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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 金田きみ子(源氏名)(本名:朴福順) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦となった経緯等】

1921年10月22日、慶尚北道で生まれる。金田きみ子は慰安婦時につけられた名前。
父は牧師をしていたが抗日運動に参加して迫害され逃亡、きみ子は伝道の家の女中となる。1938年春、友人らから「良い働き口へ一緒に行こう」と誘われて棗強の慰安所へ到着する。約6年間、慰安婦生活を送った後、朝鮮人の柳(ユウ)部隊長に相談し、1944年、24歳の秋、朝鮮に帰郷。

1991年12月、金学順(キム・ハクスン)、文玉珠(ムン・オクス)らと共に日本政府に謝罪と補償を求めて提訴。2004年11月最高裁棄却により敗訴確定。(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟)

1997年、日本の「女性のためのアジア平和国民基金」による元従軍慰安婦への償い事業から一時金を受け取ったことにより、韓国内で非難にさらされる。(※批判の理由は「国民基金に反対する意図から集められた募金を、国民基金を受け取った人に渡すことは募金者の意思に反するし、国民基金と募金の両方を受け取ることは逆に不公平になる」ということのようです)

2005.1.27死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本人の紹介者に騙され、日本人の警官か軍人の家の前に集合。二人の日本人の軍人に引率され、棗強の慰安所まで行く。


【考察】

証言をそのまま信じるなら、日本軍が工場勤務と称して集まってきた女性を強制的に慰安婦にしたと言うことでしょうか。


「裁判の訴状」によると、同女の慰安所生活は以下の通りで、合計すると4年強になり、6年間慰安婦生活を送ったとする記述と矛盾しています。(※「一年余り」や「一年前後」を、無理やり「一年半」と解釈すれば6年になりますが)

 棗強(約23日) → 石家荘(1年余り) → 棗強(1年前後) → ピョンアン(1年前後) → リュータマル(1年前後)

 ※最初、棗強にいた時、3日目に軍人に胸を刺され負傷。その後、20日休養した後、石家荘に移動
 ※「その後、ナツメキョウ、ピョンアン、斉南のリュータマルの部隊の慰安所でそれぞれ一年前後全部で6年間を慰安所で過ごさなければならなかった」


なお、同女は、金学順、文玉珠らと共に日本政府を相手に慰安婦として最初に訴訟を起こした三人の内の一人ですが、金学順、文玉珠とは違い、「<証言>従軍慰安婦・女子勤労挺身隊(伊藤孝司・風媒社・1992.8)」、及び、「証言 強制連行された朝鮮人軍人慰安婦たち(韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会・明石書店・1993.10)」には、証言が掲載されていません。

裁判の原告にもなっておきながら、その後に発売された証言集に証言が載せられていないのは疑問です。家庭の事情等、状況の変化により証言ができなくなった可能性もありますが、1996年以降にマスコミに同女の発言が取り上げられていることを考えるとそれは無いでしょう。


【信憑性】

裁判の原告になって以降に発売された証言集に同女の証言が取り上げられていないことを考えると、証言に統一性がなく取り上げようがなかったのではないかと考えられます。
信憑性は無いと考えて良いでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1991 裁判の訴状 ***** ****
(前略)
 1938年春、一六歳と一八歳の二人の友人が、金田きみ子を「いっしょに工場にお金を儲けに行こう」と誘った。
 芙蓉の伝道夫人の家から三〇から四〇分歩いたところに日本人の街があった。紹介者の家は、その街の中にあった。紹介者の日本人の家を訪ねると、その家には、床の間に日本刀が飾ってあった。紹介者の日本人は、「工場に勤める大勢の人を募集に来た。お金がたくさん儲かる。」と言った。給料はいくらか等細かい話しは聞かなかった。金田きみ子と二人の友人とさらにもう一人の友人を加えた四人は、二人の日本人男性(軍人ではない)に連れられてソウルに来た。日本人の警官か軍人の家と思われる建物に着くと、すでに一〇人くらいの女性が集められていた。
 翌日の早朝、二人の日本人の軍人が引率して、約一五人の女性たちを列車に乗せた。軍人は「支那の天津の工場に行く」と説明した。列車は走り続け、翌日の午前一一時ころ天津に着いた。列車の中で握り飯が配られた。故郷を離れ、他の朝鮮人の乗客がいなくなって、金田きみ子は次第に不安になった。
 列車を降りると、ジープ二台、トラック一台が来ていた。ジープに軍人が各二人、トラックに五人くらい乗っていた。金田きみ子ら女性たちはトラックに乗せられ、トラックとジープは枯れ草の中を走り、ペータンの部隊に着いた。
 工場に行くのではないことがわかり、女性たちは「帰らせてくれ」と泣いたが、軍人たちは女性が逃げないように監視した。
食堂に連れていかれ、食事に出たが、恐怖で食べられなかった。なぜ、こんなところに連れてこられたのかわからなかった。食堂には金田きみ子ら一五人の女性のほかに三〇人から四〇人の女性がいた。先に食堂に来ていた女性に「何をするところか」と聞くと、二〇歳くらいのその女性は、「死ぬ以上の苦しみがあるが、命令に従わなければいけない」と言った。金田きみ子は、そのように言われ、洗濯や食事など軍人の世話をさせられるのだと思った。軍隊慰安婦にさせられるなどということはまったく想像できなかった。軍人がいるだけで怖かった。朝鮮語で話しをしていると、「朝鮮語で話をするな」と怒鳴られた。
 翌日、ペータンから二〇人くらいの女性が五、六台の馬車に乗せられ、天津に戻り、再び列車に乗せられ、列車は約四時間後、トッヒョン(徳懸)に着いた。
 トッヒョンから馬車で三時間走り、夕方、ナツメキョウ(棗強)に着いた。馬車の前後にはジープが付いて走っていた。
 ナツメキョウのカネヤマ部隊は、城壁の中にあった。二〇人全員が大きなテントに入れられた。
 あくる日、午前中は、洗濯、掃除をさせられた。昼食の後集合がかけられ、軍人が女性たちに「ここまで来るには、みなさんは覚悟をしてきたでしょう。」と言うので、女性たちは「私たちは工場に来ると思っていた。帰らせてくれ。」と言った。すると軍人は「何を文句を言うか。軍人は国のため、おまえたちのため、戦っているのだ。これからは少しだけ苦労すればよい日が来るのだ。」と言って、女性たちにそれぞれ部屋を与えた。
 女性たちは、午後三時ころ、各自二畳ほどの狭い部屋に入った。床には黍で織った敷物が敷いてあった。部屋の前にはカーテンが掛けてあった。部屋の数は四〇から五〇はあった。金田きみ子とともに連れてこられた女性のほかには女性はいなかった。金田きみ子の部屋は「八号」だった。金田きみ子という通名は、ここで与えられ呼ばれた名前だった。
 一人の女性は、連れてこられた直後に射殺された。金田きみ子は、言うことをきかなかったため、三日目に軍人に銃剣で胸を刺され負傷した。その傷は今でもはっきり残っている。
 傷の治療のため、二〇日ほど部屋で過ごした後、他の四人の女性とともに、ソッカジャン(石家荘)の部屋に連れていかれた。ナツメキョウからトラックでトッヒョンに戻り、トッヒョンから列車で北京に行き、北京から馬車で五時間くらい移動したところに部隊があった。近くに阿片の工場と畑があった。
 金田きみ子は、ここで一年余りの月日を過ごした。
 ここでの金田きみ子の部屋は「三号」だった。もはや殺されないため従うほかなかった。三人を相手にすると痛くて動くこともできなくなった。
 部隊では中国人も働いていた。一ヵ月くらいから中国人に勧められて阿片を吸うようになった。地獄のような苦しみから逃れたいためだった。
 金田きみ子は、その後、ナツメキョウ、ピョンアン、斉南のリュータマルの部隊の慰安所でそれぞれ一年前後、全部で六年間を慰安所で過ごさなければならなかった
(後略)
1996.12.10 共同通信 ***** ****
関係者の話によると、金田さんは集会の席で「私たち元慰安婦はきょう、明日死ぬかもしれない命。死んでから何億円もらっても意味はない」などと発言。
 その上で「日本政府に賠償を要求したい気持ちは変わらないけれども、一時金二百 万円のほかに医療・福祉事業から三百万円の計五百万円を一括して支給してもらえる なら受け取りたいと思っている」と訴え、アジア女性基金の取り組みに理解を示した
1997.6.20 共同通信 ***** ****
 日本の「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金、原文兵衛理事長)による元従軍慰安婦への償いの事業で、韓国の元慰安婦七人が今年一月に一時金を受け取ったことに対し、国家賠償を求めて民間基金は受け取るべきではないとする韓国内の支援団体やマスコミが猛反発、七人は厳しい批判にさらされ続け、心に深い傷を受けている。
 追い打ちをかけるように、最近、元慰安婦支援のために行われた市民運動の募金で、七人だけが対象者から外された。七人は「同じ被害者なのに」と不当性を訴えている。
 一方では、七人に続いて一時金の受け取り希望の意向を漏らす被害者が出るなど新しい動きも出ている。
 韓国では七人が一時金を受け取ると、受け取りを拒否している一部の被害者が韓国政府に対し、七人には政府の生活費支援(月五十万ウォン=約六万四千円)を中止するよう求めた。さすがに、これには韓国政府が「そういうことはできない」と回答したが、七人への風当たりは想像を超える厳しいものだった。
 韓国では昨年十月に約四十の市民運動団体が「日本軍慰安婦問題の正しい解決のため市民連帯」を結成、基金の一時金と同額を被害者に支援するため三十億ウォン(約四億円)を目標に募金活動を行った。しかし集まった募金総額は約五億五千万ウォンにとどまった。
 市民連帯では、募金は百五十一人の元慰安婦と中国から帰国の元慰安婦四人の合計百五十五人に一人当たり約三百五十万ウォン(約四十八万円)を支払う予定だ。しかし、基金から一時金二百万円と医療・福祉事業費三百万円の計五百万円を受け取った七人には募金の配分をしない方針だ。
 七人の一人、金田きみ子さん(75)=仮名=は「同じ苦しみを受けた元慰安婦なのに、なぜ差別されなければいけないのだ」と怒りをぶつける


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