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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 金允心(キム・ユンシム) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1930年全羅南道海南生まれ。1943年13歳の時、友達とゴム縄遊びをしていたところ、トラックがやってきて「トラックに乗りたいなら乗ってみないか」と言われ乗るとそのまま光州まで連れていかれ監禁される。その後、汽車、船と乗り継ぎハルピンへ連れて行かれ慰安婦を強いられる。1回目の脱走の時に、訪れた家が日本の軍人の家で、スパイ容疑をかけられ拷問された後、慰安所に戻される。2回目の脱走の時には、中国人の船に忍び込み、その後、朝鮮に戻る。(「元『慰安婦』の証言 -五〇年の沈黙をやぶって」より)

1998年、自伝「海南(ヘナム)の空へ」で、チョン・テイル文学賞を受賞。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

軍人一人、巡査(もしくは軍人)一人、が乗った車に拉致される。


【考察】

下記資料の「元『慰安婦』の証言」(以下「元慰」)と「私は『慰安婦』ではない」(以下、「私は」)、及び、「海南(ヘナム)の空へ」(以下、「海南」)を比べると以下の通り相違点があります。

<拉致された乗り物>
○「元慰」・・・トラック
○「私は」・・・自動車
○「海南」・・・自動車
→ 最初、トラックと証言していたものが、途中から自動車になっています。「元慰」ではトラックに乗せられて連行されたのは同女一人です。車が珍しいほどの田舎にわざわざトラックでやってきて、一人だけ連行するのはあまりにも非合理的な行動なので、せめて、自動車に変更したのでしょうか。

<車に乗っていた人>
○「元慰」・・・巡査一人、軍人一人、韓国語のうまいおじさん
○「私は」・・・軍人二人(※別途運転手がいたと思われます)
○「海南」・・・おじさん、巡査一人、軍人一人
→ 「私は」だけ微妙に違っています。

<一緒に拉致された人>
○「元慰」・・・自分一人
○「私は」・・・友だち二人も一緒に車に乗る
○「海南」・・・自分一人
→ 友達二人も一緒に拉致されたことになっているのは「私は」だけです。「私は」では、一緒に拉致された友達は寝ている間にどこかへ送られてしまったようです。

<汽車に乗った時間>
○「元慰」・・・次の日の夜
○「私は」・・・記述なし
○「海南」・・・次の日の朝
→ 微妙な違いですが

<船で受けた行為>
○「元慰」・・・該当する記述なし
○「私は」・・・手足を縛って水に漬けられる
○「海南」・・・手足を縛られ船の端に座らされ、海に放り投げてやると脅されただけ
→ 水に漬けられた話が、単に脅されただけに変わっています。

<ハルピンの慰安所に一緒に入れられた女性>
○「元慰」・・・4人
○「私は」・・・30人
○「海南」・・・5人
→ 7倍以上に増えた後、減っています。「私は」では、とにかく女性達が次々と死んでいったことになっています。辻褄合わせの為に、慰安所の女性を増やしたのでしょう。

<ハルピンの慰安所の建物の様子>
○「元慰」・・・「家」としか記述されていない
○「私は」・・・「私たちが暮らすと言われた家は洞窟のようで、入り口だけ木で作ってありました。その中に入れられロウソクの明かりで毛布を敷いて寝ました」
○「海南」・・・テント小屋で部屋はタタミ2枚分ごとに仕切られていた
→ 洞窟のような家とテント小屋では全く違います。良心的に解釈して「中が洞窟のように暗かった」と言うことでしょうか。

<脱走(1回目)後、日本の軍人に捕まった時の様子>
○「元慰」・・・足をふいた後、ある家を見つけて訪ねたら、スパイ容疑をかけられる
○「私は」・・・やっと見つけた家に入るとスパイ容疑をかけられる
○「海南」・・・足を洗わせてもらおうと、ある家に入ったらスパイ容疑をかけられる
→ せっかく見つけた家が日本の軍人の住む家だったわけですが、微妙な表現の中に大きな違いがあります。
「私は」は、漠然としてその時の様子が全く不明ですが、「元慰」と「海南」では、その家にたどり着くまで、どろ道でぬかるんでいたので裸足になって逃げていたことになっています。
そして、「元慰」では、足をふいた後に家を訪ねているので、恐らく、助けを求めるか、食事を分けてもらうか等の理由のために玄関から入っていったのでしょう(※ただし、玄関から入ったとは明記されていません)。そして、「だれだ。入れ」と招き入れられています。玄関から訪ねてくるスパイなんかいるわけがなく、なぜ、スパイ容疑をかけられたか不明です。
そこに気がついたのか、「海南」では、家に入った目的が「足を洗うため」と明示されています。「元慰」と違って、家を訪ねる前に足をふいたという記述もなく、泥足のままです。その時の様子は具体的に記述されていませんが、足を洗おうと軍人の家の庭先の井戸あたりでウロウロしていたところを見つかったのなら、「誰だ!手をあげろ」とスパイ容疑をかけられた辻褄も合ってきます。

<後から連れて来られた女性>
○「元慰」・・・追加なし(※1回目の脱走後、捕まって戻された後、「『お姉さん』四人と私をいれて五人で軍人たちとすごしたのです。」とあり最初から人数は変わっておらず、また、その後、女性が追加されたとの記述はありません)
○「私は」・・・具合が悪いと傍目からも分かるようになった女性や臨月の女性は連れて行って、別途、十人ずつ五人ずつ人と連れて来る
○「海南」・・・追加で連れて来られたことを示す記述なし
→ 一緒に入れられた女性の数と言い、追加された女性の数と言い、「私は」だけ大判振る舞いです。その分、死んだことになっていますが。

<脱走するようアドバイスしてくれた人>
○「元慰」・・・労務者のおじさん
○「私は」・・・ある軍人
○「海南」・・・労務者のおじさん
→ 何故か、「私は」だけ異なっています

<一緒に脱走(2回目)した人数>
○「元慰」・・・同女のみ
○「私は」・・・同女を含めて三人(※逃げてる最中に離れ離れになって結局一人になる)
○「海南」・・・同女のみ
→ 「私は」だけ異なっています

なお、連行された年齢が13歳と14歳で異なっていますが、満年齢と数え年の違いでしょう。(ただし、朝鮮新報の記事では、慰安所に来たのが16歳になっている。)


その他、同女の証言内容の疑問点は以下の通りです

○同女がハルビンの慰安所に到着するまでの経路は以下の通りです。

 全羅南道海南(朝鮮半島南端) → <車> → 光州(朝鮮半島南部) → <鉄道>
 → どこかの波止場 → <船> → どこかの波止場 → トラック → ハルビン

ハルビンは中国東北部で海に近い場所にあるわけではなく、結構、内陸部です。そんな場所に行くのに途中、船を使用して、後はトラックで行ったというのは甚だ疑問です。また、ハルビンは満州鉄道が通っており、鉄道を使用するのが普通でしょう。なお、「私は」では「船から降ろされてみると、何もない野原。『そこで暮らすのだ』」とあり、慰安所の場所が海のすぐ近くであったことになっています。

○食事は、「塩水をぬったおにぎりを1日に3回与えられるだけ」(しかも、1個だけ)だったと証言していますが、そんな粗末な食事の割りには、脱走時に一晩中、走り(又は歩き)続けるなど結構、体力があります。

○1943年に連行されて1946年6月に朝鮮で母と再会したと記載されている(「海南」)ので、同女は、約3年間慰安婦生活をしていたことになります。2年間も慰安所で過ごしていながら、そこでの生活を語った内容があまりにも希薄でリアリティに欠けます。また、同女の自伝本である「海南」では、慰安所での内容が他よりも充実していてもおかしくないのですが、他の証言とほとんど同じです。管理人も出てこないし、性病検査やサックの話もない、一緒にいた他の女性がどのような人達であったかも不明です。


【信憑性】

証言毎に所々、全く違う内容を証言していますし、全体的にウソ臭い内容です。人さらいにさらわれて売春宿に売られただけではないでしょうか。慰安所で慰安婦をしていたということすら疑問です。信憑性はないでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1997.6 元「慰安婦」の証言 -五〇年の沈黙をやぶって アジア・フォーラム編 皓星社
私が一三歳、一九四三年の春のことです。~(中略)~小学校を卒業していました。ある日のこと、外で友だちとゴム縄遊びをしていました。急にトラックが一台やってきました。
私の故郷はたいへんな田舎だったのでトラック一台を見ることも子どもの大きな関心をよびました。私はゴム縄遊びをやめて、トラックについていきました。トラックには巡査が一人、軍人が一人、韓国語のうまいおじさんが一人の合計三人乗っていました。韓国語のうまいおじさんが「トラックに乗りたいなら乗ってみないか」と言いました。私はその言葉を聞いてうれしく思いました。私は足をトントンさせてトラックに乗りました。するとその人たちはすばやくトラックを発車させたのです。私はおどろいて、泣きながら「降ろしてください」と頼みましたが、聞いてもらえませんでした。トラックは長い時間走って、光州(カンジュ)に着きました。そして、私が連れて行かれたところには、私より年長の「お姉さん」が一八人いました。私はそこで「お姉さん」たちと話をしました。そこで閉じこめられたのです。
ある晩「お姉さん」たちと一緒に連れ出されて、次の日の夜、夜行列車に乗せられました。それはたいへん汚い汽車でした。日が昇って、汽車はどこだかわからないところに着きました。そこで汽車を降りて、食事をとりました。そこは波止場のある港でした。そこから船に乗ってまたどこかに連れて行かれました。着いたところで閉じ込められました。~(中略)~いく日かして、急に外へ連れ出されました。目がくらみそうでした。そこには軍人が乗った車が何台かありました。その軍人トラックは、私たちと何人かが乗ると発車し、どこへともなく出発しました。何日も走りました。私たちが連れて行かれたところは広い野原に見渡すかぎり軍人がいるようなところでした。そこは臨時におかれた兵営で、普通の家はどこにも見あたりませんでした。私が連れて行かれた家には、私と四人の「お姉さん」と合わせて五人が入れられました。~(中略)~私たちが着いたところは「ハルピン」というところでした。(P.20~21)

ある妊娠した女性の話をします。九ケ月になっても後ろ手にしばられて、たたされたまま「関係」を強要されていました。また、赤ちゃんを産んだ方がいます。看護婦がやってきて、産まれたばかりの赤ちゃんを袋に入れました。泣き声もきこえました。双子だったように思えました。胎盤も一緒に袋に入れていたのです。看護婦は赤ちゃんの入った袋をどこかにもって行ってしまいました。その女性は二度と赤ちゃんと会うことはありませんでした。(P.22)

ある日、私は五〇銭のお金をもっていました。そのお金をもって脱出しようと思いました。その晩は雨が降っていました。その家を逃げ出したのです。故郷へ、お母さんのところへ逃げよう。雨が降って、土はぐちゃぐちゃでした。冬がすぎ、春がきていましたが、まだ土は固く風は冷たく吹いていました。深い闇の中、私は屠殺場のような家を逃げ出したのです。靴を脱いで、手に持ちました。どろ道はぬかり、足の甲まで沈んでしまうようでした。どのくらいかして私は力がぬけていくようでした。私は足をふいて、とある家を探したずねました。これがどうしたことか、その家も日本の軍人が住んでいる家だったのです。私はたいへんあわてました。そこにいた軍人たちも私を見て「だれだ。入れ」と言いました。私はあまりに疲れてしまっていました。~(中略)~
そして、その憲兵たちに言いました。「私は軍人たちといっしょに生活していました。故郷のお母さんに会いたくて、夜、逃げてきました」と。憲兵たちは電話で連絡して、その通りだということを確認すると、私を元の場所に戻しました。また夜のえじきになったのです。「お姉さん」四人と私をいれて五人で軍人たちとすごしたのです。(P.22~23)

飛行機の音がすると、私たちは防空壕に入りました。あちこちに防空壕があり、それは日本軍のためのものがほとんどでした。ある日のこと、日本の軍人たちが防空壕に逃げた時、労務者のおじさんが私たちに言いました。「お姉さんたち、ここにいたら、家に帰ることはできなくなるよ。一日も早くここを逃げなさい。今家に行かないと永遠に親兄弟に会えなくなるよ」と。その言葉を聞いて考えました。春雨がぼそぼそと降る晩、私はその怖い家を逃げ出しました。一晩中歩いて、夜が明けました。そこは港の波止場でした。数知れずの船がありました。私はそのひとつに乗りました。(P.24)
1997.8 私は「慰安婦」ではない
日本の侵略と性奴隷
「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」実行委員会 東方出版
 私は韓国から来た金允心です。私は日帝時代(日本による植民地時代)、14歳の時、国民学校を卒業して二か月ほどして、日本の軍人たちに捕まえられて行きました。どうだったかというと、友達と三人で外でゴム跳びをして遊んでいたら、自動車が一台来たんです。うちは全羅南道海南という所で、田舎でした。そこでは生まれてから死ぬまで汽車を一度も見ずに死んだ人が多いです。今現在もそんな田舎です。
 だから自動車が一台来た時、私たちはほんとうに嬉しくて、ゴム跳びを止めて、自動車の横に立って触ってみました。すると、軍人二人が後ろに座っていて、「自動車がそんなにいいか。上がってこい。乗せてやる」と言いました。
 それで三人で乗りました、嬉しくて。ちょっとだけ回ってから連れて帰ってくれると思ったのに、「降ろしてください」と言うと、「もう少し行けば、汽車にも乗せてやるし船にも乗せてやる。黙って座っていろ」というので、こわくてじっとしていました。
 遊んでいたゴム跳びのゴムを握ってどんなに泣いたことか、降ろしてくださいと頼んでも降ろしてくれず、夜どおし車で走りました。そして連れて行かれた所は、後で知ったことですが、全羅南道光州市というところでした。
 どこかの家に着いて中に入ると、旅館なのか、そこには女の人がたくさん来ていました。そして私たち三人も彼女たちと一緒に置かれました。その日の夕方、寝て目が覚めると、一緒にいた友達は何処かに送られて居なくなっていて、私だけその女の人たちと残されていました。
 それから私は見知らぬ女の人と一緒に汽車に乗せられました。夜どおし汽車に乗って翌朝降りて、そこから今度は船に乗りました。泣いて泣いて泣き疲れて、「降ろして」「家に帰して」とすがりつくと、船の人たちは、ゲートルという紐があったのですが、それで私の手も足も縛って水に漬けるんです。「泣くな」といって。それでもどうしていいのか分からなくて泣いてばかりいました。するとまた水に漬けられて・・。そうやって二日ほど乗っていたでしょうか。暗くなると船の中で寝ました。
 さいなまれ、もうあきらめて、その人たちの行く所について行くしかありませんでした。船から降ろされてみると、何もない野原。「そこで暮らすのだ」と言い、およそ30人にもなる女の人たちを降ろしました。私たちが暮らすと言われた家は洞窟のようで、入り口だけ木で作ってありました。その中に入れられロウソクの明かりで毛布を敷いて寝ました。(P.58)

時に、女たちが体の具合が悪くなって伏せっていると、顔が黄色くなってきて、そうなるとご飯もくれません。人数分計算して持って来たご飯、小さな握り飯一個なのに、伏せっている女たちにはやらないのです。それから一日経つと、その女たちは担架に乗せられて何処かに運んで行かれ、二度と戻りませんでした。また、ちょっとでも具合が悪くなるとご飯をくれず、言うことを聞かないとご飯をくれず、具合が悪いと言って傍目にも悪いように見えると、担架に乗せて連れて行かれた女たちも、二度と戻りませんでした。連れ出されていく女の人からは口で言えないような本当にひどい匂いがしました。腐っていく匂いのようでした。
 このように苦痛を数知れず受けながら暮らしました。子どもを身篭って臨月を迎えた女たちもみんな運んで行ってしまいました。そうするとまた、何処からか新しく女たちを運んできました。十人ずつ、五人ずつ、軍人たちが連れて来て、そこで暮らすようになります。(P.59)

ある晩、夕ご飯を食べて暗くなった頃、お金を靴下の中に隠して、とにかく逃げ出しました。その道は行っても行っても進まず、一晩中歩いて夜が明けた頃、やっと大きな家があったので中に入りました。私は家族で暮らしている民間の人たちだと思ったのに、あろうことか、そこも軍人たちが住む家でした。「おまえはここに何しに入ってきたのか」。何と言えばいいのでしょう。(P.61)

来る日も来る日もそんな生活を続けて、泣いて泣いて、顔が腫れて、それをある軍人が見ました。その軍人は、誰もいない時にやって来て、「ここでこんなふうに殴られて死んでしまう人間も多い。いくらも経たないうちに、ここにも居られなくなる。アメリカ人がもう少ししたら来るだろうから。そうしたらおまえたちは殺されるかもしれないから、そうなって死のうが、逃げる途中で捕まって死のうが同じことだ。俺の言うことをよく聞いて、ここから逃げ出せ」と言いました。
一緒にいた女たちと心配しながらも三日ほど思案したあげく、ある夜、三人で逃げ出しました。(P.63)
1998.8.4 朝鮮新報 「日本の戦時下での強制連行に関する東京シンポジウム」 ***** ****
金さんは、外でゴム飛びをしている時に連れていかれ「慰安婦」にされたが、あまりにもつらくて逃亡し、1回目はつかまって拷問され、2回目に成功したが、いつも過去におびえていたと、肉体的苦痛に加え、精神的苦痛を訴えた。
1998.8.7 朝鮮新報 「強制連行、『従軍慰安婦』問題東京シンポ、大阪報告会から」 ***** ****
 全羅南道海南で生まれ8人兄弟の3番目だ。家は裕福だった。
 ある日、家の外でゴム飛びをして遊んでいると、車が近付いてきて、いきなり私を乗せて行った。車からトラックに乗り換え、中国のハルピンに着いた。
 私は、世間知らずな16歳の娘だった。部屋に入れられると夜、軍人が幾人か来て服を脱げと言われた。その日、あまりにも泣いたので顔は浮腫み、お腹は空いて、とにかく生きるために従った。真冬でも寝間着のような薄着で過ごした。
 ある日、庭から人の手のようなものが見えたので掘ってみると死体が出てきた。妊娠して病院に行ったとばかり思っていた娘が、生き埋めにされていた。
 私は怖くて、抜け出そうと決め、逃げ出した。1度目は掴まり、その時軍人から酷い拷問を受けた。意を決してまた、抜け出した。2回目に成功し、家に帰ることができた。
2000.4 海南(ヘナム)の空へ
戦場からソウル、そして未来への日記
キム・ユンシム パンドラ
 それから数日後、私は父の目を盗んで門の外にそっと抜け出した。そして、他の子と一緒にゴム跳びをしていた。そのとき突然、自動車が1台やってきた。私の故郷はとても山奥だったので、自動車が1台来ただけでも、たいそうな見世物だった。私はゴム跳びをやめて自動車のそばまで行き、あちこち触ってみた。すると、自動車の中からおじさんがひとり出て来た。自動車の中には巡査ひとりと軍人のおじさんがいた。そのおじさんは私に、自動車に乗せてやろうといった。私は嬉しくて自動車に飛び乗った。
 ところが、どうしたことだろうか。私を乗せた車は、あっという間に峠の道を越えてしまった。私は足をドンドン踏み鳴らし、降ろしてほしいと哀願した。でも、彼らはそんなことには耳も貸さず、泣いたら降ろしてやらないといい、矢のように走りつづけた。
 私はその日の夜、泣きに泣いた。車に乗せられて知らないところにきてしまった。私が連れて行かれたところには、私より大きいお姉さんがたくさんいた。私はその場にしゃがみこんで、わんわん泣いた。そこにいたお姉さんたちが泣くなといった。泣いたらご飯ももらえないし嫌われるから、泣かないでがまんしろ、と私はお姉さんたちと一緒にそこに一晩泊まり、次の日の朝、汽車に乗せられた。とても汚い、荷物を運ぶ汽車だった。私たちは夜通し汽車に乗っていた。
 夜が明けたときは、どこかの船着場だった。私たちはそこで降ろされた。ある食堂の薄暗い部屋にしゃがみこみ、干葉の汁にご飯をひとさじ入れたものを、まるでご馳走のようにおいしく食べた。でも、それもつかのま、私はまた母のもとに帰りたくなり、故郷の家が懐かしく、兄に会いたくなった。だけど、あまりにも怖くて、逃げることなど考えられなかった。
 また、夜がきた。私は生まれて初めてみる船に乗せられ、どこかに連れて行かれた。私は母に会いたくて、船の中でも泣いてはまた泣いていた。すると、私たちを連れて行ったおじさんが、家に帰してやるから出て来いという。私は両手で涙をふきながら、船室の外に出た。でも、そのおじさんは私の手足をゲートルの紐で縛った。
 お前はうるさくて手におえないから海に投げてやるといい、手足を縛られた私を船の端に座らせた。私は怖くなって、もう絶対に泣かないから、どうか助けてくださいと哀願した。私は何度も何度も謝った。そのおじさんは、頭数さえごまかせれば家に帰してやりたいんだがと、ひとりでブツブツいっていた。そして、こんど泣いたら海に捨てるぞといいながら私の縄をほどき、船の中に入れといった。私は、夜なのか昼なのかもわからない船の中に閉じ込められていた。
 ある日、彼らが私たちに船の外に出て来いといった。私はお姉さんたちのチマの裾にしがみついて外に出た。そこは、どこかの波止場だった。軍人のトラックが何台かあり、私たちを乗せるために来たのだという。私たちは数台に分かれてトラックに乗った。私が乗ったトラックには、私を含めて6人いた。
 私たちを乗せたトラックは、何も見えない広い平原に到着した。見えるのは軍人のトラック、防空壕、そして軍人の住んでいるテント小屋だけの、見知らぬ土地だった。そこは中国のハルビンだといわれた。
 そこでは、夢にも想像できない恥ずかしい歴史、死よりも惨めな人生、14歳の少女にも思いもよらない地獄の日々が続いた。(P.21~25)

 それまで見たことも聞いたこともなかった中国の地。何を話しているのかわからない言葉。私たちが住むことになった家は軍人の家と同じテント小屋で、部屋はタタミ2枚分ごとに仕切られていた。民家は一軒もなかった。お姉さんたちと私は、その仕切られた部屋で暮らした。食べるものなど何もなかった。塩水をぬったおにぎりを1日に3回与えられるのがすべてだった。私はあまりにもお腹がすいて、おにぎりをひとつもらえるなら、軍人のいうことを何でもきいた。(P.27)

 でも、そんな生活のなかで、私は50銭ためた。そのお金を持って、そこから逃げだそうと考え、いつも機会を狙っていた。考えただけでも胸がドキドキした。そんなある日の夜、激しい雨が降った。私は50銭と、脱いだ靴を握りしめ、死を覚悟してそこから逃げだした。私の故郷、母のもとに帰らなければという思いだけで走った。冬が過ぎ、もう春になっていたが、地面はまだ解けていなかった。毎日、激しい風が吹いた。屠場のようなテント小屋を抜けだし、当てもなく泥道を走った。足の甲まで泥で覆われてしまった。
 どれくらい走ったことだろう。私はすっかり力尽きてしまい、足を洗わせてもらおうと、ある家に入った。ところが、なんということだろう。こともあろうに、そこも日本軍が住んでいる家だったのだ。
 私は慌てふためいた。日本の軍人たちも私を見て驚き、「誰だ、手をあげろ!」と叫んだ。私は驚きのあまり、泣きだしてしまった。(P.31~32)

ひとりの労務者が私たちにいった。「お嬢さんたちは、いま故郷に帰れなければ、永遠に帰れないだろう」と。その人は姓を金本といった。私たちはようやく、自分たちが関東軍(旧満州に駐留した日本の軍隊)のところにいるということを知った。(P.34)

 そうだ。いま帰らなくては、私はすっくと立ち上がると、怖くて鳥肌の立つくらいいまいましいテント小屋を、また抜け出した。
 息が切れるほど夢中で走った。どれほど走ったことだろう。すっかり夜が明けていた。そこは船着場だった。(P.38) 
2000.5.10 朝鮮新報 「恥ずべきは自分ではなく、日本政府」 ***** ****
 1930年、全羅南道の南端の町、海南の裕福な家庭に生まれる。14歳の時に友だちとゴム跳びをしている最中に日本軍人に連れ去られ、中国ハルピンの 慰安所 に送られる。その時から地獄の日々が続いた。
 畳み2枚分ごとに仕切られた部屋で暮らした。与えられた食事は1日3回、塩水をぬったおにぎりだけだった。夜になると、軍人が無慈悲に、情け容赦なく襲いかかってきた。中には、銃と刀をぶら下げてくる軍人もいた。犯されて、体中は病んだ。軍人はそれに気を止めず、決まって下着を両手で引き裂いて、暴行を加えた。
 このような地獄の生活の中でも なんとしても生き残って、コヒャン(故郷)に帰り、オモニに会わなければ と、歯を食いしばって生きたという金允心さん。
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