忍者ブログ

元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11 
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

◆◆◆ 田中タミ(仮名) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

両親は数え6歳の時に離婚。父は次々に事業を起こしては失敗し、ほとんど家に寄り付かず、曾祖母に育てられる。11歳の時、父により、20歳まで年季奉公するという契約で前借金と引き換えに、大森にあった芸者の置屋に預けられ、三味線を習うかたわら使い走り等をする。その後、父に千葉県船橋の遊郭に売られる。15歳の時、家に逃げ帰るが、数週間後、警察から呼び出されて遊郭に戻る。1944年、数え17歳の時、千葉県茂原に慰安所が開設されると同時に移され慰安婦をする(その時、同女はまだ客を取っていなかったが店の主には犯されていた)。終戦直後、民間人に身受けされ、その民間人の元に別居していた妻子が帰ってきたことを機に実家に戻る。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

無し。既存の遊郭から移される。


【考察】

当時、遊郭に売られた女性の状況を知る上で興味深い話です。
同女の話を読むと以下のことが分かります。

 ・遊郭等に売られる場合、養女という形を取っていたこと
 ・遊郭から逃げ出した場合、警察が来て取り調べられること(おそらく、養女・前借金という形の人身売買が容認されていて、もし、娘が逃げ出した場合は、契約不履行ということになるのでしょう)
 ・遊女に外出の自由はなく、必ず用心棒等、見張りの者がついたこと
 ・数え17歳(満15歳か16歳)で客を取り始めるのは普通だったこと
 ・慰安婦は他の遊女と違って、お国の為に身を挺して働いていると思われていたこと(全ての人がこのようなプラス・イメージを持っていたわけではないでしょうが)


【信憑性】

特に不審なところはなく、信憑性はあると思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.8 皇軍慰安所の女たち 川田文子 筑摩書房
 だがある日、父が材木商だという男を連れて置屋に来た。そして、材木商の養女にするということで、それまで父が借りていた前借金をその男が置屋に返済した。
 ところが、その男は材木商ではなかった。千葉県船橋の遊郭に大吉楼(仮名)という大店を持つ主の甥であった。父はまた金が必要になり、タミを遊郭に売り飛ばしたのだ。芸者の置屋よりは遊郭の方がよほど前借金を出す。その差額を父は得たのである。~(中略)~
 父は、タミを遊郭に預けて得た前借金とは別に、主から相当な額の金を引出し、製材業を始めた。単に前借金だけではなく、父の借金の抵当に、タミは遊郭に預けられたのである。(P.181~182)

 父は、大吉楼にタミを置いて行く時、「すぐ迎えにくるから」といった。タミは父のことばを信じて待った。しかし、季節が変り年が明けても、父は迎えに来なかった。
 待ちきれずに、タミは大吉楼を飛び出した。一五歳だった。逃げても帰るところは家しかない。父は逃げ帰ったタミをだまって家に置いた。だが、数週後、船橋の警察から呼び出しがかかったのだ。~(中略)~
 取調べは父とは別々に行われた。タミは大吉楼に戻るのは絶対にいやだといい張った。すると警官は、後手に縛った父を連れて来たのである。父の哀れな姿を見せられて、タミは折れざるを得なかった。しかし、後に警察の署長クラスの人が大吉楼に終始出入りし、主の広い部屋で饗応されているのを見るにつけ、警官が父を縛りあげたのは、タミを大吉楼に戻すための茶番でしかなかったことに気づいたのだ。タミの取調べにあたった警官も、しばしば大吉楼で見かけた。多少とも良心が咎めたのか、その警官はタミと顔を合わせると、目をそらせた。(P.183~184)

 前借金で縛られている花魁たちには行動の自由はない。外出が許される場合にも、必ず用心棒など監視する者がついていった。稼ぎ高が店で二番目、主の愛人でもあり、信用されている花魁の場合でさえ、タミが伴をした。(P.185)

 農家が点在する千葉県茂原の田園地帯に、忽然と七軒の慰安所が建てられたのは一九四四年秋である。大吉楼の主も軍の要請を受け、出店した。建物は、日頃船橋の店に出入りしていた大工が建てた。~(中略)~
 それまで船橋で小間使いとして働いていたタミは、慰安所開設と同時に茂原に連れて行かれた。数え一七歳、それ以前、すでに主に犯されていた。そのようなことがあると借金は棒引きされると、花魁たちから聞いたこともあったが、年端のいかないタミは、自分の身体を武器にして主と借金棒引きの交渉をする知恵も勇気もなかった。
 茂原に海軍の航空基地が完成したのは一九四三年である。太平洋戦争開戦前に作られた軍備計画丸五計画では、茂原航空隊を新設する予定であった。通常、海軍の航空基地には、その基地を専用する航空隊があったが、茂原飛行場の場合、基地は完成したものの、茂原航空隊は新設されないまま、第三二一航空隊、第三〇一航空隊等が使用した。飛行場の面積は一九五万平方メートル、幅八〇メートル、長さ一〇〇〇メートルと一二〇〇メートルの滑走路が二本あった。隊員は約四〇〇〇名、零戦や艦載爆撃機等約八〇機が常備していた。
 七軒の慰安所はそれぞれ名前がついていた。タミのいたところは、大吉楼と、船橋の店の名をそのまま使った。道を挟んで大吉楼の側に四軒、向かいに三軒、東京にある遊郭州崎から来た業者が多かった。大吉楼以外はいずれももとの店はたたんで来た。
 それぞれの慰安所に、六、七人ぐらいずつタミと同じ年ぐらいの若い娘ばかりが集められた。どんな事情があってか、大吉楼に二〇歳を過ぎた姉妹が二人揃って来ていたが、タミたちにはその二人が例外的な年長者に感じられたくらいだ。七軒の慰安所の娘たちの多くが、茂原に来るまでは売春体験いや性体験もなかった娘たちだった。
 性病検査は町の医院で行われた。羅患者が出た場合には、即刻軍に、羅患者の所属する慰安所名と源氏名とが伝達された。時折遊びに来た兵隊が、○○楼の××は要注意だ、などと騒いでいるのを聞いた。開設当初は慰安所には一人も羅患者はいなかったのだから、結局、軍人に性病を移されたのである。
 料金は軍によって指定されたが、遊郭に比べるとだいぶ安かった。安い料金で業者が応じたのは、税金を低く押えるか免税にするなど、なんらかの措置がとられたのだろうとタミは感じた。
 大吉楼の主は船橋に残り、茂原には来なかった。主にかわって慰安所の経営にあたったのは主の甥の木村(仮名)である。そのため、他の慰安所に比べてタミらはいくぶん楽な面があったろうか。たとえば、大吉楼では帳簿をいつでも見ることができた。タミは、一刻でも早く慰安所から抜け出したくて、戻しもすべて返済に当て、帳簿を見せてもらっては借金の残額が減っていくのを励みにしていた。戻しというのは、稼ぎ高から借金返済やきもの、化粧品、飲食費など、日常の経費を差し引かれ娘たちに戻される額である。
 また、他の六軒には遊郭と同様にやり手婆がいて、やり手婆のいいなりに軍人の相手をしなければならなかったが、木村は、女たちがいやな客を拒むのを、多少大目に見ていた。大吉楼では、玄関を入ってすぐの六畳の間で女たちは兵隊を待ったのだが、いやな兵隊が来た場合には、その場をうまくとり繕って逃げてくることも許された。もっとも、選り好みをしていれば借金はなかなか減りはしない。(P.186~188)

 七軒の"おやま"の女たちは、性だけを売買の対象とされたことには違いないが、一般の遊郭の女たちや私娼などとは区別された。お国のために身を挺して働いている娘たちである、と。タミらが近隣の農家に花など分けてもらいに行くと、「お国のためにねえ……ご苦労なされて」
 軍人に対するのと同じことばでねぎらわれることがあった。(P.190)

 慰安所はもちろん、軍人軍属以外の民間人の出入りは禁じられている。だが基地の兵隊たちの休日を知っている地元の民間人が、兵隊たちが来られない時間を見計らってこっそり入ってくる。どの慰安所でも、軍から規定された額より高い料金をとれる民間人を隠れて受け入れていた。(P190)

 慰安所の女たちは想いを寄せている航空兵が茂原を去ることを知ると、無事を祈念して日の丸の鉢巻を作り差し出した。指を切り、白い晒に血で染めあげた日の丸である。航空兵らの休日は所属する隊によって異なっていたから、女たちの予想より航空兵が慰安所に来るのが二、三日も遅れると、血の日の丸は生臭くなった。
 茂原を発つ日時をあらかじめ知らせに来る航空兵もいた。その時間に外に出てみると、慰安所の上をニ、三回旋回し、白いマフラーを大きく振って飛び去った。
 兵隊にとって慰安所は軍隊からの最も手近な避難の場であったろう。(P191)

 タミは、芸者として働くようになってから茂原時代のことはひた隠しにしていた。
 芸者は芸だけで身を立てていくことも不可能ではない。しかし、性の売買とも決して無縁ではない。表向き性の売買は行われないことになっているが、それなしでは生き難い花柳界で、芸者たちの間には厳しい階級性がある。それは性の売買の仕方と深く関わっている。分かりやすくいえば、正当に芸だけで身を立てる層を頂点とすれば、次にごく限られた上客だけを受け入れる層、そして比較的安い料金で数をこなす層だ。金持ちに見受けされ、粋な黒塀、見越の松の瀟洒な家を与えられ、花柳界から身を引くのも芸者の出世頭だろう。つまり、性交渉の相手となる男の数が少なければなるほど上層と見なされるのだ。皮肉にも貞女ニ夫に見えずの家父長制的゛家"に女の性を縛る貞操観念が、花柳界にも投影されていたわけだ。いや、借金返済のために多くの男の性の対象にされる苦痛を克服する手段がより上客に数を絞っていくことだったのである。
 芸で身を立てることを範とする芸者たちは、自分たちは遊郭の女郎とは違うと必死に思い込んでいた。必死にそう思い込まなければ、性を買売しなければ生き難い花柳界にあって、なし崩し的に二枚芸者(芸妓鑑札と娼妓鑑札を受けている芸者)になることは目に見えていたからである。(P198~199)


PR

◆◆◆ 都秋枝(ト・チュジ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1949年10月28日神奈川県川崎市で生まれる。1960年、在日朝鮮人の帰国事業で北朝鮮に帰国。2003年10月18日に豆満江で悪い人たちにジープに乗せられ、日本国総領事館を通じて日本へ拉致され千葉県松戸市に連行される。2007年6月21日に日本を脱出し北京の北朝鮮大使館に保護される。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

ジープに乗せられた後、日本国総領事館を通じて日本に拉致される。


【考察】

豆満江で悪い人たちに拉致されたと証言していますが、日本兵でしょうか、それとも、日本の手先となって働いている朝鮮人でしょうか。
どちらにしても、日本国総領事館を通じて日本に連行されていますから、公権力の関与は明らかのようです。

また、下記記事からは、日本に拉致された後、何をさせられていたかは不明ですが、興味のあるところです。


なお、朝鮮日報の記事で同女は58歳になっていますが、1949年10月28日生まれなら、2007年6月は満57歳、数え年で59歳です。57歳の誤りでしょう。


【信憑性】

書くまでもないでしょう。
脱北して日本に逃げて来たのが、なぜか拉致されたことに。北朝鮮に置いてきた子ども達と会う為にはこれしか方法がなかったのでしょうか。

しかし、気を抜いていると、将来、これが事実として定着しかねないのが恐ろしい所です。
韓国も今は、「何をバカなことを言っているんだ」的な対応ですが、忘れた頃に誰かが「日本は2000年代になっても強制連行していた!」と持ち出してくるかもしれません。なにせ、証人がいるのですから。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
2007.6.26 朝鮮日報「北朝鮮『2003年に日本が北朝鮮女性を拉致』」 ***** ****
北朝鮮は26日、日本が2003年10月18日に北朝鮮女性のト・チュジさん(58)を拉致したと主張した。

 在北京・北朝鮮大使館は26日午前9時(現地時間)、北朝鮮大使館で国内外のメディアを対象に共同記者会見を行い、日本が4年前にト・チュジさんを拉致したと発表した。

 この会見にはトさんも同席した。この会見でトさんは「2003年10月に豆満江で悪い人たちにジープに乗せられ、在瀋陽日本国総領事館を通じて、日本へ強制拉致された」「3年7カ月間日本で生活したが、今月21日に日本を脱出して、現在は在北京・北朝鮮大使館で保護を受けている」と主張した。

 この日トさんは記者団の質問に一切答えず、北朝鮮映画『民族と運命』の主題歌を歌いながら会見場を後にした。

 トさんは1949年10月28日に神奈川県川崎市でト・サンダルさんの三女として生まれ、1960年に帰国船に乗って北朝鮮に入国したという。
2007.6.27 朝鮮日報「【記者手帳】北朝鮮大使館のおかしな会見」 ***** ****
 25日夜、北京の北朝鮮大使館は外国の特派員らに対し、「明日午前9時、大使館で緊急記者会見を行う」と伝えた。緊迫度が増す北朝鮮の核問題に関する発表を予想していた各国の記者約80人は翌朝、1時間前から大使館の外に長蛇の列を作った。

 ところが予想は大きく外れた。大使館は「これから、日本に強制的に連行された都秋枝(ト・チュジ)さん(58)の記者会見を開きます」とアナウンスしたのだ。

 記者たちの前に現れた中年の女性は、1949年に日本で生まれ、15歳のときに在日朝鮮人の帰国事業で北朝鮮に渡り、現在は5人兄弟の母親だという。ところが、「2003年10月、悪い人たちにそそのかされ、豆満江を越えて中国に渡ったところで無理やりジープに乗せられ、日本へ連れていかれた」と彼女は語った。

 そして「日本ではただ子どもたちに会いたいという一心で、酒と睡眠薬におぼれる毎日でした…北朝鮮では“苦難の行軍”(1990年代中盤の食糧不足)のときにも幸せだったのに…」と涙ながらに語り、「日本は子どもが親を殺すような国だ。人間の住む所ではない」と語気を強めながら非難した。

 今月21日に日本を脱出したという彼女は最後に「歌を1曲歌う」と言った。そして「ああ、将軍様のおかげで‐わたしたちは一つの家族、将軍様の家族です」と歌った後、記者の質問にも答えず足早に会見場を後にした。

 2年前の05年4月にも、北京の北朝鮮大使館で記者会見が開かれた。このときも「核問題に関する発表」を予想して集まった記者たちは、「日本人に拉致された」という安筆花=日本名・平島筆子=さん(69)のメチャクチャな主張を聞かされた。安さんはこの時、「将軍様の家族です」という歌の代わりに「将軍様、万歳!」と叫んだ。

 北朝鮮は日本が自国による「日本人拉致問題」を追及し続ける中、「われわれも被害者だ」と主張しようとしているのかもしれない。だが、そうした主張が説得力を持つには、少なくともなぜ拉致が行われたのか、どうやって「脱出」し、どこで生活していたのか、詳しく説明するべきではないだろうか。2年後に同じような「異常ずくめの記者会見」を見させられた外国の特派員たちは皆苦りきった様子だった。
2007.6.26 毎日新聞「脱北者:千葉県滞在の北朝鮮女性が帰国の意思 北京で会見」 ***** ****
 【北京・西岡省二】北朝鮮から03年に脱出した後、日本に保護され、千葉県内に滞在していた北朝鮮女性が26日午前、北京の北朝鮮大使館で記者会見し、再び北朝鮮に戻る意思を明らかにした。

 女性は川崎市出身の「都秋枝(ト・チュジ)=57」と名乗っている。

 都さんは在日朝鮮人と日本人の間に生まれ、在日朝鮮人の帰国事業で1960年、北朝鮮に帰国した。その後、03年10月、中朝国境の豆満江を越えて中国に逃れた後、遼寧省瀋陽の日本総領事館に保護された。その後、日本に渡り、千葉県松戸市で暮らしていた。

 都さんは「今の日本は昔住んでいた日本とは大きく違った。氷の大きなかけらのような感じがした」などと語った。

 北朝鮮大使館は同日、「日本に強制的に連れて行かれた共和国(北朝鮮)公民の記者会見」と題し、北京駐在の各国記者を集めた。都さんは涙声で語り、記者会見の最後には90年代の北朝鮮映画の主題歌を歌った。

◆◆◆ 鄭書云(チョン・ソウン) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦となった経緯等】

1924年、慶尚南道で地主のひとり娘として生まれる。父が食器の供出を拒んだ為、逮捕され、父の釈放と交換条件に日本の工場で働くことを承諾する。下関経由でインドネシアのスマランに連れて行かれ慰安婦を強いられる。(「私は『慰安婦』ではない」より)

1995年9月、中国で開かれた北京女性大会に、韓国代表として出席、全世界に向かって日本軍の蛮行を知らせた。
2004.2死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

無し。下関では一ヵ月~一か月半、収容所に入れられるが日本人の監視員が二人見張っていた。

【考察】

同女の証言の疑問点等は以下の通りです。

<区長に日本の千人針工場で働かせると言われる>(「私は『慰安婦』ではない」)

千人針ついては、街頭の道行く人にお願いして一針ずつ縫ってもらったという話は聞きますが、千人針工場というものは聞いたことがありません。千人の女性がいて、順番に一針ずつ縫って行くような工場でしょうか。あまり効果も無さそうです。

<慰安婦になったのは日本の統治前のインドネシア>(中央日報)

1924年生まれで13歳の時に連行されていますから、同女がインドネシアで慰安婦となったのは1937年頃。日本がインドネシアを統治したのは1942年からなので、全く辻褄があいません。

なお、「私は『慰安婦』ではない 日本の侵略と性奴隷」によると、連行されたのは14歳のようです。どちらにしても、辻褄はあいませんが。

<下関の倉庫には娘が約千人、一緒に船に乗ったのは数千人>(韓国従軍慰安婦問題対策協議会HP)

約千人が収容できるのですから、かなり大きな倉庫で、それがいくつかあったと証言しています。また、同女と一緒に船には数千人の娘たちが乗っていたと証言しています。これまた巨大な船です。

<一日平均50人、土日は100人の軍人を相手>(韓国従軍慰安婦問題対策協議会HP)

24時間ぶっ続けで相手をしたとしても、100人だったら一人当たり約14分。もしかしたら同女はすごいテクニシャンだったのかも知れません。

上の千人と言い、同女は何でもかんでも大きい数字を言えばいいと思っているようです。

<慰安婦を防空壕に生き埋めにする計画を知った朝鮮人兵士が連合軍へ連絡して助かる>(「私は『慰安婦』ではない」)

信じ難い話です。もし、これが本当なら、計画していた日本兵が戦犯として裁かれていてもよさそうですが。


【信憑性】

船に乗った人数にしろ、相手をした人数にしろ、大げさな数字を言っているのは明らかですし、日本統治前のインドネシアで慰安婦をしていたというのも無茶苦茶です。

信憑性はないでしょう。
想像するに、13歳か14歳の時に騙されて売春婦にさせられて、1942年頃に売春宿の経営者が慰安所を開設するのに伴い、一緒にインドネシアに連れて行かれたというところでしょうか。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1997.8 私は「慰安婦」ではない
日本の侵略と性奴隷
戦争犠牲者を心に刻む会編 東方出版
 私は一九二四年、韓国の田舎の地主のひとり娘として生まれました。私の父はとても頑固な人で、「創氏改名」を拒否したほどでした。「創氏改名」を拒否しても、父が地主であったため、捕まえることは出来ませんでした。植民地時代(1910年~1945年)ではあったものの、特に最初の頃は日本人は地主とはいつも妥協していました。
 ある日、町の区長から、その当時韓国では銅で作られた食器を使っていたのですが、その食器をみんな供出しろという命令が下されました。父はかんかんに怒りました。何から何まで朝鮮人から全部奪っていって、それでも足りずに今度は御飯を食べる食器まで供出させるのか、と。それは出来ないと父は怒りました。その命令があった夜、父は家にあったたくさんの食器をすべて父の土地に埋めたのです。けれども、そのことが密告により日本人にばれてしまい、父は逮捕されました。それで私は何回も警察署に行き、父に面会できるよう頼みましたが、ことごとく断られました。
 そしてある日、食器供出の話をした区長がまた家にやって来ました。自分といっしょに行けば父との面会が許されるから明日いっしょに行こう、と。私は喜んで、「はい、そうします」と答えました。
 父は拷問のために、ほとんど気を失っていました。意識を取り戻した父は、私を見るなりかんかんに怒りました。「若い娘が警察署に来るなんて。早く帰りなさい。そしてもう二度とこういう所には来てはいけない」と言いました。家に帰ると母に父の様子を尋ねられたのですが、拷問で失神していたとはとても言えませんでした。
 数日して、区長がまた家に来ましたので、私は針の仕事がとても上手でしたので、区長は今度は、「お嬢さんは針の仕事がとても上手だから、日本の千人針工場に行って働かないか」と言うのです。「お嬢さんがその工場に行って働けば、お父さんはすぐ自由の身になりますよ」。そう言われました。
 母は猛反対しました。当時の朝鮮はとても保守的でしたから、若い娘が町に出て仕事をすることなど想像も出来ない時代でした。母はほんとうに、すごく反対したのです。でも私は母を説得しました。父が早く釈放されるためには仕方がないことだからと。そしてとうとう母の承諾を得ました。私は区長に会い、「工場に行って働きます」と言い、工場に行くとその日で父が自由になるということをもう一度確かめますと、区長は「その通りだ」と答えました。
 区長について、港町釜山に着きました。釜山から私は船に乗せられ、そして日本の下関に着いたのです。下関に着くと大きな倉庫に入れられましたが、中に入って、私はびっくりしました。数え切れないくらい大勢の少女たちがいたのです。中にはなんと十二歳の少女までいました。日本人の監視員が二人、ずっと見張っていました。食事のたびに、配給されるのは海苔巻きのおむすびが一個だけです。でも、私はとても怖かったために、、三日間何も喉を通りませんでした。三日経って、お腹が空いてやっとおむすびを食べることが出来ました。
 毎日のように、次々とたくさんの若い娘が倉庫に運ばれてきました。そしてある日、私が住んでいた村の村長の娘までが連れて来られました。倉庫で一か月か一か月半くらい待たされたと思います。倉庫の中では名前もなく、いつも番号で呼ばれました。私はある日呼び出され、そして、他の少女たちとともにとても大きな船に乗せられました。
 アジアのあちこちの港町を通り、船が最後に着いたところは、ジャカルタからそれほど離れていないスマランというところでした。そこに降りた若い娘は、全部で二十三人でした。そして降りるとすぐ、私たちは病院に連れて行かれました。そこで私は強姦されました。三日間、下腹部からずうっと血が出ました。(P.50~52)

 日本の軍人の中にも、いい人はいました。その方のことは、福岡から来た「伊藤」という方だということ知りませんが、彼は日本が敗けた時、生き残っている私たち「慰安婦」を防空壕に閉じ込めてそのまま生き埋めにしてしまおうという日本軍の計画を、朝鮮人の兵士たちにこっそりと打ち明けたのです。それを知った朝鮮人兵士たちは手紙を書いて、二日に一度やって来るインドネシア人の洗濯婦にその手紙を託し、早く連合軍に伝えるよう頼みました。そのおかげで私たちは帰ってくることが出来ました。(P.54)

 たった十四歳の娘が、自分の国でもない、よその国の軍人のために、進んで戦場にいって身を売ることを想像してみてください。(P.55)
2004.2.26 中央日報「全世界に従軍慰安婦の実像を暴露したチョン・ソウン氏死去 」 ***** ****
13歳のとき、インドネシアに連れて行かされ、7年間にわたって日本軍の従軍慰安婦として生きなければならなかった「挺身隊おばあさん」チョン・ソウン氏が、26日未明、慶尚南道鎮海(キョンサンナムド・チンヘ)の自宅で老患で亡くなった。80歳

チョン氏は、1995年9月、中国で開かれた北京女性大会に、韓国代表として堂々と出席、全世界に向かって、日本軍の蛮行を知らせた人物だ。

チョン氏は、当時「日本の軍医官から不妊手術を受けており、金の代わりに軍票を受けた。1日平均50人ずつ、週末には100人の軍人と性関係を持たなければならなかった」と証言、国際社会に衝撃を与えた。喪家は、鎮海第一病院に設けられた。
2007.4現在 韓国従軍慰安婦問題対策協議会HP
※リンク先は韓国語
***** ****
私は慶尚南道河東でかなり金持ち集の一人娘に生まれました.
私のお父さんは、私を日本学問を学ぶ必要がない、となさりながら日本学校に行かせなかったです. しかし私は家庭教師を通じて漢字とハングルは学ぶことができました。私のお父さんはまた創氏改名も最後までしなかったです。そして日本が戦争武器で作るために真鍮器を供出するようにしたが, 私のお父さんはそれもしないで、夜に人知れず家で働く掘り起こした何を連れて田を深く売ってその所にさび器を埋めました. ところでそれがぼろを出して、お父さんは警察署に引かれて行って留置場に閉じこめられました. 毎日私は面会に行ったが面会ができなかったです。ところである日、朴球場(現弛張)が家に来て、私が日本紡織工場へ行けばお父さんは釈放されることができると言いました. 私が工場に行くその日、お父さんはすぐ釈放されるはずだというのでした. それは私が行かなければ、私のお父さんは死ぬしかないという脅迫でした. そんな状況で私は拒否することができなかったです. その時私の年15数えました. 
私と一緒に、岳陽面兔将娘も一緒に行ったが、その兔将は駐在所所長から岳陽面で娘供出量を割り当て受けると駐在所所長の横っ面を殴って辞表を出しました. その理由で兔将の娘も私と一緒に引かれて行くようになりました。
私たちは韓国人と日本人によって、釜山まで来て釜山で大きい船に乗って日本の下関に到着しました。見下ろしたら歩哨がある大きい倉庫に約千名位になる娘たちが閉じこめられていました。その所にはそんな倉庫がいくつかありました. 私はその所が工場ではないことをすぐ分かりました. ここで私は私の道なのいじめ下った頭を首になりました. そして一日に 3回ずつのりで包んだお握りを受けたが、私はお父さん考えと家を浮かび出た恐ろしさに、それを食べることができなかったです. しかし 3日位が経つと、お腹がとてもすいていてそれを食べるしかなかったです。その時いくらのり巻きをあきれるように食べたのか、今ものり巻きはもちろん長さも見たがらないです. そのように、、その所で正確に憶えることはできないが約 15日位あったようです. ところが、一日は私たちを番号どおり呼びました。そして順番どおり、とても大きい船に乗せました。そのお腹には数千名の女達が一緒に乗りました
私たちが下関で初めに到着した所は台湾でした。そしてまた船に乗って広東に行ったし、タイ、バンコク、サイゴン、シンガポールを経由して、インドネシアジャカルタに下りました. それからはその所でニューギニア、スマトラ、長芋と等地に配置されたが、配置させる前にジャカルタ陸軍病院に私たちのすべての女性たちを連れて行っては、子宮の中に何かを入れました。ところでどのようにしたのかの下盃があまりにも苦しく痛かったです. そして多分約 3日間下血をしたようです. 
一日を休んでまた船に乗って行くのに、私はひどい痛症と下血で言えない苦痛にあいました. 私は 23人位の女性たちとマラングの陸軍部隊に倍速されて、その部隊が移動し次第に付きまとって運命を一緒にしました. 私たちは部隊中で住んだし、食事も軍人たちのような食堂で一緒にしました. 私と一緒に間兔将娘はニューギニアに配置されて行きました。慰安所は代代ごとに一つずつあったし、一慰安所に女が 20-30人ずついたようです. 
慰安所は代代ごとに一つずつあったし、
一慰安所に女が 20-30人ずついたようです. 普段には多くの人一部屋を使ったが、軍人たちの来る時は包装を打った各方を利用しました. 一日平均 50人以上の軍人を相対しなければならなかったです. 50人以上を相対してみるとくたびれて気を失う時があります. それでは水を振りかけて我に返るようにした後、また軍人を相対するようにします. それでも性器が水ぶくれになって、到底痛くて歩みも歩くスオブのになって、これ以上軍人を相対することができなくなれば注射を腕に放してやったが、分かってみれば麻薬注射でした. その注射を打てば不十分に痛かったです. 土,日曜日には、100人も越す軍人たちを朝 9時から相対しなければならなかったから、彼らは始める前から 4-5代の麻薬注射を私に当てました. 

(後略)

(管理人注:上記は機械翻訳)


◆◆◆ マルディエム ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1929年2月7日、ジャワ島のジョグジャカルタに4人姉妹の末っ子として生まれる。父と母は貴族の使用人で経済的には困っていなかった。生後7ヶ月で母親をなくし、1939年10歳の時、父が死亡。叔父の養女となるが叔父の価値観に従えず、3ヵ月後、他家で住み込みの召使いになる。1942年13歳の時、芸能活動に興味をもっていた同女は、「レストランで働く人と芝居をやる人」を探している日本人に応募し、ボルネオ島のバンジェルマシン郊外のトラワンの慰安所で3年間慰安婦を強いられる。

2000年12月、「国際女性戦犯法廷」で証言。
同女を扱ったドキュメンタリー映画に「Mardiyem-マルディエム- 彼女の人生に起きたこと」がある。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

「正源寺」(日本人の歯医者で市長)という人物、もしくはインドネシア人グループに引率され、汽車と船を乗り継ぎ慰安所まで連れて行かれる。慰安所の経営者は「キクチ」という日本人。なお、この慰安所は、昼は軍人、夜は民間人(もしくは軍属)を相手にしていた。


【考察】

下記資料の1997年の「元『慰安婦』の証言」(以降「元慰」)、及び「インドネシアの『慰安婦』」(以降、(イ慰)と2001年の「インドネシア従軍慰安婦の記録」(以降「イ従」)を比べると以下の通り証言が異なっています。

<13歳時の生活状況>
○「元慰」・・・「13歳になっていましたが、~(中略)~父も母も貴族の使用人で経済的に困っているというわけではありませんでした」
○「イ慰」・・・特に、当時の経済的状況等についての記述なし
○「イ従」・・・父も母も死亡しており、他家で住み込みの召使いをしていた。
→「元慰」や「イ慰」では、当時、既に両親が死亡していたことは語られていません。ただし、「イ従」によると、住み込みの召使いをしていたので生活には困っていなかったようです。「元慰」の内容は、ウソとまでは言えないでしょうが、正確ではない証言です。
また、「イ従」によると、父親の死亡後、叔父の養女となりますが、その叔父はジャワの価値感を強調する人で、同女は家に閉じこめられていたようです。そのことに耐えられずに、叔父の家を出たようで、明記はされていませんが、叔父の許可を得て召使いをしていたとは考えられず、おそらくは、当時、同女は保護者がいない状況だったと思われます。

<募集した人物>
○「元慰」・・・日本人歯科医の「ソウゲンジ」がカリマンタンからやって来て募集
○「イ慰」・・・日本人歯科医でバンジャルマシン市長の「正源寺」が舞台役者や歌手等を引き連れてきて募集
○「イ従」・・・徴募人グループのリーダー格はアリ・ブロスで、そのグループには日本人はいなかった。ただし、その指導をしていたのが「ショーゲンジ」医師。
→「元慰」・「イ慰」と「イ従」では、「正源寺」の役回りが全く異なっています。「イ慰」によると「正源寺」は当時、バンジャルマシンの市長だったようです。例え、軍から慰安所設置の要請を受けたとしても、市長自らが募集して回るなどありえないでしょう。

<15歳未満で資格のない同女にOKを出した人物>
○「元慰」・・・インドネシア人医師に13歳で資格がないと言われた際、「ソウゲンジ」が問題ないと言った。
○「イ慰」・・・「正源寺」が「かまわんだろう」と言った。
○「イ従」・・・募集したインドネシア人グループは、同女が年齢を偽っていることを知っていたが黙認した。
→「元慰」・「イ慰」では、「正源寺」がわずか13歳の同女に売春行為を許可した張本人になっていますが、「イ従」では黙認したのはインドネシア人の徴募人グループになっています。

<慰安所まで引率した人物>
○「元慰」・・・明記なし(※前後の内容から「ソウゲンジ」であろうと推測される)
○「イ慰」・・・「正源寺」
○「イ従」・・・インドネシア人の徴募人グループ

<慰安所への移動時の日本軍トラック>
○「元慰」・・・トラワンへの移動時にトラックを使用。日本軍のトラックとは記載されていない。
○「イ慰」・・・移動時にトラックの記載はない。
○「イ従」・・・スバラヤで軍用トラックを使用。運転手は軍人。また、バンジャルマシンでも同じ日本軍のトラックを使用。
→何故か「イ従」だけ、移動時に日本軍のトラックが出てきます。「正源寺」の関与が薄れた代わりとして、日本軍の関与を追加したのでしょうか。

<慰安所オープンの日に集まった人>
○「元慰」・・・「たくさんの人」とあるだけで日本兵とは記載されていない。また、「パンジェルマシン中から人が集まってきていました」とある。
○「イ慰」・・・記載なし
○「イ従」・・・「慰安所はすでに客たちで溢れており、それは日本人兵士たちに他ならなかった」
→「元慰」では、民間人も含まれていたと解釈するのが自然な記述だったのが(※同慰安所は民間人も相手にしていた)、「イ従」では集まった客の全てが日本人兵士になっています。

<同女の最初の相手>
○「元慰」・・・単に「医者のアシスタント」としか記載されておらず、身体検査を受けた病院との関連も記述されていない。
○「イ慰」・・・「最初の日、マルディエムさんは六人の兵士に犯された」とある。
○「イ従」・・・午前中の身体検査の際、同女を調べた医者の助手。また、検査の際、処女であることを知り、真っ先に買いに来たのだろうという旨の記述がある。
→「元慰」では語られていない具体的な情報が「イ従」では追加されています。「イ従」によると、同女が病院から慰安所に戻ったのは午前11時頃で、その時には既に慰安所の前にたくさんの日本兵がいたようです。
もし、その病院の助手が同女を一番に買うには、同女の検査をした後、全員の検査終了を待たずに、即座に病院を抜け出して並ばなければ不可能でしょう。それとも慰安所経営者に金を握らせて一番を取ったのでしょうか。しかし、高位の将校でもない単なる医者の助手がそんなことをしたら、並んでいた他の日本兵が黙っていないでしょう。ウソ臭い証言です。
また、ウソ証言だからか、「イ慰」では医者の助手は登場しません。もしかすると、軍の病院の助手も「兵士」に含まれているのでしょうか。

<慰安所の客>
○「元慰」・・・昼の12時から5時までは軍人が利用、5時から夜の12時までは民間人が利用。
○「イ慰」・・・昼の12時から5時までは軍服を着た軍人が利用、5時から夜の12時までは私服の軍属が利用
○「イ従」・・・昼の12時から5時までは日本兵が利用、5時から夜の12時までは日本の民間人が利用
→「イ慰」だけ、午後の利用者が「軍属」になっています。

<中絶手術の際、麻酔・鎮痛剤を使用しなかった理由>
○「元慰」・・・「彼女(※医師)もやりたくてやったわけではありませんでした。命令されたのです」とある。
○「イ慰」・・・「麻酔薬も手術に必要な機材も充分になかった。」とある。
○「イ従」・・・「おそらく、日本側としては、マルディエムさんに、彼女が二度と妊娠することがないよう、一種のトラウマを植え付けたかったのだろう。」とある。
→「元慰」と「イ従」は、日本人経営者が医師に命令して、麻酔・鎮痛剤無しでの堕胎処理をさせたことになっているのに対して、「イ慰」は、単に戦時中で薬等が無かった為になっています。

<堕胎後の胎児>
○「元慰」・・・「慣習にしたがって名前をつけました。名前があれば私が死んだ後も拝んでもらえます。『マルディヤマ』と名付けました。」とある。
○「イ慰」・・・「その子を棄てないよう医師に懇願し、マルディヤマと名付けて埋葬した。」とある。
○「イ従」・・・「しかも、まだ若い娘のマルディエムさんに、自分の目ですでに形を形成している赤ん坊を見るように強制したのだ。」とある。
→「イ慰」では、同女自身が胎児を棄てないように懇願して埋葬までしているのに、「イ従」では、日本人経営者がトラウマを植え付ける為に胎児を見るよう強制しています。


1997年の「元慰」・「イ慰」と2001年の「イ従」で大きく異なっているのは、日本人歯科医の「正源寺」の役割です。「元慰」・「イ慰」では、この「正源寺」が虚偽の内容で慰安婦を募集し、13歳で資格のないの同女を積極的に黙認しています。完全に本件の主犯格として扱われています。
この「正源寺」は、バンジャルマシンの市長をしていたようで、市長自らが慰安婦を募集し、集まった女性達を慰安所まで引率するなど、おかしな話です。

その点を誰かに指摘されたのか、「イ従」では、それまで出てこなかった「インドネシア人の徴募人グループ」が出てきて、募集、引率は全てそのグループが行っており、そのグループの指導を「正源寺」行っていたことになっています。しかも、それまでは、同女が「正源寺」に直接会っていたのが、結局、一度も姿を見ることがなかったことに変更されています。

いい加減な証言です。本当に市長の「正源寺」が関与していたのかも疑わしいものです。

さらに、「イ従」では、「その船に乗り込んだとき、マルディエムさんは、本能的にいやな予感がした。その船に乗って二日間の航海中に、マルディエムさんは、彼女の仲間たちの一部が乗組員たちと、あるいはほかの客たちと親密な関係になっていることがわかった。」という記述があります。
この記述から、同女たちの一部に娼婦がいたことは明らかでしょう。「親密な関係」とは単なる恋愛の親密さではありません。そうならば、「いやな予感」などするはずがないからです。
ここから分かることは、「娼婦がいて、恐らく、その娼婦たちは慰安婦をすることを知っていた」と言うことです。もし、娼婦から足を洗って、レストランの給仕や舞台俳優等になろうとしていたのなら、移動中の船で客をとったりしないでしょう。


また、「元慰」・「イ慰」・「イ従」では、同女が妊娠した際、中絶用の薬を飲ませられますが効き目がなかった為、ウリンの病院に連れて行かれ、ドイツ人の女性医師に麻酔や鎮痛剤なしで掻爬されて堕胎したと証言しています。
しかし、下記資料の「《非戦・平和コンサート》横浜開港記念会館」では、中絶処理をしたのが慰安所経営者の「チカダ」になっています。「チカダ」が中絶薬を飲ませたが効き目がなかったので、同女の上に乗って無理やり中絶させたことになっています。
証言など、いくらで作り変えても構わないとでも考えているのでしょうか。


【信憑性】

「正源寺」に関する証言の変更はひどいものです。おそらく、慰安所で働いていたというのは本当でしょうが、いったい、どこまで本当のことを言っているのか不明です。
信憑性はありません。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1997.6 元「慰安婦」の証言 -五〇年の沈黙を破って アジア・フォーラム編 晧星社
 インドネシアのジャワ島ジョグジャカルタからやってきましたマルディエムと申します。ずいぶん昔のことです。やっと今日お話できます。一九四二年から話します。カリマンタンから日本人の医者で「ソウゲンジ」という人がやってきました。その人が言うには、カリマンタンで働く人を探しているということでした。レストランで働く人や芝居をやる人を探しているということでした。その募集の話も公式なものではなく、口から口へと伝えられていました。私は一三歳になっていましたが、芝居が好きだったので、その話に興味を持ちました。私の父も母も貴族の使用人で、経済的に困っているというわけではありませんでしたが、歌手になりたいと思っていたので、この募集に応じたのです。私は一九二九年二月七日生まれで、応募の年齢には達していませんでしたが応募しました。ジョグジャカルタで使用人になろうとは思っていませんでした。カリマンタンのバンジェルマシンで募集していたのは、レストランで働くか芝居の役者でした。実際、芝居をやっている人が一緒に来ていたので、その話を信用したのです。手続きも、どこかに行ってするのではなく、その人に「応募したい」と言っただけです。

 応募の気持ちを伝えてから三日後に、ジョグジャカルタのススドラさんというインドネシア人の医者に行って身体検査をするよう言われました。「ソウゲンジ」さんは歯医者でした。検査の結果、一五歳という応募資格のない一三歳でまだ生理もないということがわかってしまいました。ススドラさんは「ソウゲンジ」さんに「一三歳で資格がない」と言うと「ソウゲンジ」さんは「問題ない」と言いました。そして採用されて、四、五日してから、トゥドゥ駅に集まれと言われました。行ってみるとそこでたくさんの人が応募していたことがわかりました。ジョグジャカルタの人が四〇人、アンバラワンの人が八人で合計四八人でした。私たちは仲間ということがわかりました。ジャワ人は青い服、他の人は黄色の小さな花柄の模様のついた服を着ていました。スラバヤまで汽車で行き、ホテルでバンジェルマシン行きの船が出るまで待ちました。スラバヤには一週間から一〇日くらいいました。「ミキ丸」という船が来て二日二晩かけてバンジェルマシンに着きました。そこでは「ソウゲンジ」さんの使用人で東ジャワ出身の人の家に泊まりました
 また一週間から一〇日くらいすると、アンバラワンから来た八人は、レストランで働くことを希望していたので分けられました。その他の四〇人のうち、一六人は芝居をやることになりました。残りの二四人は(私もはいっていましたが)トラックに乗せられて、トラワンというところに連れて行かれました。トラワンというのは、バンジェルマシンの中心ではなく、郊外にあります。そこで、二四人は個室を与えられました。個室には一から二四の番号がふってありました。その中には、ベッドと毛布(シーツ)と机と二つの椅子がありました。ぜいたくではなかったけれど、一人で暮らすにはちょうど良いと思いました。私は一一号室を与えられました。すべて日本名をつけられました。六号室の人は「マサコ」三号室は「サクラ」などです。私は今でも一〇名ぐらいの日本名を覚えています。二四名のインドネシア名はすべて言えます。私自身は「モモエ」という名をつけられました。その意味するところはまだわかりませんでした。
 夜になって私たちは泣きました。一五歳以下の人が四人いました。翌朝になると、そこを運営している責任者の「チカダ」に軍の病院に連れて行かれ、身体検査をされました。何のためかはまだわかりませんでした。病院から帰って仔細がのみこめました。そこにはたくさんの人が集まっていました。その日は「慰安所」のオープンの日だったのです。市場のように人が列をつくって待っていました。その人たちを二四人で相手しなければならないので、たいへんでした。最初に私が客をとらされた人というのは、医者のアシスタントで、彼は一時間の時間を買ったわけですが、一時間もいないで用が済むとすぐ帰っていきました。最初に経験した人ですから、その人の風貌を忘れることができません。よく覚えています。当時、私は一三歳だったので、続けて六人も客をとらされるとものすごい出血がありました。もうこの仕事は耐えられないと思い、こんなにつらいなら死んだ方がましだとさえ思いました。あまりにも出血がひどかったので、休憩させてくれるようにお願いしました。この日はオープンの日でバンジェルマシン中から人が集まってきていました。バンジェルマシンは南カリマンタンの州都です。でも耐えられないので、部屋の前にある「モモエ」という札を裏返しにして客をとっていることにして休んでいました。外には出られませんでした。(P.13~15)

昼の一二時から五時までは軍人が利用しました。五時から夜の一二時までは民間人が利用しました。(P.15)

そして「チカダ」に中絶のため医者に連れて行かれました。中絶のためウリンの病院に強制的に連れて行かれたのです。戦争中だったので、麻酔も鎮痛剤もなしに掻爬されました。手術したのはドイツ人の女性医師ですが、彼女もやりたくてやったのではありませんでした。命令されたのです。(P.16)
1997.5 インドネシアの「慰安婦」 川田文子 明石書店
 長い年月、インドネシアを植民地として支配してきたオランダを短期間の戦闘で破り、日本が軍政を敷いたのは一九四二年三月九日である。
 日本が軍政を敷いてまだ間もない頃、正源寺寛吾はドクトル・ソスロドロ、舞台役者のアリブロッス、その下で働いていた歌手のレンチを率いてジョグジャカルタにやってきた
 レンチは、マルディエムさんと幼なじみである。(P.12)

 レンチは、「ボルネオ」に行って一緒に芝居をしよう」と、マルディエムさんを誘った
 マルディエムさんの家族は、代々王宮に仕えてきた。礼儀作法を厳しく躾けられ、母や姉と同じように王宮に仕える窮屈な生活から抜け出したいと思っていた。ブルネオに行って、レンチやジャパールのように舞台に立てたらどんなに楽しいか、夢が大きく膨らんだ。(P.13)

 出発前、希望者は全員、王宮の近くにあったドクトル・ソスロドロの知人の医院で健康診断を受けた。マルディエムさんは、その時一三歳だったが、身上書では年齢を一五歳にした。一三歳ではボルネオに連れていってもらえないような気がしたからである。ドクトル・ソスロドロは、この少女の策略を一目で見破った。
「まだ、子どもですよ」
「いや、かまわんだろう」
 バンジャルマシンでの仕事に耐えられないのではないかとのドクトル・ソスロドロの危惧を打ち消したのは、正源寺であった。
 翌日、指定された時間にジョグジャカルタの駅前に行ってみると、大勢の同じ年くらいの少女たちが集まっていた。列車に乗ったのが午前八時か九時頃、正源寺に集められた少女は四八人だった。誰ひとり、どんな目的のために集められたのか知らなかった。~(中略)~
 スラバヤに着いたのが、午後三時過ぎ、パンニリ・ホテルに宿泊した。他の客が入る余地はなく、正源寺が引率する少女たち一行の貸切となった。ホテルで船待ちをして、ボルネオに渡ったのは約二週間後である。
 ジョグジャカルタで四八人の少女を徴集した責任者、正源寺寛吾は『ジャガタラ閑話』(ジャガタラ友の会 一九八八年刊)によれば、当時、バンジャルマシンの市長であった。(P.14~15)

 正源寺は、バンジャルマシンでは「ドクトル・ギギイ正源寺」として知られていた。ギギイはインドネシア語で「歯」のことである。つまり歯科医であるが、国家試験を受け、医師としての資格を取得した今日の歯科医とは異なり、シンガポールの日本人歯科医から技術を習得した。(P.16)

 彼女たちはひとりひとりその小部屋に入れられた。凹字型の建物の中庭の正面入口に別連棟のしっかりした建物があった。慰安所が開設されると、事務所あるいは受付と呼ばれるようになった建物である。他の二四人のうち、八人は食堂に、一六人は劇場で働いていることを知ったのは、後になってからのことだ。
 正源寺にかわって少女たちを管理するようになったのはチカダという四〇歳前後の日本人である。チカダは数人のインドネシア人男性を使っていた。出発前にジョグジャカルタでも身体検査を受けたが、小部屋に入れられて間もなく、少女たちは性病の有無を調べる検査を軍医から受けた。その後も毎週土曜日の朝、同じ軍医から性病検査を受けた。さらに、毎朝、衛生兵からも身体検査を受けた。(P.21)

 最初の日、マルディエムさんは六人の兵士に犯された。その日の鮮血と、体の中にぽっかりと空洞が空いたようなひりひりとした痛みは、未だに忘れることができない。その時にはまだ初潮を迎えていなかった。心身ともに未成熟なまま一三歳になって間もないマルディエムさんは、その日から軍人の性的「慰安」に応じなければならなくなったのである。
 トラワンの慰安所では、軍属待遇の役所の人や電話局員なども受け入れていた。ただし、利用者は日本人に限られていた。正午から午後五時までが軍服を着た軍人、それ以降深夜一二時までが私服の軍属、料金は一時間で軍人が二円五〇銭、軍属が三円五〇銭、泊まりは一二円五〇銭だった。(P.22)

 痩せていた一四歳のマルディエムさんの身体の変化に最初に気づいたのは、チカダである。すぐに医師の診察を受けさせられた。妊娠五ヵ月になっていた。バンジャルマシンのウーリン病院に連れていかれ、1週間薬を飲んだが、堕胎できなかった。中絶手術が施されることになった。麻酔薬も手術に必要な機材も充分になかった。ドイツ人の女性医師は麻酔薬を使わず子宮の中の子を掻爬した。頭の芯まで達する激しい痛みであった。掻爬された子はまだ生きていた。男の子だった。その子を棄てないよう医師に懇願し、マルディヤマと名付けて埋葬した。自分の名とヤマグチからとった名前である。(P.28)
2001.8 インドネシア従軍慰安婦の記録 ブディ・ハルトノ/ダダン・ジュリアンタラ著 宮本謙介訳 かもがわ出版
マルディエムさんは、生後七ヵ月の時に母親を亡くし、片親だけで育った。(P.47)

それから、近所の人がやってきて、初めてマルディエムさんの父が亡くなったことを知ったのである。これは1939年のことであった。そのとき、マルディエムさんは10歳ぐらいだった。~(中略)~結局、彼女は叔父と一緒に暮らすことになった。その叔父さんは、ワック・ドゥルと呼ばれて、ハジの称号を持ち、ムルトルルタンに住んでいた。叔父には子供がなかったので、マルディエムさんが養女として引き取られることになった。ところが、叔父はジャワの価値観を非常に強調する人で、マルディエムさんはあまり居心地が良くなかった。とくに、女の子の活動範囲を大いに制限するという彼の主義のために居心地が良くなかった。マルディエムさんは、その年齢ゆえに家に閉じこめられることになった。以前父が生きていたころ、当然のことのように発揮できたマルディエムさんの自由な精神をもってしては、ワック・ドゥル叔父さんの所に留まるのは三ヵ月ほどが限度であった。やがて彼女は、お手伝いか、召使いとして自立して生きていくことを決意した。彼女は、ンドロ・マングンさんの家で雇われることになった。(P.50~51)

芸能に対する愛着から、マルディエムさんは、この理想を実現するためのあらゆる機会に対して、いつも耳を研ぎ澄まし、非常に敏感であった。音楽の友達たちは、マルディエムさんの理想と強い希望に大いに理解を示した。そのころ、ミス・ルンチがやってきて、ボルネオで歌手になるチャンスがあるという情報をもたらした時、マルディエムさんは、深く考えることなく、またその情報の真偽を確かめることもなく、すぐさま関心を示した。その仕事についての口伝えの情報に、マルディエムさんはすぐに飛びつき、彼女はボルネオ行きの準備を整えていた。(P.55)

ミス・ルンチの説明で、マルディエムさんは、その求人を信用するようになった。その後、ミス・ルンチ自身がマルディエムさんのボルネオ行きの登録をすることになった。
 第二に、マルディエムさんは、その労働力の調達を指導しているのがショーゲンジ医師で、インドネシア人のススドロ医師が手助けをしているとの情報を得た。
 第三に、仕事の募集は秘密裡に行われていた。それどころか、応募者が自分で登録することはなく、ほかの人を通してなされた。マルディエムさんが知っていたことは、ミス・ルンチによってすでに登録が済まされたということだけで、近いうちに身体検査があるとのことであった。その身体検査で、マルディエムさんは年齢を偽っていると指摘された。なぜなら、当時、彼女はまだ初潮を経験していなかったからである。当初、マルディエムさんは十五歳と言ったが、実際は一九二九年生まれの十三歳になったばかりだった。一方、募集したグループの側は、マルディエムさんが年齢を偽っていることは知っていたが、そのことには触れず、結局、マルディエムさんの出発が確定した。(P.59~60)

 マルディエムさんは、彼女がスラバヤ行きの汽車でいつトゥグ駅を出発したのか、正確なことを記憶していない。マルディエムさんは、この出発に関わる行政上の手続きのことは、何も知らなかったと認めている。出発に関わるすべての書類は、彼女の出発の段取りも含めて、徴募人グループのリーダー格のアリ・ブロスによって処理された。マルディエムさんによれば、参加者や応募した集団は、ただついて行くだけであった。というのも、アリ・ブロスがすべてを取り仕切っていたからだ。
 スラバヤ行きの汽車で出発したとき、マルディエムさんによれば、徴募人グループに日本人は全く含まれていなかった。すべては、インドネシア人によって取り行われた。(P.61)

 それから彼女たちは、お互いに知り合うようになった。彼女たちのグループは、40人のジョグジャカルタ出身者と八人のアンワラワ出身者から構成されていることもわかった。~(中略)~マルディエムさんのグループは、アリ・ブロスにより引率されていた。労働者徴用の指導者として、最初に知らされたショーゲンジ医師は現れなかった。~(中略)~
 スラバヤに着くと、四八人の一行は、一台の軍用トラックに出迎えられた。この出迎えの時に、軍が初めて姿を現した。トラックの運転手が、軍人だったのである。その後、一行は、スラバヤのブラウラン地域にあるパヌルホテルで宿泊することになった。~(中略)~というのも、ボルネオ行きの船を待たされたからだ。彼女らは、およそ二週間ほど滞在することになった。(P.62~63)

 ずいぶん待たされてから、ようやくニチマル号という船がやってきた。その船は、ごく普通の木造船で、日本軍によって略奪されたボルネオ島民のものだった。船には、先に日本人が乗っていたようだ。その船に乗り込んだとき、マルディエムさんは、本能的にいやな予感がした。その船に乗って二日間の航海中に、マルディエムさんは、彼女の仲間たちの一部が乗組員たちと、あるいはほかの客たちと親密な関係になっていることがわかった。(P.63~64)

 ボルネオ、正確に言えばバンジャルマシンに着くと、一行は以前と同じトラック、つまり日本軍のトラックに出迎えられた。~(中略)~
 やがて彼女らは、バン・カディルの家に連れてこられたのだとわかった。ショーゲンジ医師はそこにはおらず、その医師はまだジャワにいると知らされた。一行はすぐには目的地に向かって出発しなかった。バン・カディルの家は中継場所にすぎなかったが、結局、仕事が決まる日まで、そこに七日間滞在した。(P.65)

 二四人の一行を乗せた車は、トゥラワンへ向かった。目的地は一軒の大きな家であった。~(中略)~各自、部屋を割り当てられると、次に日本名もあてがわれた。マルディエムさんは、日本名を「モモエ」と決められていた。(P.66~67)

 マルディエムさんは、その最初の夜をどう過ごしたか、いまでもよく覚えている。その夜、ほとんどの仲間たちは、眠ることができなかった。一晩中眠ることなく過ごしたその翌日、マルディエムさんと仲間たちは、軍用トラックで病院の身体検査に連れていかれた。診断室で、マルディエムさんは三人から検査を受けた。体の隅から隅まで調べられた。診察が終わると、マルディエムさんと友人たちは、トゥワランの慰安所に再び戻された。慰安所はすでに客で溢れており、それは日本人兵士たちに他ならなかった。時間は昼前の一一時ごろだった
 マルディエムさんが部屋に戻ると、慰安所の使用人が彼女の所にやってきて、客にできる限りのサービスをするようにと言った。「この人は、客から施しを受けているんだ」と思った。その命令に含まれる意味が、まだ子供だったマルディエムさんには、実際のところよくわからなかった。考える暇もなく、頬に髭をたくわえた一人の日本人がやってきた。マルディエムさんは、もちろんよく覚えている。その人物こそ、つい先ほど身体検査でマルディエムさんを調べた職員だった。その髭の日本人は、病院で医者の助手をしていた。マルディエムさんは、その男こそ、彼女がまだ処女で初潮の経験もないということを一番よく知っているのだと悟った。(P.71~72)

 マルディエムさんが妊娠を知ったあと、使用人は、彼女を堕胎のためウリンの病院に連れて行った。一週間の間、マルディエムさんは、流産に効くと言われて、いろいろな薬を与えられた。しかし、一週間たってもマルディエムさんは、いっこうに流産しなかった。ついに七日目になって、医務員は手術室に彼女を連れて行った。初めマルディエムさんは、手術を受けるのだと思ったが、実際はとても手術などと呼べるものではなかった。
 その中絶手術は、原始的なものだった。「私は強く圧えつけられました(diplenet)」。マルディエムさんのお腹は、医師によって強く押えつけられた。痛みが、マルディエムさんの体全体をおそった。「その痛みのために、私は自分の手を動かすことができないほどだった。ひどく衰弱してしまった」。手術は、麻酔も使わない方法であった。おそらく、日本側としては、マルディエムさんに、彼女が二度と妊娠することがないよう、一種のトラウマを植え付けたかったのだろう
 その身体の痛みは、すぐに回復することができた。しかし、心に残った深い傷は、胎内にいた赤ん坊のことであった。しかも、まだ若い娘のマルディエムさんに、自分の目ですでに形を成している赤ん坊を見るように強制したのだ。妊娠五ヵ月の赤ん坊は、すでに成長していて、体形ができ始めていた。手術が終わった後で、マルディエムさんは、赤ん坊を見せられた。そのようなやり方こそ問題なのだ。「私は、その赤ん坊が動いていたのを覚えている。彼はまだ生きていた。その子は男の子だった」。
 罪の意識が、すぐに心の奥深くを占めた。「あれは殺人だったのです。私は自分の血を分けた子を殺してしまった」。それこそが、マルディエムさんの中にあった感情である。そのときマルディエムさんは、すでに子供の名前を用意していた。生まれたら、マルディヤマと名付けるつもりだった。それはマルディエムとヤマという言葉に由来している。(P.85~86)
2005.8 《非戦・平和コンサート》横浜開港記念会館 ***** ****
私の名前はマルディエム
インドネシアのジョグジャカルタに住んでいました。
インドネシアに日本軍が来たのは一九四二年三月 その時私は十三歳
舞台で歌うことを夢見る、無垢な少女でした。
「女優にならないか」「ボルネオで大きな舞台に出られるよ」
そんな言葉を聞かされて、浮き立つ気持ちで汽車と船でバンジャルマシンに連れて行かれました。
デッキのすみに歌手になりたき少女らを乗せ船は行く青きボルネオ
十三歳は歌手になれると騙されて皇軍兵士の「慰安婦」とさる
同じような少女たちが私の他に四十七人いました。
着いたところは、舞台ではありませんでした。
大きな建物の二十くらい部屋がある中で、十一号室に入れられ、まだ生理もない私に、六人の男たちが襲いかかってきたのです。
いったい何が起きているのか、恐怖と痛さで、夢中で叫びました。
痛い!やめて!お願い!
でもやめてくれませんでした……
そこは、「慰安所」だったのです。
初潮さえなき十三歳初めの日六人の兵にレイプされし
慰安所の十一号室に入れられて「モモエ」と呼ばるる十三歳よ
三時間に十一回も…、それはその日だけではありませんでした。
慰安所の前に住んでいた日本人の「チカダ」は慰安所を経営していました。
ある日私は、チカダに怒鳴ったのです。「痛くて出血しているのよ!」
血が床に滴り落ちていました。
「だめだ!」チカダは怖い顔で言いました。私は血のついた下着を彼の顔に投げつけました。
あらゆることが時間で決められていました。
昼の十二時からずっと…、夜になるとまた七時から真夜中まで
毎晩二十人から三十人の兵士が来る、まだ幼い私なのに
あと何時間こうしていなければならないのか、
十四歳になったとき妊娠しました。
妊娠がどういうものか私には判りませんでした。だから、五ヵ月になっていました。
「チカダ」は薬を持ってきました。中絶の薬でした。でもそれは効き目がなかったのです。
「チカダ」は私の上にのしかかりました。
痛い!やめて!
私の下腹部を強く押すのです。く、苦しい、痛い!止めて!

気の遠くなるような時間、これ以上ないような…引き裂かれるような痛み、
気を失えたらどんなに良かったでしょう。
何かがドロッと出ました。生きていました。
涙も出ました。
腹押され五か月の胎児出されたり身ごもりに気づかぬ十四歳は
チカダは、私を床に突き飛ばし、背中を蹴りました。
私の髪の毛をつかんで腕に巻きつけ、私を投げたのです。
優しくなでられるために伸ばした私の黒髪は、無理やり引っ張られ抜けてしまいました。
その後、チカダは、私を、…レイプしたのです。
2007.5.15現在 Mardiyem-マルディエム- 彼女の人生に起きたこと ***** ****
歴史の証言者として  ~闘うマルディエム~

 マルディエムさんは気高く強い女性だ。背筋をピンと伸ばし、インドネシアの『慰安婦』の声を人々に知ってもらうために、精力的に活動している。相手がインドネシア政府でも日本政府でも、彼女は丁寧な言葉で元『慰安婦』の現状を語り、正式な謝罪と個人への補償を訴える。ジャワの古き良き女性の慎ましさと、何者にも負けない力強さの2つをあわせもっている。

13歳で『慰安婦』に

 ジョグジャカルタの王宮に仕える厳格な家で彼女は育った。13歳の時、歌手になれると騙されて慰安所に連れていかれ『慰安婦』になった。初めてのレイプの日、彼女はセックスの意味も知らない子供だった。その子供を最初に犯したのは慰安所の軍医の助手。そして、その日の内に6人の日本兵に11回レイプされた。下半身から出血が止まらず、慰安所の彼女の部屋の床は血で真っ赤に染まったという。

慰安所で誓ったこと

 その日から3年半、昼となく夜となく、多くの兵士がコンドームと慰安所の切符を持って彼女の部屋を訪ね、ある者は彼女を殴りながら、ある者は卑猥な体位を強制しながら、ある者は避妊もせずに、彼女を犯し続けた。泣けば殴られる。逃げようとしたら日本兵に殺された。
妊娠したのは14歳の時。セックスすると子供が出来ることも知らなかった。麻酔のない手術室でお腹を押されて中絶した。一ヶ月も経たない内にまた、慰安所でのレイプは始まった。
 『殴られる度、蹴られる度に思ったわ。私は将来、ここで自分が経験した全ての出来事を絶対に明らかにして、『歴史の証言者』になってやると。だから、死ぬわけにもいかないし、生きて家に帰ってこの悲惨な事実を伝えなきゃ、そう思うことで命をつないでいたの。』

 1945年の8月に慰安所から解放された時、貯金してると聞かされていた慰安所の賃金は跡形もなくなった。遠く離れた実家に帰ることも出来ず、連合軍のレイプにおびえながら安全な場所を探して山の中を逃げまわった。16歳の時、夫と知り合って結婚。やっとの思いで実家に戻った時、彼女は23歳になっていた。

◆◆◆ マリア・ロサ・ルナ・ヘンソン(Maria Rosa L.Henson) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦となった経緯等】

1926.12.5(注)マニラ首都圏パサイに地主と妾の子として生まれる。1942年2月、日本軍人によるレイプ体験ののち1942年3月、母の従兄弟の誘いにより抗日ゲリラ、フクバラハップ(フク団)に参加、1943年、銃と弾薬をトウモロコシ袋の中に隠して運んでいる時、日本軍の検問所で同女だけ連行され、以降、駐屯所で慰安婦を強いられる。9ヶ月後の1994年1月、駐屯所となっていた施設をゲリラが襲撃し救出される。

1992年9月にフィリピン人被害女性として初めて名乗り出る。
1993年4月東京地裁に提訴。1998年10月地裁は棄却の判決。2003年12月最高裁で上告棄却・上告受理棄却、敗訴確定。(フィリピン「従軍慰安婦」補償請求訴訟)
当初、アジア女性基金に反対していたが、1996年8月、第一号として200万円の「償い金」を受け取る。
1997年8月死去

(注)・・・「ある日本軍『慰安婦』の回想」では、1927.12.5生まれになっている
【考察】

同女の証言は以下の通り、どうも物語として出来過ぎている感じがします。

最初、薪採りに行って日本兵にレイプされ、2週間休んで、再び薪採りに行ったら同じ日本兵にレイプ。この時、レイプした日本軍将校「田中」は、同女が慰安所に入れられた後に異動してきて再会。
また、この「田中」がある村を襲撃するという話をしているのを偶然聞き、しかも、その村が同女の母親が住んでいる村。
そして、その話を聞いた翌日、日光浴をする機会(※一週間に二度、定期的に行われていた)があり、その時、有刺鉄線の向こうを偶然通りかかった知り合いの村人にそのことを伝え、村人達は逃げて無事。その後、同女が情報を流したと拷問され、気を失っている際に抗日ゲリラが駐屯所を襲撃し助けられ村に戻る。


また、集めた資料間に内容の大きな相違はないのですが、以下の通り、疑問点があります。

<レイプ時の将校「田中」の行動が意味不明>
・・・同女がレイプされた際、まず、二人の日本兵が同女を連れ去ろうとしますが、「バカ!」と言って将校「田中」がやってきてその日本兵を殴ります。明らかに静止しようとする行動ですが、その後、二人から同女を取り上げてレイプします。殴った後に気が変わったのでしょうか。
また、駐屯地で再会した「田中」は慰安婦を強いられている同女に同情的で親切であり、かつ、紳士的です。本当にレイプされたのでしょうか。

<叔父達に悲鳴は聞こえなかったのか>
・・・1度目のレイプの際、一緒に薪採りに行った叔父達とは離れた場所にいて同女1人だったようです。しかし、同女の悲鳴が届かない程、離れた場所にいたのでしょうか。

<2度も同じ場所で同じ日本兵にレイプ>
・・・同女は、薪を採りに行った時に日本兵にレイプされています。1度レイプされて2週間、家で休んだ後、母の許しも得ずに再び同じ場所に薪採りに行って、同じ日本兵にレイプされています。
当時、生理も迎えていない少女であり、普通ならトラウマになって、レイプされた場所なんかに行きたくないと思うでしょう。しかも、その薪採りの場所はマッキンレー要塞だったと記述されています。再び、日本兵に会う可能性大です。何故、わざわざ、母の許しも得ないで再び薪取りに行ったのか非常に疑問です。

<日本兵を拒めば必ず殺される>
・・・同女が慰安所に入れられた時にいた女性が6人。助け出された女性も6人。誰かが殺されたという話は出てきません。「必ず殺される」という確信はどこからきたのでしょうか。

<天皇に忠実だから同女を逃がすことができない>
・・・「田中」は、同女から逃がして欲しいと懇願された際に、「天皇陛下に忠実な軍人として自分には私を逃すことはできない」と答えています。これが本当なら、天皇自ら、アジア各地の女性を拉致してきて性奴隷とすることを指示していたことになりますが、当然のことながらそのような事実はなく、また、軍としても、現地女性のレイプ等は厳に禁じています。真に天皇陛下に忠実な軍人なら、同女に関する事実を本部に報告して、直ちに解放すべきでしょう。
如何にも、政治的意図で恣意的に挿入された内容です。

<何故、村は再び日本軍に襲撃されなかったのか>
・・・同女が襲撃情報を伝えた為、村の住人は逃げて助かりますが、その後、意識不明の状態で助けられた同女は、その村の母の家で介抱されています。つまり、襲撃日に村から一旦、逃れた後、何日か後には村に帰ってきていたことになります。ゲリラの村と認定されて焼き討ちされようとしたのですから危険は継続しているはずです。そんな村に帰ってきていたというのは非常に不可解な話です。
もし、本当に考えなしに帰ってきたのなら、再び、日本軍の襲撃があってしかるべきなのに、尋問に来たと言う話さえもなく、あるのは、日本軍による労働人員の徴用の話と、1年後に突然、家に来た日本兵に叔父が連れ去られそうになったという話だけです。単なる普通の村の扱いです。

<夜八時以前にゲリラが司令部を襲撃>
・・・同女が道のそばで意識不明で寝かされているのを、母の従姉が見つけたのは夜の8時頃です。そこから推測すると、遅くとも夜6時~7時頃に襲撃をしたことになります。えらく早い時間帯です。襲撃するのなら真夜中でしょう。また、「その夜は幸運にも日本人警備兵が少ししかいなかった」という記述があるように、特に日本軍の動向を掴んでいてその時間帯を選んだわけでもないようです。

<司令部襲撃時、日本兵が気づいたのは女性たちも逃げ出した後>
・・・同女のいた慰安所の営業時間は午後2時から10時までであり、ゲリラが襲撃したのは営業時間の真っ最中で兵隊達が行列していたはずです。そんな中、6人の慰安婦を気づかれずに助け出すなど不可能でしょう。

<ゲリラは助け出した同女を道端に置いていった>
・・・瀕死で意識不明の状態の同女を助け出したゲリラは「パムペンへの道のそば」に同女を置いていきます。パムペンは同女の村です。つまり、同女の顔を知っている者がいて、パムペンの者だと分かっていたことになります。それならば、同女がゲリラの一員であることも分かったはずで、他の拷問を受けた捕虜達と共にアジトに連れて行って治療するのが通常であると思います。
しかも、日本軍の追跡を逃れている最中ですから、村人に見つかるよりも先に日本軍に見つかる可能性もあります。アジトに連れて行かないまでもせめて、誰かに預けるか、村まで連れて行くべきでしょう。中途半端な行いです。


----------以下、2007.7.27追加--------------
なお、「世界に問われる日本の戦後処理①」(以下、「世界」)と「ある日本軍『慰安婦』の回想」(以下、「日本」)を比較すると、以下の通り相違点があります。(微妙なものばかりですが)

<同居人>
○「世界」・・・「一人暮らしの母」とある
○「日本」・・・「母と私とエミルは、アンヘレス郊外の村、パムパンに住むことになりました」とあり、同女が連行された後は、母とエミルがいたはず。

<日本兵の相手をする時間帯>
○「世界」・・・「朝夕関係なく」日本兵の相手をさせられたとある
○「日本」・・・「午後の2時から10時ま」でが、日本兵の相手をする時間になっている

<駐屯地内の移動>
○「世界」・・・「駐屯地の中は歩き回れますが、外には出られません」とある
○「日本」・・・同様の記述はないが、「朝に水浴びをするとき、それが私が六人の少女たちと遭う、唯一の時間」とある
→ 「日本」の方が、部屋に監禁状態であったことを示唆する内容になっています。駐屯地内を歩き回れるのなら、他の少女たちともしょっちゅう会っていたでしょう。

<ゲリラが日本軍の駐屯地を襲撃した理由>
○「世界」・・・同女が村の焼き討ち作戦を知らせたことにより、同女が駐屯地にいることを知り襲撃した
○「日本」・・・捕虜になった仲間達を助ける為(※パムパン村襲撃の前日にゲリラが捕らえられ、それがきっかけでパムパン襲撃が決定した)

----------以下、2007.7.27追加--------------


----------以下、2007.8.24追加--------------

<<日本軍のせいで言語障害??>>

「フィリピンの日本軍『慰安婦』」で、同女は以下の通り証言しています。

 「私の言語障害は、日本軍の手にかかったことによる心の傷と拷問によるものです」

つまり、日本軍の性奴隷となったことの精神的ストレスと、拷問によって言語障害になったと言っているわけです。(※同書には記載されていないが、他では拷問の際、頭を壁に打ちつけられて気絶したことになっている)

しかし、症状関連の証言を見ると以下の通り。

 「犬のようによだれを垂らし、はってしか歩けず、食事はスプーンで食べさせてもらわなければならない赤ん坊のような状態が約一年続きました。髪の毛は抜け落ち、目の焦点は定まらず、ほぼ一年間、私は一歳半の赤ん坊のようでした。」

これは、精神的ストレスや、脳への強い衝撃を受けたことが原因ではなく、明らかに、脳マラリアの症状でしょう。

---------------------------------------------------
<脳マラリア>
原虫が寄生した赤血球が脳内の血管などの微細な血管に詰まり血流を阻害することにより発生する。意識低下、言語のもつれなどの神経症状が起こる。進行すると昏睡状態に陥り、死亡する。
---------------------------------------------------

実際に、同女は以下の通り

 「拘留の最後の時期に私は脳性マラリアにかかりました」

と、マラリアにかかっていますし、その後、2ヶ月間昏睡状態が続いたとも証言しています。


同女が慰安所を助け出される際の証言に辻褄の合わない箇所が多いことを鑑みると、脳マラリアが原因で生じた言語障害を日本軍の仕業にする為に拷問話を創作したのでしょう。

----------以上、2007.8.24追加--------------
【信憑性】

あまりにも物語じみていて創作臭い内容であり、不可解な部分も多くあります。証言毎に特に大きな内容の相違はないのですが、証言開始時からバックにゴーストライターもしくはアドバイザーがいたのでしょう。いったい、どこまでが本当でどこからがウソか不明です。信憑性は無いと思います。

【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.5 アジアの声 第7集
世界に問われる日本の戦後処理①
「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録
国際公聴会実行委員会 東方出版
 私はマリア・ロサ・ルナ・ヘンソンといいます。年は六六になります。結婚して子供が三人いますが、夫は一九五四年に亡くなりました。
 一九四一年一二月五日は私の誕生日でしたが、そのお祝いの三日後の一二月八日に戦争が始まったのです。その日、私は学校に行っていましたが、戦争になったというので家に帰されました。日本人がハワイの真珠湾を爆撃したのです。
 翌九日には、母親と他の家族と一緒にブラカン州ノルサガライのイポダムに、いったん疎開しました。さらに、私たちは日本軍がフィリピンに来るまで、イポダム近くのビグティ村にある洞窟に潜んでいました。クリスマスと新年はそこで迎えました。
 ウェインライト将軍がマニラを開城すると宣言したので、私たちは徒歩で山を越えて家に戻りました。そして、ニュー・マニラを歩いて通り、現在住んでいる場所まで移動し、そこで私は育ち、現在に至っています。
 当時、私たちは生活の糧がなかったので、隣の家の人についてリサール、タギグ、バラグバグにあるキャンプ・マッキンレー(現在のボニファシオ要塞)まで行き、薪を集めて生計をたてていました。そこには木がたくさん生えていて、私たちは木を切って薪にして売ったのです。~(中略)~
 ある日、私は自分の家で使う薪を集めて歩いていました。叔父たちは木を切っていました。その時、私は二人の日本兵に会いました。驚いている私を彼らはつかまえ、連行して行きました。私はどうしてよいか分かりませんでしたし、殺されるかもしれないと恐れていました。そこにもう一人の日本兵がやってきました。彼は将校だったと思いますが、名前は「タナカ」と言いました。彼は二人の日本兵に何か叫んで殴りました。そして私を連れて行き、強姦しました。強姦の後、私を今度は二人の日本兵に渡しました。それは非常につらい体験でした。出血があり、歩けませんでした。
 幸い、近くの農民が通りかかり、私を彼の家まで運んでくれました。日本人にされたことをその家の人たちに隠すことはできませんでした。家に帰りたかったのですが、四キロほどあるので無理でした(線路に沿って歩くだけだったのですが)。こうして、私は彼の家に二日間滞在しました。
 約二週間も休養をし、元の体調に戻ったので、薪集めをする隣人や親類たちのグループに再び加わりました。しかしまた、あのサーベルを持った将校と思われる日本兵が待ち伏せており、私をみるとすぐに強姦しました。私はどうすることもできませんでした。母に出来事を話し、彼らはこれからも私を待ち伏せするだろうと話し合いました。
 三月までに、母と父の故郷であるパンパンガ州のアンヘレス市へ帰ることに決めました。私はパサイで生まれ育ったので、アンヘレスには祭りのような特別な行事がある時に行っただけでしたが、私がこれまでのことを忘れ、二度とあのような目にあわないように、アンヘレスに移ることを決めたのです。私たちは、母方の兄妹や親類と一緒にパムパン村に住みましたが、私たちの家は森の中にあり、陸の孤島のようでした。
 私は、当時組織されていたゲリラ集団のフクバラハップに自発的に加わりましたが、これは多分、日本兵との体験からくる怒りに基づくものだったと思います。私たちのグループは「ニ-四-四〇-九」と呼ばれピナツボ司令官が指揮をとりました。ラピドは当時私の仲間でしたが、彼は現在ではスムロン司令官として知られています。私の役割は、このゲリラ勢力のために市民から薬や古着を集めることでした。部隊が村の周辺に近付くと、私は先に村に行って村人たちから米や甘藷などの食物をもらうのです。そして、それを部隊に持って帰りました。
 一九四三年まで、このような仕事を続けました。四月の聖週間のある日、私たちが水牛の荷車に乗って、マガランから家に帰ろうとしていた時のことでした。荷車には食糧の乾燥とうもろこしを四袋積んでいましたが、袋の中には四五口径の拳銃と弾薬、それに手榴弾を入れていました。ある病院(その名前は思い出すことができません)近くの検問所まで来ました。それは私たちのパムパン村に通じる道の近くでした。当時、みんな通行証を持たされており、日本人の番兵が私たちの通行証を見て通ってよいと言いました。私たちは三人で、私一人が女性でした。二人の男性は私の後に続き、とうもろこしの入った袋を運んでいました。通過し終わった時、私は日本兵に呼び止められ、二人の仲間はそのまま行ってよいと言われました。心の中で私は「またなの・・・・・・」と思いました。ただ、拳銃を押収されなかったのは救いでした。私は日本軍が駐屯地にしていた病院に監禁されました。数日後、そこで六人の女性と会いました。その駐屯地で私は、兵士たちのセックスの相手をさせられました。時には一二人の日本兵の相手をさせられ、その後少し休んで、また一二人ほどの相手です。息つく暇も無く、彼らの性の慰みにされました。
 そのため私たちはとても疲れました。日本兵が全員事を終えた後、やっと休息できたのです。女性は七人しかいなかったので、わずかな休みしかもらえなかったのでしょう。年端のいかない私にとって、それは苦痛にみちた体験でした。
 駐屯地に三ヵ月いましたが、その後アンヘレスの精米所に連れて行かれました。そこに移されたのは夜でした。精米所に到着した時、私たちは再び日本兵の相手をさせられました。朝夕関係なく、二〇回はゆうに超えました。日本人の宿泊所や家に連れて行かれたこともありました。その一つが、パミントゥアン歴史館だったことを記憶しています。そこには数回連れて行かれました。拒めば必ず殺されるので、拒否することができませんでした
 午前中は見張りがいます。駐屯地の中は歩き回れますが、外には出られません。他の女性たちと言葉を交わすことさえできないのです。その内の二人は中国人だったと思います。残りの女性は、パンパンガ州出身者のように思えましたが、互いに話すことは許されませんでした。
 時々私たちは、一人の医者(タヤグ医師だったと記憶していますが)に検診してもらいました。彼は年配で大柄な人でした。時には日本人医師が診ました。
 駐屯地の指揮官の交替があったのは一九四三年の一二月だったと思います。新しい指揮官の顔に見覚えがありました。どこで会ったのか考えていました。その指揮官も私の顔を何度となく見ました。そして、マッキンレー要塞で会った人だねと尋ねてきました。私はいくらか日本語が分かっていたので、「はい」とただうなずきました。彼は、「私の名前は田中だ」と言いました。英語は少し話せるようでした。私は日本語で「アナタ・・・・・・」とか何とか話しかけましたが、彼は多分「愛している」と言ったと思います。彼はこれまでと違う扱いをしました。できるだけ他の日本兵を私に近づかせませんでした。でも、彼よりも地位の高い将校に対しては、黙っていました。時々、食物をくれたりもしました。私にお茶を出してくれと、頼むこともありました。他の女性たちとは会うことも、会話することも許されませんでした。私は、早く自由になれるよう神に祈っていました。私だけではなく、私たち全員が。そのうち、私はマラリアにかかりました。日本人との相手をさせられている時でも、悪寒があって、腸さえもぞくぞくするようでした。熱があると言ったら、銃剣で殴られました。私が嘘をついていると思ったのでした。医者がマラリアだと言ったので、やっと休養を許されました。アルタブリッド(薬)をのみました。その後、多量の出血があり、医者は流産したと言いました。
 この頃、私たちは毎晩、日本兵の宿泊所に連れて行かれ、辱めをうけました。終われば精米所に連れ戻されました。ある時、私たちの町パムパンにゲリラがいることを日本軍がつきとめました。私を死んだとあきらめている母がそこに住んで居るのです。私のことは、母の耳に届いていないはずです。ひょっとしたら、ゲリラの仲間が、私が捕らわれの身になっていることを母に伝えてくれるのではないかと思いました。一人暮らしの母を、私は非常に心配しました。
 しばらくして、大佐と田中の話を耳にし、パムパンでゲリラの囲い込み作戦を行うことを知りました。翌日、私はパムパンを通る人を探して待っていると、ある人が私の村の人とわかりました。すばやく、耳元で日本兵が村を焼き討ちにするので避難するように囁きました。夜中に田中と何人かの兵士が私たちの村に行きましたが、住民が誰も居なかったので、怒って駐屯地に帰ってきました。そして、田中と大佐は口論をしました。大佐が言うには、私が話を聞いて、村の住民に伝えたいうのです。私は罰を受けなければなりませんでした。私は階下に連れて行かれ、ひどく殴られました。銃剣で殴られ床に倒れました。田中は大佐より位が低かったので、どうすることもできませんでした。それは一九四四年の一月のことでした。私の顔はあざだらけになり、手を縛られ、他の囚人と一緒にさせられました。しばらくして、意識を取り戻しました。私が最後に覚えていたのは、田中が私に水を飲むのを助けてくれたことです。それが彼を見た最後でした。
 あとで分かったことですが、私が意識を失っている間、フクバラハップが、日本軍の駐屯地であった精米所を襲い、私は解放されました。一月ということでしたが正確な日付は分かりません。私が彼らにパムパン村で日本軍がやろうとしていた作戦を知らせたので、私たちが駐屯地につかまえられていることを知り、そこを攻撃してくれたのです
 意識を取り戻した時、私は家に帰っていました。そして、母が微笑んでいました。私は母に抱きつきました。私は非常な高熱で病気になっていました。正規の医者がいなかったため、偽医者の治療を受けました。二ヶ月間意識を失くしたままで、液状物を、スプーンで口に運ばれるだけで何とか生命を維持していたのです。ある日、私は突然意識を回復し、全てが輝いているように思えました。話をしたかったのですができません。声を失っていたのです。だから今でも私の声はこのようなのです。(P.56~62)

(※2007.7.27追加
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
1926年12月5日生まれ
フィリピン共和国ルソン島マニラ首都圏パサイ市在住

 私はルソン島パンパンガ州パサイで生まれました。お父さんはアンヘレス市の大地主で、お手伝いさんとして使っていたお母さんに私を生ませたのです。私はお父さんが借りた家で、お母さんと生活していました。
 1941年12月8日は学校に行っていましたが、戦争が始まったというので家に帰されました。翌日、お母さんと他の家族と一緒に疎開しました。
 1942年2月頃、薪を集めていて2人の日本兵と偶然出会いました。2人は驚いている私を捕まえたのです。私は殺されるかもしれないと思いました。そして、刀を持った「田中」という名前の兵隊がもう1人やって来て、私を強姦したのです。出血があり歩けませんでしたが、農民が通りかっかって彼の家に運んでくれました。
 そこに2日間いて、歩けるようになったので家に戻りました。お母さんは「殺されなかっただけでも幸運だった。騒がずに沈黙を守るように」と言いました。
 2週間休養して元の体調に戻ったので、再び隣人や親戚たちと薪集めをしていました。しかし、あの士官らしい日本兵が待ち伏せをしていて、再び私を強姦したのです。
 2度とこのような目にあわないようにと、お母さんの故郷のアンヘレス市郊外に移りました。
 私は2度も日本兵に強姦された怒りから、抗日ゲリラ集団の「フクバラハップ」に加わりました。私の役割は、ゲリラ部隊のために市民から薬・古着・食料を集めることでした。
 1943年4月のある日、水牛の引く荷車に乗って私と2人の男が家に帰ろうとしていた時のことでした。病院前の検問所で、日本兵は通行証を見て通ってもよいと言っていったんは通してから、私だけを呼び止めたのです。荷車の中には45口径の拳銃と弾薬、それに手榴弾が、乾燥トウモロコシの袋の中に隠してありました。ここで、拳銃を押収されなかったのがせめてもの救いでした。
 私は、日本軍が駐屯していた病院に監禁されました。ここで、他の6人の女性とともに日本兵の性の慰みものにされたのです。日本兵は次々とやって来たので、息つく暇もありませんでした。
 3ヶ月後に、そこから300メートル離れた精米所だった建物に連れて行かれ、そこでも日本兵の相手をさせられました。ここから別の場所に連れて行かれることもありました。
 1日に20回を越えるほど日本兵の相手をさせられたのです。若い私にとって苦痛に満ちた体験でしたが、拒めば必ず殺されるので、それもできませんでした
 日本人の医師に週1回くらいの割合で検診を受けました。妊娠して流産もしました。
 私は、日本語がいくらかわかりました。ある時、日本兵が話しているのを聞いて、日本軍が私の村にゲリラがいることをつきとめて、村を襲おうとしているのを知ったのです。私は村の人が通るのを待っていて、このことを伝えたので住民は避難しました。しかし、このために私はあざだらけになるほど銃剣で顔をひどく殴られ、意識を失ってしまいました。
 目を覚ましたとき、お母さんが家の中で頬笑んでいるのが見えました。後で、ゲリラがこの駐屯地を攻撃し、私を救い出してくれたことを知りました。私は、拷問とマラリアのために2ヵ月間も意識がなかったのです。(P.147~155)
1995.12 ある日本軍「慰安婦」の回想 M・R・L.ヘンソン 岩波書店
 二月のある日、私は母に「叔父さんたちといっしょに出かけたい」とせがみ、許しを得ました。家で使う薪を採りたかったのです。母は行かせたがりませんでしたが、常々私がせがんでいたので、願いを容れてくれたのです。草木をかきわけて行くのでたくさん切傷やあざができましたが、料理の燃料が手にはいるのでご機嫌でした。
 ところが、そんなある日のこと、叔父や近所の人たちと離れて、乾いた木片を束ねる準備をしていたときでした。突然二人の日本兵が私の両腕を掴みました。私は仰天して悲鳴をあげましたが、彼らはやみくもに私を連れて行こうとします。そのとき、「バカ!」という叫び声が聞こえました。フィリピンの言葉で「バカ」は「牛」を意味するので、私は牛のことかと思いました。「バカ!」と叫んだ日本軍将校が近寄ってきて、私を捕まえていた二人の兵隊を殴りました。将校だと分かったのは、その軍人が長くてカーブしたサーベルを下げていたからです。その将校は私を二人の兵隊の手からもぎとって、レイプしました。その後、彼は二人の兵隊に私を与えました。その兵隊たちは順番に私をレイプし、立ち去りました。(P.46~47)

 それから約二週間、私は家で休んでいました。母の言いつけを守り、その事件のことは誰にも知らせませんでした。いっしょに薪を採りに行った近所の人々も知りません。叔父たちも私が道に迷ったと思い込んでいました。
 けれども、二週間がたち、元気が出てきた私は、「叔父さんや近所の人の見えないところには行かないわ」と、母の許しもなく、薪採りに出かけました。しかし、薪の採れる場所に着くと、そこでまたあの日本軍将校に出くわしてしまったのです。
 その将校は、叔父や近所の人たちが見ている目前で私を拉致しました。殺されるかもしれないので、誰も抵抗できませんでした。私を助けることができなくて、叔父たちは泣き叫んでいました。レイプした後、その軍人は立ち去りました。(P.48)

 一九四二年三月二九日、日本の侵略に抵抗する人民の軍隊としてフクバラハップ(Hukubara-hap「抗日人民軍」、通称フク団)が誕生しました。
 家を貸してくれた母の従兄弟は、新しく生まれたフクバラハップの第四九中隊の議長でした。彼は私にフクバラハップに参加するように誘い、私の意志を問いました。私は応諾しました。そうして私は自分の意志で進んでフクバラハップに参加しました。辛い体験をした私は日本軍に怒りをいだいていたからです。でもその体験は組織の誰にも話しませんでした。(P.49)

 一九四三年四月のある日、組織の指示があり、近くの町、マガランに乾燥トウモロコシを集めに行く密使の一人に加わりました。男性ゲリラ二人といっしょに行きました。一人は「ラビド」、もう一人は「バト」というニックネームでした。本名は分かりません。二人とも、私と同じ第四九中隊に属する同志でした。けれどもかれらと行動をともにするのは初めてでした。
 私たちはカラバオの曳く荷車に乗って出かけました。四月はフィリピンでは乾季です。屋根のない荷車に日ざしがたいそう熱く照りつけました。
 マラガンで乾燥トウモロコシ四袋を積み込み、パムパンに帰る途中、日本軍の検問所がありました。荷車が検問所に近づいて行くとき、そばに座っていた同志が、「気をつけろ、トウモロコシの下に銃と弾薬があるんだ」とささやきました。私は神経がはりつめました。検問所の警備兵が銃を見つけたら、すぐさま殺されてしまうでしょう。
 私は荷車を降りて、警備兵に通行証を呈示しました。当時、人々はどこの誰かを示す通行証を携帯しなければならなかったのです。警備兵がトウモロコシの袋をさわったり押したりして検査し、通ってもよい、と言いました。
 ところが検問所から三〇メートルほど通りすぎると警備兵が口笛を吹き、戻ってくるように合図するではありませんが。私たちは青ざめて、お互いの顔を見合わせました。警備兵が袋を開けたら、銃が見つかってしまいます。たちまち命はなくなってしまうでしょう。
 けれども、その警備兵は私だけに戻ってくるよう手をあげて合図し、他の同志たちは行ってもよいことになりました。それで銃は無事でしたが、私は自分の身が危うくなったことを感じながら、検問所に戻りました。レイプされるかもしれない、と思いました。
 警備兵は私をある建物の二階に連行しました。現在でもその建物がありますが、今ではヒルクレスト・タイル・ストアになっており、昔の面影はありません。日本軍の占領の前は、病院でした。北部ルソンに続く国道、ヘンソン通りに面していて、そのときには日本軍の司令部兼駐屯地に転用されていました。そこに六人の女性がいるのを見ました。警備兵は私を竹の寝台がある小さな部屋に連れて行きましたが、その夜には何も起きませんでした。
 その翌日、自分がたくさんの兵隊たちに性の相手をしなければならないのだと知りました。最初に一二人の兵兵隊がたてつづけにレイプしました。それから三〇分くらい間があり、またもや一二人の兵隊です。私はひどく出血し、身体がめちゃめちゃに傷つけられたと感じました。翌朝には、立ち上がることすらできませんでした。~(中略)~
 昼の二時から夜の一〇時まで兵隊たちが行列をつくって私をレイプする日々が始まりました。他の六人の少女の部屋にも、兵隊たちが行列をつくっていました。(P.68~70)

 元病院の建物には、三ヵ月間、監禁されていました。それから、そこからわずか四ブロックほど離れただけの、大きな精米所に移されました。これも、ヘンソン通りに面した建物でした。その精米所も司令部に転用されており、将校たちがそれぞれ自分の部屋を建物の中に持っていました。~(中略)~
 精米所に移されて四ヵ月ほど過ぎた、一九四三年一二月のある日のことでした。前任の将校が別の司令部に異動し、新しい大佐と大尉が精米所に来ました。新しい大尉を見て、「どこであの将校を見たのだろう?」と自問しました。彼の顔に見覚えがありました。
 その将校は私を呼び、「おまえは、マッキンレー要塞で逢った、あの娘か?」と聞きました。私はお辞儀をし、そうだと答えました。私のことをマッキンレー要塞で彼がレイプした娘だと気づいたそのときから、彼はずいぶん私に親切になり、よく話しかけてきました。(P.75~76)

 他の六人と話すことは許されませんでした。朝に水浴びするとき、それが私が六人の少女たちと逢う、唯一の時間でした。(P.79)

 私はタナカに、自分が脱出するのを許してほしいと嘆願したものです。けれど、彼は天皇陛下に忠実な軍人として自分には私を逃すことはできない、と言いました。タナカが日本兵に私レイプするな、と命令できれば・・・・・・・。でも、彼にはそんなことは言えなかったのです。なぜなら、それは日本軍の意思に反することでした。タナカは私を憐れみましたが、自分より階級の高い大佐に逆らうことなどできませんでした。天皇にたいそう忠実だったのです。タナカは日本の天皇は至上の存在であり「神」だ、と話していました。それがタナカの信仰だと分かりました。「神」とまでに信じる天皇に逆らうことは、何一つできなかったのです。(P.84~85)

 一九四四年一月のある日、たぶん朝の一〇時くらいだったと思います。タナカ大尉が私を呼んで、彼の部屋にお茶を二人分持ってくるように言いました。
 お茶を運んでドアに近づくと、私の耳に、タナカが大佐と議論している声が聞こえました。私には当時、日本語を話すことはできませんでしたが、おおよそ聞き取ることができました。
 「明日の夜、パムパンでゾーニングせねばならない。そこの住民たちはゲリラだからだ。パムパンでゲリラを捕まえてきた。いま、そいつらは階下にいる」と大佐が言います。
 私は部屋に入り、お茶をテーブルに置いて、部屋を出ました。「アス」、「バン」、「スル」、「モヤソ」、「パムパン」。そんな言葉を聞いた私は、声こそ立てませんでしたが、心が悲鳴をあげました。(P.87~88)

 その後、幸運なことに、警備兵が私たち七人を日光浴のために階下に連れて行きました。そこは、兵隊たちが訓練をしている場所でした。精米所の構内で、向こうは道路です。有刺鉄線で囲いがはりめぐらせてあり、逃げ出せないようになっています。三人の警備兵が周辺を歩き回り、ときどき冗談を言い合っています。
 そのとき、有刺鉄線の近くに一人の老人が通りかかるのを見つけました。パムパンの住人でよく見知った顔でした。警備兵の方をそっと見ると、彼らは冗談を言い合い笑っています。私は大急ぎでその老人にささやきました。「今晩、貴方の村が焼討ちされます。村から逃げて下さい。」そして、私はくるりと背中を向けました。何事も起こらなかったように。(P.88~89)

それから一時間以上してからのことです。私は、大佐とタナカが階段を上がってくるのを聞きつけました。大佐は私を寝台から引きずりおろし、めちゃくちゃに殴りました。大佐は私の手をひっぱって階下へ連れ降り、拷問しました。暴行された私の目は一瞬にして腫れ上がり、顔中が血だらけになりました。全身にあざができました。
 大佐は私の手を縛り上げました。瞼が腫れて目を開けられません。それでも無理に目をひらいて周りを見回すと、数人のゲリラが捕虜になっているのが見えました。彼らもあざだらけになっていて、手を縛られています。
 日本軍がパムパンの村に到着したとき、村には誰もいなくなってしまって、もぬけのからでした。みんな逃げてしまっていたのです。大佐は、彼らの相談を聞いていたのは私一人だと言い、私が焼討ち作戦を台無しにした、と疑って、激怒していました。~(中略)~
 誰かが、私の顎をもちあげました。腫れ上がった瞼をなんとか開けてみました。タナカ大尉が私に一杯のお茶をくれようとしています。カップがくちびるのところにありました。そのとき、大佐の叫び声が聞こえました。大佐はやってくるなり私の頭を壁に打ちつけました。精米所の壁は、家の屋根にも使われる分厚い波状のGIシートで作られており、したたか頭をぶつけられた私は気絶しました。
 私の意識はそこで失われ、再び意識をとりもどしたのは、二ヵ月もたった後でした。
 後で母に聞いたところによると、ゲリラたちが捕虜になった仲間を解放するためにその夜駐屯所を攻撃し、拘束されていた私を見つけ、気絶しているところを救出してくれたのです。
 一九四四年一月でした。私は九ヵ月間も日本軍に性奴隷としてとらわれていたのです。
 一九九二年に公に名乗り出た後、私を救出してくれたゲリラの一人に逢えました。バラハディアさんです。
 彼の話によると、私を救出したそのとき、彼はてっきり私がもう死んでしまっている、と思ったそうです。他の六人の少女たちもみんな救出され、逃げて行ったのに、私だけぐったりと気を失っていたからです。
 バラハディアさんは私を救出した体験を話してくれました。
 「ゲリラが捕虜になったと分かれば、私たちの連隊が駐屯地を攻撃することになっていたのです。精米所にたくさんのゲリラが捕らえられていました。だから精米所を攻撃する計画を練って、三日間相談しました。10人のチームで、武器を持って行ったのですよ。その夜は、幸運にも日本人警備兵が少ししかいなかったので、攻撃に気付かれずにすみました。精米所の後ろの小さな穴から物音をたてずに中に入ったのです。日本兵が私たちに気付いたのは、ゲリラが全員縛りを解かれ、女性たちも逃げ出した後でした。貴方を救出したのは一番最後でしたよ。貴方をみて、もう死んでいると思ったからです。私が貴方の鼓動に気付き、それで、もう一人のゲリラと二人で外に運び出しました。そして、道の端に寝かせておいたのです。」
 ゲリラたちは日本軍の追跡を逃れ、私をパムパンへの道のそばに置いてゆきました。それを母の従姉のアンナが見つけ、アンナが母を呼んだのです。夜の八時頃でした。アンナと母は助けの人を呼んで、私のために走ってもらったそうです。(P.89~93)
1995.12 フィリピンの日本軍「慰安婦」 -性的暴力の被害者たち フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団 明石書店
 私はマリア・ロサ・ルナ・ヘンソン、六十五歳です。マニラのパサイ市に住んでいます。私は一九二七年十二月五日パンパンガ州に生まれました。学校へは七年生まで通いましたが、成績は優秀でした。幼いころの夢は医師になることでした。
 一九四一年、第二次世界大戦がはじまったとき、私は十四歳の誕生日を迎えたばかりでした。
 母と私は親戚と一緒に近くの地方へ疎開し、ほら穴にかくれていました。一九四二年のはじめごろのことです。家から数キロメートル離れた先で薪を集めていると、タナカ大尉をはじめとする日本兵三人に強かんされました。それから二週間後、再びタナカに強かんされたのです。何度も強かんされるなどという不幸がどうして私にふりかかったのでしょう。
 この後、私は志願してフクバラハップという抗日ゲリラになりました。私を強かんした日本軍に対する怒りからだったと思います。それから約一年がたち、検問で日本軍に足止めされました。病院を接収した日本軍の駐屯所に私は連れていかれました。そこには女性が六人いました。次の日から毎日、日本兵の性的な相手をすることを強いられたのです。ほかの六人の女性も同じです。その駐屯所では、十二人の兵士に一日中強かんされることもありました。また将校用の兵舎や家へ連れていかれることもありました。ほかの女性には生理のときには休みが与えられましたが、私にはまだ生理がなかったので、一日として休めたことはありませんでした。
 この、性奴隷としての、辛く残酷な体験は九ヶ月続きました。拘留の最後の時期に私は脳性マラリアにかかりました。また、村人に日本軍の攻撃を知らせたかどで拷問されました。鎖につながれていたところを、囚人の救出にきたゲリラに発見され、助け出されました。こうしてやっと苛酷な苦難から生還できたのです。ゲリラが来たときに私はマラリアの熱と拷問のため意識を失っていました。ニヵ月後、意識を取り戻したときには母の家にいました。母の顔を見て私は泣きました。言語障害があったのですが、なんとか、何が起こったのか伝えることができました。母もそれを聞いて泣きました。私と母はとても仲がよく、秘密を打ち明ける相手もいつも母でした。
 それから五十年がたちました。私はこの法廷で、九ヶ月間、日本軍の性奴隷とされた経験がおよぼした影響を明らかにしたいと思います。あの経験は常に私につきまといました。夢に出てくることもありました。同じ年齢の少女たちを見るたびに辛い思いをしたものです。彼女たちは、笑い、幸せそうで、汚れも知らず、歌ったり、踊ったり、友だちと楽しそうにしていました。一方、私は家の中にかくれていました。私に起こったことを誰かに知られるかもしれないと恐れたからです。私の言語障害は、日本軍の手にかかったことによる心の傷と拷問によるものですが、このためいつも笑い者にされました。犬のようによだれを垂らし、はってしか歩けず、食事はスプーンで食べさせてもらわなければならない赤ん坊のような状態が約一年続きました。髪の毛は抜け落ち、目の焦点は定まらず、ほぼ一年間、私は一歳半の赤ん坊のようでした。近所の人たちからはどうにかなってしまったのだと思われました。唯一、本当のことを知っていた母でさえ、私がおかしくなってしまったと思いはじめるようになっていました。私は敵意をもっているように見える人、私の陰口をいう人を怖れました。自分を恥じるようになり、自尊心も、自信も失ってしまいました。常に人からかくれていたいと思い、頭を地面に埋めてしまいたい気分でした。いつもあの経験が私につきまといました。(P.41~46)
(※2007.8.27 追加)

◆◆◆ 劉面換(リュウ・ミエンファン) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

山西省羊泉村で生まれる。1941年(推定)15歳の時、突然、家にやってきた漢奸(注)に拉致され、進圭村に40日間監禁され強姦さえる。

1995年8月に、他3名と共に日本政府に謝罪と賠償を求めて提訴。 2001年5月東京地裁、請求棄却。2004年12月東京高裁、控訴棄却。2007年4月最高裁、上告棄却。(中国人「慰安婦」損害賠償請求訴訟(第一次)・原告 李秀梅、劉面換、周喜香、陳林桃)

 注)中国人で日本軍の手先になったもの


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

慰安所には入れられておらず、近くの村の石洞に監禁される。


【考察】

同女の家まで来て連行したのは、3人の「漢奸」で、最初に同女を強姦したのも「漢奸」です。日本兵ばかりでなく、積極的に「漢奸」が参加していたことが分かります。

「ガイサンシーとその姉妹たち」には、以下の通りの記述があり、同女が監禁された進圭社には多くの「漢奸」がいたようです。

「この家は日本軍が村に駐留している時、傀儡軍の“清郷隊”の本部となっていました」(P.140)
「家はあの時清郷隊の本部となっていた。全部で30数人がここで寝起きしていた」(P.140)

 ※清郷隊・・・地元の住民により組織され、日本軍に協力した武装組織


また、同書には、以下のような進圭社の老人の証言が記載されています。

「彼らの大隊長は吉田と言い、中隊長は今井といった。副中隊長は堀武といい、下にロバと赤ら顔がいて、谷川が小隊長のとき日本軍は引きあげた。しかし女性を乱暴するのは主にロバと赤ら顔、キバというような人たちだった
「ロバというのは森曹長のあだ名で、村人が赤ら顔と呼んでいた伊藤が情報班長だったあと、曹長に昇進した。キバはもともと砲兵だった。古兵だったので、誰も素行の悪い彼をどうしようも出来なかった。一九四二年夏の太行山戦役で中隊長の今井が死んだあとは、ここに2個分隊しか残らなかった。10人あまりがいるだけで、木坂が親分で、ロバ、赤ら顔が曹長になった。その後、43年夏に岩本という人が隊長として転任してきたが、あの人は若くてこれらの古兵をどうしようもできなかった」(P.152~P.153)

ここから見えてくるのは、「好き勝手する一部の日本兵とそれを統率できない部隊長。そして、それに便乗して暴行・強姦に参加する一部の中国人」という状況です。隊長は統率できないばかりか、本部に報告すると自分の責任が問われるために黙認していたのでしょう。


【信憑性】

同村や近くの村で同様の被害にあった女性達の証言と内容の齟齬はなく、信憑性はあると思います。

【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1997.6 元「慰安婦」の証言 -50年の沈黙をやぶって アジア・フォーラム編 晧星社
 私は山西省の羊泉村で、農民の父母と三人でくらしていました。私が一五歳のとき(一九四一年と推定されます)の三月のある朝、三人の「漢奸」(中国人で日本軍の手先になったもの)が突然家に来て、私の家族を全員外に連れ出しました。村の中の大きな蔵の中に私たちは入れられました。そこには、すでに三、四〇人の人たちが入れられていました。若い女性も混じっていました。しばらくすると、日本人の兵隊で隊長らしい人が、通訳と部下の兵隊を連れて入ってきました。この部隊はあごの全面に髭があり、色白の背が高い人で、年齢は三〇歳ぐらいのように見えました。後になって「毛隊長」とよばれているのを知りました。この隊長が私の傍らにやってきて、通訳を通して「あなたはとてもきれい」と繰返し言いました。そして、私を含む三人の女性を選び出し、三人を外に出すように漢奸に指示しました。
 私も、私の母親も泣いて抵抗しましたが、漢奸は私もいれて三人の女性を蔵の外に無理矢理連れ出しました。そして、私は蔵の外に出されると、首から腕に縄をかけられ銃剣で小突かれながら、三、四時間歩かされて、日本軍の駐屯地に連れていかれました。そこは進圭村の日本軍の駐屯地で、そこにある石洞に私たち三人は入れられました。そこは奥の方が少し高くなったオンドルになっていて、藁が敷いてあって、その他のところは地面のままで何もありませんでした。入口には鍵がかけてあり、とじこめられたのです。用便の時には、戸をたたいて開けてもらわなければなりませんでした。
 石洞に来てまもなく漢奸がやってきて、いきなり私のズボンをぬがせようとしました。私が抵抗すると、何度も顔を殴りつけ、布切れを口の中におしこみ、私を強姦しました。その夜更けに、別の漢奸がやってきて、私を別の建物の一室に連れて行きました。そこは隊長の部屋で、私は翌朝まで隊長に何度も強姦されたのです。

 次の日から四〇日間、私は毎晩夜遅く、漢奸に隊長の部屋に連れて行かれ、明け方まで隊長に強姦され続けました。しかもは昼で、石洞の中で三人の漢奸に代わるがわる犯されさらに二人の日本兵も石洞にやってきて私を強姦しました。食事は一日二回、とうもろこしのお粥のようなものを一杯もらうだけで、用便の時以外は石洞にとじこめられ、外にでることはできませんでした
 そのうち、私は顔がむくんできて、いつも腹痛があるという状態になりました。これは、村に帰ってから医者にみてもらったところ、子宮が糜爛しているためだということでした。また石洞につれてこられる時、銃底で小突かれた左肩のつけ根が痛み、左手首が動かなくなっていました。私が病気になったのを伝えきいた村の父親が親戚や知人から一〇〇銀を集め、私をもらい下げにきてくれたのです。こうして私は村に帰ることができました。
 村に帰ってから二ケ月後に、また日本兵と漢奸がやってきて私を探しましたが、この時は父が私を隠して難をのがれました。しかし、村では私が日本兵に陵辱されたことが知れわたり、結婚する相手がなかなかみつかりませんでした。一九歳の時に一〇歳年上の再婚の男性とようやく結婚しました。しかし、その後も私の体調はすぐれず、夫の農業の手伝いもできませんでした。(P.31~32)
2006.9 ガイサンシーとその姉妹たち 班忠義 梨の木舎
 15歳になった年の旧暦3月20日頃のこと、朝ごはんを食べていると、20人前後の日本兵と“黒腿”(注・日本軍の手先となった中国人傀儡軍のこと。黒いゲートルを脚に巻いていたことに由来)が家に入って来た。集会に参加しろ!と言いながら私を家から外に引っ張り出した。抵抗すると顔を殴られた。外に出ると両手を縛られ板の下まで引っ張られ、進圭社へ連れて行くというので、行かないと言ったら、銃床で骨が折れそうなほど肩を殴られた。銃剣を突きつけられて仕方なく4時間歩いて行った。
 進圭社に着いたのは午後の1時を過ぎていた。普通の農家のようなヤオドンに入れられた。
 私のほかに劉ニ荷さんと、もう一人、馮伝香という女性が一緒に連れて行かれた。その部屋に着いてまもなく、私たち3人は中庭に呼び出され、1列に並ばされた。そのあとから“ロバ隊長”(注・日本人隊長某のあだ名)がやって来た。“ロバ隊長”は私たちをひと回りして眺めると、私を指差して、中国語で「君は一番いい娘だ」と言い残して帰った。そして、私はまた農家のヤオドンに閉じ込められた。ほかの二人は別の場所に連れ出された。
 私が監禁されたヤオドンに蓋山西もいた、と村人からあとになって聞いたけれど、私は彼女に会ったことはない。彼女が監禁されたのは私より先だった。

 昼過ぎに、ヤオドンに私を連れてきた漢奸(注・日本軍の手先となった中国人。“黒腿”と同じ意)の一人、林是徳に強姦された。抵抗すると何度も顔を殴られ、布を口に押し込まれ、別の二人の漢奸にも強姦された。その後、3人の日本兵に犯された。家の外には見張りがいて、日本兵は銃剣で脅しながら私を犯した。叫ぼうとしても怖くて声が出なかった。
 彼らが帰ったあと、私はオンドル(部屋の奥に一段高くなっているところ)から起き上がれなかった。ズボンは地面に捨てられたままになっていた。オンドルは小さく、敷きものも何もなくて、麻で編んだ袋だけが置いてあった。私はその麻袋の上に座り、よく見ると袋の上に血がついていた。
 私はゆっくりとオンドルを降りてズボンを取り、穿いてから泣いた。ひたすら泣いて、泣き続けた。夜になると、辺高和という漢奸が私を呼び出し、途中で彼が私を犯した。連れて行かれたところは“ロバ隊長”の住む家だった
 それは小さい家で、中にベッドが一つ置かれていて、そばに椅子があった。私を中に入れると、辺高和は彼に「礼」をして帰っていった。周りの家はみな日本兵が住んでいるようで、窓ガラスから外の家の蝋燭の光も見えた
 “ロバ隊長”は低い声で、私に服を脱ぐように言った。私がじっと動かず脱がないでいると、彼は枕の下から刀を取り出して、“脱がなければお前を殺す”と脅かした。殺す、と聞いて、私は怖くなり抵抗出来なった。
 彼は近寄ってきて私の服のボタンをはずし、それからベッドの上に引っ張っていって、私を犯した。その夜3回も私を犯した。私の下半身から出血したのを見て、彼はちり紙を取って私に渡した。夜が明ける頃、辺高和が再びやってきて、私を監禁部屋に連れ戻した。
 翌日の夜になると、また、“ロバ隊長”の所に連れて行かれ、また2回犯された。
 私の身体はもう耐えられなかった。40数日間、昼間は毎日5人から8人くらいの日本兵に強姦され、夜になると隊長の部屋に連れて行かれ、毎晩強姦された。体がむくんで腫れ上がり、歩くことさえ出来なくなった。食事は1日に2回、水っぽいトウモロコシや粟のスープのようなもので、冷たくて食べられない。お腹がいつも痛くて、昼も夜も恐怖でいっぱい。ついに動けなくなって、見張りが進圭社にいる親戚に連絡をとり、父に知らせた。「娘がひどい病気になっているから、早く迎えに来い」
 父は親戚から銀貨一〇〇枚を集めて引き取りに来たのに、許されなかった。父は「娘は病気ですので、家に戻って回復したらまた送り返します」と言って、初めて家に連れて帰ることが出来た。家に戻って、2、3ヵ月薬を飲み続けた。その間にまた日本兵と漢奸が呼び戻しに来たが、父は私を隠し、「医者に行っています、まだ治っていません」と言ったら帰って行った。私はその後、そのままずっと病院へ行けず、日本兵に銃床で叩かれた左腕の付け根が変形して、左腕が右腕より少し短くなってしまった」

 彼女は進圭社に連れて行かれた時、日本兵と一緒に来た“黒腿”のうちの二人を知っていた。一人は林是徳、もう一人は辺高和という。この二人は劉さんの家に時々出入りする共産党の工作員だった。それがいつの間にか日本人側に寝返っていたのだ。(P.37~40)

 劉面換さんはこんなことも教えてくれた。彼女の住んでいるこの三〇〇人足らずの小さい村から、5人の女性が日本軍トーチカに連行され侮辱された。それから死んだり、逃げたりして、今も村に残っているのは彼女だけ、と。(P.41)
忍者ブログ | [PR]