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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 李福汝(イ・ボクニョ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1919年4月18日、4人兄弟の長女として生まれる。両親は早くに死亡し、橋の下で雨露をしのぎながら乞食をしたり農家の手伝いをしたりして弟たちを養う。17歳(数え)の夏、住んでいた小屋に巡査か兵隊の日本人2人に無理やりトラックに乗せられ、中国の大連、ハルピン、牡丹江を経てプチャゴルに連れて行かれ、以降、8年間、慰安婦を強いられる。毒殺されそうになって逃げ出して中国人にかくまってもらい、1947年に帰国する。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

巡査か兵隊が同女をトラックに無理やり乗せ、汽車でプチャゴルの慰安所まで連れて行かれる。


【考察】

北朝鮮の証言者のお決まりのパターンの証言です。

強制連行が明白で、慰安所がどういう建物で、どういう人達がいて、どういう風に暮らしていたのか等は全く不明。あるのは、以下の通り、日本兵の残虐さや「天皇=悪」を印象づける内容のみ。

 ○「将校が『天皇と軍の命令だ。言うことを聞かないと殺す』と言いました」
 ○言うことを聞かない女性を木に吊るし、「奴らは刀で彼女たちの乳房をえぐり取ったのです」
 ○殺した女性の首を沸いた湯に入れ「その煮汁を私たちに飲めと強要しました」
 ○「逃げ出せないように足の神経を切られてしまったのです」
 ○逃亡しようとして捕まった同女に対して「兵隊たちは赤く焼いた鉄棒とドラのような鉄板を私のお尻に押し付けたのです」
 ○「ある時、奴らは私たちの食事に毒薬を入れました」
 (※「写真記録 破られた沈黙」より) 


同女の証言の疑問点は以下の通りです。

<同女が連行される際の弟たちの言葉>
 「お姉ちゃん行くな」と弟たちが泣き叫んでいたことになっています。これは、姉が自発的にどこかへ行こうとする時に掛けられる言葉です。無理やり拉致されているのですから、「お姉ちゃんを連れて行くな」が本来、出てくる言葉でしょう。想像に過ぎませんが、売春宿で働くことに決めた同女が弟たちに掛けられた言葉が「お姉ちゃん行くな」で、あまりに強烈に印象に残っている為、修正し忘れたのかも知れません。

<トラックに女性100人>
 いくら大きいトラックと言っても100人も乗ってたと証言するのは無茶過ぎます。複数のトラックだった可能性もありますが、集めた資料の中には複数台だったとの記述はありません。

<足の神経を切られる>
 同女は逃亡しようとして失敗し、足の神経を切られたと証言しています。足の神経なんてどうやって切るのか良く分かりませんが、逃亡防止用に切るとしたら足の腱でしょう。

<慰安婦を毒殺>
日本兵は、慰安婦を毒殺しようとしますが、同女だけ食事に遅れて助かったそうです。同女が中国人に助けられたのが1944年なので、どうやらこれは1944年頃の話のようです。
何故、慰安婦を毒殺しなければならないのか全く分かりません。終戦を迎えたわけでもなく、まだ、慰安婦は必要でしょう。また、何らかの理由があって全員殺害するつもりであったのなら、運良く毒殺を免れた後、足の悪い同女が逃げることができたと言うのも不可解です。


なお、「金学順さんの証言」(以下「金学」)には、北朝鮮の慰安婦関連の組織がまとめた告訴状が掲載されているのですが、そこに記載されている日本兵の残虐行為は、「写真記録 破られた沈黙」(以下「写真」)と整合性がありません。

<乳房をえぐりとられた女性が、そうされた理由>
○「金学」・・・入浴するのに応じなかったので
○「写真」・・・相手をするのを拒否したので
→ 言うことを聞かなかったという点では同じですが、「写真」では、木に吊るされて乳房をえぐりとられただけなのが、「金学」では、逆吊りにされ、乳房をえぐりとっただけでなく、陰部に銃を打ち込んだことになっています。

<人の頭を煮込んだ煮汁>
○「金学」・・・捕まえてきた中国人の頭を煮込んだもの
○「写真」・・・上記の乳房をえぐりとった女性の頭を煮込んだもの


【信憑性】

信憑性なし


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992.10 朝鮮人「慰安婦」 在日本朝鮮民主女性同盟中央常任委員会 ****
私は4人兄弟の長女として生まれたが、両親は弟3人と私を残して亡くなった。乳飲み子の弟は、母の死後まもなく死んでしまった。私は6歳と7歳の幼い二人の弟の面倒を見なければならなかった。

 住む家もなかったので、橋の下で雨露をしのぎながら、もらい乞食をしたり、農家の手助けをして生きるだけの食べ物を得て弟たちを養っていた。

 私が数え17歳の夏であった。弟の一人が風邪気味なので、居住していた小屋に寝かせておいて食べ物をもらって帰ってきたら、日本人の、巡査なのか兵士なのか区別ができない男が二人あらわれて、いきなり有無を言わせずに、私の髪の毛をつかんで大きなトラックに放り上げるように乗せた。弟たちが驚いて「お姉ちゃん行くな」と泣き叫ぶ声に振り返ろうとしたが、男たちに蹴られて車に押し込められた。弟たちの「行くな」という声だけが聞こえてきて、姿は見ることができなかった。

 トラックには、既に大勢の女性が乗っていた。幼い少女から20歳前後の娘たちでいっぱいであった。100人くらいはいたと思う。彼女たちは泣きわめいていたが、男たちは泣き叫ぶ私たちに蹴る殴るの暴行を加えながら黙らせた。周囲をうかがおうとしたら、「何を見ている」と言って足で蹴られた。

 水原の駅から汽車に乗せられてソウルを経て大連に連行された。途中、鴨緑江のペネンという所で汽車が途中で止まったので、こっそり外をのぞいたら、鉄橋が二つに分かれて上がっていて川を横切る船が過ぎ去っていくのが見えた。そんな私を見とがめた男が、「何を見ている」と言って髪の毛をつかんで殴った。私は弟のことも心配だったし、これから何が起きるかもわからないので不安で泣きだしたら、また殴られた。

 途中で娘たちの一部を降ろして行きながら、ハルピン、ボンチョン、牡丹江などを経由して東寧県北満州に到着した。そこで汽車を降りた。そこからはトラックに乗せられてプチャゴルに連れて行かれた。

 プチャゴルには20人くらいの娘たちが連れて行かれた。到着すると将校がでてきて、「天皇と軍の命令だ。言うことを聞かないと殺す」と言って私たちを脅した。私は5号室に入れられたが、やがてあちこちの部屋から悲鳴が聞こえてきた。私はその日のうちに暴行された。

 私は訳がわからないままに慰安婦にされてしまった。

 それからは慰安婦として毎日2、30人の相手をされた。拒否すると見せしめに庭に引きづり出され木につるされ、「降参しろ」と迫った。

 私たちが到着して間もなくのある日、2人の女性が慰安婦を拒否したというので木につるされていた。軍人たちは「慰安婦」たちを全員呼び集めた目前で「降参しろ」と迫った。しかし、彼女たちは「おまえら犬のようなやつに降参するか」と抵抗した。たけり狂った軍人は、私たちの目の前で乳房をえぐり、なぶり殺しにした。私は余りの残酷さに気絶してしまった。

 鬼のような軍人たちは、2人の慰安婦の首を切り取り、それを、かまゆでにして、その煮汁を私たちに飲めと強要した。しかし、それを拒否すれば、私たちも殺される。殺されては生き延びる手立てもない。仕方なしに私たちは、それを飲んだ。こうしたことを、私たちは何度か体験した。

 「慰安婦」たちは、常に20人くらいいた。病気で死亡したり逃亡に失敗して殺されたりした欠員は補充されていた。

 ここの慰安所には8年いたが、そこにいた軍の部隊の名称はわからない。タカシマという名前と、イケダという50歳過ぎの眼鏡をかけたひげを生やした将校(大将)がいたことは記憶している。このイケダは、逃亡に失敗した私に拷問を命令した男である。

 あるとき私は逃亡しようとして失敗した。捕らえられた私は、板にくくり付けられて何十人もの男たちに犯されて、2度と逃げ出さないようにするといって、足の神経を切られた。それがために現在の、この不具の体になった。

 それから私は東寧県に連れて行かれ、そこで騎馬隊-騎兵隊に引き渡された。そこでは、砂地に天幕を張っただけの所に入れられた。そこには鉄条網が張られていたが、私は、そこをくぐって、またも逃亡しようとして失敗した。その鉄条網に鈴がついていたのを知らなかったのである。その時には、火で焼いたドラのような鉄板でお尻の右側に火傷をおわされる拷問を受けた。その時の火傷がケロイド状態で今でも残っている。(調査団のメンバーが肉眼で確認済み)。その火傷のために足がつって歩行困難になってしまった。いまだに、食をするのにもキチンと座ることができない。

 それでも、はってでも逃げようと、私は逃亡することだけ考えていた。

 ある時、チシャ(サラダ菜)に包んでご飯を食べていた慰安婦たちが、2口ほど食べたところで次々と倒れて死亡した。私は、歩行が不自由なので食事に遅れたが、それが幸いして、そのチシャを食べずにすんだ。

 私は、はってそこを逃げ出した。その私を村の中国人が助け出してかくまってくれた。それが1944年であったと思う。中国人は朝鮮に逃げなさいと教えてくれた。1947年清津に帰国した。

 私は、私の青春時代に、花の年齢に、私を拉致して「慰安婦」にし、こんな障害者にした日本軍人を許さない。

(リ・ポクニョ 1919年4月18日生 京畿道出身)
1993.2 金学順さんの証言
「従軍慰安婦問題」を問う
解放出版社 編 解放出版社
 また、李福女さんは、「隣の部屋にいる三〇歳くらいの女性にやつらが群れをなして襲いかかり、入浴するのに応じないと、野獣たちは礼儀を教えてやると、言いながら、「従軍慰安所」にいる女性たちを全て外に集め、その女性を連れ出し、木にさかさに吊るし、飢えた狼のように襲っていき、銃で思いっきり叩き、乳房をえぐり、陰部に銃を撃ち込んだ。そしてやつらは、お前たちも「皇軍」の要求に応えないと、このように殺すと脅した」と言った。
 彼女は続いて「一度は、やつらが捕まえてきた中国人の首を切り、釜ゆでにし、頭を高い杖台に皆が見えるように置いて、その湯を朝鮮女性たちに強制的に飲ませた」と言葉を詰まらせながら証言した。(P.147)


(管理人注:上記内容は「朝鮮民主主義人民共和国「『従軍慰安婦』及び太平洋戦争被害者補償対策委員会」が作成した日本政府宛の告訴状(1992.9)を掲載したもの)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
1919年4月18日生まれ
朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道在住

 私は4人兄弟の長女で、弟3人がいました。ところが、両親は私たちを残して死んでしまい、一番下の乳飲み子だった弟もお母さんに続いて死んだのです。
 住む家もないので、橋の下で雨露をしのぎながら、乞食をしたり農家の手助けをして弟たちを養いました。
 私が数え17歳の夏、住んでいた小屋に帰って来ると、巡査か兵隊なのかわからない日本人の2人の男が現れたのです。彼らは私の髪の毛をつかんで、放り投げるように大きなトラックに乗せました。弟たちが「お姉ちゃん行くな」と泣き叫んだので私は振り返ろうとしたのですが、男たちに蹴られてトラックに押し込められました。その中には、幼い少女から20歳前後までの娘たちでいっぱいで100人くらいいました。男たちは、泣き叫ぶ私たちを殴ったり蹴ったりして黙らせたのです。
 水原の駅から汽車に乗せられ、中国の大連に連れて行かれました。私たちが列車の外をのぞこうとすると、「何を見ている」と兵隊は髪を引っ張ったり足で蹴ったりしました。私は、弟たちのことも心配だしこれから何が起きるかという不安で泣き出したのですが、そしたらまた殴られたのです。
 兵隊たちは、途中のハルピンや牡丹江などで娘たちの一部を汽車から次々と降ろして行きました。私は東寧県で汽車を降ろされ、20人くらいの女性たちとトラックでブチャゴルに連れて行かれました。到着すると将校が「天皇と軍の命令だ。言うことを聞かないと殺す」と言いました。
 私は5号室に入れられ、着いたその日から強姦されたのです。あちこちの部屋からも悲鳴が聞こえてきました。それからは、少ない日でも30人くらいの日本兵を相手にしなければなりませんでした。
 ある日、2人の女性が兵隊の相手をするのを拒否したということで、両手を縛られ庭に引っ張られて来ました。兵隊たちは、私たちを呼び集めて2人を高い木に吊るしたのです。その娘たちは兵隊に「犬のようなお前たちの言うことなんか聞かない」と言いました。そうしたら、奴らは刀で彼女たちの乳房をえぐり取ったのです。血が吹き出しました。あまりにも残酷なので私は気絶してしまいました。
 彼女たちが死ぬと兵隊たちは首を切って沸いた湯の中に入れました。そして、その煮汁を私たちに飲めと強要しました。拒否すれば私たちも殺されるので、生きるために仕方なく飲んだのです。
 女性たちの数はいつも20人くらいで、病気で死んだり逃亡に失敗して殺されたりすると新しい女性が補充されました。ある時、私は逃げようとして捕まってしまいました。板にくくり付けられて何十人もの兵隊に犯され、逃げ出せないように足の神経を切られてしまったのです。
 そして、別の部隊に移されて砂地に天幕を張っただけの所に入れられました。私は、鉄条網の下をくぐって逃げようとしましたが、鉄条網に鈴が付いていたのを知らなかったので再び捕まってしまいました。
 すると、兵隊たちは赤く焼いた鉄棒とドラのような鉄板を私のお尻に押し付けたのです。この時の火傷はケロイドになってしまったので今でも歩くのが困難で、痛くて横になることもできないほどです。
 ある時、奴らは私たちの食事に毒薬を入れました。私は火傷のために早く歩けなかったので食事に遅れたのですが、私が行った時には先に食べていた女性たちがすでに死んでいたのです。私は、這って逃げ出して、その村の中国人にかくまってもらいました。私はここの「慰安所」に8年間いました。
 体の火傷の跡を見てください。正視できないほどです。1947年に帰国しましたが、故郷には帰れませんでしたし、子どもを生むこともありませんでした。(P.38~41)
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