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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 池石伊(チ・ドリ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1923.6.5(旧暦)、慶尚北道慶州郡で7人兄弟の長女として生まれる。安康普通学校を卒業し、18歳のとき結婚。その後、夫の家族と共に日本へ渡り、約4年後、夫の徴兵とともに朝鮮に戻り、実家の農業などを手伝いながら生活した。22歳の時、村に30歳くらいの朝鮮人の女性がやってきて、中国の紡績工場で働く人を募集していたので志願。1945年3月、汽車に乗って中国に向かい、石門子(シーメンズ)慰安所で慰安婦を強いられる。
終戦後は中国に残り、2000年6月韓国に帰国する。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

無し。女工を募集に来た朝鮮人の女性に引率され、汽車とバスを乗り継ぎ中国に行く。その女性は慰安所の主人の妾だった。


【考察】

慰安所の主人の妾に騙されて慰安婦になったという話で特に不審な点はありません。


【信憑性】

特に不審な点は見あたりません。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房
 1923年6月5日(旧暦)、慶尚北道慶州郡で7人兄弟の長女として生まれる。安康普通学校を卒業し、18歳のとき結婚した。その後、夫の家族とともに日本へ渡り4年ほど住んでいたが、夫が徴兵されるや朝鮮に戻り、実家の農業などを手伝いながら生活した。22歳のとき、村に30歳くらいの女性(朝鮮人)がやってきて、中国の紡績工場で働く人を募集するというので、志願して、1945年3月、汽車に乗り中国に向かった。
 東寧でバスに乗り換え着いたのが石門子慰安所だった。騙されてきたのが悔しくて毎日泣き暮らした。慰安所の建物は古く、雨が降るとすぐ漏れだした。順番で薪を取りに行ったが、大変寒く苦労した。中国にきて実家に手紙を出したが、その後、弟から父が亡くなり、家族がバラバラになったとの知らせが届いた。
 慰安所では「ひさこ」と呼ばれた。「ひさこ」はそこで付けられたのではなく、結婚後、日本で住んでいたときに姑がつけた名前である。朝鮮からハルモニを連れてきたのは慰安所の主人(日本人)の妾だった。
2007.3.25現在 むくげの会HP
※リンク先のNo.2(韓国語)
***** ****
池石伊は小作農であるお父さんとお母さんもとの 5男2女中長女に生まれた。農業をしたが秋に地主にすべて捧げてからは
いつも食べるのが足りずだとお腹がすいていた覚える。
競走で安康国民優級学校を 6年間通った後、十八歳時年が一歳の多くのご主人に詩集に行ったが、婚家が皆、日本に金儲けしに行くせいで彼女も付いて行った。ご主人は日本で運転をしたが4年ぶりに徴兵に引かれて行ってしまった。当時ご主人は 23歳だったし彼女は 22強かったし、子供はいなかった。その年に親政お母さんさえお亡くなりになった。
姑と一緒に朝鮮に帰って来て、彼女は親政に行った。お父さんと一緒に農業をしたが、徴兵に引かれて行った夫から手紙が来た。“必ず帰るから、工場に入ってお金や儲けながら待ちなさい”と言う内容だった。
ちょうど工場で働く女を募集する30歳頃なる女が村に尋ねて来た。紡織工場であると思ったら、その女に何をする工場なのかと問ったら紡織工場だと言った。彼女は、お金を儲けてお父さんに送って上げるつもりだった。戸口をはなして来なさいと言って、はなして来た日まさにこの女に従って故郷の他の女 2人と一緒に汽車に乗って東ニョングに到着、またバスで石門者に来た。行く間、吐き気が深海死んだ人のように、外も眺めることができずに、ご飯もまともに食べることができなかったまま何も食べることができなかった。
あの時が 45年旧暦3月14日、年は23歳だったが初めて慰安所建物を見てからも、それが工場イン竝びにだけ分かった。

(※管理人注:上記は機械翻訳)
2007.4.20現在 ナヌムの家HP
※リンク先は韓国語
***** ****
-それでは親政で弟(妹)たち面倒を見て生きている途中、中国へいらっしゃるようになったんです?
"親政家で農業仕事を助けながら暮していてから、このようになったんです。"

-あの時、どのようにして来るようになりましたか?誰が来て行くとそうだったんですか?
"真実君した夫が手紙を送りました。我家にもお金がなくて、お前の親政にもお金がないから、君が工場でも入って行って働いていなさい。そんな手紙を受けたうえで工場動き手を募集するという人々が来ました。それで本当に工場に入れてくれるかしました。"

-募集する人が朝鮮人だったんですか?
"三十で歳になる朝鮮女が募集するからといって、そっちへ行って話を聞いて見ました。そうだから 『紡織工場だ.どの所と言っても君逹は一人も分からない.』そうです。
どうであれ行ってと言ったら 『戸口をはなして来なさい.』そうです。戸口をはなして御けだのその日で来るようになった。今年時、他の女と二人が一緒に来た。その朝鮮女が一人で連れて来た。汽車に乗って中国に入って来た。あの時が 45年 3月だった。二十二つの歳にお母さんが世を去った。"

-工場行こうと言いながら、あらかじめ手付け金を与えなかったんですか?
"工場来る時私の中に考えが、お父さんにお金をちょっと差し上げていて、親政もちょっと住んで、になってもちょっと暮してしようと思った。来て見るから、私が氷らせて来た(だまされて来たという) ことなの。お金は一つも与えないな。ただ車票だけまかなって。"

-まさに石門者で来ましたか?
"あの時来て下った所が石門者です。東ニョングこのどうもも分からなくて、台頭村がどうもも分からなくて、来てその席にある途中に光復が出ました。"

-その頃汽車が石門者まで入って行きましたか?
"東ニョングまで汽車乗って来て下って、東ニョングからここまでバスに乗って来ました。私は吐き気を酷かったから、汽車乗って来るの間下を見下ろしながら、外も出して見られないして--- 死んだ人と一つだった。死んだ人のようにひかれて来た式だ。何も分からない。私がそのように車が乗る事ができないなから、連続何日乗って来るから外を眺める景況もなくて、しきりに上って来るからご飯も食べる事ができないして、死んだ人と一つだった。"

-来るのに何日を来ましたか?
"それは分からない。
私が死んだ人と一つなのにそれをどう分かるか。ご飯も食べる事ができないして、汽車に伏せに負けて目も開く事ができないして来た。息をしてそうなの死んだ人と一つだった。"

(※管理人注:上記は機械翻訳)
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