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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 朴頭里(パク・トゥリ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1924.9.2、慶尚南道密陽郡に生まれる。多少余裕のあった家に生まれるが父が女遊びで財産を使い果たす。1940年の数えで17歳頃、やってきた朝鮮語と日本語を話す男に「日本の工場で金になる仕事がある」と騙され、台湾にて慰安婦を強いられる。

1992.12.2、日本国の公式謝罪と賠償を求めて提訴した10人の内の一人。2003.3.25最高裁にて上告棄却・上告受理破棄、敗訴確定。(釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟(別名:関釜裁判))
2006.2.19死去


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

無し。村に工場の働き手を募集に来た男3人に連れられ、台湾の彰化の慰安所まで連れて行かれる。3人の内のリーダー格であった人物が慰安所の主人だった。


【考察】

裁判の証言(以下「裁判」)と「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」(以下「証言」)を比べて見ると、大まかな流れは変わりませんが、以下の通り、細かい所で全く異なる内容をなっています。

<村にきた男>
 ○「裁判」・・・日本語と韓国語を話す男でしたが、韓国語が上手だったのでたぶん朝鮮人だと思います。
 ○「証言」・・・50代くらいの背の高い日本人でした。彼は朝鮮語を使いましたが、あまりうまくありませんでした。
「たぶん朝鮮人」だったのが、完全に「日本人」に変わって朝鮮語もヘタになっています。しかも、「証言」では、「日本で暮らしている朝鮮人だとばかり思っていたのですが、台湾に着いたときに日本人だと知りました」と語り、「裁判」とは全く異なることを言っています。これは完全にウソでしょう。

<慰安所の主人>
 ○「裁判」・・・村にだましに来た男と同一だとも日本人だとも証言していない
 ○「証言」・・・同女を連れて行った日本人の男が慰安所の主人
慰安所の主人まで日本人になってしまっていますが、これは、「裁判」では触れなかっただけかも知れません。

<軍人の暴力>
 ○「裁判」・・・「もし朝鮮の言葉で話をしたりすれば、相手は日本の軍人なので、それこそ叩き殺されるぐらいひどい目にあわされました」
 ○「証言」・・・「軍人たちは私を殴ったりしませんでした」

日本を非難するのに都合のいいように情報が変更されている一方で、不利な方向にも変わっています。訳が分かりません。


なお、同女が入れられた慰安所は以下の通り、軍専用ではなく民間人も利用していたようです。

「民間人の客は、日本人と台湾人でした。民間人の中にも一時間くらい「一見さん」もいれば、一晩泊まっていくような人も一月に何人かいました。」(「証言」P106~107)


【信憑性】

細かい所は、コロコロと証言を変えているようで信用できませんが、大まかな所は本当のことでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992.2 裁判の証言 ***** ****
 ~(前略~
 私の家族は父と母、そして兄弟が7人で、兄弟は私も含めて女は4人、男は3人でした。父親の仕事は若い頃は何をしていたのか知りませんが、私の知っている限りでは大工をやっていました。家は貧しくて、一家そろって藁葺きの屋根の家に住んでいました。
 私が17歳のときに、私の村に「日本の工場で働けば金儲けができる」という話が村の娘たちにもちかけられ、男たちが村の娘たちを集めにやって来ました。日本語と韓国語を話す見知らぬ男でしたが、韓国語が上手だったのでたぶん朝鮮人だと思います。
 私もお金を稼ぐために日本の工場に行って働こうと思いました。その時にしていた仕事は、洗濯をしたり山に薪を取りに行ったりといった仕事をしていました。あまりよく覚えていませんが、私が故郷を後にしたのは暑くもなく寒くもなかったので、たぶん春か秋だったと思います。
 初めは父も母も日本の工場に働きに行くことには反対していましたが、嫁に行くにはお金も必要だし、嫁に行く前に日本の工場に働きに行ってお金を稼ぎたいと私が思っていたので、仕方なく承諾しました。
 日本へ行くことになった日、父は仕事で家を留守にしており、家には母がいました。娘たちは一ヵ所に集められてから釜山に行き、釜山から船に乗せられました。~(中略)~
 船から降りたとき、そこが台湾だということも分かりませんでした。降りたときも船酔いの状態がひどかったので、船を降りてからまず病院に連れていかれました。
 病院から家に連れていかれて、その後何日かたってから周りの人に「ここは台湾だ」ということを教えてもらって、そこで初めて台湾に連れて来られてたということが分かりました。
 病院から工場に連れていかれるのかと思っていましたが、連れていかれたのは軍人相手に体を売る「慰安所」でした。その時だまされて連れてこられたことが分かりました。~(中略)~
 その「慰安所」の主人には奥さんがいました。主人とは別に管理人がいて、言うことを聞かないと暴力をふるうのは管理人でした。
 私はその「慰安所」で日本名を「ヒジコ」と呼ばれていました。私は「慰安所」に連れて来る日本の軍人からお金はもらっておらず、「慰安所」の主人からも一銭ももらっていません。
 「慰安所」では日本語しか喋らせてもらえず、もし朝鮮の言葉で話をしたりすれば、相手は日本の軍人なので、それこそ叩き殺されるぐらいひどい目にあわされました。~(後略)~
2002.7.30 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房
 村にやって来た日本人男性に、日本にある工場での就職を斡旋すると持ちかけられる。(P.124)

 ハルモニを村から連れ出した日本人男性は、その慰安所の主人だった。(P.125)
2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
 連行されたのは一七歳になった年、一九四〇年に間違いないと思います。(P.103)

 ある日、村に男が三人来ました。三人がバラバラに分かれてそれぞれ女たちを募集していました。うちに来た男は五〇代くらいの背の高い日本人でした。この日本人の男が三人の中の責任者のようでした。彼は朝鮮語を使いましたが、あまりうまくありませんでした。それで両親と私は、彼のことを日本で暮らしている朝鮮人だとばかり思っていたのですが、台湾に着いたときに日本人だと知りました。ほかの二人は朝鮮人だったと思います。その人は、私を日本の工場に入れてあげると言いました。私は日本でお金を儲けて両親に仕送りしたいと言いました。(P.103~104)

 私を三浪津から連れて行った日本人の男がその家の主人でした。(P.106)

 軍人たちは私を殴ったりしませんでした。(P.108)
2007.2.10現在 ナヌムの家 HP
※リンク先は韓国語
***** ****
 軍隊慰安婦では 1940年 17才時行って 1945年 22歳に帰国した. 私が故郷で住む時男 3人が私たちの村で女 10人ほどを募集した. 日本工場に入れてくれると言った. 1940年 晩春ではなかった.~(中略)~

 お客さんは主に日本軍人だったがには民間人もいた. 民間人はデマンオッを口は台湾人だった. 私はその慰安所にだけ 5年あった. 韓国で私を連れて行った人が慰安所の主人だった. 彼は日本人だった. 彼は私たちの外にも韓国で 15,16歳になる田舍娘たちをたくさん連れて来た. 慰安所には平均 20人余りの慰安婦があった. 韓国で代理で来る娘たちは私たちの慰安所を経って他の所に行った. しかしどこに行ったのか私は分からない.
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◆◆◆ 宋神道(ソン・シンド) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1922年11月24日、忠清南道(チュンチョンナムド)生まれ。数え年12歳の時に父が死亡、1938年、16歳の時、母親が決めた結婚が嫌で嫁ぎ先から逃げ出し、以降、家にも帰れず、友達の家に泊まったり人の家の手伝いをしたりして過ごす。大田(テジョン)で、42、3歳の女性に「無理して嫁御に行く必要ない、戦地さ行けば国のために働くにもいいし、とにかく結婚なんかしなくてもよし、心配ない」と騙され、中国の武昌で慰安婦を強いられ、以降、戦地を転々とする。
戦後、日本人の元軍曹に「結婚して一緒に日本さ行こう」と誘われ日本へと向かうが、日本に到着すると捨てられる。以降、日本にて生活を送る。在日コリアン。

1993年4月5日、日本国に対し、「国会における公式謝罪」と「謝罪文の交付」を求めて東京地裁に提訴。2003年3月28日最高裁第二小法廷が上告棄却・上告受理棄却の決定を出し敗訴が確定した。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

無し。朝鮮人の女性(人間ブローカー)にそそのかされた後、新義州の紹介所(注)に集合し、高さんという朝鮮人の男に連れられて武昌の慰安所に行く。

(注)紹介所・・・簡単に言えば人身売買の仲介所。お金が必要な者が娘等を売ったり、人手の必要な者が人を買ったりする所。買い入れ先の選定にはある程度本人の意思が尊重されたようです。


【考察】

家に帰るに帰れずに他家の手伝い等をしていたところを、人間ブローカーに目を付けられて慰安婦として売られたという話です。証言によって、そのブローカーが男であったり女性であったりしますが、根本的なところでの証言の食い違いはないと言えるでしょう。

また、慰安所に行くことになった経緯について以下の通り記述されています。

「大田(テジョン)で、四十二、三ぐらいのばあさんが、無理して嫁御に行く必要ない、戦地さ行けば国のために働くにもいいし、とにかく結婚なんかしなくてもよし、心配ないと。なんだとかかんだとかうまいこと言ったから、その口車に乗ってそのババアにくっついて行ったわけだ。国のためって言われても分からないから。戦地と言っても分からないから。手任し足任せ。今考えたら、それが「慰安婦」になるってことだったんだよね。」(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」P.45)

果たして、同女が騙されたと言えるのか微妙なところです。「戦地」も分からないなら、仮に「兵隊を慰安する仕事」というような婉曲的な説明をされたところで理解できなかったでしょう。
恐らく、「それが「慰安婦」になるってことだったんだよね。」と述べているところを見ると、振り返って考えてみると慰安婦になることの説明はなされていたと言うことでしょう。


【信憑性】

全体として信憑性はあると思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.8 皇軍慰安所の女たち 川田文子 筑摩書房
 家に帰れば婚家に追いやられることは目に見えている。神道は忠清南道の生まれ育った村を出、近くの町大田へ行った。
 「嫁になど行かなくても、戦地に行って働けば金になり、一人で生きて行ける。戦地へ行って御国のために働かないか」と美しい身なりの初老の女性に誘われたのはそれから数か月後である。神道は大田で子守など他人の家の手伝いをしていた。寝るところを与えられ、日々食べさせてもらう他は何の報酬も得られなかった神道は、金になるという話に心惹かれた。戦地がどんな所か分からず、不安は残った。
 神道を誘った初老の女性は、確か母の知合いで、神道の村にも娘を集めるため来たことがあった。後にその女性が“人間ブローカー”であることを知るのだが、神道が戦地行きを決めて間もなく、警察に連れて行かれ、二日間も拘留されて身体検査まで受けた。その検査は身が縮みあがるほど恥ずかしかった。(P.101~102)

 初老の“人間ブローカー”は神道を平壌に連れて行った。平壌には大勢の若い娘が集められていた。神道は自分と同じ年頃の娘たちを見た時、こんなに大勢戦地に行くのだもの、なにも怖がることはないのだと少し気が楽になった。
 その建物は、その後の経験で分かったのだが、娘たちを売り買いするいわば市場となっていた。戦地から軍の要請を受けてやって来た慰安所経営者やその雇用者である帳場と、各村や町で娘を集めた“人間ブローカー”との間で取引きがなされたのだ。人間ブローカーは、そこまで娘たちを連れて来るのにかかった経費にて手数料を上乗せした額を慰安所経営者あるいは帳場から受け取り、娘たちを引き渡す。その時慰安所経営者や帳場が支払った額は、そのまま娘たち一人一人の借金になった。娘たちは、前借金を一銭も受け取らなくても否応なしに借金を負わされてしまうのだ。神道は黄海道出身のコウさんという男に買われた
 数日後、娘たちは平壌を発ち、北上して満州に入り、さらに天津へと連れて行かれた。
 戦地へ行って御国のために働けば金になると人間ブローカーから聞かされていたが、仕事の内容は知らされなかった。(P.104~105)

 コウさんに連れられて神道らが武昌に着いた時、中国人の姿はほとんど見られなかった。日本軍侵攻を知って、家も家具なども放置して逃げ出してしまったようだ。中国人の姿を見かけるようになったのは、一、二か月経ってからである。~(中略)~
 神道らは煉瓦造りの大きな建物に入れられた。裏手には山があったが、その建物の裏口を出たところに中国人の遺体が横たわっていた。殺されてまだ何日も経っていなかっただろうと思う。周囲には黒ずんだ血糊がべっとり付いていた。(P108)

(※2007.7.5 追加)
1998.11.22 山形市集会 ***** ****
そんな時、ある男が、「お国のために働いて、めしを食わせるところがあるからいかないか」と言ってくれた。
2005.6 イアンフとよばれた戦場の少女 川田文子 高文研
そんなある日、大田で四二、三歳くらいの女性「戦地に行って、御国のために働かないか」と声をかけられました。~(中略)~その女性は、母親と同じ北朝鮮の出身で、母親とは知り合いだと、宋さんの気持ちを和らげるようにいいました。(P.51)
「人間ブローカー」に連れられて、大田を発つ時、他にふたりの娘も一緒でした。宋さんらは平壌を経て新義州に連れて行かれました。「人間ブローカー」は、紹介所という看板のある建物で、宋さんらをコウさんという朝鮮人男性に引き渡しました。新義州は、中国との国境の町です。新義州からの引率者はコウさんに変わりました。女性の数は十数人、若い人ばかりです。宋さんは年下の方でした。~(中略)~そこは武昌という町でした。(P.52~54)
2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
そうこうするうちに、大田で四十二、三ぐらいのばあさんが、無理して嫁御に行く必要ない、戦地さ行けば国のために働くにもいいし、とにかく結婚なんかしなくてもよし、心配ないと。なんだとかかんだとかうまいこと言ったからその口車に乗ってそのババアにくっついて行ったわけだ。国のためって言われても分からないから。戦地と言っても分からないから。手任し足任せ。今考えたら、それが「慰安婦」になるってことだったんだよね。~(中略)~平壌から新義州に行ったら「紹介所」って看板が掛かってて、オレと同じくらいの女やら、もっと年取った女やらいっぱいいたんだ。そこから高さんていう男の人に連れられて、汽車に乗って天津という所に行ったの。それから大きな汽船に乗って漢口へ。漢口からまた船に乗って武昌へ。(P.45)

◆◆◆ 朴永心(パク・ヨンシム) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1921.12.15平安南道(ピョンヤンナムド)南浦(ナムポ)市で生まれる。14歳の時、洋品店に奉公に出される。1939.8月17歳の時、「お金を稼げるいい仕事がある」という日本人の巡査に騙されて南京市内の慰安所に入れられる。1942年慰安所の主人と共にビルマ(※現ミャンマー)のラシオの慰安所に移り、しばらくして、さらに松山(※拉孟・中国雲南省)の慰安所に移る。松山にて中国兵の捕虜となる。

2000.12月、女性国際戦犯法廷で証言を行う。
2006.8月死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

同女を騙した日本人巡査に平壌駅で憲兵に引渡され、以降、その憲兵に南京の慰安所まで引率される。その憲兵には「逃げようとしたら殺すぞ」と脅される。


【考察】

同女が、自分であると証言している写真があるのですが、それは、1944年9月3日、松山(※拉孟・中国雲南省)にてアメリカ写真部隊が撮影したもので、「中国弟8軍の兵士によって捕虜にされた4人の日本人女性」と記されているものです。(※恐らく、日本人と朝鮮人の区別がつかなかったのでしょう)

「雲南・ビルマ最前線における慰安婦達-死者は語る」(浅野豊美)のレポートには「ラウンドアップ」と言う米兵向け新聞の当該写真の4人に対するインタビューが掲載されています。そのインタビューによると

 ○慰安婦達の年齢は、24歳から27歳
   → 1944年9月なら同女は満22歳で、数え年なら24歳。おそらく数え年を申告したのでしょう。
   (※他ページで「22歳のはずだからおかしい」と指摘している所があったので敢えて記載)

 ○1942年に、シンガポールにて基地の世話や病院の手伝いをすると日本の官憲に騙された
   → 同女が朝鮮で騙されたのは1939年

 ○4人は「朝鮮(1942年6月発) → シンガポール・ラングーン経由 → 松山の慰安所」
   → 同女の証言は、以下の通りでかなり食い違っており、ビルマへと向かった時期だけは一致しています

    「朝鮮(1939年発) → 南京の慰安所(1938年着・1942年初夏発)→ 
    上海の港 → シンガポール・ラングーン経由 → ビルマのラシオの慰安所(1942年着)
    → 松山の慰安所」

インタビューでは4人は朝鮮から共に行動してきたことになっていますが、インタビュー時の状況も分からないので、この記事の内容をそのまま同女の証言と捉えることはできません。当時、身重のまま戦地を逃げ延びてきた同女が疲弊しきっていて、インタビューに参加しなかった可能性も十分あります。

また、南京では、同女がいた慰安所の建物も見つかっており、南京にいたというのも信憑性があります。(ただし、同建物の写真が掲載されている写真を見ましたが、どのくらい証言と一致しているのかは不明)


しかし、騙したのが「日本人巡査」で、南京の慰安所に連れていったのが「憲兵」というのは疑わしいと思っています。「慰安婦になった経緯」については、他の多くの元・従軍慰安婦も脚色や捏造を行っている所です。

同女の証言の最大の疑問点は以下の記述です。

「玄関を入ると正面に階段があり、薄暗い階段を上って二階に連れて行かれました。~(中略)~「キンスイ楼」の女たちを取り仕切っていたのは朝鮮人の夫婦でした。~(中略)~主人は私に日本の着物に着替えるように言いました。私は「なんでこんなものを着なければいけないのか」と抵抗したのですが、主人は大きな声でどなりながら無理やり私が来ている服をはぎ取ったのです。そして、「今日からおまえの名前は『歌丸』だ」と言いました」(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」P.23~25)

同女は、慰安所についてすぐに、初対面の慰安所の主人から「歌丸」という名前を付けられています。「歌丸」は他の慰安婦達のように、思いつきで適当に付けられた名前と違って、名前の中に「歌」という要素があって、歌が上手いから付けられたと考えるのが自然な名前です。そんな名前が、初見でろくに話してもいない同女にいきなり付けられるとは思えません。
しかも、同女は以下のような記載がある通り、実際に歌がうまいのです。

「私は、気晴らしによく朝鮮の歌を歌いました。そのうち日本兵のあいだで歌がうまいと評判になり、日本兵の前で歌わされることもありました。」(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」P.32)

「歌丸」は、同女が歌がうまかったから付けられた名前でしょう。慰安所の主人はこの名前を付ける前に「同女は歌がうまい」ということを知っていたはずです。
しかし、証言にはそんなことは書かれていません。つまり、「歌丸」という名前がつけられる前に、慰安所の主人がいつ、どうやって「同女は歌がうまい」ということを知ったのかという情報が抜け落ちていて、その代わりに「巡査に騙されて憲兵に連れて来られた」という情報があるわけです。

確たる証拠がありませんので推測の域を出ませんが、「巡査に騙されて憲兵に連れて来られた」というのは全くの嘘でしょう。本当は、「キーセンとして歌を披露していたところを慰安所経営者にスカウトされて、または騙されて慰安婦になった」というところではないでしょうか。少なくとも慰安所で始めてその主人と会ったと言うのは考えにくい話です。

-------------以下 2007.4.3追加-----------------------------------------------

また、同女が自ら証言する時は必ず、連行されたのは「1938年3月」だと証言しています。下記資料の米陸軍の調査報告には「1939年8月」とあり、また、「南京に連行される時『暑くて汗びっしょりになった』」(戦場の『慰安婦』-拉孟全滅戦を生き延びた朴永心の軌跡(P.20))とも話しており、真夏であったことは間違いなさそうですが、何故「3月」にこだわるのか疑問です。南京に行くことになったのは「8月」で、そもそも慰安婦となったきっかけとなる出来事が「3月」に起こったのではないでしょうか?
「歌丸」「3月」に慰安所に入れられることになった本当の経緯が隠されていそうです。

なお、2005.5.19の朝鮮新報(以下「朝鮮」)と「戦場の『慰安婦』-拉孟全滅戦を生き延びた朴永心の軌跡」(以下「戦場」)では下記の通り証言内容に相違点があります。

<連行時の同女の同意の有無>
○「朝鮮」・・・「両親に聞かないといけない」と抵抗したが、無理やり車に乗せられた
○「戦場」・・・「お金が稼げる仕事がある」という言葉を信じた
無理やり連れて行かれたのが、無理やりではなくなっています。また、「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」では「お金を稼げるなら親孝行ができると思ってついて行くことにしたのです」(P.21)と、むしろ、同意したことになっています。

<南京の慰安所の様子>
○「朝鮮」・・・3階建てのレンガ造りの建物で、各部屋の大きさは2×2.5メートルくらい。
○「戦場」・・・2階建ての大きなレンガ造りの建物で各部屋は6畳ほど。
3階建てが2階建てになり、5㎡が6畳(約10㎡)と2倍の広さになっています。「戦場」には南京で見つかったとされる慰安所の写真が掲載されており、その建物に合わせて証言内容を変更したのでしょう。見つかったとされる建物が本当に同女がいた慰安所の建物か疑わしいものです。

<女性を殺し鍋で煮たスープ>
○「朝鮮」・・・日本人に肉入りのスープをもらい食べたら、要求に応じなかった朝鮮人の女性の肉で作ったスープだと笑いながら言われる
○「戦場」・・・そのような記述無し
あからさまなウソでしょう。

-------------以上 2007.4.3追加----------------------------------------------


蛇足ですが、上で述べた「ラウンドアップ」にも以下の通り日本の官憲が陸軍夫人部隊を募集したとの内容が記載されています。

1942年の4月初め、日本の官憲が朝鮮の平壌近くの村に来た。彼らは、ポスターを貼ったり大会を開くなどして、シンガポールの後方基地勤務で基地内の世話をしたり病院の手伝いをする挺身隊(原文では、“WAC” organizations(※陸軍夫人部隊(管理人注)))の募集を始めた。

応募の際に貰った1,500円(米ドルで12ドル:原文)で、治療代を工面した

私は、先に大金を受け取っていることから、業者が「今、官憲で応募しているアレだ」と騙したのではないかと思っています。(※挺身隊や従軍看護婦が応募の時点でお金を受け取ることなどなかっただろうと言う推測を元にしています。この事実関係については別途調査したいと思います)


【信憑性】

騙したのが「日本人巡査」で「憲兵」に引率されたというのは非常に疑わしいですが、否定できる確たる証拠はありません。
南京等で慰安婦をしていたのは本当でしょうが、時に人肉スープを食べさせられたと証言する等、所々、ウソが紛れている可能性大です。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1944 米陸軍の調査報告
※中国雲南省昆明での朝鮮人と日本人の捕虜の尋問データ
***** ****
平安南道出身、23歳、Pak Yong-sim(パク・ヨンシム)。1939年8月朝鮮を出る
1999 雲南・ビルマ最前線における慰安婦達-死者は語る
※財団法人 女性のためのアジア平和国民基金「慰安婦」関係資料委員会 編「『慰安婦』問題調査報告・1999」に掲載されたレポートの一つ
浅野豊美 ****
 この写真史料に映像として刻まれている松山の慰安婦については、2つの対応資料を米国と台湾で見つけることができた。最初に紹介したいのは、ワシントンのナショナルアーカイブに保存されている「ラウンドアップ」というビルマにいた米軍兵士の間で読まれていた新聞である。(P.63)

 インタビューをもとにまとめられたこの記事によると、慰安婦達の年齢は、24歳から27歳で、捕虜となるまでの経緯は下のようであった。
 1942年の4月初め、日本の官憲が朝鮮の平壌近くの村に来た。彼らは、ポスターを貼ったり大会を開くなどして、シンガポールの後方基地勤務で基地内の世話をしたり病院の手伝いをする挺身隊(原文では、“WAC(※陸軍夫人部隊(管理人注))” organizations)の募集を始めた。4人はどうしてもお金が必要だったのでそれに応じたという。ある女の子は、父親が農民で、ひざを怪我してしまったので、応募の際に貰った1,500円(米ドルで12ドル:原文)で、治療代を工面したという。そのような形で集められた18人の女の子の集団は、同年6月にいよいよ朝鮮から南へと出港することとなった。~(中略)~しかし、船が約束のシンガポールに立ち寄っただけで、そのまま通過してしまってからは心配な気持ちが広がり始めた。ビルマのラングーンから北へと向かう列車に積み込まれたときには、もはや逃れられないと運命を悟ったという。~(中略)~一団が、怒江最前線にある松山陣地に到着すると、4人はある1人の年上の日本人女性によって監督されることとなった。(P.64~65)
2000.12.8 朝鮮日報「戦犯国際法廷で南北が日本側の責任を訴え」 ***** ****
17歳の時、連れて行かれた中国の南京、上海、雲南省などを転々とし、‘若春’という日本名で慰安生活を送った。性的奴隷になりたくなくて反抗したが、日本の軍人が振り回した短刀で首にけがを負った。今もその傷跡が残っている
2002.5 女性国際戦犯法廷の全記録・第5巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録 VAWW-NET Japan 緑風出版
一七歳のときでした。一九三八年三月だったと思います。ある日、日本の巡査が軍服に帯剣のいでたちで洋服店に現れました。彼はいい金儲けの口があるが行かないかというので、そのままついて行きました。そうして私は日本軍の性奴隷になったのです。~(中略)~最初に連れられて行ったのが南京でしたが、そこの「キンスイ」楼に入れられました。私はそこで歌丸という日本名で呼ばれました。そこで三年ほど性奴隷の生活を強要されたと思います。
たしか一九四二年頃だったと思います。ある朝、表へ呼ばれました。出てみると七名の別の女性たちもいました。皆朝鮮女性たちでした。一緒に行こうと言うのでした二名の日本人兵士がいました。その二名が私たちを監視しながら慰安所を後にしました。別の慰安所に行くというのです。
2003.12 戦場の『慰安婦』-拉孟全滅戦を生き延びた朴永心の軌跡 西野瑠美子 明石書店
 17歳のある日のことだった。店に赤い帽子を被り黒い制服を着た、見るからに恐ろしい形相の日本人の巡査が現れた。「お金が稼げる仕事があるが、お前もいかないか」巡査の日本語は片言しか分からなかったが、稼ぎのいい仕事があるという誘いは、永心の心を動かした。腰に付けたサーベルは怖かったが、巡査が怖かったからついていったのではない。「お金が稼げる仕事がある」という言葉を信じたのだという。一九三九年八月のことだった。永心は同じ村の二十二歳の娘らと一緒に平壌駅に連れていかれたが、そこにはすでに十数名の娘たちが集められていた。巡査は娘たちを憲兵に引渡すと、そそくさと姿を消した。(P.19~20)

 慰安所の一階には、慰安所を管理する日本語の上手い朝鮮人夫婦が住んでいた。(P.21)
2004.6.9 人民網「旧日本軍の『慰安所』取り壊さず保存か 南京市」 ***** ****
昨年10月、80歳を超える高齢の韓国人元慰安婦、朴永心さんが南京市を訪れ、利済巷の建物2棟を、「慰安所」が置かれた場所と確認した。
2005.5.19 朝鮮新報「<日本の過去を告発する>『慰安婦』として連行された朴永心さん(83)」 ***** ****
 早くに母を亡くし、継母と炭鉱で働く父のもとで育った私は14歳の時、南浦市の洋服店で食事係として働いていた。1938年3月のある日、日本人巡査が店に来て、「いい仕事があるから紹介してやる」と言った。私は、「両親に聞かないといけない」と抵抗したが、無理やり車と汽車に乗せ、どこかに連れて行かれた。移動している間、監視が厳しくてトイレにも行けなかった。その時になって初めて「いい仕事があるのではない。騙された」と思ったが、時はすでに遅かった。
 私が最初に連れて行かれたのは、中国・南京だった。南京には日本軍の兵営が多かったが、そのうちの一つから約500メートル離れたところに「慰安所」があった。「慰安所」は3階建てのレンガ造りの建物で、各部屋の大きさは2×2.5メートルくらい。部屋の中央にベッドが一つずつ置かれていた。
 自分にあてがわれた部屋に入った瞬間、私は鳥肌が立ったが、ここで何が起きるかはまだわからなかった。軍人が部屋に入ってきて初めて何をされるか悟った私は、絶対応じないと抵抗した。するとその軍人は、殴る蹴るなどの暴行を加えた後、軍刀を私の首にあてがい、「これでも応じないか」と脅した。~(中略)~ 
日本人は本当にケモノのような奴らだ。ある日、「飯もろくに食ってないから、今日は肉入りスープをご馳走してやる」と言いながら、私たちにスープをくれた。何も知らずに食べた私たちを見て、奴らはそのスープは朝鮮の女の肉で作ったスープだと言いながら笑った。自分たちの要求に応じなかった女性を殺し、鍋で煮たというのだ。

(※2007.4.3資料追加)
2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
 ある日、店に日本人の巡査がやって来ました。腰にサーベルをつけた怖い顔の男です。巡査は私に「お金が稼げるいい仕事があるから、おまえも行かないか」と誘いました。私は少しの日本語は分かりましたが、巡査が怖くてどんな仕事なのか詳しい話を聞くことができませんでした。でも、「お金が稼げる仕事だ」ということは理解でき、お金を稼げるなら親孝行ができると思ってついて行くことにしたのです17歳の年、私は、同じ村の二十二歳の娘と一緒に平壌駅に連れて行かれました。~(中略)~巡査は、私たちを憲兵に引き渡すとそそくさと姿を消してしまいました。私たちは屋根のついた貨車(有蓋貨車)に詰め込まれました。~(中略)~一緒に乗り込んできた憲兵は「逃げようとしたら殺すぞ」と私たちを脅し、娘たちが互いに話すことも禁じました。~(中略)~降ろされたのは日本軍の駐屯地の近くのレンガ造りの建物で「キンスイ楼」という、日本軍慰安所でした。(P.21~23)

 「キンスイ楼」の女たちを取り仕切っていたのは朝鮮人の夫婦でした。(P.24)

(※管理人注:同証言は「戦場の『慰安婦』-拉孟全滅戦を生き延びた朴永心の軌跡」等の資料を元に再編集したもの)

◆◆◆ 李桂月(イ・ゲウォル)/郭金女(カク・クムニョ)/金英淑(キム・ヨンスク) ◆◆◆


李桂月、郭金女、金英淑の3名は、北朝鮮の元・従軍慰安婦で、「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」に収録されているのですが、以下の通り、共通点があるのでまとめて掲載します。

<共通点>
 1.公権力・日本軍に連行されたことが明白
 2.慰安所の場所は中国の東北部(北朝鮮に比較的近い場所)。
 3.慰安婦の日本名は必ず「~コ」 (ex.マツコ、エイコ)
  (※ただし苗字しか出てこないケースもあり)
 4.慰安所での内容があまりに希薄。軍人と慰安婦以外の人間は出てこない。
 5.日本兵の非道さが他の証言よりも突出している
 6.良い、又は、まともな日本兵は出てこない
 7.慰安所を脱走時、助けてくれるのは必ず朝鮮人

さらに、最大の共通点は、これらの証言をとったのが全て「朝鮮 日本軍『慰安婦』・強制連行被害者補償対策委員会」という組織だということです。北朝鮮では、1992年に「従軍慰安婦・太平洋戦争被害者補償対策委員会」が発足し、ラジオなどを通して元従軍慰安婦の申告を呼びかけ、219名が申告、内45名が公開証言を行っています。そして、現在、従軍慰安婦関連の調査を行っているのが、この「朝鮮 日本軍『慰安婦』・強制連行被害者補償対策委員会」なのです。

なお、「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」で、この委員会のとった証言が載っているのは今回あげている3名のみです。


【信憑性】

先に結論を述べます。
この3人の証言には、信憑性は全くありません。南北分裂前に慰安婦を強いられたのですから、韓国と北朝鮮の元・従軍慰安婦の証言に異なる特色などあろうはずがありません。

典型的な「従軍慰安婦・日本兵」のイメージで作られた創作でしょう。証言内容には、「悪=日本人」、「善・被害者=朝鮮人」という一部の人達が大好きな世界観が色濃く顕現しています。

また、上にあげた共通点の一部の理由を推測してあげておきます。

 ○慰安所の場所が中国の東北部 → ゴーストライターが、東南アジア等の他の土地には土地勘がなく、また、ヘタに書くと歴史的事実に反する内容になってしまう恐れがあるから
 ○慰安婦の日本名が必ず「~コ」 → ゴーストライターが、日本の女性名は「~コ」が多いというぐらいの知識しかなかったから


確かに、たった三人を比べただけなので、上であげた共通点の中には「偶然の一致」のものもあるでしょう。しかし、他の北朝鮮の証言者の証言を見てみても、政治的意図をもって情報を歪曲・捏造しているのは確かのようです。


李桂月(イ・ゲウォル)  
郭金女(カク・クムニョ)  
金英淑(キム・ヨンスク)  


<李桂月(イ・ゲウォル)>

【生い立ち・慰安婦となった経緯等】

1922.9.6、黄海南道碧城郡に生まれる。5歳の時、父の死亡と共に家を追い出され、2年間乞食生活を送る。8歳の時、面(※地方行政の最下級機関)の書記の家に子守りに入り、13歳の時、書記に旅館の下働きに売り渡される。15歳になった年、村の区長に「よい仕事を斡旋する」と言われ、ハルピン近くにある日本軍の慰安所に連れて行かれる。1939年、日本軍の将校に酒を飲ませて酔わせ、隙をみて逃亡した。

朝鮮民主主義人民共和国在住。


【定型的な証言内容】

<公権力・日本軍による連行>

 ○私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。~(中略)~駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。~(中略)~日本兵は私たちが逃げるのを恐れて貨車に鍵を掛けたので、私たちは外に出ることができませんでした。(P.83~84)

<慰安婦の日本名>

 ○マツコ、エイコ、アイコ

<非道な日本兵>

 ○私は部屋に入って来た将校に「体の調子が悪い」と言って相手をすることを拒絶したのですが、~(中略)~将校は私を押し倒して腹や胸を蹴り、しまいには軍刀のさやで額を殴りました。私のあばら骨は折れ、額からは血が流れ、とうとう私は気を失ってしまいました。(P.85)

 ○「死んでない」と言いながらたばこに火をつけて私の腹に押し付けました。私の体が熱さと痛さでひくひくとするのを見て、「タナカ」は「おもしろい」と言い、たばこを取り替えながら更にあちこちにたばこの火を押し付けたのです。(P.86)

 ○日本兵は「皇軍のために頑張れ」と言い、「100人でも200人でも入って来るだけ奉仕しろ」と命令しました。(P.86)

 ○日本兵は妊娠している女は不必要だと言って軍刀で彼女の腹を切り裂きました。(P.86)

 ○ある日、日本兵は泣き出すイ・プニの頭を石にぶっつけて殺してしまいました。(P.87)

 ○五人の女性が逃亡して捕まえられたことがありましたが、日本兵は見せしめのつもりで「慰安婦」たちを全員集合させ、彼女たちを裸にして縛って井戸の中に投げ込んで殺しました。(P.87)

<助ける朝鮮人>

 ○私は夢中で葦原を抜け出し、どこともわからないまま川辺を走っていきました。すると、川辺で釣りをしている朝鮮人が目に入り、私は彼に助けを求めたのです


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1999.8.13 朝鮮新報「愛知県強制連行真相調査団訪朝報告会/共和国で旧「慰安所」を現地調査」 ***** ****
16歳の時に黄海南道から日本軍人に連行され「従軍慰安婦」生活を強いられた李桂月さん

(※管理人注:16歳は恐らく数え年)
(2007.4.3資料追加)
2006.6 証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
 十五歳になった年の3月頃のことです。ある日、村の区長が訪ねて来て旅館の主人に何か話し、私を呼んで「ここで苦労をしなくてもいいように仕事を斡旋するから、いい所に行こう」と言いました。私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。十五歳といっても私は背が低く、体も弱かったので、私は区長にひっぱられるままでした。
 駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前の男でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。貨車の中にはすでに二人の娘が乗せられていましたが、二人は私より年下の十四歳と十三歳の少女でした。(P.83~84)

 翌日、中国のハルビンに着いて、私たちは汽車から降ろされました。~(中略)~着いた所は民家一つない日本軍の駐屯地でした。「タナカ」は私たちを駐屯地の建物に監禁したのです。(P.84)


郭金女(カク・クムニョ)

【生い立ち・慰安婦となった経緯等】

1923.1.8(注)、忠清南道天安郡(チョナングン)生まれ。生活は苦しく、14歳の時、日本人の家の子守りをし、16歳の時、日本人が経営する製紙工場で女工として働く。1939年10月頃、工場経営者が「ソウルの食品工場で働くことになった」と言って日本人に引渡した。中国牡丹江穆稜(ソ連国境地帯)にある慰安所に入れられる。2年後、警備の歩哨の隙を見て慰安所から逃げ出す。

朝鮮民主主義人民共和国在住。


(注)「続・平壌からの告発」では1924年1月8日生まれになっている


【定型的な証言内容】

<公権力・日本軍による連行>

 ○翌日、私たちは監督と一緒にいた日本人の警察官に連れられて光州駅に行きました。~(中略)~私たちは声を荒げて「なぜ中国に行くのか。そんな所には生きたくない」と抗議したのですが、警察官は日本語でどなり、私たちを蹴飛ばして無理やり汽車に乗せました。(P.93)

 ○翌々日、牡丹江に着きました。そこで、私たちを引率して来た警察官は出迎えに来た憲兵将校に「長谷川さん、二〇人を連れて来ました」と報告し、名簿のようなものを渡しました。私たちはまたトラックに乗せられ、日本兵の監視の下で牡丹江から一八〇キロほど離れた穆稜という所に連れて行かれました。(P.94)

<慰安婦の日本名>

 ○レイコ、エイコ

<非道な日本兵>

 ○みな処女であり、初めてのことだから恥ずかしくて検診を拒んだのですが、軍医は「言うとおりにしなければ殺す」と脅しました。(P.94)

 ○私は必死で抵抗したため、日本兵は怒って私を殴ったり蹴ったりしました。そして「子宮を切り取ってやる」と言い、刀で切りつけました。私は血だらけになって気を失ってしまいました。(P.95~96)

 ○私と同じ工場からひっぱられて来た「エイコ」と呼ばれていた金徳女(キムトンニョ)は、乳首を噛み切られ、破傷風になって死んでしまいました。

 ○慰安所の建物には地下室がありましたが、日本軍人は死んだ「慰安婦」を山に葬るのではなく、地下室に投げ込んでおいたのです。そして、軍人に反抗したり、逃亡しようとする女性たちを、その地下室に閉じ込めました。(P.96)

<助ける朝鮮人>

 ○どれほど走ったのか分かりませんが、途中で、朝鮮語の看板が掛けられた建物を見つけたのです。それは、朝鮮人が経営する病院でした。私は夢中で病院の主人に助けを求めました。医者の妻は私をかわいそうに思い、家の中に入れてご飯を食べさせてくれました。(P.98)

※ページ数は「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」のもの


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
2002.10 続・平壌からの告発 伊藤孝司 風媒社
 私の故郷は、南朝鮮の忠清南道天安です。兄が一人、姉二人に妹一人の五人兄弟でした。私が八歳の時に父は亡くなり、母が地主の家で働きました。炊事をしたり、衣類を縫ったりという仕事です。もちろん、子供たちは学校には行けませんでした。
 私は全羅南道順天の日本人の家で子守りとして働いた後、一六歳の時に全羅南道光州の製糸工場へ働きに行きました。ここは日本人の経営でした。カイコから糸を取るのが仕事で、お腹が空いている時にマユの中のサナギを食べたこともあります。
 ここで一年間働いた時、呼ばれて事務所に行くと刑事らしい日本人の男がいました。私が刑事だと思っている理由は、後に列車の中で拳銃を持っているのを見たからです。
 「パンや飴を作る『京城』(現在のソウル)の食料工場で働くと、お腹がいっぱりになるので行くように」と言われたんです。私を含めた娘たちの名簿が、会社から刑事に渡されました。
 ソウルまで汽車で行き、旅館に泊まりました。その翌日になると、「牡丹江に行こう」と刑事が言い出したんです。「なぜ中国に行くのか?私は行かない!」と抗議したところ、「朝鮮は植民地なので、どっちみちお前たちは死ぬのだ!」と言われ、列車に無理やり乗せられました。
 そして翌々日の朝、牡丹江に着きました。駅の待合室に二〇分ほどいると、幌のついた車のトラックがやってきました。降りてきた憲兵に、「長谷川さん、二〇人連れて来ました」と刑事は言っていました。そのトラックに乗せられ、「満州」(中国東北地方)とソ連の国境地帯にある穆稜という所に着きました。
 私たちは、憲兵隊が駐屯している三階建ての建物に連れて行かれ、畳の部屋に入れられて鍵をかけられました。出されたご飯も食べず、その夜はみんなで泣いていたんです。
 翌日、医者と看護婦が私たちを診察しました。今考えれば、病気を兵隊にうつさないためです。連れて来られた女性の一人は、顔がまっ黄色でした。そのため地下室に入れられてしまい、後に亡くなりました。
 大きな建物の中は仕切られていて、一~二〇番までの部屋があり、私は「一番」の部屋をあてがわれました。中はタタミ二畳ほどの二人がようやく横になれるくらいの広さでした。大切な髪を短く切られ、来ていたチマ・チョゴリを浴衣に着替えさせられたんです。このチマ・チョゴリは母が作ってくれたものなので、くやしくて泣きました。日本人に「レイコ」という名前をつけられました。
 部屋にいると、憲兵の将校が入ってきました。彼は刀を壁に立てかけてから服を脱ぎ、私にのしかかりました。その当時の私は何も知らない娘でしたから、その日本兵を虎よりも恐ろしく思いました。私は泣き叫んで、将校の手を噛みました。すると血を流した将校は、麻酔の注射を私にしました。一分も経たずに気を失った私は、将校に犯されたんです。~(中略)~
 一日に二〇~三〇人もの相手をさせられました。抵抗した私に、「子宮を取ってしまうぞ!」と言って小さなナイフで切りつけてきた将校もいました。刀で刺された太股の傷痕は今も残っています。むこうずねは刀でえぐり取られました。私の体は刀傷だらけです。
 「言うことは聞かない」と言って、兵隊が私の腕をねじり上げたことがあります。骨折して腕が動かなくなってしまい、二ヵ月間ぐらいギブスをして生活しました。髪をつかんで引きずられたこともありました。痛いというよりは悔しい思いだけでした。
 こうしたことをされたのは、私だけではありません。私と一緒に連行された李春心(※管理人:「証言 未来への記憶」では金徳女となっている)という娘がいました。日本兵は彼女を犯そうとしましたが、彼女は泣き叫びながら激しく反抗しました。すると将校は、彼女の乳首を歯で噛み切ってしまったんです。そこから血が吹き出し、彼女は気絶しました。彼女はその傷で破傷風にかかり、死んでしまったんです。子宮を蹴られて、二日後に死んだ女性もいます
 「言うことを聞かないと地下室へ入れるぞ!」と日本兵は言い、私たちをそこへ連れて行きました。その地下室には、ここで殺された娘たちの死体が捨てられていました。腐った匂いが充満し、少しでもそれを嗅げば頭が痛くなるほどひどい所でした。
 逃げようとして捕まった女性がいました。私たちが見ている前で日本兵は、皮のベルトで彼女を叩いたんです。「私たちは逃げないから、その女性をこれ以上叩かないで!」と頼みました。ですが、その女性は一週間後に亡くなり、その地下室へ捨てられたんです。このようにして殺された女性は一〇人ほどになります。
 「これでは自分も殺される」と思った私は逃げる決意をしました。一一月頃のある日曜日。歩哨が居眠りをしている隙に、小さな門から一人で逃げ出したんです。朝の四時でした。
 八キロメートルほど行った所に「朝鮮病院」と書かれた建物がありました。私は朝鮮語の文字を少しは知っていました。それは朝鮮人が経営する個人病院でした。「助けてください。私は『慰安婦』にされていました」と言うと、医者の妻がごはんを炊き始めたんです。「食事どころではない」と思った私は食べずにいました。すると、「何とか匿ってあげるので、この病院にいなさい」と言ってくれたんです。金という名の医者は咸鏡南道出身で、三五歳くらいでした。(P.75~80)

(※2007.7.17 追加) 
2006.6 証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
 一九三九年の秋のある日、突然、私と数人の女工が事務室に呼ばれたのです。そこは一〇人余りの女工たちが集められていましたが、みな体も丈夫で顔立ちもきれいな女ばかりでした。事務室には日本人の監督と警察官らしい日本人がいました。私たちが入ると、監督は「明日、京城(ソウル)の食品工場に行くことになった。そこに行けばいっぱい食べられ、きれいな服も着られる」と言い、「旅じたくをしろ」と命じました。~(中略)~翌日、私たちは監督と一緒にいた日本人の警察官に連れられて光州駅に行きました。(P.92~93)

 翌々日、牡丹江に着きました。そこで、私たちを引率して来た警察官は出迎えに来た憲兵将校に「長谷川さん、二〇人を連れて来ました」と報告し、名簿のようなものを渡しました。私たちはまたトラックに乗せられ、日本兵の監視の下で牡丹江から一八〇キロほど離れた穆稜という所に連れて行かれました。(P.94)
2007.4.9 朝鮮新報 「『官権、軍権動員した組織的犯罪』 朝鮮在住被害者 謝罪と補償求める 」 ***** ****
 同通信によると、咸鏡南道端川市新洞里在住の郭金女さんは、16歳だった1939年に日本人にだまされて14人の娘と共に日本軍隊の監視のもと、中国の牡丹江から28キロほど離れたソ満国境地帯の穆稜という所に連れて行かれて1年半も兵営で恥辱の日本軍「慰安婦」生活を強要されたことを告発した。

<以下、管理人>
同記事では、「14人の娘」と共に慰安所に連行されたことになっているが、上記資料の「証言 未来への記憶」では20人
また、慰安婦生活は1年半となっているが、「証言 未来への記憶」では2年となっている。


(※2007.5.16追加)




金英淑(キム・ヨンスク)

【生い立ち・慰安婦となった経緯等】

1927.1.24、平安北道秦川郡(テチョングン)生まれ。10歳の時、地主の妾の家で奉公をする。1940年、13歳の時、日本人の巡査に「お金が稼げる仕事がある」とだまされ、中国の瀋陽にある憲兵隊専用の慰安所に入れられる。五年間後の1945年3月頃、慰安所を脱出してモンゴルに逃れる。

朝鮮民主主義人民共和国在住。


【定型的な証言内容】

<公権力・日本軍による連行>

 ○主人の「妾」の所に時々訪ねて来ていた日本人巡査が、主人と部屋の中で長時間何かをひそひそと話していました。(P.118)

 ○私を連れて来た巡査は、しばらくたってから日本軍の将校に私を引渡しました。そして帰ろうとするのです。私は急に不安になって一緒に帰ると泣きすがったのですが、巡査は叱りながら私を押し倒しました。それでも私は巡査について行こうとしたのです。それで、隣に立っていた日本兵らが軍犬を突きつけて私を脅し、ついて行くのを阻みました。(P.119)

<慰安婦の日本名>

 
○おまえはこれから「オカダ」だと言いました。(P.118)
 → 同女の証言では、同女につけられた「オカダ」以外に慰安婦の日本名はでてきません。普通、名前だけをつけることはあっても、苗字のみをつけることなどないでしょう。

<非道な日本兵>

 ○彼の性欲を満たすためには私はあまりに幼かったのです。しばらくしてそれに気がついた「ナカムラ」は刀を取り出し、私の陰部に刀を差し込みました。その瞬間、私は「ぎゃあ!」と悲鳴を上げて気を失ってしまいました。(P.120)

 ○するとその軍人はかんかんに怒り、私の髪を掴んで部屋の床に打ちつけ、靴で全身を蹴り、私の足を踏みつけました。全身にあざができて、私は気を失ってしまいました。そのとき、奴の乱暴で足の骨が折れたのですが、まともな治療も受けられなかったため元に戻らず、結局、障害者になってしまいました。(P.120~121)

 ○日本兵は、私が反抗すると「朝鮮人のくせに帝国の将校を冒涜するのか」とどなり、「日本軍人を慰安できない者は殺してもいい。私の言うことを聞かないとおまえの肝を取り出して食べてしまうぞ」と脅かしました。(P.121)

 ○野蛮な日本軍人は「慰安婦」たちが苦しむ姿を見て快楽を覚えたのか、「慰安婦」たちを裸にしては刀で刺したり、噛みついたり、火のついたたばこを押し付けるなど、さまざまな残虐なことをしました。(P.121)

 ○日本兵は「慰安婦」が妊娠すると、容赦なく殺しました。そのような女性の中に、ボンニョという女性がいました。ある日、日本兵は「慰安婦」たちをみな庭に集合させ、みんなの見ている前でボンニョを木に吊るし、軍刀で彼女の腹を切り裂いたのです。そして、出てきた腸や胎児をめった切りにして、私たちの首に掛けたのです。(P.122)

 ○そうして、五年の年月が過ぎました。非人間的な虐待や病魔、栄養失調のため、初めの頃は二〇人余りいた「慰安婦」は、五年のあいだに大勢亡くなり、残ったのは数人だけでした。(P.122)

<助ける朝鮮人>

 ○当時、部隊には数人の朝鮮の青年たちが軍属として駆り出されて来ていましたが、その中にキム・サングクという青年がいました。~(中略)~背が高かった彼は塀を越えるのを手伝ってくれ、私は慰安所から抜け出すことができたのです。(P.123)

※ページ数は「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」のもの


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
2001.7 平壌からの告発 伊藤孝司 風媒社
 今は平安南道温泉郡で暮らす金英淑さんは、平安北道泰川郡で生まれた。あまりにも生活は貧しく、母親は家族を捨てて逃げ出した。父親は日本人が経営する金鉱山で働いていたが、日本人の現場監督からひどい暴行を受けて死亡。金さんと弟の二人が残された。その時一〇歳だった金さんは、地主の三番目の妾の家で働くことになった。「水瓶を割ってしまった時など激しい叱責を受けました。夜明けから夜空に星が輝くまで私の涙は乾くことがなかったんです」。
 こうした苦しい生活を続けていた時に、心ひかれる話がきた。
 「一三歳の時、やって来た日本人の巡査『ここでそんな苦労をせず、お金の稼げる所へ行こう。おいしい物を食べ、きれいな服も着られるよ』と言われたんです。
 この巡査に連れて行かれたのは瀋陽です。そこには日本兵がいっぱいいて、巡査は私を『ナカムラ』という名の将校に引き渡しました。私はだまされたんです」
 「慰安所」が谷間に建っていて、高さ五メートルほどの塀で囲われていた。建物は木造平屋で、三〇ほどの部屋が通路の両側に並んでいるという構造だった。途切れることなく金さんの話は続く。
 「その日の夜に私の部屋へやって来た『ナカムラ』は、私を押し倒して覆いかぶさってきました。だけど私が若すぎて欲望を満たせなかったため、私の性器をナイフで切り開いたんです。私は気を失いました」。「
 将校に殺されそうになったこともある。「カネムラ」という将校に従わなかった金さんは、「言うことを聞かないと肝を取り出して食べるぞ」と脅された。その言葉にひるまず将校を力一杯に突き飛ばしたところ、日本刀で胸を切りつけられたのだ。「傷を見てください!」と金さんは私に言うやいなや、チマチョゴリを脱いで上半身裸になった。
 胸から腹にかけて、縦に二〇センチほどの鮮明な傷痕がある。かなり深い傷だったようだ。金さんは、全身に残る他の傷も次々と説明する。肩と尻には短刀で突き刺されたいくつもの傷痕、右足の膝には兵隊に軍靴で何度も蹴られて骨が折れた痕が残っている。
 「一日に二〇~三〇人の兵隊の相手をさせられました。妊娠したために腹を切り裂かれたり軍犬にかまれたりして、ここの女性たちが次々と殺されて行くようすを見ました」と金さんは叫ぶように語った。~(中略)~
 この「慰安所」には、金さんが連行されて行った時には二五人の女性がいた。その中には中国人と白人が一人ずついて、他は朝鮮人だった。その鼻が高い白人とは言葉が通じなかった。この場所が中国東北地方ということを考えるとロシア人だろう。
 部隊の中には何人からの朝鮮人軍属がいた。一九四五年三月、金さんはその中の金・サングクさんと死を覚悟してここを脱出。その時点で、「慰安所」で生き残っていた女性はわずか五人だった。(P.48~50)

(※2007.7.17 追加)
2006.6 証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
 このような中で三年が過ぎ、十三歳になった一九四〇年のことです。主人の「妾」の所に時々訪ねて来ていた日本人巡査が、主人と部屋の中で長時間何かをひそひそと話していました。しばらくたって、私は主人に呼ばれました。部屋に入ると、巡査は私にやさしく話しかけ、「きれいな服を着て、お金をたくさん稼げ所に行こう」と言うのでした。当時、私は世間知らずの幼い子どもであり、つらい仕事で苦労していたので、下働きの生活から抜け出したいという気持ちから「行く」と答えました。(P.118)

 私を連れて来た巡査は、しばらくたってから日本軍の将校に私を引渡しました。~(中略)~巡査から私を渡された将校は、私を木造の長屋に連れて行きました。長屋の周りを高い塀が取り囲んでいて、そのうえ、鉄条網が張り巡らされていました。ところどころに軍犬を従えた歩哨が立っていました。(P.119)
2007.5.14 朝鮮新報 「『慰安婦』問題 朝鮮国内で噴出する反日感情」 ***** ****
日本軍「慰安婦」被害者のキム・ヨンスクさん(81、平安南道在住)は4月30日、祖国を訪れた在日本朝鮮青年同盟代表団と対面し、13歳の時に日本の警察官の甘言に弄されて中国に渡り、「性奴隷」生活を強要された自身の体験を語った。キムさんは、青年らに「慰安婦」問題など過去の清算から逃れようとする日本当局の動きに立ち向かい完全解決のその日までたたかい続けるよう切実に訴えた。

(※2007.5.16追加)


◆◆◆ ジャン・ラフ・オハーン(Jan Ruff O'Herne) ◆◆◆


※「ジャンヌ・オヘルネ」と表記されている場合もあり


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

オランダ人。オーストラリア在住。
1923年に当時のオランダ領東インド(現インドネシア、ジャワ島)に生まれる。1942年3月、19歳の時に日本軍にアンバラワの収容所に入れられ、2年後の1944年2月にスマランで慰安婦生活を強いられる。3ヶ月後に解放されてボゴールの収容所に入れられ、次に送られたクラマットの収容所で終戦を迎える。

2002年6月に、戦時下における人権や女性の権利を保障するために行った国際的な貢献を称えられてオーストラリア2等勲章を授与される。
2007.2.15米国下院外務委員会アジア太平洋環境小委の「慰安婦聴聞会」にて李容洙、金君子らと共に証言を行う。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本軍の収容所からトラックにて慰安所に移される。


【考察】

同女の証言は、インドネシアで行われた「白馬(シロウマ)事件(スマラン事件とも言う)」の話に間違いありません。
「白馬事件」とは、スマラン市内にあった日本軍の幹部候補生隊が17才以上のオランダ人女性を収容所から連行して、スマラン市内に4つの慰安所を開設したものです。開設の2ヶ月後、日本から抑留者の視察にやってきた大佐がこの事実を知ってジャカルタの第一六軍司令部に報告、ただちに慰安所は閉鎖されました。また、この「白馬事件」は、戦後の1948年に女性たちの告発によりBC級裁判の法廷で裁かれ、死刑を含む11名の有罪者を出しており(有罪者の中には軍人の他に慰安所を経営していた日本人業者も含まれていた)、法廷では慰安婦にされた35名のうち25名が強制だったと認定されました。

この事件は、裁判後、長い間、一般には知られていなかったのですが、1992年7月に朝日新聞がオランダに残っているこの戦争犯罪法廷関係の記録を基に報道したことにより、日本でも広く知られるようになりました。

なお、1994年のオランダ政府報告書では、オランダ領インドネシア各地の慰安所で働いていた200~300人の白人女性のうち少なくとも65人を強制売春の犠牲者だと判定しています。(逆に言えば、高額の報酬で慰安婦になることに同意した者もいたということ) 。


下記資料を見ると、2つの中央日報の記事は、意図的な歪曲と捏造に満ち満ちています。オハーンさん本人が書いた書籍と比べてみるとそれは、あまりにも明白です。

《2007.2.9》中央日報
「2年後21歳のヤーンさんを含むオランダ人女性100人をジャカルタ南ボゴールに連行した。そこで彼女らは日本軍の性の奴隷になるという話を聞いて驚愕した。」
 
 → オハーンさんが慰安婦を強要されたのはスマランでの3ヶ月のみで、それ以外の、ボゴールを含む収容所にいた時に強姦や性交渉を強要されたという証言はありません。むしろ、ボゴールでは強姦未遂事件を起こした日本人衛兵が、収容された人達の前で拳銃自殺を強要されています。また、ボゴールに来た女性100人は慰安所から解放されきた人達です。
「スマラン」を出すと、既にBC級裁判で裁かれた内容だと分かってしまう為、意図的にボゴールに変更したのでしょうか。それとも、単なる勘違いでしょうか。

《2007.2.16》中央日報
「19歳だった42年、日本軍がインドネシアを占領した後、収容所に入れられた。オハーンさんは「その日の夜、日本式の花の名前が入った名前を付けられ、髪が薄い日本軍将校が待つ部屋に連れて行かれた。彼は刀を抜いて"殺す”と脅した後、服を破り、最も残忍に私を強姦した。その夜は何度強姦されたか分からない」と身震いしながら話した。オハーンさんは「一緒に連行されたオランダ人少女らと3年半、毎日こうした蛮行にあい、飢えて苦しみ、獣のような生活をした」と語った。」

→ 記事では、「収容所に入れられた」の後にオハーンさんの「その日の夜」という言葉を持ってきて、「収容所に入れられた夜に強姦された」と誤読するように仕組まれています。実際には、収容所に入れられた2年後に慰安所に入れられたのであって、それまで強姦はなされていません。
さらに、記事では、その慰安婦生活が「3年半」続いたかのように錯覚させる文章になっています。3年半はあくまで収容所生活も含めた期間であって、慰安所生活は3ヶ月のみです。

意図的に誤読するように仕組まれた卑怯な歪曲文章と言わざるを得ません。


【信憑性】

白馬事件を報道したのが朝日新聞で、裁判がBC級裁判、そして、朝日新聞の報道(1992.7)と同女の証言開始時期(1992年)が一致していることを考えると、若干怪しさを感じなくもないですが、現段階では信憑性ありとしたいと思います。

なお、同女の証言内容は、既にBC級裁判で死刑1名、懲役刑10名の判決が下され裁かれているものであり、また、同女の証言により国際社会が新たに知った事実というわけでもありません(忘れられていましたが)。
少なくとも、韓国の元・従軍慰安婦達の証言と同列に扱うべきではないでしょう。

-------------------以下、2007.6.17追加-------------------
<ご参考>
「慰安婦と戦場の性」(秦郁彦・新潮選書)には、上記BC級裁判で死刑となった人物の手記が掲載されていますので、参考として引用します。

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 さて、この白馬事件の実態を知るには被告側の言い分も聞いておく必要があろうが、死刑になった岡田慶治少佐は「青壮日記」と題した獄中手記を残している。日中戦争期の戦場体験から書き起こした半自伝だが、事件について次のように書いている。

 将校クラブの婦人たちをよく可愛がってやったつもり……その彼女たちが告訴している。それも嘘八百を並べて……時勢が変わったので我々に協力していたことになっては彼女達の立場がないのかと想像……起訴状を見ると首謀者にされている……「そうか飼犬に手を咬まれたのだ。もう何も言うことはない」と覚悟した……敵の銃口の前に立って、日本軍人の死に態を見せてやることではなかろうか。

 開き直ったとも思えそうな論旨だが、それなりの情状は存在したようである。
 岡田手記によると、発端は、州庁で希望者を募って慰安所を作ろうとする構想を聞いた能崎少将が、内務官僚出身の宮野スマラン州長官に話をつけ、上官の池田大佐、大久保大佐から命じられて実施面を担当させられたのだという。
 個々の選定にはタッチせず、将校クラブが開館する前々夜に集まった女性と初顔合わせして色々な注文を聞き入れてやったので「(彼女たちは)とても朗らかで若い将校と心中でもしてくれなければいいがと、心配しているくらいです」と視察に来た参謀へ報告したという。(P.220)
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なお、この岡田慶治少佐が関わった慰安所は、ジャン・ラフ・オハーンが入れられた慰安所とは別のようです。
-------------------以上、2007.6.17追加-------------------


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.5 アジアの声 第7集
世界に問われる日本の戦後処理①
「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録
国際公聴会実行委員会 東方出版
 私の名前はジャンヌ・オヘルネです。オランダ人です。一九四二年、私が一九歳の時、オランダ領東インドを侵略した日本軍によってジャワにある捕虜収容所に入れられました。第二次世界大戦中、三年半にわたって日本の捕虜収容所で生活させられました。~(中略)~
 私は最初、アンバラワ収容所に、母と二人の妹といっしょに入れられました。約二年間そこにいました。一九四四年二月のことでした。収容所の重労働から戻る途中でした。突然収容所が騒がしくなりました。日本の軍人たちが大勢トラックで到着したのです。最初、点呼のために呼び出されるのだと思いました。しかしそうではなく、「一七歳以上の独身女性は中庭に整列しろ」という命令が出されました。私たちはこの命令に不吉な感じを受け、何か変だと疑わしい気持ちになりました。「あなたもそうよ、ジャンヌ」、母が言いました。その声は震え、目は恐怖に満ちていました。
 収容所全体が恐怖ですっぽり包まれ、中には隠れようとする少女もいました。私たちは長い列に並ばされ、何人もの軍人が列に向かって歩いてくるのを見て、怖くて震えました。軍人たちの顔つきに不吉な予感がしました。上から下までじろじろ見て、お互いに笑ったり、私たちの誰かを指さしたりしていました。若い私たちはおびえ、うなだれ、顔を上げる勇気もなくそこに立っていました。日本人は列にそってゆっくり歩きながら、時々、私たちの顔を見るため無理やりあごをあげさせました。
 彼らは歩きながら、にやにや笑ったり、指をさしたり、私たちの体に触ったりしました。何か話し合った後、半分が帰ってよいと言われました。私は長い列に残されたままでした。恐ろしさで体全体が震えていました。そこからまた誰にするか選び、最後に十人の少女が前に出ろと言われました。その他の少女たちは心配する母親の元に帰ってゆきました。私は残った十人の内の一人でした。
 女性たちの泣き声や叫び声が聞こえてきました。勇敢に日本人にはむかい、私たちを取り戻そうとしているのです。
通訳を通して、所持品を一つのバッグに詰めて、ただちに正門に集まるよう言われました。そこには私たちを連れて行くトラックが待っていました。詳しいことは何も聞かされませんでした。少女たちと母親たち、収容所にいる全ての人が力の限り抵抗しました。あたりは悲鳴や叫び声、泣き声に包まれました。
 しかしすべては無駄でした。凶暴な敵の前に押え付けられ、力なく従うしかない私たちは、まるで屠殺場に連れて行かれる羊のようでした。わずかな荷物を詰めている間も監視の目は続きました。私は聖書、祈祷書、十字架を鞄に入れました。その時、私にとってこれらが一番大事に思えたからです。私を守って強くしてくれる武器のように思えました。
 看守に付き添われ、私たちは正門へ行きました。そこでそれぞれ母親や家族に別れを告げました。母と私は言葉もなく、ただお互いの目を見て抱き合いました。その瞬間、二人は互いの腕に抱かれたまま、まるで死んでしまっているように感じられました。
 みんな泣きながら無理やりトラックに入れられました。六人の少女が、新たに私たちのみじめなグループに加えられました。結局一六人の少女が、不本意にもアンバラワ収容所から連れてゆかれたのです。
 私たち一六人は、恐怖におののく動物のように、かたまってうずくまりました。どこに連れて行かれるのか想像もつきません。
 しばらくして、セマランへ通じる幹線道路を走っていることが分かりました。市街地近く来ると、セマラン郊外の丘陵地帯の道に入りました。トラックは一軒の大きな家の前で止まりました。七人が降りろと言われました。私もその一人でした。連れてこられた家がどんな目的で使われているのか、その後すぐに分かりました。一人ひとりに部屋があてがわれました。その夜、私も他の少女たちも眠ることができなかったので、みんなで大きなベッドに集まり、恐怖の中で抱き合って、祈ることで勇気を奮い立たせようとしました。
 次の日、多くの日本人が家にやって来て、私たちは居間に呼ばれました。日本人の性の慰みのためにここにいるのだと、彼らは説明しました。つまり売春宿に連れてこられたのです。いつでも彼らの言う通りに従わなければならず、家から出ることは許されませんでした。事実、家は監視されていて、逃げようとしても無駄でした。私たちがこの家にいる目的はただ一つ、日本人のセックスの相手をすることです。強制売春の奴隷にされたのです。(P.80~83)

(※2007.7.27 追加)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 私はオランダ人です。私が19歳だった1942年、オランダ領東インドを侵略した日本軍によって、ジャワにある捕虜収容所に入れられました。収容所には3年半いたのです。最初、アンバラワ収容所にお母さんと2人の妹と一緒に入れられ、ここに約2年間いました。
 1944年2月のことでした。大勢の日本の軍人たちがトラックで到着したので、収容所が騒がしくなりました。「点呼のために呼び出されるのだ」と思いましたがそうではなく、「17歳以上の独身女性は中庭に整列しろ」という命令が出されました。
 収容所全体が恐怖で包まれ、隠れようとする少女もいました。並ばされた私たちは、何人もの軍人が列に向かって歩いて来るのを見て怖くて震えました。~(中略)~
 少女たちと母親たち、収容所にいるすべての人が力の限り抵抗しました。あたりは悲鳴や叫び声・泣き声に包まれました。しかし、敵の前には従うしかありませんでした。私は聖書・祈祷書・十字架を鞄に入れました。その時、これらが私を守ってくれる武器のように思えたからです。6人の少女が加えられ、結局16人が無理やりトラックに入れられました。
 トラックは、セマラン郊外の丘陵地帯の道に入り、大きな家の前に止まりました。私を含む7人が降りろと言われました。そして、1人ひとりに部屋があてがわれました。その夜、私たちは恐怖の中で抱き合って、祈ることで勇気を奮い立たせようとしました。
 次の日、やって来た日本人が「日本人の性の慰みのためにここにいるのだ」と私たちに説明しました。私たちは強制売春の奴隷にされたのです。私は恐怖で全身が震え、足元が崩れ落ちていくように感じられました。「こんな人権をまったく無視したことは絶対許されない。それなら死んだほうがました」と大声で抗議しました。日本人は笑いながら「もし命令に従わなければ家族が面倒なことに巻き込まれる」と脅したのです。(P.141~142)

(※2007.4.24追加)
1999.3 オランダ人「慰安婦」ジャンの物語 ジャン・ラフ・オハーン 木犀社
1942年3月1日、日本軍がジャワに侵攻してきたとき、わたしは19歳でした。~(中略)~荷造りをして、収容所へ向かう準備をせよとのことでした。(P.50~52)
あれは1944年2月のことです。~(中略)~わたしたちのみじめな一団に、別の六人が加わりました。合計十六人の娘が意に反してアンバラワの収容所から無理やり連れだされたのです。(P.79~87)
つぎの日、日本人将校が館にやってきて、わたしたちは全員居間に呼ばれました。~(中略)~彼らがわたしたちにわからせたのはこうです。-おまえたちをこの館に置く目的はただひとつ、日本人将校の性の楽しみのためだ。日本軍人がおまえたちとセックスできるようにだ。おまえたちはつねにおとなしくいうことをきくべし。館を、要するに娼館を出ることはまかりならぬ。館は四六時中見張られているので、逃げようとしても無駄だ-(P.95)
どれほどのあいだ、わたしたちはスマランの娼館にいたのでしょう?正確にはおぼえていませんが、少なくとも三ヵ月はいました。~(中略)~わたしたちのもとに位の高い軍人がおおぜいやってきて、事務室では、怒号の飛びかう言い争いが続きました。突然、わたしたちは荷物をまとめて退去するよう命じられました。(P.125~127)
2002.6.12 人民網「オランダ人「慰安婦」が豪州AOを受勲」 ***** ****
1942年19歳の時に日本軍に連行され、「慰安婦」として売春を強いられた。
2007.2.9 中央日報「日本の従軍慰安婦に連行されたオランダ人女性が証人に」 ***** ****
日本軍は4ヵ月後(※1941年12月の4ヶ月後(管理人))、ジャワを占領し、ヤーンさんの家族を含むオランダ人たちを収容所に入れた。そして、2年後21歳のヤーンさんを含むオランダ人女性100人をジャカルタ南ボゴールに連行した。そこで彼女らは日本軍の性の奴隷になるという話を聞いて驚愕した。

ヤーンさんは2001年、オーストラリアABC放送とのインタビューで「あのとき、私たちが『ジュネーブ協定違反』と叫ぶと日本軍はにやにや笑った」と回想した。ヤーンさんらはそのとき、日本式の名前を1人ずつ与えられた。ヤーンさんには何かの花の名前が付けられたが、記憶から消してしまった。彼女は過去を隠して暮らした時代、花が嫌いだった。慰安婦生活を思い浮かべるからだ。英語が分からなかった2人の娘に、誕生日のプレゼントとして花をくれると言われても素直に笑えなかった。ヤーンさんは慰安所に入ってから少し立って髪の毛をすべて刈ってしまった。「はげ頭のように見えれば日本軍が嫌やがるだろう」と思ったからだ。しかし日本軍はそんな姿にもっと好奇心を感じたようだと彼女はABC放送で明らかにした。それとともに「あのときのあの恐怖を絶対忘れることができない」と話した。


(※管理人注)「私たちが『ジュネーブ協定違反』と叫ぶと日本軍はにやにや笑った」とあるが、「ジュネーブ条約」の誤訳であろう。

○ジュネーブ協定・・・第一次インドシナ戦争を終結させるための終戦協定。1954年に締結。
○ジュネーブ条約・・・戦時国際法としての傷病者及び捕虜の待遇改善のための国際条約。1864年締結。)
2007.2.16 中央日報「米議会で初の‘慰安婦聴聞会’…韓国・オランダ人女性3人が証言」 ***** ****
19歳だった42年、日本軍がインドネシアを占領した後、収容所に入れられた。オハーンさんは「その日の夜、日本式の花の名前が入った名前を付けられ、髪が薄い日本軍将校が待つ部屋に連れて行かれた。彼は刀を抜いて"殺す”と脅した後、服を破り、最も残忍に私を強姦した。その夜は何度強姦されたか分からない」と身震いしながら話した。オハーンさんは「一緒に連行されたオランダ人少女らと3年半、毎日こうした蛮行にあい、飢えて苦しみ、獣のような生活をした」と語った。
2007.3.10 産経新聞「オランダ女性の事例 末端将兵の行為 厳罰ずみ」 ***** ****
 米国議会の一部やニューヨーク・タイムズが「慰安婦」非難で日本軍の強制徴用の最大例として強調するオランダ人女性のケースは実際には日本軍上層部の方針に逆らった末端の将兵が勝手に連行し、その違法行為が発覚してすぐ日本軍自身により停止されていた事実が明らかとなった。しかもこの違法の性的徴用の責任者たちは戦後の軍事裁判で死刑を含む厳刑に処されており、今回の日本非難はすでに責任のとられた案件の蒸し返しとなっている。 

 8日付のニューヨーク・タイムズは日本の慰安婦問題を安倍晋三首相がそのすべてを否定したかのような表現でまた報じたが、そのなかでオランダ人の元慰安婦だったというジャン・ラフ・オハーンさん(84)の「インドネシアの抑留所にいた1944年、日本軍の将校に連行され、慰安所で性行為を強要された」という証言をとくに強調した。同紙はオハーンさんの2月15日の米下院外交委員会公聴会での証言を引用しており、「日本政府からの公式の謝罪が最重要」と述べたとして、日本軍が組織的に総数20万人もの女性を強制徴用したという糾弾の最大の根拠としている。

 ところが慰安婦問題に詳しい日米関係筋などによると、オハーンさんは戦後すぐにオランダ当局がインドネシアで開いた軍法会議で裁いた「スマラン慰安所事件」の有力証人で、その証言などにより、上層部の方針に違反してオランダ女性を連行して、慰安所に入れた日本軍の将校と軍属計11人が48年3月に有罪を宣告され、死刑や懲役20年という厳罰を受けた。オハーンさんは同公聴会で日本側が責任をとることを求めたが、責任者は60年近く前にすでに罰せられたわけだ。

 日本政府には批判的な立場から慰安婦問題を研究した吉見義明氏も著書「従軍慰安婦」のなかでオランダ政府の報告書などを根拠にスマラン慰安所事件の詳細を記述している。同記述では、オハーンさんらオランダ女性を連行したのはジャワの日本軍の南方軍幹部候補生隊の一部将校で、
(1)軍司令部は慰安所では自由意思の者だけ雇うようはっきり指示していたが、同将校たちはその指示を無視した
(2)連行された女性の父のオランダ人が日本軍上層部に強制的な連行と売春の事実を報告したところ、すぐにその訴えが認められ、現地の第16軍司令部はスマラン慰安所を即時、閉鎖させた
(3)同慰安所が存在したのは2カ月だった
(4)主犯格とされた将校は戦後、日本に帰っていたが、オランダ側の追及を知り、軍法会議の終了前に自殺した?などという点が明記されている。

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(以下、管理人)

上記記事によると、同女は戦後の軍法会議の有力な証人になったことになっている。しかし、情報の出所が不明確であり、裏取りもせずに信じるには躊躇する内容である。

同女の自伝的書籍である「オランダ人『慰安婦』ジャンの物語」(ジャン・ラフ・オハーン、木犀社、1999.3)には、以下の通りの記述がある。

「トムは、日本のこの戦争犯罪を報告することが肝心だと考え、わたしをイギリス軍警察本部にある軍当局の上層部へ連れていきました。わたしは当局に自分の話を語りましたが、それっきり何も聞かされることはありませんでした」(P.155~156)

この同女の話が該当の軍法会議の証拠として使用されたか否かは不明であるが、少なくとも、積極的に法廷に立って証言したわけではないようである。(あくまで同女の証言を信じるという前提ではあるが)


ちなみに、Wikipediaにも以下の通り記載されており、同女が軍事法廷で証言したことになっている。

「戦後スマラン事件の軍事裁判で被害者の一人として証人と証言し彼女が慰安婦にされた事は軍事法廷が認定している(従軍慰安婦 吉見義明 岩波書店 1995) 」

しかし、根拠として提示されている書籍を確認してみたところ、同女が軍事裁判で証言したとの記載はない。
ただし、以下の記述がある。

「オフェルネとプローグの証言は事件後ほぼ五〇年たってからのものである。この証言内容は、いくつかのくいちがいをのぞけば、敗戦直後になされた裁判での証言とおどろくほど共通している。」(P184)

恐らく、「オフェルネ(※同女のこと)の証言」と別人がした「裁判での証言」の双方を同女の証言であると誤読したのではないかと思われる。


(※2007.8.15 追加)


◆◆◆ 尹頭理(ユン・ドウリ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1928年釜山生まれ。建築業を営んでいた父が亡くなった後、家運が傾く。1942年、15歳の時、ゴム工場に働きに行くがその後、軍服工場に移った。1943年、その工場の日本人に下心を持たれたので職場を変えることになり、手袋工場を見に行った帰りに釜山鎮(プサンヂン)駅の前で巡査に呼び止められ、そのまま釜山影島(ヨンド)の第一慰安所に連行されて慰安婦を強いられる。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

巡査に呼び止められて警察署に連れて行かれ、その夜、軍人二人に軍用トラックに乗せられ倉庫のような部屋に移される。翌日、3人の軍人に警備船のような船に乗せられ日本に行く。日本で「君が代」を歌い、「皇国臣民の誓詞」を唱えて、班分けした後、再び、船で釜山に向かい慰安所に入れられる。慰安所の経営者は日本人で、受付は日本人軍属が行い、軍人が3、4人見張りに立っていた。


【考察】

慰安所は戦地での兵士の強姦等を防止する為に設置されていたもので、韓国には慰安所などないはずです。しかも、(2007.6.27 元兵士の証言で朝鮮に慰安所があったとの証言があるようなので削除)

証言では「その一帯には雲雀町という日本人の遊郭街がありましたが、影島橋を渡り左に五百メートルほど離れた場所に位置していました。~(中略)~山下という日本人軍属が玄関に座っていて、軍人たちが来れば空いた部屋に入れと部屋を決めるのでした。~(中略)~また敷地内には交代で見張りに立つ軍人が三、四人いました。(P.306)」とあります。わざわざ遊郭街の近くに慰安所を設置し、受付に軍属1人と見張り役3、4人の軍人がいたことになっています。
もし、仮に、そこに慰安所があったとしても、わざわざ4、5人の人員を貼り付けていたとは思えません。そこまで日本軍も暇ではなかったでしょう。

しかも、同女は、慰安所に入れられる前、一旦、船で釜山から日本に連行されています。そこでやったことは、「君が代」を歌い「皇国臣民の誓詞」を唱えて班分けをしただけ。そして、再び船で釜山に戻ってから慰安所に入れられています。非効率的な行動です。また、釜山⇔日本間は「警備船のような船」を使用して五十人もの女性が乗っていたと証言しています。当時の船事情には詳しくないですが、五十人も乗れるような警備船のような船があったのでしょうか。


【信憑性】

同女の証言の信憑性は薄いと言わざるを得ません。特に強制連行の証言や慰安所への軍人の関与は疑わしいものです。単に遊郭街の売春宿で働いていただけではないでしょうか。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
夕方五時か六時頃、釜山鎮駅前にある南部警察署を通り過ぎようとすると、歩哨に立っていた巡査が来いと呼ぶのです。私は何もしていないので大丈夫だろうと思って、警察署の中に入って行きました。一九四三年九月初旬のことでした。警察署の中には私のような少女たちが数人いました。~(中略)~「いいところに就職させてやるからじっと座っていろ」と言いました。夜の十一時頃になると、軍用トラック一台が来て二人の軍人が私たち全員を乗せてでました。~(中略)~この軍人にどこに連れて行くのかと聞くと、いいところに就職させてやるとだけ言うのです。~(中略)~私たちは軍用トラックに乗せられ、どこかわからないところで下ろされました。そこには五人の女の子が私たちより先に来ていました。私たちと合わせて計十人が倉庫のような部屋で一晩を明かしました。翌日の夜、私たちは軍人の引率で「ブルルン」という音の出る警備船のような船に乗りました。船の中には二十歳にもならないような幼い少女たちが五十人ほどいて、三人の軍人が一緒に乗っていました。その船は日本に行きましたが、日本のどこかわかりません。~(中略)~船から下り、かなり歩いて倉庫のような部屋に着きましたが、そこには若い女性がたくさんいました。そこでまた一夜を明かしました。翌朝全員が集まって「君が代」を歌い、「皇国臣民の誓詞」を唱えた後、いくつかの班に分けられました。~(中略)~釜山で私のように捕まえられたスンジャも私と同じ班になりました。~(中略)~スンジャと私のいた班は二番目に船に乗りました。~(中略)~何時間か行くと、釜山の影島(ヨンド)に再び戻ってきました。~(中略)~一九四三年九月、釜山の影島にある第一慰安所に行くことになりました。(P.303~304)


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