元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 尹頭理(ユン・ドウリ) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1928年釜山生まれ。建築業を営んでいた父が亡くなった後、家運が傾く。1942年、15歳の時、ゴム工場に働きに行くがその後、軍服工場に移った。1943年、その工場の日本人に下心を持たれたので職場を変えることになり、手袋工場を見に行った帰りに釜山鎮(プサンヂン)駅の前で巡査に呼び止められ、そのまま釜山影島(ヨンド)の第一慰安所に連行されて慰安婦を強いられる。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
巡査に呼び止められて警察署に連れて行かれ、その夜、軍人二人に軍用トラックに乗せられ倉庫のような部屋に移される。翌日、3人の軍人に警備船のような船に乗せられ日本に行く。日本で「君が代」を歌い、「皇国臣民の誓詞」を唱えて、班分けした後、再び、船で釜山に向かい慰安所に入れられる。慰安所の経営者は日本人で、受付は日本人軍属が行い、軍人が3、4人見張りに立っていた。
【考察】
慰安所は戦地での兵士の強姦等を防止する為に設置されていたもので、韓国には慰安所などないはずです。しかも、(2007.6.27 元兵士の証言で朝鮮に慰安所があったとの証言があるようなので削除)
証言では「その一帯には雲雀町という日本人の遊郭街がありましたが、影島橋を渡り左に五百メートルほど離れた場所に位置していました。~(中略)~山下という日本人軍属が玄関に座っていて、軍人たちが来れば空いた部屋に入れと部屋を決めるのでした。~(中略)~また敷地内には交代で見張りに立つ軍人が三、四人いました。(P.306)」とあります。わざわざ遊郭街の近くに慰安所を設置し、受付に軍属1人と見張り役3、4人の軍人がいたことになっています。
もし、仮に、そこに慰安所があったとしても、わざわざ4、5人の人員を貼り付けていたとは思えません。そこまで日本軍も暇ではなかったでしょう。
しかも、同女は、慰安所に入れられる前、一旦、船で釜山から日本に連行されています。そこでやったことは、「君が代」を歌い「皇国臣民の誓詞」を唱えて班分けをしただけ。そして、再び船で釜山に戻ってから慰安所に入れられています。非効率的な行動です。また、釜山⇔日本間は「警備船のような船」を使用して五十人もの女性が乗っていたと証言しています。当時の船事情には詳しくないですが、五十人も乗れるような警備船のような船があったのでしょうか。
【信憑性】
同女の証言の信憑性は薄いと言わざるを得ません。特に強制連行の証言や慰安所への軍人の関与は疑わしいものです。単に遊郭街の売春宿で働いていただけではないでしょうか。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店 夕方五時か六時頃、釜山鎮駅前にある南部警察署を通り過ぎようとすると、歩哨に立っていた巡査が来いと呼ぶのです。私は何もしていないので大丈夫だろうと思って、警察署の中に入って行きました。一九四三年九月初旬のことでした。警察署の中には私のような少女たちが数人いました。~(中略)~「いいところに就職させてやるからじっと座っていろ」と言いました。夜の十一時頃になると、軍用トラック一台が来て二人の軍人が私たち全員を乗せてでました。~(中略)~この軍人にどこに連れて行くのかと聞くと、いいところに就職させてやるとだけ言うのです。~(中略)~私たちは軍用トラックに乗せられ、どこかわからないところで下ろされました。そこには五人の女の子が私たちより先に来ていました。私たちと合わせて計十人が倉庫のような部屋で一晩を明かしました。翌日の夜、私たちは軍人の引率で「ブルルン」という音の出る警備船のような船に乗りました。船の中には二十歳にもならないような幼い少女たちが五十人ほどいて、三人の軍人が一緒に乗っていました。その船は日本に行きましたが、日本のどこかわかりません。~(中略)~船から下り、かなり歩いて倉庫のような部屋に着きましたが、そこには若い女性がたくさんいました。そこでまた一夜を明かしました。翌朝全員が集まって「君が代」を歌い、「皇国臣民の誓詞」を唱えた後、いくつかの班に分けられました。~(中略)~釜山で私のように捕まえられたスンジャも私と同じ班になりました。~(中略)~スンジャと私のいた班は二番目に船に乗りました。~(中略)~何時間か行くと、釜山の影島(ヨンド)に再び戻ってきました。~(中略)~一九四三年九月、釜山の影島にある第一慰安所に行くことになりました。(P.303~304)
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