元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 金大日(キム・デイル) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1916年11月5日、黄海道の沙里院で生まれる。家は非常に貧しく、12歳(数え年)の時、わずかな米と引き換えにお手伝いさんとして売られ、その後、日本人の経営する紡績工場に売られる。1932年、「福田」という日本人に「食べ物に困らない所に連れて行ってあげる」と言われ、大阪の病院で雑用をさせられる。18歳の時、そこの院長に強姦され、1934年、院長に見知らぬ日本人に引渡され、以降、12年間、上海等で慰安婦を強いられる。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
病院の院長に売られた後、東京から釜山へ渡り、汽車で新京、ハルピン、チチハル、牡丹江等を経由して上海の慰安所に行く。
【考察】
全体的にウソ臭い内容です。
最初、日本人の男に「食べ物に困らない所に連れて行ってあげる」と言われ、通常なら、その後、慰安所に入れられるパターンなのですが、何故か、一旦、大阪の病院で働いています。そして2年後、院長に慰安婦にさせられているのですが、理由は記載されていません。訳が分かりません。強姦した時、拒んだからでしょうか。
また、上海の慰安所に移動するのに、朝鮮半島を縦断して満州の新京を通り、中国の東北部のハルピン等を経由して到着しています。異常に遠回りです。日本から上海に行くなら、長崎か下関から船で行くのが通常でしょう。
おそらく、大阪の病院で2年間雑用をしていたというのは全くのウソ。最初、男に騙されて満州で売春婦をしていたのでしょう。その事実を隠す為に、大阪の病院のエピソードを挿入したわけです。そして、日本から直接、上海に行ったことにすれば良かったものを、なまじ滞在していた経験があったものだから、ご丁寧に満州を経由したことにしてしまったのではないでしょうか。
また、同女は、「転戦する軍隊に従って中国各地を連れ回された」(「朝鮮人『慰安婦』)と証言していますが、「金学順さんの証言」ではシンガポールにも行ったことになっています。もう無茶苦茶です。
さらに、「朝鮮人『慰安婦』」で同女は、「現在では『従軍慰安婦』と言っているが、私が当時、言われたのは『挺身隊』とはっきり記憶している。」と証言しています。
「従軍慰安婦」=「挺身隊」は韓国で一般に広がっている誤認識であり、韓国政府の公式見解「日帝下軍隊慰安婦実態調査」では明確に無関係なものであると結論づけています。明らかに「従軍慰安婦」=「挺身隊」としたい政治的意図を持った発言です。
なお、北朝鮮の元・従軍慰安婦お約束の日本兵の残虐行為は以下の通りです。
○火のついた煙草を鼻や子宮に入れる
○将校が「おれは、飽きたからお前がやれ」と言ってシェパードをけしかける
○戦闘で負けた腹いせに慰安婦に銃を乱射して殺したり、穴を掘って入れ、手榴弾を投げ込む
○妊婦の腹を裂き胎児を刺し殺した後、妊婦も殺す
○慰安婦150人を並ばせて斬首
【信憑性】
信憑性なし。せいぜい、男に騙されて売春婦、もしくは慰安婦になっただけでしょう。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1992.10 朝鮮人「慰安婦」 在日本朝鮮民主女性同盟中央常任委員会 編 **** 私の実家は余りにも貧しかった。数え12歳のときに、わずかな米と引きかえに金持ちの家に下女として連れて行かれた。そこから日本人の経営する紡績工場に売られた。1932年、数え16歳のある日、今度はフクダという日本人がやってきて、「食べ物に困らないところに連れて行く」と言った。私は、またもや売られてたのである。
私は、フクダと一緒に汽車に乗って釜山港に連れて行かれた。そこには朝鮮女性が20人くらい、あちこちから連れてこられていた。自分がどこへ連れて行かれるのか理解できないままに船に乗せられ、下船したのは下関であった。下関に上陸すると同時に、フクダという男は、「これからは朝鮮語を使ってはいけない。もし使ったら殺す」と脅し、そして「これからお前の名前はシズエだ」と行った。そこから連れて行かれたのが大阪の病院であった。
病院では雑用をさせられた。地で汚れた包帯やガーゼ、患者の大小便で汚れた衣類の洗濯など、日本人が嫌ってしない汚い仕事は全部させられた。
来る日も来る日もべっ視と屈辱的な扱いの中で、長時間の労働を強いられ、外出する機会も与えられず、病院の雑用を押し付けられていた。
数え18歳になったお正月の夜、病院の院長だと名乗った男が、私の部屋に入ってきてナイフを突きつけ、「私の言いなりにならなければ殺す」と脅して、叫び声をあげた私の口を手で押さえて暴行した。その日まで、私は院長の顔も知らなければ会ったこともない。院長は「お前は美しいので、前から目をつけていた」と言った。
それから、しばらく経ったある日、院長が「お前のこの病院で2年も奉公したから、今度はもっと良いところに行かせてあげよう」と言って、見知らぬ日本人の男に私を引き渡した。
その男は、私を東京に連れて行った。そして、日本の軍隊に「挺身隊」として送り込んだ。そこには朝鮮女性が30人くらいいた。1934年のことである。現在では「従軍慰安婦」と言っているが、私が当時、言われたのは「挺身隊」とはっきり記憶している。
そこで、軍隊と一緒に連れて行かれたのが旧満州である。まず、東京から船で釜山へ行き、釜山から汽車で新京、それからハルピン、チチハル、牡丹江であった。そこで私のほかに数人の女性が選ばれて、船に乗せられて連れて行かれたのが上海であった。
上海には既に朝鮮女性が大勢いた。その女性たちは、「あなたはどうしてこんな所にきたの」と言いながら私を哀れんだ。私は、「お姉さんたちと同じように無理やり連れてこられました」と答えるしかなかった。
上海では中国人の民家の2畳くらいの部屋に入れられた。部屋の前には番号が40くらいふってあって、私は12番に入れられた。その夜、将校たちが私を暴行した。それからは1日4、50名もの日本兵が私の部屋の前に列をなし、「早く早く」とせかして先を争い、入れかわるとすぐにのしかかってきた。私は起き上がる暇もなかった。
私が最初に従わせられた軍隊は12師団で、その師団の移動に伴って私たちは引きずり回された。上海の次にはハンカオへ連れて行かれた。そこから南京、トウヨウ、キショウと、転戦する軍隊に従って中国各地を連れ回された。
日本の軍隊のなかでも九州6師団が一番悪かった。他の日本軍は胸に標識をつけていたが、九州6師団はそでに標識をつけていた。
私はこうして12年間も慰安婦生活を強いられたが、中でも6師団に加えられた数々の暴行は、決して忘れられない。彼らは酒に酔ってやってきて短刀を突きつけて、「おれの言うことを聞かないと殺す」と身体を傷つけたりした。「この朝鮮ピー」とさげすみながら私たちを威嚇した。彼らはまた、ほかの兵士が先に入っていても、「早く出てこい」と言って脅し、先の者がまだいるのに押し入ってきて性行為を強要した。
私は、こんな「慰安婦」生活がのろわしくなって自殺を2度も図った。2度ともすぐに発見され、生き返らされてしまった。生かしたのはアキカワという大隊長で、「この女は見殺しにするのは惜しい、使い道があるから生かせ」と言った。私には死を選ぶ自由もなかった。
私は、何か言うと「殺す」と言って脅していた6師団の兵士に、ある日、覚悟を固めて「私も朝鮮人だ。朝鮮人の女の心意気を見せてやる。殺すなら殺せ」と反抗したために縛られて、ひどい拷問を加えられた。それを見ていたアキカワ大隊長が、「それ見ろ。この女は度胸がある。使い物になるから、殺すな」と言って止めた。そのために、私は地獄のような「慰安婦」生活を続けなければならなかった。
ある時、私は50人もの兵士を相手にして気絶してしまった。その私に彼らは「ノーシン」という薬を飲ませて意識を回復させて行為を継続させようとした。しかし、私がもうろうとして使い物にならないとわかると、たばこに火をつけて鼻や口に押し付けるなどの屈辱を加えた。
めったなことではたじろがない私が、恐怖に震えたことがある。それは6師団の兵士の蛮行であった。6師団の一将校が、「おれは、飽きたからお前がやれ」と連れてきたセパード犬を私にけしかけたのである。その時はあまりにもの恐怖で、さすがの私も「助けて」と大声で叫び、周囲の部屋から「慰安婦」たちが飛び出してきたほどである。
こうした屈辱は、私ばかりでなく他の朝鮮人「慰安婦」たちも同じくあじ合わされたばかりか、短刀で傷つけられたり、中には殺された者もいる。
こんなことがあった。私の隣の部屋にいた全羅道出身の知らぬ間に妊娠した。彼らは妊娠しているのもかまわず性行為を強要し、ついには性行為の最中に流産した彼女のおなかを日本刀で切り裂き、出てきた胎児をごぼう剣で刺し殺し、妊婦までも殺したのである。
日本の敗戦も濃厚になってきたころ、軍人たちは、私たちが朝鮮語で話したりすると神経質になって、「日本が負けると言っただろう」と執拗に迫り、日本が負けることになったら「お前ら皆殺しにする」と言って脅した。
日本の敗戦が決定的になったころ、血迷った彼らは、朝鮮人と中国人の慰安婦ら150名くらいを2列に並ばせて、「かかれ」と小隊長が号令をかけた。両端から日本刀を振りかざした兵士らが襲いかかり、皆殺しを始めた。飛び散る血の雨に私は意識を無くして倒れた。私には3、4日くらい時間が過ぎたように思う。意識を取り戻してみたら、その血の海の中で、私のほかに2名が生き残っていた。
はうようにして近くの中国人の家に助けを求めに行った。「私は朝鮮人です。助けてください」と必死に叫んだ。
中国人は数日間かくまってくれて、中国服を一着くれた。それを着て朝鮮人の家を探して行き、そこでしばらく世話になった。8月15日の解放は、その朝鮮人に教えられた。
9月になってどうしても故郷の両親に会いたくて、世話になった朝鮮人の家族に旅費を借りてやっとの思いで故郷に帰ってきた。しかし、両親は既に死亡していた。
私が日本人からもらったものは病気だけ。子宮はメチャメチャにされ、心臓は悪くなり、腸も悪くて下痢ばかりして、今でも病院に通っている。
日本軍の通った中国大陸の隅々には、犠牲になった朝鮮女性の血がしみこんでいる。このことを知ってもらいたい。
日本人に問いたい。立場を変えて、あなた方の娘も姉妹、妻や母が私のような体験をさせられたとしたらどう思いますか。
(キム・デイル 1916年11月5日生 黄海道沙里院市出身)1993.2 金学順さんの証言
「従軍慰安婦問題」を問う解放出版社 編 解放出版社 金大日さんは故郷がピョンヤンの「花子」と呼ばれる女性が産気付くと、残忍な田中という者が、酒を多量にくらって、彼女に襲いかかった。彼は臨月間近の彼女を押し倒し、腹部を切り裂き、胎児を刀の先に刺すという悪魔のような蛮行を敢行したと証言した。(P.148)
上海、シンガポールなどに連行され、「従軍慰安婦」生活を強要された金大日さんは、彼女が上海の「慰安所」にいた時、「そこには伝性病が流行し、数多くの朝鮮女性が一度に命を落とす惨事が発生した。日本軍は患者たちがいる場所に火を放ち、死体をそのまま山中に捨て、シンガポール戦闘で敗戦した残虐無道な日本軍たちは、そのはらいせに従軍慰安婦たちに銃を乱射したり、穴を掘ってその中に入れ、手榴弾で殺した」と証言した。(P.148)
(管理人注:上記内容は「朝鮮民主主義人民共和国「『従軍慰安婦』及び太平洋戦争被害者補償対策委員会」が作成した日本政府宛の告訴状(1992.9)を掲載したもの)1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社 1916年11月5日生まれ
朝鮮民主主義人民共和国開城市在住
私の故郷は黄海道の沙里院です。家はあまりにも貧しく、私は数え年で12歳の時、わずかな米と引き換えに、お手伝いさんとして金持ちの家に連れて行かれました。その後、日本人の経営する紡績工場に売られたのです。
1932年のある日、「福田」という日本人に「食べ物に困らないところに連れて行ってあげる」と言われました。私は、どこに行くかもしらずに船に乗せられたのです。
下関で船から降りると「お前は今から朝鮮人ではないし朝鮮語を使ってはいけない。名前はシズエにする」と「福田」は私に言いました。そして、連れて行かれたところは大阪の病院でした。
私は、ここで雑役をしました。血で汚れた包帯・ガーゼや大小便で汚れた患者の衣類の洗濯など、人の嫌がる仕事ばかりをやらされたのです。
そして、18歳になった正月のことです。それまで、会ったことすらなかった院長が私の部屋に突然入って来て、ナイフを突きつけたのです。そして、「シズエ、俺の言うことを聞かないと死ぬぞ」と言いながら、私の口をふさいで襲いかかってきました。
そのことからしばらくたったある日、院長は「お前はこの病院に2年間も奉公したから、もっと良いところに連れて行ってあげよう」と言い、見知らぬ日本人に私を引渡したのです。1934年のことでした。その男は東京に私を連れて行き、軍隊に「従軍慰安婦」として送り込んだのです。30人くらいの朝鮮人女性は軍隊と一緒に「満州」(中国東北地方)に連れて行かれました。東京から釜山へ渡り、汽車で新京・ハルピン・チチハル・牡丹江を転々としました。兵隊は、途中で動けなくなってしまった女性を「えーい朝鮮人だ」とその場で刺し殺したのです。こうして数え切れないくらいの朝鮮の女性が犠牲になりました。
そして、私と数人の女性が選ばれて、船で連れて行かれたのが上海でした。そこには朝鮮人女性が数多くいました。彼女たちは「なぜこんなところに来たのか」と言って私を哀れんでくれました。
軍隊が接収した中国人の民家の中は1畳くらいの広さに部屋が仕切られていて、ここに閉じ込められました。この部屋の前には1~40番までの番号が付けれていました。つまり40人の女性がいたのです。私の番号は12番でした。兵隊は1人ずつコンドームを持って来ましたが、性病にかかった女性もたくさんいました。~(中略)~
最初の頃は、第12師団に連れ回されて上海・漢口・南京などを転々としました。私は12年間も「慰安婦」生活を強要されたのですが、その中でも九州の第6師団から受けた数々の暴行は決して忘れられません。~(中略)~
ある時、私は50人もの相手をさせられたので、疲れ果てて倒れてしまいました。「ノーシン」という薬を飲まされたものの、意識はもうろうとしたままでした。そしたら兵隊は、火の付いた煙草を私の鼻や子宮に入れたのです。
しかも、次の日にはまた私に襲いかかってきました。それでも満足しない将校は「もう俺はあきたので今度はお前の番だ」と、シェパード犬に私を襲うようにけしかけたのです。さすがの私も恐ろしくて「助けてくれ」と悲鳴を上げました。
そしてこんなこともありました。私の隣の部屋にいた女性が妊娠してしまいました。それにもかかわらず、兵隊たちは性行為を強要した上に、胎児を無理やりだしてごぼう剣で刺し殺し、その女性も殺してしまったのです。兵隊は皆を集め「ほら見てみろ。朝鮮人は死んだぞ」と言ったのです。~(中略)~
日本の敗戦が決定的になった時、兵隊たちは私たち朝鮮と中国の女性150人ほどを2列に並ばせました。そして、小隊長が号令をかけて首切りを始めたのです。飛び散った血の雨で、私は意識を失って倒れてしまいました。気が付くと血みどろになって、私は死体の中に埋まっていました。その血の海の中で助かったのは、私の他には2人だけでした。
やっと起き上がって、そこから2キロくらい離れた中国人の家に辿り着きました。そこの中国人に「私は朝鮮人です。助けてください」と必死に頼みました。家の主人は「お前を助けると私が殺されると言ったものの、家の奥の部屋で5~6日間かくまってくれました。それだけでなく、お風呂にも入れてくれて中国人の服までくれたのです。(P.96~102)
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