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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 李英淑(イ・ヨンスク) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

孤児で、大阪で十歳頃まで女中奉公をしていた。両親が朝鮮人だった為、1937年15歳の時、朝鮮に帰り、冷麺屋で働いたり、女中をしたりして生活をする。1939年、日本で就職させてやるという朝鮮人がいるので一緒に行こうと友達に誘われ、以降、広東で慰安婦生活を強いられる。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

釜山まで朝鮮人の夫婦に引率され、釜山で日本人の軍属に引渡される。


【考察】

朝鮮人夫婦に騙され釜山で日本人の軍属に引き渡され、以降、広東まで引率されています。この引渡しまでに一行は、釜山と新義州を行ったり来たりしていますが、引率してくれる人を探していたのでしょう。そして、やっと見つけたのがこの日本人の軍属だったのではないでしょうか。


【信憑性】

証言内容には特に不審点は見当たりません。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 一九三九年の十二月、十七歳になった年でした。ある日、就職させてくれるという朝鮮人がいるから、日本に一緒に行こうとその子(※友達(管理人注))が言いました。~(中略)~友だちと一緒に、故郷が平安道新義州にあるという朝鮮人夫婦に会いましたが、そこには私たちの他に四人の女の子がいました。~(中略)~その人達と一緒に、釜山の旅館で一週間、船がくるのを待っていました。けれども、船が来なかったのでしょうか、汽車に乗って新義州に行こうということになり、朝鮮人夫婦について新義州に行きました。その朝鮮人の男は、私たちの行動が気に入らないと、鉄の棒を指の間にはさませて拷問を加えるなど、ひどく虐待しました。新義州で一週間程、朝鮮人の民家にいましたが、明け方に汽車に乗ってまた釜山へ行きました。釜山に着いたのは、わずかな距離の見分けもつかないほど真っ暗な夜でした。私たちは日本人に引き渡されました。その日本人は軍属で、軍服は着ていましたが階級章はありませんでした。(P.71)

 主人は日本人夫婦でした。男は四十歳、女は三十五歳くらいに見えました。(P.76)
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◆◆◆ 李用女(イ・ヨンニョ) ◆◆◆


※李容女と表記されている場合もあり


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1926年京畿道驪州(ヨジュ)生まれ。家が非常に貧しく8歳から奉公に出る。11歳の時、一家でソウルに上京し14歳で父親に飲み屋に売られる。その後、1942年、満16歳の時、その飲み屋の女主人に「金をたくさん稼げるところがあるから行かないか」と言われ承諾し、以降、ビルマ(現ミャンマー)のラングーンで慰安婦生活を強いられる。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

無し。ラングーンへは朝鮮人の男性と女性の何人かが引率。


【考察】

同女に「金をたくさん稼げる良いところがあるけど行かないか」と勧めた飲み屋の女主人が慰安所で働くかを知っていたかどうかは不明ですが、同女が承諾した後、小遣いを与えて休ませているところを見ると、この女主人が前金を受け取っていたのでしょう。


【信憑性】

証言には特に不審なところもなく信憑性があると言えるでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 女主人「金をたくさん稼げる良いところがあるけど行かないか」と言いました。一人で行くのではなく何人か行くのだから安心しろと言いました。どこへ行くのかと聞くと日本だと言いました。日本のどこにどうやって行くのか、そんなことはまったくわかりませんでした。お金をたくさん儲けて良いものを食べ良いものを着て、見物もできるというので行こうと思ったのです。~(中略)~女主人は薬を一包作って「これさえ飲めば、船に乗って日本に行くときも船酔いしない。すぐ家に帰って休んでいなさい。知らせる時までこれを小遣いにお使い」と言いながらお金をくれました。(P.230~231)

 それから「集合」という通知が来ました。一九四二年、私が満十六歳の時でした。~(中略)~朝鮮人の男性と女性が何人かで引率しました。~(中略)~1ヶ月以上かかって船はビルマのラングーンに到着しました。(P.231~232)
2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史観後援会 編 柏書房
 一家はたいへん貧しく、8歳のころから奉公に出る。11歳のときに家族とともにソウルに出て製菓工場などで働くが、14歳のときから1年ほど奉公していた家の女主人「日本でお金をたくさん稼げるところがあるから行ってみないか」と持ちかけられる。結局、その女主人の言葉に騙され、1942年、汽車で釜山まで行き、そこから船に乗り台湾・シンガポールを経てビルマ(ミャンマー)のラングーン(ヤンゴン)に連れて来られる。着いた先は、日本ではなかった。

 ラングーンからは汽車に乗り、ある村まで行き、そこで「慰安婦」生活が始まった。(P.138~139)
(※2007.4.7追加)


◆◆◆ 李容洙(イ・ヨンス) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1928.12.13生。韓国の大邱(テグ)の金持ちではないが、ご飯を豊かに食べていける家庭に生まれる。16歳の時に、日本人の男に台湾へ連れ去られ、以降、慰安婦を強いられる。(参考:「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」)

2007.2.15米国下院外務委員会アジア太平洋環境小委の「慰安婦聴聞会」にて金君子、ジャン・ラフ・オハーンらと共に証言を行う。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

船で台湾へ向かっている時、軍人達に繰り返し強姦される。(参考:「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」)


【考察】


同女の証言には全く信憑性がありません。

それは、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」「証言集会(同志社大学)」の連行時の内容を比べると明白です。(以下、「証言」・・・「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」、「同志社」・・・「証言集会(同志社大学)」)

友達と川辺で貝を採っていた時に、見知らぬ男2人が見ていたのは同じなのですが、その後、連行されるのが
 ○「証言」・・・それから何日かたったある日の明け方
 ○「同志社」・・・その後、1ヶ月か2ヶ月が経った頃。ある日の夜
同女の家の窓を叩いたのが
 ○「証言」・・・一緒に貝採りをしていた友達
 ○「同志社」・・・軍人に首の方に何かを突きつけられた、ある女性
その後
 ○「証言」・・・友達の招きに従い、母には何も言わないでこっそり家を出て友達の後に付いて行く
 ○「同志社」・・・怖くなって居間で座っていたところ、その女性と軍人が入ってきて、口を塞がれ、背中に何かを突きつけられて連れて行かれる

「証言」では、その後、友達に付いて行くと川のほとりで日本人の男の人(※国民服に戦闘帽をかぶっていた)が立っていて、ワンピースと革靴をもらい、「もう他のことは考えもしないで即座について行くことにしました。」となっています。また、その男が慰安所の経営者でした。

「証言」と「同志社」では、連行された時の話が全く別物になっており、物に目が眩んで人さらいについて行ったのが、軍人に無理やり拉致されたことに変更されています。しかも、「同志社」では、日本軍人の理不尽な暴力もかなり追加されています。

今回は、連行時のみにスポットを当てて比較しましたが、まあヒドイものです。

さらには、「同志社」では、連行された時に母が側にいなかったことを恨んでいて、証言集会の20日前に、母がいなかった理由を「赤ちゃんが泣いていたので、部屋から離れていた」と弟から初めて聞いたと語っているのですから開いた口が塞がりません。(※父のもとに行っていたと思っていたら、赤ちゃんをあやしていたということだったので、誤解による恨みが晴れたという話)
「証言」では「私は足音をしのばせてそろそろとプンスンの後について行きました。母には何も言わないで、そのままプンスンの後について行きました」と記述されており、自ら母にばれないように出て行っています。
このような、観衆を取り込む為のテクニックを駆使している所を見ると、「プロ証言者」と言ってもいいかも知れません。

------------------ 以下、2007.4.23追加 ------------------
<連行時の証言の変遷>

1993.7「写真記録 やぶられた沈黙」

 1944年夏、友達の母親に「豊かな生活ができる」所へ行かないかと誘われるが断る。  
 その何日か後、その友達が家に誘いに来て外に出ると、軍服みたいな服を着た男がおり、ワンピースと赤い靴をもらって感激してついて行く。


 → 明記はされていませんが、「友達は母親に言われて同女を呼びにきた」ということを想像させる内容です。


1993.10「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」

 1944年秋 友達と川で貝を採っていたら、日本人の男の人と老人に行こうという仕種をされ逃げる。
 その何日か後、友達が家に誘いに来て、ついて行くと国民服を着た日本人の男がいて、ワンピースと革靴をもらって感激してついて行く。

 → 夏から秋に変更され、また、最初、友達の母親に誘われたという記述が削除され、その代わりに貝採りのエピソードが追加されて「人さらい」色が濃厚になっています。さらに、連れ去った男が日本人だったという情報も追加されています。
 友達の母親のエピソードを削除した為、友達が何故、同女を呼びに来たかを説明する為に貝採りのエピソードが必要になったのでしょう。「日本人の男が先に友達をたらしこんだ後、同女を呼びに行かせた」ということを想像させる内容になっています。

------------------ 以下、2007.6.19追加 ------------------
1996.8「私たちと戦争責任」

 1943年、友達と川で魚を捕っていたら、軍服を着た男二人(日本人かどうかは不明)に指差され逃げる。
 同10月のある日の明け方、女の人が家の中に入ってきて「黙っておいで」と言われて引っ張って行かれる。この女の人には「韓国語で話すな」と言われる。
 堤防の所に連れて行かれると前に見た男がいた。先に来ていた親友に赤いふろしきを渡され、その中には靴が入っていた。


 → 何故か1年前倒し。日本人かどうか不明確になった代わりなのか、国民服が軍服に変更されています。
 また、家に来たのが、友達から女の人に変更されています。その女の人は「韓国語を話すな」と同女に言っているので人身売買の業者関連なのでしょうか、それとも、男に脅されていた被害者の1人なのでしょうか。
 さらに、靴をもらって「感激してついて行った」という同女が責めを負うべき情報は削除されて、あくまで合意なしで連れて行かれたことになっています。
------------------ 以上、2007.6.19追加 ------------------


2005.4「証言集会(同志社大学)」

 1944年、友達と川で貝を採っていたら、軍服を着た人と白い服を着た人が見ていたので怖くなって逃げる。
 その1、2ヶ月後、軍人と首に何かを突きつけられた女の人が家に来て、同女も口を塞がれ背中に何かを突きつけられて連れ去られる。


 → 1年前倒しされたものが、何故か元に戻っています。
 家に1人でやってきた女の人の他に軍人も一緒に家に入ってきたことになり、女の人はその軍人に首に何かを突きつけられていたことになっています。完全に被害者です。さらに、女の人に「黙っておいで」と言われて引っ張られて行った話が、「口を塞がれて何かを突きつけられて」とかなり強制色が強まりました。
どうやら、1996年~2005年の間に、同女の「軍による強制連行」の話が出来上がったようです。


同女の証言を時系列に並べてみると、日本を批判し易いように徐々に証言を変えて来たのが良く分かります。証言の変遷から推測するに、友達の母親の誘いに乗って売春婦もしくは慰安婦にさせられてしまったという所でしょうか。
「私が慰安婦として強制連行された当事者であり、証人だ」(2007.3.4朝日新聞)などと、恥ずかしげもなく良く言えたものです。

------------------ 以上、2007.4.23追加 ------------------


------------------ 以下、2007.8.28追加 ------------------

<ご参考・連行された西暦と年齢>

同女の証言毎の連行された西暦と年齢をまとめると以下の表の通りです。

14歳~16歳とばらばらですが、まず、大前提として知っておかなければならないのは、韓国では、今でも満年齢より数え年を使用するのが一般的だと言うことです。年齢を満年齢で言うか、数え年で言うかで最大2歳の差が出てきます。

数え年とは、生まれた時に1歳で、正月毎に+1する数え方。同女の場合、12月13日生まれなので、12月13日~31日は「数え年=満年齢+1」になり、それ以外は「数え年=満年齢+2」になります。

1928年生まれの同女の満年齢と数え年は以下の通りとなります。

  1942.1.1   ・・・ 満年齢13歳 数え年15歳
  1942.12.13 ・・・ 満年齢14歳 数え年15歳
  1943.1.1   ・・・ 満年齢14歳 数え年16歳
  1943.12.13 ・・・ 満年齢15歳 数え年16歳
  1944.1.1   ・・・ 満年齢15歳 数え年17歳
  1944.12.13 ・・・ 満年齢16歳 数え年17歳
  1945.1.1   ・・・ 満年齢16歳 数え年18歳
  1945.12.13 ・・・ 満年齢17歳 数え年18歳
  1946.1.1   ・・・ 満年齢17歳 数え年19歳
  1946.12.13 ・・・ 満年齢18歳 数え年19歳

証言 1928年12月生まれの連行時の年齢
連行された年 連行された年齢
1993.7 破られた沈黙 1944年夏 16歳 満15歳、数え17歳
※不一致
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 1944年秋 満16歳 満15歳、数え17歳
※不一致
1996.8 私たちと戦争責任 1943年10月 14歳 満14歳、数え16歳
1998.8 英文中国日報 1944年 数え年16歳 満15歳、数え17歳
※不一致
2005.4 証言集会(同志社) 1944年 韓国の年齢で16歳 満15歳、数え17歳
※不一致
2007.2 JANJAN 記載なし 15歳 ******
2007.3 フランス ルモドン紙 1944年秋 14歳 満15歳、数え17歳
※不一致
2007.8 戦争と性
(※西暦の記載は無いが、1946年春に帰郷して母が「私の娘は3年前に死んだ」と言っているので、おそらく1943年)
15歳 ******

つまり、連行された西暦は1943年か1944年で、季節は夏か秋。また、連行された年齢から算出される西暦も1943年か1944年になります。
 ※14歳を満年齢だとすると、1943年に連行(数え年だと1941年に連行されたことになる)
 ※15歳を満年齢だとすると、1944年に連行(数え年だと1942年に連行されたことになる)
 ※16歳を数え年だとすると、1943年に連行(満年齢と明記されているものもあるが、1945年に連行されたことになり、あり得ない)

なお、連行された年と年齢が一致しているのは③の「私たちと戦争責任」のみであり、西暦の証言は「1944年」が圧倒的に多いものの、年齢から逆算した西暦は「1943年」が圧倒的に多いことになります。


ちなみに、同女が故郷に帰った年は明記されていないものがほとんどなのですが、曖昧なものも拾い集めてみると、以下の表の通りとなります。

証言 備考
帰ってきた年 帰ってきた年齢
1993.7 破られた沈黙 明記なし
(おそらく、1946年or1947年の12月13日) (注1)
19歳
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 麦が青い芽を出す頃
(西暦不明)
記載なし
2007.8 戦争と性 1946年春 (注2) 17歳
(注1)同女が故郷に帰った時の母の「私の娘は3年前に死んでしまっていない」という発言、及び、その時、同女の法要を行っていて、誕生日(12月13日)に法要をしていたと記述がある。
同書では、1944年夏に連行されたと証言しているので、1946年12月に帰ったとすると約2年4ヶ月で3年には足らず、1947年12月だとすると約3年4ヵ月になる。
また、帰ってきた年齢は19歳と明記されており、これが数え年なら1946年になる。(満年齢なら1947年)

(注2)こちらは、帰ってきた年が明記されているが連行された年は明記されていない。「破られた沈黙」と同じく、「私の娘は3年前の夜に死んだ」という発言があるので、そこから逆算すると、連行された年は、1943年になる。

どうやら、1946年に故郷に帰ってきたというのが正しそうです。

なお、同女の証言では、「同女の法事をしている時に帰ってきた」という内容が多いのですが、法事が誕生日に行われていたとすれば12月に帰ってきたことになり、②、⑧の春に帰ってきたという証言と矛盾します。おそらく、法事の際に帰ってきたというのは、物語をドラマティックなものにする為の演出でしょう。
ちなみに、②、⑧では、法事の話は出てきません。

------------------ 以上、2007.8.28追加 ------------------

---- 2007.8.28 <何故、「1944年から3年間」なのか>を削除 ----



【信憑性】

信憑性は全くありません。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
1928年12月13日生まれ
大韓民国ソウル市在住
 
 私大邸で生まれました。家は貧しくて、国民学校に入学したもののすぐに夜学に移りました。
 1944年夏のある日、酒屋をやっていた友だちのお母さん「今のような苦しい生活をしている必要はないじゃないか。私の言うところに行けばご飯がたくさん食べられ、豊かな生活ができる」と言いました。ですが私は「嫌だ」と言って飛び出て来ました。
 それから何日かすると、その友だちが私の家に来て手招きするのです。外に出ると、そこには軍服みたいな服を着た男がいて、3人の娘を連れていました。その男は私に包みを渡しました。友だちが「それは簡単服(ワンピース)と赤い靴が入っている」と言いました。私はこうした新しい物を生まれて初めてもらった嬉しさで感激しました
 この男に「一緒について来るように」と言われ、私と友だちも含めた5人の娘が連れられて駅に行きました。それまで私は汽車に乗ったことがありませんでした。汽車の中では、私は車酔いで泣いていました。(P.72~73)

(※2007.4.23 追加)
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 一九四四年、私が満十六歳の秋のことです。~(中略)~
 当時、私の着ていたものといったらみすぼらしくて話にもなりませんでした。それから幾日かたったある日、プンスンと川辺で貝をとっていたら、向こうの土手の上に見たことのない老人と日本人の男の人が立っているのが見えました。老人が私たちの方を指さすと、男の人は私たちの方へ降りて来ました。老人はすぐ何処かに行ってしまい、男の人が私たちに手真似で行こうという仕種をしました。私は怖くなりましたが、プンスンは知らんぷりをして反対の方に逃げました。
 それから何日かたったある日の明け方、プンスンが私の家の窓をたたきながら「そうっと出ておいで」と小声で言いました。私は足音をしのばせてそろそろとプンスンが言う通りに出て行きました。母にも何も言わないで、そのままプンスンの後について行きました。~(中略)~行ってみると川のほとりで見かけた日本人の男の人が立っていました。その男の人は四十歳ちょっと前ぐらいに見えました。国民服に戦闘帽をかぶっていました。その人は私に包みを渡しながら、中にワンピースと革靴が入っていると言いました。~(中略)~それをもらって、幼心にどんなに嬉しかったかわかりません。もう他のことは考えもしないで即座について行くことにしました。(P.132~133)

 船上で一九四五年の新暦のお正月を迎えました。~(中略)~このように強姦されたのは私だけではありませんでした。プンスンも他の娘たちも私と同じことを軍人からされたと言っていました。その後も私たちはその船の中で随時軍人たちにそういうやり方で同じことをされました。(P.135~P.137)

 大邱から私たちを連れて来た男が慰安所の経営者でした。(P.137)
1996.8 アジアの声 第10集 私たちと戦争責任 戦争犠牲者を心に刻む会 当方出版
 私は、弟が四人と私の五人姉弟でした。どこでもそうでしょうが、私も一人娘ということで、父は自分が食べなくても、私に食べさせてくれました。そのくらいかわいがってくれていました。
 私はまだ幼い十四歳の時です。友達と川へ魚を捕りに行きました。その時堤防の上から、日本の人かどうか分かりませんが、軍服を着た男性二人が私たちを指さしました。私達が遊んでいるのに堤防の上から私達に対して指さしているのを見たら、まだ子どもだった私はもう怖くて、その場に父はいませんでしたが、「お父さん、お父さん」と言いながら一人で逃げてお父さんを呼びに行きました。逃げる途中に山があって、そこに小さい家がありました。中に入るとおばあさんが一人いたので、「おばあさん、かくまってください」と頼んだら、「この子は馬鹿じゃないか。いったい誰が捕まえに来るっていうのかい」と言われました。でも「捕まえに来るから」と言い張り、泣きながら「ちょっと外を見てきてください」と頼むと、おばあさんは「外には誰もいないから、早く帰りなさい」と言いました。それでも私はとても怖いので、黒いはかまを一着頭にかぶって、顔が見えないようにして走って家へ帰りました。
 その日からどのくらいたってからか忘れましたが、ある日明け方のまだ暗いうちに、だれかが私の家の透かし窓を叩きました。目を覚ましてみると、女の人がいて、「黙って出ておいで」と私を呼ぶのです。家の玄関には戸がなかったので、女は細い廊下に入ってきて、私を引っ張って連れて行きました。おかげで私は木で作られた靴を履くこともできず、裸足のままでした。私が女に韓国語でたずねると、女は「韓国語で話すな」と言いました。連れて行かれたのは堤防で、前に見た男がいました。その男はいつも帽子をかぶっていました。その男と女についていくと、踏切がありました。上を汽車が通り、下を車が通る、そして人がその横をを歩くようになっていて、そこの階段を上っていったら少女がすでに三人いました。その中にいた私の親友が赤いふろしきを渡してくれたので、触ってみると靴が入っているのがわかりました
 私たちは四人になり、駅に連れていかれたのですが、そこでは私が韓国語を使うと殴られました。(P.61~62)

 今考えると、十月に連れていかれたのにもうとても寒い思いをする十二月になっていました。(P.64)

 朝、港から船に乗った時には、さすがに、何も知らない私でも今度はもう家に帰れない、どこかに連れていかれて殺されるだろうなと思いました。~(中略)~一九四三年十二月頃でした。(P.64)

 (※2007.6.19 追加)
1998.8.23 英文中国日報 ***** ****
日本軍の性奴隷として足かけ三年間従事~(中略)~1944年のある夜、韓国の故郷からどのようにして日本軍により誘拐され~(中略)~慰安所に送られた時はわずか数え年16歳であった。
2002.6.26 日本共産との会合 ***** ****
十四歳で銃剣をつき付けられて連れてこられた
2004.12 京都での市民集会 ***** ****
1944年、16歳の時に「軍服みたいな服を着た男」に連行され~(中略)~日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された。
2004.12.5 京都新聞 ※リンク切れ ***** ****
16歳でわけが分からないまま連行され、~(中略)~1944年ごろ、旧日本軍に拉致され、台湾で約3年間従軍慰安婦として
2005.4.21 証言集会(同志社大学) ***** ****
私はいつも母と一緒に寝ていたのですが、ある日の夜寝ていたら、コソコソと音が聞こえました。起きて見てみたら、ある女性が首のほうに何かを突きつけられながら、こちらを覗いていました。それでそこをよく見てみたら、帽子を深くかぶった軍人が立っていました。その女性が、私を見て何も言わずに手振りで私を呼んでいたので、私は怖くなり、部屋を出て外の居間のところで座っていました。するとその女性と軍人が一緒に居間まで入ってきて、その女性が片手で私の肩を抱いて、もうひとつの手で口を塞いで私を連れて行きました。~(中略)~その時、私は韓国の年齢で16歳でした。
2005.8.11 朝日新聞 ※リンク切れ ***** ****
韓国の大邱から15歳ごろ連行された
2007.2.16 中央日報「米議会で初の‘慰安婦聴聞会’…韓国・オランダ人女性3人が証言」 ***** ****
1944年16歳の時に台湾に慰安婦として連行され
2007.2.26 JANJAN「米公聴会でも証言した李容洙さんが、埼玉で再び「証言・告発」 ***** ****
15歳のとき、小銃で脅され、大連から、台湾に連行され新竹海軍慰安所で特攻隊員の慰安婦とされた
(※2007.3.24追加)
2007.3.6 le Monde.fr 「Le combat de Lee Yong-soo, ancienne "esclave sexuelle" au service de l'armee imperiale japonaise」
※フランスのルモンド紙 リンク先はフランス語
***** ****
現在の韓国南東部、大邸に近くで生まれたイさん(マダム・イ)が14歳のときだった。『1944年の秋のある朝のことです。寝ていると、わたしを呼ぶ女の声がします。出て行きました。日本兵がひとりいて、わたしを捕まえ、力ずくでわたしを連行したのです』。汽車は彼女をピョンヤンから中国の大連へと運んだ。大連で彼女は台湾行きの船に乗せられ、自殺パイロット(カミカゼ)の基地の軍用売春宿に配備された
(※2007.4.4追加)
2007.4.30 朝鮮日報「79歳元慰安婦、ハーバード大学で涙の訴え」 ***** ****
 「強姦しようとする日本兵に抵抗すると、足をメッタ切りにされました。血まみれになってもその痛さにも気づかず必死に“助けて”としがみつきました。しかし容赦ない日本兵は電気による拷問までしました。恐ろしさのあまり叫んだ“お母さん”という声は、今も耳に残っています」

 28日午後、米ハーバード大学ケネディー・スクール(行政大学院)の講義室。さまざまな人種の聴衆約100人が見守る中、時には感情を抑えきれず絶叫に近い声を上げる高齢の韓国人女性の話に耳を傾けた。16歳の時に強制連行された後2年間、日本兵の「慰安婦」をさせられたイ・ヨンスさん(79)は、ハーバード大の学生の前で同日、当時の「地獄の日々」について証言した。1944年に強制連行された後、繰り返し受けた無差別な暴行・強姦・拷問の悪夢を60年以上経った今でも忘れることのできないイさんの叫びに、聴衆は嘆き、目頭を熱くした。~(後略)~

(管理人:慰安婦をした期間を「2年間」と言っています。しかし、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」では、連行時の船上で「一九四五年の新暦のお正月を迎えました」と証言しており、この証言を信頼するなら慰安婦をしていた期間は約8ヶ月です。

(※2007.5.1追加)
2007.8 戦争と性
韓国で「慰安婦」と向きあう
高柳美知子・岩本正光 かもがわ出版
 ヨンスさんは韓国の大邸(テグ)の出身。一五歳の夏、友だちとよもぎをとりに行った。夕方になり、土手を見たら戦闘帽の男がいて、自分たちをめがけて降りてきたのであわてて家に帰った。何日かすると友だちが私の家に来て手招きするのでついていくと、戦闘帽の男と三人の少女がいた。怖くなって逃げようとしたが、友だちが「行こう」というのでついていった。男が風呂敷包みをくれた。中に赤い靴と洋服が入っていた。
 そのあと、わけもわからないまま列車や船にのせられ、慶州、平壌、大連、上海、そして台湾へ。恐怖にふるえる一五歳の少女ヨンスさんの姿が目に浮かび、胸が苦しくなった。
 ヨンスさんは語ります。「大連からの船には日本海軍の軍人約三〇〇人と二〇歳にもならない私たちが五人。想像してください。ある日、台湾の慰安所に連行され、軍人がやってきて日本人の姉さんに何かささやくと、姉さんが泣きながら着物を着せて化粧もしてくれ、『言うことをきかなかったら、あんた死んでしまうからね』と言った」。そして軍人は抵抗するヨンスさんの髪をつかんでひきずり、軍刀で足を切りさいた。その話をした時、ヨンスさんは突然立ちあがり私たちの前でスカートのすそをめくり、五〇センチほどもありそうな、たてに切りさかれた傷あとを見せてくれました。みんな、アッと息をのんでしまいました。切られたヨンスさんは数日間、気を失っていたそうですが、姉さんたちが自分の指を切った血で、“輸血”してくれたりして、やっと意識を回復したそうです。そしてそのあと毎晩のように「兵隊をとらされた」そうです。
 ヨンスさんはある日、二一歳の特攻隊員と出会います。彼は出撃の前夜、彼女のところへ形見の洗面道具を一式持ってきて、「オレは明日、死にに行く」と言い、そして星空を見上げてヨンスさんに言ったそうです。「あの星の中にオレもいるし、父も母もトシコ(ヨンスさんがつけられた日本名)もいる。お前は死なないで生きていてくれ。オレは幽霊になって、お前の恋しいおかあさんのところへお前を連れていってやるから、死なないでくれ」
 彼が出撃して三日間というもの、ヨンスさんは何も食べず、「死にに行った」という意味もわからずに、二人で星空を見上げた大きな木の下で毎日彼が帰ってくるのを待っていたそうです。(P.59~61)

 イ・ヨンスさんは日本の敗戦によって解放され、一七歳一九四六年春、帰還船で帰国。テグの母のもとへ走って帰ったものの、誰にも被害体験を語ることが出来なかったといいます。(P64)

 一九四六年にテグに帰り着いた彼女が「オンマー・ヨンスです」と言っても、「私の娘は三年前の夜に死んだ」といって彼女の顔も見ず、「幽霊だ」といって部屋に入ってしまったお母さん。(P.65)

(管理人:連行時の内容は、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」と近いものになっている。

また、軍人に軍刀で足を切りさかれた後、姉さんたちが指を切って輸血をしてくれたと言う、ワケの分からないエピソードが追加されている。)


(※2007.8.28追加)

◆◆◆ 李順玉(イ・スノク)(仮名) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1921年慶尚北道盈徳(ヨンドク)に生まれる。1937年処女供出の噂を聞き偽装結婚をする。1938年17歳の初夏、工場で働く娘を募集しにきたと言う40歳ぐらいの呉(オ)という男性に騙され、中国関東州の慰安所に入れられる。3年後にシンガポールの慰安所に移動し、1994年に階級の高い軍人に相談して慰安婦生活は終了。病院船の看護婦をしながら日本へ到着し、そこから朝鮮へと戻る。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

同女を騙した呉に連れられ中国の関東まで行く。汽車を降りて慰安所まで車で向かうが、その時の運転手が軍服を着た日本人。


【考察】

慰安所の主人である朝鮮人のおばさんが拳銃を所有し、軍人の帽子をかぶることがあったと記述されています。民間人が拳銃を合法的に持っているとは思えないですし極秘裏に所持していたのでしょうか。それとも、軍人の帽子をかぶっていることから、軍関係者なのでしょうか。ただし、50歳を過ぎたおばさんの軍人がいたとも思えないのですが。

当時の状況に詳しくないので何とも言えないですが、少し疑問です。


【信憑性】

慰安所のおばさんの様子は少し疑問ですが、その他の証言には信憑性があると思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 こんな話をよくしていた頃、四十歳ぐらいの呉(オ)という男性が森田家に来ました。~(中略)~呉は工場で働く娘を募集しに来たとのことです。~(中略)~呉は、日本に絹織物の工場があるが、新しい工場を建てたので働く娘がたくさん必要だ、年をとって仕事がイヤになればいつでも出てくることができると言いました。呉は私に行く気があるかと問いただしました。私はそういう条件ならいってみたいと答えました。~(中略)~一九三八年満十七歳の初夏だったと思います。(P.183)

 日本はきれいなところだと聞いていたのに、着いたところはそうでもなく変だと思いました。その時になって着いた所が日本ではなく中国の関東だと分かりました。そして、その時から私たちの悲惨な生活が始まったのでした。(P.184)

 呉は私たち一行が家に入ると、日本の軍人たちと話をした後、どこかに行ってしまいました。そして家の中が消毒されました。呉がいなくなった後、私たちのそばには全羅道出身の五十歳を過ぎた女性がつくようになりました。(P.185)

 私は借金はありませんでしたが、酒を飲む人たちはおばさんから借金をしていました。憲兵がしょっちゅう慰安所を見回り、主人であるおばさんと話をしていました。おばさんは刀と拳銃を自分の部屋に置いていました。また後には軍人の帽子をかぶってくることもありました。女たちが言うことを聞かないといってはひどく叩き、私も下半身をよく叩かれました。ふとんが汚れていたり軍人を取らないと言い張って、ふとんを外に捨てられてしまうこともありました。(P.186)


◆◆◆ 李相玉(イ・サンオク) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1922年(※住民登録では1920年)慶尚北道達城(タルソン)生まれ。暮らしは比較的裕福だった。兄の大反対で学校に行けなくなったため、親にも告げずソウルの伯母の所へ行き4年生になるまで学校に通う。伯母に学費が出せないので家に帰れと迫られた為、伯母の家を出て紹介所(注)で知り合ったおばさんの養女となる。一年後の1936年15歳の時、日本の工場で働くという女たちが紹介所を訪れ自らも志願する。その後、日本人の軍属に連れられパラオ行き慰安所に入れられる。陸軍の兵士に刺されて入院した際、軍医に相談し、以降、病院で働く。

(注)紹介所・・・簡単に言えば人身売買の仲介所。お金が必要な者が娘等を売ったり、人手の必要な者が人を買ったりする所。買い入れ先の選定にはある程度本人の意思が尊重されたようです。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

同女を紹介所から慰安所まで連れて行ったのが日本人の軍属。


【考察】

同女たちをパラオへと引率したのが日本人の軍属で、また、「紹介所にいた年老いた朝鮮人の男と、日本人の軍属が村を回って女たちを集めて来るのでした。」とあり、軍が女性を集めていたことを示唆する記述もあります。
しかし、その軍属が、同女たちを慰安所経営者に引き渡す際、「経営者が日本人の軍属にお金を支払い、その金額によって各々一年半、二年、三年、と期限が決められました」という記述もあり、どう考えても軍属ではなく、ただの人間ブローカーでしょう。強制連行で軍属が引っ張ってきて慰安所から金を貰うのも不思議ですし(職務としてやっているのだから、軍から給料が出ているはず)、女性毎に貰った金額が異なるのも解せません。女性毎に金額が異なるのは、人間ブローカーが紹介所に払った金額が違うからでしょう。


【信憑性】

同女達を引率したのが軍属であったという証言は信憑性が薄いと言えるでしょう。しかし、その他の部分は信憑性があると思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
いつ頃からか女たちがひっきりなしにやって来るようになりました。一人、二人とやって来ましたが、中には父親に売られて来た娘たちもいました。紹介所にいた年老いた朝鮮人の男と、日本人の軍属が村を回って女たちを集めて来るのでした。日本人の軍属は国防色の軍服を身につけ、肩には赤と青の飾りがついていました。赤いかもめの形をした肩章が一つありました。
彼女たちがどこへ行くのかと尋ねると、日本人の軍属について日本の工場へ行くのだと答えました。「私も行こうかな」と言うと、彼女たちは一緒に行こうと言い、日本人の軍属に話してくれました。~(中略)~私が一番下で、十五歳(一九三六年)のことでした。春だったと思います。(P.199)
一緒に来た日本人の軍属は、私たちを家の経営者に引き渡しました。経営者は朝鮮人夫婦で、全羅道の方言を使っていました。~(中略)~経営者が日本人の軍属にお金を支払い、その金額によって各々一年半、二年、三年、と期限が決められました。私は一年半でしたが、あらかじめもらったお金は一銭もありませんでした。(P.201)

◆◆◆ 李玉粉(イ・オクプン) ◆◆◆


※李貴粉と表記されている場合も有り


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1926年(注)慶尚北道永川(ヨンチョン)生まれ。家の暮らしは楽な方だった。11歳の時、永川南部小学校に入学、12歳の時、蔚山(ウルサン)に引っ越す。その2ヵ月後、友達とゴム遊びをしている時、日本人一人と朝鮮人一人が来て、お父さんが探しているよと騙され、そのまま3ヶ月監禁される。その後、船に乗って下関に行き日本語を教えられた後、台湾の慰安所(もしくは料亭兼売春宿)に入れられたが、年齢が14歳未満だった為、そこでは小間使いをさせられていた。
ある日、警察に逃げ込むが、実家に問い合わせた際、母親が突然来た巡査に驚いて「そんな娘はいない」と答えてしまった為、そのまま警察署の部長の家で5年間、女中をすることになる。
1942年の17歳の時、部長一家の帰郷と共に慰安所に入れられ、以降、終戦まで慰安婦生活を強いられる。

1991.12月に提訴された「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」に1992.4月に第2次原告の一人として参加する。同裁判は2004.11月、最高裁棄却により敗訴が確定した。

(注)裁判の訴状では1927年生まれ(戸籍上は1929年)となっている


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

無し。監禁された後、「炭鉱ズボンをはいた日本人」に船に乗せられる。下関では、「薄い国防色の炭鉱ズボンをはいた日本人の男3人」が監視。台湾では「日本人の男達」が出迎え。

ただし、最終的に入れられた慰安所の管理人が板倉という軍曹。


【考察】

日本人の人さらいに拉致されたという話。帰郷と共に慰安所に入れてしまった警察署の部長もひどいと思いますが(身元不明の女性を日本に連れて行くわけにもいかなかったのでしょうが)、そもそも、母親がちゃんと答えてさえいれば慰安婦をすることなく帰れただろうにと思います。

また、以下のように、所々、怪しい記述が見受けられます。

○証言によると、高尾特攻隊の慰安所に入れられたのは1942年になっていますが、特攻隊の設立は1944年です。
○管理人の板倉という男の階級が軍曹だったと述べていますが、慰安所にいる慰安婦以外の人は仲居の女性2人と小間使いの小僧だけになっています。慰安所の主人が軍人だったとは思えません。

-------------------- 以下、2007.4.10追加--------------------------

なお、「裁判の訴状」(以下「裁判」)と「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下「証言」)を比べると下記の通り内容が異なっています。

<生年>
○「裁判」・・・1927年(戸籍上は1929年)
○「証言」・・・1926年
当時の状況が分からないので何とも言えませんが、生年はそんなに不確かなものだったのでしょうか。

<拉致された年月>
○「裁判」・・・1938年の10月頃
○「証言」・・・1937年9月16日頃
生年を1年繰り上げたので、拉致された年も1年繰り上げたのでしょう。また、「10月頃」とあいまいだったものが何故か「9月16日頃」と具体的な日にちに変更されています。

<拉致後、閉じ込められた所>
○「裁判」・・・下宿屋の部屋
○「証言」・・・納戸

<下関での監視役>
○「裁判」・・・旅館の仲居
○「証言」・・・薄い国防色の炭鉱ズボンをはいた日本人の男三人

<台湾で同女が最初にいた所>
○「裁判」・・・ある料亭に売られた(ただし、ただの料亭ではなく売春もしていたようです)
○「証言」・・・慰安所本部
料亭と慰安所本部では大きな違いです。恐らく、拉致された後、入れられた所が単なる料亭では強制連行の証言にならないので変更したのでしょう。

<慰安婦になった年>
○「裁判」・・・1943年
○「証言」・・・1942年
こちらも生年の変更に伴い変更したのでしょう。特攻隊設立は1944年なのに、さらに遠ざかっています。

<慰安所の管理人>
○「裁判」・・・記述なし
○「証言」・・・板倉という軍曹

微妙な変更で証言の信憑性を云々できない程度のものが多いですが、「料亭」→「慰安所本部」への変更は明らかに意図的です。

-------------------- 以上、2007.4.10追加--------------------------


【信憑性】

所々、細かい所で記憶を意図的に修正している可能性大です。
しかし、現在見つかっている証言の不一致は信憑性を完全に否定できるほどのものではないと考えます。特攻隊の件も単なる記憶の相違かもしれません(例えば、相手にした兵隊に特攻隊の者が多く印象に残っていたので、そう勘違いした等)。

おそらく、大筋は本当でしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992 裁判の訴状 ***** ****
原告李貴粉(イ・キプン。以下、「李貴粉」という。)は、一九二七年(戸籍上は一九二九年)、慶尚北道永川に生まれた。李貴粉は、四人きょうだいの長女であり、永川中部小学校四年まで通学していた。学校では日本語を教え、韓国語は習わなかった。満一一歳ころ、一家がウルサンに引っ越し、さらに釜山に引っ越そうとしている時、一九三八年一〇月頃の朝一〇時くらいのこと、李貴粉が、ウルサンの村で、女の子三人で、「かあちゃん、この子をどうするか、すてておいてかわいそう・・・・・・」こうした歌を歌いながら、縄跳びをして遊んでいた時、日本人と朝鮮人通訳の二人連れの男たちに声をかけられた。その男たちは、「お父さんが呼んでいる、一緒に行こう」といって、李貴粉を連れ出した。このとき李貴粉は、黒いチマ、白いチョゴリの普通の格好をしていたが、体格もよく一四歳くらいに見えたのではないかと思う。その男たちは、李貴粉をウルサン市内の下宿専用の「チョンミョンギル」(趙明吉か)の家に連れ込んだ。李貴粉は、途中でおかしいと思い、「家に帰る。」と言って抵抗したが、その男たちによって無理やりその家に引っ張り込まれた。裏から下宿屋の部屋に入れられると、一五、六歳の女が三人いた。李貴粉は、「はるこ」という名をつけられた。~(中略)~下関である部屋に連れて行かれ、そこには三八人の女たちが集められていた。~(中略)~ここでは、「(旅館の)仲居さん」が李貴粉らの監視役だった。一九三九年の二月頃、李貴粉ら三八人は、二村に引率され、連絡船に乗せられ、台湾・高雄についた。高雄には日本人が出迎えに来ており、高雄から汽車に乗って『しょうか(彰化か)』というところに全員連れていかれた。~(中略)~李貴粉は、七人グループである料亭に売られたが、料亭の名はいま、記憶にない。料亭の女性たちは着物姿の芸者スタイルだったが、朝鮮人が多く、台湾の女性もいた。七名のうち、五名はウルサンで集められた「とき子」「まさ子」「うめ子」「あい子」「はる子」であった。李貴粉は、十二歳と幼く「商売(慰安婦)」はまだ無理だということで、掃除、洗濯など雑役の手伝いに回され、一四歳になれば商売させるということだった。その料亭には、兵隊や民間人が多く来ていた。~(中略)~李貴粉が満一六歳になった一九四三年の秋頃、部長一家は日本に引き揚げることになり、その時、憲兵隊に「慰安所から逃げ出した朝鮮ピーがいる」と申告をされてしまった。「特攻隊」の部隊から伍長が私を引き取りに来た。李貴粉は無条件でその伍長について行くより仕方がなかった。連行されたところは、高雄郊外の山のなかの中学を改造した慰安所で、航空隊(特攻隊)専用の慰安所だった。
(※2007.4.10追加)
1992.8 <証言>従軍慰安婦・女子勤労挺身隊 伊藤孝司 風媒社
 蔚山(ウルサン)に一家で引っ越して、二ヵ月した時の事です。私は三年生の一一歳で、時期は一〇月か一一月じゃなかったかと思います。日曜日に、家から遠くない所で、女の子三人で「♪かあちゃん、この子をどうするか、捨てて置いてっかわいそうー」って歌いながら、縄跳びをしていたんです。その頃は縄跳びが流行っていました。そうしたら、日本人一人と、その手下の朝鮮人一人が近づいて来ました。洋服を着てゲートルを巻いていました。朝鮮人の方が「君のお父さんから、用事があるので娘を連れて来るようにと言われた」と話しかけてきたのです。~(中略)~連れて行かれたのは、瓦屋根の朝鮮式の建物で、その家の表札には「趙ミョンギル下宿屋」とありました。家の裏にまわると、そこには鍵のかかる部屋があって、私を入れて鍵をかけたんです。(P.102)

 私はその時一二歳でしたが、男たちからは「人に聞かれたら一四歳と言え」と言われていました。一四歳にならないと「慰安婦」の許可が出ないからです。(P.103)

(※2007.4.6追加)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 ーアジアの従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 蔚山に一家で引っ越しして2ヵ月した時のことです。私は3年生の11歳で、時期は10月か11月じゃなかったかと思います。日曜日に、家から遠くないところで女の子3人で縄跳びをしていたのです。「♪かあちゃん、この子をどうするか、捨てて置いてかわいそうー」って歌いながらです。
 そうしていたら、日本人1人とその手下の朝鮮人1人が近づいて来ました。朝鮮人の方が「君のお父さんから、用事があるので娘を連れて来るように言われた」と私に話しかけてきたのです。だから、お父さんの知っている人だと思ったのです。私が話をしている間に、2人の女の子はいなくなってしまいました。
 私はその男たちと蔚山駅まで行き、汽車に乗って兵營まで行ったのです。連れて行かれたのは瓦屋根の朝鮮式の建物で、表札には「趙ミョンギル下宿屋」とありました。私は家の裏にある部屋に鍵をかけて入れられたのです。ここでだまされたのがわかりました。そこには3人の朝鮮人の女の子がいました。(P.108)

(※2007.4.24追加)
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 私は一九二六年、慶尚北道永川郡で、四人兄弟の中の一人娘として生まれました。上に兄がおり、下に弟が二人いました。(P.144)

 一九三七年九月十六日頃
のことでした。その日も近所のお姉さんたちとゴム跳びをして遊んでいました。その時、日本人一人とその手先らしい朝鮮人一人が、私たちのそばに近づいてきました。日本人は乗馬ズボンをはき、朝鮮人はパジ・チョゴリ姿でした。「あんたのお父さんがチョさんの家で碁を打ってるんだが、あんたに来るようにいってるよ。」と言いました。~(中略)~チョという人の家に連れて行かれ、私は納戸に押し込められました。(P.145~146)

 釜山を夕方五時ごろ発って下関に着くと、朝の九時ごろでした。着くまでご飯も食べさせてくれず、すぐにどこかへ連れて行かれました。何か倉庫のようなところでした。そこにはすでに朝鮮人の女が三十三人いましたが、私たちが入って、みんなで三十八人になりました。~(中略)~そこでは、薄い国防色の炭鉱ズボンをはいた日本人の男三人が監視をしていました。(P.147~148)

私がいたところは、はじめは全部で四十人ほどいましたが、慰安所本部だということでした。次の日には七人が他のところに送られるなど、女の人たちが次々と入ってきては、他のところに送られていきました。(P.148~149)

 部長の家族は、翌年日本に帰りました。一九四二年、私が十七歳の時でした。私も連れて行ってくれるとばかり思っていましたが、それどころか、五年間月給もくれずにこき使った藤本は、自分の家に朝鮮ピーが一人いると部隊に申告したようでした。~(中略)~トラックに乗って六里ばかり行くと山がありました。そこが高尾特攻隊でした。(P.150)

 後になってわかると小さな手帳ぐらいの大きさの券には、部隊長の判が捺されていました。軍人たちはこの券を仲居に渡しました。仲居はエイコ(英子)とマサコ(正子)の二人でしたが、彼女たちは券をまとめて、管理者である板倉に渡しました。板倉と正子は同じ部屋で暮らしていました。板倉の階級は軍曹でした。(P.152~153)
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