連行あった派」の吉見義明氏は「『従軍慰安婦』をめぐる30のウソと真実」(吉見義明・川田文子編/大月書店/1997.6)で以下のように述べています。

 問題は慰安婦にされた事情だが、『証言』では、養父は北京で日本軍将校にスパイと疑われてつれて行かれ、彼女は別の軍人によって慰安所に連行されたと記されている。しかし、かせぐために中国につれて行かれたとすれば、養父に売られた可能性があるとみるのが自然だろう。(P.75)
--------------- 以上 2007.6.23追加 ----------------------


--------------- 以下 2007.7.12追加 ----------------------
<連行関連の証言の変遷>

1991.12 「裁判の訴状」

 養父に「金儲けができる」と説得され、トラックに乗せられて平壌駅で軍用列車に乗り換え中国の鉄壁鎮に行く。そこで養父と別れた後、慰安所に入れられる。

 → 特に強制連行を示す内容はありません。ただし、軍用列車に乗ったと証言して、若干、軍の関与を匂わせています。


1992.4 「元兵士たち証言 従軍慰安婦」

 部落の人が日本の警察官と一緒にやってきて、「お金がたくさん稼げるところがある」と説得される。その後、トラックと軍用列車で中国に連れて行かれ、鉄壁鎮の慰安所に入れられる。

 → 養女になってキーセン学校に通っていたことは、同書では語られていません。「部落の人」=「養父」でしょうか?(なお、同書からは、その「部落の人」が中国まで一緒に行ったかどうかは不明。)
 また、金儲けできると同女を勧誘した時の人物に「日本の警察官」が加わっています。公権力の関与の度合が増しました。

 なお、似た内容の証言をしている「1991.12.25朝日新聞」の記事では、「部落の人」が「地区の仕事をする人」と表現されていて、警察官は出てきません。

 さらに、同書では、「十七歳になると女の子は軍隊に連れていかれるというので、どの家でも、娘が十七歳になる前に結婚させていました。それで、私は十七歳になると、母は心配しました」と、他の証言では見られない「処女供出」の情報が追加されています。同女は、「処女供出政策の一環で騙されて慰安婦にさせられた」と主張したいのでしょうか。


1993.10 「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」

 養父が「中国に行けば稼ぐことができるだろう」と言い、養父に連れられ平壌から汽車に乗って中国に行く。北京で日本の軍人に捕まり、同女は鉄壁鎮の慰安所に連行される。

 → 養父、もしくは、部落の人に騙されて慰安所に入れられた話だったのが、北京についた後に「日本の軍人に捕まった」という情報が追加されました。詐欺でもなんでもなく、完全な強制連行です。
また、今まで「軍用列車」に乗ったと言っていたのが「汽車」になり、さらに、「裁判の訴状」では、慰安所のあった鉄壁鎮で養父と別れたはずが、北京で離れ離れになったことに変更されました。


同女の証言の変遷を見ていると、「どうやって強制連行を話に盛り込むか」と試行錯誤している様がありありと見えてくるようです。

「裁判の訴状」の後、一旦、地元で公権力に騙されたことに変更したものの、結局、中国で日本兵に強制連行されたことに変更。より、強制色の強い方が良いと考えたのでしょうか。

また、中国で強制連行されたことにした結果、移動時に軍用列車を使用したのが、ただの汽車に変更され、勧誘時の日本の警察官も出てきません。中国に到着する以前で、軍や公権力の関与を匂わす必要がなくなったからでしょう。

なお、「中国で強制連行」話は、1992.8月刊行の「証言 従軍慰安婦・女子勤労挺身隊」で登場し、以降、「中国で強制連行」に証言は統一されています。どうやら、この頃に、同女の強制連行話は完成したようです。ちなみに、「証言 従軍慰安婦・女子勤労挺身隊」以降、私が知る限り、ただの「汽車」は出てきても「軍用列車」は出てきませんし、勧誘時の日本の警察官も出てきません。
--------------- 以上 2007.7.12追加 ----------------------


【信憑性】

同女の証言する強制連行は信憑性が全くないと言えるでしょう。
養父に売られた後、キーセン学校を卒業したものの朝鮮で営業できなかった為に、中国に行って慰安所に入れたという話で、その他の部分は信憑性があると思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1991.8.11 朝日新聞 (大阪版) ***** ****
日中戦争や第二次大戦の際、女子挺身隊の戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会(尹貞玉・共同代表 十六団体約三〇万人)が聞き取り調査を始めた。
1991.8.15 ハンギョレ新聞 ***** ****
生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番に売られていった。三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった

(※管理人注:キーセン検番・・・キーセンの養成学校。)
1991.12 裁判訴状 ***** ****
原告金学順(以下、「金学順」という。)は、一九二三年中国東北地方の吉林省で生まれたが、同人誕生後、父がまもなく死亡したため、母と共に親戚のいる平壌へ戻り、普通学校にも四年生まで通った。母は家政婦などをしていたが、家が貧乏なため、金学順も普通学校を辞め、子守りや手伝いなどをしていた。金泰元という人の養女となり、一四歳からキーセン学校に三年間通ったが、一九三九年一七歳(数え)の春「そこへ行けば金儲けができる」と説得され、金学順の同僚で一歳年上の女性(エミ子といった)と共に養父に連れられて中国に渡った。トラックに乗って平壌駅に行き、そこから軍人しか乗っていない軍用列車に三日間乗せられた。何度も乗り換えたが、安東と北京を通ったこと、到着したところが、「北支」「カッカ県」「鉄壁鎮」であるとしかわからなかった。「鉄壁鎮」は夜着いた。小さな部落だった。養父とはそこで別れた。金学順らは中国人の家に将校に案内され、部屋に入れられ鍵を掛けられた。そのとき初めて「しまった」と思った。翌日の朝、馬の嘶きが聞こえた。隣の部屋にも三人の朝鮮人女性がいた。話をすると、「何とバカなことをしたか」といわれ、何とか逃げなければと思ったが、まわりは軍人で一杯のようだった。その日の朝のうちに将校が来た。一緒に来たエミ子と別にされ、「心配するな、いうとおりにせよ」といわれ、そして、「服を脱げ」と命令された。暴力を振るわれ従うしかなかったが、思い出すのがとても辛い。
1991.12.25 朝日新聞 ***** ****
「私は満州(現中国東北部)の吉林省の田舎で生まれました。父が、独立軍の仕事を助ける民間人だったので満州にいたのです。私が生後100日位の時、父が死に、その後、母と私は平壌へ行きました。貧しくて学校は、普通学校(小学校)4年で、やめました。その後は子守をしたりして暮らしていました」
『そこへ行けば金もうけができる』。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。仕事の中身はいいませんでした。近くの友人と2人、誘いに乗りました。17歳(数え)の春(1939年)でした」
平壌駅から軍人達と一緒の列車に乗せられ、3日間。北京を経て、小さな集落に連れて行かれました。怖かったけれど、我慢しました。真っ暗い夜でした。私と、友人は将校のような人に、中国人が使っていた空き家の暗い部屋に閉じ込められたのです。鍵をかけられてしまいました。しまったと思いました」
「将校は私を暗い部屋に連れて行って、『服を脱げ』と言いました。恐ろしくて、従うしかありませんでした。そのときのことはしゃべることさえ出来ません。夜明け前、目が覚めると将校が横で寝ていました。殺したかった。でも、出来ませんでした。私が連れて行かれたところは、「北支(中国北部)カッカ県テッペキチン』というところだということが後で分かりました」~(中略)~

日本政府がウソを言うのがゆるせない。生き証人がここで証言しているじゃないですか
1992 『強制連行と従軍慰安婦』日本図書センター一九九二年刊収録 平林久枝編 ****
養父に連れられ、北支のカッカ県鉄壁鎮に行き慰安婦になった
1992.4 従軍慰安婦 元兵士たちの証言 西野留美子 明石書店
 私は、満州の吉林で生まれました。私が生まれて百日もたたないうちに、父は亡くなりました。大きくなるにつれ、私は教会に行くようになりました。今思うと、貧乏だったけれど、母と一緒で幸せなときだったかもしれません。
 その頃、十七歳になると女の子は軍隊に連れていかれるというので、どの家でも、娘が十七歳になる前に結婚させていました。それで、私は十七歳になると、母は心配しました
 ある日のことです。部落の人が、日本の警察官と一緒にやってきました。
「お金がたくさん稼げるところがある」
 説得され、とうとうトラックに乗りました。同じ部落の一歳年上の友だちといっしょでした。トラックから軍用列車に乗りかえ、三日ほどして着いた所は、中国でした。(「北支」「カッカ県」「鉄壁鎮」)。
 反抗すると殴られるし、「殺す」と言われ、とにかくわけも分からないまま中国の家に連れて行かれました。そこで、まっ暗な部屋のなかに二人は入れられました。
「お姉さん、どうしよう・・・・・・」
 部落からいっしょにきた友だちは一歳年上なので、お姉さんと呼んでいました。どうする術もなくただ暗闇のなかでおどおどしていました。するととつぜん、戸口から明るい光が入ってきました。昼間、私たちをトラックに乗せてここまで連れてきた日本人の将校でした。明りは、ろうそくの火でした。怖くて部屋の隅にうずくまっていますと、その将校は私の腕を引っ張りました。いやがる私を蹴ったり、脅かしたりして、となりの部屋に連れて行きました。
 部屋といっても、壁もない、ドアもない。ただ、カーテンがわりの布一枚で仕切ってあるだけでした。将校は、私に言いました。
「服を脱げ!」(P.113~114)

(※2007.7.12 追加) 
1992.8 <証言>従軍慰安婦・女性勤労挺身隊 伊藤孝司 風媒社
父は独立運動をしていたために、朝鮮では暮らす事ができず、「満州(中国東北地方)」へ行きました。父はそこで母と出会い、私は吉林省で生まれました。ですが、私が生まれて一〇〇日目のお祝いもしないうちに、父は死んだのです。原因は知りません。ですから兄弟はいません。(P.128)

 そのため、母の希望もあったし、一四歳で平壌の「妓生券番学校」という有名なキーセンになるための学校に入ったんです。ここでは舞踊・歌、チャングやカヤグムなどの楽器、書道から道徳まで勉強しました。学校は数百人いて、一緒に八~九人が卒業しました。三年間通って卒業証書をもらいました。
 この学校に入るにはお金がたくさん必要だったので、金泰元(キム・テウォン)という天安(テアン)出身の人の養女になって、お金を出してもらっていました。
 卒業した年に、この養父ともう一人の自分より一歳上の娘と一緒に、中国へ行ったんです。養父は娘二人を使って金儲けしようとしたらしいのです。
 ところが、着いてすぐに日本軍の兵隊が来て私たちを取り囲み、養父を地面に引きずって座らせ、日本刀で脅したんです。殺さんばかりでした。将校が「娘たちを連れて行け」と兵隊に命令したので、私たちは連れて行かれました。だから、養父がその後どうなったのかわかりません。(P.129~130)
(※2007.4.6情報追加)
1993.2 金学順(キム・ハクスン)さんの証言 -「従軍慰安婦問題」を問う- 解放出版社編 解放出版社
 父は三・一独立運動に参加した独立運動家と聞いています。~(中略)~ところが私が生まれて一〇〇日もたたない間に、父は日本軍の銃で撃たれて亡くなったのです。(P.9~10)
 
 そうこうするうちに、誰かの世話で母が再婚することになりましたが、私はどう考えても母と一緒になった男性を父と呼ぶことができませんでした。そこで家を飛びだしてしまったのです。私が十四歳のときです。
 こうして私は一人でお金を稼がねばならなくなったのです。どうやって稼ごうかと考えた末に、キーセンの修行のできる家の養女になったのです。
 養父がたくさんのお金を出してくれて、歌や踊りを十七歳になるまで、ピョンヤンにある学校で三年間習いました。(P.13~14)

 当時はキーセンも検番の許可を受けないと仕事ができませんでした。しかも、十七歳では許可がおりなかったのです。一九歳でないと許可がおりないんです。
 そこで養父が「どこかに行ってお金を稼がねばならん。ピョンヤンでは暮らしていけないから、満州へ行こう」と言いました。私も「お金を稼がねば」と思って「満州」にいくことになったのです。(P.15)

 「満州」へ行くのは大変でした。私たち三人を乗せた汽車は新義州を出発して安東(アントン)橋を渡っていきました。~(中略)~
 中国に入ると、そこは日本軍が監視していて誰でも行けるところではありませんでした。そうこうするうちに私たちは日本兵に捕まりましたが、養父がどんな手を使ったのか知りませんが、私たちは釈放されて、そこから養父と汽車に乗って北の方に行きました。北に向かってたぶん、三日間は汽車に乗っていたと思います。そして着いたところが、北京でした。~(中略)~
 ある日、食堂で食事をとろうとしている時日本軍の将校に見つかってしまいました。~(中略)~将校は長い刀を背中にしょっていたのですが、その刀を抜いてつきつけて養父を離れたところに連れて、ひざまずかせました。何をいっているのか知りませんが、刀をふりまわしていました。(P.16~17)

 私たちはそのまま軍人につかまって、道ばたに止めてあった軍用トラックに乗せられたのです。(P.18)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 卒業した年に、この養父と私より1歳上の娘と一緒に中国へ行ったのです。養父は娘2人を使って金儲けしようとしたらしいのです。ところが、着いてすぐに日本軍の将校と兵隊が私たちを取り囲み、養父を地面に引きずって座らせ日本刀で脅したのです。殺さんばかりでした。「娘たちを連れて行け」と将校が兵隊に命令しました。
 私たちは「北支」の獲鹿県の部隊に連れて行かれました。そこは最前線だったので、連れられて行く途中にも「襲撃だ」と言われてトラックの下に隠れたのです。弾が、頭の上をかすめて飛んで行きました。(P84)

(※2004.4.23追加)
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 母が私を中国で一九二四年に産んで、その後百日もたたずに父が亡くなったといいます。どのように亡くなったかくわしい事情はわかりません。(P.42)

 母は私をキーセンを養成する家の養女に出しました。~(中略)~母は養父から四〇円をもらい、何年かの契約で私をその家に置いていったと記憶しています。(P.43)

 券番から卒業証書を貰えれば正式に妓生になって営業することができるのでした。ところが十九歳にならないと役所から妓生許可が下りないのです。卒業した年、私は十七歳だったので卒業しても営業することができませんでした。それで養父は私を連れてあちこち駆けずりまわり、許可を得ようと必死でした。私が年齢より体が大きかったので、養父は年を大目に話したのですが、役所からは実際の年が十七歳だからだめだと言われました。
 国内では私たちを連れて営業できなかったので、養父は中国に行けば稼げるだろうと言いました。それで養家で一緒に妓生になるための習い事を習った姉さんと私は、養父に連れられて中国へ行くことになりました一九四一年、私が十七歳になった年でした。養父は中国へ発つ前に母に連絡して中国へ行くことを承諾してもらいました。出発する日、母は黄色いセーターを買って来てくれて、平壌駅まで出て来て見送ってくれました。
 平壌で汽車に乗って新義州から安東橋を渡りサンヘグァンへ行く時、養父が日本の憲兵に検問されました。養父は検問所に入って何時間か後に出て来ました。それからまた何日か汽車に乗って行きました。途中汽車の中で寝たり、旅館で寝たりしました。北京に行けば良い商売になると言って、養父は私たちを連れて北京まで行きました。~(中略)~
 北京に到着して食堂で昼食をとり、食堂から出てきたときに、日本の軍人が養父を呼び止めました。~(中略)~姉さんと私は別の軍人に連行されました(P.44~45)
1997.12.16 共同通信 ***** ****
金さんは旧満州(現中国東北地方)で生まれ、平壌で育ったが、十七歳の時の春に、日本の軍人に強制的にトラックに乗せられ、中国大陸の前線に連れて行かれたと証言
2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
(※管理人注:同書の内容は「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」を転載したもので内容は同じ)

◆◆◆ 金順徳(キム・スンドク) ◆◆◆


※金徳鎮(キム・ドクチン)(仮名)と同一人物


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1921年慶尚南道生まれ。父親はタバコの密造(あくまで自分で吸っていただけ)がばれて日本の巡査に捕らえられ、鞭でひどく打たれて帰ってきた後、病にかかり死亡。以降、飢え死に寸前の苦しい生活となる。12歳の時、普州の銀行員の家で女中となり16歳まで働く。1937年17歳の時、日本の工場で働く女工の募集している朝鮮人の男に騙され、長崎に行きそこで軍人に強姦される。1週間後、上海に向かいそこで慰安所に入れられる。引率してきた朝鮮人が慰安所の経営者であった。
1940年、親しくしていた「イズミ」という軍人の好意により親友4人と共に帰郷する。

2004.6.10死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

釜山で、引率が騙した男から朝鮮の男女二人に代わる。そこから長崎に行き旅館で1週間過ごすが軍人の監視がつき、同女は階級の高い軍人に強姦される。同女たちを引率した朝鮮人が慰安所の経営者。


【考察】

慰安所までの移動途中で、軍人の関与があるのは長崎だけです。もし、軍の関与があって逃げないように監視が必要と考えていたなら、長崎のみで監視がついたのは疑問です。
また、証言では、長崎で毎晩のように軍人達に強姦され、同女の質問に対して軍人が「命令がおりなければどこへ行くのかわからない。何をするかは行ってみればわかる」と答え、軍人達が彼女達を慰安婦として働かすことを知っていたと思われる発言もしています。

長崎でだけ軍の関与を示唆する記述があるのも奇妙で、後からの追加ではないかと疑いたくなります。

-------------以下 2007.4.12追加---------------------------
また、下記資料の「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(1993)(以下、「証言」)と「高槻私立総合総合市民交流センター『金順徳さんの証言を聞く会』」(2003)(以下、「高槻」を比べると下記の通り相違点があります。

<騙された仕事>
○「証言」・・・日本の工場で働かせる
○「高槻」・・・準看護婦

<長崎での強姦>
○「証言」・・・長崎で滞在していた1週間、毎晩、軍人に強姦される
○「高槻」・・・長崎経由とあるだけで、該当する記述なし
→ 「高槻」では、単に省略しただけかも知れませんが。

<追加された日本軍人の残虐行為>
○「証言」・・・該当する記述なし
○「高槻」・・・以下の証言が追加されている
   ・中国人の足を焼いて作った薬を飲まされる
   ・トラックに首をぶら下げていた
   ・南京には「人なら誰でも殺せ」命令が出ていた。
   ・「ミナミナコロセ!」「ヒトヒト、シナジン、ミナミナコロセ!」韓国の学校でもこの言葉が唱えられた。
→ 証言内容がエスカレートして過激さが増しています。韓国の学校で「ミナミナコロセ」等と唱えられた等、ありえないでしょう。

-------------以下 2007.4.15追加-------------------------
さらに、「私は「慰安婦」ではない」(1997)では、「証言」では「朝鮮の男が日本の工場で仕事をする女を募集していたので応募した」という話だったのが、「処女供出」の情報が追加され、「妹が「供出」されるくらいなら自分が行く方がましだという思」って自ら志願した話になっています。そして、志願した時に聞いた仕事内容が「臨時の看護婦をしたり、軍人の服を縫製したり、そういう軍に関係する」と、工場で働くのとは全く異なる内容になっています。

また、この頃より、「中国の軍人の足を焼いて作った薬を飲まされた」という話が追加されているようです。
-------------以上 2007.4.15追加-------------------------

-------------以上 2007.4.12追加---------------------------



【信憑性】

もともとは、工場の女工に応募した話が、妹の代わりに自ら処女供出に志願したという話に変更され、また、後の証言になるほど過激な情報も追加しているようです。
信憑性はありません。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 私が十七歳の年(一九三七年)の陰暦正月中旬か二月の初めのころでした。就職を斡旋するので娘たちを募集するという話を聞いて「私も行こう」と考えていました。そうしたある日、朝鮮の男日本の工場で仕事する女を募集しに、また坪村に来たという話を聞きました。私は坪村に行ってその人に会い、日本に行く約束をしました。(P.59)

 釜山から船に乗ると引率者が新たに朝鮮の男女二人に替わりました。~(中略)~長崎に到着するとバスのような車が来たので、私たち一行はそれに乗って旅館に行きました。旅館に入ったその日から、軍人が私たちを監視しました。~(中略)~最初の晩、私は階級の高い軍人に連れて行かれ強姦されました。~(中略)~毎晩階級の高い軍人たちの部屋にあっちこっちとひっぱっられて行かれ強姦されました。五日ぐらい過ぎた時、私は軍人に「なぜ私たちを男の部屋に連れ回すのですか?私たちがこれからするのはどんな仕事ですか?男と寝ることなんですか」と責め寄りました。すると、「命令がおりなければどこへ行くのかわからない。何をするかは行ってみればわかる」と言われました。こうして一週間過ごした後、出発することになりました。(P.60~61)

 私たちを引率して来た朝鮮人が経営者のようでしたが、軍人が食べる物や家の衛生面の検査をしに来ました。(P.62)
1997.8 私は「慰安婦」ではない
日本の侵略と性奴隷
「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」実行委員会 東方出版
そしてまた松茸を採ったり木の種を採ったりして暮らしているうちに騒動が起こりました。それはどういうことかと言いますと、学徒兵、補給兵という名のもとに、日本は韓国人の男たちをたくさん連行して行ったのです。そのうえ「処女供出」ということが出てきました。一家族につき十五歳以上の娘を一人供出しなければ暮らしていけなくさせられました。けれど幼くても結婚していたり「障害」を持っていれば行かなくてもすみ、処女だけが連れて行かれたのです。それでその当時韓国では、まだうら若い娘を急いで結婚させたりしました。道を歩いていても学校でも、とにかくどこからでも連れて行かれたものですから、私は姉の家に行っていました。
 「供出」を恐れてどこかに隠れて逃げている娘たちが多いので、また違うことが出てきました。一家の中で姉を連れて行くなり妹を連れて行くなり、若い娘をとにかく誰か一人は連れて行くという噂出ました。そして私は妹があまりにも幼いので、妹が「供出」されるくらいなら自分が行く方がましだという思いで引率者に会いました。そして、何処でどのような仕事をするのかと尋ねますと、その人が言うには、臨時の看護婦をしたり、軍人の服を縫製したり、そういう軍に関係する仕事をするという話だったのです。それで私は行くことにしました。一九三七年、数え年十七歳の時のことです。(P.40)

 私は毎日の様に血を流していました。病院というところに連れて行かれても出血は止まらず、そこの主人という人が幾つかの薬をくれました。何週かしてやっと出血は止まりました。その何ヶ月か後に主人が、「あの薬を飲んで少しは良くなったか」と聞きましたので、私は「病院に行って軍人たちがくれた薬を飲んで良くなったのか、ここでもらった薬を飲んだためか分からないのですが、出血は止まりました」と答えました。すると主人は「中国の軍人の足を焼いてそれを飲ませてやったんだ」と言ったんです。(P.42)
(※2007.4.15 追加)
1998.4.28 朝日新聞「『慰謝料少なすぎる』 韓国・比関係者」 ***** ****
原告の朴頭理さんと同じ「ナヌムの家」(京畿道広州郡)に住む元慰安婦の金順徳(キムスンドク)さん(七六)は農作業中に(関釜)判決を伝え聞いた。「別にうれしくも何ともない。その後、控訴されたら、判決がどうなるか分からないじゃないか。三十万円なんて、いまどき子供にアイスクリーム代でもあげると思っているのか。金はいらない。重要なのは日本政府の謝罪だ。私も(原告の)朴頭理さ んも死ぬまで闘うよ」と興奮しながらしゃべった。
2001.3.30 朝日新聞「韓国の支援者『右傾化』憂慮」 ***** ****
関釜裁判」控訴審判決に、韓国の元従軍慰安婦や支援団体からは、歴史教科書検定問題と重ね合わせて「日本の右傾化」を心配する声が相次いだ。韓国メディアは有力紙、東亜日報が29日付の早版一面で伝えたが、判決が出た事実を淡々と報じる姿勢が目立った。
 元慰安婦だった被害女性らが一緒に暮らすソウル近郊の「ナヌムの家」にいた金順徳さん(81)は判決を聞きに広島へ向かった原告からの朗報を待っていたが、先にメディアから請求棄却の判決内容を聞かされた。「日本という国は教科書をわい曲し、慰安婦問題でも責任をとらないのか」と叫んだ。
 支援団体の韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会も「今回の判決は歴史教科書の改悪問題と合わせ、日本が右傾化している現実をみせつけた」との声明を発表した。
2001.6.18 朝鮮新報 「日本の歴史わい曲許さない」 ***** ****
南朝鮮の性奴隷被害者、金順徳さん(81)は、11日の集会で17歳の時に日本軍にだまされ南京に連行された体験を話しながら、「犠牲者は今もたくさん生きているのに、教科書から『慰安婦』問題を消すとはどういうことか」と声を荒げた。
(※2007.4.12 追加)
2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房
1937年日本の工場で働く女性を募集しているという話を聞き、日本へ渡ることを決める。ただ工場へお金を稼ぎに行くものとだけ思い、それがとても危険なことだろうとは考えてもみなかったそうだ。
まず釜山までバスと汽車に乗せられ、そこから船で長崎に着いた。ハルモニとともに、30人の女性が連れて来られた。長崎に着いたその日の夜、ハルモニは軍人に強姦されたという。そんなことが毎晩続き、1週間経った頃、再び船に乗せられ、今度は中国の上海へと連れて来られる。一緒に日本へ渡った30人の女性が、一斉に移動させられたのである。そこではすでに、日本人女性2人と朝鮮人女性20人ほどがおり、新しく連れて来られた30人を合わせると、女性の数は50人ほどに達した。その50人のなかで、病気で寝込んでいる人などを除き、毎日平均35人ほどの女性が軍人の相手をさせられた。一日に30~40人の軍人が訪れ、寝る暇もないほどだったそうだ。部隊が移動すると、慰安所も後を追うように前線へと移動し、最後にとどまった所は南京であった。~(中略)~
慰安所生活を送って3年くらい経った1940年、「イズミ」は、ハルモニの体調があまり思わしくないこと、そして、戦闘もますます激しくなるだろうことを心配し、ハルモニに必ず自分が迎えに行くから先に帰郷するようにと言った。そして、ハルモニが一緒に帰ることを希望した4人の女性を含む5人を帰郷させるよう、慰安所の主人に命令した。慰安所の主人は、高級軍人の命令だけに拒むこともできず、ハルモニたちはお金を一銭も受け取れないまま帰郷した。(P.126~127)
(※2007.4.12 追加)
2003.4.4 高槻私立総合総合市民交流センター「金順徳さんの証言を聞く会」 ***** ****
日帝時代、準看護婦として韓国から連れられた。「これからどこへ行くのか?」と聞くと、「日本だ」と言われた。まず、小船で長崎まで行った。長崎から大きい船に乗り換え上海へ。上海に着いたとき「ここはどこなんだ?」と聞いたら「上海だ」と言われた。

そのとき、「誰が中国に来ると言ったんだ!日本に来るんじゃなかったのか!」と泣き叫んだ。日本人は聞くふりをしただけだった。すぐトラックが来て、乗せられた。上海の街中へ連れて行かれた。連れて行かれた所は戦いで家が潰されていた所だった。軍人たちが約50~100人の女性を小さな部屋が何個もある建物の中に入れた。上海から南京にかけては同じような(小さな部屋が何個もある建物)光景が続いてた。

15~17歳の少女たちは性器の所から血を流す。その度に軍が病院に連れて行く。何度も何度も病院に運ぶトラックが「痛い痛い」と叫ぶ少女たちを運んでいった。
私自身は、部屋にうずくまって血が出ていた時、日本人が薬をくれた。
薬を飲んだ後、「良くなったか?」と聞かれた。薬で良くなったのか、病院に行って良くなったのかが分からなかったから、「分からない」と答えた。そしたら薬をくれた日本人は「薬の中には中国人の足を焼いたものが入ってたんだ」と言った。
今でも夢に出てくる。足を切られた中国人が襲いに来る夢を。うなされる。

高位な軍人は慰安小屋に並ばない。高位な軍人のために少女達が集められる。下っ端の軍人が一番可愛い子を探してトラックで連れて行く。
高位な軍人は年寄りだった。はじめて相手をさせられた高位軍人の名前は「イズミ」だった。歳は50歳。その時私は17歳。
一つの戦闘があるごとに違う部隊の兵と相手をさせられた。週に一度身体検査があった。検査をしに行くために黒い布で覆われたトラックで行った。隙間から外を見ると人がいないような景色が広がってる。
人らしき物が見えたので「あれは何?」と聞くと、「このトラックに首がぶら下がってるんだ」と言ってた。
外は軍人だけが歩いていた。酔っているように見えたから「酔ってるの?」と聞けば、「酔ってるんじゃない。気が狂ったんだ」と軍人は言った。「人を殺しすぎて。」

当時南京には「人なら誰でも殺せ」命令が出ていた。
「ミナミナコロセ!」「ヒトヒト、シナジン、ミナミナコロセ!」
韓国の学校でもこの言葉が唱えられた。


未だにこの時の南京の夢を見る。
足を切られた中国人の夢と同じくらいうなされる。

週に一度の身体検査に行けば、少女が何人死んだかを教えてくれる。自殺が多い。薬、首吊り。いつも下(性器)から血が流れて、首を吊ったことがあった。しかし監視役がいたので死ぬことは出来なかった。
高位軍人の相手をしていたので2・3人の監視役がトイレに行く時もついてきた。
戦いの度に車に乗せられ高位軍人の相手をさせられに行っていた。
あまりにもつらかったので軍人に「死にたい」と言った。すると、「日本が勝てば、勉強も出来る」と言われた。
でも耐えれない。

「3・4人で一緒に死ぬと約束した」と言った。

すると”イズミ”がハンコをついた慰問袋(帰郷証)をくれた。袋をもらった後、韓国に帰れた。袋(帰郷証)を見せるたびに「何でこの人を知ってるんだ?」と聞かれた。
袋があったから韓国まで帰れた。韓国に帰った後、”イズミ”に手紙を書いた。週に一回くらいの割合で返ってきた。
唐辛子や、小麦粉も手紙にまぜて送った。「辛かった。おいしかった。」と手紙が返ってきた。 ”イズミ”との手紙、写真が沢山溜まったけど、朝鮮戦争の爆撃で全部無くなった。
(※2007.4.12 追加)

◆◆◆ 金福善(キム・????) ◆◆◆

金台善(キム・テソン)(仮名)と同一人物


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1926.2.20、全羅南道康津(カンジン)生まれ。12歳の時、母がアヘンを吸う父と離婚し、その後、伯父の家に引き取られる。1944年、18歳になったある日、日本人一人と朝鮮人一人が伯父の家に来て「日本の工場に就職させてやる」と言われて無理やり連れ去られ、ビルマ(ミャンマー)のラングーンの慰安所に入れられる。約1ヶ月後、爆撃がひどくなってきた為、部隊移動の際、慰安所案内役の朝鮮人、及び他の慰安婦達と共に逃げ出す。

1991.12月に提訴された「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」に1992.4月に第2次原告の一人として参加する(※裁判上は「原告C」)。同裁判は2004.11月、最高裁棄却により敗訴が確定した。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

ビルマへ向かう途中、釜山の収容所に入れられるが、そこでは軍服を着た朝鮮人が見張りを行う。


【考察】

同女の証言の疑問点は以下の通りです。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)

 ①「工場で働かせてあげる」は、他の元・従軍慰安婦の証言でよくある人間ブローカーや売春宿経営者の騙し文句です。しかし、同女の場合、あらかじめに「最近、娘を連行する人が多い」という噂まで流れており、また、食事をしていた時に「戸を蹴って入ってき」て同意もないのに「両腕をつかまれ二人に連れて行かれ」ています。他の同様な元・従軍慰安婦の証言には、最初からこんなに乱暴な人間ブローカーなどいませんし、同意もなく連れて行く者もいません。しかも、このような強引な手法を用いている割には集められた女の子は4人だけと、他の騙された元・従軍慰安婦と変わりません。

 ②同意無しに強制的に連行されるという衝撃的なシーンの割には、以下の通り、その時の伯父の様子もなく、描写・表現があまりにも簡素。同女が同意したのか拒否したのかも明記されていません。(明記されていないので同意しなかったと判断しましたが)

 「ご飯を食べ終わると、崔が「金を稼ぎたくないか?日本に行って一年間だけ工場で働けば、たんまり金を稼ぐことができるから、行こう」と言いました。そのまま私は両腕をつかまれ二人に連れて行かれました。(P.243)

 ③同女が一時、入れられた釜山の収容所では軍人が見張りを行っており、便所について行くのにもついて来る厳重さです。この時点では、集められてきた女性達は工場で働くと思っているのですから、こんな見張りは不要です。

 ④同女を騙して連れ去った日本人の服装を「国民服(あるいは軍服)」として、軍人だった可能性を示唆しています。この日本人は慰安所の受付を行っており、単なる慰安所経営者と考えるのが自然でしょう。また、その日本人と共に行動していた朝鮮人は慰安所の案内係をしています。

 ⑤15,6歳の時に母が死亡し、父は行方不明で、伯父の家に世話になっていたはずですが、ビルマから朝鮮に帰った後の話に伯父が全く出てきません。無理やり連れて行かれたのだから心配していて当然で、会いに行かないのは不自然です。慰安婦になってしまったことを恥じてのことだとも考えられますが、それならそれで、そのことが記載されていてもいいはずです。


-------------------- 以下、2007.4.10追加--------------------------

なお、「裁判の訴状」(以下「裁判」)と「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下「証言」)を比べると下記の通り内容が異なっています。

<連行した人物>
○「裁判」・・・憲兵
○「証言」・・・国民服(あるいは軍服)を着た30代の日本人1人と背広を着た40代の崔(チェ)という朝鮮人1人
はっきり「憲兵」と証言していたのが、「軍人だったかも知れない」程度に濁されています。

<釜山の収容所での軍の関与>
○「裁判」・・・記述なし
○「証言」・・・収容所には軍人がおり、日本の軍隊から握り飯を貰う。また、同女達の監視は、軍服を着た朝鮮人が行っていた

<慰安婦にされると気付いた時>
○「裁判」・・・ラングーンに到着してトラックに乗せられた時
○「証言」・・・サイゴンに来て初めて慰安所に行くことが分かる(※サイゴンはラングーンに着く前に立ち寄った所。何故、分かったかは記載されていない)

<慰安所に向かうトラックの軍人>
○「裁判」・・・記述なし
○「証言」・・・日本の軍人が乗っていた

<慰安所と部隊との距離>
○「裁判」・・・軍の部隊は一度も見たことがなく、遠いところにあるようだった
○「証言」・・・部隊は慰安所からそれほど離れていないようでした

<「崔」という人物>
○「裁判」・・・同女たちは、連合軍の爆撃の混乱に乗じて脱走するが、その際、助けてくれたのが「崔」(日本名・岩岡)という韓国人兵士で、共に釜山まで帰る。
○「証言」・・・同女を騙して慰安所まで連行し、その慰安所で案内係をしたのが「崔」。また、「崔」は、部隊が移動する際に逃げようと提案してきて、同女たちと共に脱走、共に釜山まで帰る。


殆どが、微妙なものばかりですが、「崔」という人物の役回りは全く違っています。脱出の際に協力して釜山まで帰るのは同じですが、「裁判」では、脱走の際に突然、登場するのに対して、「証言」では、同女を連行した張本人の1人になっています。
「証言」には「崔はソウル出身の人でした。崔は私を慰安所に連行した人ですが、彼も当時はそうするよりほかになかったのだろうと思っています」(P.251~252)とフォローする文章もあります。「裁判」では、崔をかばって連行した張本人であることを隠したのでしょう。
しかし、このことは、証言者が意図的に証言内容を変更していることを示しています。他にも同様に事実を歪めているところがないのか、非常に疑わしいものです。

-------------------- 以上、2007.4.10追加--------------------------


【信憑性】

内容的には慰安所経営者に騙されて慰安所に入れられたという話ですが、果たして本当に同意も無しに連れ去られたのか、また、慰安所に向かう途中の釜山の収容所で軍人の見張りがついていたと言うのも疑問です。「強制連行」を意識して内容を一部変更しているのではないかと思われます。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992 裁判の訴状 ***** ****
原告C(以下、「C」という。)は、一九二六年二月二〇日に生れた。三人姉妹の三女であったが、両親を早く亡くし伯父の家に預けられていた。
一九四四年夏には、Cは全羅南道唐津郡に住んでいたが、憲兵や警察が、各地で「人狩り」のように女性を強制連行していた。Cは、「隠れろ」というので、押入れに隠れたりしていた。
しかし、八月のある日、食事をしていた時に、憲兵がやってきた。伯父は、「早く隠れろ!」と怒鳴ったが、隠れるのが間に合わず、Cは、憲兵に腰をつかまれ、「工場に連れて行く」という理由で連行された
唐津では、C一人であったが、光州では五人増え六人となった。
六人は、光州から汽車で京城、仁川に連れて行かれ、合宿所のようなところに入れられた。そこには二〇人程の若い女性たちが集められており、そこで、身体検査を受けさせられた、その結果、五人が不合格になったが、Cは合格にされた。Cは仁川には一〇日間ほどいて、その間、女たちは四〇人ほどに増えた。
二人の韓国人が引率して、女性たちは監視人五、六名とともに汽車で釜山に下りた。一〇日ほど、船待ちをしている時に、Cは、スキを見て逃げようと思ったが、監視が厳しくて、とても逃げることはできなかった。
男性たちは、「大阪の女性だけの工場で働き、給料、衣服も支給され、一年も働けば帰れる」と説明をした。
Cらは大阪に着いたが、ここでも船を待つといわれた。「大阪に来たのになぜ船を待つのか」と聞いたところ、「大阪の工場はいっぱいなので、別の工場に行く」と言われた。大阪にいる間にまた人数が増え、兵舎に宿泊した。
その後、Cたちは、五階建ての大きな船に乗せられた、Cは、乗客のほとんどが女性であり、かつ、その人数が多いことに驚いた。
その船はあちこちに寄港し、沖縄でかなりの女性が降ろされた。
大阪から一五日ほどかかり、サイゴンに着いた。サイゴンについた時は女性は四〇人ほどになっており、Cは二〇人の女性と船を乗り換え、ビルマのラングーンに到着した。
港には軍隊しかいなく、トラックに乗せられた。この時、Cは工場に行くのではないと感じた。全員の女性が不安を覚えたようで、慰安婦にされるのではと思い、みなな泣いていた。
Cらは、トラックで三時間くらい走り、山の中の場所に到着した。そこには長屋のような建物があり、「軍人慰安所」という看板がかけられていた。建物には二〇室の窓もない部屋があり、二人入るといっぱいになるような狭さだった。そして、入口にはカーテンが掛けられていた。
(※2007.4.10追加)
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 一九四四年九月の初めでした。満十八歳の時です。伯父が「最近、娘を連行する人が多いという噂だ」と言いました。そんなある日、伯父が外に出かけて戻ってくるなり、私に早く隠れろといいました。~(中略)~その日も隠れていましたが、あんまりお腹がすいたので下りてきて、家族と一緒に昼ごはんを食べていました。ところがちょうどその時、国民服(あるいは軍服)を着た三十代の日本人一人と背広を着た四十代の朝鮮人一人が柴折戸を蹴って入ってきました。~(中略)~ご飯を食べ終わると、(※日本人と一緒に来た朝鮮人(管理人注))が「金を稼ぎたくないか?日本に行って一年間だけ工場で働けば、たんまり金を稼ぐことができるから、行こう」と言いました。そのまま私は両腕をつかまれ二人に連れて行かれました。三十分ほど歩いてバスの停留所まで行きました。そこからバスに乗って光州に着き、看板のない旅館のような所へ連れて行かれました。入ってみると、四人の女の子が来ていました。(P.242~243)

 釜山の収容所では、日本の軍隊から握り飯一つをもらいました。~(中略)~私たちの監視は日本の軍人ではなく、軍服を着た朝鮮人がやっていました。便所に行くのにも、ついて来るくらい厳重でした。日本の軍人とその朝鮮人の間では日本語を話していました。~(中略)~約四十人の女は大阪に行き、二十人くらいは下関に行きました。~(中略)~一九四四年十月初旬か中旬でした。大阪から百人ぐらいの女たちが、大きな五階建ての船に乗りました。~(中略)~三組に分けられましたが、私たちは二十人はビルマ(ミャンマー)のラングーンに行きました。私を康津から連行した日本人と崔も、ラングーンに行きました。(P.244~245)
私を康津から連行した日本人は、慰安所の入り口で軍人から券をもらい、崔が軍人たちに入る部屋を案内しました。(P.248)


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