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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 金玉珠(キム・オクジュ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1923年に慶尚北道大邱で9人兄妹の三女として生まれる。10歳の時、父親が死亡し一家は大変な苦労をする。9歳から通った小学校は11歳で退学し、12歳になった3月から、日本人将校の家で5年間住込みの家政婦となる。17歳の時、その将校から、仁川(インチョン)に今の数倍もの給料で家政婦ができる所があるが行ってみないかと言われ承諾する。しかし、仁川(インチョン)からさらに船に乗せられ、海南島(中国南部広東省雷州半島の南方)に連れて行かれ慰安婦を強いられる。

2000年2月死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

汽車で仁川まで行き、以降、船を乗り継ぎ海南島の慰安所まで行く。(※どの程度、公権力の関与等があったかは、集めることができた資料からは不明)


【考察】

日本人将校の家に家政婦として勤めていたところ、もっと条件の良い家政婦の働き口を紹介されて行ってみたら慰安婦にされたという話です。

ただし、下記資料の「ナヌムの家歴史館ハンドブック」には「日本人将校の家」と明記されていますが、「むくげの家HP(韓国)」では単に「日本人の家」としか記載されていません。本当に将校の家だったのか疑問です。

また、同女の資料は少な過ぎて内容を検証できるほどのものがありません。「ナヌムの家歴史館ハンドブック」も概略を記載されているイメージに近く、淡々と事実が綴られているだけで、同女の生の言葉は殆ど伝わってこないものです。

しかし、逆に言えば、この資料の少なさ、つまり、他の証言集でとり上げられていないという事実が、同女の証言の信憑性のなさを裏付ける根拠と言えるかも知れません。なお、同女は1993年に元「慰安婦」であったことを申告し、1997年から「ナヌムの家」(注)で暮らしています。証言はかなり取りやすい状況にあったと言えるでしょう。

(注)「ナヌムの家」・・・元・従軍慰安婦の女性達が暮らしている施設。「ナヌム」とは韓国語で「分かち合い」を意味する。


【信憑性】

慰安婦をしていたというのは本当だと思いますが、所々、ウソが紛れている可能性もあると思います。ただ、既に死亡していることから、今後、新しい情報を入手できる可能性は低く、証言の信憑性を裏付ける、又は否定する資料は出て来ないでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房
 1923年に慶尚北道大邱で9人兄妹の三女として生まれる。2000年2月、永眠。10歳の時、父親を亡くし、一家は大変な苦労をする。9歳から通った小学校は11歳で退学し、12歳になった3月から、日本人将校の家で5年間住込みの家政婦となる。17歳になったとき、その将校から、仁川(インチョン)に今の数倍もの給料で家政婦ができる所があるが行ってみないかと言われる。その給料がそのときの4倍にもなったので、ハルモニは仁川に行くことに決めた。
 しかし、汽車に乗って仁川に着くと、そこから船に乗せられた。その船は、中国の青島など数ヵ所を経由して、海南島の中心都市海口に慰安所はあった。「エビス」という名の慰安所で、そこの主人は日本人女性だった。そこで「慰安婦」として働かされた女性たちは皆朝鮮人で、9人から12人いたという。軍人たちは、慰安所へ来ると軍票を置いていった。軍票は、1日に平均6枚ほどを受け取ったが、それは主人がすべて持っていったそうだ。軍人たちはチップを置いていくこともあり、そういうお金は受け取ることができた。あるいは、月末に最も多くの軍人の相手をした女性には、主人から賞金としていくらかのお金を与えられた。~(中略)~ハルモニは、妊娠して数回流産した。主人がハルモニを民間の病院へ連れていき流産させたのだが、その費用は借金となり、そのうえ利子までつけられた。(P.141~142)
2007.4.29現在 むくげの会HP
※リンク先のNo.36(韓国語)
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名前 : 金屋株
1923年大邱市大新洞生まれ
ガイ難度で引かれて行き

大邱大新洞で生まれたの. 私は 9兄と妹の中で五番目だ. 男兄弟五つに女兄弟ノイ. クミョンゾ煮たり炒たりして煮たり炒たりしてあまり暮したの. 二つの歳差であるザックウンオンニして. これからはすべて死んで私一人だけ残ったの. 弟三つも妹さんもすべて死んだの. 私は小学校 3年生までデング?うん. 九歳に入って行って十一歳まで通ったの. 大邱水脹学校, その学校は歴史が深い. 俳優申星一利刀ゴハックギョ出身じゃないの. 八十の前酒庫入って行ったの.

学校やめて, そう熱も歳になる 3月に日本人家に入ります年暮したの. 我家はテッゴリもない都合だから, 李優だ(隣り) 人々が紹介をしたことだ. グジブで食べて寝てした月に 2ウォンもらったの. あの時お金 2ウォンは大金だ. 米が二馬, で言葉になるから. 米言った言葉に 70戦, 80戦したよ. お金受ければすべてオメ(お母さん) 持ってくれたの. 五年始終 2ワンシックズデ.

あの時ゴゲで間違ったの. 考えて見れば. それほどある途中十七肉ドエノンゲ, 顔が不鮮明だから年があるから良いんじゃないの. だからマスモドが仁川で働きに行くと問うことだ. 家政婦に一月に 8ワンズンダで. その十七肉泊ったが, 私が月知っているか? 春なのに 3月であっては, 満十六歳しかならなかったが, 私の誕生日が旧暦で十月スムヨッセナルだから. そう何も分からないの. 森で好きでばかりすることだ.

(※管理人注:上記は機械翻訳)
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