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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 李福汝(イ・ボクニョ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1919年4月18日、4人兄弟の長女として生まれる。両親は早くに死亡し、橋の下で雨露をしのぎながら乞食をしたり農家の手伝いをしたりして弟たちを養う。17歳(数え)の夏、住んでいた小屋に巡査か兵隊の日本人2人に無理やりトラックに乗せられ、中国の大連、ハルピン、牡丹江を経てプチャゴルに連れて行かれ、以降、8年間、慰安婦を強いられる。毒殺されそうになって逃げ出して中国人にかくまってもらい、1947年に帰国する。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

巡査か兵隊が同女をトラックに無理やり乗せ、汽車でプチャゴルの慰安所まで連れて行かれる。


【考察】

北朝鮮の証言者のお決まりのパターンの証言です。

強制連行が明白で、慰安所がどういう建物で、どういう人達がいて、どういう風に暮らしていたのか等は全く不明。あるのは、以下の通り、日本兵の残虐さや「天皇=悪」を印象づける内容のみ。

 ○「将校が『天皇と軍の命令だ。言うことを聞かないと殺す』と言いました」
 ○言うことを聞かない女性を木に吊るし、「奴らは刀で彼女たちの乳房をえぐり取ったのです」
 ○殺した女性の首を沸いた湯に入れ「その煮汁を私たちに飲めと強要しました」
 ○「逃げ出せないように足の神経を切られてしまったのです」
 ○逃亡しようとして捕まった同女に対して「兵隊たちは赤く焼いた鉄棒とドラのような鉄板を私のお尻に押し付けたのです」
 ○「ある時、奴らは私たちの食事に毒薬を入れました」
 (※「写真記録 破られた沈黙」より) 


同女の証言の疑問点は以下の通りです。

<同女が連行される際の弟たちの言葉>
 「お姉ちゃん行くな」と弟たちが泣き叫んでいたことになっています。これは、姉が自発的にどこかへ行こうとする時に掛けられる言葉です。無理やり拉致されているのですから、「お姉ちゃんを連れて行くな」が本来、出てくる言葉でしょう。想像に過ぎませんが、売春宿で働くことに決めた同女が弟たちに掛けられた言葉が「お姉ちゃん行くな」で、あまりに強烈に印象に残っている為、修正し忘れたのかも知れません。

<トラックに女性100人>
 いくら大きいトラックと言っても100人も乗ってたと証言するのは無茶過ぎます。複数のトラックだった可能性もありますが、集めた資料の中には複数台だったとの記述はありません。

<足の神経を切られる>
 同女は逃亡しようとして失敗し、足の神経を切られたと証言しています。足の神経なんてどうやって切るのか良く分かりませんが、逃亡防止用に切るとしたら足の腱でしょう。

<慰安婦を毒殺>
日本兵は、慰安婦を毒殺しようとしますが、同女だけ食事に遅れて助かったそうです。同女が中国人に助けられたのが1944年なので、どうやらこれは1944年頃の話のようです。
何故、慰安婦を毒殺しなければならないのか全く分かりません。終戦を迎えたわけでもなく、まだ、慰安婦は必要でしょう。また、何らかの理由があって全員殺害するつもりであったのなら、運良く毒殺を免れた後、足の悪い同女が逃げることができたと言うのも不可解です。


なお、「金学順さんの証言」(以下「金学」)には、北朝鮮の慰安婦関連の組織がまとめた告訴状が掲載されているのですが、そこに記載されている日本兵の残虐行為は、「写真記録 破られた沈黙」(以下「写真」)と整合性がありません。

<乳房をえぐりとられた女性が、そうされた理由>
○「金学」・・・入浴するのに応じなかったので
○「写真」・・・相手をするのを拒否したので
→ 言うことを聞かなかったという点では同じですが、「写真」では、木に吊るされて乳房をえぐりとられただけなのが、「金学」では、逆吊りにされ、乳房をえぐりとっただけでなく、陰部に銃を打ち込んだことになっています。

<人の頭を煮込んだ煮汁>
○「金学」・・・捕まえてきた中国人の頭を煮込んだもの
○「写真」・・・上記の乳房をえぐりとった女性の頭を煮込んだもの


【信憑性】

信憑性なし


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992.10 朝鮮人「慰安婦」 在日本朝鮮民主女性同盟中央常任委員会 ****
私は4人兄弟の長女として生まれたが、両親は弟3人と私を残して亡くなった。乳飲み子の弟は、母の死後まもなく死んでしまった。私は6歳と7歳の幼い二人の弟の面倒を見なければならなかった。

 住む家もなかったので、橋の下で雨露をしのぎながら、もらい乞食をしたり、農家の手助けをして生きるだけの食べ物を得て弟たちを養っていた。

 私が数え17歳の夏であった。弟の一人が風邪気味なので、居住していた小屋に寝かせておいて食べ物をもらって帰ってきたら、日本人の、巡査なのか兵士なのか区別ができない男が二人あらわれて、いきなり有無を言わせずに、私の髪の毛をつかんで大きなトラックに放り上げるように乗せた。弟たちが驚いて「お姉ちゃん行くな」と泣き叫ぶ声に振り返ろうとしたが、男たちに蹴られて車に押し込められた。弟たちの「行くな」という声だけが聞こえてきて、姿は見ることができなかった。

 トラックには、既に大勢の女性が乗っていた。幼い少女から20歳前後の娘たちでいっぱいであった。100人くらいはいたと思う。彼女たちは泣きわめいていたが、男たちは泣き叫ぶ私たちに蹴る殴るの暴行を加えながら黙らせた。周囲をうかがおうとしたら、「何を見ている」と言って足で蹴られた。

 水原の駅から汽車に乗せられてソウルを経て大連に連行された。途中、鴨緑江のペネンという所で汽車が途中で止まったので、こっそり外をのぞいたら、鉄橋が二つに分かれて上がっていて川を横切る船が過ぎ去っていくのが見えた。そんな私を見とがめた男が、「何を見ている」と言って髪の毛をつかんで殴った。私は弟のことも心配だったし、これから何が起きるかもわからないので不安で泣きだしたら、また殴られた。

 途中で娘たちの一部を降ろして行きながら、ハルピン、ボンチョン、牡丹江などを経由して東寧県北満州に到着した。そこで汽車を降りた。そこからはトラックに乗せられてプチャゴルに連れて行かれた。

 プチャゴルには20人くらいの娘たちが連れて行かれた。到着すると将校がでてきて、「天皇と軍の命令だ。言うことを聞かないと殺す」と言って私たちを脅した。私は5号室に入れられたが、やがてあちこちの部屋から悲鳴が聞こえてきた。私はその日のうちに暴行された。

 私は訳がわからないままに慰安婦にされてしまった。

 それからは慰安婦として毎日2、30人の相手をされた。拒否すると見せしめに庭に引きづり出され木につるされ、「降参しろ」と迫った。

 私たちが到着して間もなくのある日、2人の女性が慰安婦を拒否したというので木につるされていた。軍人たちは「慰安婦」たちを全員呼び集めた目前で「降参しろ」と迫った。しかし、彼女たちは「おまえら犬のようなやつに降参するか」と抵抗した。たけり狂った軍人は、私たちの目の前で乳房をえぐり、なぶり殺しにした。私は余りの残酷さに気絶してしまった。

 鬼のような軍人たちは、2人の慰安婦の首を切り取り、それを、かまゆでにして、その煮汁を私たちに飲めと強要した。しかし、それを拒否すれば、私たちも殺される。殺されては生き延びる手立てもない。仕方なしに私たちは、それを飲んだ。こうしたことを、私たちは何度か体験した。

 「慰安婦」たちは、常に20人くらいいた。病気で死亡したり逃亡に失敗して殺されたりした欠員は補充されていた。

 ここの慰安所には8年いたが、そこにいた軍の部隊の名称はわからない。タカシマという名前と、イケダという50歳過ぎの眼鏡をかけたひげを生やした将校(大将)がいたことは記憶している。このイケダは、逃亡に失敗した私に拷問を命令した男である。

 あるとき私は逃亡しようとして失敗した。捕らえられた私は、板にくくり付けられて何十人もの男たちに犯されて、2度と逃げ出さないようにするといって、足の神経を切られた。それがために現在の、この不具の体になった。

 それから私は東寧県に連れて行かれ、そこで騎馬隊-騎兵隊に引き渡された。そこでは、砂地に天幕を張っただけの所に入れられた。そこには鉄条網が張られていたが、私は、そこをくぐって、またも逃亡しようとして失敗した。その鉄条網に鈴がついていたのを知らなかったのである。その時には、火で焼いたドラのような鉄板でお尻の右側に火傷をおわされる拷問を受けた。その時の火傷がケロイド状態で今でも残っている。(調査団のメンバーが肉眼で確認済み)。その火傷のために足がつって歩行困難になってしまった。いまだに、食をするのにもキチンと座ることができない。

 それでも、はってでも逃げようと、私は逃亡することだけ考えていた。

 ある時、チシャ(サラダ菜)に包んでご飯を食べていた慰安婦たちが、2口ほど食べたところで次々と倒れて死亡した。私は、歩行が不自由なので食事に遅れたが、それが幸いして、そのチシャを食べずにすんだ。

 私は、はってそこを逃げ出した。その私を村の中国人が助け出してかくまってくれた。それが1944年であったと思う。中国人は朝鮮に逃げなさいと教えてくれた。1947年清津に帰国した。

 私は、私の青春時代に、花の年齢に、私を拉致して「慰安婦」にし、こんな障害者にした日本軍人を許さない。

(リ・ポクニョ 1919年4月18日生 京畿道出身)
1993.2 金学順さんの証言
「従軍慰安婦問題」を問う
解放出版社 編 解放出版社
 また、李福女さんは、「隣の部屋にいる三〇歳くらいの女性にやつらが群れをなして襲いかかり、入浴するのに応じないと、野獣たちは礼儀を教えてやると、言いながら、「従軍慰安所」にいる女性たちを全て外に集め、その女性を連れ出し、木にさかさに吊るし、飢えた狼のように襲っていき、銃で思いっきり叩き、乳房をえぐり、陰部に銃を撃ち込んだ。そしてやつらは、お前たちも「皇軍」の要求に応えないと、このように殺すと脅した」と言った。
 彼女は続いて「一度は、やつらが捕まえてきた中国人の首を切り、釜ゆでにし、頭を高い杖台に皆が見えるように置いて、その湯を朝鮮女性たちに強制的に飲ませた」と言葉を詰まらせながら証言した。(P.147)


(管理人注:上記内容は「朝鮮民主主義人民共和国「『従軍慰安婦』及び太平洋戦争被害者補償対策委員会」が作成した日本政府宛の告訴状(1992.9)を掲載したもの)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
1919年4月18日生まれ
朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道在住

 私は4人兄弟の長女で、弟3人がいました。ところが、両親は私たちを残して死んでしまい、一番下の乳飲み子だった弟もお母さんに続いて死んだのです。
 住む家もないので、橋の下で雨露をしのぎながら、乞食をしたり農家の手助けをして弟たちを養いました。
 私が数え17歳の夏、住んでいた小屋に帰って来ると、巡査か兵隊なのかわからない日本人の2人の男が現れたのです。彼らは私の髪の毛をつかんで、放り投げるように大きなトラックに乗せました。弟たちが「お姉ちゃん行くな」と泣き叫んだので私は振り返ろうとしたのですが、男たちに蹴られてトラックに押し込められました。その中には、幼い少女から20歳前後までの娘たちでいっぱいで100人くらいいました。男たちは、泣き叫ぶ私たちを殴ったり蹴ったりして黙らせたのです。
 水原の駅から汽車に乗せられ、中国の大連に連れて行かれました。私たちが列車の外をのぞこうとすると、「何を見ている」と兵隊は髪を引っ張ったり足で蹴ったりしました。私は、弟たちのことも心配だしこれから何が起きるかという不安で泣き出したのですが、そしたらまた殴られたのです。
 兵隊たちは、途中のハルピンや牡丹江などで娘たちの一部を汽車から次々と降ろして行きました。私は東寧県で汽車を降ろされ、20人くらいの女性たちとトラックでブチャゴルに連れて行かれました。到着すると将校が「天皇と軍の命令だ。言うことを聞かないと殺す」と言いました。
 私は5号室に入れられ、着いたその日から強姦されたのです。あちこちの部屋からも悲鳴が聞こえてきました。それからは、少ない日でも30人くらいの日本兵を相手にしなければなりませんでした。
 ある日、2人の女性が兵隊の相手をするのを拒否したということで、両手を縛られ庭に引っ張られて来ました。兵隊たちは、私たちを呼び集めて2人を高い木に吊るしたのです。その娘たちは兵隊に「犬のようなお前たちの言うことなんか聞かない」と言いました。そうしたら、奴らは刀で彼女たちの乳房をえぐり取ったのです。血が吹き出しました。あまりにも残酷なので私は気絶してしまいました。
 彼女たちが死ぬと兵隊たちは首を切って沸いた湯の中に入れました。そして、その煮汁を私たちに飲めと強要しました。拒否すれば私たちも殺されるので、生きるために仕方なく飲んだのです。
 女性たちの数はいつも20人くらいで、病気で死んだり逃亡に失敗して殺されたりすると新しい女性が補充されました。ある時、私は逃げようとして捕まってしまいました。板にくくり付けられて何十人もの兵隊に犯され、逃げ出せないように足の神経を切られてしまったのです。
 そして、別の部隊に移されて砂地に天幕を張っただけの所に入れられました。私は、鉄条網の下をくぐって逃げようとしましたが、鉄条網に鈴が付いていたのを知らなかったので再び捕まってしまいました。
 すると、兵隊たちは赤く焼いた鉄棒とドラのような鉄板を私のお尻に押し付けたのです。この時の火傷はケロイドになってしまったので今でも歩くのが困難で、痛くて横になることもできないほどです。
 ある時、奴らは私たちの食事に毒薬を入れました。私は火傷のために早く歩けなかったので食事に遅れたのですが、私が行った時には先に食べていた女性たちがすでに死んでいたのです。私は、這って逃げ出して、その村の中国人にかくまってもらいました。私はここの「慰安所」に8年間いました。
 体の火傷の跡を見てください。正視できないほどです。1947年に帰国しましたが、故郷には帰れませんでしたし、子どもを生むこともありませんでした。(P.38~41)
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◆◆◆ 金玉珠(キム・オクジュ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1923年に慶尚北道大邱で9人兄妹の三女として生まれる。10歳の時、父親が死亡し一家は大変な苦労をする。9歳から通った小学校は11歳で退学し、12歳になった3月から、日本人将校の家で5年間住込みの家政婦となる。17歳の時、その将校から、仁川(インチョン)に今の数倍もの給料で家政婦ができる所があるが行ってみないかと言われ承諾する。しかし、仁川(インチョン)からさらに船に乗せられ、海南島(中国南部広東省雷州半島の南方)に連れて行かれ慰安婦を強いられる。

2000年2月死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

汽車で仁川まで行き、以降、船を乗り継ぎ海南島の慰安所まで行く。(※どの程度、公権力の関与等があったかは、集めることができた資料からは不明)


【考察】

日本人将校の家に家政婦として勤めていたところ、もっと条件の良い家政婦の働き口を紹介されて行ってみたら慰安婦にされたという話です。

ただし、下記資料の「ナヌムの家歴史館ハンドブック」には「日本人将校の家」と明記されていますが、「むくげの家HP(韓国)」では単に「日本人の家」としか記載されていません。本当に将校の家だったのか疑問です。

また、同女の資料は少な過ぎて内容を検証できるほどのものがありません。「ナヌムの家歴史館ハンドブック」も概略を記載されているイメージに近く、淡々と事実が綴られているだけで、同女の生の言葉は殆ど伝わってこないものです。

しかし、逆に言えば、この資料の少なさ、つまり、他の証言集でとり上げられていないという事実が、同女の証言の信憑性のなさを裏付ける根拠と言えるかも知れません。なお、同女は1993年に元「慰安婦」であったことを申告し、1997年から「ナヌムの家」(注)で暮らしています。証言はかなり取りやすい状況にあったと言えるでしょう。

(注)「ナヌムの家」・・・元・従軍慰安婦の女性達が暮らしている施設。「ナヌム」とは韓国語で「分かち合い」を意味する。


【信憑性】

慰安婦をしていたというのは本当だと思いますが、所々、ウソが紛れている可能性もあると思います。ただ、既に死亡していることから、今後、新しい情報を入手できる可能性は低く、証言の信憑性を裏付ける、又は否定する資料は出て来ないでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房
 1923年に慶尚北道大邱で9人兄妹の三女として生まれる。2000年2月、永眠。10歳の時、父親を亡くし、一家は大変な苦労をする。9歳から通った小学校は11歳で退学し、12歳になった3月から、日本人将校の家で5年間住込みの家政婦となる。17歳になったとき、その将校から、仁川(インチョン)に今の数倍もの給料で家政婦ができる所があるが行ってみないかと言われる。その給料がそのときの4倍にもなったので、ハルモニは仁川に行くことに決めた。
 しかし、汽車に乗って仁川に着くと、そこから船に乗せられた。その船は、中国の青島など数ヵ所を経由して、海南島の中心都市海口に慰安所はあった。「エビス」という名の慰安所で、そこの主人は日本人女性だった。そこで「慰安婦」として働かされた女性たちは皆朝鮮人で、9人から12人いたという。軍人たちは、慰安所へ来ると軍票を置いていった。軍票は、1日に平均6枚ほどを受け取ったが、それは主人がすべて持っていったそうだ。軍人たちはチップを置いていくこともあり、そういうお金は受け取ることができた。あるいは、月末に最も多くの軍人の相手をした女性には、主人から賞金としていくらかのお金を与えられた。~(中略)~ハルモニは、妊娠して数回流産した。主人がハルモニを民間の病院へ連れていき流産させたのだが、その費用は借金となり、そのうえ利子までつけられた。(P.141~142)
2007.4.29現在 むくげの会HP
※リンク先のNo.36(韓国語)
***** ****
名前 : 金屋株
1923年大邱市大新洞生まれ
ガイ難度で引かれて行き

大邱大新洞で生まれたの. 私は 9兄と妹の中で五番目だ. 男兄弟五つに女兄弟ノイ. クミョンゾ煮たり炒たりして煮たり炒たりしてあまり暮したの. 二つの歳差であるザックウンオンニして. これからはすべて死んで私一人だけ残ったの. 弟三つも妹さんもすべて死んだの. 私は小学校 3年生までデング?うん. 九歳に入って行って十一歳まで通ったの. 大邱水脹学校, その学校は歴史が深い. 俳優申星一利刀ゴハックギョ出身じゃないの. 八十の前酒庫入って行ったの.

学校やめて, そう熱も歳になる 3月に日本人家に入ります年暮したの. 我家はテッゴリもない都合だから, 李優だ(隣り) 人々が紹介をしたことだ. グジブで食べて寝てした月に 2ウォンもらったの. あの時お金 2ウォンは大金だ. 米が二馬, で言葉になるから. 米言った言葉に 70戦, 80戦したよ. お金受ければすべてオメ(お母さん) 持ってくれたの. 五年始終 2ワンシックズデ.

あの時ゴゲで間違ったの. 考えて見れば. それほどある途中十七肉ドエノンゲ, 顔が不鮮明だから年があるから良いんじゃないの. だからマスモドが仁川で働きに行くと問うことだ. 家政婦に一月に 8ワンズンダで. その十七肉泊ったが, 私が月知っているか? 春なのに 3月であっては, 満十六歳しかならなかったが, 私の誕生日が旧暦で十月スムヨッセナルだから. そう何も分からないの. 森で好きでばかりすることだ.

(※管理人注:上記は機械翻訳)

◆◆◆ 尹順萬(ユン・スンマン) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1930年1月15日、忠清南道にて生まれる。父は独立運動をしていて行方をくらました。1941年3月、13歳(数え年)の時、4人の日本兵が来て連行され東京の紡績工場で働かされる。約2年後に大阪に送られ慰安婦を強いられ、その後、あまりに抵抗するので中国の前線に送られる。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本兵が来て連行された。


【考察】

同女の証言について手に入れられたのは下記資料の「写真記録 破られた沈黙」のみで、しかも、同書に掲載されている他の証言に比べて異常に短いものです(※下記資料は同女の証言の全文)。
連行された時の様子も分からなければ、どのように移動したのかも不明。紡績工場や慰安所の様子も全くなし。よく、こんなレベルのものを証言として掲載したなという内容です。

日本兵に連行され、東京の紡績工場で働いた後、大阪で慰安婦にされ、最終的に中国に送られたそうです。言ってる内容も胡散臭いものなら、その内容も漠然的。本人が「慰安婦だった」と言いさえすれば何でもいいのでしょうか。

来日して証言集会に参加する等、証言に積極的な割りには、同書以外の証言集では取り扱われていません。証言として取り上げようが無いからでしょう。


【信憑性】

信憑性云々と言う以前の問題でしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 1930年1月15日生まれ 
 大韓民国ソウル市在住

 私は忠清南道で生まれました。お父さんは、独立運動をしていて行方をくらましました。
 そのことからしばらくすると、家に日本兵が来て叔父さんと叔母さんの夫を連行したのです。叔父さんは九州の炭鉱で働かされ、叔母さんの夫は行方がわからなくなったのです。
 1941年3月4人の日本兵が来て、今度は数え年で13歳の私が連行されました。下関で身体検査をされて、背の高い人と低い人とに分けられました。私は低かったので、東京の紡績工場でしたが、背の高かった人は「慰安所」に連れて行かれたと思います。
 工場での2年間ほどは、毎日のように糸を撚りました。空腹と睡魔との戦いでした。
 ある日、私を含めた7人の朝鮮人女性が大阪に送られました。そこで「慰安婦」にされたのです。
 噛みついたりして、私はいつも激しく抵抗しました。そのため、今度は中国の前線に送られてしまったのです。
 そこでも抵抗しました。そしたら兵隊から髪の毛をわしづかみにされ、左腕をひねって床に倒されたのです。腕は折れて腫れ上がり、あまりの痛さにただ泣いていました。しかも、治療せずに放置されたので、今も曲がったままになっています。
 夫は私の過去を知らないまま亡くなりました。娘が1人いますが、まだ結婚できないのは私のせいだと思っています。
 現在は1人暮らしですが、娘がいるということで生活保護も受けられず、清掃の仕事をして生活しています。(P.90~91)
2003.8.8 しんぶん赤旗 ***** ****
「戦時性的強制問題の解決がなければ目を閉じて死ねない」--。韓国と台湾から来日した「従軍慰安婦」被害者が七日、謝罪と補償を求める要求書を日本政府と参議院に提出し「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」のすみやかな成立を申し入れました。国会では記者会見を兼ねた集会が開かれました。~(中略)~参議院への申し入れでは、韓国の被害者・尹順萬さんが、日本軍兵士から暴行を受け、折られた左腕が今も曲がったままで、右足は切りつけられたため歩くのに不自由していると訴えました。被害者たちは口ぐちに「生きている間に立法による解決を、謝罪と補償を」と求めました。

◆◆◆ 金允心(キム・ユンシム) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1930年全羅南道海南生まれ。1943年13歳の時、友達とゴム縄遊びをしていたところ、トラックがやってきて「トラックに乗りたいなら乗ってみないか」と言われ乗るとそのまま光州まで連れていかれ監禁される。その後、汽車、船と乗り継ぎハルピンへ連れて行かれ慰安婦を強いられる。1回目の脱走の時に、訪れた家が日本の軍人の家で、スパイ容疑をかけられ拷問された後、慰安所に戻される。2回目の脱走の時には、中国人の船に忍び込み、その後、朝鮮に戻る。(「元『慰安婦』の証言 -五〇年の沈黙をやぶって」より)

1998年、自伝「海南(ヘナム)の空へ」で、チョン・テイル文学賞を受賞。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

軍人一人、巡査(もしくは軍人)一人、が乗った車に拉致される。


【考察】

下記資料の「元『慰安婦』の証言」(以下「元慰」)と「私は『慰安婦』ではない」(以下、「私は」)、及び、「海南(ヘナム)の空へ」(以下、「海南」)を比べると以下の通り相違点があります。

<拉致された乗り物>
○「元慰」・・・トラック
○「私は」・・・自動車
○「海南」・・・自動車
→ 最初、トラックと証言していたものが、途中から自動車になっています。「元慰」ではトラックに乗せられて連行されたのは同女一人です。車が珍しいほどの田舎にわざわざトラックでやってきて、一人だけ連行するのはあまりにも非合理的な行動なので、せめて、自動車に変更したのでしょうか。

<車に乗っていた人>
○「元慰」・・・巡査一人、軍人一人、韓国語のうまいおじさん
○「私は」・・・軍人二人(※別途運転手がいたと思われます)
○「海南」・・・おじさん、巡査一人、軍人一人
→ 「私は」だけ微妙に違っています。

<一緒に拉致された人>
○「元慰」・・・自分一人
○「私は」・・・友だち二人も一緒に車に乗る
○「海南」・・・自分一人
→ 友達二人も一緒に拉致されたことになっているのは「私は」だけです。「私は」では、一緒に拉致された友達は寝ている間にどこかへ送られてしまったようです。

<汽車に乗った時間>
○「元慰」・・・次の日の夜
○「私は」・・・記述なし
○「海南」・・・次の日の朝
→ 微妙な違いですが

<船で受けた行為>
○「元慰」・・・該当する記述なし
○「私は」・・・手足を縛って水に漬けられる
○「海南」・・・手足を縛られ船の端に座らされ、海に放り投げてやると脅されただけ
→ 水に漬けられた話が、単に脅されただけに変わっています。

<ハルピンの慰安所に一緒に入れられた女性>
○「元慰」・・・4人
○「私は」・・・30人
○「海南」・・・5人
→ 7倍以上に増えた後、減っています。「私は」では、とにかく女性達が次々と死んでいったことになっています。辻褄合わせの為に、慰安所の女性を増やしたのでしょう。

<ハルピンの慰安所の建物の様子>
○「元慰」・・・「家」としか記述されていない
○「私は」・・・「私たちが暮らすと言われた家は洞窟のようで、入り口だけ木で作ってありました。その中に入れられロウソクの明かりで毛布を敷いて寝ました」
○「海南」・・・テント小屋で部屋はタタミ2枚分ごとに仕切られていた
→ 洞窟のような家とテント小屋では全く違います。良心的に解釈して「中が洞窟のように暗かった」と言うことでしょうか。

<脱走(1回目)後、日本の軍人に捕まった時の様子>
○「元慰」・・・足をふいた後、ある家を見つけて訪ねたら、スパイ容疑をかけられる
○「私は」・・・やっと見つけた家に入るとスパイ容疑をかけられる
○「海南」・・・足を洗わせてもらおうと、ある家に入ったらスパイ容疑をかけられる
→ せっかく見つけた家が日本の軍人の住む家だったわけですが、微妙な表現の中に大きな違いがあります。
「私は」は、漠然としてその時の様子が全く不明ですが、「元慰」と「海南」では、その家にたどり着くまで、どろ道でぬかるんでいたので裸足になって逃げていたことになっています。
そして、「元慰」では、足をふいた後に家を訪ねているので、恐らく、助けを求めるか、食事を分けてもらうか等の理由のために玄関から入っていったのでしょう(※ただし、玄関から入ったとは明記されていません)。そして、「だれだ。入れ」と招き入れられています。玄関から訪ねてくるスパイなんかいるわけがなく、なぜ、スパイ容疑をかけられたか不明です。
そこに気がついたのか、「海南」では、家に入った目的が「足を洗うため」と明示されています。「元慰」と違って、家を訪ねる前に足をふいたという記述もなく、泥足のままです。その時の様子は具体的に記述されていませんが、足を洗おうと軍人の家の庭先の井戸あたりでウロウロしていたところを見つかったのなら、「誰だ!手をあげろ」とスパイ容疑をかけられた辻褄も合ってきます。

<後から連れて来られた女性>
○「元慰」・・・追加なし(※1回目の脱走後、捕まって戻された後、「『お姉さん』四人と私をいれて五人で軍人たちとすごしたのです。」とあり最初から人数は変わっておらず、また、その後、女性が追加されたとの記述はありません)
○「私は」・・・具合が悪いと傍目からも分かるようになった女性や臨月の女性は連れて行って、別途、十人ずつ五人ずつ人と連れて来る
○「海南」・・・追加で連れて来られたことを示す記述なし
→ 一緒に入れられた女性の数と言い、追加された女性の数と言い、「私は」だけ大判振る舞いです。その分、死んだことになっていますが。

<脱走するようアドバイスしてくれた人>
○「元慰」・・・労務者のおじさん
○「私は」・・・ある軍人
○「海南」・・・労務者のおじさん
→ 何故か、「私は」だけ異なっています

<一緒に脱走(2回目)した人数>
○「元慰」・・・同女のみ
○「私は」・・・同女を含めて三人(※逃げてる最中に離れ離れになって結局一人になる)
○「海南」・・・同女のみ
→ 「私は」だけ異なっています

なお、連行された年齢が13歳と14歳で異なっていますが、満年齢と数え年の違いでしょう。(ただし、朝鮮新報の記事では、慰安所に来たのが16歳になっている。)


その他、同女の証言内容の疑問点は以下の通りです

○同女がハルビンの慰安所に到着するまでの経路は以下の通りです。

 全羅南道海南(朝鮮半島南端) → <車> → 光州(朝鮮半島南部) → <鉄道>
 → どこかの波止場 → <船> → どこかの波止場 → トラック → ハルビン

ハルビンは中国東北部で海に近い場所にあるわけではなく、結構、内陸部です。そんな場所に行くのに途中、船を使用して、後はトラックで行ったというのは甚だ疑問です。また、ハルビンは満州鉄道が通っており、鉄道を使用するのが普通でしょう。なお、「私は」では「船から降ろされてみると、何もない野原。『そこで暮らすのだ』」とあり、慰安所の場所が海のすぐ近くであったことになっています。

○食事は、「塩水をぬったおにぎりを1日に3回与えられるだけ」(しかも、1個だけ)だったと証言していますが、そんな粗末な食事の割りには、脱走時に一晩中、走り(又は歩き)続けるなど結構、体力があります。

○1943年に連行されて1946年6月に朝鮮で母と再会したと記載されている(「海南」)ので、同女は、約3年間慰安婦生活をしていたことになります。2年間も慰安所で過ごしていながら、そこでの生活を語った内容があまりにも希薄でリアリティに欠けます。また、同女の自伝本である「海南」では、慰安所での内容が他よりも充実していてもおかしくないのですが、他の証言とほとんど同じです。管理人も出てこないし、性病検査やサックの話もない、一緒にいた他の女性がどのような人達であったかも不明です。


【信憑性】

証言毎に所々、全く違う内容を証言していますし、全体的にウソ臭い内容です。人さらいにさらわれて売春宿に売られただけではないでしょうか。慰安所で慰安婦をしていたということすら疑問です。信憑性はないでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1997.6 元「慰安婦」の証言 -五〇年の沈黙をやぶって アジア・フォーラム編 皓星社
私が一三歳、一九四三年の春のことです。~(中略)~小学校を卒業していました。ある日のこと、外で友だちとゴム縄遊びをしていました。急にトラックが一台やってきました。
私の故郷はたいへんな田舎だったのでトラック一台を見ることも子どもの大きな関心をよびました。私はゴム縄遊びをやめて、トラックについていきました。トラックには巡査が一人、軍人が一人、韓国語のうまいおじさんが一人の合計三人乗っていました。韓国語のうまいおじさんが「トラックに乗りたいなら乗ってみないか」と言いました。私はその言葉を聞いてうれしく思いました。私は足をトントンさせてトラックに乗りました。するとその人たちはすばやくトラックを発車させたのです。私はおどろいて、泣きながら「降ろしてください」と頼みましたが、聞いてもらえませんでした。トラックは長い時間走って、光州(カンジュ)に着きました。そして、私が連れて行かれたところには、私より年長の「お姉さん」が一八人いました。私はそこで「お姉さん」たちと話をしました。そこで閉じこめられたのです。
ある晩「お姉さん」たちと一緒に連れ出されて、次の日の夜、夜行列車に乗せられました。それはたいへん汚い汽車でした。日が昇って、汽車はどこだかわからないところに着きました。そこで汽車を降りて、食事をとりました。そこは波止場のある港でした。そこから船に乗ってまたどこかに連れて行かれました。着いたところで閉じ込められました。~(中略)~いく日かして、急に外へ連れ出されました。目がくらみそうでした。そこには軍人が乗った車が何台かありました。その軍人トラックは、私たちと何人かが乗ると発車し、どこへともなく出発しました。何日も走りました。私たちが連れて行かれたところは広い野原に見渡すかぎり軍人がいるようなところでした。そこは臨時におかれた兵営で、普通の家はどこにも見あたりませんでした。私が連れて行かれた家には、私と四人の「お姉さん」と合わせて五人が入れられました。~(中略)~私たちが着いたところは「ハルピン」というところでした。(P.20~21)

ある妊娠した女性の話をします。九ケ月になっても後ろ手にしばられて、たたされたまま「関係」を強要されていました。また、赤ちゃんを産んだ方がいます。看護婦がやってきて、産まれたばかりの赤ちゃんを袋に入れました。泣き声もきこえました。双子だったように思えました。胎盤も一緒に袋に入れていたのです。看護婦は赤ちゃんの入った袋をどこかにもって行ってしまいました。その女性は二度と赤ちゃんと会うことはありませんでした。(P.22)

ある日、私は五〇銭のお金をもっていました。そのお金をもって脱出しようと思いました。その晩は雨が降っていました。その家を逃げ出したのです。故郷へ、お母さんのところへ逃げよう。雨が降って、土はぐちゃぐちゃでした。冬がすぎ、春がきていましたが、まだ土は固く風は冷たく吹いていました。深い闇の中、私は屠殺場のような家を逃げ出したのです。靴を脱いで、手に持ちました。どろ道はぬかり、足の甲まで沈んでしまうようでした。どのくらいかして私は力がぬけていくようでした。私は足をふいて、とある家を探したずねました。これがどうしたことか、その家も日本の軍人が住んでいる家だったのです。私はたいへんあわてました。そこにいた軍人たちも私を見て「だれだ。入れ」と言いました。私はあまりに疲れてしまっていました。~(中略)~
そして、その憲兵たちに言いました。「私は軍人たちといっしょに生活していました。故郷のお母さんに会いたくて、夜、逃げてきました」と。憲兵たちは電話で連絡して、その通りだということを確認すると、私を元の場所に戻しました。また夜のえじきになったのです。「お姉さん」四人と私をいれて五人で軍人たちとすごしたのです。(P.22~23)

飛行機の音がすると、私たちは防空壕に入りました。あちこちに防空壕があり、それは日本軍のためのものがほとんどでした。ある日のこと、日本の軍人たちが防空壕に逃げた時、労務者のおじさんが私たちに言いました。「お姉さんたち、ここにいたら、家に帰ることはできなくなるよ。一日も早くここを逃げなさい。今家に行かないと永遠に親兄弟に会えなくなるよ」と。その言葉を聞いて考えました。春雨がぼそぼそと降る晩、私はその怖い家を逃げ出しました。一晩中歩いて、夜が明けました。そこは港の波止場でした。数知れずの船がありました。私はそのひとつに乗りました。(P.24)
1997.8 私は「慰安婦」ではない
日本の侵略と性奴隷
「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」実行委員会 東方出版
 私は韓国から来た金允心です。私は日帝時代(日本による植民地時代)、14歳の時、国民学校を卒業して二か月ほどして、日本の軍人たちに捕まえられて行きました。どうだったかというと、友達と三人で外でゴム跳びをして遊んでいたら、自動車が一台来たんです。うちは全羅南道海南という所で、田舎でした。そこでは生まれてから死ぬまで汽車を一度も見ずに死んだ人が多いです。今現在もそんな田舎です。
 だから自動車が一台来た時、私たちはほんとうに嬉しくて、ゴム跳びを止めて、自動車の横に立って触ってみました。すると、軍人二人が後ろに座っていて、「自動車がそんなにいいか。上がってこい。乗せてやる」と言いました。
 それで三人で乗りました、嬉しくて。ちょっとだけ回ってから連れて帰ってくれると思ったのに、「降ろしてください」と言うと、「もう少し行けば、汽車にも乗せてやるし船にも乗せてやる。黙って座っていろ」というので、こわくてじっとしていました。
 遊んでいたゴム跳びのゴムを握ってどんなに泣いたことか、降ろしてくださいと頼んでも降ろしてくれず、夜どおし車で走りました。そして連れて行かれた所は、後で知ったことですが、全羅南道光州市というところでした。
 どこかの家に着いて中に入ると、旅館なのか、そこには女の人がたくさん来ていました。そして私たち三人も彼女たちと一緒に置かれました。その日の夕方、寝て目が覚めると、一緒にいた友達は何処かに送られて居なくなっていて、私だけその女の人たちと残されていました。
 それから私は見知らぬ女の人と一緒に汽車に乗せられました。夜どおし汽車に乗って翌朝降りて、そこから今度は船に乗りました。泣いて泣いて泣き疲れて、「降ろして」「家に帰して」とすがりつくと、船の人たちは、ゲートルという紐があったのですが、それで私の手も足も縛って水に漬けるんです。「泣くな」といって。それでもどうしていいのか分からなくて泣いてばかりいました。するとまた水に漬けられて・・。そうやって二日ほど乗っていたでしょうか。暗くなると船の中で寝ました。
 さいなまれ、もうあきらめて、その人たちの行く所について行くしかありませんでした。船から降ろされてみると、何もない野原。「そこで暮らすのだ」と言い、およそ30人にもなる女の人たちを降ろしました。私たちが暮らすと言われた家は洞窟のようで、入り口だけ木で作ってありました。その中に入れられロウソクの明かりで毛布を敷いて寝ました。(P.58)

時に、女たちが体の具合が悪くなって伏せっていると、顔が黄色くなってきて、そうなるとご飯もくれません。人数分計算して持って来たご飯、小さな握り飯一個なのに、伏せっている女たちにはやらないのです。それから一日経つと、その女たちは担架に乗せられて何処かに運んで行かれ、二度と戻りませんでした。また、ちょっとでも具合が悪くなるとご飯をくれず、言うことを聞かないとご飯をくれず、具合が悪いと言って傍目にも悪いように見えると、担架に乗せて連れて行かれた女たちも、二度と戻りませんでした。連れ出されていく女の人からは口で言えないような本当にひどい匂いがしました。腐っていく匂いのようでした。
 このように苦痛を数知れず受けながら暮らしました。子どもを身篭って臨月を迎えた女たちもみんな運んで行ってしまいました。そうするとまた、何処からか新しく女たちを運んできました。十人ずつ、五人ずつ、軍人たちが連れて来て、そこで暮らすようになります。(P.59)

ある晩、夕ご飯を食べて暗くなった頃、お金を靴下の中に隠して、とにかく逃げ出しました。その道は行っても行っても進まず、一晩中歩いて夜が明けた頃、やっと大きな家があったので中に入りました。私は家族で暮らしている民間の人たちだと思ったのに、あろうことか、そこも軍人たちが住む家でした。「おまえはここに何しに入ってきたのか」。何と言えばいいのでしょう。(P.61)

来る日も来る日もそんな生活を続けて、泣いて泣いて、顔が腫れて、それをある軍人が見ました。その軍人は、誰もいない時にやって来て、「ここでこんなふうに殴られて死んでしまう人間も多い。いくらも経たないうちに、ここにも居られなくなる。アメリカ人がもう少ししたら来るだろうから。そうしたらおまえたちは殺されるかもしれないから、そうなって死のうが、逃げる途中で捕まって死のうが同じことだ。俺の言うことをよく聞いて、ここから逃げ出せ」と言いました。
一緒にいた女たちと心配しながらも三日ほど思案したあげく、ある夜、三人で逃げ出しました。(P.63)
1998.8.4 朝鮮新報 「日本の戦時下での強制連行に関する東京シンポジウム」 ***** ****
金さんは、外でゴム飛びをしている時に連れていかれ「慰安婦」にされたが、あまりにもつらくて逃亡し、1回目はつかまって拷問され、2回目に成功したが、いつも過去におびえていたと、肉体的苦痛に加え、精神的苦痛を訴えた。
1998.8.7 朝鮮新報 「強制連行、『従軍慰安婦』問題東京シンポ、大阪報告会から」 ***** ****
 全羅南道海南で生まれ8人兄弟の3番目だ。家は裕福だった。
 ある日、家の外でゴム飛びをして遊んでいると、車が近付いてきて、いきなり私を乗せて行った。車からトラックに乗り換え、中国のハルピンに着いた。
 私は、世間知らずな16歳の娘だった。部屋に入れられると夜、軍人が幾人か来て服を脱げと言われた。その日、あまりにも泣いたので顔は浮腫み、お腹は空いて、とにかく生きるために従った。真冬でも寝間着のような薄着で過ごした。
 ある日、庭から人の手のようなものが見えたので掘ってみると死体が出てきた。妊娠して病院に行ったとばかり思っていた娘が、生き埋めにされていた。
 私は怖くて、抜け出そうと決め、逃げ出した。1度目は掴まり、その時軍人から酷い拷問を受けた。意を決してまた、抜け出した。2回目に成功し、家に帰ることができた。
2000.4 海南(ヘナム)の空へ
戦場からソウル、そして未来への日記
キム・ユンシム パンドラ
 それから数日後、私は父の目を盗んで門の外にそっと抜け出した。そして、他の子と一緒にゴム跳びをしていた。そのとき突然、自動車が1台やってきた。私の故郷はとても山奥だったので、自動車が1台来ただけでも、たいそうな見世物だった。私はゴム跳びをやめて自動車のそばまで行き、あちこち触ってみた。すると、自動車の中からおじさんがひとり出て来た。自動車の中には巡査ひとりと軍人のおじさんがいた。そのおじさんは私に、自動車に乗せてやろうといった。私は嬉しくて自動車に飛び乗った。
 ところが、どうしたことだろうか。私を乗せた車は、あっという間に峠の道を越えてしまった。私は足をドンドン踏み鳴らし、降ろしてほしいと哀願した。でも、彼らはそんなことには耳も貸さず、泣いたら降ろしてやらないといい、矢のように走りつづけた。
 私はその日の夜、泣きに泣いた。車に乗せられて知らないところにきてしまった。私が連れて行かれたところには、私より大きいお姉さんがたくさんいた。私はその場にしゃがみこんで、わんわん泣いた。そこにいたお姉さんたちが泣くなといった。泣いたらご飯ももらえないし嫌われるから、泣かないでがまんしろ、と私はお姉さんたちと一緒にそこに一晩泊まり、次の日の朝、汽車に乗せられた。とても汚い、荷物を運ぶ汽車だった。私たちは夜通し汽車に乗っていた。
 夜が明けたときは、どこかの船着場だった。私たちはそこで降ろされた。ある食堂の薄暗い部屋にしゃがみこみ、干葉の汁にご飯をひとさじ入れたものを、まるでご馳走のようにおいしく食べた。でも、それもつかのま、私はまた母のもとに帰りたくなり、故郷の家が懐かしく、兄に会いたくなった。だけど、あまりにも怖くて、逃げることなど考えられなかった。
 また、夜がきた。私は生まれて初めてみる船に乗せられ、どこかに連れて行かれた。私は母に会いたくて、船の中でも泣いてはまた泣いていた。すると、私たちを連れて行ったおじさんが、家に帰してやるから出て来いという。私は両手で涙をふきながら、船室の外に出た。でも、そのおじさんは私の手足をゲートルの紐で縛った。
 お前はうるさくて手におえないから海に投げてやるといい、手足を縛られた私を船の端に座らせた。私は怖くなって、もう絶対に泣かないから、どうか助けてくださいと哀願した。私は何度も何度も謝った。そのおじさんは、頭数さえごまかせれば家に帰してやりたいんだがと、ひとりでブツブツいっていた。そして、こんど泣いたら海に捨てるぞといいながら私の縄をほどき、船の中に入れといった。私は、夜なのか昼なのかもわからない船の中に閉じ込められていた。
 ある日、彼らが私たちに船の外に出て来いといった。私はお姉さんたちのチマの裾にしがみついて外に出た。そこは、どこかの波止場だった。軍人のトラックが何台かあり、私たちを乗せるために来たのだという。私たちは数台に分かれてトラックに乗った。私が乗ったトラックには、私を含めて6人いた。
 私たちを乗せたトラックは、何も見えない広い平原に到着した。見えるのは軍人のトラック、防空壕、そして軍人の住んでいるテント小屋だけの、見知らぬ土地だった。そこは中国のハルビンだといわれた。
 そこでは、夢にも想像できない恥ずかしい歴史、死よりも惨めな人生、14歳の少女にも思いもよらない地獄の日々が続いた。(P.21~25)

 それまで見たことも聞いたこともなかった中国の地。何を話しているのかわからない言葉。私たちが住むことになった家は軍人の家と同じテント小屋で、部屋はタタミ2枚分ごとに仕切られていた。民家は一軒もなかった。お姉さんたちと私は、その仕切られた部屋で暮らした。食べるものなど何もなかった。塩水をぬったおにぎりを1日に3回与えられるのがすべてだった。私はあまりにもお腹がすいて、おにぎりをひとつもらえるなら、軍人のいうことを何でもきいた。(P.27)

 でも、そんな生活のなかで、私は50銭ためた。そのお金を持って、そこから逃げだそうと考え、いつも機会を狙っていた。考えただけでも胸がドキドキした。そんなある日の夜、激しい雨が降った。私は50銭と、脱いだ靴を握りしめ、死を覚悟してそこから逃げだした。私の故郷、母のもとに帰らなければという思いだけで走った。冬が過ぎ、もう春になっていたが、地面はまだ解けていなかった。毎日、激しい風が吹いた。屠場のようなテント小屋を抜けだし、当てもなく泥道を走った。足の甲まで泥で覆われてしまった。
 どれくらい走ったことだろう。私はすっかり力尽きてしまい、足を洗わせてもらおうと、ある家に入った。ところが、なんということだろう。こともあろうに、そこも日本軍が住んでいる家だったのだ。
 私は慌てふためいた。日本の軍人たちも私を見て驚き、「誰だ、手をあげろ!」と叫んだ。私は驚きのあまり、泣きだしてしまった。(P.31~32)

ひとりの労務者が私たちにいった。「お嬢さんたちは、いま故郷に帰れなければ、永遠に帰れないだろう」と。その人は姓を金本といった。私たちはようやく、自分たちが関東軍(旧満州に駐留した日本の軍隊)のところにいるということを知った。(P.34)

 そうだ。いま帰らなくては、私はすっくと立ち上がると、怖くて鳥肌の立つくらいいまいましいテント小屋を、また抜け出した。
 息が切れるほど夢中で走った。どれほど走ったことだろう。すっかり夜が明けていた。そこは船着場だった。(P.38) 
2000.5.10 朝鮮新報 「恥ずべきは自分ではなく、日本政府」 ***** ****
 1930年、全羅南道の南端の町、海南の裕福な家庭に生まれる。14歳の時に友だちとゴム跳びをしている最中に日本軍人に連れ去られ、中国ハルピンの 慰安所 に送られる。その時から地獄の日々が続いた。
 畳み2枚分ごとに仕切られた部屋で暮らした。与えられた食事は1日3回、塩水をぬったおにぎりだけだった。夜になると、軍人が無慈悲に、情け容赦なく襲いかかってきた。中には、銃と刀をぶら下げてくる軍人もいた。犯されて、体中は病んだ。軍人はそれに気を止めず、決まって下着を両手で引き裂いて、暴行を加えた。
 このような地獄の生活の中でも なんとしても生き残って、コヒャン(故郷)に帰り、オモニに会わなければ と、歯を食いしばって生きたという金允心さん。

◆◆◆ 金田きみ子(源氏名)(本名:朴福順) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦となった経緯等】

1921年10月22日、慶尚北道で生まれる。金田きみ子は慰安婦時につけられた名前。
父は牧師をしていたが抗日運動に参加して迫害され逃亡、きみ子は伝道の家の女中となる。1938年春、友人らから「良い働き口へ一緒に行こう」と誘われて棗強の慰安所へ到着する。約6年間、慰安婦生活を送った後、朝鮮人の柳(ユウ)部隊長に相談し、1944年、24歳の秋、朝鮮に帰郷。

1991年12月、金学順(キム・ハクスン)、文玉珠(ムン・オクス)らと共に日本政府に謝罪と補償を求めて提訴。2004年11月最高裁棄却により敗訴確定。(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟)

1997年、日本の「女性のためのアジア平和国民基金」による元従軍慰安婦への償い事業から一時金を受け取ったことにより、韓国内で非難にさらされる。(※批判の理由は「国民基金に反対する意図から集められた募金を、国民基金を受け取った人に渡すことは募金者の意思に反するし、国民基金と募金の両方を受け取ることは逆に不公平になる」ということのようです)

2005.1.27死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本人の紹介者に騙され、日本人の警官か軍人の家の前に集合。二人の日本人の軍人に引率され、棗強の慰安所まで行く。


【考察】

証言をそのまま信じるなら、日本軍が工場勤務と称して集まってきた女性を強制的に慰安婦にしたと言うことでしょうか。


「裁判の訴状」によると、同女の慰安所生活は以下の通りで、合計すると4年強になり、6年間慰安婦生活を送ったとする記述と矛盾しています。(※「一年余り」や「一年前後」を、無理やり「一年半」と解釈すれば6年になりますが)

 棗強(約23日) → 石家荘(1年余り) → 棗強(1年前後) → ピョンアン(1年前後) → リュータマル(1年前後)

 ※最初、棗強にいた時、3日目に軍人に胸を刺され負傷。その後、20日休養した後、石家荘に移動
 ※「その後、ナツメキョウ、ピョンアン、斉南のリュータマルの部隊の慰安所でそれぞれ一年前後全部で6年間を慰安所で過ごさなければならなかった」


なお、同女は、金学順、文玉珠らと共に日本政府を相手に慰安婦として最初に訴訟を起こした三人の内の一人ですが、金学順、文玉珠とは違い、「<証言>従軍慰安婦・女子勤労挺身隊(伊藤孝司・風媒社・1992.8)」、及び、「証言 強制連行された朝鮮人軍人慰安婦たち(韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会・明石書店・1993.10)」には、証言が掲載されていません。

裁判の原告にもなっておきながら、その後に発売された証言集に証言が載せられていないのは疑問です。家庭の事情等、状況の変化により証言ができなくなった可能性もありますが、1996年以降にマスコミに同女の発言が取り上げられていることを考えるとそれは無いでしょう。


【信憑性】

裁判の原告になって以降に発売された証言集に同女の証言が取り上げられていないことを考えると、証言に統一性がなく取り上げようがなかったのではないかと考えられます。
信憑性は無いと考えて良いでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1991 裁判の訴状 ***** ****
(前略)
 1938年春、一六歳と一八歳の二人の友人が、金田きみ子を「いっしょに工場にお金を儲けに行こう」と誘った。
 芙蓉の伝道夫人の家から三〇から四〇分歩いたところに日本人の街があった。紹介者の家は、その街の中にあった。紹介者の日本人の家を訪ねると、その家には、床の間に日本刀が飾ってあった。紹介者の日本人は、「工場に勤める大勢の人を募集に来た。お金がたくさん儲かる。」と言った。給料はいくらか等細かい話しは聞かなかった。金田きみ子と二人の友人とさらにもう一人の友人を加えた四人は、二人の日本人男性(軍人ではない)に連れられてソウルに来た。日本人の警官か軍人の家と思われる建物に着くと、すでに一〇人くらいの女性が集められていた。
 翌日の早朝、二人の日本人の軍人が引率して、約一五人の女性たちを列車に乗せた。軍人は「支那の天津の工場に行く」と説明した。列車は走り続け、翌日の午前一一時ころ天津に着いた。列車の中で握り飯が配られた。故郷を離れ、他の朝鮮人の乗客がいなくなって、金田きみ子は次第に不安になった。
 列車を降りると、ジープ二台、トラック一台が来ていた。ジープに軍人が各二人、トラックに五人くらい乗っていた。金田きみ子ら女性たちはトラックに乗せられ、トラックとジープは枯れ草の中を走り、ペータンの部隊に着いた。
 工場に行くのではないことがわかり、女性たちは「帰らせてくれ」と泣いたが、軍人たちは女性が逃げないように監視した。
食堂に連れていかれ、食事に出たが、恐怖で食べられなかった。なぜ、こんなところに連れてこられたのかわからなかった。食堂には金田きみ子ら一五人の女性のほかに三〇人から四〇人の女性がいた。先に食堂に来ていた女性に「何をするところか」と聞くと、二〇歳くらいのその女性は、「死ぬ以上の苦しみがあるが、命令に従わなければいけない」と言った。金田きみ子は、そのように言われ、洗濯や食事など軍人の世話をさせられるのだと思った。軍隊慰安婦にさせられるなどということはまったく想像できなかった。軍人がいるだけで怖かった。朝鮮語で話しをしていると、「朝鮮語で話をするな」と怒鳴られた。
 翌日、ペータンから二〇人くらいの女性が五、六台の馬車に乗せられ、天津に戻り、再び列車に乗せられ、列車は約四時間後、トッヒョン(徳懸)に着いた。
 トッヒョンから馬車で三時間走り、夕方、ナツメキョウ(棗強)に着いた。馬車の前後にはジープが付いて走っていた。
 ナツメキョウのカネヤマ部隊は、城壁の中にあった。二〇人全員が大きなテントに入れられた。
 あくる日、午前中は、洗濯、掃除をさせられた。昼食の後集合がかけられ、軍人が女性たちに「ここまで来るには、みなさんは覚悟をしてきたでしょう。」と言うので、女性たちは「私たちは工場に来ると思っていた。帰らせてくれ。」と言った。すると軍人は「何を文句を言うか。軍人は国のため、おまえたちのため、戦っているのだ。これからは少しだけ苦労すればよい日が来るのだ。」と言って、女性たちにそれぞれ部屋を与えた。
 女性たちは、午後三時ころ、各自二畳ほどの狭い部屋に入った。床には黍で織った敷物が敷いてあった。部屋の前にはカーテンが掛けてあった。部屋の数は四〇から五〇はあった。金田きみ子とともに連れてこられた女性のほかには女性はいなかった。金田きみ子の部屋は「八号」だった。金田きみ子という通名は、ここで与えられ呼ばれた名前だった。
 一人の女性は、連れてこられた直後に射殺された。金田きみ子は、言うことをきかなかったため、三日目に軍人に銃剣で胸を刺され負傷した。その傷は今でもはっきり残っている。
 傷の治療のため、二〇日ほど部屋で過ごした後、他の四人の女性とともに、ソッカジャン(石家荘)の部屋に連れていかれた。ナツメキョウからトラックでトッヒョンに戻り、トッヒョンから列車で北京に行き、北京から馬車で五時間くらい移動したところに部隊があった。近くに阿片の工場と畑があった。
 金田きみ子は、ここで一年余りの月日を過ごした。
 ここでの金田きみ子の部屋は「三号」だった。もはや殺されないため従うほかなかった。三人を相手にすると痛くて動くこともできなくなった。
 部隊では中国人も働いていた。一ヵ月くらいから中国人に勧められて阿片を吸うようになった。地獄のような苦しみから逃れたいためだった。
 金田きみ子は、その後、ナツメキョウ、ピョンアン、斉南のリュータマルの部隊の慰安所でそれぞれ一年前後、全部で六年間を慰安所で過ごさなければならなかった
(後略)
1996.12.10 共同通信 ***** ****
関係者の話によると、金田さんは集会の席で「私たち元慰安婦はきょう、明日死ぬかもしれない命。死んでから何億円もらっても意味はない」などと発言。
 その上で「日本政府に賠償を要求したい気持ちは変わらないけれども、一時金二百 万円のほかに医療・福祉事業から三百万円の計五百万円を一括して支給してもらえる なら受け取りたいと思っている」と訴え、アジア女性基金の取り組みに理解を示した
1997.6.20 共同通信 ***** ****
 日本の「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金、原文兵衛理事長)による元従軍慰安婦への償いの事業で、韓国の元慰安婦七人が今年一月に一時金を受け取ったことに対し、国家賠償を求めて民間基金は受け取るべきではないとする韓国内の支援団体やマスコミが猛反発、七人は厳しい批判にさらされ続け、心に深い傷を受けている。
 追い打ちをかけるように、最近、元慰安婦支援のために行われた市民運動の募金で、七人だけが対象者から外された。七人は「同じ被害者なのに」と不当性を訴えている。
 一方では、七人に続いて一時金の受け取り希望の意向を漏らす被害者が出るなど新しい動きも出ている。
 韓国では七人が一時金を受け取ると、受け取りを拒否している一部の被害者が韓国政府に対し、七人には政府の生活費支援(月五十万ウォン=約六万四千円)を中止するよう求めた。さすがに、これには韓国政府が「そういうことはできない」と回答したが、七人への風当たりは想像を超える厳しいものだった。
 韓国では昨年十月に約四十の市民運動団体が「日本軍慰安婦問題の正しい解決のため市民連帯」を結成、基金の一時金と同額を被害者に支援するため三十億ウォン(約四億円)を目標に募金活動を行った。しかし集まった募金総額は約五億五千万ウォンにとどまった。
 市民連帯では、募金は百五十一人の元慰安婦と中国から帰国の元慰安婦四人の合計百五十五人に一人当たり約三百五十万ウォン(約四十八万円)を支払う予定だ。しかし、基金から一時金二百万円と医療・福祉事業費三百万円の計五百万円を受け取った七人には募金の配分をしない方針だ。
 七人の一人、金田きみ子さん(75)=仮名=は「同じ苦しみを受けた元慰安婦なのに、なぜ差別されなければいけないのだ」と怒りをぶつける


◆◆◆ 李得南(イ・トクナム)(仮名) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦となった経緯等】

1918年慶尚南道居昌(コチャン)生まれ。貧しい生活な上、酒とばくちをする父親の横暴に苦しめられる。17歳の時、縁談話が持ち上がり、口減らしの為に売られるような気がして家出をするが、怖くなって家に戻る。その後、再び家出をして満州でカフェを営んでいた叔母の元へ行き家事手伝いをして過ごす。1939年22歳の時、日本人の男に騙され、カフェで働いていた他の女性達と共に漢口に連れて行かれ慰安婦生活を強いられる。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

無し、日本人の男に連れられ、汽車を乗り継ぎ漢口の慰安所に入れられる。朝鮮人男性が慰安所の経営者。


【考察】

叔母の経営するカフェはただのカフェではなく、外で男性の相手もするカフェだったようで、もともとは、単なる引き抜きの話のようです。(ただし、他の女性達も慰安所に連れて行かれるとは思っていなかった)
同女は他の女性達と共に、叔母に何の相談もせずに男について行ってしまったようで、せめて一言断っていれば賛成されずに慰安所で働くこともなかったでしょう。


【信憑性】

証言には特に不審なところもなく信憑性があると言えるでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 「新天地」カフェでは、私より年上の女性が二人仕事をしていました。その姉さんたちは、私にとっても親切にしてくれました。私は仕事を探しながら、姉さんたちの手伝いもしてあげていました。カフェには、日本人と商売でやって来る朝鮮人が多く出入りしていました。その中に、常連の日本人男性で、三十歳くらいの、膚が白く、度の強い金ぶちめがねをかけた人がいました。
 ある日彼が来て「ここより給料がいいカフェを紹介してやる」と姉さんたちに言いました。その時炊事場で手伝いをしていた私を見て、「かわいい娘だ」と言いながら、誰かとたずねたのです。姉さんたちが「あれは主人の姪だ」と答えると、一緒に連れて行こうと言いました。姉さんたちが、「あの子はカフェのようなところで働く子ではないけれど、仕事を探しているから一度聞いてみる」と言いました。それで私に、「私たちはお金がもっと儲かる所に移るけど、あんたも一緒に来て、今のように洗濯やお手伝いをしてくれたらお給料もたくさんあげるから」と言って誘うのでした。
 私はお姉さんたちについて行くことにしました。一九三九年、私が二十二歳の年でした。(P.214~215)

 私は少々不安になってきました。叔母に何も言わずに来たのが心にひっかかっていたので、彼が戻って来た時に、帰して欲しいと頼みました。すると「お前にどれだけのお金を使ったと思っているんだ。汽車賃や旅館の費用をみんな返せ」と言って、げんこつで顔を殴られて気絶してしまいました。
その夜、寝ていると、姉さんたちの話し声が聞こえました。
「そこがどんな所だと思って、一緒に行こうと誘ってしまったんだろう。私たちはもう汚れた体だけれど、キヌエはまだ生娘なのに、私たちのせいで・・・・・・」。一緒に来たトキコ姉さんの声でした。あとで知ったのですが、姉さんたちは「新天地」のカフェにいた時も、こっそり外で男性の相手をすることがあったそうです。けれども、軍人の相手をする慰安婦として行くことは夢にも知らず、ただ、もうちょっと儲けのいいカフェを紹介してくれると思い、その日本人からお金をもらったのだと言いました。私は泣き続けながら、「家に返して」とだだをこねましたが、その度にめちゃくちゃに殴られました。その傷あとが今も私の額に残っています。
 私たちが旅館を出発する日に、彼は日本人の女性二人を連れて来ました。合計八人が、彼と一緒に汽車に乗って漢口に向かいました。汽車の中では座る座席がなく、足がパンパンにむくむほど立ったままでした。
 漢口に到着すると私たちを連れてきた日本人は、金山(金)と名乗る三十代後半の朝鮮人男性に私たちを引き渡しました。(P.216)


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