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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ レメディオス・ヴァレンシア ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1920年2月9日生まれ。9人兄弟で小学校は4年まで通う。1943年10月頃、市場で3人の日本兵に拉致さて強姦。その後、慰安所に入れられる。1944年11月頃、米軍の爆撃のどさくさに紛れて逃げ出す。

1993年4月東京地裁に提訴。1998年10月。地裁棄却判決。2000年12月東京高裁で棄却判決。2003年12月最高裁で上告棄却・上告受理棄却、敗訴確定。(フィリピン「従軍慰安婦」補償請求訴訟)


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本兵に連行される。


【考察】

下記資料の「フィリピンの日本軍『慰安婦』」(以下、「フィ」)と「私は『慰安婦』ではない」(以下「私は」)を比較すると以下の通り内容の相違があります。

<連行された時の状況>
○「フィ」・・・市場で魚を売っていた時に3人の日本兵に連行
○「私は」・・・市場の前で日本の軍隊が行進しており、その道を渡ろうとして3人の日本兵に連行

→ 「私は」の証言にはありませんが、魚を売っていて道を渡ろうとしたのでしょうか。

また、日本軍の行進の規模は分かりませんが、同女が道を渡る為に、わざわざ日本軍に通行許可を取っているところを見るとそれなりの規模であったと思われます。
しかし、行進途中に3人の兵士が女性を拉致して強姦するほど、日本軍の規律が乱れていたとは思えないのですが。


<強姦された場所>
○「フィ」・・・近くの空き家
○「私は」・・・市場の向こう側

→ 市場の向こう側の空き家ということでしょうか。


<強姦された後>
○「フィ」・・・マニラのダコタ地区の大きな二階建ての家に連れて行かれて慰安婦を強いられる
○「私は」・・・ガイソンという基地に運ばれ、8ヶ月監禁されて強姦される。その後、ダコタ地区の家に移される。

→ 「私は」では、強姦と「ダコタの家」の間に、「ガイソン基地」の情報が追加されています。
この基地では8ヶ月間監禁されており、同女が拉致されて解放されるまでの約1年間の3分の2を過ごしたことになります。抜け落ちるわけがない情報です。さらに、「フィ」は、裁判の為に弁護士が聞き取り調査を行ったものです。証言集会などでの証言の場合なら、省略した可能性も考えられなくもないですが、その可能性は限りなく低いと言えるでしょう。

また、ダコタの家は、日本人女性が管理し、監視も日本の民間人男性と、普通の民間経営の慰安所という印象を受けます。「ガイソン基地」は、日本軍の関与度を増すために後から追加した創作でしょう。


【信憑性】

連行時の状況は疑わしい内容であり、また、後から日本軍の基地での監禁話を追加しています。信憑性はないでしょう。

民間経営の慰安所で働いていただけだと思われます。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1995.12 フィリピンの日本軍「慰安婦」 -性的暴力の被害者たち フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団 明石書店
 私は、一九二〇年二月九日、ネグロス島の西ネグロス州バコロド市に生まれました。父母と九人きょうだいの十一人家族で、父は大工をしていました。
 一九三九年に異母きょうだいといっしょにサーカスのグループについてマニラに出てきて、そのまま市内に住んでいました。初めて日本兵を見たのは、義理の弟がガチョウを盗んだことで日本軍の駐屯所(現在のニノイ・アキノ国際空港のあたり)に連れていかれたときのことです。
 一九四三年の十月ごろ、マニラのパコ市の市場で魚を売っていたとき、三人の日本軍兵士に手を引っぱられて抱きかかえられるようなかっこうで、近くの空き家に連行されました。そこは、ニッパヤシで造ったような建物で、十二平方メートルくらいの広さの家でした。一人の兵士が何か言った後、他の兵士は外に出ていきました。そこで、一人の兵士に強かんされました。そのとき、市場で働いていて別の兵士グループに連行された女性もいました。
 その後、うしろに堅い座席のあるトラックで、マニラ市内のダコタ地区にある大きな家に連れていかれました。その家は二階建てで、一階は大きな応接間で三十平方メートルくらいあり、二階は、ベッドを一つおけばあまり余裕もないくらいの部屋が四つありました。そこには、テルミという名前の日本人女性がおり、四人の若いフィリピン女性もいました。テルミは、二十八歳くらいで、私より少し背が高く一五五センチメートルくらいで、その家の一階に住み、食事の世話や医者を連れてくるなど、その家を管理していました。また、日中は、民間の日本人男性が二人ほどいて、私たちを監視していました。家には鍵がかかっていましたが、部屋にはかかっていませんでした。その家があった場所は、現在マニラ動物園構内の入り口付近です。そこでは、毎日のように、一日六人から多いときは十五人くらい、兵士の性行為の相手をさせられました。食事のときだけ下の部屋に行き、あとは、大体二階にいました。他の四人のフィリピン女性も同様でした。性行為に対してお金や物をもらったことはありませんが、医師による性病検査が毎週土曜日にありました。兵士たちはほとんどコンドームをつけていなかったのです。あるとき、兵士が外に連れだそうとしたので抵抗したところ、銃剣で右足のすねの部分を刺されました。今でもそのあとが残っています。
 一九四四年十一月ごろ、私たちは解放されました。米軍がマニラに進駐する前に爆撃があり、皆いなくなったのです。テルミは、私に対し、自分をかくすために山に連れていってくれるかと言っていましたが、結局どこにいったかわからなくなりました。それで、監禁される前に住んでいた家に戻りましたが、家主がいただけで、異母きょうだいなどはいませんでした。(P.64~65)

 また、戦後聞いた話ですが、生地のバコロド市にいた妹は妊娠していたのに、日本兵は彼女の腹を裂き、胎児を銃剣で突き刺して引っ張り出し上にかかげたあと、また戻したということです。(P.65~66)
 
1997.8 アジアの声 第11集
私は「慰安婦」ではない
日本の侵略と性奴隷
「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ・心に刻む集会」実行委員会 東方出版
 最初に、自己紹介させていただきます。レメディオス・バレンシアと申します。生まれはフィリピンのネグロス島にあるバコロド市、一九二〇年二月九日生まれです。今日の証言は私にとって、とても苦しい体験をお話するので、あらかじめ皆さんの理解をお願いしたいのです。
 私がマニラに来たのは、一九三九年です。四一年に戦争が始まりました。そして日本軍によるマニラの爆撃が始まりました。一九四二年の一月には日本の軍隊がマニラに入って来ました。一九四三年のある日、私は市場にいました。市場の前にある通りで日本の軍隊が行進していました。私は、用を足すのに通りの向こうまで行かなければならなかったので、日本軍に通行許可をもらい、道を渡り始めました
 けれども途中で、いきなり三人の兵士に市場の向こう側に連行され、私は強姦されました。そのあと私は、そのままトラックに乗せられ、ガイソンという兵士たちの基地に運ばれました。そこは、現在のマニラ国際空港の辺りです。その基地に私は八ヶ月監禁されました。強姦されるだけでなく、昼間は兵士たちの身の周りの世話をさせられ、おかゆや食事を作ったりしました。兵士たちの服も洗わなければなりませんでした。
 それから私は、マニラのダコタという地域にある大きい二階建の建物に連行されました。二階には四つの小さな部屋があり、テルミという日本人女性が管理していました。すでに、四人のフィリピン人女性がとらわれていて、「慰安婦」をさせられていました。彼女たちの面倒をみていたのはテルミさんでした。私たちは階上に、テルミさんは階下にいて、私たちは食事をとる時だけ下に降り、それ以外はいつも二階にいなければなりませんでした。家には鍵がかかっていて、一日に五、六人から十五人くらいの兵士が部屋に来て、性行為をされられました。
 一九四四年の終わり頃、アメリカの爆撃が始まりました。その頃には私とテルミさんはとても親しくなっていましたので、もし私が逃げることが出来たら、いっしょにどこか山の方に逃げようという話をしたこともあります。テルミさんは、ほんとうに私と友達になりたかったのか、それともただ自分の身の安全のために爆撃を恐れていたのか、いま思い出してもわかりません。爆撃された時は、みんなパニック状態に陥りました。ダコタは海に近いため、最初に爆撃された場所のひとつでした。テルミさんは爆撃で死んでしまったのか、今も生きてどこかにいるのか、私には分かりません。爆撃の時の大混乱でみんなバラバラになったので、私は隙をみて逃げ出すことが出来たのです。
 私は住んでいた家に帰り着くことが出来ました。しかし、家はすでに焼け落ちていました。どこに住めばいいか途方に暮れ、友達の家を転々としました。洗濯をして、お金や食べ物をもらい、その日その日の生活を支える状態が続きました。(P.94~96)

 私ひとりのことではなく、当時妊娠七ヵ月だった私の妹は、日本兵に軍刀でお腹を切り裂かれました。日本兵は胎児を銃剣で突き刺して頭の上まであげ、その子を再び妹のお腹の中に押し込んだのです。(P.97)


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◆◆◆ パシータ・サンティリアン ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1928年1月7日生まれ。父は農夫で、4年生まで学校に通う。1943年10月、15人の日本兵に見つかり、尋問を受けた後、母、姉らと共に強かんされ、その時、一緒にいた11人のフィリピン人は、同女と親戚の一人を除いて殺される。同女と叔父は日本兵に連行されるが、約26時間後解放される。

1993年4月東京地裁に提訴。1998年10月。地裁棄却判決。2000年12月東京高裁で棄却判決。2003年12月最高裁で上告棄却・上告受理棄却、敗訴確定。(フィリピン「従軍慰安婦」補償請求訴訟)


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

慰安所には入れられていないが、日本兵に強かんされる。


【考察】

訳の分からない内容です。
同女の証言の疑問点は以下の通りです。

<なぜ、同女は殺されずに連行されたのか>
一緒に捕まった11人のフィリピン人の内、同女と親戚(男性)の二人だけが殺されません。労働力として使う気であったのなら男性をもっと生かしておいた方がよいですし、慰安婦として使う気であったのなら、女性をもっと生かしておいた方がよいでしょう。


<21時間後には解放。その間のエピソードは日本兵のフィリピン人虐殺のみ>
この二人は日本兵に連れられ移動することになりますが、約21時間後(注)には解放されています。訳が分かりません。

日本兵は移動途中で一度だけ同女ら二人を人質として使用しており、山のなかにいるフィリピン人に「山から出てこなければ私たちを殺す」と言って投降を促し、フィリピン人10人を捕まえています。最初から、人質として使用するつもりだったのでしょうか。
しかし、見ず知らずの人間を人質にしてどのくらい効果があるのか、また、そもそも、無関係の人間を人質として利用しようとする発想が出てくるものか非常に疑問です。

また、移動途中であるエピソードは、日本兵がフィリピン人を捕らえては惨殺していたというものだけです。
 ・6人の農夫を斬首
 ・5人のフィリピン人を斬首
最初に殺された9人も入れると、短期間の内に20人が日本兵に殺されたことになります。まるで、日本兵の蛮行を見せるために連行したかのような印象を受けます。

(注)解放された地から同女が住んでいた地まで「徒歩で五時間以上」とあり、また、戻ってから「二十六時間以上何も食べていなかった」とあるので、連行されていた時間は26-5で最長21時間になります。


<連行後、なぜ、同女は殺されずに解放されたのか>
最終的に、捕まえられたフィリピン人の内、同女達を含めた約八人が解放されていますが、殺すか殺さないかの選択基準はいったいどこにあったのでしょうか。

最初に捕まった11人は、洞窟で一緒に隠れていた人達です。もし、日本兵が「この洞窟にゲリラが隠れている」と認識していたのなら、その時、捕まった同女と親戚の男性が殺されないはずがありません。(他の9人は捕まえられた後、すぐに殺された)
しかも、この日本兵らは、同女の母、姉を含む6人の女性を強姦後、殺害したり、「二人の幼い子どもを宙に投げ、銃剣で刺し殺」したりするほどの残忍さです。殺されないわけがないでしょう。


【信憑性】

全体的に理解に苦しむ内容。信憑性はないでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1995.12 フィリピンの日本軍「慰安婦」 -性的暴力の被害者たち フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団 明石書店
 私は、一九二八年一月七日、父ウェナペント・サンティリアン、母フローラ・サンティリアンの末子としてパナイ島北西部のアンティケ州パンダンで生まれました。きょうだいは十四人でしたが、幼くして死んだ者が多く、私が生まれたときは女性が四人、男性が三人の七人でした。父は農夫でした。四年生まで学校に通いました。
 第二次世界大戦がはじまった当時、父はマカバに住み、私は母と兄のプロコピヨ、姉のアディライダの四人でパナンカバンの畑にニッパヤシで建てた小屋に住み、穀物を作っていました。
 一九四三年十月に入ると、日本軍が来るとの情報が入り、私たちはパナンカバンの山のほうにある洞窟にかくれました。この洞窟には、私たち家族を含め十一人のフィリピン人がかくれていましたが、十月三日午前九時ごろ、十五人くらいの日本兵にみつかり尋問を受けました。日本軍には、フィリピン人のガイドや荷物を運ぶ人が同行していて、フィリピン人の通訳を介して尋問を受けました。日本兵は母に対して、「なぜ山のなかにかくれているのか?」と聞きました。母は、「日本兵が怖いのでかくれている」と答えました。日本兵は、さらに、「誰がかくれるように言ったのか?」「ゲリラはどういう武器を持っているか?」などの質問をしました。母は、「ゲリラは遠く離れたところにいる。どんな武器を持っているか知らない」と答えました。
 すると、日本兵は、私たちの手をアバカという繊維で作った親指くらいの太さのロープで後手にしばり、母、姉、私たち七人の女性をつぎつぎと強かんしました。日本兵による強かんは一時間くらい続き、私は五人の日本兵によってつぎつぎに強かんされました。
 日本兵は、強かんの後、フィリピン人男性を殴り、さらに日本刀で母の右目をつぶしたうえ、母や姉たちの首もつぎつぎに切り落としました。日本兵は、まるで木を切るようにつぎつぎにフィリピン人の首を切り落としました。母の首は、三フィート(約九十セントメートル)くらい飛んでいきました。さらに、その場には二歳と三歳くらいの子どもが二人がいました。日本兵は、二人の幼い子どもを宙に投げ、銃剣で刺し殺しました十一人いたフィリピン人のうち、このとき殺されなかったのは、私と、二人の幼い子どもの父親であるコノス・サラカンラオという人の二人だけでした。この人は私の親戚で、前から知っている人でした。コノスさんも日本兵にこん棒で殴られ、身体中アザができました。私もロープで後手にしばられ、つぎつぎと五人の兵士から強かんされたので、身体中が痛みました。
 日本兵は、母や姉の死体をパナンカバンの山のなかにそのまま放置し、生き残った私たち二人を連れて移動しました。私たちは、ブラボートの方向に徒歩で移動させられ、途中川を渡りました。しかし夜になり、日本兵はあるフィリピン人の家に泊まりました。私は外の柱にしばりつけられました。
 そのころ、カブルアンという村の二十歳くらいから四十歳くらいのフィリピン人の農夫も日本兵に捕まりました。十月四日の早朝、まだ外が暗いころ、カブルアンの農夫は日本軍から尋問を受けました。日本兵はカブルアンの農夫にゲリラかどうか聞いていましたが、彼らは「自分たちはゲリラではない。殺さないでくれ。妻は子どもを生んだばかりだ」などと答えていました。しかし、日本兵は、尋問の後、一晩泊まった家の前で六人のカブルアンの農夫の首を切り落として殺しました。彼らを殺した日本兵は、母や姉をパナンカバン山で殺した十五人くらいの日本兵と同じでした。
 十月四日の朝、私たちはブラボードのハイウェー沿いのところまで連れて来られましたが、途中、日本兵は、山のなかにいるフィリピン人に、山から出て来なければ私たちを殺すなどと言って、されに十人くらいのフィリピン人を捕まえました。日本兵は、ブラボードのハイウェー沿いの所でも、新たに五人のフィリピン人の首を切り落として殺した後、私やコノスら約八人のフィリピン人を解放しました。パナンカンの山からブラボードまでは徒歩で五時間以上かかりますが、ロープでしばられた手の皮がむけ、とても痛かったのです。
 日本軍に解放された後、私は母や姉が殺されたパナンカバンの山に戻って泣いていました。すると、近所の人や親戚の人が来て穴を掘り、母や姉や兄の死体を埋葬してくれました。私は、親戚の家に行き、水を飲み、食物を食べました。二十六時間何も食べていなかったのです。その後父が迎えにきたので、マカバの家に戻り、父や兄、姉らといっしょに生活しました。
 私は、日本兵に捕らえられ強かんされたことを父や兄に話しました。近所に住むほとんどの人も、私が日本兵に捕まり強かんされたことを知っています。私は、五人の日本兵に強かんされるという恥ずかしい体験をしたので結婚する気にはならず、これまで一度も結婚していません。(P.58~60)


◆◆◆ ルフィーナ・フェルナンデス(Rufina Fernandez) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1927年7月10日生まれ。6人兄弟(もしくは5人兄弟)の長女。1944年15歳の時、父親を反日ゲリラの容疑者として連行しに来た日本兵に拉致される。その際、家族は日本兵に皆殺しにされる。駐屯地で将校に強姦され、以降、強姦される毎日を送る。何ヶ月か後、米軍が近づいてきた際、将校が同女の首を切り落とそうとするが、腕に当たりそのまま失神する。その後、米軍に助けられる。

1993年4月東京地裁に提訴。1998年10月。地裁棄却判決。2000年12月東京高裁で棄却判決。2003年12月最高裁で上告棄却・上告受理棄却、敗訴確定。(フィリピン「従軍慰安婦」補償請求訴訟)


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

家に日本兵がきて駐屯地まで連行される。


【考察】

下記資料の「写真記録 破られた沈黙」(以下、「写真」)と「フィリピンの日本軍『慰安婦』」(以下、「フィ」)、及び「元『慰安婦』の証言」(以下、「元慰」)を比較すると相違点等は以下の通りです。

<父の死亡理由>
○「写真」・・・日本兵に首をはねられた
○「フィ」・・・日本兵に首をはねられた
○「元慰」・・・日本兵になぐり殺された

<母の死亡理由>
○「写真」・・・日本兵に首をはねられた
○「フィ」・・・日本兵に首をはねられた
○「元慰」・・・日本兵に何度もお腹を殴られて死亡
 → 「元慰」だけ、父も母も死亡理由が異なっています。目の前で殺されたのですから、どのような殺され方をしたくらい覚えているでしょう。

<兄弟の数>
○「写真」・・・兄弟の人数に関する記載なし。ただし、「私が連れられて行く時に最年少の妹が殺されました。残り2人の妹も、泣いていたのに急に泣き声が止まったので、その時に殺されたと思います」とあるので、同女も入れると4人兄弟だと思われる。
○「フィ」・・・「家族は両親と5人のきょうだいで私は一番上でした」とある。5人の中に同女が入っているか不明なので、同女を入れて5人兄弟か6人兄弟。
○「元慰」・・・「私と両親とあと5人兄弟がいて私は長女でした」とあるので、同女も入れると6人兄弟。
 → 「写真」では、殺された兄弟の数は3人になっています。「元慰」には「私の家族はこうしてすべて殺されました」とあり、連行時に家族が皆殺しにあったことになっていますので、残りの兄弟が家にいなかったわけでもありません。それとも、それ以前に、残りの2人(もしくは1人)は病気等で死亡していたのでしょうか。ただし、集めた資料の中では、そのような記述はありません。
なお、「フィ」にも「写真」と同様の記述があり、連行時に殺された兄弟は3人になっています。

<トイレ>
○「写真」・・・記載なし
○「フィ」・・・「私はトイレにいくときだけ部屋の外に出ることができました」
○「元慰」・・・「私たちは外に出ることは許されなかったので、便器がない状態でトイレなどは床にそのままする状態でした」
 → 「フィ」と「元慰」では全く異なる証言をしています。

<毛布>
○「写真」・・・「日本兵は毛布さえくれずに」
○「フィ」・・・「日本軍は、毛布さえ与えず」
○「元慰」・・・「私は毛布一枚与えられただけでした」
 → 「元慰」以外は、毛布が全く与えられなかったことになっています。

<服>
○「写真」・・・記載なし
○「フィ」・・・「服などをもらったこともありません」
○「元慰」・・・「その後は(※逃亡した後)充分な食糧も着るものも与えられませんでした」
 → 「フィ」では服をもらってないことになっていますが、「元慰」の言葉からは、逃亡前は着るものを与えられていたことが伺えます。

<腕を切られた後>
○「写真」・・・記載なし
○「フィ」・・・「私は軍刀で右肩を切りつけられ気を失っていました。私が意識を取り戻したときには誰もおらず、血はすでに乾いていました。外に出ると、アメリカ軍のトラックが通り、私をテントに連れていって治療してくれました」
○「元慰」・・・私の腕は骨が粉々にくだけて皮一枚でようやくつながっている状態でした。私は血の海の中に倒れていました。出血多量で意識が遠ざかっていく中、私は傷ついた体で地面をはっていきました。そして、その時アメリカ軍の兵士が通りかかりました」
 → 「フィ」と「元慰」の証言を合わせて考えると疑問の多い状況です。同女が意識を失って、再び意識を取り戻した時に「血はすでに乾いていました」とあります。腕が皮一枚でつながっているような状態で出血多量で死亡することもなく、血が止まっていたとは考えにくい話です。また、専門的なことは分かりませんが、日本刀で切りつけられて骨が粉々にくだけるものでしょうか。

 なお、上記の3つの資料は、「アメリカ軍が近づいてきて、証拠隠滅の為、将兵が同女の首を切り落とそうとして、仕損じて腕を切った」という内容で一致していますが、「日本軍政下のアジア」では「兵舎から脱走しようとして発見され、日本刀で右腕を斬られて重傷を負った」と全く異なる内容になっています。同女が日本兵に腕を斬られたというのは甚だ疑問です。


同女の証言は、全体的に創ろうと思えば簡単に創れる内容であり、リアリティーに欠けます。また、話の骨格部分は証言毎に一致しているものの、重要な部分での相違も見られます。

さらに、同女の証言では、掃討作戦によるフィリピン人男性の皆殺しの話や、村の焼き討ち、そして、「多くの男達に穴を掘らせた後、射殺」という話も出てきます。日本兵の残虐さを示そうとする恣意性がありありと見えるようです。


【信憑性】

信憑性なし。創作でしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.7 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
1927年7月10日生まれ
フィリピン共和国ルソン島リサール州在住

 「米軍がやって来る」という話が到る所で聞かれるようになり、実際に米軍が来る数ヵ月前から、日本軍はフィリピン人男性を皆殺しにしたり家を焼き打ちにしました。日本軍は、ゲリラを捜し出すのに必死になっており、フィリピン人の男はすべてゲリラとみなしていたのです。たくさんの男たちが、一列に並んで穴を掘らされているのを目撃しましたが、彼らは射殺されてそこに埋められました。自分たちの墓穴を掘らされていたのです。
 殺されるのを恐れて、私の家族は近くの山に逃げました。しかし、食べ物もなく疲れてしまい、お母さんや兄弟は絶望で泣き叫んでいました。お父さんが「帰ろう」と言ったので家に戻ったのです。
 ある夜、寝ていたら日本軍が襲って来ました。日本兵が私とお父さんを連行しようとしました。お父さんとお母さんが抵抗したところ、次々と首をはねられてしまったのです。そして、私が連れられて行く時に最年少の妹が殺されました。残り2人の妹も、泣いていたのに急に泣き声が止まったので、その時に殺されたと思います。生き残ったのは私だけです。
 私は灰色の自動車に乗せられて、家から20軒ほど離れた大きな家に、他の5人の女性と連れて行かれました。ここは日本軍の駐屯地で、50人以上の兵隊がいました。
 私はその中の部屋に閉じこめられ、私を連行した大柄な士官に強姦されたのです。それからは、毎日6人くらいの日本兵に強姦されました。将校たちは褐色の制服を着て長い軍刀と拳銃を持っていましたが、一般の兵士は緑色の制服で将校に比べると身なりも良くなかったです。
 監禁されていた部屋の床はコンクリートなので寒かったのですが、日本兵は毛布さえくれずに、私をまるでブタのように扱ったのです。そのため、喘息と肺炎にかかりました。私は逃げ出そうとしましたが、すぐに捕まってしまい、日本兵に平手で打たれたり蹴られたり銃床で殴られました。
 米軍がこの駐屯地を攻撃して来た時、私を最初に強姦した士官が部屋に入って来て、私の首をはねようとしたのです。その軍刀が私の右肩に当たり、腕がちぎれそうになって気を失いました
 1964年から一緒に暮らすようになった夫は、ジプニーの運転手をしていました。私はセメント袋から紙袋を作る仕事をしていましたが、2人合わせても1日20ペソしかありませんでした。1978年に夫は食道がんで亡くなってしまい、現在の私は無職で、小さな小屋に1人で住んでいます。(P.217~218)
1993.11 日本軍政下のアジア 小林英夫 岩波新書
 ルフィナ・フェルナンデスさん(六六歳)。マニラのシンガロン出身。父はサンミゲル・ビール工場ではたらいていた。女ばかりの五人兄弟の長女として一九二七年、マニラに生まれている。日本軍がマニラに侵攻してきたときは一五歳。英語とタガログ語を学んでいた。日本軍のマニラ侵攻直前に山へ避難し一年以上山中ですごしたが、安全を確認しマニラにもどり、自宅へと帰った一九四四年のある日、日本軍兵士五人が家に乱入した。娘たちに暴行をはたらこうとしたので父が抵抗、そのもみあいのなかで父は殺され、彼女は兵舎に拉致された。そこで兵士達の性的相手をすることを強要されたのである。三ヵ月のち、兵舎から脱走しようとして発見され、日本刀で右腕を斬られて重傷を負ったという。まくってくれた右腕には数ヵ所の刀傷がふかくきざまれていた。(P.206~207)
1995.12 フィリピンの日本軍「慰安婦」 -性的暴力の被害者たち フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団 明石書店
 私は、マニラ・シンガロンのタゴノ・ストリートで生まれました。生年月日は一九二七年七月十日と聞かされています。家族は両親と五人きょうだいで、私は一番上でした。父親は契約労働者(臨時雇用)で、時には収入がなかったこともありました。家族は、薪を売って生活のたしにしていたこともありました。日本軍がマニラを占領した当時、私たち家族の生活はとても貧しかったです。私は一年間だけ小学校にいきました。
 一九四三年までは比較的平和でしたが、アメリカ軍がくる数ヵ月前から、日本軍による地域掃討作戦がはじまりました。この作戦で、日本軍は出会ったフィリピン人の男たちを虐殺し、村を焼き討ちにしました。この日本軍の地域掃討作戦があるたびに、私の家族は近くの山に逃げていました。そのころ、フィリピン人の男はすべてゲリラとみなされ、私が洗礼を受けたときの名づけ親の息子も殺されました。多くの男たちが一列に並んで穴を掘っているのを目撃しましたが、彼らは射殺されてそこに埋められたのです。つまり日本軍によって自分たちの墓穴を掘らされていたのです。
 私は、日本軍の地域掃討作戦を避けて山に逃げていましたが、疲れて、食べ物もなく、母親やきょうだいは絶望して泣き叫びました。その後、私たちは山から戻り、防空壕のなかに避難していました。しかし、父親がシンガロン地区に帰ろうと言い、家族とともに帰りました。ある夜、家で家族みんなが寝ていると、突然日本軍が襲ってきました。日本兵は、私と父親を連行しようとしましたが、父親は抵抗したため、日本兵に首をはねられて殺されました母親も抵抗したために同じように殺されました私が日本兵に連れられていくその目の前で、最年少の妹も殺されました。残りの二人の妹も泣いていましたが、急にその鳴き声が止まったので、そのときに殺されたのだろうと思います
 私は、灰色の日本の自動車(旭日旗がついていた)に乗せられて、他の五人の女性と一緒に大きな家に連れていかれました。その家は私の家から非常に近く、二十軒くらい離れたところにありました。その家は日本軍の駐屯所で日本兵は五十人以上いました。私はその家の中の一つの部屋に閉じこめられ、私を連行した大柄な士官によって強かんされました。当時、私はまだ初潮はありませんでした。
 私は毎日六人ぐらいの日本兵によって、部屋のなかで強かんされました。家族が殺されたために気が動転していましたが、二人の将校を覚えています。将校らは、褐色の制服を着ていて、長い軍刀と拳銃を持っていました。一般の兵士は緑色の制服を着ていて、将校に比較すると身なりもよくなかったのです。私を強かんした者のなかには、兵士ではない別の日本人もいました。彼らは軍服を着ておらず、きちんとした身なりをしていました。彼らは、士官の知り合いだったと思います。私たちは暴力的な日本人を「コラニ」と呼んでいました。私は約三ヶ月間そこに監禁されていました。
 部屋には私一人だけでした。二人の見張りが部屋の外におり、食事はその見張りの兵士が運んできました。私はトイレにいくときだけ部屋の外に出ることができました。洗たく、炊事などを命じられたことはありませんでした。また、日本兵からお金をもらったことも、服などをもらったこともありません。私は一度逃げようとしましたが発見され、すぐに捕まってしまいました。そのとき、日本兵から平手打ちを受けたり、殴られたり蹴られたりしました。
 アメリカ軍がその家を攻撃してきたとき、日本兵が部屋に入ってきて、私の首をはねようとしましたしかしその軍刀は私の肩に当たり、腕がちぎれそうになりました。この日本兵は士官の一人であり、私を最初に駐屯所に連れてきて強かんした男でした。私は軍刀で右肩を切りつけられて気を失っていました。私が意識を取り戻したときには誰もおらず、血はすでに乾いていました。外に出ると、アメリカ軍のトラックが通り、私をテントに連れていって治療してくれました。私は約一ヶ月間そのテントにいました。(P.52~54)
1997.6 元「慰安婦」の証言 -五〇年の沈黙を破って アジア・フォーラム編 晧星社
 私はルフィーナ・フェルナンデスです。一九二七年生まれで六七才になります。私の体験をお話させていただきます。一九四二年のことです。その時の家族構成は私と両親とあと五人兄弟がいて、私は長女でした。私の家族の生活はたいへん貧しく、父は建設労働者の仕事でした。兄弟も多かったので、学校も一年しか行けない状態でした。私たちが当時住んでいたのは、マニラ郊外のシンガロンという町です。
 一九四二年日本軍が占領した時、私は一四才でした。私の家族は日本軍がここに攻め込んでくることを聞いてセントラル・ルソンの山の方へ避難することにしました。山での生活は1年間でしたが、それはひどい状況でした。ます第一に食糧が不足していて、私たちが充分に食べられるものといえば、ココナツの実だけでした。生活も苦しく、状況も悪化していたので、父はマニラに戻る決心をしました。マニラに戻って数ヶ月後のことですが、地下のシェルターに隠れ住むことになりました。ここに潜んでいる間に日本軍がマニラに攻めてきました。そこでは男たちはほとんど殺され、家は焼き払われました。実際に私の祖母の孫にあたる人は逮捕され、その後行方がわからなくなったということを聞いています。ここでの状況があまりにもひどかったので数ヶ月後、前に済んでいたマニラ郊外のシンガロンに移ることにしました。この家に戻るとすぐ私たちの家に日本軍が入りこんできました。彼らは私の父を当時強かった反日ゲリラの容疑者ということで、逮捕しようとしていました。父は前から山に行ったり、マニラに行ったりしていて、反日運動など何ひとつ行っていません。そのことを日本軍の兵士に言いました。しかし、兵士はいっこうに耳をかそうとせず、父を殴りつけました。そして、私は避難生活の間に一五才になっていましたけれど、私を見つけて日本軍の兵士が連れて行こうとしました。それをみた父が逆上して、私を連れ戻そうと日本軍の兵士に抵抗した時に、父は私の見ている前で日本軍の兵士になぐり殺されました。そして次は母の番でした。母も私をかばおうと日本兵の前に立ちはだかると、兵士が何度も何度も母のおなかを殴りつけ、母はそのまま死んでしまいました。私は止めようとしましたが、私も頭をひどく殴られて意識を失った状態で車の中に連れて行かれました。遠ざかる意識の中で泣き叫ぶ兄弟の声が聞こえなくなりました。おそらく彼らも殺されたのだとその時思いました
 私の家族はこうしてすべて殺されました。これは私にとって、とてもつらい信じられない出来事でした。そのことだけでも私は五〇年間日本人と日本軍に対する怒りで苦しみ続けてきました。

 私はふたり将校に車で連れていかれ、部屋に入れられました。その部屋というのは、まるで豚小屋のような部屋でした。そこには私を含めて五人の女性が入れられて、それぞれ、しきりの中に入れられました。私はそのしきりのひとつの中で日本軍の将校からレイプされました。その後で別の六人の日本の軍人がやってきて、私をレイプし続けました。私の体は非常に疲れて、激痛に苦しんでいましたけれど、あまりのつらさと悲しさで泣き叫ぶことさえ忘れていました。そして、そのままの状態で何ヶ月か監禁されていました。この豚小屋のような部屋で私は毛布一枚を与えられただけでした。マットもなくそのまま床に座って寝る生活でした。とても寒く体はこごえそうでした。トイレは外にありましたが、私たちは外に出ることは許されなかったので、便器がない状態でトイレなどは床にそのままする状態でした。私はそういう状態に耐えられず、二回逃亡を試みました。一回逃亡を試みた時です。私は部屋に連れ戻され、その後したたかに殴られました。ほどんど殺される一歩手前まで殴られました。その後は充分な食糧も着るものも与えられませんでした。私は連れて来られた時に身をつけていたものを何度も何度も洗濯して着続けていました。
 それから三週間ほどしてからでしょうか、アメリカ軍がこの地域に近づいたという情報がはいると、最初に私をレイプした将校が私を殺そうとしました。彼は「サムライ」の持っているような日本刀で私の首をはねようとしました。私がちょうど刀を避けようと腕を上げた時に、その刀が私の腕に当たりました。彼はそのまま切ったわけですが、彼が切ったのは私の首ではなくて、私の腕でした。しかし私の腕は骨が粉々にくだけ皮一枚でようやくつながっている状態でした。私は血の海の中に倒れていました。出血多量で意識が遠ざかっていく中、私は傷ついた体で地面をはっていきました。そして、その時アメリカ軍の兵士が通りかかりました。アメリカ軍の兵士は私を見つけるとキャンプにつれて帰り、充分な手当をしてくれました。そこで私はひと月近くアメリカ軍のキャンプで手当をうけてようやく元気になりました。(P.6~8)


◆◆◆ 匿名 ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

6年制の小学校に通った後、看護婦として働く。1943年17歳の時、日本人に「東南アジアで働く看護婦を募集している」と騙され、チモールで慰安婦を強いられる。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本の民間人に騙された後、軍用船でチモールに向かう。


【考察】

同女の証言の疑問点は以下の通りです。

<東南アジアで働く看護婦に応募した理由が意味不明>
・・・看護婦をしていた同女は、日本人に「東南アジアで働く看護婦を募集している」と騙され、応募しますが、その理由を「その病院で働いていても将来があるわけではなかったので」と語っています。
なぜ、台湾の病院で働くことには将来がなく、また、東南アジアで働くと将来があると考えたのでしょうか。

<司令官が同女たちを強姦>
・・・同女たち(10人以上)は、処女かどうか調べられた後、「太った四〇歳くらいの司令官が私たち一人ひとりを強姦しました」とあります。その司令官は10人以上を一度に強姦したことになります。いくらなんでも無理でしょう。

<戦後に報酬として日本の軍票を受け取る>
・・・終戦後、同女は台湾行きの船を待つ間、陸軍の手配により配給所で働いています。その時、「そこで働いてお金を残し、銀行に日本の軍票で一万ドル以上貯金しました」と証言しています。終戦後に日本の軍票を受け取り、しかも、銀行が既に無価値となっている日本の軍票を預金として受け入れるなどありえないでしょう。

また、同女が言う「陸軍」はどこの「陸軍」なのでしょうか。日本の陸軍が終戦後に、配給所の仕事を斡旋したとも思えませんし、アメリカの陸軍でしょうか?しかし、配給所の給料は日本の軍票で支払われたことになっています。奇妙な証言です。
「慰安所で受け取った金」をごまかす為に、「終戦後に働いてもらった金」であると嘘をついているとしか思えません。

さらに、何故、ここで「ドル」が出てくるのか訳が分かりません。日本の軍票なら「円」しかありえないでしょう。米軍の配給所で働いたので「ドル」だったと言っているのでしょうか?

仮に、この「ドル」が「台湾ドル」(注1)のことだとすると、現在の換算相場では、1台湾ドル=3.6円なので1万ドル=3.6万円。また、「米ドル」だとすると、同じく約120万円。
あくまで、現在の換算相場で計算したものなので実際の価値は不明ですが、陸軍参謀の年棒が6000円の時代に5ヶ月間(注2)で、配給所でかなりの金額を稼いだようです。ありえないでしょう。

(注1)「台湾ドル」は、通貨の換算相場上の呼称。実際の台湾の紙幣は「圓」となっているようです。

(注2)同女は終戦後に配給所で働き始めて、1945年中に台湾に帰ったと証言しているので、配給所で働いていた期間は最大に見積もって1945年8月~12月で5ヶ月。

<退職手当300ドルの軍票>
・・・300台湾ドルは現在の相場で換算すれば1080円(米ドルなら3.6万円)。この退職手当を5ヶ月働いた配給所でもらえたとは思えませんし、慰安所から出た退職手当でしょう。退職手当が出るとは、それなりに良心的な慰安所だったようです。


【信憑性】

内容が希薄な上、短い中で疑問点があり、また、終戦後に報酬として日本の軍票を受け取ったと語るなど、あからさまな矛盾を披露しています。

信憑性はないでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.5 アジアの声 第7集
世界に問われる日本の戦後処理①
「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録
国際公聴会実行委員会 東方出版
 私は一人っ子でした。両親にとても大事に育てられました。六年制の小学校にも行かせてもらいました。卒業後は、看護婦として四年間病院で働きました。一七歳のとき(一九四三年)、ある日本人(一般人)東南アジアで働く看護婦を募集しているということを、友人から聞きました。その病院で働いていても将来があるわけではなかったので、私はそれに応募して女性たちの仲間に加わりました。その時、まだ本当の事を知らない私は大変喜んでいました。
 そのグループには一〇人以上の娘が入っていました。皆、看護婦になると信じていました。軍用船のアサママル(浅間丸)に乗って一ヵ月かかりチモールに着きました。オーストラリアを攻撃するための日本軍の基地がそこにありました。私たちは人も住まない山の中に連れて行かれ、ココナッツの葉でできた家に入れられました。最初は、家には何も掲示がかかっていなかったのですが、すぐ後に「慰安所」と書かれた板が張られました。
 最初の週に、娘たちが処女かどうか調べるために軍医が来ました。私たち全員をです。その後、とても太った四〇歳くらいの司令官が私たち一人ひとりを強姦しました。そして、毎日午後一時から五時まで、七人から最高一〇人までの「客」に「つく」よう言われました。どの部隊が何人慰安所に行ってよいか、軍が順番を決めていました。兵士たちには出かける前に番号つきの切符が配られました。トラックに乗って慰安所に来て、番号に該当する女性を見つけるのです。夕方になれば私たちは、いつも皆で泣きながら夕食を食べ、涙が手の中の食べ物にこぼれ落ちたものです。夕食後、今度は上官たちが来て一夜を過ごして帰りました。
 道の向こうには朝鮮人女性の慰安所があり、一〇人から二〇人の女性たちがいました。彼女たちは陸軍に、私たちは海軍に属していました。戦争が終わる数ヵ月前は、毎晩空襲がありました。三人の娘が死にました。私たちの生命は軍の手の中にありました。私たちは動物のように見られていました。殺そうと虐待しようと彼らの意のままです。人間らしい扱いはまったくありませんでした。
 一九四五年に戦争が終わって、私たちはスラバヤに送られ、そこで台湾行きの船を待つことになりました。陸軍が私たちに「配給所」で働くよう手配をしてくれました。
 そこで働いてお金を残し、銀行に日本の軍票で一万ドル以上貯金しました。一九四五年、私は台湾に送り返されました。(P.104~105)

受け取ったのは、退職手当の三〇〇ドルの軍票だけでした。戦争が終わったら、私の銀行貯金はわずかな価値に減ってしまいました。強姦と、無茶苦茶にされた青春と、不幸な一生の代償に得たお金が、突然なくなってしまうことに私は耐えられないので、お金は引き出していません。その後、私は貯金通帳をなくしましたが、一緒にチモールへ行った友達はまだそれを持っています。(P.106)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 ―アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 小学校卒業後、看護婦として4年間病院で働きました。17歳の時、友人から「ある日本の民間人が東南アジアで働く看護婦を募集している」という話を聞きました。本当のことを知らない私は、それに応募して大変喜んでいました。
 看護婦をするものと信じていた10人の女性が、軍用船の浅間丸で1ヵ月かかってチモール島に行きました。オーストラリアを攻撃するための日本軍の基地がそこにあったのです。ココナツの葉でできた家に入れられました。ここには後から「慰安所」と書かれた板が張られました。
 最初の週の内に、私たちが処女かどうかを調べるために軍医が来ました。次に、とても太った司令官が自分の部屋に私を連れて行ったのです。そして「寝ろ」と言ってから私を強姦したのです。
 兵士たちには「慰安所」に来る前に、番号付きの切符が配られていました。トラックに乗って「慰安所」に来て、番号に該当する女性を見つけるのです。
 昼間は兵隊、夜は大尉とか中尉たちが来ました。道の向こうには朝鮮人女性の「慰安所」があり、10~20人の女性がいました。私たちは海軍でしたが、彼女たちは陸軍に属していました。
 戦争が終わる数ヵ月前は、毎晩のように空襲がありました。そのため朝鮮人の女性たちが帰国するために乗った船が、爆弾で沈没したのです。私たちも帰国したかったのですが、このことであきらめました。特攻隊の兵隊は戻って来ないし、とても悲しい時期でした。
 私たちはいつも皆で泣きながら夕食を食べましたが、涙で食べ物にこぼれ落ちました。
 戦争が終わって私たちはスラバヤに移され、そこで台湾への船を待ちました。その間、私たちが「配給所」で働くように陸軍が手配しました。
 この残忍な犯罪に対して日本政府に抗議します。人間としての尊厳を私たちに戻してください。謝罪してください。そして犯した罪に対し、私たちに補償をしてください。(P.129~130)


◆◆◆ 鄭玉順(チョン・オクスン) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1920年12月28日、咸鏡南道豊山郡で生まれる。1933年6月に井戸で水を汲んでいたところ、日本の守備兵に拉致され、駐在所に連れて行かれ警官に強姦される。その後、恵山(ヘサン)にあった日本陸軍の守備隊に連行され、兵隊の性の相手をさせられる。1935年9月に中国の広州に移動し、1936年6月、逃亡を図るが2日後に捕まり、拷問を受けた後、捨てられ、中国人男性に助けられる。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本の守備兵に警察署へ拉致され、その後、兵隊にトラックに乗せられ中国東北地方の国境地帯の日本軍守備隊に連れて行かれる。


【考察】

他の多くの北朝鮮の証言者と同じく、慰安所の建物や生活の様子はなく、日本兵の残虐行為の話に終始した内容になっています。
残虐行為は、「人肉スープ」や「子宮への焼いた鉄棒挿入」、「水拷問」等、これでもかというくらい登場します。証言を国連の報告に使用するということで奮発したのでしょうか。
また、他の証言者には見られない「刺青」というものも出てきます(実際に同女の体には落書きのような刺青の跡が残っている)。「兵隊たちは、殺す前に女性たちの肉体に落書きしたのだ」(「平壌からの告発」)とありますが、拷問をした後、殺す前に刺青をするとは、どのような発想に基いてのことでしょうか。全く見当がつきません。

「クマラスワミ報告」によると、同女が入れられた恵山(中国東北地方と朝鮮の国境地帯)の守備隊には約400人の朝鮮人女性がいて、毎日5000人以上の兵隊の相手をしたそうです。その守備隊にはいったい何万人の兵隊がいたのでしょうか。
また、同女は一日に40人も相手をしたとも証言しています。400人の女性がいて、5000人の兵隊なら単純計算で一人頭、12.5人。40人も相手にする必要がありません。

さらに、「平壌からの告発」では異常に細かく日付が記載されています。

 ・拉致された日・・・1933年6月3日
 ・15人の女性が殺された日・・・1933年8月27日
 ・オ・チョンヘが殺された日・・・1933年12月1日
 ・オ・ズンイが殺された日・・・1934年2月4日
 ・逃亡した日・・・1936年6月15日

日付があった方が信憑性が高いとでも考えたのでしょうか。普通、ここまで細かく日付など覚えていないでしょう。


なお、「クマラスワミ報告」(以下、「クマ」)と「平壌からの告発」(以下、「平壌」)を比較すると以下の通り相違点があります。

<拉致された年>
○「クマ」・・・13歳の6月(西暦の記載なし)
○「平壌」・・・1933年6月(年齢の記載なし)
 → 1920年12月生まれなら、1933年6月は満12歳、数え年14歳で13歳ではありません。「クマ」の13歳は単純な計算ミスでしょうか。

<同女を拉致した人物>
○「クマ」・・・一人の日本の守備兵
○「平壌」・・・制服を着た三人の男
 → 制服とは軍服のことでしょうか。一人だったのが三人に増えました。

<警察で強姦される歳に口に入れられた物>
○「クマ」・・・靴下
○「平壌」・・・汚い布
 → 大した違いではありません。靴下を汚い布と表現しただけでしょう。

<釘の出た板の上を転がされた理由>
○「クマ」・・・「どうして一日に40人もの大勢の相手をしなければならないのか」と尋ねて、質問したことを罰するため
○「平壌」・・・兵隊が「兵隊一〇〇人の相手ができるのは誰か」と聞いて、その時に手を上げなかったから
 → 理由が全然違っています。

<釘の出た板の上を転がされた人数>
○「クマ」・・・1人の朝鮮の少女
○「平壌」・・・手を上げなかった15人の女性
 → 1人から15人に増えました。

<焼けた鉄棒を陰部に入れられた理由>
○「クマ」・・・性病にかかった朝鮮人少女を「無菌化」するため
○「平壌」・・・梅毒にかかったことを知らせずに将校にうつったため
 → 理由が全然違っています。怒った将校が「無菌化してやる」と焼けた鉄棒を入れたのでしょうか。

<拷問を受け、捨てられた後の状況>
○「クマ」・・・「気が付いてみると、私は恐らく死体として捨てられて山の蔭にいました。私といっしょにいた二人の少女のうち、私とク・ハエ(KuHae)が生き残りました。山のなかに住んでいた50歳の男が私たちを見つけ、衣服と食べるものをくれました」
○「平壌」・・・女性たちが野原に捨てられ、その様子を見ていた中国人男性が息のあった同女ともう一人の女性を運び出して介抱した。
 → 山の陰であったり、野原であったりしています。「クマ」だと、同女らが気がついた後、山のなかに住んでいた男に親切にされただけのようですが、「平壌」だと、捨てる所を見ていた男に運び出されて介抱されています。中国人の親切さが増しました。



--<北朝鮮の証言者、お約束の日本兵の残虐行為>--

○「兵隊一〇〇人の相手ができるのは誰か」と刀を下げた兵隊が聞いた。その時に手を上げなかった一五人の女性は、他の女性への見せしめとして殺された。その方法は、裸にした女性たちの頭と足を兵隊たちがつかみ、一面に釘を打った板の上をゴロゴロと転がしたのだ。噴水のように血が噴きだし、釘には肉片がこびりついた。

○鄭さんたちが泣いているのを見た中隊長は、「慰安婦たちは肉を食っていないので、肉が食いたくて泣いているんだ」と言った。兵隊たちは、殺した頭を釜で煮始めた。そして、鄭さんたちを木刀で叩いて、無理やりその汁を飲ませた

○オ・チョンヘという女性が、将校によって子宮に鉄の棒を押し込まれて殺された

○オ・ズンイとう女性が、梅毒にかかったことを知らせなかったため将校にうつったという理由で殺された。彼女は口に布を詰められ、焼いた鉄の棒を子宮に入れられて即死。引き抜いた棒には肉がこびりついていた

○鄭さんの口にゴムホースが押し込まれ、水が注がれた。膨れ上がったお腹の上に板が乗せられ、兵隊がシーソーのように踏みつけた

○鄭さんたちは、足首を縄で縛られて逆さに吊り下げられた。兵隊は、針がたくさんついた拳大の黒い塊を持って来てそれに墨をつけた。そして、鄭さんや他の女性たちの口をこじ開けて強く押し込んだのである。鄭さんの前歯は折れ、激しい痛みで再び気を失った

○口だけでなく全身に刺青がおこなわれた。兵隊たちは、殺す前に女性たちの肉体に落書きをしたのだ

○兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました

※最後のみ「クラマスワミ報告」。それ以外は「平壌からの告発」より。


【信憑性】

荒唐無稽の内容。信憑性なし。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1996.2 クマラスワミ報告 クマラスワミ ****
現在74歳のチョン・オクスン(ChongOkSun)の証言は、日本帝国陸軍の兵士による性的暴行と日々の強姦に加えて、これらの女性が耐えなければならなかった残酷で苛酷な取り扱いを、とくに反映している。
「私は1920年12月28日、朝鮮半島北部咸鏡南道のプンサン郡フアバル里で生まれました。
13歳の時の6月のある日、私は畑で働いている両親のために昼食の用意をしなければならなかったので、村の井戸に水を汲みに行きました。そこで一人の日本の守備兵が私を不意に襲い、連れて行きました。ですから両親には自分の娘に何が起きたか分かりませんでした。私はトラックで警察に連れて行かれ、数人の警官により強姦されました。私が叫ぶと彼らは口に靴下を押し込み強姦を続けました。私が泣いたので警察署長は私の左目を殴りました。その日、私は左目の視力を失いました。
10日ほどして私はヘイサン市の日本陸軍守備隊の兵営に連れて行かれました。私といっしょに約400人の朝鮮の若い娘がいて、毎日性奴隷として5000人以上の日本兵の相手をしなければなりませんでした――一日に40人もです
その度に私は抗議しましたが、かれらは私を殴ったり、口にぼろきれを詰め込んだりしました。あるものは、私が抵抗をやめるまで秘所にマッチの棒を押し当てました。私の秘所は血まみれになりました。
一緒にいた一人の朝鮮の少女が、どうして一日に40人もの大勢の相手をしなければならないのかを尋ねたことがあります。質問したことを罰するため、日本の中隊長ヤマモトはこの少女を剣で打つように命じました。私たちが見ていると、彼らは少女の衣類をはぎとり、手足を縛り、釘の出た板のうえを、釘が血と肉片で覆われるまで転がしました。最後に、彼らは彼女の首を切りました。別の日本人ヤマモトは、「お前たちみんなを殺すのは簡単だ。犬を殺すよりもっと簡単だ」と語りました。彼はまた「こいつら朝鮮人少女は食べ物がないといって泣いているから、この人肉を煮て食べさせてやれ」とも言いました。
ある朝鮮人少女は、頻繁に強姦されたため性病にかかり、そのために50人以上の日本兵が病気にかかりました。病気の蔓延を防ぎその朝鮮人少女を「無菌化」するため、彼らは焼けた鉄棒を彼女の秘所に突き刺しました。あるとき彼らは私たちのうち40人を、トラックに乗せて遠くの水たまりに連れて行きました。水たまりは水と蛇でいっぱいでした。兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました
守備隊の兵営にいた少女たちの半分以上が殺されたと思います。二度逃亡を企てましたが、いつも数日で捕まってしまいました。私たちはいっそうひどく拷問をうけ、私はあまりに多く頭を殴られたので、どの傷もまだ残っています。彼らはまた私の唇の内側や胸、腹、体に入れ墨をしました。私は気絶しました。気が付いてみると、私は恐らく死体として捨てられて山の蔭にいました。私といっしょにいた二人の少女のうち、私とク・ハエ(KuHae)が生き残りました。山のなかに住んでいた50歳の男が私たちを見つけ、衣服と食べるものをくれました。彼はまた朝鮮に帰るのも助けてくれました。私は、日本人のための性奴隷として5年間使役されたのち、18歳のときに、傷つき子を産めない体で、言葉を話すのも難かしいありさまで帰国しました」。
2001.7 平壌からの告発 伊藤孝司 風媒社
 鄭玉順さんは、咸鏡南道豊山郡把揆里で一九二〇年一二月二八日に生まれた。
一九三三年六月三日井戸で水を汲んでいたところ、いきなり後ろから髪の毛を強く引っ張られた制服を着た三人の男に捕まり、連れて行かれたのは把揆里の駐在所だった。ここで汚い布を口に押し込まれて強姦される。抵抗したので目を強く殴られ、この時から左目が次第に見えなくなった。
 そして一〇日後、七~八人の兵隊にトラックへ乗せられ、恵山にあった日本軍の守備隊に連行された。恵山は中国東北地方との国境にあり、鄭さんは、一日に約四〇人もの兵隊の相手をさせられる時もあり、子宮からは血が流れ出した。
 この年の八月二七日、「兵隊一〇〇人の相手ができるのは誰か」と刀を下げた兵隊が聞いた。その時に手を上げなかった一五人の女性は、他の女性への見せしめとして殺された。その方法は、裸にした女性たちの頭と足を兵隊たちがつかみ、一面に釘を打った板の上をゴロゴロと転がしたのだ。噴水のように血が噴きだし、釘には肉片がこびりついた。それを見ていた時の気持ちを「天と地が逆さまになったような気がした」と鄭さんは表現した。
 次に兵隊は、「言うことを聞かない者はまだいるか」と言って、釘の上に転がされて死んだ一人の女性の首を切り落とした。鄭さんたちが泣いているのを見た中隊長は、「慰安婦たちは肉を食っていないので、肉が食いたくて泣いているんだ」と言った。兵隊たちは、殺した頭を釜で煮始めた。そして、鄭さんたちを木刀で叩いて、無理やりその汁を飲ませたのである。
 鄭さんはそこまで話をすると、この時に殺された女性たちの名前を指を折りながら一人ずつあげた。ケオリ、タノリ、ミョンスギ、ケチュニ、プンスギー。途中でわからなくなると最初からやり直した。それが終わると、「その守備隊の大隊長は『ニシハラ』、中隊長は『ヤマモト』で小隊長は『カネヤマ』、『慰安所』の監督は朝鮮人の『朴』でした」と語った。鄭さんは日付や人名をくわしく覚えているなど記憶は実に鮮明だ。
 一九三三年一二月一日にはオ・チョンヘという女性が、将校によって子宮に鉄の棒を押し込まれて殺された。翌年二月四日にはオ・ズンイとう女性が、梅毒にかかったことを知らせなかったため将校にうつったという理由で殺された。彼女は口に布を詰められ、焼いた鉄の棒を子宮に入れられて即死。引き抜いた棒には肉がこびりついていた。~(中略)~
 恵山の部隊は、女性たちを連れて中国へと移動。台湾とも近い所にしばらくいた後、一九三五年九月には広州に着く。市街地から一二キロメートルほど離れた所の立派な建物に入れられた。翌年六月一五日に鄭さんを含めた一二人の女性が逃亡したが、二日後に全員が捕まってしまう。「逃げようと最初に言ったのは誰か。それを言えば首謀者以外は助けてやる」と言われたものの全員が黙っていた。鄭さんは鉄の棒で頭をめった打ちにされた。この時の傷は今も残っている。~(中略)~
 次に受けたのは「水拷問」。鄭さんの口にゴムホースが押し込まれ、水が注がれた。膨れ上がったお腹の上に板が乗せられ、兵隊がシーソーのように踏みつけた。鼻と口から水が吹き出した。これが何度か繰り返されて気を失った。
 そして、さらに残忍な行為がおこなわれた。鄭さんたちは、足首を縄で縛られて逆さに吊り下げられた。兵隊は、針がたくさんついた拳大の黒い塊を持って来てそれに墨をつけた。そして、鄭さんや他の女性たちの口をこじ開けて強く押し込んだのである。鄭さんの前歯は折れ、激しい痛みで再び気を失った
 口だけでなく全身に刺青がおこなわれた。兵隊たちは、殺す前に女性たちの肉体に落書きをしたのだ。馬車に積まれてきた女性たちが野原に捨てられるようすを中国人の男性が見ていた。彼は、日本兵が去ると息のあった二人の女性を運び出し、ニヵ月間ほど介抱をした。鄭さんは奇跡的に生き残ったのである。(P.43~46)


◆◆◆ 石川たま子(仮名) ◆◆◆

※サイパン帰りのたま子さん


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1908年、横浜に生まれる。17、18歳の時に横須賀の花街で働き始め、「南洋はとても儲かっていいよ」という話を聞いて北マリアナ諸島のテニアン島の娼館に入る。その後、警察から指名されて、他の指名された娼婦たちと共にラバウルの慰安所に移る。さらに、グアムの将校用の慰安所に移った後、テニアンの娼館に戻り、その後、サイパンに渡る。前借金は慰安所にいた時に完済した。終戦後は、収容所に入れられた後、沖縄出身の男にいいよられ、以後、沖縄で生活する。

1991年11月死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

警察から指名されて慰安所に入る。


【考察】

慰安所設置の際に、既存の売春宿で働いていた娼婦らを指名して集め、その一人が同女だったという話です。


同女の証言では、以下の通り、他の多くの元・従軍慰安婦と異って悲劇的な強制ではなく、むしろ積極的に客をとろうとする発言が垣間見れて興味深い内容です。

「100人200人なんでもない~(中略)~兵隊なんかつかれているもの、すぐ終わるよ。~(中略)~これを喰ったらすぐ追っ払うのに。追っ払ってすぐ次。一人の人にいつまでもくっついていたらお金になんないもの」

「そんな時休めばいいだろって?だけどやっぱり商売だから休めない。いくら借金がないからって、ヨンタク((怠けること)はできないさ。『ああ、この女は売れないよぉ』っていわれたらしょうがないでしょ。」

また、「たま子は民間の店より慰安所の方がよいといった」とも記述されています。同女が慰安所にいた時に借金を返済していることと、上記、証言を合わせて考えると、兵隊の方が一人当たりの時間が短く人数をこなすことができて、その分、収入も多かったということでしょう。


なお、同女は1988年12月9日号の「朝日ジャーナル」で朝鮮人慰安婦として紹介されていますが、「皇軍慰安所の女たち」で著者、川田文子氏は、「やはり私には日本人としてのたま子さん像をふっきることはできない」と述べています。
確かに、同女の証言の中には朝鮮人を思わせる言動はなく、日本人と考えるのが自然な内容なのですが、著者が「朝日ジャーナル」の記者に問い合わせた際、「福祉事務所にも朝鮮人として届けられているから間違いない」と言われたとも記載されています。
まあ、どちらでもかまわないでしょう。


【信憑性】

特に不審な内容はなく、信憑性はあると思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.8 皇軍慰安所の女たち 川田文子 筑摩書房
 たま子さんが語った少女の頃の思い出は、日本の貧しい家庭の生活背景の中に違和感なく収まっていた。私はたま子さんを日本人と思い込んで話を聞いていた。朝日ジャーナルの記者は、“朝鮮人慰安婦”でなければ記事にならないと、勝手にたま子さんを朝鮮人にしてしまったのではないかと私は勘ぐり、問いあわせた。すると記者はG市の福祉事務所にも朝鮮人として届けられているから間違いないといった。(P.26~27)

 「南洋はとても儲かっていいよ」
 仲間からそんな話を聞いて、たま子は南洋へ行く気になった
。口入れ屋の所在も仲間に教わった。口入れ屋というのは、周旋屋、あるいは女衒などとも呼ばれる花街の雇い主に女たちを世話する仲介人である。口入れ屋の手数料や南洋への旅費をあらかじめさし引かれたが、たま子にとってはかなりまとまった額の前借金を受取り、半分は父に、半分はきものや帯や寝具などを揃える支度金として持ってきた。(P.31~32)

テニアンへ行ったのも、何歳だったのか、判然としない。一七、八歳の時に軍港のあった横須賀の花街で働き始めてから、茨城県の航空基地のあった町、永井荷風の『墨東綺譚』に描かれている玉の井、そして亀戸などを転々とした末、テニアンに渡った。そして最初に入った楼では一番年長であったことを「三」と、それが二三なのか、三〇なのか、三三なのか、二ケタ目の数を明示しなくても当然通じるといった感じでいった。一九〇八(明治四一)年九月一一日生まれのたま子がテニアンへ渡ったのが、二三歳とすれば一九三一(昭和六)年、三〇歳とすれば一九三八年(昭和一三)年、三三歳とすれば一九四一(昭和一六)年となる。亀戸の花街はやたらチンピラがウロウロし、ここでは稼げないと直感したたま子は、再び横須賀に戻ったのだが、茨城県の航空基地のある町や横須賀での体験は、土地柄のせいもあろうが、すでに軍事色の濃い背景となっている。たま子がテニアンへ行ったのは、おそらく三〇歳ないし三三歳であったろう。(P.32~33)

 テニアンでたま子が働くことになった「松島楼」の主内間も沖縄県出身者であった。大阪からきたというノブコもたま子と同時に松島楼に抱えられた。
 ―うちたちが店に入るでしょ。そうすると、松島楼に女が入ったって新聞に載せるでしょ、朝日新聞、よろず新聞、そんなのに出るから新聞とってるところはみんな分かるよね。お客はやっぱり古い女より珍しいでしょ。今度来た女はどんなかね、ってくるでしょ。八百屋なんかに初物が出たらこれは珍しいっていうのと同じで。(P.36)

 たま子が軍の慰安所へ行くことになったのは、トラックから再びテニアンの松島楼へ戻っていた時のことだ。
 ―これはね、慰問だからね、直接行きたくっても行かれないんです。向こうから選ばれて、名前指されて行くんだからね。だから、あたしも行きたいんだけど、といっても行けないのに。どこから決め手てくるか知らないけどさ、警察の人が六か月つとめて来なさいって。
 警察から指名されて慰安所へ行くことになったたま子らは、あたかも兵士が出征する時のように同業者らに万歳三唱で見送られた。船には約五〇人もの女が乗っていた。テニアンだけではなくサイパンの各楼からも集められたのだ。
 松島楼からは三人が指名され、主人も一緒に船に乗った。松島楼には女将が残って商売を続けた。女が少ない楼では、比較的多い他の楼と話をつけ、女の前借金を清算して連れて行った。~(中略)~
 たま子と同じ船でラバウルに着いた約五〇人の女たちは、陸軍、海軍、将校用、数か所の慰安所に分けられた。
 たま子は陸軍の慰安所に入れられた。
 ―将校ばっかり入る倶楽部ね、あんなところなんかみんないい女ばっかり選ばれてるよ。悪い者は行かないよ。そのかわりあんな所に行ったら借金は抜けないよ。儲からない。将校の数が少ないでしょ。ね。
 うちたちは普通の兵隊だから朝九時頃から配給とるみたいにたくさん並ぶよ。だから、ごはん食べる暇がないでしょ。賄いの人が握り飯にして持ってくるからね、もう、自分の部屋で食べるさ。おなかが空くからね、お握りを三つも四つも置いといて、おかずもいっぱいどんぶりの中へ入れておいてもらう。兵隊が「ここどうしたんだい」「何やってるのか」って戸を叩くでしょ。ね。いいよ。ごはん食べてるけど、かまわない。開けるよ。毎日、身体があく暇がない。あがりは五時、晩になったらもうゆっくりできるけどね。疲れないよ。一〇〇人や二〇〇人、なんでもない。ウン。ウソじゃない。兵隊なんかつかれているもの、すぐ終わるよ。食いしん坊だから。喰うっていったらすぐだぞ。これを喰ったらすぐ追っ払うのに。追っ払ってすぐ次。一人の人にいつまでもくっついていたらお金になんないもの
 民間の店では雇い主が六分、女が四分で計算されたが、慰安所では五分五分の配分である。といっても、多くの女たちが莫大な額の前借金を負っているから自分のとり分は返済にあてられる。女たちが自由に使えるのは、規定の料金とは別に客がくれるチップだけであった。きものや化粧品、寝具などの経費も借金として計上される。~(中略)~
 だけど、あたし、上の人はあんまり好きじゃない。兵隊がいいよ。お金はたくさんとれるし、気ままいっぱい。なにしろ、もう、あんな人はぐずっぽくて、いや。上の人はうるさい。気難しくてね。普通の兵隊三人、四人とった方がずっといい、楽。あんなの一人ぐらいとったって借金抜けないよ。それっぱかりであんた、何になるね。
 兵隊は休日しか慰安所を利用できない。また、時間も五時までと定められていた。下士官はカクバンといって一日おき、将校は日時の制限はなかった。兵隊の休日には、慰安所前には白い札を持った兵隊がズラリと列をなした。札は買ってあるのに、五時になっても順番がまわってこず、あぶれてしまう者もいる。そんな時にはたま子は「今度外出した時は必ずいらっしゃいね」と自分の名刺を渡しておいた。すると、次の外出の時には、兵隊は名刺を頼りにたま子のところにくるからだ。けれど、一日何十人と相手をしていたからとてもその兵隊の顔を覚えてなどいられない。~(中略)~
 将校には専用の軍人倶楽部があったが、たま子のいた陸軍の慰安所にもよく来ていた。ある日のこと、一人の将校がたま子らを、
「うちの隊へ行かないか」
と誘った。
「ううん、憲兵に二人ともひっぱられて牢屋ん中へ入れられたらたいへん」
「僕は偉いんだよ。明るくならないうちにこっちへ送ってくるから、何もこわくないよ」~(中略)~
たま子も行ってみたいけど、やはりこわかった。
「お風呂にも入れるよ」
 慰安所では普段、水風呂にしか入れなかったので、そのことばにつられて、たま子はようやく勇を鼓して行く気になった。
 ―そしたらね、こわくない。番兵なんかどうするかと思ったらね。鉄砲持って敬礼するでしょ。こっちは(階級が)上でしょ。番兵はいてもなんともいわない。掃除も自分でするんじゃない。下っぱの人がするでしょ。だから、きれいになってる。スリッパもあるしさ。ベッド、フカフカしてさ、下にポコンとおっこちるんだよ。本やらね、なんやかんや、いっぱい見せたりさ、また、お菓子やらいろんなもの持って来てさ、だけど、食べるようじゃないよね。それで、帰る時、パイナップルなんか、桃の缶詰、みかんの缶詰ね、これみんな持って来た。
 たま子らは時折、傷病兵の慰問に行った。朝八時頃から一二時頃までいくつもの病棟を残さず廻ってくる。顔が膨れあがっている兵隊、片目が潰れている兵隊、手がない者、足がない者、火傷で顔までも包帯を巻いていている者・・・・・・。軍からの要請があったのか、それとも抱え主の自発的な慰問であったのか、たま子は慰安婦としての仕事で見舞ったのだが、傷病兵の無惨な姿に胸がつまった。~(中略)~
 慰問から帰って来てしばらくすると、回復した兵隊が、
「慰問の時まわってきてくれたでしょう、僕のこと覚えてますか」
と訪ねてくる。病院のベッドに横たわっていた時には、白い患者服を着ていたので、その兵隊の階級も、軍隊でどんな種類の仕事をしているかも分からなかったが、軍服を着てくるとはじめて衿章や胸ポケットに縫いつけたマークでそれが分った。
「戦地にいて金なんか持ってたって何にもならない。使えるうちに使わなくちゃ。今日死ぬか明日まで生きのびられるのか、分らないからな。かといって慰安所の他には金を使いたくても使う場所もなし・・・・・・」(P.44~51)

 (生理の時)お客とやる時はね、もうきれいに洗って、そしてから海綿、中につめてさ。海綿だったら、ホラ、あれつかないでしょ。海綿に糸つけといてよ、自分でひっぱって、洗浄して、次の人にできるように。一回、この糸がとれなくなっちゃってよ、困ってさ、あわてて医者に行ってとってもらったよ。そんな時休めばいいだろって?だけどやっぱり商売だから休めない。いくら借金がないからって、ヨンタク((怠けること)はできないさ。「ああ、この女は売れないよぉ」っていわれたらしょうがないでしょ。名前の札が玄関にでてるでしょ。二番三番まではいいけど、五番六番になったら、もうね、終いだからね。お客さんが「見番変ってないじゃないか、他所はみんな変ってるよ」っていうのよ。「変りますよ」っていうけど、みんな変らさないものね。みんな意地だからね。あたしも落ちたくないからね。あたしはナイチァー(内地の人間)だけど、沖縄の所へ来てるでしょ、沖縄の人に負けたくないでしょ。
 民間の店では玄関の女たちの源氏名を記した札が掛けられていた。その札は稼ぎ高の高い順に並べられている。稼ぎ高が高いということは、いうまでもなくそれだけ客に人気があるということだ。たま子は民間の店より慰安所の方がよいといった。それまで負っていた借金をすべて慰安所にいる時に返済できたということも一因だろうが、それ以上に、慰安所では出入口に並べられる札が稼ぎ高順ではなかったということが最大の理由だ。(P.60~61)

 草とりに出てみると、米兵は若い女性とみるとつきまとい用便もできない。手洗い所の前には米兵らの強姦、暴行を防止するためMP(Miritary Police<憲兵>の略称)が立っていたが、安心して入れない。それで女同士数人がその都度囲いをつくり、その囲いの中で用便を足すことにした。そのMPまでもがたま子の顔を見ると、ニタニタしていた。いけ好かない男だと思っていると、ある日、靴を脱いで木に登った。たま子はそれがマンゴーだと知らなかったが、たくさんの熟した実をとったMPは、それをたま子に与え、その代償を求めた。(P.66)

 しかし、思い起こせば、この稿にも記した通り、たま子さんの話では、テニアンやサイパンにいた頃は沖縄の人々の中でナイチャー、つまり日本人として通していたのだ。やはり私には日本人としてのたま子さん像をふっきることはできない
 日本人だったが慰安婦だったという経歴から朝鮮人と見做された。そんな風に想像してみた。だが、今となっては確かめる術もない。(P.87)


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