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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 沈美子(シム・ミジャ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1924.2.4黄海道(ファンヘド)鳳山郡(ポンサングン)で生まれる。父は両班(ヤンバン)(注)出身のソンビ(儒学者)だった。12歳の時、鳳山小学校へ通い、16歳の時、先生に「日本の地図を作ってくれ」と依頼され、アサガオの花を並べた地図の刺繍を作る。その刺繍に対して警察官から「どうしてサクラでなくアサガオなのか」と難癖をつけられ警察署に連行される。その後、父が独立運動家だと言われ拷問を受け、気を失い、気がついたら福岡の慰安所だった。以降、慰安婦を強いられ日本で終戦を迎える。

1991.12月に提訴された「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」に1992.4月に第2次原告の一人として参加する。同裁判は2004.11月、最高裁棄却により敗訴が確定した。

(注)両班・・・高麗・李朝時代に、官僚を出すことができた最も上の支配階級。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

警察署に連行された後、拷問を受けて気を失い、気がついたら福岡の慰安所に入れられていた。


【考察】

同女は警察に、電気を流されたり、爪に針を差し込まれたり、焼きゴテを押し付けられたり等の拷問を受けたと証言していますが、如何にもな拷問で胡散臭い内容です。

果たして、日本地図をアサガオにしたくらいで警察に連行されるものでしょうか。サクラは現在でも、日本の国花の1つとして親しまれていますが、別に法律で定められているわけでもありません。当時の状況が分からないので何とも言えないところですが、それくらいで警察に難癖をつけられたと言うのは非常に疑問です。ムクゲにしたと言うのなら、まだ理解できなくもないですが。


また、「裁判の訴状」(以下「裁判」)と「<証言>従軍慰安婦・女性勤労挺身隊」(以下「証言」)の内容を比べると下記の通り、相違点が見受けられます。

<警察官による強姦>
○「裁判」・・・同女を警察の宿直室に連行した警察官は、耳を強く噛んだりして抵抗する同女に怒り、殴ったり蹴ったりして強姦を遂げる
○「証言」・・・強姦されそうになった時、警察官の耳を思い切り噛んだら、驚いて宿直室を飛び出していく
→ 強姦された話が、されなかったことに変更されています。

<拷問をした警官>
○「裁判」・・・同女を連行し強姦した警官
○「証言」・・・同女を連行し強姦しようとした警官と別の警官

<慰安行為を開始する時期>
○「裁判」・・・福岡で気がついて、その翌日から
○「証言」・・・明記されていないが、少なくとも気がついてから3日間は慰安行為は開始していない
→ 朝鮮半島中部から福岡までの移動途中に全く意識が戻ることがないほどの拷問を受けたのに、意識が戻った翌日から慰安行為を開始するのはおかしな話です。3日間は休んでいたことに変更されています。
なお、「裁判」では「ある軍人が沈美子も連れ出そうとしたが、同室の女性の一人が、『私が代わってあげる。』と言って、その軍人の相手をしてくれた。しかし、沈美子も、それによって仕事の中身がわかり、同室の女性に迷惑をかけるのもわるいと思ったので、翌日から慰安婦の仕事をするようになった。」と記述されています。16歳だった同女は、やけにあっさりと慰安婦を受け入れています。

<拠点の移動>
○「裁判」・・・福岡約1年半→神戸約8ヶ月→大阪(終戦まで)
○「証言」・・・ずっと福岡。神戸、大阪、和歌山、流山へはあくまで福岡からの出張。和歌山にいた時に終戦。
→ 「証言」では、和歌山と流山の慰安所が追加され、ずっと福岡を拠点としていたことになっています。しかも、「私はここに一年半いました」と福岡に1年半しかいなかったという「裁判」と同じ情報が残っていて、証言内容が矛盾しています。

<慰安婦になった理由>
○「裁判」・・・「沈美子がそこにいたあいだに連れてこられた女性のほとんどは朝鮮女性であり、目的を全く知らされずに連れてこられた人たちであった。慰安所に来るまで、彼女らのほとんどは、工場の仕事と思っていた
○「証言」・・・「九割が『工場に就職させてあげるから』とだまされて連れて来られ、一割が私と同じように学校で捕まえられた人でした。『国語(日本語)を使わなかった』『学校の神社に参拝しなかった』とか、『『皇国臣民の誓い』を暗唱できなかった』という事で捕まった人もいました」
→ 「証言」では「ほとんど」以外の人たちが慰安婦にさせられた理由を具体的に記述しています。確率的には、私が今まで見てきた証言者の中に「学校で捕まえられた人」が2、3人いなくてはおかしいのですが、今の所、該当する人はいません。

<日本兵の残虐行為>
○「裁判」・・・「性行為を拒否して殴り殺された」
○「証言」・・・「銃で女の陰部を撃ってそのままトラックで行ってしまった」、「銃剣で女の乳房を切った兵隊もいました」、「三人の女が脱走を図って捕まり、殺された」
→ 慰安所での日本兵の残虐行為に統一性がなく、「証言」ではエスカレートしています。

<天皇陛下の命令>
○「裁判」・・・「天皇陛下の命令で、朝鮮の女はみな慰安婦にさせられる」
○「証言」・・・「天皇陛下から命令がくだって、朝鮮の女たちを面(村)・市・邑から『慰安婦』として徴発する」
→ 双方とも同女を贔屓にしていた将校の言葉として記載されていて内容は同じですが、朝鮮女性が強制連行されたのは天皇陛下の命令だったそうです。如何にも恣意的な捏造です。


なお、慰安婦裁判の原告にもなっている同女ですが、「韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会」が編纂した「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(明石書店)には証言が載せられていません。(以下の内容は「『自虐史観』の病理(P.153~165)」藤岡信勝・文春文庫を参考にしました)

同証言集(P.22)には、最終的に証言を載せたのが19人だった経緯について記載されており、まとめると以下の通りです。

 ○韓国挺身隊問題対策協議会に申告された人数・・・110人(1992.12末現在)
    内、生存者・・・55人
      内、連絡可能な者・・・40人
        内、以下の者を除いた人数(=証言が掲載された人数)・・・19人
           ①自分の経験を語りたがらない人
           ②証言がそのたびごとにひどくくいちがったり、話の前後があわず、調査が難しい人
           
同女は、同証言集の発行時に生存しており、また、裁判の原告になっていることから、連絡が不可能だったとか、「自分の経験を語りたがらない」はずがありません。つまり、②に該当して、「証言がそのたびごとにひどくくいちがった」ので、証言集には載せられなかったのです。

なお、裁判の原告になって以降、家族等の状況の変化で証言ができなくなったとも考えられなくもないですが、その後の韓国での水曜集会(※)にも参加しているようですし、2004年の最高裁の判決時も傍聴席にいたようです。その可能性はないでしょう。

※水曜集会・・・毎週水曜日に、韓国の日本大使館前に集まって行われている抗議活動


【信憑性】

同女が証言する慰安婦になった経緯は甚だ疑わしいもので、しかも、韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会が編纂した証言集からも落とされてしまっています。信憑性はないでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992.4 裁判の訴状 ***** ****
原告沈美子(シン・ミジャ。以下、「沈美子」という。)は、一九二四年二月四日、朝鮮黄海道の農村で出生し、鳳山国民学校に通学していた。
一九四〇年三月一五日、当時鳳山国民学校の担任であったミリイチ先生が沈美子の家に家庭訪問をした際、木槿の絵を下絵にした朝鮮地図の掛け軸が玄関に飾ってあるのを見て、「よくできている」と褒めてくれた。そして、こんどは花をつけた日本地図の刺繍を作ってほしいと、沈美子に言った。
 沈美子は、母が人からチマ・チョゴリをつくるよう頼まれて預かっていた絹の布を切り取り、これに、朝顔を背景にあしらった日本の地図を刺繍した。沈美子は、このため母から非常に怒られたが、学校にこの日本地図の刺繍を持って行くと、ミリイチ先生はとてもきれいだと言って褒めてくれ、教務室に掛けて飾った。
ところがある時、警官が学校に来て沈美子を呼び出し、なぜ日本の地図に日本の花である桜を描かなかったのかと追求し、学校の隣にあった警察署に沈美子を連行した。
 警官は沈美子を警察署の宿直室に連込み、いきなり顔を寄せてきたので、沈美子は抵抗して警官の耳を強く噛んだ。その警官は非常に怒り、沈美子を殴ったり蹴ったりして強姦を遂げた
当時、沈美子の父は満州に行ったまま家にほとんど帰らなかった。そこで、その警官は、沈美子に対して、この点を追求し、お前の父は独立運動家であり、お前も同じ思想を持っているのだろうと決め付けて、拷問を加えた。例えば、沈美子の両足を重ねて電気線で縛り、電気を通じさせた。沈美子は体じゅうが痺れ、そのため現在に至るまで骨盤と足に症状が残っている。この拷問によって、沈美子は二、三日間、頭がボーッとなってしまったが、意識が回復すると再び拷問が再開された。爪の間に竹を差し込まれたり、焼きごてを肩に押しつけられたりした。その痣は、現在も左肩周辺に四ヶ所残っている。食事はもちろん与えられなかった。沈美子は拷問中耐えられなくなって意識を失ってしまったが、次に気がついた時には知らない場所に移されていた。
「ここはどこか。」と同室の女性たちに聞くと、日本の「福岡」というところだといわれた。海が近くにあった。そこは、軍の慰安所だったのである。二十数名の女性たちが一つの建物に入れられていた。
 沈美子は、何日か気を失っていたらしく、体じゅうが痛み、体のあちこちが出血していた。同室の女性たちが塩水で治療してくれた。同室の女性たちに、「ここは何をするところか。」と聞くと、「しばらくいたらわかるから。」と言うだけで、教えてくれなかった。
 しばらくして、軍人がやってきて女性を一人ずつ部屋から連れ出して行った。ある軍人が沈美子も連れ出そうとしたが、同室の女性の一人が、「私が代わってあげる。」と言って、その軍人の相手をしてくれた。
 しかし、沈美子も、それによって仕事の中身がわかり、同室の女性に迷惑をかけるのもわるいと思ったので、翌日から慰安婦の仕事をするようになった。~(中略)~
 この慰安所は、連行される女性たちの集結地点にもなっていたらしく、女性たちはしばらくここにいてから他の場所へ移されて行くようであった。そのため女性たちの出入りは非常に激しかった。わずか数時間いただけで、すぐ他の場所へ移されていく女性もいたようである。沈美子は日本語ができたので、しばらくして「班長」と呼ばれるようになり、通訳をしたり他の女性を指導する立場として利用されるようになった。そのため、比較的長く、約一年半その慰安所にいた。
 中国人女性も五、六人来たことがあったが、沈美子がそこにいたあいだに連れてこられた女性のほとんどは朝鮮女性であり、目的を全く知らされずに連れてこられた人たちであった。慰安所に来るまで、彼女らのほとんどは、工場の仕事と思っていた。大阪の履物工場から連れてこられた女性もいた。~(中略)~
 その後、テント付きのトラックで神戸の慰安所に移動し、そこに約八か月いたあと、さらに大阪の慰安所に移された。神戸も大阪も、将校専用の慰安所があった。~(中略)~
 沈美子は、一九四五年八月一五日大阪で日本敗戦を迎えた。その後、友人の知り合いの人に紹介され、しばらく大阪の工場で働くなどしていたが、故郷が恋しくなり、一九五三年韓国に帰国した。現在では、生活保護として月に三万ウォンおよび米一〇キログラムを支給されている。
1992.4 元兵士たちの証言 従軍慰安婦 西野留美子 明石書店
 一九四〇年、十六歳のときです。日本人の担任の先生に頼まれ、日本の地図に刺繍をしました。ところが、数日後、勉強していた私は教務室に呼ばれました。そこには、日本人の警官がいました。
「おまえは、わが国の国花がなんだか知っているか?」
 警官の問いに、私は桜の花だと答えました。
「桜の花だと知りながら、なぜ、アサガオの刺繍をしたのだ」
警官は私をなじりました。
「桜よりもアサガオの花のほうがきれいだと思ったから、アサガオの刺繍をしたのです」
 するとその警官は、「おまえの思想はまちがっている」といい、私を警察に連れていきました。そして、宿直室で、私を強姦しようとしました。私は無垢の乙女で、貞操を守ろうと抵抗して、その警官の耳をかじりました。すると、その警官は怒って、竹串で、私のつめのなかを突き刺し、まっ赤に焼いたコテで、私の肩を焼きました。ひどい拷問を受けて、私は気を失ってしまいました。
 それから何日かたって、私は日本の福岡に連れて行かれました。先にきていた女の人たちに、何をするところなのか聞きますと、「時間がたてばわかるよ・・・・・・」と、彼女たちは言いました。
 しばらくすると仮小屋のカーテンで仕切った部屋に入れられました。憲兵や警察の上官がやってきて、顔のきれいな女だけを選んでどこかへ連れていき、自分たちの妾にしました。
 兵隊が、一人、二人と入ってきて、私たちはもてあそばれました。それからというもの、私は、毎日、二十名から三十名、土、日曜日には、四十名から五十名の兵隊の相手をしなくてはなりませんでした。
 三ヶ月ぐらいたってから、一人の憲兵がかわいそうに思ってか、私を連れだし、ぜんざいを食べさせてくれました。ぜんざいを食べながら外をみると、着物姿の日本の女が、若い兵隊と流行歌を歌いながら連れだって逢引きしていました。それを見て、私はとても悲しくなりました。どうして私たち韓国の女がこんな目にあわせなければいけないのかと憤慨しました。
「天皇陛下が、韓国の女を挺身隊にしろと言ったんだ」と、憲兵が言いました。それを聞いた私は、とても切ない気持ちになりました。(P117~119)

(※2007.7.12 追加)
1992.8 <証言>従軍慰安婦・女性勤労挺身隊 伊藤孝司 風媒社
 私が五年生の時は十六歳でした。~(中略)~
 ところが三月中旬のある日、作文の授業中の教室に、学校の守衛が来て先生に何か話したんです。私は先生に行くように言われて、教務室に行きました。そこには、日本人の四〇歳近くの警察官と校長先生がいました。
 警察官は私に「この刺繍を作ったのか」と聞くので、何のためらいもなく「そうです」と答えたんです。すると「朝鮮の地図はムクゲで作ったのに、どうしてこれはサクラではなくアサガオなのか。日本の花が何なのか知っているのか」と言ったんです。私は「サクラよりもアサガオの方がきれいだから」と答えました。サクラの花だと刺繍すると浮き出て見えないんですよ。
 すると、その警察官は、私の思想が疑わしいと怒鳴ったんです。この時、校長先生は警察官に何も言ってくれませんでした。
そして、学校のすぐそばの「鳳山警察署」に連れて行かれました。学校と警察署との間は、三軒しか家がないほど近くでした。
警察官は、宿直室で私に暴行しようとしたんです。小学校の女の子たちは、白いチョゴリと、学年を表す白い線の入った黒の短いチマを着ていました。それで、警察官はそのチマをまくり上げたんです。その時、警察官の耳が私の口のあたりにきたので、思い切り噛んだら驚いて飛び出して行きました。(P.138~139)

 三~四時間すると、前と違う警察官が来ました。取り調べ室で「昨日、お父さんはどこに行っていたのか」と聞くので「お父さんは私が三歳の時から出歩いているので知らない。顔も覚えていないくらいだ」と答えたんです。
 私は小学校に通うようになってから「夜学校」へ行って、皆に号令をかけて軍事訓練をさせたり、「皇国臣民の誓い」を言わせた事がありました。そのため、私はそこに通っている女に「日本の手先になって自分たちをいじめている」と言われた事さえありました。それなのに「お前も父親も思想がおかしい」と言われて、拷問をされたんです。
 最初は電気拷問でした。両足を縛られ、両手を広げたまま体が動かないようにされて、電気を流されたんです。体全体がしびれ、冷たい水に入れられた時のような感じがしました。三回くらい流されたんです。次は編み物で使うような竹の針を、手の爪の下に差し込まれました。それから、赤く焼けたコテを肩と首に押しつけられたんです。自分の体の肉が焼けた臭いを嗅いで、気を失ってしまいした
 今でも左手親指の爪には、その跡がはっきりと残っています。足は電気を流されたために発育しなかったし、今でもしびれるので階段を登るのが大変なんです。そして焼ゴテの跡は今も残っています。
 気がついたら、狭い部屋に押し込まれていました。どれだけの間、気を失っていたのかわからないんです。傷は痛いし、おなかが空いていたので立ち上がれませんでした。
入口のカーテンを開けてみたら、陸軍の将校が行き来しているのが見えました。しばらくすると、朝鮮人の女が何人か来て「この女はまだ死んでない」と、私を見て言いました。私が「何か食べさせてくれ」と言うと、干パンと水を持って来てくれました。
「どうしてここへ来たのか」と聞かれたので、いきさつを話しました。女たちが「ここは福岡だ」と言うので、私は「朝鮮に福岡があるのか」って聞いたんです。私は日本まで連れて来られたと思ってなかったからです。私は日本語が話せたので、兵隊にも聞いたら、やはり日本の福岡でした。~(中略)~
 三時か四時になると、女たちは二人に減りました。すると女が「兵隊が来たら拷問で腫れたり膿んだりした所を見せなさい」と言うんです。兵隊たちが来たので、いきさつを話したら同情してくれて、何もされませんでした。
 翌日になり、朝食の済んだ八時半に大尉が来ました。私の傷を見たあと、いきさつを聞いて「かわいそうだ。あんまり心配するな」と慰めてくれて、出て行ったんです。そしたら、兵隊が、包帯、赤チン・塗り薬・内服薬を持って来ました。その兵隊に聞いたら、大尉はここの所長でした。
 三日したら、「着ている物を洗濯しなさい」と、所長が軍服を持って来ました。私の服は血が付いていたからです。兵隊は毎日けがの手当てをしてくれて、しばらくはそのまま過ぎました。
 私にはここがどういう所なのか、わかりませんでした。他の女たちは、私よりも三~四歳年上だったので、私はみんなを「姉さん、姉さん」と呼びました。その「姉さん」たちの所には兵隊が次々と出入りするので、なぜなのかと聞きました。それで、ここは「慰安所」というもんだと知ったんです。
 所長は二~三日おきに、干パンなどを持って来ました。この所長が、私の最初の相手になりました。対馬出身の「高(たか)」という姓の人でした。
 私はここに一年半いましたが、私が連れて行かれて七~八か月した時に「高」は転勤して行きました。「高」はその時に、故郷が同じ「鈴木」という憲兵大尉に、私の面倒をみて欲しいと頼んだそうです。(P.138~142)

 ある時、「ナガレヤマ」の部隊に「慰安婦」を連れて行くトラックがあって、私も乗って行きました。私は他に行ってみたち、という好奇心があったからです。そしたら、一晩すると福岡の部隊が連れ戻しに来たんです。(P.144)

 女たちが集まって話しをしている時に、私は「どうしてここに来る事になったのか」と聞いた事があります。そしたら、九割が「工場に就職させてあげるから」とだまされて連れて来られ、一割が私と同じように学校で捕まえられた人でした。
 「国語(日本語)を使わなかった」「学校の神社に参拝しなかった」とか、「『皇国臣民の誓い』を暗唱できなかった」という事で捕まった人もいました
。先生と恋仲になったため、先生の妻が腹を立てて「慰安婦」にさせられた、という女学生もいました。(P145)
 
 たいていの女は性病にかかっていたので、兵隊があまりしつこいと痛かったんです。それを拒むと、兵隊は怒って殴ったり蹴ったりしました。ひどい場合には、銃で女の陰部を撃って、そのままトラックで行ってしまった、という事もありました。「ダーン」という銃の音を聞きました。移動で来た兵隊は、部屋の中まで銃を持って来ていたんです。
また、銃剣で女の乳房を切った兵隊もいました。女はまだ息があったんですが、兵隊は部屋のカーテンをちぎって女を包み、どこかへ連れて行ってしまったんです。(P.147)

 そして、「鈴木」はある時、私に重要な話をしたんです。「天皇陛下から命令がくだって、朝鮮の女たちを面(村)・市・邑(植民地下では町にあたる)から『慰安婦』として挑発する」と教えてくれたんです。それは一九四二年か三年の事でした。
 この後、「鈴木」が「ナガレヤマ」に転勤したので、一緒に行きました。ここに行くには車・船・車と乗り継いで、一二時間かかりました。
 ただ、私は「ナガレヤマ」には移ったのではなく、短い時には一週間、長いと二ヵ月の間隔で福岡と行ったり来たりしていました。(P.148)

 私は「鈴木」に連れられて「ナガレヤマ」だけでなく、神戸・大阪・和歌山にある部隊にも、福岡から行ったり来たりしました。そこにも「慰安所」があったんです。(P.149)

 和歌山に二回目に行った時に、終戦になったんです。(P.150)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 私は5年生の時は16歳でした。担任の「林」先生は、私の家の前を通って自分の家に帰っていたので、よく立ち寄って行きました。夕方、ちょうど通りかかった「林」先生を、お祖母さんが「芋を蒸したので、食べていってください」と呼び止めたのです。
 その時、部屋の壁には私の刺繍が飾ってありました。それは、ムクゲの花と枝を並べて朝鮮の地図の形にしたものでした。先生は、芋を食べながらその刺繍を見て、「誰が刺繍したのか」とお祖母さんに尋ね、縄跳びをしていた私を呼びました。先生は「日本の地図も作ってくれ」と言ったのです。
 私は、アサガオの花を並べた地図の刺繍を作り学校に持って行きました。「林」先生は、クラスのみんなの前で、「こんなに美しいのを作ってくれました」とほめてくれました。校長先生もとても喜んでくれて、教務室に飾ってもらったのです。
 ところが3月中旬のある日、作文の授業中に呼ばれて教務室に行きました。そこには日本人の40歳近くの警察官と校長先生がいました。警察官は私に「この刺繍を作ったのか」と聞くので、何のためらいもなく「そうです」と答えました。すると、「朝鮮の地図はムクゲで作ったのに、どうしてこれはサクラではなくアサガオなのか。日本の花が何なのか知っているのか」と言ったのです。私は「サクラよりもアサガオの方がきれいだから」と答えました。すると、その警察官は、私の思想が疑わしいと怒鳴ったのです。この時、校長先生は警察官に何も言ってくれませんでした。今、考えてもこのことには憤りを感じます。
 そして、学校のすぐそばの「鳳山警察署」に連れて行かれました。学校と警察署との間には3軒しか家がないほど近くでした。
 警察官は、宿直室で私に暴行しようとしたのです。小学校の女の子たちは、白いチョゴリ(朝鮮の上着)と、学年を表す白い線の入った黒の短いチマ(スカートのような民族衣装)を着ていましたが、警察官はそのチマをまくり上げたのです。警察官の耳が私の口あたりにきたので、思い切り噛んだら驚いて飛び出して行きました。
 3~4時間すると、前と違う警察官が来ました。取り調べ室で「お父さんは昨日どこに行っていたのか」と聞くので「お父さんは私が3歳の時から出歩いているので知らない。顔も覚えていないくらいだ」と答えたのです。
 そしたら「お前も父親も思想がおかしい」と言われて拷問されたのです。最初は電気拷問でした。両手を広げて体を動かさないようにされ、両足も縛られて電気を流されたのです。体全体がしびれ、冷たい水に入れられた時のような感じがしました。3回くらい流されたのです。
 次は、編み物で使うような竹の針を、手の爪の下に差し込まれました。それから、赤く焼けたコテを肩と首に押しつけられたおです。自分の体の肉が焼けた臭いを嗅いで、気を失ってしまいました。
 気がついたら狭い部屋に押し込まれていました。どれだけの間、気を失っていたのかわからないのです。傷は痛いしお腹が空いていたので、立ち上がれませんでした。しばらくして、朝鮮の女が何人か来て、「まだ死んでない」と私を見て言いました。私が「何か食べさせてくれ」と言うと、干パンと水を持って来てくれました。
 「どうしてここへ来たのか」と聞かれたので、いきさつを話しました。女たちが「ここは福岡だ」と言うので、私は「朝鮮に福岡があるのか」って聞いたのです。私は日本に連れて来られているとは思わなかったからです。(P.43~44)

(※2007.4.23 追加)
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◆◆◆ 盧清子(ノ・チョンジャ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1922.2.16、忠清南道の貧しい農家に生まれる。17歳の時、日本人が処女を連行しようとしていると聞き、伯母の家へ逃げる途中で憲兵に捕まり山西省の五台山の慰安所に入れられる。2年3ヶ月後、朝鮮人の商人に助けられ慰安所から逃げ出す。

1991.12月に提訴された「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」に1992.4月に第2次原告の一人として参加する。同裁判は2004.11月、最高裁棄却により敗訴が確定した。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

憲兵に捕まりトラックに乗せられる。トラックのあった場所には多くの兵隊がいた。汽車、トラックと乗り継ぎ五台山まで行く。


【考察】

兵隊が処女を連行しようとしているという話を聞いて、伯母の家へ逃げる途中に捕まって連行されるという話なのですが、如何にも胡散臭い内容です。

「裁判の訴状」(以下「裁判」)と「<証言>従軍慰安婦・女性勤労挺身隊」(以下「証言」)を比べると下記の通り相違点が見られます。

<連行の時期>
○「裁判」・・・1938年3月、16歳の春
○「証言」・・・17歳の秋(※西暦の明記なし)
季節が全く違います。なお、16歳は満年齢で17歳は数え年でしょう。

<捕まった時にいた軍人>
○「裁判」・・・憲兵1人、兵隊6人、及び、同女が乗せられたトラックとは別のトラックに20人ほどの軍人
○「証言」・・・憲兵1人、兵隊10人
人数が半分以下になっています。38人の女性を連行するのに、約27人の軍人は多すぎると考えたのでしょうか。

<監視役の日本女性>
○「裁判」・・・同女が乗ったトラックには、監視役の30歳代の日本人女性が2人乗っていた
○「証言」・・・日本人女性の記述なし
他の、如何にも「強制連行」と言った証言の場合も、連行時に軍人と共に日本人女性が行動していたとの記述は見かけません。そもそも、わざわざ女性を連れてきて監視役にしなくても、兵隊にさせれば済む話です。「裁判」より後の証言では、連行時の日本人女性の記述は見あたりません。

<慰安所での監視>
○「裁判」・・・記述なし
○「証言」・・・最初の頃、二人の日本人の女が監視
不思議なことに、「証言」では、連行時に出て来なかった「監視役の二人の日本人女性」がここで出てきます。

<慰安所の休み>
○「裁判」・・・一ヶ月に一度だけ
○「証言」・・・休みは土曜だけ
月1回の休みが、週一回の休みに変更されています。

<中国兵殺害現場への立会い>
○「裁判」・・・八路軍の兵士を穴の前に立たせ、兵士の首を鎌で切り落とす現場に「勇気ある者にするために見せる」と言われて立ち会わされる。
○「証言」・・・該当する記述なし
単に省略しただけかも知れませんが、南京事件の1シーンを彷彿とさせるもので如何にも創作臭い内容です。そもそも、鎌なんかで首を切り落とせるのでしょうか。西洋の死神が持っているような大鎌でも使ったのでしょうか。そうだとしても使い慣れてない道具を使って首を切り落とせるとは思えません。

<父の死亡原因>
○「裁判」・・・軍属として南洋群島に連行され、そこで死亡した
○「証言」・・・徴用で連行された南洋群島で、日本人に叩かれて背骨を折られ、終戦で帰国してから死亡
単に、「死亡した」としか記述されていなかったのが「日本人に叩かれ背骨を折られた」という情報が加わり、しかも、南洋群島で死亡したはずが、帰国してから死亡したことに変更されています。
なお、「裁判」では、「いつか日本の責任を明らかにして日本に補償をさせ、南洋群島で亡くなった父のために碑を建てたい」と記述されています。どうやら、南洋群島に碑を建てる必要はなさそうです。

<故郷に帰った年>
○「裁判」・・・1947年
○「証言」・・・1945年(※明記されていませんが、「朝鮮に帰って、数ヶ月すると終戦になりました」とあり、さらに「私が自分の故郷に帰ったのは、その年の秋でした」とあります)
さすがに、終戦の年に帰郷したか、その数年後に帰郷したかぐらいの記憶はあると思うのですが。


なお、慰安婦裁判の原告にもなっている同女ですが、「韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会」が編纂した「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(明石書店・1993)には証言が載せられていません。(以下の内容は「『自虐史観』の病理(P.153~165)」藤岡信勝・文春文庫を参考にしました)

同証言集(P.22)には、最終的に証言を載せたのが19人だった経緯について記載されており、まとめると以下の通りです。

 ○韓国挺身隊問題対策協議会に申告された人数・・・110人(1992.12末現在)
    内、生存者・・・55人
      内、連絡可能な者・・・40人
        内、以下の者を除いた人数(=証言が掲載された人数)・・・19人
           ①自分の経験を語りたがらない人
           ②証言がそのたびごとにひどくくいちがったり、話の前後があわず、調査が難しい人
           
同女は、同証言集の発行時に生存しており、また、裁判の原告になっていることから、連絡が不可能だったとか、「自分の経験を語りたがらない」はずがありません。つまり、②に該当して、「証言がそのたびごとにひどくくいちがった」ので、証言集には載せられなかったのです。

なお、裁判の原告になって以降、家族等の状況の変化で証言ができなくなったとも考えられなくもないですが、1994年5月に他の15人と共に来日し、記者会見、羽田首相への面談申し入れ、街頭アピール、皇居前抗議行動等を行っていますし、その可能性はないでしょう。


【信憑性】

信憑性無し。
韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会が編纂した証言集からも落とされてしまっています。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992 裁判の訴状 ***** ****
 原告盧清子(ノチョンジャ。以下、「盧清子」という。)は、一九二二年二月一六日、忠清南道の貧しい小作農に生れた。
 盧清子は、父母、兄妹の家族とともに生活し、家事や農作業を手伝っていたが、一九三八年三月、盧清子が一六歳の春、盧清子の母は、村で「娘が兵隊に連れていかれる」という噂を聞いてきた。
 盧清子は、まさか自分の村にまで、兵隊が来るとは思わなかった。しかし、その五日後、盧清子が畑で作業をしていると、昼ごろ、母が慌ててやってきて、盧清子に持ってきた昼食を食べさせた後、自分のチマ(スカート)を脱いで、それを盧清子の頭に被せ、「兵隊が来た。早く、おばさんの家に逃げなさい」と言った。
 盧清子は、不安でいっぱいだったが、娘であることがわからないように母のチマを頭から被り、徒歩二時間の距離の山の中にあるおばの家を目指して必死で歩いていた。
 約一時間、おばの家までの道を半分ほど歩いたころ、盧清子は、日本人の軍人七人(憲兵一人、兵隊六人)に捕らえられてしまった。軍人たちは、盧清子の手を引っ張ったり、足を掴んだりしたため、盧清子は、到底逃れることができなかった。盧清子は、軍人の一人の肩に無理やり担がれて、そのままトラックに運ばれた。
丘 を上り、下ったところにトラックがあった。一台のトラックには、一八歳前後の女性が盧清子を含め三八人乗った。ほかに監視役の三〇歳代の日本人女性が二人乗った。女性たちが乗ったトラックの後にもう一台のトラックが続いた。それには、二〇人ほどの軍人が乗っていた。
 女性たちはみな手を取り合って「私たちはもうみな死んだ」(死んだも同然だ)と言って、声を出して泣いた。
トラックは、その日の午後村を離れた。
盧清子は他の女性とともに、倉庫のような場所に連れていかれ、握り飯と水を与えられた後、されにトラックは、夜間も走り続けた。
 そして、二日間汽車に乗って、タイチカンに着いた。
 汽車から降りると、待っていたトラックに乗せられ、三、四時間移動して、オオテサンに着いた。
 オオテサンの部隊は、城壁の中にあった。
 三八人の女性はみないっしょに連れてこられた。
 慰安所は、部隊の中にあった。馬小屋のようなところで、小さい部屋が板で仕切ってあった。人が二人やっと入れるくらいの大きさの部屋で、部屋の前はカーテンが掛けられていた。板の底に薄い敷布団が敷いてあった。~(中略)~
 休日は、一か月に一度だけだった。月経のときは、「私はメンスよ」と言って、下着を汚したままにした。月経でも、相手をさせる軍人はいたが、それでも、ふだんよりは、少なくなるからだ。~(中略)~
 もう1つは、捕らえた八路軍の兵士を殺害する現場に立ち会わされたときだった。八路軍の兵士を穴の前に立たせ、兵士の首を鎌で切り落とすと、首が穴に落ちた。軍人は「勇気ある者にするために見せると言って、軍隊慰安婦の女性たちに着物を着るように命令して、殺害の現場に立ち会わせた。盧清子は、その現場に立ち会わなければならなかった日の夜は、悪夢にうなされた。~(中略)~
 盧清子は、脱出を手助けしてくれた商人の事実上の養子となり、養父母とともに、天津で暮らしていたが、養父母が帰国することになったため、一九四七年、盧清子が二五歳のとき、故郷に帰った
 故郷に帰って、盧清子は、父と妹が死亡したことを知った。
 父は、盧清子が連行された五か月後に軍属として南洋群島に連行され、そこで死亡したとのことだった。~(中略)~
 何度も死のうと思ったかもしれない。それでも歯を食い縛って生きてきたのは、いつか日本の責任を明らかにして日本に補償させ、南洋群島で亡くなった父のために碑を建てたいという思いがあったからである。
1992.8 <証言>従軍慰安婦・女性勤労挺身隊 伊藤孝司 風媒社
 ところが、一七歳の秋のことです。畑で働いていたら、村人たちが来て、「日本人が処女たちを連れて行こうとしている」という話をしていきました。そしたら、お母さんが走って来て「兵隊が来たから早く逃げろ」と言ったんです。
お父さんの姉にあたる伯母さんお家に逃げる事になり、お母さんは自分の白いチマ(朝鮮のスカート)を脱いで、私に顔を隠すためにかぶせてくれました。そこからセジェという場所にある伯母さんの所まで三里ありましたが、私は「道を知っているので一人で行く」と言ったんです。
 だけど、伯母さんの家に行く手前の橋の上で、憲兵に捕まってしまいました。
 そこには、先に捕まった娘が一人いました。私は日本語を知らないので、身振りで嫌だと示したんですが、一〇〇メートルほど離れた所の大きな道まで連れて行かれました。すでに夕方になっていました。
 そこには大きなトラックが三台停まっていて、私を捕まえた憲兵の他に、普通の兵隊たち一〇人がいました。トラックに乗せられると、他の所で捕まった娘たちがいました。私の知らない人ばかりでしたが、大田の近くの人たちでした。全部で三八人捕まったんです。
 その時、私には面(村)事務所で書記をしていたいいなずけがいて、五日後には嫁に行く事になっていたんですよ。~(中略)~先ず着いたのは「北支」の天津でした。そこから更に「タイチカン」まで汽車で行き、トラックで「五台山」という最前線の部隊に着きました。部隊から一〇〇~二〇〇メートルほど離れた所に小屋が建っていて、そこに入れられました。三八人はここまで一緒でした。(P.93~94)

 ここへ連れて来られた最初の頃は、二人の日本人の女が私たちを監視していました。(P.95)

 私たちは、その商人の所へ行く事だけは許されていました。この人が私に「そんなにしていたら、いつ死んでしまうかわからないから」と、逃がしてくれてんです。~(中略)~
 この夫婦には子どもがなく、私が気に入ったので、私だけ逃がしてくれたのでした。それは、そこへ行って二年三ヵ月した時で、三月のことです。
 その人の天津の家で、私は隠れて暮らしました。私を養子のように扱ってくれたんです。この夫婦は商売で儲けたので、家を売り払って、私が二五歳の時に私を連れて帰国しました。
 朝鮮に帰って、数ヵ月すると終戦になりました。養父母は、論山に家を建てて畑を買い、私と一緒に生活を始めました。
 私が自分の故郷に帰ったのは、その年の秋でした。養父母には「家族を探したら、必ず帰って来て、ここの娘になります」と言いました。そしたら、養父母は私に「婿をもらって一緒に暮らそう」と言ってくれたんです。
 故郷に戻ってみると、お父さんが亡くなっていました。お父さんは「徴用」で連れて行かれた「南洋群島」で、日本人に叩かれて背骨を折られたんです。終戦で帰国してから亡くなっていました。(P.96~97)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 私が生まれたのは大田の貧しい農家でした。
 数え年で17歳の3月のことです。お母さんと畑で豆の種を蒔いていましたが、昼になってお母さんは家に戻りました。すると、村人たちが来て「日本人が処女たちを連れて行こうとしている」と言うのです。すぐ、お母さんが走って戻って来て「兵隊が来たから早く逃げろ」と言いました。
 伯母さんの家に逃げることになり、お母さんは自分の白いチマ(スカートのような民族衣装)を脱いで、顔を隠すために私にかぶせてくれました。そこから伯母さんのところまで3里ありましたが、私は「道を知っているので一人で行く」と言ったのです。
 峠の手前で女の泣き声が聞こえました。そちらを見たら兵隊と捕まえられている女がいたのです。私はチマをかぶっていたので、兵隊がいるのに気がつかなかったのです。足が震えて逃げられずに捕まってしまいました。その兵隊は、赤い文字で「憲兵」と書かれた腕章をしていました。
 100メートルほど連れて行かれると、そこには大きなトラックが3台停まっていて、兵隊たち10人いました。帆のかかったトラックに乗せられたら、他の所で捕まった娘たちがいました。この時、私を入れて38人が捕まったのです。18歳か19歳が多かったですが、16歳の女もいました。「殺されるのではないだろうか」と、みんなで抱き合って泣いていました。その時、私には面(村)事務所で書記をしていたいいなずけがいて、5日後には嫁に行くことになっていたのです。
 トラックは鉄道の駅に着き、すぐに無蓋の汽車に乗せられました。4昼夜走って着いたのは「北支」の天津でした。そこから、更に「タイカチン」まで汽車で行き、トラックで「五台山」(山西省にある)という最前線の部隊に着きました。そして部隊から100~200メートルほど離れたところに建っていた小屋に入れられました。
 小屋の中は、板で細かく仕切られた部屋がありました。部屋には番号が付いていて、私は7号室でした。外から入れるように部屋ごとに入口があって、そこにはカーテンが掛かっていました。
 その日の夜7時頃、どの部屋にも兵隊が入って来たのです。それは1等兵・2等兵たちでした。私は激しく抵抗したので、兵隊に殴られたり蹴られたりしました。鼻や口から血を出し、お尻に大けがをしました。(P32~36)

◆◆◆ 裵奉奇(ペ・ポンギ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1915年忠清南道新禮院に生まれる。1944年29歳の時、紹介業者に騙され沖縄に連れてこられ、慰安婦として働かされる。

1991.10月死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

コンドウという男に連れられ、釜山から下関に渡り、下関で一度、シンガポールに向かう日本軍の船に乗るが、門司で下ろされ、そこで半年間、待機する。その後、鹿児島に移動し日本軍の輸送船に乗って沖縄に行く。


【考察】

同女は紹介業者に騙されたことになっていますが、果たして本当に騙されたのか疑問です。紹介業者の言葉は、「南の島に行って働けば、金が儲かる。黙って寝ていてもバナナが口に入る」(イアンフとよばれた戦場の少女)等と言うような漠然としたものしか記述されていませんが、普通、この言葉だけを丸々信じてついて行こうと考える人はいないでしょう。
しかも、当時、同女は29歳です。7歳の時に一家離散し、3回の離婚も経験しています。辛酸をなめ続けた人生を送っており、このような甘言をそのまま信じるとは思えません。世間知らずの子供ならともかく、通常、仕事の具体的内容を聞いて当然ですが、同女の証言には「工場で働く」「食堂で働く」等の言葉はありません。無いと言うことは、逆に、具体的に何をするか知っていたからではないでしょうか。

さらに、同女を誘ったのは「女紹介人」(イアンフとよばれた戦場の少女)で、女性専門の人身売買業者です。もし、具体的に仕事内容を告げられなかったとしても、それが売春業関連だと分かって当然ではないでしょうか。(※紹介人と言っても売春業のみの斡旋をしていたわけではないようですが)

なお、「ナヌムの家歴史館ハンドブック」では、より限定的に「慰安婦紹介業者」になっています。相手が「慰安婦紹介業者」なら、やる仕事は「慰安婦」以外にありません。良心的に解釈して、後から考えてみると「慰安婦紹介業者だった」と言うことでしょうか。


【信憑性】

慰安婦をするということを本当に知らなかったのかは甚だ疑問ですが、下記資料を見る限り、本人の言葉として「騙された」と明記されているものもありませんでした。
全体として信憑性はあると思われます。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.8 皇軍慰安所の女たち 川田文子 筑摩書房
 ポンギさんが、“女紹介人”に「いい儲け口がある」と誘われたのは咸鏡南道の興南においてである。興南は、水俣に本社を置く、当時の日本窒素肥料株式会社と同資本が国策に基いて、中国侵略の兵站基地として開発した工業都市である。
 この興南を発ったのが一九四三年暮、翌年春、釜山から下関に来て、その約半年後に日本軍と一緒に沖縄に来た。那覇に着くと、ポンギさんら五一人の朝鮮女性は三グループに分けられた。慶良間諸島行き、大東島行き、そして那覇に留まる者たちである。慶良間行きはさらに三組に分けられた。座間味島、阿嘉島、それにポンギさんが行った渡嘉敷島である。~(中略)~
 日本軍が慶良間に上陸したのが一九四四年九月、ポンギさんらが到着したのが一一月、日本軍が駐屯した二か月後には慰安所が開設されたのだ。
 米軍は一九四五年三月三日、沖縄本島上陸に先がけて、慶良間海峡を艦船の停泊地とするため慶良間猛攻を開始する。米軍が上陸した二六日から二八日にかけて、座間味、慶留間、渡嘉敷の住民あわせて約七〇〇名が集団自決に追い込まれた。ポンギさんは日本軍とともに渡嘉敷では最も山深い二三四高地に籠り、炊事班に組み入れられた。
 そして、敗戦、米軍の石川収容所に沖縄の人々に混って収容された。そこを出てからは、ことばは分らず知る人もなく、住む所も金もなく、地元の人々でさえ日一日を過ごすことが困難な焦土と化した沖縄で、一人生きていかなければならなかった。
 「だまされて連れて来られて、しらんくにに棄てられてるさね」
 何度聞いたか知れないこのことばを、私はポンギさんの寂しい口調そのままに諳んじることができる。(P.16~17)

(※2007.7.5 追加)
2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 編 柏書房
裵奉奇ハルモニは忠清南道新禮院で、貧しいムスム(農家の作男)の次女として生まれた。8歳になっても学校に行けずに、あの家この家を雑用をしながら転々とするなど、不遇な幼少時代を過ごした。17歳のときに結婚したが、生活力のない夫と2年後に別れた。ハルモニが沖縄に着いたのは1944年11月で、「楽園のような所で就職させてやる」という慰安婦紹介業者の一言に騙されてのことだった。光復を迎えても、ハルモニは故郷に帰れなかった。(P.58)
2005.6 イアンフとよばれた戦場の少女 川田文子 高文研
 ポンギさんは二〇歳の頃から職を求めてあちこちの町を転々とするようになりました。そして、興南という町で働いていた時に日本人と朝鮮人、二人組の「女紹介人」に声をかけられたのです。「女紹介人」は、「南の島に行って働けば、金が儲かる。黙って寝ていてもバナナが口に入る」などと暖かい南の島が楽園であるかのように甘いことばで誘いました一九四三年、もう、だいぶ寒い季節になっていました。それからしばらくして、再び「女紹介人」が来ました。ポンギさんは布団などは処分し、着替えだけを持って二人組について行くことにしました。
興南から京城(現ソウル)に行き、旧正月が終わってから釜山の旅館に移り、コンドウという男に連れてられて約六〇人の若い女性が玄界灘を渡りました。下関に着いたのは、まだ肌寒い早春でした。下関で一度、シンガポールに向かうという日本軍の船に乗りました。ところが、翌朝、下ろされて門司で半年くらい待機していました。この間に数人の女性が逃亡しました。
 一九四四年一一月、五一人の女性は鹿児島に移され、日本軍の輸送船に乗せられました。船上では日本軍とともに敵襲された際の避難訓練を受けました。輸送船は那覇港に到着しましたが、その年の一〇月一〇日、空襲を受けた那覇の市街地は見渡す限り焼け野原になっていました。
コンドウは朝鮮から連れてきた五一人を慶良間諸島に二一人、大東島に一〇人、那覇に二〇人と三組に分けました。慶良間に向かった二一人はさらに七人ずつに分けられました。こうしてポンギさんは慶良間諸島のなかの一つの島、渡嘉敷に着きました。興南を出てからほぼ一年が経過していました。十・十空襲後の那覇の焼け野原を目の当たりにして不安を覚えたものの、非常に厳しい戦況になっていたことは、ポンギさんらは知るよしもありませんでした。(P.19~20)
二九歳のポンギさんは最年長でした。(P.22)
2006.1.22 JANJAN 「ふたたび『沖縄のハルモニ』を読んでみた」 ***** ****
 朴ハルモニ(あるいはヨネさん、本名:ペ・ポンギさん)は1914年に忠清南道の貧しい小作人の家に生まれ、7歳のときに一家離散、以後は子育てなどの労働をしながら育ち、学校には通っておらず、読み書きはできない。17歳のときに結婚したが、この初婚を含めて三度、結婚に失敗している。三度の結婚の失敗などは、すべて貧困によるものらしい。19歳(1933年)でふるさとを出て以来、29歳(1943年)まで、今の韓国・北朝鮮を流浪するが、その間の暮らしぶりは、必ずしもはっきりとはしていない。
 29歳の時(1943年)「仕事せんで金はもうかる」という甘言によって騙され、釜山、門司、鹿児島を経て、1944年秋に沖縄に到着、11月から渡嘉敷島で従軍慰安婦として「仕事する」ことになった。


◆◆◆ 李玉善(イ・オクソン) ◆◆◆


※李玉仙と表記される場合もあり


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1927年10月(注)、韓国釜山の貧しい家に生まれる。14歳の時、飲み屋の養女として売られ、さらに、別の飲み屋に売られる。
1942年7月、店のお使いの最中に拉致され、中国東北部、延吉の飛行場で重労働させられると共に暴行・強姦される。約1年後、同市内の慰安所に入れられる。
解放後も故郷に戻れず、2000年6月、58年ぶりに韓国へ帰国した。

(注)戸籍上は1928年


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本人と朝鮮人の男二人に拉致されトラックで駅まで行き、汽車で延吉(満州)まで連れて行かれる。そこの日本軍の飛行場で働かされ、強姦される。約一年後、延吉市内の慰安所に入れられる。(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」より)


【考察】

1つ目の飲み屋では、早朝から夜中の1時2時まで働きづめで、しかも、客の接待を強要された為、2度ほど逃げ出し、最後には別の飲み屋に両親にも内緒で売られてしまったようです。2つ目の飲み屋での様子は証言にないため不明(※ただし、ナヌムの家のHPの機械翻訳では「芸者集」とある)ですが、そこから、慰安婦として売られたと言うのなら特異な話ではないはずです。
2件目の飲み屋が、「客の接待は拒むは、せっかく買ったのに使えないから売春宿にでも売っぱらっちまえ」と考えたとしても不思議ではありません。また、単に「客の接待」と表現していますが、それが、お酌をする接待ではなく、体での接待だとしたら、嫌で2度も逃げ出したというのも納得できます。(あくまで推測に過ぎませんが)

しかし、同女の証言では、慰安所に入れられるまでの話に「拉致」が入ります。
拉致されたのは、2件目の蔚山(ウルサン)の飲み屋で働いていた時で7月中旬の夕刻の話です。「店の主人から買い物を頼まれ表の通りに出たところ、突然、二人の男に捕ま」り、「どこへ連れて行くんだ、帰してくれ、と抵抗しましたが、そのまま引きづられるように連れ去られた」(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」P.155)と証言しています。

7月中旬の夕刻ですから、まだ明るいでしょう。表通りで捕まり、同女は叫びながら引きづられています。こんな状況で誰も助けてくれずにそのまま拉致されたと言うのは不自然です。しかも、下記資料の通り、拉致したのが「日本人と朝鮮人の二人組」であったり、「朝鮮男2人」であったりします。

また、その後、手足を縛られ猿ぐつわをかまされトラックに乗せられて、蔚山駅で貨物車に乗せられます。
駅では、「私たち全員、今度は汽車に乗り換えるように言われました」(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」P.156)とあるように、この表現を信じれば、自分の足で歩いて貨物車に乗ったようです。それなら、駅で助けを求めるか逃げればいいと思いますが、そのような記述はなく、ただ、「どこかで乗り換えるときがあれば脱出しようと思っていましたが、結局どこにも停まりませんでした」(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」P.156)とあります。

このように同女の拉致の状況は不可解な部分が多くあります。さらに、そのまま慰安所に入れられるのではなく、一旦、飛行場で働くと言う「挺身隊」の要素もあります。如何にも「従軍慰安婦」を意識して作った創作と言う感が拭えません。そもそも、飛行場で強制労働をさせることが目的なら、15、16歳の少女なんか連行せずに男性を狙うでしょう。


なお、拉致された年齢について微妙に違うのは、数え年と満年齢の違いによるものでしょう。


【信憑性】

証言に不可解な部分が多く信憑性があるとは思えません。(特に拉致と飛行場での重労働に関する証言)

決定的に同女の証言を否定するものも見つかりませんでしたが、2000年に58年ぶりに韓国に帰国したと言うことで、1991年に名乗りをあげて訴訟を起こした金学順(キム・ハクスン)さんや文玉珠(ムン・オクス)さん達と違って、公に証言を始める時点から、「強制連行の要素がなければ日本政府に謝罪や補償を要求できない」ということを知っていた可能性もあります。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 編 柏書房
1942年7月中旬の夕刻、使いに出された際に、朝鮮人男性2名に捕まり、中国の延吉(ヨンギル)にある空軍部隊の東飛行場に連れていかれた。そこでは1年ほど下働きをさせられたが、その間、日本軍人たちから日常的に強姦された。その後、一緒にいた女性たち全員が、延吉市内にある慰安所に移され、3年ほど『慰安婦』生活を送った。
慰安所は狭く、10名あまりいた女性が入りきれず、1部屋に2‐3人が入った。はじめは部隊内の庭にゴザを敷いて使うこともあったが、突然軍人たちが部屋に入ってきて、他の同僚が見ている前で、獣のように女性を強姦した。そこにいるときは、サックも使わず、性病検査もなかった。(P.131)
(※2007.4.8追加)
2004.1.9 アジアプレスネットワーク
※リンク切れ
***** ****
16歳のとき日本軍の「慰安婦」として旧満州(今の中国東北部)に連行され、日本の敗戦後も彼の地に取り残されていた。
2004.4.1 JANJAN ***** ****
ある日、店の人からお使いに出された時、日本人と朝鮮人の男性2人に拉致され、行き先も告げられずに無理やりトラックに乗せられた。李さんが到着した場所は中国の延吉にある空軍部隊の飛行場だった。その飛行場の周囲は収容者の脱走を防ぐため高圧電流が流れる鉄条網で囲まれていた。李さんたち労働者は1日に小さな蒸しパン1つだけ与えられて働かされ、不満を訴えると兵隊に血まみれになるまで殴られた。
ある日、軍人がやってきて李さんに車に乗れと言った。李さんは家に戻れると思って喜んだが、連れて行かれたのは慰安所だった。
2005.7.29 東京新聞
※リンク切れ
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突然、見ず知らずの男たちに捕まり町から連れ去られたのは一九四二年のことだ。貨物列車で連れて行かれたのは、中国東北部、延吉の日本軍駐屯地に置かれた慰安所。管理人を名乗る男から着物と毛布を渡され、「これは借金だ。返すまで家には帰れない」と言われた。

(※管理人注:当該記事には飛行場での強制連行の話がありません。単に省略しただけか?)
2005.10.14 QAB琉球朝日放送
※リンク切れ
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15歳のとき、お使いに出かけ、路上で、日本人と朝鮮人のふたり組の男に突然、両脇を抱えられて連れ去られ
2006.3.2 朝日放送・関西「韓国 元慰安婦たち、静かに寄り添って」
※リンク切れ
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 韓国南東部の蔚山(ウルサン)で、住み込みのお手伝いとして働いていた42年、大通りを歩いていると、背の高い男2人に突然、両脇をつかまれた。トラックに放り込まれて両手両足を縛られ、口をふさがれた。連れて行かれたのは中国東北部の延吉。電気の流れる鉄条網に囲まれた飛行場で草刈りや滑走路の掃除をさせられ、食べ物は小さなパンだけだった。
 「こんな所では働けない」。抗議すると、3畳ほどの部屋が並ぶ土やれんがの建物へ。風呂に入れられ、着物や足袋、げた、布団を渡された。「これはお前らの借金。稼いで返せ」。その日から「トミコ」と呼ばれ、兵士らの相手を強いられた。
2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
 私が十四歳になったある日、母親に呼ばれて行ってみると、釜山駅前のうどん屋がおまえを養女にしたいと言ってきました。そこへ行けば学校にも通えるし、ご飯も好きなだけ食べられる。この際、そこへ行ってみるのはどうだ、と言われました。学校へ通えると言われ、私はすぐさま決心してその食堂へ行くことにしました。ところが行ってみるとそこはお酒も売るような所で、学校へ通うどころか朝は夜明け前に起き、夜は夜中の一、二時まで働きづめでした。結局、養女にするというのは真っ赤なウソでした。しばらく下働きのようなことをしたあと、店の主人に客の接待をするように言われましたが、私は嫌だったので二度ほど逃げ出したもののすぐ捕まり、ひどく殴られました。
 私が主人の言うことを聞かずに仕事をしようとしないので、数ヶ月後、今度は蔚山という所にある飲み屋に売られてしまいました。しかも私の両親には内緒で勝手に売り飛ばされたのです。そこでも下働きのような仕事をさせられました。
 1942年7月
のことでした。店の主人から買い物を頼まれ表の通りに出たところ、突然二人の男に捕まってしまいました。このとき私は15歳でした。一人は朝鮮人、もう一人は日本人でした。この二人の男が私の手を掴んで無理やりひっぱって連れて行こうとしたので、どこへ連れて行くんだ、帰してくれ、と抵抗しましたが、そのまま引きずられるように連れ去られたのです。連れ去られた先には天幕を張った大きなトラックが待っており、その男が私に乗れと命令しました。私は嫌だと言って激しく抵抗しました。するとその男たちはまるで積荷を扱うかのように私のことをポンッとトラックの荷台に投げ込んだのです。そこには私と同じ年頃の少女がほかに五名いました。みんなで泣きながら、帰してくれ、うちに帰りたい、と足をバタバタさせていると、うるさいと言って、私たちの手足を縛り、さるぐつわまでかまされました。
トラックが着いたのは蔚山駅でした。私たち全員、今度は汽車に乗り換えるように言われました。そこにはほかの所から集められたらしい女性たちもいたようです。今でこそ自分が中国に連れて行かれたということは分かりますが、当時はこれから連れて行かれるところが日本なのか、中国なのか、アメリカなのかまったく見当もつきませんでした。しかも私たちが乗せられたのは貨物車で窓もありませんでした。どこかで乗り換えるときがあれば脱出しようと思っていましたが、結局どこにも停まりませんでした。(P.154~156)

 延吉で汽車から降ろされ、日本軍(中国東北部に駐屯した関東軍)の東飛行場(現在の延吉社会精神病院前)に連れて行かれました。ちょうど飛行場の拡張工事をしているときで、そこで草むしりや重労働をさせられました。~(中略)~ここでは一番若い子が十四歳、一番年上でも十七歳です。こんな少女たちを日本人たちは連れ出し、そこらの草むらに連れ込んで好き勝手に私たちを獣のように強かんするのです。~(中略)~この飛行場には約一年いたと思います。(P.157~158)

 ある日、軍人たちた私たちの所へやって来て外に出るように言いました。これで家に帰れると思い心が浮き立つほどでしたが、実は解放されたのではなく、延吉市内の慰安所に連れて行かれたのです。(P.158)
2006.11.19 日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時期企画in大阪 ***** ****
15歳の時、道を歩いていて拉致され、トラックに放り込まれ、口を塞がれ手足を縛られ、中国の延吉にある日本軍飛行場に連れて行かれ、強制労働をさせられた上、乱暴された。電気の通った鉄条網の中に閉じ込められ、家に帰りたいと血が出るほど煉瓦をたたき続けた。そしたら、そんなに帰りたいなら連れて行ってやると言われ、連れて行かれた先が慰安所だった。
2007.1.25 SENKI「日本もイスラエルも被害者だと思っているが」 ***** ****
李玉仙さんは14歳の時、日本人と朝鮮人の2人の男性に路上で拉致され、中国、旧満州へ送られました。3年間の「慰安婦」生活で梅毒に感染し、水銀で治療されたため、子どもが産めない身体になりました。戦後帰国できず、現地で2人の連れ子がいる男性と結婚しました。帰国したのは、その夫が死亡した2000年のことです。
(※2007.4.8追加)
2007.2.10現在 ナヌムの家 HP
※リンク先は韓国語
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これでヨルダソッの少女オックソンは食堂に養女に行った.

しかし学校を送ってくれるという話は真っ赤な嘘だった. 養女でもなかった. 朝鮮人主人はあらゆる下動きはもちろんスルゾブデまでさせた. オックソンはお酒接待を拒否して二回も逃げてからブッザブヒョがなぐられたりした.

そこでなんケ月以内されて主人は蔚山の居酒屋にオックソンを売ってしまった. グジブは芸者集だった. ここでもオックソンは夜 12時までシックモジルとあらゆる下動きをドマッアした. とても大変で夜に寝てゆばりを洩らしたこともあった.

ここ来たのも 1年がまだならなくて満洲でひかれて来た. 芸者集でおつかいを出てから白昼大道で拉致にあったのだ. あの時が 42年 7月, オックソンの年十六(満15歳)だった.

白昼台として強制拉致

蔚山で午後におつかいを出たが 40歳が過ぎたように見える太っている朝鮮男 2人が手首をぱっと引っ張って ?行くと?そのした. ?嫌いです. 放してやりますか?したらウワックスラン力で ?ザンマルを除いて行くと?と口を阻んでトラックに積んだ.

テンギ髪の毛に朝鮮チマチョゴリを着たままトラックに積まれて蔚山駅に行ったら他の女達も何何ひかれて来ていた.

蔚山駅で汽車に乗って二日位かかって倒文に到着した. 女達はジムチァトング(貨物室)にのせられたが窓がなくてどこで行く分からなかった. ご飯も与えなかった.

汽車を乗り換えるようになれば逃げることもできると期待したが一度も乗り換える事なしに倒文に到着した.

一緒に来た女達は 15人ほどだった. そのうちには十四歳もあってオックソンとおない年もあった. 汽車から飛びおりて死のうという公論もしたが決行することができなかった.

倒文に到着してオックソンを含んだ 5人は駅の近くの留置場に監禁された. ここでまたひと晩を寝たが特にオックソンだけは独房に監禁した. その理由は今もわからない. あの時までもご飯は与えなかった.

(※管理人注:上記は機械翻訳)
2007.3.22 CRI Online「韓国社会 日本要人による慰安婦問題歪曲言論を批判」 (中国国際放送局) ***** ****
「従軍慰安婦」の被害者、79歳の李玉善(イー・オクソン)さんは(音響の2)「私はその時、蔚山(ウルサン)でお手伝いさんをしていた。ある日、町に出た際、2人の男性が突然目の前に現れた。彼らは私を捕まえて連れ去った。私は15歳だった。抵抗する力はなかった」と強制連行された経験を述べました。


◆◆◆ 李京生(イ・ギョンセン) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1917.6.29、咸鏡北道漁郎郡で生まれた。3歳で母を、6歳で父と祖母を亡くし、 8歳の時に地主の家に子守として入る。1929年の12歳の時、地主の家で寝ていた所、日本人の警官が来て無理やりトラックに乗せ拉致される。慶尚南道昌原の軍の秘密工場に連れて行かれ、以降、慰安婦を強いられる。
(「金学順さんの証言 『従軍慰安婦問題』を問う」より)


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

寝ていたところを日本人の警官に拉致されて、トラックで軍の秘密工場に連れて行かれる。
(「金学順さんの証言 『従軍慰安婦問題』を問う」より)


【考察】

一般的に、慰安所は1932年の上海事変を期に設置されたとされていますが、同女は1929年に慰安婦にされたと証言しています。しかし、以下の通り、同女の証言の信憑性の無さは明らかです。

まず、「金学順さんの証言 『従軍慰安婦問題』を問う」(以下(「金学」)と1998.8.7朝鮮新報(以下「朝鮮」)とでは、連行された時の状況が全く異なっています。
(※「金学」の内容は、北朝鮮の「『従軍慰安婦』及び太平洋戦争被害者補償対策委員会」が1992.9に発表した告訴状を掲載したもの)

<連行された時の状況>
地主の家で子守として勤めていた頃
○「金学」・・・寝ていた時に日本の警官が突然入ってきて無理やり連れていかれる
○「朝鮮」・・・地主と村の区長が部屋に来て、日本の工場に連れていくからと引っ張っていく
有無を言わさず無理やり拉致されたのが、工場で働くと言われて連れて行かれたことになっています。
現実的な内容に修正されたと見るべきでしょうか。なお、他の資料を見てみると、区長に「良い所へ連れて行ってあげよう」等と言われたものが多いようです。

また、「金学」では、同女は寝ていたにも係わらず、

「ある夜、サーベルと銃を付けた日本の警官が、区長の案内を受けて、突然、地主の家に来た」
  ・・・寝ていたのに、どうして警官が区長の案内を受けたことを知っているのでしょうか?

「彼らは地主に目配せをしてうなずいた。そして寝ていた私の部屋に踏み込み」
  ・・・しかも、同女の部屋に踏み込む合図に目配せをしたことも知っています。

被害者目線ではなく、まるで小説の作者目線です。いい加減な証言もあったものです。


さらに、同女が妊娠した時には、「将校は『天皇に忠誠を尽くさない朝鮮人の子どもは必要ない』と言って、私のお腹を割いて胎児を殺してしまった」と証言しています。よく出血多量で死亡しなかったものです。


------------------ 以下、2007.7.14 追加 ---------------

なお、上記と一部重複しますが、下記資料の「金学順さんの証言 『従軍慰安婦問題』を問う」(以下、「金学」)、「写真記録 破られた沈黙」(以下、「写真」)、「平壌からの告発」(以下「平壌」)を比較すると以下の通り相違点があります。

<連行された場所等>
○「金学」・・・自分の部屋で寝ていた時、部屋に踏み込んできて無理やり連行
○「写真」・・・区長の家で連行
○「平壌」・・・庭が騒がしいので自分の部屋からのぞいて見たら、区長達がいて連行

<区長と共にいた人>
○「金学」・・・サーベルと銃を付けた日本の警官
○「写真」・・・長い刀を腰に差した3人の男
○「平壌」・・・日本刀を下げた三人の憲兵
 → 警官であったり、ただの男であったり、憲兵であったり。刀を持っていたことは一致しています。

<一緒に連行された人>
○「金学」・・・十代の四人の少女たち(トラックの中で一緒にいるのに気づく)
○「写真」・・・キム・グァンソン、パク・スボン、尹春鮮の3人の友達(区長の家に呼ばれてきていた)
○「平壌」・・・四人の女性(トラックの中で一緒にいるのに気づく)
 → 「写真」だけ何故か、友達と共に連行されたことになっています。

<堕胎手術をした人>
○「金学」・・・記載なし
○「写真」・・・将校が「天皇に忠誠を尽くさない朝鮮人の子どもは必要ない」と言って、腹を割いて胎児を殺した
○「平壌」・・・将校が「天皇に忠誠を尽くさない朝鮮人の子どもはいらないが、お前はまだ使い物になる」と言い、子宮ごと胎児を取り出す手術を受けさせられる。取り出された胎児は日本刀で切り刻まれ、バラバラにされて川に捨てられた
 → 「写真」では将校が腹を割いたことになっていますが、「平壌」ではちゃんと手術を受けたとこになっています。
また、「写真」では、将校が腹を割いたと読むのが自然な文章ですが、実は「腹を割いた」の主語は軍医なのでしょうか。

連行時の状況は、「区長が段取りした」という点では一致していても、その他の内容はバラバラです。寝込みを襲われたり、区長の家に呼ばれて行った後だったりしています。



なお、北朝鮮の証言者、お約束の日本兵の残虐行為は以下の通りです。(「朝鮮人『慰安婦』」より)

○彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた

○将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した

○日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした

------------------ 以上、2007.7.14 追加 ---------------


【信憑性】

信憑性はありません。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992.10 朝鮮人「慰安婦」 在日本朝鮮民主女性同盟中央常任委員会 ****
 私は3歳で母を亡くし、6歳のときには父を亡くし、育ててくれた祖母とも死に別れた。孤児となった私は、地主の家の子守や下女として一人で生きてきた。

 12歳になったある日、区長が呼んでいるというので行ってみたら、既にキム・グワンソン、パク・スボク、ユン・チュンソンの3人がきていた。みんな私と年齢が前後する女の子たちであった。区長は、私に「お前は哀れな星の下に生まれて苦労している。きょうからお前の人生を変えてやろう。良い所へ連れていってあげるがどうだ」と言った。

 私はそれまでのみじめな境遇が辛かったので、今より良い暮らしがあるのなら「行きましょう」と答えた。区長は、「私が呼び出したら朝でも夜でもすぐくるんだよ」と言った。幼い私は、「はい、すぐきます」と答えた。

 夜になって区長の家から使いがきたので、私は急いでいった。区長は立派な日本人が迎えにきたといった。見ると長い刀を腰にさした男が3人きていた。私たちは怖くなって「アッー」と声をだしてしまった。それを見た区長は、「お前たちを良い所へ連れていってくれるのに怖がるな」といった。そしてその男たちに私たちを引き渡すと、村の外まで見送ってくれながら、「きょうからお前たちの運命が変わるのだ。いい所にいけよ」と励ますようにいって家に帰ってしまった。どうしていいのかわからないままに、私たちはその男たちの後についていった。

 男たちの後についていくとやがて駅前に出た。そこで汽車の貨車に乗せられた。良い所に連れていってくれるとは言われてみても、そこは子供だから、次第に心細くなり、4人してめそめそしたりしていた。

 明け方近くなって降りろというので降りたら、駅前に車が迎えにきていた。車には2人の日本人が乗っていた。私たちは、見知らぬ3人の日本人についてくるだけでも怖かったのに、また2人ふえたのでもっと怖くなった。しり込みする私たちをみて、男たちはまるで豚のしっぽをとって車に乗せるように、私たちを5人がかりでほうり上げて乗せた。

 どれくらい行ったのか記憶に残っていないが、まわりが明るくなったころ、やがて山の中に到着した。彼らは「降りろ」といったが、私たちはおじけづいてじっとしていたら、ひきずり降ろされた。そして、「ここが良い所だから入れ」と言って家の中に連れ込まれた。そこが慶尚道・昌原にあった軍の秘密工場であることは、ずっと後で知った。

 指定された部屋の中でしばらくじっとしていると、日本の着物を一抱え持った看護婦が入ってきて、「朝鮮服を脱いでこれに着替えなさい」と命令した。もじもじしているとむりやり脱がされて裸にされ、浴衣を着せられて胸に「ミイコ」という名札を付けられた。そして、「お前はきょうから朝鮮人ではなく日本人だ。日本帝国の天皇陛下のために働かなければならない。お前の名前はミイコだ、朝鮮語を使ってはならない」といった。それからは約半月の間、雑穀の入った食事を三度与えられるだけで、仕事はさせなかった。苦労ばかりしてきた私は、区長が言っていたように良い所へきたのかな、と単純に思ったりした。

 やがて半月が過ぎると今度は将校がやってきて「足を洗え」「つめを切れ」などと命令するだけで、仕事らしいことは何もなかった。ただ、「風呂に入れ」とか「身体検査」と言われれば体重計に乗ったりして、言われるままに行動していた。そんなことでまた半月が過ぎた。

 ある日の朝、前庭に集まれというので行ってみたら、少女たちが20名くらいいた。その少女たちと一緒に私たちも一列に並ばされた。私たちの前に将校たちがやってきた。その中で星が4つ着いた将校が、一列に並んだ少女たちをなめるように見回していたが、一番背が低いので端っこにいた私を、自分のそばに引っ張りだした。次に少しくらいの低い将校が、同じようにして他の少女を選んだ。

 こうして順番に将校が気に入った少女を選びだし、自分の部屋に連れていった。私はその時、8号室に入れられた。私と一緒にきたユン・チュンソンは隣の9号室であった。やがて昼食がすむと、工場から800メートルほど離れたところにある場所に連れていかれた。そこでも8号室に入れられた。そこは将校が入る部屋だと後で聞いた。

 夜になって男が部屋に入ってきたが、それは朝、私を選んだ将校であった。その将校の名前は「トウギョウ」といった。彼は、12歳の私を暴行した。あまりにも幼い体なので膣が引き裂かれてしまった。翌朝の8時か9時ころ、医者と看護婦がやってきて治療してくれた。そんな状態にもかかわらず、その将校は毎夜のように襲ってきた。

 それは、私だけではなく他の部屋でも同じであった。9号室のユン・チュンソンは恐怖と嫌悪感から拒否して叫んだので、口をふさいで窒息死させられてしまった。

 こうした行為を強いられて1か月もしたころ、トウギョウという将校は「もうお前に飽きた。好きにしろ」と言ってこなくなった。それからは毎日のように7、8人くらいの兵士がやってきた。こうして、この秘密工場での私の「慰安婦」生活が始まった。

 これは、慶尚北道安東出身のオクランという18歳の女性のことである。彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた

 忠清北道のキム・サムニョという20歳前後の女性は美しい人であった。彼女のところには数十人の兵士たちが列をなしていた。この屈辱的な暴行に耐えられなくなった彼女は、死を覚悟して抵抗した。日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした。こうして、3人もの女性が殺されるのを見せられた私たちは、恐怖のために抵抗も逃げ出すこともできなかった。

 16歳になった私は、知らぬ間に妊娠していた。それを知った将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した。その時に受けた傷が今でも残っている。

 それから間もなくであったと思う。そこで賄い婦をしている朝鮮人のシン・ファジャというおばさんが私たちのところに忍んできて、「お前たちはみんな可愛い顔しているね。こんな可愛い子たちがここで朽ち果てるのはかわいそうだ」「ここは秘密工場だから、ここにきた女性たちは生きてでられないよ」といって「何とかして逃げなさい」と教えてくれた。それから一緒にきた私たち3人は逃げ出す方法を計画した。

 当時の兵士たちは将校と違って思い通りに酒を飲めなかった。お酒を飲みたがっている彼らの弱みを知っている私たちは、酒を与えて酔いつぶす計画をたてた。私たちは、将校が飲み残した酒やつまみをこっそりとっておいて集めて3本分の酒を用意した。

 土・日曜日は将校たちが家族のもとに帰っていく。その日をねらって門番の兵士に酒を与えた。酒につられた彼らは、私たちの計画にはまり、私たちはやっとの思いで逃げ出すことができた。私たちは3人がバラバラになって逃げた。それっきり私は同郷の友人たちの消息を知らない。

 私は電線のない深い山奥をめざして逃げた。そこでひっそりと住んでいる老人夫婦の家をみつけて、かくまってもらい、老人夫婦の好意でそこに住みついた。

 18歳の時に、山村の人々の世話で、身寄りのない若者と所帯をもった。結婚式も何もない貧しい者が寄り添った暮らしには、家財道具も何もなかった。周辺の人々が持ち寄ってくれた必要最低限の道具で2人の生活は始まった。しかし、私は常に追手の影におびえていた。私は夫に哀願を繰り返し、中国に逃げようとせっついた。そして中国の瀋陽に渡っていったのである。

 解放は中国で迎えた。祖国の解放を知った私は、今度は故郷に帰りたくて、また「朝鮮に渡ろう」と夫に哀願した。夫は「お前は、前には中国にいこうとせっつき、今度は朝鮮に帰ろうと騒ぐ。いったいなぜなんだ」と聞いたが、私は過去のことは一切いわなかった。

 1960年代に祖国に帰国した。祖国では協同農場の一員として夫婦で働いてきた。私たちの農場は稲作を主としてやっている。私は農民として働ける暮らしがうれしくて、本当に良く働いた。

 ことしの3月27日にただ一人の身内である夫を亡くし、一人ぽっちになってしまった。夫にも過去を隠して暮らしてきた自分の半生がなんであったかを考えると、涙にくれるばかりであった。むなしかった。

 今までにも、「慰安婦」時代を思い出して夜中に飛び起きて胸の締めつけられる思いを何度したことか。黙ってしまってきた過去を告発して楽になりたい、と思った。何日も考えた末に、みずから平壌中央テレビを訪ねていき、「私が元慰安婦です」と最初に名乗りをあげた。


(リ・ギョンセン 1917年6月29日生 咸鏡北道魚郎郡出身)

(※2007.5.2追加)
1993.2 金学順さんの証言 「従軍慰安婦問題」を問う 解放出版社 編 解放出版社
それは一九二九年に「従軍慰安婦」として連行された李京生さんの証言を通じても明らかにされている。彼女は「日本軍は朝鮮女性を『慰安婦』として連行することが、いかにも中日戦争以降からのように弁明しているが、私が経験した凄惨な運命に照らしてみれば、それは一九二〇年代からだったことを満天下に告発する」としながら、「私の故郷は咸鏡北道漁郎郡です。私は一二歳のときのある夜、サーベルと銃を付けた日本の警官が、区長の案内を受けて、突然、地主の家に来た。彼らは地主に目配せをしてうなずいた。そして寝ていた私の部屋に踏み込み、私の首をつかんで、むりやりトラックに乗せ、貨物のように運んだ。私は突然の出来事で声を上げることも泣くこともできなかった。砂ぼこりをかき上げながら村を抜け出したトラックの荷台でゆられていた私は、自分の目の前に何かがいることに気付いた。それは荷物ではなく、私と同じ年頃の娘たちだった。彼女たちもやはり強制的に拉致された十代の少女たちだった」と証言した。
彼女は続いて「私を含め、四人の少女たちが外も見れない有蓋車(ふたのある貨車)に乗り、慶尚南道昌原に着いた時は夜明けだった。そこには二〇余名の朝鮮人少女たちが、すでに拉致されていた。私は八人の同年代の娘たちと共に、荷車に乗せられ、鉄条網が高く張りめぐらされた秘密工場に連れていかれた。工場は火薬のにおいに溢れていた。秘密の火薬工場のようだった。そしてここで、十代の少女たちが、『従軍慰安婦』として日本軍たちの性のオモチャになった」と証言した。(P.140~141)
尹という姓を持った少女が、列をなして群がってくる日本軍に辱めを受けた後、けがまで負わされ、後は窒息して死んでしまった(P.148)

(管理人注:上記内容は「朝鮮民主主義人民共和国「『従軍慰安婦』及び太平洋戦争被害者補償対策委員会」が作成した日本政府宛の告訴状(1992.9)を掲載したもの)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 12歳のある日、区長に呼ばれて行くとキム・グァンソン、パク・スホン、尹春鮮の3人の友達も来ていました。区長「お前たちは苦労しているので良い所へ連れて行ってあげよう」と言うので同意しました。
 夜になって区長の家に行くと、長い刀を腰に差した3人の男がいたのです。私たちは怖くなってしまいましたが、どうしていいのかわからないままに連れられて行きました。
 汽車に乗せられてからは、心細くなって泣きべそをかいていました。明け方近くに降ろされると、2人の日本人が自動車で迎えに来ていました。まわりが明るくなった頃に山の中に着き、そこの工場の中の部屋に入れられたのです。後で知ったのですが、ここは慶尚南道昌原にあった秘密の軍需工場でした。
 部屋の中でじっとしていると、日本の浴衣を持った看護婦が入って来て、「朝鮮服を着替えなさい」と命令しました。ためらっていると無理やり脱がされて浴衣を着せられられ、「ミイ子」という名札を胸に付けられたのです。そして「お前らはこれからは朝鮮人ではなく日本人だから朝鮮語を使うな。大日本帝国の天皇陛下のために貢献しろ」と言われたのです。(P.20)

 慶尚北道安東から来た18歳の女性は、兵隊に激しく反抗しました。そのため、裸にされて大きな木に一日中逆に吊るされたのです。それでも「1日20~30人もに強姦されるくらいなら死んだほうがましだ」と言ったので、私たちの前で殺されたのです。死体は、刀で腕・足とばらばらに切られました。兵隊はそれを叺につめて「魚の餌にしてしまえ」と川に放り込んだのです。
 16歳の時に私は妊娠してしまいました。将校は「天皇に忠誠を尽くさない朝鮮人の子どもは必要ない」と言って、私のお腹を割いて胎児を殺してしまったのです。(P.23~24)

(※2007.4.22追加)
1998.8.7 朝鮮新報「」強制連行、「従軍慰安婦」問題東京シンポ、大阪報告会から」 ***** ****
「目前で4人が殺された/李京生さん(81)」
 
咸鏡北道漁郎郡で生まれた。3歳で母を、六歳で父と祖母を亡くし、8歳の時に地主の家に子守として入った。
 1929年12歳の時、地主の家に3人の日本人が来て一緒に酒を飲んでいた。その夜、地主と村の区長が部屋に来て日本人が工場に連れていくからと、私を外に引っ張っていった。
 外に出ると車が止まっていて、中には私のほかに4人の娘が乗っていた。皆私と同じ年位だった。
 到着した慶尚南道昌原という所の人里離れた場所には鉄条網があり、10メートル間隔で日本の軍隊の歩哨が立っていた。
 工場で働くと言っていたのに、最初は東郷という将校の足を洗ったり、爪を切ったりさせられた。
 何ヵ月かして、広い空地に集められ、一列に並ばされた私たちの中から将校が気に入った娘を選んでいった。その日、私を選んだ将校に暴行された。
 その後、「慰安婦」として1日、20人の軍人の相手をさせられ、休みの日はさらに多くの軍人が列を成した。拒否したり声を上げると殴る、蹴るの暴行を受けた。私のいた慰安所で4人の娘が殺されるのを目撃した。死体は近くの川に捨てられた。
 日本は自分たちのやったことを認めるべきだ。あれだけ多くの朝鮮人女性を殺してなぜ、平気でいられるのか理解できない。補償は心からやるべきだ。
2001.7 平壌からの告発 伊藤孝司 風媒社
李京生さんは、一九一七年六月ニ九日に咸鏡北道漁郎郡の貧しい小作農家で生まれた。一人っ子だった。三歳の時、両親は伝染病で次々と亡くなってしまう。彼女を引き取ったお祖母さんも三年後に亡くなる。それからは乞食をするしかなかった。家々を回って食べ物をもらい、倉庫や積み上げられたワラの中に潜り込んで寝泊まりをした。このような生活を二年間ほどした時、それを見かねたお年寄りが、鄭という名の地主の家で働くように世話をしてくれた。
 与えられるのは冷えたご飯、寝るのは倉庫のような場所。仕事は子守・掃除に水汲みだった。大きな水瓶を頭に乗せて運ぶのが大変で、落として瓶を割ると二日も食事が与えられなかった。
 このつらい生活を四年間した一九二九年一二月頃のある日。自分の部屋にいた李さんは、庭が騒々しいのでのぞいて見た。日本刀を下げた三人の憲兵を区長が連れて来ていた。そして、自分の部屋を指さしているのだ。「苦労しているので工場で働かせてやる」と区長に言われ、門の所に停まっていたトラックに無理やり乗せられた。夜だったのでトラックの中は暗かった。「荷物が積んである」と思ったが、それは縛られた四人の女性だった。
 連れて行かれたのは、慶尚南道昌原の山中に造られた工場。後になって、火薬や手榴弾を作る軍需工場とわかった。女性たちは工場の敷地内の建物に入れられる。同じ形をした木造平屋の建物五棟が並び、その中は小さな部屋に仕切られていた。すでにたくさんの女性が入って、李さんよりみんな年上だった。慶尚道の女性もいた。李さんが入れられた部屋は「八号室」。日本人の看護婦に、着ている者をすべて脱ぐように言われ、浴衣を着せられた。そして、朝鮮語を使わないようにと命じられた。
 翌朝、小麦と豆を混ぜたにぎり飯一つとタクワンが与えられた。食べずにいると、陸軍の軍服を着た日本人将校が部屋に入って来て、「天皇のために身を捧げるのなら良い待遇をしてやるが、言うことを聞かないと殺す」と言った。その日から、工場で仕事をするのではなく、将校の手足を洗ったり爪を切ったりといった身の回りの世話をさせられた。
 二十日ほどした時、工場の広場に女性たちは一列に整列させられる。将校たちは、その中から女性を選ぶと列から引っ張り出した。その日の夜、自分を選んだ「トウゴウ」という名の将校に李さんは強姦された。李さんはまだ一二歳で、しかも体は小柄だった。膣は引き裂かれ、部屋の中は血だらけになる。翌朝、軍医と看護婦が治療をしてくれたが、将校は毎晩のように襲ってきた。
 何週間かすると、将校に代わって兵隊たちが来るようになった。一晩に一〇人~二〇人。日曜日にはさらに多くの兵隊が来たので、気絶することもあった。コンドームを使うことになっていたが、使わない兵隊もいた。軍医による性病の検診が週一回あり、「六〇六号」という性病治療の注射を受けた。
 この「軍慰安所」には二〇数人の女性がいた。慶尚北道安東から連行されて来た一八歳の女性は、あまりにも多くの兵隊の相手をさせられるので噛みついたりして強く反抗した。すると裸にされ、絞めたニワトリのように足を縛られて電柱に逆さ吊りにされた。一日たつと彼女は死にかかっていたが、「言いなりになるくらいなら死んだほうがましだ」と言った。それを聞いた兵隊たちは彼女をなぶり殺しにし、首・腕・足・胴とバラバラに切断したのである。
 一部始終を見せられていた李さんたちは泣き叫んだ。気絶すると兵隊たちに無理やり起こされ、「はっきり見ろ!言うことを聞かないとこうなるぞ」と言われた。女性の死体は叺(ワラで編んだ大きな袋)に詰められ、工場近くを流れる大きくて深い川に投げ捨てられた抵抗したために殺された女性は他にも何人かいた
 一九三三年の一月に生理が始まる。一五歳だった。三月になって妊娠しているのに気づいた。将校は軍医に妊娠を確認させると、「天皇に忠誠を尽くさない朝鮮人の子どもはいらないが、お前はまだ使い物になる」と言った。そして妊娠三ヵ月の時、子宮ごと胎児を取り出す手術を工場内の病院で受けさせられたのである。手術の際、軍医の他に一人の看護婦がいたことと、背中に注射を打たれて全身麻酔をかけられたのを覚えている。取り出された胎児は日本刀で切り刻まれ、バラバラにされた女性が投げ込まれたのと同じ川に捨てられた。軍医は手術の傷口を治療してくれたが、「それは少しでも早く兵隊の相手を再びさせるためでした」と李さんは言う。五月中旬から元の生活に戻った。
 李さんは、同じ故郷から来た四人の女性と、ここから逃げ出す計画を立てた。将校は、李さんたちの部屋で飲み食いすると残った酒を置いて行った。それを少しずつ瓶に貯め、便所近くの土の中に隠した。そうして作った三本の酒を歩哨たちに与えることにしたのだ。
 将校は土曜日・日曜日には家族の元に帰るので、その時を狙って計画を実行。八月か九月だった。最初は怒鳴られて追い返された。三回目に声をかけた時、「酒を持って来い」と歩哨たちが言った。将校と違って、兵隊は思うように酒が飲めなかったので成功した。鉄条網の下へと向かった。運良く老夫婦にかくまわれたが、一九四五年八月一五日まで、常に追手におびえながらの暮らしだった。(P.36~40)

(※2007.7.14追加)


◆◆◆ 朴玉善(パク・オクソン) ◆◆◆

 ※「朴玉仙」と表記されている場合もあり


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1924年、慶尚南道密陽郡に生まれ貧しい農村で育つ。1941年、17歳の時、友達と水汲みに出かけた際に、日本人に捕まえられそのまま中国と旧ソ連の国境地帯、穆陵の慰安所に入れられる。源氏名は「アライアキコ」。
戦後も帰ることができずに中国で生活。2001年に韓国に帰国した。(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」より)


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

腕章をつけた日本人の男二人に拉致され、軍人の見張りが乗ったトラックに乗せられる。トラックで駅まで行き軍人専用車両に乗せられ慰安所まで連れて行かれる。慰安所には一時間毎に歩哨が来て確認をしていた。(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」より)


【考察】

下記資料の「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」「ナヌムの家のホームページ」を比べれば、同女の証言の信憑性の無さは明らかです。

「友達と川に水汲みに行った時に軍人に拉致された」のが「友達に紡績工場で働こうと誘われた」と全く違う証言をしています。
果たして、途中から証言内容を変更したのか、それとも、日本人向けと韓国人向けでは証言を使い分けているのか。。。


【信憑性】

信憑性なし。
おそらく、ナヌムの家のHPに記載されている内容が真実に近いものでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
2001.9.18 朝鮮日報 「在中慰安婦ハルモニが60年ぶりに帰国」 ***** ****
 日本軍慰安婦として中国に連行された朴玉善(パク・オクソン/78)さんが60年ぶりに故郷の地を踏んだ。
16日仁川(インチョン)国際空港に到着した朴さんは、迎えに来た弟の朴某(74)さんを抱きしめて嗚咽した。朴さんは18歳だった1941年、故郷の慶尚(キョンサン)南道・密陽(ミルヤン)で中国黒龍江省の日本軍慰安所に連れて行かれた。日本敗戦後、退却した日本軍に混じって山の中をさまよった朴さんは、ムリンという奥地の村に定着して今まで暮らしてきた。中国に住む慰安婦被害者の調査に乗り出した韓国挺身隊研究所のコ・ヘジョン所長が今年の4月、朴さんに会い、探しに探した末、釜山(プサン)に住む朴さんの弟の朴某さんを見つけた。
 弟と甥達の公式招請で帰国した朴さんの国籍は中国、戸籍は死亡処理されている。訪問ビザで訪韓した朴さんは、これから国籍変更と戸籍回復のための裁判を受ける予定だ。女性部権益企画課のパク・ムンスクさんは「現在中国には朴さん以外にも慰安婦被害者が約10人ほどいるが、故郷が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)だったり、あまりにも年老いているため帰国を推進することは難しい」と話した。
(※2007.4.12 追加)
2004.8.17 ナヌムの家での証言 ***** ****
18歳のころ食べ物もなく、草といっしょに穀物を食べる毎日で、勉強もさせてもらえなかった。ある日小川に洗濯に行った帰り兵隊に腕を捕まれてトラックに無理やり乗せられた。中には他にも若い女性がたくさんいた。トラックにホロをして外から見えないようにされた。泣くと怒鳴られた。貨物列車に乗せられ「いいところに連れて行ってやるから静かにしろ。」と言われそのまま連れて行かれた。
2005.10.05 高知新聞「元慰安婦の痛みに思いを 高知大生らが証言集会企画」
※リンク切れ
***** ****
17歳の時、友達と水くみに出掛けた際日本人につかまる。送り込まれたのは中国と旧ソ連国境の穆陵(ムリン)の慰安所だった。
2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
 その日も日が暮れてから友達と二人で近くの小川まで瓶を頭に担いで下りて行きました。私たち以外は誰もいなくて水は澄んでとてもきれいでした。ひしゃくを使っていつものように水を汲んで、また頭にのせて家へ帰ろうとすると、後ろの方から「ちょっと待て!」という声がしました。私は自分が呼び止められているとは思わずそのまま行こうとしました。するとまた「ちょっと待て!」という声がして振り向くと、土手の方から二人の男がこちらに向かって走って来ました。私たちはそこから立ち去る余裕もなくその二人の男に捕まってしまいました。二人とも腕に腕章をはめた日本人の男でした。~(中略)~両腕を抱えられ、引きずられるようにして私たちは連れて行かれてしまいました。~(中略)~村を出てからもかなりのあいだ歩かされた気がします。しばらくして辿り着いた所に、大きな軍のトラックが停めてありました。~(中略)~中には同じ年頃の女の子たちが二〇名くらいいました。~(中略)~私たちを乗せるとトラックは走り出しました。見張りのための軍人が二人一緒に荷台にいました。~(中略)~トラックが止まり降ろされた所はどこかの駅でした。そこで今度は汽車に乗せられましたが、トラックは汽車のすぐそばまで行き、乗り換えのときは両側に軍人たちが並ぶので逃げることは不可能でした。車両は民間人が乗る車両と軍人専用の二つがありましたが、私たちが乗せられたのは軍人専用のものでした。(P.143~144)

 汽車とトラックの乗り継ぎを何度か繰り返し、到着したのは当時「スブナスヤン」と呼ばれていた所でした。川をはさんでこちら側が中国、向こう側がソ連という国境地帯(中国と旧ソ連の国境地帯・穆陵の慰安所と思われる)でお互いの集落がよく見えていました。(P.146)
2007.2.10現在 ナヌムの家 HP
※リンク先は韓国語
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現在国籍:中国
生まれ年度:1924年
故郷:慶南蜜陽
動員年度:1941年
当時慰安所:ヘイルング将星モックルング隣近
慰安所あった期間:4年
当時日本名前:アキコ
中国居住地:中国黒竜江省モックルングヒョンモックルングジン

~(前略)~私の十八つの肉の時の親もこっそりと・・・・・・友をするが来て・・・・・・内と名前が同じだ。性が違う。“ねえ、オックソンよ、中国にお針工場に(人)使うから、私たち・・・・・お針工場にいや入って行くか?”そうヒソヒソと“皆行くと言うから、私たちいや行くか?”~(中略)~ただ工場に行くと言ったから行くんだよ・・・・・・その次に親の密かに出るからじっとナオルレだから何も包みもオブオッスムダ。~(中略)~
 それで友逹行くとします. そう私たち夜でナワッスムダ. じっと. 家で, 誰もこっそりと. それで家から出ているのにこんなあそこ逆転みたいなのにガッスムダ. 家でゴルオガッスムダ. だからその人々ががトックします. 人, そのつましい青年たちが,
全部女達, すべて朝鮮女達です. そこ全部来てあります. そう私たちも行くからそう良い仮者してそうだって車にオルラッスムダ. 車にオルルだから阻むでんと着せます.
しばらくどこに行くか行くから下って汽車乗りこみなさいします.

 女達を密陽だけではなく多くの所でモダで(集めて) 来たようです. 汽車乗るから風(天幕)みたいなこと着せます. 軍隊たちその風あるんじゃないですか? どの逆転なのかいいね. 自動車他高からは分からないです. 自動車に乗った時その自動車後に女達がたくさんタッスムダ. そうだって自動車から降りてボニカイェがトックします. 青年たちが. そうだって車に乗りこみなさいします. 補材期同じこと覆います. 軍人満ちてからいいね. ジムチァみたいなこと. 乗りなさいとそんな人は男です. 日本人です. 朝鮮末もして日本語もします. そのように私たちを連れて行く男たちが何人もなるかは考えいや出ます. 私たち弾後にその次には男たちがハナンジふたつなのか…… 夜になったらよくモルゲッスムダ. そう乗ってガッドレッスムダ. どうも行って…… 汽車駅へ行って汽車乗って…… あの時からはなんか行ったの. ところで (中国に) オニカイェ軍隊こんな車また出迎えナワッスブデ?だ.
 故郷の家から出る時服は着たとおりナワッスムダ. 朝鮮チマチョゴリだ. ゴムのはき物新旧. 荷物でもいや包んで来ました. そのまま逃げるのに……
 ただ工場行くと言ったら行くんだよ…… その次に親の密かに出るからじっとナオルレだから何も包みもオブオッスムダ.
 あの時が多分秋頃なる長いです. そよそよと寒かったんだろう.
故郷では名前いやゴチョッスムダ. ここ来て直したの. ‘Araiアキコ’と. 名前も成都日本式で直しなさいと言って, 商店にも日本語なければ品物も売らないと言ってそんな時代だが, 家では…… 朝鮮でネウェハだから水も栗に汲んで.
昼に水いやギルオッスムダ. 女と. ~(中略)~

汽車に乗って行く時にもずっと紡績工場に行ったと思ったの。ただ十八つに一二十人乗って行くからすべて紡績工場であると思ったの、そうするには分からなかったです。どう分かりますか?~(後略)~

(※管理人注:上記は機械翻訳)

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