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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 金英実(キム・ヨンシル) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1924年10月21日(注)兩江道普天郡で生まれる。父が病気で貧しい生活を送る。1941年居酒屋で働いていた時、背広を着た日本人(実は将校)の「いい職場を紹介してあげる」という話に乗り、朝鮮と中国・ソ連が接する国境地帯に連れて行かれ、以降、慰安婦を強いられる。

(注)「朝鮮人『慰安婦』では1923年10月21日生まれになっている


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本人区長の家に集合し、騙した将校の引率で慰安所に行く。


【考察】

同女を「いい職業を紹介してあげる」と騙して慰安所まで引率したのが日本人将校。証言によると、この将校は、「それからも和服に着替えてどこかにでかけていっては、朝鮮女性を連れてきて『慰安婦』にした」(「朝鮮人『慰安婦』)とあるように、女性を騙して慰安婦にすることを業務としていたようです。
業者に任せておけば良いものを、わざわざ軍人が行っていたという話でも信じ難いのに、将校が行っていたと証言。ウソ臭いことこの上ありません。


また、他の北朝鮮証言者と同じく、慰安所の建物や生活の様子等はなく、如何に日本兵が残虐であったかを伝えることに終始したものになっています。ただ、同女の上げる残虐行為は以下の通りで、他と比べて比較的軽いようです。

 ○「私より年下の『トキ子』が朝鮮語を使ったからと、私たちの前で将校で首を切られてしまった」
 ○「将校とけんかをしたため拷問されました。無理やり水を飲まされて、ふくれ上がったお腹に板を乗せて2人が乗って押したのです」
 ○「重病のために役に立たないものとわかると、病死者も含めてどこかに連れ去られた。彼女たちがどうなったかはわからない。ただ、行って見たことはないが、豆満江がすぐ近くを流れていたので、そこが墓場になったのではないだろうか」
 ○「彼女の部屋に入っていった将校は、生まれた乳児を布で包んでどこかに連れ去った。そして、衰弱した『ジュンコ』が役に立たないと思ったのか、彼女をどこかに連れ去っていった。それっきり私たちは、彼女の消息を聞いていない。」


なお、同女は、13歳の時、口べらしの為に叔母の家に行くのですが、「写真記録 破られた沈黙」では、その叔母は既に中国に行っていなかったことになっているのに対して「朝鮮人『慰安婦』」に掲載されている内容では、ちゃんと叔母の家で世話になっていたことになっています。

-------------- 以下、2007.7.27 追加--------------
また、「いい職業を紹介してあげる」と日本人将校に声をかけられた時、「朝鮮人『慰安婦』」「写真記録 破られた沈黙」では、同女は居酒屋で働いていたことになっていますが、「世界に問われる日本の戦後処理①」では、物乞いをしていたことになっています。
-------------- 以上、2007.7.27 追加--------------


【信憑性】

信憑性なし。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992.10 朝鮮人「慰安婦」 在日本朝鮮民主女性同盟中央常任委員会 ****
 両親、祖母と妹2人、弟1人の7人家族の長女として生まれた。家庭が貧しかったので数え13歳のとき、咸鏡北道の会寧に住んでいた父の妹のところにいった。

 会寧は、私の故郷に比べれればそれでも働き口があるというので、叔母の家で世話になりながら、近所の雑用をして働いた。数え18歳のとき居酒屋で雑用係をしていた

 1941年のある日、そこに背広を着た日本人があらわれて「条件の良い仕事をあっせんしてやろう」と話しかけてきた。「条件の良い仕事」なら故郷の家族に仕送りができるので、家計を助けるためにもやってみたいと思った。故郷を離れたといっても叔母のそばで働いていたので、見知らぬ土地にいくことには不安があった。しかし、少しでも条件の良い仕事をして故郷に仕送りできればと考えていたので、集合場所に指定されていた村の日本人区長の家にいった。いって見ると私と同世代の女性が、既に14、5 人集まっていた。

 区長の家の前にはトラックが迎えにきていた。それに乗って会寧駅にいき、そこで昼食時に汽車に乗り換えてアオヂを経由してウンドクに到着したのは夕刻であった。そこからチョンアクドンにいくと、ほろ付きのトラックが待機していた。それに乗せられて30分ばかり走ったところの山中に連れていかれた。

 その山中には日本の軍人がいっぱいいた。

 私たちは中国と旧ソ連の国境地帯の、少し奥地に入ったところに連れていかれたが、到着してみるとそこには既に、10人位の朝鮮女性がいた。女性たちは私たちに、「なぜこんなところにきてしまったのか。ここからは生きてでることはできないのに」と悲しげに話しかけてきた。私には何のことかわからなかった。

 軍人がやってきて私たちを最初に倉庫に連れていった。今まで着ていた朝鮮服を脱いで和服に着替えろと強制した。私は恐怖と羞恥から拒否すると殴る蹴るの暴行を受け、むりやり裸にされて着替えさせられた。そして、「ここでは朝鮮語を使うと殺す」と脅かされた。

 その日、一緒にきた女性たちの一部は他所へ連れていかれ、彼女たちがどこへ行ったのか、どうなったのか一切わからない。私は人間2人が入ればいっぱいになるような部屋に入れられた。

 夜、麦御飯とスープだけの粗末な夕食をだされたが、恐怖でのどをとおらなかった。ただどうにかして逃げ出さなければとばかり考えていた。そんなことを考えていたときに、私たちを連行してきた男が軍服を着て入ってきた。将校(肩に星が3つ付いていた)の軍服を着てきた。将校はいきなり入ってきて有無をいわさず私を強姦した。この将校は、それからも和服に着替えてどこかにでかけていっては、朝鮮女性を連れてきて「慰安婦」にした。そればかりか、ここにいた女性をどこかへ連れ去りもした。

 最初の日の夜は、その将校の外に7人もやってきて私に暴行を働いた。私が7人という数字を記憶しているのは、それまで想像もできなかったつらい暴行を受けて、この後何人にこんな思いをさせられるのかと思い詰めていたからである。厳しい監視の中で私は逃げ出す方法も考えられないままに、そのままそこで「慰安婦」を強いられることになってしまった。

 食料事情は悪く、ろくな食べ物はなかった。そのために栄養失調と過労のために病気になるものが多かった。重病のために役に立たないものとわかると、病死者も含めてどこかに連れ去られた。彼女たちがどうなったかはわからない。ただ、行って見たことはないが、豆満江がすぐ近くを流れていたので、そこが墓場になったのではないだろうか

 この周辺のアオヂ、チョンアクドン、クロン、サフェなどには付設の慰安所があったが、ホンイリにはなかった。

 慰安所のないところには私たちが派遣させられて奉仕させられた。そこには週に1~2回いかされ、朝から翌朝まで奉仕させられた。時には1泊2日で夜中に帰ってくることもあった。

 私たちのグループは常に14、5 人で、欠員がでるといつのまにか必ず補充されていた。

 ある日、「トキコ」と呼ばれていた私より幼い女性が朝鮮語を使ったという。それをみとがめた将校が私たち全員を呼び集め、その前で見せしめに、幼い「トキコ」の首を日本刀ではねて殺した。あまりの恐ろしさに泣き叫ぶ者、気絶する者もいた。私はただうつむいて声をだすこともできなっかた。それからは、日本語のよくわからない私たちは、ただ目と目で語り合うことしかなかった。

 また、「ジュンコ」と呼ばれていた女性は、妊娠に気付かぬうちにいつしか臨月に近くなっていた。軍人たちは、「ジュンコ」が出産する直前まで「慰安婦」として利用していた。ある日、彼女が出産した。彼女の部屋に入っていった将校は、生まれた乳児を布で包んでどこかに連れ去った。そして、衰弱した「ジュンコ」が役に立たないと思ったのか、彼女をどこかに連れ去っていった。それっきり私たちは、彼女の消息を聞いていない。

 ここにいたらいつか私も殺されると思った。

 1945年8月13日、軍人たちが、「日本に帰るから、お前たちも一緒に連れていく」といった。ここでもこんなに辛い思いをさせられいるのに、日本にいけばどうなるのか見当がつかない。そこで皆と話し合い逃げることに決めた。一緒だと捕まるのでバラバラに逃げようと約束した。

 その夜、私はトウモロコシ畑にひそみ、明け方、山に登っていった。山の中で2日くらい隠れていて、そこから山のふもとの人家を探していき、そこで食べ物をもらった。祖国の解放はその時聞いたが、信じられず捕まることを恐れて、ずっと山の中に潜んでいた。

 秋になって清津にでてきた。


(キム・ヨンシル 1923年10月21日生 両江道普天郡出身)
1993.5 アジアの声 第7集
世界に問われる日本の戦後処理①
「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録
国際公聴会実行委員会 東方出版
 私は、一九二四年一〇月二一日、両江道普天郡で生まれました。家が貧しく、父が病に倒れてからは、母が家庭を支えていました。わが家には両親と五人の子どもたち(二人の息子と三人の娘)がいました。私は、二番目で長女でした。
 非常に貧しかったので、私は一三歳の時、父は私を会寧にいる叔母のもとへ預けました。私は会寧に行きましたが、叔母はすでにその地を去っていました。その結果、私は方々を物乞いして歩き、見知らぬ人の家で女中をしながら、かろうじて生計を立てました。
 私が一八歳の時でした。ある日、背広を着た日本人が、私に歩み寄り、金になる仕事を提供するから自分と一緒に来るように言いました。その仕事がどういうものなのかも知りませんでしたが、物乞いを続けるよりはましだと思い、私は彼について行きました。そこは、すでにたくさんの少女たちでいっぱいでした。そこから私たちは、トラックに乗せられ会寧鉄道の駅へと連れて行かれました。またトラックに乗せられ、三〇分ほど揺られると私たちはある渓谷にたどり着きました。
 そこには一七、八歳ぐらいの少女たちが一〇人余りがいました。彼女たちの中には、まだ一五歳にも満たない子もいました。そこは旧ソ連と中国とに接する国境地帯の、少し奥地に入ったところでした。
 私は、彼女たちに「ここは、いったいどこなの?」と尋ねました。
 彼女たちは答えました。「生きて出ることのできない所にどうして来たの?」と。
 私たちは、出入口にムシロが吊るされ、まるで便所のようなつぎあて小屋に住むことになりました。日本の軍人が私たちのところへやってきて、チマ・チョゴリを脱ぎ日本の着物を着るように命じました。私たちは、その馴染みのない服を着ることをためらいましたが、結局力づくで脱がされました。
 その日から私は、日本人として「エイコ」と呼ばれ、兵士は私の胸に「エイコ」と書かれた名札を貼り付けました。
 部屋には、やっと二人が横になれるくらいの二枚のムシロが広げられていました。私の部屋に初めて入ってきたのは、私に仕事を紹介すると声をかけた男でした。背広を着ていた以前の格好とは違い、中尉の軍服を着ていました。彼は力で私を強姦し、続いて七人の将校が私を強姦しました。
 私は、助けをもとめて「オモニ(お母さん)」と叫びました。しかし、それは無駄なことでした。次の日から私は、二、三〇人の将校や兵士の相手をさせられました。日曜日は、それ以上でした。大麦のおにぎりとわずかな汁を与えられる以外は、何も口にできず、常に飢えに苦しみました。(P.74~75)

 ある日、トキコと呼ばれていた少女が朝鮮語をしゃべりました。将校は、私たちを野原に集めると、みせしめとして彼女の首を刀で斬り落としました。恐怖のあまり、私たちは泣き叫びながらその場から逃げだしました。
 ジュンコという少女が妊娠しました。しかし軍人たちは彼女をいたわりはしませんでした。彼女が出産を終えたのち、将校は彼女とその子どもをどこかへ連れて行きました。それ以来、私たちは彼女について何も聞かされませんでした。
 幾人もの少女たちが「慰安婦」という仕事に耐えられず首を吊って、自殺しました。
 私をだましてここへ連れてきた将校が、ひどく酔っぱらって私に奉仕を強要したのは、ある日曜日のことでした。私は、拒みました。体調が悪かったのです。すると彼は、私の上にまたがり、私の髪をわしづかみにしては私の頭を何度も床へ打ちつけました。私は、将校の腕を噛みました。彼は腕を払い、私の二本の歯が折れました。
 次の日、数人の男が、私に襲いかかってきて、鼻から水を流し込みました。私の胃がふくれあがると、彼らは私のお腹に板をのせ、上から踏みつけて強く押しました。彼らは、私が気を失い意識を取り戻すと、また同じことをくり返しました。ほかの少女たちは、恐怖のあまり目を背けるしかありませんでした。このようなことが日常茶飯事でした。(P.76~77)

(※2007.7.27 追加)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
1924年10月21日生まれ
朝鮮民主主義人民共和国兩江道恵山市在住

 私は、現在の兩江道普天郡で生まれました。家族は両親と兄・弟・妹2人の7人でした。お父さんは病気だったので、お母さんが日雇いをしていたのですが、貧しい生活でした。
 私は数え年で13歳の時、会寧にいるお父さんの妹の家で世話になることになりました。そこまで何日もかかったのですが、お金のない私は物乞いをしたり木の実を採って食べて空腹をしのぎ、農家に泊めてもらったり野宿をしながら旅をしました。ところが、行ってみると叔母さん一家は中国に渡ったとかでそこにはいなかったのです。帰ることもできなくて、その近所で雑用をして働きました。
 1941年、働いていた居酒屋背広を着た日本人が来て「いい職場を紹介してあげる」と言ったのです。どこかの工場で働けるというので、これで家族に仕送りができると思いました。日本人区長の家に行くと、そこにはすでに14~15人の女性が集まっていました。
 迎えに来たトラックに会寧駅に行き、昼過ぎに列車に乗せられました。夕方に着いた青鶴洞の駅からは、幌付きのトラックに30分ほど乗せられて、朝鮮と中国・ソ連が接する国境地帯に着きました。
 そこには10人くらいの朝鮮人女性がいましたが、彼女たちは「なぜこんなところに来てしまったのか。ここからは生きて出れないのに」と悲しげに話しかけてきたのです。私には何のことなのかわかりませんでした。
 倉庫に入れられ、着ていたチョゴリ(朝鮮の上着)を日本の着物に無理やり着替えさせられました。そして「ここで朝鮮語を使うと殺す」と脅されたのです。私は「エイ子」という名前をつけられました。
 麦ごはんとスープだけの夕食を出されたものの、恐怖でのどを通りませんでした。どうにかして逃げようと考えていた時、私たちを連れてきた男が肩に星3つが付いた将校の軍服を着て入って来ました。そして有無をいわさず私を強姦したのです。その夜は、この男の他に7人もが私を強姦しました。
 それからは、毎日20~40人の兵隊の相手をさせられたのです。私たちは週に1~2回、「慰安所」のはに駐屯地へ派遣されることもありました。私たちの人数は常に14~15人で、欠員が出ると補充されていました。
 ある日、私より年下の「トキ子」が朝鮮語を使ったからと、私たちの前で将校で首を切られてしまったのです。あまりの恐ろしさに、泣き叫んだり気絶する人もいました。私は声を出すこともできず、うつむいていました。それからは、日本語のよくわからない私たちは、目と目で語るしかなかったのです。
 1945年8月10日頃、私は酔っ払った将校とけんかをしたため拷問されました。無理やり水を飲まされて、ふくれ上がったお腹に板を乗せて2人が乗って押したのです。このことで私は、死ぬ覚悟で逃げようと決心をしました。
 13日に「我々は日本に帰るのでお前たちも連れて行く」と将校が言うので、その日の夕方に逃げ出したのです。山の中で2日くらい隠れてから、ふもとの人家で食べ物をもらいました。この時、朝鮮の解放(日本敗戦)を聞きました。しかし、信じられなくて山の中に潜んでいて、秋になって清津に出て来ました。
 今まで「慰安婦」だったことは口に出せませんでした。テレビで、名乗り出た人のことを知り、「嫁にもいけなかったこの恨みを持ったまま死ぬわけにはいかない」と思い話をすることにしました。(P.78~82)


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