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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 尹順萬(ユン・スンマン) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1930年1月15日、忠清南道にて生まれる。父は独立運動をしていて行方をくらました。1941年3月、13歳(数え年)の時、4人の日本兵が来て連行され東京の紡績工場で働かされる。約2年後に大阪に送られ慰安婦を強いられ、その後、あまりに抵抗するので中国の前線に送られる。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本兵が来て連行された。


【考察】

同女の証言について手に入れられたのは下記資料の「写真記録 破られた沈黙」のみで、しかも、同書に掲載されている他の証言に比べて異常に短いものです(※下記資料は同女の証言の全文)。
連行された時の様子も分からなければ、どのように移動したのかも不明。紡績工場や慰安所の様子も全くなし。よく、こんなレベルのものを証言として掲載したなという内容です。

日本兵に連行され、東京の紡績工場で働いた後、大阪で慰安婦にされ、最終的に中国に送られたそうです。言ってる内容も胡散臭いものなら、その内容も漠然的。本人が「慰安婦だった」と言いさえすれば何でもいいのでしょうか。

来日して証言集会に参加する等、証言に積極的な割りには、同書以外の証言集では取り扱われていません。証言として取り上げようが無いからでしょう。


【信憑性】

信憑性云々と言う以前の問題でしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 1930年1月15日生まれ 
 大韓民国ソウル市在住

 私は忠清南道で生まれました。お父さんは、独立運動をしていて行方をくらましました。
 そのことからしばらくすると、家に日本兵が来て叔父さんと叔母さんの夫を連行したのです。叔父さんは九州の炭鉱で働かされ、叔母さんの夫は行方がわからなくなったのです。
 1941年3月4人の日本兵が来て、今度は数え年で13歳の私が連行されました。下関で身体検査をされて、背の高い人と低い人とに分けられました。私は低かったので、東京の紡績工場でしたが、背の高かった人は「慰安所」に連れて行かれたと思います。
 工場での2年間ほどは、毎日のように糸を撚りました。空腹と睡魔との戦いでした。
 ある日、私を含めた7人の朝鮮人女性が大阪に送られました。そこで「慰安婦」にされたのです。
 噛みついたりして、私はいつも激しく抵抗しました。そのため、今度は中国の前線に送られてしまったのです。
 そこでも抵抗しました。そしたら兵隊から髪の毛をわしづかみにされ、左腕をひねって床に倒されたのです。腕は折れて腫れ上がり、あまりの痛さにただ泣いていました。しかも、治療せずに放置されたので、今も曲がったままになっています。
 夫は私の過去を知らないまま亡くなりました。娘が1人いますが、まだ結婚できないのは私のせいだと思っています。
 現在は1人暮らしですが、娘がいるということで生活保護も受けられず、清掃の仕事をして生活しています。(P.90~91)
2003.8.8 しんぶん赤旗 ***** ****
「戦時性的強制問題の解決がなければ目を閉じて死ねない」--。韓国と台湾から来日した「従軍慰安婦」被害者が七日、謝罪と補償を求める要求書を日本政府と参議院に提出し「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」のすみやかな成立を申し入れました。国会では記者会見を兼ねた集会が開かれました。~(中略)~参議院への申し入れでは、韓国の被害者・尹順萬さんが、日本軍兵士から暴行を受け、折られた左腕が今も曲がったままで、右足は切りつけられたため歩くのに不自由していると訴えました。被害者たちは口ぐちに「生きている間に立法による解決を、謝罪と補償を」と求めました。
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