元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 李秀梅(リ・シュウメイ) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1927年(推定)、山西省西藩郷李庄村で生まれる。1942年15歳の時、突然、家にやってきた日本兵に拉致され、進圭村の石洞にて5ヶ月間監禁・強姦される。
1995年8月に、他3名と共に日本政府に謝罪と賠償を求めて提訴。 2001年5月東京地裁、請求棄却。2004年12月東京高裁、控訴棄却。2007年4月最高裁、上告棄却。(中国人「慰安婦」損害賠償請求訴訟(第一次)・原告 李秀梅、劉面換、周喜香、陳林桃)
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
慰安所には入れられておらず、近くの村の石洞に監禁される。
【考察】
「元『慰安婦』の証言」では、同女の家に入ってきた日本兵が「花姑娘」と言ったと証言しており、これは明らかに中国語です。
近くの村で同様に拉致・監禁された女性たち(劉面換・陳林桃)の証言を勘案すると、日本兵と共に多くの漢奸(※日本人の手先となった中国人)が行動していたことは明らかであり、「花姑娘」と言ったのは漢奸でしょう。そして、この漢奸たちは女性への暴行・強姦にも参加していたようです。同女の証言には「日本兵」しか出てきませんが、どうやら、この「日本兵」は「日本兵+漢奸」のようです。
なお、「ガイサンシーとその姉妹たち」には以下の通りの記述があります。
「この家は日本軍が村に駐留している時、傀儡軍の“清郷隊”の本部となっていました」(P.140)
「家はあの時清郷隊の本部となっていた。全部で30数人がここで寝起きしていた」(P.140)
※清郷隊・・・地元の住民により組織され、日本軍に協力した武装組織
また、「ガイサンシーとその姉妹たち」には、進圭村の以下のような老人の証言が記載されています。
「彼らの大隊長は吉田と言い、中隊長は今井といった。副中隊長は堀武といい、下にロバと赤ら顔がいて、谷川が小隊長のとき日本軍は引きあげた。しかし女性を乱暴するのは主にロバと赤ら顔、キバというような人たちだった」
「ロバというのは森曹長のあだ名で、村人が赤ら顔と呼んでいた伊藤が情報班長だったあと、曹長に昇進した。キバはもともと砲兵だった。古兵だったので、誰も素行の悪い彼をどうしようも出来なかった。一九四二年夏の太行山戦役で中隊長の今井が死んだあとは、ここに2個分隊しか残らなかった。10人あまりがいるだけで、木坂が親分で、ロバ、赤ら顔が曹長になった。その後、43年夏に岩本という人が隊長として転任してきたが、あの人は若くてこれらの古兵をどうしようもできなかった」(P.152~P.153)
他の同様の証言者(劉面換・陳林桃)の証言も総合して勘案すると見えてくるのは、「好き勝手する一部の日本兵とそれを統率できない隊長。そして、それに便乗して暴行・強姦に参加する一部の中国人」という状況です。隊長は統率できないばかりか、本部に報告すると自分の責任が問われるために黙認していたのでしょう。
【信憑性】
誇張や創作と思われる証言はなく信憑性はあると思います。ただし、漢奸の存在は意図的に隠しているようです。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1997.6 元「慰安婦」の証言 -50年の沈黙をやぶって アジア・フォーラム編 晧星社 山西省西藩郷李庄村で生まれました。一五歳の時(一九四二年)の農暦八月、母親と自宅にいたところ、突然四人の日本兵が入ってきました。男たちはうれしそうに「花姑娘」と言いながら入ってきました。当時五〇歳くらいだった母親を無視し、オンドルに座っていた私のところへ来て、私を連れ出しました。私は怖くて震え、泣き叫んでいましたが、口の中につめものをされ、暴力的に家から連れ出されたのです。
私は両手を結わえられてロバに乗せられて両側は兵士に固められて、進圭村という村にある日本軍の駐屯地まで運ばれました。ここで監禁されたところは、この地方によくある石洞の一つでした。幅一・七メートル、奥行きが約三・三メートルで奥の半分はオンドルになっていました。オンドルの上には麻袋や藁が置かれていて、私が連れてこられた時、そこには二人の女性がいました。石洞の中には、便器用の桶があるだけで何にもないところでした。入り口は鍵がかけられ、中国人の門番がいました。この石洞から出られたのは、排泄物を捨てにいく場合ぐらいで、そのまわりの様子はよくわかりません。監禁されてから、四、五日後、赤ら顔の「ロバ隊長」とよばれる日本兵が入ってきました。この隊長はまず先にいた女性を強姦し、続いて私を強姦しました。その日から、戦闘に出かける日以外は、毎日、日本兵たちが私たち三人を強姦しに入れかわり立ちかわりやってきました。三人の日本兵がやってきて、私たち三人を同時に強姦することもありました。石洞の中で順番を待つ兵士が、私たちが強姦されるのを見ていることもありました。一人の日本兵の強姦が終わると、続いて別の日本兵がすぐやってきて強姦することもありました。強姦は生理日でもかまわず行われました。私は多い時には、日に一〇人、少ない時でも二、三人に強姦されました。私たちが抵抗すると日本兵は暴行を加えました。私はある時ベルトで殴られ、そのバックルが右眼にあたり怪我をしました。この怪我がもとで、私は後に右眼を失明してしまいます。また、皮の長靴で大腿部を蹴られて怪我をしました。この怪我がもとで、今では右足が左足より短くなっています。顔や腹、腰などはしょっちゅう殴られました。(P.29~30)2006.9 ガイサンシーとその姉妹たち 班忠義 梨の木舎 私は兎年生まれで、15歳の時(1942年)の旧暦8月、今でいう9月に、日本人が進圭社に入ってきて砲台をつくった。
ある日彼らが私が住んでいた李庄村にやって来た。私が家で母親と二人で靴作り(注・当時は布靴を自分たちで作っていた)をしていたところに、4人の日本兵が銃を持って家に入って来た。そしてオンドルの上に座っていた私を引っ張った。怖くて、お母さん、と叫んだ私をされに引っ張り、追いかけてきた母を1人の日本兵が2回も蹴って倒した。私は村の下まで引っ張られていった。
私が泣いて母を叫ぶと口い布を入れられ、両手を縛られて村の外まで来るとロバに乗せられた。こちら側から降りようとすると“殺すぞ”と言われ、顔に平手打ちを受けた。向こう側に降りても“殺す”と言われて、怖くなり何も出来なくなった。
進圭社に連れて行かれて、小さい窓のあるヤオドン(窰洞)に監禁された。私のほかに侯冬娥さん、板先梅さんがいた。3人が一緒に監禁された。そして5ヵ月間閉じ込められた。
昼も夜もズボンを穿くことが出来ない。私たち3人は同じオンドルの上にころがされ、彼らに強姦された。この男が出て行ったら他の男がやって来る。やって来る日本兵の数は多い日もあれば少ない日もあった。多い時は20~30人も来る。だから1日中服を着ることが出来ない。彼らがどこかに出発する時、やっと服を着ることが出来る。“赤ら顔”隊長(注・日本人隊長某のあだ名)にはいつもトーチカに呼ばれた。泣いて嫌がっても行かなければならない。行かないと彼に殴られる。力ずくで連れて行かれる。これ以上の苦しみはない。“生理がきたから、今日はやめてほしい”と言っても、彼らは出来ないことはない、と言ってまた同じように陵辱する。どんなに苦しくても引っ張られて陵辱された。
冬侯娥さんは半月ぐらい一緒にいたけれど、ある日担がれて家に戻っていった。板先梅さんは数日で家に返されたから、冬侯娥さんも行ってしまうと、残ったのは私一人だった。私は彼らから陵辱を受けないようにと、毎日顔を洗わず髪の毛も梳かないで、そこから逃げることを考えた。でも、死ぬことも逃げることも出来なかった。いつものよういトーチカへ呼ばれる。彼らは私の汚い顔が嫌で、そこに行く前に必ず私に顔を洗わせた。
私は9月にヤオドンに閉じ込められ、旧正月まで5ヵ月間も監禁された。私の体は歩くことも動くことも出来ず、トーチカにも行くことが出来なった。そうすると“赤ら顔”隊長は今度はヤオドンまでやって来て私を陵辱する。その時私は必死に抵抗した。彼に腕を強く引っ張られたので千切れるかと思った。私は思い切って彼の腕を噛んだ。必死に抵抗する私に隊長は怒ってズボンから皮ベルトを抜き、私の頭や顔を殴ったので、バックルが私の右目にあたってその後右目は見えなくなってしまった。その時痛めつけられ、左足を軍靴で蹴られ、棍棒で体中をめった打ちにされたので、私の片方の足の骨が折れた。私の足はみてわかるように片方が短くなり、引きずって歩くしかない。体が不自由になり、格好良く人の前を歩くことは出来ない。私は彼らに賠償してほしいです。(P29~31)
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◆◆◆ 陳林桃(ツェン・リンタウ) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
山西省羊泉村で生まれる。20歳の旧暦6月、川で洗濯をしていると、漢奸(注)2人を先頭に多くの日本軍がやってきて連行され、進圭村にて20数日間監禁、強姦される。
1995年8月に、他3名と共に日本政府に謝罪と賠償を求めて提訴。 2001年5月東京地裁、請求棄却。2004年12月東京高裁、控訴棄却。2007年4月最高裁、上告棄却。(中国人「慰安婦」損害賠償請求訴訟(第一次)・原告 李秀梅、劉面換、周喜香、陳林桃)
注)中国人で日本軍の手先になったもの
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
慰安所には入れられておらず、近くの村で監禁される。
【考察】
同女が連行される際、日本軍の先頭に立ってやってきたのは2人の漢奸。また、進圭社にて監禁される前に羊泉村で集会が行われていますが、その時、「集会には50人くらいの手先がいた」と証言しています。
「ガイサンシーとその姉妹たち」には、以下の通りの記述があり、日本兵と共に多くの漢奸が行動していたようです。
「この家は日本軍が村に駐留している時、傀儡軍の“清郷隊”の本部となっていました」(P.140)
「家はあの時清郷隊の本部となっていた。全部で30数人がここで寝起きしていた」(P.140)
※清郷隊・・・地元の住民により組織され、日本軍に協力した武装組織
また、同女の証言では明記されていませんが、同じ村から同様に監禁・強姦された劉面換の証言を勘案すると、強姦・暴行には漢奸達も参加していたようです。
なお、「ガイサンシーとその姉妹たち」には、以下のような進圭社の老人の証言が記載されています。
「彼らの大隊長は吉田と言い、中隊長は今井といった。副中隊長は堀武といい、下にロバと赤ら顔がいて、谷川が小隊長のとき日本軍は引きあげた。しかし女性を乱暴するのは主にロバと赤ら顔、キバというような人たちだった」
「ロバというのは森曹長のあだ名で、村人が赤ら顔と呼んでいた伊藤が情報班長だったあと、曹長に昇進した。キバはもともと砲兵だった。古兵だったので、誰も素行の悪い彼をどうしようも出来なかった。一九四二年夏の太行山戦役で中隊長の今井が死んだあとは、ここに2個分隊しか残らなかった。10人あまりがいるだけで、木坂が親分で、ロバ、赤ら顔が曹長になった。その後、43年夏に岩本という人が隊長として転任してきたが、あの人は若くてこれらの古兵をどうしようもできなかった」(P.152~P.153)
ここから見えてくるのは、「好き勝手する一部の日本兵とそれを統率できない部隊長。そして、それに便乗して暴行・強姦に参加する一部の中国人」という状況です。隊長は統率できないばかりか、本部に報告すると自分の責任が問われるために黙認していたのでしょう。
【信憑性】
同村や近くの村で同様の被害にあった女性達の証言と内容の齟齬はなく、信憑性はあると思います。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 2006.9 ガイサンシーとその姉妹たち 班忠義 梨の木舎 私が捕まったのは、ナツメを食べ始める頃だ。私は亥年の生まれで、15歳の時2歳年上の夫と結婚した。夫は19歳の時、一九三九年に八路軍に入った。その後5年間も家に帰って来なかった。夫が八路軍に入って3年目に私は捕まった。20歳の時、旧暦でいう6月のことよ。
その日私は村の中の池でふとんカバーを洗っていた。朝ご飯を食べたあと、お母さんから「ふとんをはずして洗ってきなさい」と言われたので、私はそのとおりにふとんカバーをはずして洗いに行った。
まもなく大勢の日本軍がやって来た。日本軍の手先になっていた張昇如、張孟生が先頭に立っていた。彼らはたばこを一服する時間も惜しんで、すぐに私の側にきて銃床で私を叩き、「この女です」と言った。
私は怖くてなんと言えばいいのかわからなかったが、やっと「この洗濯物を家に置きに行かせてください」と頼んだ。でも許されなかった。家に戻る間に私が逃げるのでないかと疑っていた。後ろには手先がいっぱいいた。私に前に歩かせて、彼らは、銃剣で後ろから私を突きつけながら脅した。私は「歩いているでしょう、なぜ捕まらなくてはいけないのか?」
そして羊泉村で集会をしたあと李庄村に連れて行かれた。羊泉村で捕まったのは私一人だった。集会には50人くらいの手先がいた。
李庄村に着いたら、一頭のロバに乗せられた。李庄村では私と侯冬娥さんの二人だけになった。彼らは進圭社まで送って集会をして終わったら家に送り返す、と言う。私と侯冬娥さんは別々のロバに乗せられた。2、3人の手先が前を歩いて後ろには日本人がついていた。私と侯冬娥さんは真ん中に挟まれて、逃げられないようにされた。
進圭社維持会(注・日本軍が村につくらせた傀儡組織)では、人名のたくさん書かれたリストを持ち出してきて、「どうしてこの人を連れて来たのか?本人はどこに行ったのか?その人は劉玲月か?」と言った。
実は張孟生は劉玲月さんの義姉の夫だったから、私を捕まえさせて彼女を逃がしたのだ。それで私がひどい目に遭った。日本人は銃床で私を殴りながらたずねた。「名前は?」私は「陳林桃と言います」。また叩いて「名前は!?」。私は「陳林桃です。殺されても陳林桃です」と言いました。「あなたたちが捕まえたいのは、劉玲月でしょう。私は違います」
日本軍のリストには私の夫の名前もあった。私の夫は八路軍に参加していた。日本人は、「おまえの夫は兵隊に入っている。おまえは八路軍の妻だ」と言った。私は、「夫はすでに戦死した」と言った。彼らは信じないで、私に夫を呼び戻させようとした。
私は進圭社に20数日間監禁され、ずっと侯冬娥さんと一緒だった。夜になるとぞくぞくと男が来て、その音を聞くだけで怖くてどのくらいの人が来たのか覚えていない。今も怒りが胸に湧いてくる。彼らは銃を持っている。それで私を殴って陵辱するの。抵抗すると銃床で突き飛ばされた。足の骨を折られた。侯さんは隣の部屋に監禁されていた。私の足が折れても構わず私を侮辱する。その夜は立ち上がれなかった。今でもこの骨が突き出ているよ。
私の恨みはずっと晴れなくて、苦しかった。木坂隊長と“赤ら顔”隊長を探し出して、彼らに賠償させて、私の病気を治してほしい。(P.46~48)
◆◆◆ 万愛花(ヴァン・アイファ) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1929年12月12日生まれ。内蒙古で生まれる。家が貧しく4歳の時に幼な妻として山西省の盂県羊泉村に売られる。11歳の時から抗日運動に参加、15歳の時に中国共産党に入党。1943年に3回、日本軍に捕まって強姦・拷問を受ける。
1998年10月30日、他の9人の原告と共に日本政府の公式謝罪と損害賠償を求めて提訴。2003年4月、東京地裁は原告の被害事実は認定したものの請求は棄却。2005年3月、東京高裁は控訴を棄却。
2000年12月、女性国際戦犯法廷で証言中に卒倒し病院に運ばれる。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
慰安所には入れられていない。
【考察】
「写真記録 破られた沈黙」(以下、「写真」)によると同女が日本兵に捕まったのは以下の通りとなります。
1回目・・・満14歳(数え16歳)・1943年6月7日(6月28日脱出)
2回目・・・満14歳(数え16歳)・1943年8月18日(9月16日脱出)
3回目・・・満14歳(数え16歳)・1943年12月8日(1944年1月28日生還)
※全て旧暦。「数え」は生まれた時に1歳で1月1日を越える毎に1歳を加算する方法。つまり、同女の場合、12月12日~31日は満年齢+1歳となり、その他は+2歳となります。
しかし、「日本軍による中国女性への性暴力を明らかにする証言集会 in 神戸」(以下「神戸」)では、日本兵に捕まったのは1943年と、西暦は一致しているものの、「15歳の6月のはじめ」と証言しており、1943年6月なら同女は満年齢でも数え年でも15歳ではありません。
----------------- 2008.2.25 以下に「黄土の村の性暴力」の情報を追加 ----------------
さらに、「写真」、「神戸」、「黄土の村の性暴力」(以下「黄土」)、「ガイサンシーとその姉妹たち」(以下「ガイ」)と比べると以下の通り証言内容に相違点があります。
<生まれた年>
○「写真」・・・1929年12月12日生まれ
○「神戸」・・・1929年
○「黄土」・・・1930年1月11日
○「ガイ」・・・1930年1月
→ おそらく、旧暦と新暦の違いでしょう。
<1回目の監禁>
○「写真」・・・1943年6月7日~28日(※3週間)
○「神戸」・・・1943年6月の初めに捕まり、1週間経たないうちに逃走
○「黄土」・・・1942年6月半ば頃に捕まり、約1週間後に逃走 (※1943年の可能性があることの記載あり)
○「ガイ」・・・6月7日に捕まり、数日後逃走(※西暦の記載なし)
<1回目の監禁時の強姦>
○「写真」・・・「毎日、多くの日本兵に強姦され、私は何度も気を失いました」
○「神戸」・・・記載なし
○「黄土」・・・「二回目や三回目の拉致の時のようなひどい拷問はありませんでしたし、強姦も受けませんでした」
○「ガイ」・・・「銃尻で殴られたりといった暴行を受け、強姦された」
→ 強姦されたり、されなかったり
<1回目の逃走>
○「写真」・・・日本兵たちが会議を開いている隙に逃走
○「神戸」・・・記載なし
○「黄土」・・・日本軍がどこかの村へ掃蕩に行った際に逃走
○「ガイ」・・・日本軍が棗園村へ出かけた隙に逃走
→ 会議だったり、掃討だったり。どこかの村だったり、棗園村だったり。
<2回目の監禁>
○「写真」・・・8月18日~9月16日(※約1ヵ月)
○「神戸」・・・7月に捕まり10日くらいで逃走
○「黄土」・・・8月頃。何日監禁されていたか覚えていないが、1週間前後より長かった。
○「ガイ」・・・8月19日に捕まり、約1週間で逃走
→ 1回目も2回目も、「写真」では異常に細かい日付を証言しておきながら、監禁されていた期間に統一性がありません。
<3回目の監禁>
○「写真」・・・12月8日~1月28日
○「神戸」・・・記載なし
○「黄土」・・・12月8日か1月8日頃(※期間についての記載なし)
○「ガイ」・・・12月8日に捕まり、正月になった時に死んだと思われ捨てられる
<3回目の拷問の後>
○「写真」・・・死んだと思われ川に投げ込まれ、お年寄りに助けられる
○「神戸」・・・逃走。ただし、その時のことは語りたくないと証言。
○「黄土」・・・死んだと思われ裸で川辺に捨てられ、老人に助けられる
○「ガイ」・・・凍った河に棄てられる。
→ 「神戸」では、3回目も逃走したことになっています。
また、「写真」では、3回目の拷問の後、真冬の川に裸で投げ込まれたことになっていますが、「黄土」では、川辺に捨てられただけになっています。そりゃ、瀕死の状態で真冬の川に投げ込まれたら生きているはずがないでしょう。
<3回目に解放された後>
○「写真」・・・「丸3年もの間は動くこともできずに寝ていました」
○「神戸」・・・「4回目はどうしても捕まりたくないと、中国のほぼ半分を逃げまわる生活を送った」
○「黄土」・・・自分で少し動けるようになったのは1947年のこととある。
○「ガイ」・・・記載なし
→ 「写真」では、動くこともできずに寝ていたはずが、「ガイ」では、逃げ回っています。
<耳たぶが引きちぎられた時とその状況>
○「写真」・・・1回目の監禁時。共産党員の名前を聞かれても黙っていたので、ひどく殴られる。その時に、右耳の肉の一部がイヤリングと共に引きちぎられた
○「神戸」・・・記載なし
○「黄土」・・・3回目の監禁時。「耳にしていたイヤリングが強姦した日本兵の指輪に引っかかり、その兵隊が思い切り引っ張ったので、耳たぶが引きちぎられました」
○「ガイ」・・・記載なし
→ 尋問時だったり、強姦時だったり。1回目だったり3回目だったり。
----------------- 2008.2.25 以上に「黄土の村の性暴力」の情報を追加 ----------------
その他、同女の証言の疑問点は以下の通りです。(「写真」の証言より)
<三光作戦で隣村は全滅>
・・・何故、同女の村は三光作戦で殺し尽くされなかったのでしょうか。
そもそも、「三光作戦」は中国側のプロパガンダで人民に徹底抗戦を呼びかけ、士気高揚を図るためのもの。実際に日本側でそのような作戦が取られていたわけではなく、太平洋戦争時に日本が「鬼畜米英」と言っていたのと同レベルのものです。
もし、本当にそのような作戦が取られていたなら、同女の村がその作戦のえじきにならなかったのはおかしな話です。
<副村長がキリストのように壁に手足を釘で打ち付けられ何日間も血を流し続けて死んだ>
・・・詳しい描写が無いので何とも言えませんが、手足を釘で打ちつけただけでは体の重みで肉が裂けて、磔状態を保つことは不可能です。如何にも創作臭い内容です。
なお、同女と同じ羊泉村で日本兵の犠牲になった劉面換や陳林桃の証言ではこのような副村長の話や全滅させられた隣村の話は出てきません。
<強姦中にわき毛と陰毛を全て抜き取られる>
・・・私には、わき毛と陰毛を抜き取ることに何の意味があるのか全く分かりません。しかも、他の兵隊が強姦している最中にです。マニアックな日本兵もいたものです。
また、「ガイサンシーとその姉妹たち」によるとこの行為には中国人も加わっており、さらに、それが原因で腋がつるつるになってしまったそうです。毛を抜いたぐらいで永久脱毛にならないと思うのですが。
【信憑性】
信憑性なし。
同村で同じように日本兵の被害者となった劉面換や陳林桃の証言と比べても明らかに異色で突出した内容です。
恐らく同女が日本兵と漢奸(※日本人の手先となった中国人)に酷い暴行を受けたことがあるのは事実だと思いますが、あまりにも誇張や創作を挿入し過ぎです。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1993.5 アジアの声 第7集
世界に問われる日本の戦後処理①
「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録国際公聴会実行委員会 東方出版 私は一九二九年一二月一二日、内蒙古呼市河林格爾韮菜溝村に生まれました。原名は劉春蓮といいます。漢族です。家が貧しかったので、四歳の時に山西省盂県羊泉村の李五学家に童養娼(一種の奴隷妻。封建時代、とくに農村で幼少の女児を労働力として、また将来の妻として売り買いしたー訳者、以下同じ)として売られました。私は幼少の頃、背が高かったので、高く売るために年齢を四歳水増しして、八歳として売られました。当時、李五学家には父親と三人の妹がおりました。日本軍が山西省に入ってきて、あちこちで三光(殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす)作戦を実施し、隣の村では全村が焼かれ、多くの人々が日本軍によって殺害されました。殺された人の中には、老人や女や子供もおり、死体は乾いた井戸に投げ込まれて、その上から石を井戸に入れて埋めたことなどを見聞きし、小さい時から日本軍を憎んでいた私は、一一歳の時に農村の抗日活動に参加しました。
しかし、私は日本軍によって三回にわたって捕えられ、多数の日本兵によって陵辱され、終生消えることのない傷を身体と心に受けました。
一回目は、一九四三年六月七日(旧暦)のことです。日本軍が掃討作戦にやってきたので、私はそれを知って近くの桃荘にあるドブ穴に隠れましたが、ついに発見されました。そして、羊泉村から三六華里(一六キロメートル)ほど離れた進圭社村の東側にある日本軍の拠点に連れていかれました。そこは漢奸(日本侵略者に対する怒りを込めた蔑称。日本鬼子、東洋鬼ともいう)(※漢奸は、中国人で日本軍の手先となっていた者のこと。この説明は誤り(管理人))側の「維新会」のある建物の中で、私はその建物の一室に監禁されました。私と相前後して捕らえられた同じ村の四人の女性も、別々の部屋に監禁されました。彼女たちの名前は、陳林桃、劉面換、馮北香、劉ニ荷、といいます。私たちは、顔を会わすことも許されず、捕らえられたその日から、日本兵たちがやってきて、彼らの気の向くままに強姦されました。昼夜を問わず、その場に何人いようともお構いなしに日本兵がやって来て、強姦していくのです。そのやり方は惨忍で、口で言い表せるものではありません。毎日数多くの日本兵によって輪姦を繰り返され、私は何度も気を失いました。赤ら顔の将校や歯の長い将校たちもやって来て、私を陵辱していきました。六月二八日、日本兵たちが会議を開いている隙を見つけて、私はその家から逃げ出し、羊泉村から一つ村を越したところにある趙家荘村にまで逃げました。しばらく経っても日本の鬼共はやってこない様子だったので、私は羊泉村に戻りました。
二回目は、同じ年の八月一八日(旧暦)、私は川辺で洗濯をしていた時に、西煙というところに拠点をおく日本軍と、進圭社村に拠点をおく日本軍が挟み撃ちをするようにして、羊泉村に侵攻してきて、私は逃げる間もなく再び捕らえられました。そして前回と同じように、進圭社村の東側の日本軍の拠点地に連れて行かれ、監禁され、いっそうひどく日本の鬼たちの蹂躙を受けました。一回目の時もそうでしたが、鬼共は私に村の中の地下の幹部や、八路軍の支持者の名前を言うように脅迫し、言わないと私をひどく殴りつけ、いっそうひどく私を虐待しました。食事もいい加減なもので、与えられたとしても彼らの残飯で、ふた口ばかり口にできるだけで、彼らの機嫌が悪い時などは食事も与えられず、本当に耐えがたい状況でした。この時も、日本軍が●(※市+今)園村に掃討戦に出かけている隙に、私は再び逃走しました。旧暦九月一六日のことです。私は、あちこち逃げましたが、家に病人がいて看病する必要があったので、日本軍が来ないのを見て、再び羊泉村に戻りました。
ところが、同じ年の一二月八日(旧暦)の早朝、突然、日本軍がやって来て、村を包囲しました。村の若い人たちは逃げましたが、私は病人を看病していたので逃げられず、三たび鬼たちに捕まってしまい、彼らによって大きなロバの背にくくりつけられ、進圭社村の東側の日本軍の拠点地に連れ戻されました。その後は、いっそうひどい虐待が待ち受けていました。再び毎日、数多くの日本兵によって輪姦が繰り返されました。ある時、一人の日本兵が淫行を続けている最中に、もう一人の日本兵が私の両手を頭の上で押さえつけました。そして、側にいる男が私のわき毛と陰毛を次々と抜き取ったのです。私は何度も気を失いました。彼らは思いを果たした後、今度は私を散々に殴ったり、罵ったりしました。私の股間やあばら骨の何ヵ所かが骨折するまで続き、私は身体の形まですっかり変形してしまいました。もとの大柄で丈夫な身体は、すっかり萎えてしまいました。本来一メートル六五センチもあった身長が一メートル四七センチまで縮められました。ある時、ビンタを受けましたが、私の右側の耳輪(イヤリング)が日本兵の指輪の角でひっかけられ、一部の肉が耳輪もろとも引きちぎられました。今も右の耳の一部が欠損したままになっています。
鬼たちは私をさんざんに虐待し、私はほとんど意識不明になりました。鬼たちは私のわき毛を引きちぎって、私が反応するかどうかを確かめ、私がビクとも動かないのを見たようです。もう私には生きる力もないことを確かめた後、彼らは、私を裸のままで村の近くの川に投げ込みました。旧暦一月二八日のことです。幸いにも、村の老人が私を助けてくれました。その後、丸三年、私は動くこともできず、ずっと床についたままの状態でいました。(P.91~94)
(※2007.7.30 追加)1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社 1929年12月12日生まれ
中華人民共和国山西省太原市在住
私は内蒙古で生まれた漢民族です。家が貧しくて、4歳の時に幼な妻として山西省盂県羊泉村の人に売られました。高く売るために、背の高かった私は「8歳」として売られたのです。
日本軍が山西省に入って来て、あちこちで三光作戦(殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす)をおこないました。隣の村では家を焼いて、村人たちを殺して井戸に投げ込んで埋めてしまいました。村には1人も人がいなくなってしまったのです。女性は強姦されました。
私の村の副村長は、イエス・キリストのように両手両足を釘で壁に打ち付けられ、何日間も血を流して死んでいきました。
私は小さい時から日本軍を憎み、11歳から抗日運動に参加しました。しかし、日本軍に1943年のうちに3回も捕まり、多数の日本兵に陵辱されたのです。
最初に捕まったのは6月7日(旧暦、以下同じ)でした。日本軍が「掃討作戦」でやって来たので、隠れたものの発見されてしまいました。日本軍の拠点に連れて行かれ、建物の一室に監禁されました。同じ村の4人の女性も別々に監禁されました。食事は与えられてもわずかで、彼らの機嫌が悪いと与えられませんでした。
私たちは捕まったその日から、昼夜を問わず蹂躙されたのです。毎日、多くの日本兵に強姦され、私は何度も気を失いました。
また、日本軍は私に「村の抗日分子や八路軍(共産党軍)支持者の名前を言え」と迫りました。けれども、私は黙ったまま絶対に言わなかったので、ひどく殴られたのです。その時に、右耳の肉の一部がイヤリングと共に引きちぎられてしまったのです。
6月28日に、日本兵たちが会議を開いている隙に窓から逃げ出し、羊泉村に戻りました。
それから2ヵ月もしない8月18日、日本軍が村を挟み打ちにし、川で洗濯をしていた私は再び捕まりました。そして、前と同じ扱いを受けました。この時は、日本軍が「掃討作戦」に出かけている隙に闘争しました。これは9月16日でした。あちこちと逃げたものの、家には病人がいたので、村に戻ったのです。
12月8日の早朝に、日本軍に村が突然包囲されました。若い人たちは逃げましたが、私は病人を看護していたので三たび捕まってしまいました。ロバの背にくくり付けられて、日本軍の拠点に連れ戻されました。
そして再び、毎日多くの日本兵に強姦されました。しかもある時、1人の日本兵が私を強姦している最中に、他の日本兵が私の両手を押さえつけておいて、もう1人の日本兵が私のわき毛と陰毛をすべて抜き取ったのです。
そして次に、散々に殴ったり蹴ったりしたので、腰やあばら骨が折れてしまったのです。165センチあった身長が147センチに縮んでしまったのです。大柄で丈夫だった体は変形してすっかり萎えてしまったのです。私は3日間も意識を失いました。私に生きる力がないと思った日本軍は、私を裸のまま冷たい川に投げ込んだのです。1944年1月28日のことでした。
幸いにもお年寄りに助けられました。しかし、丸3年もの間は動くこともできずに寝ていました。(P.135~139)1997.8 アジアの声 第11集 私は「慰安婦」ではない 日本の侵略と性奴隷 「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ・心を刻む集会」実行委員会 当方出版 私、万愛花が日本に参りましたのは、すでに亡くなりました中国のおじいちゃん、おばあちゃんたち、それから小さい幼い子どもたち……、あの戦争中に故なく殺されたたくさんの中国の人たちのためです。あの時中国で、日本軍が何をやったかを訴えるために、私は中国の被害者の代表として日本に参りました。
そんな殺人者たちにも、それぞれに自分の父母がおり、おじいさん、おばあさん、あるいは子どもたちもいるはずです。それなのになぜ中国に侵略してきて、言い尽くせない酷いことをしたのですか。「三光政策」というのは、、「殺しつくす、焼きつくす、奪いつくす」というとても残虐な行為です。そんなことをして、何のいいことがありますか。
私は優秀な共産党員です。日本の鬼は、私の青春、私の人生、私のすべてを踏みにじりました。しかも今に至るまで、知らん顔をしているのです。(P.33~34)
私は十一歳で中国の共産党に入党しました。私は、生家の貧しさのため、四歳の時に内モンゴルから山西省盂県羊泉村に養女として売られてきましたので、私のそばには身内は一人もいませんでした。それで、私は八路軍(抗日軍の呼称)のために、毛沢東主席のために、少しでも手伝いしようと思い、積極的に抗日活動に参加したのです。
私の住んでいるところは八路軍の本拠地でした。私は日本軍が知らないうちに、内緒で八路軍に、靴とか食料品とかいろいろ必要な物資を調達して運び、私は共産党のためにたくさんの貢献をしました。
けれども私は三回、日本軍に捕まえられて、彼らの本拠地に連行されました。連行され、合わせると三ヵ月もの間監禁されて、夜となく昼となくひどい暴行を受けました。そのうえ、数多くの日本軍人に輪姦されました。その体験はあまりにも残忍で、とても言葉で表現できるものではありません。
ある日、二人の日本の鬼が一人ずつ、押し倒した私の両手を引っ張りあげ、もう一人の日本軍人は私の頭を押しつけ、もう一人が私のわき毛、そして陰毛を、一本一本全部引き抜きました。私はとえも残虐な踏躙をうけました。しかし、彼らがどれほど私を残虐にいじめても、私は共産党員の名前を一人も口に出しませんでした。死んでもいいと思いました。
一九四三年、とても寒い真冬の十二月に、私を残虐に輪姦して、身体のあちこちが骨折するまで暴行を加えたあげく、日本の軍人は冷たい川に私を裸のまま投げ捨てました。私の命は神様が救ってくれたものです。
命は助かったけれども、その後の三年間、私はほとんど身動きできずに伏せっていました。そのうえ、歩けるようになってからも村の人々からも「汚い女」と蔑みの目で見られ、村で生活できなくなり一人で逃げ出しました。今は、山西省に住んでいます。(P.35~36)
(※2007.6.17追加)1998.11 日本軍による中国女性への性暴力を明らかにする証言集会 in 神戸 ***** **** 万愛花 1929年内モンゴル生まれ。4歳で童養女息として盂県羊泉村に売られる。共産党児童団・党員。 1943年6月・8月・12月と3回日本軍に捕まり、盂県進圭社村の日本軍が駐在する民家に監禁される。3回とも強姦・拷問され、3回目には外の木に吊され気絶するまで殴打され、水をかけてまた殴られた。強姦・輪姦され、裸で冬の川に捨てられたが、近所の中国人に助けられた。
3回目の来日になる。内モンゴル生まれで、4歳で童養女息(トンヤンシー)として山西省に売られてきた。13歳で児童団に入り、15歳で中国共産党に入党した(15歳までは童養女息で入党できなかったが、15歳でやっと入れた)。日本軍に捕まったのは、共産党の嫌疑をかけられたからだった。15歳の6月にはじめて捕まって、逃げたい一心で方法を捜し、1週間経たないうちに逃走した。日本軍に捕まったときは、家にカネがあればよいが貧乏な童養女息だったから助けにきてくれる人もないし、一人で考えた。6月ころ捕まって1週間で逃げ出し、7月には羊泉でまた捕まった。2回目も共産党の嫌疑をかけられた。このときも10日くらいかかって逃げた。1943年6月(旧暦)~12月までに3回にわたって拉致監禁された。3回目も逃走したが、そのときのことは言いたくない。昔は身長も160㎝くらいで高く、身体も丈夫だった。切られたり、拷問をされて身体がこんなに小さくなった。3回の監禁生活で身体は滅茶苦茶にされた。悔しいのは、一生女性としての感情的な生活を送ったことがないことだ。解放後もまわりからは不思議な目で見られ、毎日が辛かった。4回目はどうしても捕まりたくないと、中国のほぼ半分を逃げまわる生活を送った。逃亡生活の中で日本軍が中国でいかに残虐なことをやったのかを見た。年寄りから子どもまで、殺して井戸に入れ石を投げ込むのを目撃した。2003.10.3 しんぶん赤旗 「旧日本軍の性暴力 謝罪せよ 中国人女性が意見陳述 東京高裁で控訴審弁論」 ***** **** 万さんは、日本軍からひどい暴行を受け、首が身体にめりこんでしまい、腰骨も折られて、「高かった背が縮まってしまった」とのべました。日本軍兵士は万さんが死んだと思い、川べりに捨てましたが、村人に助けられ、九死に一生を得ました。家も肉親も失い、一年以上ほとんど身体が動かせず、養女に助けられ生きのびたことを、声をつまらせながら語りました。「どうして日本軍は重い罪を犯したのに認めないのか。謝罪し、正義を取り戻してほしい」と泣き崩れました。 2004.4.25
黄土の村の性暴力
大娘たちの戦争は終わらない石田米子・内田知行 創土社 【日本軍が盂県羊泉村に出現するまで】
私は、民国19年12月12日(1930年1月11日)に、当時の綏遠省(今は内モンゴル自治区)和林格尓県(今の区郡フホホトの南約50キロ)の韮菜溝村に生まれました。少数民族の多い地方ですが、私は漢族です。父親や劉二台、母親は張搬女という名前で、私のもともとの名前は劉春蓮です。父は普劇の地方劇団を率いる座長でした。父にはアヘン吸飲癖があり、アヘンを買う金が必要になって、私を「童養●(※女+息)」〔幼いうちに売春婚で買われる嫁〕として売りました。私が四歳の時でしたが、高く売るために四歳にしては体が大きかった私を八歳だと偽って売ったのです。~(中略)~
1934年に、私は盂県羊泉村の山の麓にある李五小の家に買い取られました。李五小の家は貧しく、本人はすでに20代後半を過ぎていました。李五小の父は村廟の管理人で、村の知識人でした。とても良い人で、李五小の妹とともにまだ小さかった私の世話をしてくれました。しかし、李五小は怖い人でした。殴られたことはありませんが、温かくもしてくれませんでした。「ガキは要らない」と言って、家に寄りつきませんでした。李五小は私がこの家に売られてきた時には、もう村の未亡人と関係をもっていましたから、幼い私など相手にしなかったのです。~(中略)~
1940年か41年頃だったか、李喜順が抗日村長だった時に、とてもたくさんの日本兵が村に侵入し、村を包囲しました。日本軍は西煙砲台や進圭社砲台にいて、いつも里まで下りてきました。「赤ら顔(紅臉)隊長」「キバ(牙?)隊長」「ロバ(毛驢)隊長」とあだ名された日本兵を覚えています。当時は河東砲台のことは知りませんでした。
【羊泉村での抗日活動と一回目の連行】
数えの14歳になった1942年〔趙双兵の調査による〕のことだったと思いますが、私は羊泉村の共産党組織に入党しました。本当は18歳にならないと入党できませんでした。しかし、私は一生懸命に抗日の活動を手助けしましたし、私自身もその活動によって気持ちが積極的になりました。実際仕事もできたから、「この子はとてもよくできる。大人よりもいいよ」と、入党を勧められたのです。~(中略)~
入党後、私は積極的に八路軍の抗日運動を支援するようになりました。この三人が私に直接、共産党の指示を与えました。この人たちがやれと言うことは、死をも恐れず、昼間であろうと夜であろうとただちに実行しました。私は「積極分子」だったので、何でも自分から進んでやりました。八路軍兵士用の布靴をつくったり、日本軍が村に入ってくると合図の「消息樹」を倒して知らせたり、日本軍の特務のそばで遊んでいて、何を言っているか聞いて大人に報告をしたり、「日本軍の動きに注意しろ」というような共産党の命令を、情報員として下の村に伝令したりしました。また、村々を回って歌ったり踊ったりしながら、共産党の活動を宣伝することも重要な任務でした。ええ、いまでも当時歌った歌を覚えています。もちろん、歌えますよ。~(中略)~
私が日本軍に最初に連行されたのは、まだ李五小の家にいた1942年の初夏でした。箒の草の伸び具合からして、6月半ば頃ではなかったと思います。日本軍が侵入すると、村人は「日本の鬼(日本軍)が来た」と叫んで逃げ出しました。〔万愛花の被害は1943年の可能性もある〕。
私は、病気で臥せっている李五小の父親を置き去りにして逃げることはできませんでした。私は彼を「お父さん」と呼んでいましたし、彼が私を育ててくれたのです。でも、李五小の父親は、「早くおまえも逃げなさい」と言ってくれました。そこで私は山の下の方にある窰洞にかくれました。でも、同じ所にかくれていた二人の男性と一緒に捕まってしまい、村の前の河原へ連行されました。
そこには、すでに何人もの男性が連行されていました。日本兵が刀を抜いて私たちを殺そうとした、その時です。親日村長・高銀鎖の父親が、「やめてください。彼女はまだ子どもです。許してやってください」とひざまずいて命乞いをしてくれました。通訳が「キバ隊長」にそのことを伝えました。すると、「キバ隊長」は刀を収めました。私は一命を取りとめることができたのです。ですから、この高おじいさんと通訳は私の命の恩人です。他の男の人たちがどうなったかは、はっきり分かりません。
私は河原で縛られ、後ろから拳銃を突きつけられたまま、30華里(15キロ)の道のりを進圭社まで歩いて連行されました。進圭社のある窰洞に着くと、日本兵は、「おまえは共産党員か」とか「誰が共産党員」か、名前を言え」とか「おまえは村でどういう仕事をしているのか」などと尋ねました。私は、何を聞かれても「知らない」「分からない」と答えました。日本兵は、「答えれば、いい服を着たりできるのだし、いい暮らしをすることだってできる。だが、答えなければ貧しい八路軍の生活のままだ。言わないで殺されてもいいのか」と脅しました。それでも答えないでいると、彼らは大勢でワーワー言いながら怒り、髪の毛を掴んで壁に頭をぶつけたり、手で顔や体中を殴ったり蹴ったり、銃の台座で殴ったりというような暴行を加えました。これが、最初の連行で受けた被害です。拉致された期間はそんなに長くはありませんでしたから、二回目や三回目の拉致の時のようなひどい拷問はありませんでしたし、強姦も受けませんでした。~(中略)~
監禁されてから一週間くらい経ったある晩、日本軍がどこかの村へ掃蕩に行ったという話を耳にしました。周囲が静かになるのを見すまして、窰洞の窓を壊して一人で逃げました。~(中略)~
その後、私は羊泉村から遠くない豊盛坡の李五小の妹の家に逃れ、そこに一ヶ月くらいかくまってもらいました。その後、「村の仕事や抗日の地下活動を再開してほしいから早く帰ってくるように」と連絡を受け、羊泉村に戻りました。帰ってみると、家は焼かれ、逃げた人はまだ戻っていないというありさまでした。
【李季貴との再婚と二回目の連行】
~中略~
結局、私の「離婚」も「再婚」も李喜順たち村の幹部の判断でした。私は「売り物」にすぎず、村長たちは私をよその村に買い取らせたくはなかったのです。帰村してから、村の幹部たちは、私に「強姦されたか」としつこく尋ねました。私はもちろん否定しましたが、彼らは「売り物」を値踏みしていたのかもしれません。~中略~
2回目に日本軍に連行されたのは、同じ年(1942年)のスイカを食べる頃だったので、八月頃だったと思います。一度捕まったので、なるべく人に会わないようにしていました。人影がない時に、池の所で洗濯をしていました。その時、「日本の鬼が来たぞ」という叫び声が聞こえました。私は立ち上がって逃げようとしましたが、日本兵と「漢奸」がすぐそばまで来ていて、私の髪の毛を掴んで体を持ち上げました。彼らは猛烈に殴る、蹴るを繰り返しました。振り返る余裕もなく、誰がいたかも分かりませんでした。
日本軍は西煙鎮と進圭社の両方から来ました。わざわざ私を捕まえに来たというわけではないと思います。八路軍と戦争をするために、羊泉村の両側から攻め込んできた時、洗濯している私がいるのを見て、捕まえたのです。村には日本軍だらけというほど、日本軍が入ってきました。
この時、私は一人で捕まり、連行された時も一人でした。一回目と同様に、後ろ手に縛られ、背中に拳銃を突きつけられたまま、進圭社まで歩かされ、また同じ窰洞に閉じ込められました。拷問は一回目の時よりもひどかったです。私が前に逃げたので、日本軍は憎しみを募らせていたのではないかと思います。「共産党員の名前を言え」と言われ、言わずにいると、軍服のベルトで叩いたりして拷問されました。さらに、両側から二人づつ四人で棒で押さえつけ、軍靴で蹴り、手元にあるもので殴り、銃の台尻で叩きました。骨折した私が意識不明になり、昏睡状態に陥ると、水をぶっかけて蘇生させ、叩いたり棒や板を体の上に置いて乗りました。死んだかどうかを確認し、叫べば生きている、というわけで、また拷問を繰り返すといった状態でした。
庭の大きなアカシアか柏の古木に、手を縛って吊るされたのは、この時だったと記憶しています。吊るされていた時間は分かりません。木に吊るされたまま、ベルトや棒で殴られて気絶し、降ろして放されたあと、部屋で意識が戻ったことが二度あります。この木にはたくさんの男女が吊るされ、その挙げ句に殺された人たちも大勢いました。
それだけではありません。二回目の連行の時は日本兵に強姦され、まるで獣のように輪姦されました。連行された最初の夜は、衣服を全部脱いで丸裸にされ、何人いたか、複数の日本兵に次々に犯されたのです。強姦した兵は、自分の服を脱いで犯し、終わると次の兵が来ました。待っている兵は周りで見ながら笑ったりしていました。何度犯されたか数えくれないくらい犯されました。毎日というわけではありませんでしたが、日本兵は昼でも夜でも、時間ができると来て、私を犯していきました。
彼らはいつも強姦してから拷問に入るのです。共産党員の名前を言わせるのが拷問の目的です。拷問の後では体が傷だらけになるので、拷問の前に強姦するのです。翌日少しは回復しているのを見て、また同じことを繰り返しました。骨折や受けた傷はそのままで強姦するのです。毎日のように犯されるために出血している陰部を洗っては犯されました。男たちは皆コンドームを付けていました。子どもをつくらないためではありません。性病に感染したくなかっただけです。
監禁されていた期間は最初の時(一週間前後)より長かったはずです。実際には何日間だったかは覚えてはいません。ある夜、日本軍がラッパを鳴らして出発した後、残っていた監視を見ると眠っていました。そこで、右側の戸を必死に押し開けてその隙間から逃げました。~(中略)~
【三回目の連行と羊泉村からの離別】
旧正月をひかえたその年(1942年)の12月8日(新暦1943年1月13日)か、あるいは明けて正月8日(新暦1943年なら2月12日)頃、共産党員を捕まえるためにたくさんの日本軍が村に入って来ました。この時も日本軍は西煙鎮と進圭社の両方向から羊泉村を挟み撃ちにし、村を包囲して共産党員を捕まえ、連行したました。共産党員でなくても村人はみんな逃げました。私はその時、家の中で裁縫をしていました。家には私と李季貴の父親がいるだけでした。たぶん綿入れを縫っていたのだと思いますが、仕事に集中していたせいか、日本軍が突然家に入って来たのに気づかず、いきなり髪をひっつかまれて捕まりました。私と分かっていて捕まえに来たのかどうか分かりません。私を捕まえると、銃床で殴り、進圭社までの30華里の道のりを、彼らは馬に乗り、私は後ろ手に縛れたままで、「漢奸」に銃で監視されながら連行されました。捕まったのはもちろん私一人ではなく、村人たちが多く捕まったのですが、その人たちが進圭社に連行されたかどうかは分かりません。
前二回と同じ窰洞の部屋に監禁されました。私が閉じ込められていた窰洞は、もともと帳という農民の家でしたが、日本軍に接収されて、進圭社の「漢奸」に使われていたようです。三回捕まり、三回とも同じ窰洞の同じ部屋に、いずれも一人で監禁されたのです。前二回は、日本軍の隙をついて自力で逃げました。しかし、今度は前の時とは違いました。私が前に逃げ出したので、窓も戸も板で塞いでしまってありました。食べるのも用を足すのも、すべてこの窰洞の中でしなければなりませんでした。この窰洞では、他の被害女性を見たことはありません。窰洞はきれいに掃き清められており、庭ではいつも日本兵が監視していました。日本兵の他に、羊泉村の人ではない「漢奸」もいました。
この窰洞で、「おまえは共産党員か」と質問され、「名簿を出せ」と言われても答えないでいると、二回目の時よりもされにひどい強姦と輪姦、拷問が繰り返されました。「ロバ隊長」一人ではなく、日本兵と「漢奸」が寄ってたかって私に暴行を加えました。前の時と同じように、拷問で体が傷だらけになる前に強姦され、輪姦されました。昼も夜も毎日来て犯しました。私がなにも語らないという抵抗を続ければ続けるほど殴り、輪姦したのです。従わないと殴り、出血し続けている陰部を洗っては犯しました。腕の上にも頭の上にも人が被さり、叩かれ、馬乗りにされて辱めを受けた私は、気を失って何も分からなくなりました。
それが済むと、庭の木に吊り下げられました。手首ではなく、指を一本一本細い紐で結わえて吊り上げ、ぶら下げられた状態のまま、腋毛を抜くのです。激痛が走り、指と指の間も間接がはずれて変形してしまいました。また、銃床で殴られ、軍靴で蹴られ、肩の付け根や腿がすべて骨折すると、太い棒を押し当てて接骨しようとしました。釘を打ち付けた板で頭のてっぺんを殴られたために釘が頭に刺さって深い傷になりました。この傷跡からは今でも髪の毛が生えません。耳にしていたイヤリングが強姦した日本兵の指輪に引っかかり、その兵隊が思い切り引っ張ったので、耳たぶが引きちぎられました。耳たぶはその時の傷で変形し、深い傷跡が残ってしまいました。倒れた時に、地面に転がっていた石にぶつかって傷を負い、今も体中のあちこちに窪んだ傷跡が残っています。
「キバ隊長」は、「共産党員の名簿を吐かないなら殺してやる」とか「殺せ」というようなことを繰り返し言いながら殴り、部下にもそれを命じました。彼らは右に左に、顔が腫れあがって目が見えなくなるほど殴り、死んでも構わないというように私を殴り続けました。私が死んでも言わないということが分かると、業を煮やした日本兵は、今度はたくさん水を飲ませて木の棒で腹を押し、口から水を吐かせました。逆さ吊りにし、腕をねじ曲げたまま殴り続け、気を失うと水をぶっかけ、息を吹き返すとまた殴り続けたのです。彼らは最後に、ひざまずかせた私の頭と両肩を押さえつけ、上から力いっぱい押しました。すると、体中傷を受けてフラフラになっていた腰は、その重量に耐え切れず、腰骨が完全に砕けて立てなくなりました。
この拷問によって、とうとう私は意識を失い、死んだようになってしまいました。いくら水をぶっかけても息を吹き返さない私を見て、日本兵は今度こそ死んでしまったと思いました。そして、私を裸のまま、真冬の川辺に捨てたのです。幸運にも、瀕死の私は一人の老人に助け出されて九死に一生を得ることができました。
(※2008.2.25追加)2006.9 ガイサンシーとその姉妹たち 班忠義 梨の木舎 彼女は「このつるつるの腋の下は、やつらとその手先となった中国人に真っ裸にされて、木に吊るされ、一本一本腋毛を抜かれた」と説明した。腰のほうは4人の男に2本のてんびん棒に両肩をかけられたまま、何度も地面に叩き付けられたうえ、蹴られたり殴られたりして背骨が潰れたと言う。(P.12)
万愛花さんは、もとの名を劉春蓮と言い、一九三〇年1月、今の内モンゴル自治区のある村で生まれた。4歳の時人身売買の男に山西省盂県の羊泉村に連れて行かれて、名前を劉林魚と変えらたが、村人はその発音が難しいので、いつの間にか「劉玲月」と呼ぶようになった。「童養○〔女+息〕」(注・将来、買った家の息子の嫁にするため、子どもの時から引き取られた女の子という意味で、中国の昔の風習の一つでもあった)として現地の人に売られたが、正確が活発で、機敏で、正義感の強い彼女は11歳になった頃、村の抗日活動に参加し、八路軍に靴を作ったり、情報を伝達したりした。数え年で13歳になった時、村人から選ばれて婦人隊長や副村長などを担当した。
万さんが言う数え年で14歳の6月7日(旧暦)、進圭社に連行された。暗いヤオドンに監禁され、共産党の情報を出せ、と銃尻で殴られたりといった暴行を受け、強姦された。数日後、日本軍が棗園村へ出かけた際に彼女は監禁部屋の窓から逃げ出した。逃げ出してからもすぐには家に戻らず、豊勝坡という村へ行き、のちに夫となる李五小の妹の家に隠れた。1ヵ月ほどいて家に戻った。
旧暦の8月18日、家の近くの池で洗濯しているところをまた日本兵と傀儡軍に包囲され、捕まった。前に監禁されたヤオドンに再び閉じ込められ、今度はされなる拷問と侮辱を受けた。強姦してから拷問されえる。共産党員の名前を言わせようと、木から吊るされ、銃床で腰を叩かれ、足でお腹を蹴られる。釘のついた板で頭を叩かれ、その傷跡が今も残っている。約1週間後に豊勝坡村を点々と逃げ隠れし、最後に義理の親戚関係にあったという万おばさんの家まで逃げた。
万おばさんの家では暫く起き上がれず、万おばさんが看病してくれ、2ヵ月ほどそこにいて家に戻った。万おばさんと義理の親子となって、名前も万愛花とつけてもらった。
家に戻るとすでに粟の取り入れも終わり、次第に寒くなって旧正月を迎える準備をしていた。その年の12月8日に万さんは三度捕まった。日本軍は今度こそ逃げられないようにと、彼女の両手をロープで縛り、ロープの端を馬の鞍にくくりつけ、万さんを馬のうしろから歩かせて、進圭社まで引っ張って行った。
今度はもっとひどい拷問、強姦、輪姦を受けた。共産党の情報を出せ、名簿を出せ、と脅迫され、時には吊るし上げ、時には拷問椅子など、多くの拷問を受けたが、目を閉じて耐えた。最後には彼女は頭を逆さまに木に吊るされた。日本軍か傀儡軍か、意思朦朧の彼女には分からなかったが、腋毛を一人の男が1本、次の男が1本と、次々に全部抜かれた。正月になった時ついに彼女は拷問で意識がなくなり、死んだと思われて進圭社の凍った河に捨てられた。村のある老人に拾われて家に運ばれ、ようやく救われた。(P268~270)
◆◆◆ 金英実(キム・ヨンシル) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1924年10月21日(注)兩江道普天郡で生まれる。父が病気で貧しい生活を送る。1941年居酒屋で働いていた時、背広を着た日本人(実は将校)の「いい職場を紹介してあげる」という話に乗り、朝鮮と中国・ソ連が接する国境地帯に連れて行かれ、以降、慰安婦を強いられる。
(注)「朝鮮人『慰安婦』では1923年10月21日生まれになっている
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
日本人区長の家に集合し、騙した将校の引率で慰安所に行く。
【考察】
同女を「いい職業を紹介してあげる」と騙して慰安所まで引率したのが日本人将校。証言によると、この将校は、「それからも和服に着替えてどこかにでかけていっては、朝鮮女性を連れてきて『慰安婦』にした」(「朝鮮人『慰安婦』)とあるように、女性を騙して慰安婦にすることを業務としていたようです。
業者に任せておけば良いものを、わざわざ軍人が行っていたという話でも信じ難いのに、将校が行っていたと証言。ウソ臭いことこの上ありません。
また、他の北朝鮮証言者と同じく、慰安所の建物や生活の様子等はなく、如何に日本兵が残虐であったかを伝えることに終始したものになっています。ただ、同女の上げる残虐行為は以下の通りで、他と比べて比較的軽いようです。
○「私より年下の『トキ子』が朝鮮語を使ったからと、私たちの前で将校で首を切られてしまった」
○「将校とけんかをしたため拷問されました。無理やり水を飲まされて、ふくれ上がったお腹に板を乗せて2人が乗って押したのです」
○「重病のために役に立たないものとわかると、病死者も含めてどこかに連れ去られた。彼女たちがどうなったかはわからない。ただ、行って見たことはないが、豆満江がすぐ近くを流れていたので、そこが墓場になったのではないだろうか」
○「彼女の部屋に入っていった将校は、生まれた乳児を布で包んでどこかに連れ去った。そして、衰弱した『ジュンコ』が役に立たないと思ったのか、彼女をどこかに連れ去っていった。それっきり私たちは、彼女の消息を聞いていない。」
なお、同女は、13歳の時、口べらしの為に叔母の家に行くのですが、「写真記録 破られた沈黙」では、その叔母は既に中国に行っていなかったことになっているのに対して「朝鮮人『慰安婦』」に掲載されている内容では、ちゃんと叔母の家で世話になっていたことになっています。
-------------- 以下、2007.7.27 追加--------------
また、「いい職業を紹介してあげる」と日本人将校に声をかけられた時、「朝鮮人『慰安婦』」と「写真記録 破られた沈黙」では、同女は居酒屋で働いていたことになっていますが、「世界に問われる日本の戦後処理①」では、物乞いをしていたことになっています。
-------------- 以上、2007.7.27 追加--------------
【信憑性】
信憑性なし。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1992.10 朝鮮人「慰安婦」 在日本朝鮮民主女性同盟中央常任委員会 **** 両親、祖母と妹2人、弟1人の7人家族の長女として生まれた。家庭が貧しかったので数え13歳のとき、咸鏡北道の会寧に住んでいた父の妹のところにいった。
会寧は、私の故郷に比べれればそれでも働き口があるというので、叔母の家で世話になりながら、近所の雑用をして働いた。数え18歳のとき居酒屋で雑用係をしていた。
1941年のある日、そこに背広を着た日本人があらわれて「条件の良い仕事をあっせんしてやろう」と話しかけてきた。「条件の良い仕事」なら故郷の家族に仕送りができるので、家計を助けるためにもやってみたいと思った。故郷を離れたといっても叔母のそばで働いていたので、見知らぬ土地にいくことには不安があった。しかし、少しでも条件の良い仕事をして故郷に仕送りできればと考えていたので、集合場所に指定されていた村の日本人区長の家にいった。いって見ると私と同世代の女性が、既に14、5 人集まっていた。
区長の家の前にはトラックが迎えにきていた。それに乗って会寧駅にいき、そこで昼食時に汽車に乗り換えてアオヂを経由してウンドクに到着したのは夕刻であった。そこからチョンアクドンにいくと、ほろ付きのトラックが待機していた。それに乗せられて30分ばかり走ったところの山中に連れていかれた。
その山中には日本の軍人がいっぱいいた。
私たちは中国と旧ソ連の国境地帯の、少し奥地に入ったところに連れていかれたが、到着してみるとそこには既に、10人位の朝鮮女性がいた。女性たちは私たちに、「なぜこんなところにきてしまったのか。ここからは生きてでることはできないのに」と悲しげに話しかけてきた。私には何のことかわからなかった。
軍人がやってきて私たちを最初に倉庫に連れていった。今まで着ていた朝鮮服を脱いで和服に着替えろと強制した。私は恐怖と羞恥から拒否すると殴る蹴るの暴行を受け、むりやり裸にされて着替えさせられた。そして、「ここでは朝鮮語を使うと殺す」と脅かされた。
その日、一緒にきた女性たちの一部は他所へ連れていかれ、彼女たちがどこへ行ったのか、どうなったのか一切わからない。私は人間2人が入ればいっぱいになるような部屋に入れられた。
夜、麦御飯とスープだけの粗末な夕食をだされたが、恐怖でのどをとおらなかった。ただどうにかして逃げ出さなければとばかり考えていた。そんなことを考えていたときに、私たちを連行してきた男が軍服を着て入ってきた。将校(肩に星が3つ付いていた)の軍服を着てきた。将校はいきなり入ってきて有無をいわさず私を強姦した。この将校は、それからも和服に着替えてどこかにでかけていっては、朝鮮女性を連れてきて「慰安婦」にした。そればかりか、ここにいた女性をどこかへ連れ去りもした。
最初の日の夜は、その将校の外に7人もやってきて私に暴行を働いた。私が7人という数字を記憶しているのは、それまで想像もできなかったつらい暴行を受けて、この後何人にこんな思いをさせられるのかと思い詰めていたからである。厳しい監視の中で私は逃げ出す方法も考えられないままに、そのままそこで「慰安婦」を強いられることになってしまった。
食料事情は悪く、ろくな食べ物はなかった。そのために栄養失調と過労のために病気になるものが多かった。重病のために役に立たないものとわかると、病死者も含めてどこかに連れ去られた。彼女たちがどうなったかはわからない。ただ、行って見たことはないが、豆満江がすぐ近くを流れていたので、そこが墓場になったのではないだろうか。
この周辺のアオヂ、チョンアクドン、クロン、サフェなどには付設の慰安所があったが、ホンイリにはなかった。
慰安所のないところには私たちが派遣させられて奉仕させられた。そこには週に1~2回いかされ、朝から翌朝まで奉仕させられた。時には1泊2日で夜中に帰ってくることもあった。
私たちのグループは常に14、5 人で、欠員がでるといつのまにか必ず補充されていた。
ある日、「トキコ」と呼ばれていた私より幼い女性が朝鮮語を使ったという。それをみとがめた将校が私たち全員を呼び集め、その前で見せしめに、幼い「トキコ」の首を日本刀ではねて殺した。あまりの恐ろしさに泣き叫ぶ者、気絶する者もいた。私はただうつむいて声をだすこともできなっかた。それからは、日本語のよくわからない私たちは、ただ目と目で語り合うことしかなかった。
また、「ジュンコ」と呼ばれていた女性は、妊娠に気付かぬうちにいつしか臨月に近くなっていた。軍人たちは、「ジュンコ」が出産する直前まで「慰安婦」として利用していた。ある日、彼女が出産した。彼女の部屋に入っていった将校は、生まれた乳児を布で包んでどこかに連れ去った。そして、衰弱した「ジュンコ」が役に立たないと思ったのか、彼女をどこかに連れ去っていった。それっきり私たちは、彼女の消息を聞いていない。
ここにいたらいつか私も殺されると思った。
1945年8月13日、軍人たちが、「日本に帰るから、お前たちも一緒に連れていく」といった。ここでもこんなに辛い思いをさせられいるのに、日本にいけばどうなるのか見当がつかない。そこで皆と話し合い逃げることに決めた。一緒だと捕まるのでバラバラに逃げようと約束した。
その夜、私はトウモロコシ畑にひそみ、明け方、山に登っていった。山の中で2日くらい隠れていて、そこから山のふもとの人家を探していき、そこで食べ物をもらった。祖国の解放はその時聞いたが、信じられず捕まることを恐れて、ずっと山の中に潜んでいた。
秋になって清津にでてきた。
(キム・ヨンシル 1923年10月21日生 両江道普天郡出身)1993.5 アジアの声 第7集
世界に問われる日本の戦後処理①
「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録国際公聴会実行委員会 東方出版 私は、一九二四年一〇月二一日、両江道普天郡で生まれました。家が貧しく、父が病に倒れてからは、母が家庭を支えていました。わが家には両親と五人の子どもたち(二人の息子と三人の娘)がいました。私は、二番目で長女でした。
非常に貧しかったので、私は一三歳の時、父は私を会寧にいる叔母のもとへ預けました。私は会寧に行きましたが、叔母はすでにその地を去っていました。その結果、私は方々を物乞いして歩き、見知らぬ人の家で女中をしながら、かろうじて生計を立てました。
私が一八歳の時でした。ある日、背広を着た日本人が、私に歩み寄り、金になる仕事を提供するから自分と一緒に来るように言いました。その仕事がどういうものなのかも知りませんでしたが、物乞いを続けるよりはましだと思い、私は彼について行きました。そこは、すでにたくさんの少女たちでいっぱいでした。そこから私たちは、トラックに乗せられ会寧鉄道の駅へと連れて行かれました。またトラックに乗せられ、三〇分ほど揺られると私たちはある渓谷にたどり着きました。
そこには一七、八歳ぐらいの少女たちが一〇人余りがいました。彼女たちの中には、まだ一五歳にも満たない子もいました。そこは旧ソ連と中国とに接する国境地帯の、少し奥地に入ったところでした。
私は、彼女たちに「ここは、いったいどこなの?」と尋ねました。
彼女たちは答えました。「生きて出ることのできない所にどうして来たの?」と。
私たちは、出入口にムシロが吊るされ、まるで便所のようなつぎあて小屋に住むことになりました。日本の軍人が私たちのところへやってきて、チマ・チョゴリを脱ぎ日本の着物を着るように命じました。私たちは、その馴染みのない服を着ることをためらいましたが、結局力づくで脱がされました。
その日から私は、日本人として「エイコ」と呼ばれ、兵士は私の胸に「エイコ」と書かれた名札を貼り付けました。
部屋には、やっと二人が横になれるくらいの二枚のムシロが広げられていました。私の部屋に初めて入ってきたのは、私に仕事を紹介すると声をかけた男でした。背広を着ていた以前の格好とは違い、中尉の軍服を着ていました。彼は力で私を強姦し、続いて七人の将校が私を強姦しました。
私は、助けをもとめて「オモニ(お母さん)」と叫びました。しかし、それは無駄なことでした。次の日から私は、二、三〇人の将校や兵士の相手をさせられました。日曜日は、それ以上でした。大麦のおにぎりとわずかな汁を与えられる以外は、何も口にできず、常に飢えに苦しみました。(P.74~75)
ある日、トキコと呼ばれていた少女が朝鮮語をしゃべりました。将校は、私たちを野原に集めると、みせしめとして彼女の首を刀で斬り落としました。恐怖のあまり、私たちは泣き叫びながらその場から逃げだしました。
ジュンコという少女が妊娠しました。しかし軍人たちは彼女をいたわりはしませんでした。彼女が出産を終えたのち、将校は彼女とその子どもをどこかへ連れて行きました。それ以来、私たちは彼女について何も聞かされませんでした。
幾人もの少女たちが「慰安婦」という仕事に耐えられず首を吊って、自殺しました。
私をだましてここへ連れてきた将校が、ひどく酔っぱらって私に奉仕を強要したのは、ある日曜日のことでした。私は、拒みました。体調が悪かったのです。すると彼は、私の上にまたがり、私の髪をわしづかみにしては私の頭を何度も床へ打ちつけました。私は、将校の腕を噛みました。彼は腕を払い、私の二本の歯が折れました。
次の日、数人の男が、私に襲いかかってきて、鼻から水を流し込みました。私の胃がふくれあがると、彼らは私のお腹に板をのせ、上から踏みつけて強く押しました。彼らは、私が気を失い意識を取り戻すと、また同じことをくり返しました。ほかの少女たちは、恐怖のあまり目を背けるしかありませんでした。このようなことが日常茶飯事でした。(P.76~77)
(※2007.7.27 追加)1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社 1924年10月21日生まれ
朝鮮民主主義人民共和国兩江道恵山市在住
私は、現在の兩江道普天郡で生まれました。家族は両親と兄・弟・妹2人の7人でした。お父さんは病気だったので、お母さんが日雇いをしていたのですが、貧しい生活でした。
私は数え年で13歳の時、会寧にいるお父さんの妹の家で世話になることになりました。そこまで何日もかかったのですが、お金のない私は物乞いをしたり木の実を採って食べて空腹をしのぎ、農家に泊めてもらったり野宿をしながら旅をしました。ところが、行ってみると叔母さん一家は中国に渡ったとかでそこにはいなかったのです。帰ることもできなくて、その近所で雑用をして働きました。
1941年、働いていた居酒屋に背広を着た日本人が来て「いい職場を紹介してあげる」と言ったのです。どこかの工場で働けるというので、これで家族に仕送りができると思いました。日本人区長の家に行くと、そこにはすでに14~15人の女性が集まっていました。
迎えに来たトラックに会寧駅に行き、昼過ぎに列車に乗せられました。夕方に着いた青鶴洞の駅からは、幌付きのトラックに30分ほど乗せられて、朝鮮と中国・ソ連が接する国境地帯に着きました。
そこには10人くらいの朝鮮人女性がいましたが、彼女たちは「なぜこんなところに来てしまったのか。ここからは生きて出れないのに」と悲しげに話しかけてきたのです。私には何のことなのかわかりませんでした。
倉庫に入れられ、着ていたチョゴリ(朝鮮の上着)を日本の着物に無理やり着替えさせられました。そして「ここで朝鮮語を使うと殺す」と脅されたのです。私は「エイ子」という名前をつけられました。
麦ごはんとスープだけの夕食を出されたものの、恐怖でのどを通りませんでした。どうにかして逃げようと考えていた時、私たちを連れてきた男が肩に星3つが付いた将校の軍服を着て入って来ました。そして有無をいわさず私を強姦したのです。その夜は、この男の他に7人もが私を強姦しました。
それからは、毎日20~40人の兵隊の相手をさせられたのです。私たちは週に1~2回、「慰安所」のはに駐屯地へ派遣されることもありました。私たちの人数は常に14~15人で、欠員が出ると補充されていました。
ある日、私より年下の「トキ子」が朝鮮語を使ったからと、私たちの前で将校で首を切られてしまったのです。あまりの恐ろしさに、泣き叫んだり気絶する人もいました。私は声を出すこともできず、うつむいていました。それからは、日本語のよくわからない私たちは、目と目で語るしかなかったのです。
1945年8月10日頃、私は酔っ払った将校とけんかをしたため拷問されました。無理やり水を飲まされて、ふくれ上がったお腹に板を乗せて2人が乗って押したのです。このことで私は、死ぬ覚悟で逃げようと決心をしました。
13日に「我々は日本に帰るのでお前たちも連れて行く」と将校が言うので、その日の夕方に逃げ出したのです。山の中で2日くらい隠れてから、ふもとの人家で食べ物をもらいました。この時、朝鮮の解放(日本敗戦)を聞きました。しかし、信じられなくて山の中に潜んでいて、秋になって清津に出て来ました。
今まで「慰安婦」だったことは口に出せませんでした。テレビで、名乗り出た人のことを知り、「嫁にもいけなかったこの恨みを持ったまま死ぬわけにはいかない」と思い話をすることにしました。(P.78~82)
◆◆◆ 金大日(キム・デイル) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1916年11月5日、黄海道の沙里院で生まれる。家は非常に貧しく、12歳(数え年)の時、わずかな米と引き換えにお手伝いさんとして売られ、その後、日本人の経営する紡績工場に売られる。1932年、「福田」という日本人に「食べ物に困らない所に連れて行ってあげる」と言われ、大阪の病院で雑用をさせられる。18歳の時、そこの院長に強姦され、1934年、院長に見知らぬ日本人に引渡され、以降、12年間、上海等で慰安婦を強いられる。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
病院の院長に売られた後、東京から釜山へ渡り、汽車で新京、ハルピン、チチハル、牡丹江等を経由して上海の慰安所に行く。
【考察】
全体的にウソ臭い内容です。
最初、日本人の男に「食べ物に困らない所に連れて行ってあげる」と言われ、通常なら、その後、慰安所に入れられるパターンなのですが、何故か、一旦、大阪の病院で働いています。そして2年後、院長に慰安婦にさせられているのですが、理由は記載されていません。訳が分かりません。強姦した時、拒んだからでしょうか。
また、上海の慰安所に移動するのに、朝鮮半島を縦断して満州の新京を通り、中国の東北部のハルピン等を経由して到着しています。異常に遠回りです。日本から上海に行くなら、長崎か下関から船で行くのが通常でしょう。
おそらく、大阪の病院で2年間雑用をしていたというのは全くのウソ。最初、男に騙されて満州で売春婦をしていたのでしょう。その事実を隠す為に、大阪の病院のエピソードを挿入したわけです。そして、日本から直接、上海に行ったことにすれば良かったものを、なまじ滞在していた経験があったものだから、ご丁寧に満州を経由したことにしてしまったのではないでしょうか。
また、同女は、「転戦する軍隊に従って中国各地を連れ回された」(「朝鮮人『慰安婦』)と証言していますが、「金学順さんの証言」ではシンガポールにも行ったことになっています。もう無茶苦茶です。
さらに、「朝鮮人『慰安婦』」で同女は、「現在では『従軍慰安婦』と言っているが、私が当時、言われたのは『挺身隊』とはっきり記憶している。」と証言しています。
「従軍慰安婦」=「挺身隊」は韓国で一般に広がっている誤認識であり、韓国政府の公式見解「日帝下軍隊慰安婦実態調査」では明確に無関係なものであると結論づけています。明らかに「従軍慰安婦」=「挺身隊」としたい政治的意図を持った発言です。
なお、北朝鮮の元・従軍慰安婦お約束の日本兵の残虐行為は以下の通りです。
○火のついた煙草を鼻や子宮に入れる
○将校が「おれは、飽きたからお前がやれ」と言ってシェパードをけしかける
○戦闘で負けた腹いせに慰安婦に銃を乱射して殺したり、穴を掘って入れ、手榴弾を投げ込む
○妊婦の腹を裂き胎児を刺し殺した後、妊婦も殺す
○慰安婦150人を並ばせて斬首
【信憑性】
信憑性なし。せいぜい、男に騙されて売春婦、もしくは慰安婦になっただけでしょう。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1992.10 朝鮮人「慰安婦」 在日本朝鮮民主女性同盟中央常任委員会 編 **** 私の実家は余りにも貧しかった。数え12歳のときに、わずかな米と引きかえに金持ちの家に下女として連れて行かれた。そこから日本人の経営する紡績工場に売られた。1932年、数え16歳のある日、今度はフクダという日本人がやってきて、「食べ物に困らないところに連れて行く」と言った。私は、またもや売られてたのである。
私は、フクダと一緒に汽車に乗って釜山港に連れて行かれた。そこには朝鮮女性が20人くらい、あちこちから連れてこられていた。自分がどこへ連れて行かれるのか理解できないままに船に乗せられ、下船したのは下関であった。下関に上陸すると同時に、フクダという男は、「これからは朝鮮語を使ってはいけない。もし使ったら殺す」と脅し、そして「これからお前の名前はシズエだ」と行った。そこから連れて行かれたのが大阪の病院であった。
病院では雑用をさせられた。地で汚れた包帯やガーゼ、患者の大小便で汚れた衣類の洗濯など、日本人が嫌ってしない汚い仕事は全部させられた。
来る日も来る日もべっ視と屈辱的な扱いの中で、長時間の労働を強いられ、外出する機会も与えられず、病院の雑用を押し付けられていた。
数え18歳になったお正月の夜、病院の院長だと名乗った男が、私の部屋に入ってきてナイフを突きつけ、「私の言いなりにならなければ殺す」と脅して、叫び声をあげた私の口を手で押さえて暴行した。その日まで、私は院長の顔も知らなければ会ったこともない。院長は「お前は美しいので、前から目をつけていた」と言った。
それから、しばらく経ったある日、院長が「お前のこの病院で2年も奉公したから、今度はもっと良いところに行かせてあげよう」と言って、見知らぬ日本人の男に私を引き渡した。
その男は、私を東京に連れて行った。そして、日本の軍隊に「挺身隊」として送り込んだ。そこには朝鮮女性が30人くらいいた。1934年のことである。現在では「従軍慰安婦」と言っているが、私が当時、言われたのは「挺身隊」とはっきり記憶している。
そこで、軍隊と一緒に連れて行かれたのが旧満州である。まず、東京から船で釜山へ行き、釜山から汽車で新京、それからハルピン、チチハル、牡丹江であった。そこで私のほかに数人の女性が選ばれて、船に乗せられて連れて行かれたのが上海であった。
上海には既に朝鮮女性が大勢いた。その女性たちは、「あなたはどうしてこんな所にきたの」と言いながら私を哀れんだ。私は、「お姉さんたちと同じように無理やり連れてこられました」と答えるしかなかった。
上海では中国人の民家の2畳くらいの部屋に入れられた。部屋の前には番号が40くらいふってあって、私は12番に入れられた。その夜、将校たちが私を暴行した。それからは1日4、50名もの日本兵が私の部屋の前に列をなし、「早く早く」とせかして先を争い、入れかわるとすぐにのしかかってきた。私は起き上がる暇もなかった。
私が最初に従わせられた軍隊は12師団で、その師団の移動に伴って私たちは引きずり回された。上海の次にはハンカオへ連れて行かれた。そこから南京、トウヨウ、キショウと、転戦する軍隊に従って中国各地を連れ回された。
日本の軍隊のなかでも九州6師団が一番悪かった。他の日本軍は胸に標識をつけていたが、九州6師団はそでに標識をつけていた。
私はこうして12年間も慰安婦生活を強いられたが、中でも6師団に加えられた数々の暴行は、決して忘れられない。彼らは酒に酔ってやってきて短刀を突きつけて、「おれの言うことを聞かないと殺す」と身体を傷つけたりした。「この朝鮮ピー」とさげすみながら私たちを威嚇した。彼らはまた、ほかの兵士が先に入っていても、「早く出てこい」と言って脅し、先の者がまだいるのに押し入ってきて性行為を強要した。
私は、こんな「慰安婦」生活がのろわしくなって自殺を2度も図った。2度ともすぐに発見され、生き返らされてしまった。生かしたのはアキカワという大隊長で、「この女は見殺しにするのは惜しい、使い道があるから生かせ」と言った。私には死を選ぶ自由もなかった。
私は、何か言うと「殺す」と言って脅していた6師団の兵士に、ある日、覚悟を固めて「私も朝鮮人だ。朝鮮人の女の心意気を見せてやる。殺すなら殺せ」と反抗したために縛られて、ひどい拷問を加えられた。それを見ていたアキカワ大隊長が、「それ見ろ。この女は度胸がある。使い物になるから、殺すな」と言って止めた。そのために、私は地獄のような「慰安婦」生活を続けなければならなかった。
ある時、私は50人もの兵士を相手にして気絶してしまった。その私に彼らは「ノーシン」という薬を飲ませて意識を回復させて行為を継続させようとした。しかし、私がもうろうとして使い物にならないとわかると、たばこに火をつけて鼻や口に押し付けるなどの屈辱を加えた。
めったなことではたじろがない私が、恐怖に震えたことがある。それは6師団の兵士の蛮行であった。6師団の一将校が、「おれは、飽きたからお前がやれ」と連れてきたセパード犬を私にけしかけたのである。その時はあまりにもの恐怖で、さすがの私も「助けて」と大声で叫び、周囲の部屋から「慰安婦」たちが飛び出してきたほどである。
こうした屈辱は、私ばかりでなく他の朝鮮人「慰安婦」たちも同じくあじ合わされたばかりか、短刀で傷つけられたり、中には殺された者もいる。
こんなことがあった。私の隣の部屋にいた全羅道出身の知らぬ間に妊娠した。彼らは妊娠しているのもかまわず性行為を強要し、ついには性行為の最中に流産した彼女のおなかを日本刀で切り裂き、出てきた胎児をごぼう剣で刺し殺し、妊婦までも殺したのである。
日本の敗戦も濃厚になってきたころ、軍人たちは、私たちが朝鮮語で話したりすると神経質になって、「日本が負けると言っただろう」と執拗に迫り、日本が負けることになったら「お前ら皆殺しにする」と言って脅した。
日本の敗戦が決定的になったころ、血迷った彼らは、朝鮮人と中国人の慰安婦ら150名くらいを2列に並ばせて、「かかれ」と小隊長が号令をかけた。両端から日本刀を振りかざした兵士らが襲いかかり、皆殺しを始めた。飛び散る血の雨に私は意識を無くして倒れた。私には3、4日くらい時間が過ぎたように思う。意識を取り戻してみたら、その血の海の中で、私のほかに2名が生き残っていた。
はうようにして近くの中国人の家に助けを求めに行った。「私は朝鮮人です。助けてください」と必死に叫んだ。
中国人は数日間かくまってくれて、中国服を一着くれた。それを着て朝鮮人の家を探して行き、そこでしばらく世話になった。8月15日の解放は、その朝鮮人に教えられた。
9月になってどうしても故郷の両親に会いたくて、世話になった朝鮮人の家族に旅費を借りてやっとの思いで故郷に帰ってきた。しかし、両親は既に死亡していた。
私が日本人からもらったものは病気だけ。子宮はメチャメチャにされ、心臓は悪くなり、腸も悪くて下痢ばかりして、今でも病院に通っている。
日本軍の通った中国大陸の隅々には、犠牲になった朝鮮女性の血がしみこんでいる。このことを知ってもらいたい。
日本人に問いたい。立場を変えて、あなた方の娘も姉妹、妻や母が私のような体験をさせられたとしたらどう思いますか。
(キム・デイル 1916年11月5日生 黄海道沙里院市出身)1993.2 金学順さんの証言
「従軍慰安婦問題」を問う解放出版社 編 解放出版社 金大日さんは故郷がピョンヤンの「花子」と呼ばれる女性が産気付くと、残忍な田中という者が、酒を多量にくらって、彼女に襲いかかった。彼は臨月間近の彼女を押し倒し、腹部を切り裂き、胎児を刀の先に刺すという悪魔のような蛮行を敢行したと証言した。(P.148)
上海、シンガポールなどに連行され、「従軍慰安婦」生活を強要された金大日さんは、彼女が上海の「慰安所」にいた時、「そこには伝性病が流行し、数多くの朝鮮女性が一度に命を落とす惨事が発生した。日本軍は患者たちがいる場所に火を放ち、死体をそのまま山中に捨て、シンガポール戦闘で敗戦した残虐無道な日本軍たちは、そのはらいせに従軍慰安婦たちに銃を乱射したり、穴を掘ってその中に入れ、手榴弾で殺した」と証言した。(P.148)
(管理人注:上記内容は「朝鮮民主主義人民共和国「『従軍慰安婦』及び太平洋戦争被害者補償対策委員会」が作成した日本政府宛の告訴状(1992.9)を掲載したもの)1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社 1916年11月5日生まれ
朝鮮民主主義人民共和国開城市在住
私の故郷は黄海道の沙里院です。家はあまりにも貧しく、私は数え年で12歳の時、わずかな米と引き換えに、お手伝いさんとして金持ちの家に連れて行かれました。その後、日本人の経営する紡績工場に売られたのです。
1932年のある日、「福田」という日本人に「食べ物に困らないところに連れて行ってあげる」と言われました。私は、どこに行くかもしらずに船に乗せられたのです。
下関で船から降りると「お前は今から朝鮮人ではないし朝鮮語を使ってはいけない。名前はシズエにする」と「福田」は私に言いました。そして、連れて行かれたところは大阪の病院でした。
私は、ここで雑役をしました。血で汚れた包帯・ガーゼや大小便で汚れた患者の衣類の洗濯など、人の嫌がる仕事ばかりをやらされたのです。
そして、18歳になった正月のことです。それまで、会ったことすらなかった院長が私の部屋に突然入って来て、ナイフを突きつけたのです。そして、「シズエ、俺の言うことを聞かないと死ぬぞ」と言いながら、私の口をふさいで襲いかかってきました。
そのことからしばらくたったある日、院長は「お前はこの病院に2年間も奉公したから、もっと良いところに連れて行ってあげよう」と言い、見知らぬ日本人に私を引渡したのです。1934年のことでした。その男は東京に私を連れて行き、軍隊に「従軍慰安婦」として送り込んだのです。30人くらいの朝鮮人女性は軍隊と一緒に「満州」(中国東北地方)に連れて行かれました。東京から釜山へ渡り、汽車で新京・ハルピン・チチハル・牡丹江を転々としました。兵隊は、途中で動けなくなってしまった女性を「えーい朝鮮人だ」とその場で刺し殺したのです。こうして数え切れないくらいの朝鮮の女性が犠牲になりました。
そして、私と数人の女性が選ばれて、船で連れて行かれたのが上海でした。そこには朝鮮人女性が数多くいました。彼女たちは「なぜこんなところに来たのか」と言って私を哀れんでくれました。
軍隊が接収した中国人の民家の中は1畳くらいの広さに部屋が仕切られていて、ここに閉じ込められました。この部屋の前には1~40番までの番号が付けれていました。つまり40人の女性がいたのです。私の番号は12番でした。兵隊は1人ずつコンドームを持って来ましたが、性病にかかった女性もたくさんいました。~(中略)~
最初の頃は、第12師団に連れ回されて上海・漢口・南京などを転々としました。私は12年間も「慰安婦」生活を強要されたのですが、その中でも九州の第6師団から受けた数々の暴行は決して忘れられません。~(中略)~
ある時、私は50人もの相手をさせられたので、疲れ果てて倒れてしまいました。「ノーシン」という薬を飲まされたものの、意識はもうろうとしたままでした。そしたら兵隊は、火の付いた煙草を私の鼻や子宮に入れたのです。
しかも、次の日にはまた私に襲いかかってきました。それでも満足しない将校は「もう俺はあきたので今度はお前の番だ」と、シェパード犬に私を襲うようにけしかけたのです。さすがの私も恐ろしくて「助けてくれ」と悲鳴を上げました。
そしてこんなこともありました。私の隣の部屋にいた女性が妊娠してしまいました。それにもかかわらず、兵隊たちは性行為を強要した上に、胎児を無理やりだしてごぼう剣で刺し殺し、その女性も殺してしまったのです。兵隊は皆を集め「ほら見てみろ。朝鮮人は死んだぞ」と言ったのです。~(中略)~
日本の敗戦が決定的になった時、兵隊たちは私たち朝鮮と中国の女性150人ほどを2列に並ばせました。そして、小隊長が号令をかけて首切りを始めたのです。飛び散った血の雨で、私は意識を失って倒れてしまいました。気が付くと血みどろになって、私は死体の中に埋まっていました。その血の海の中で助かったのは、私の他には2人だけでした。
やっと起き上がって、そこから2キロくらい離れた中国人の家に辿り着きました。そこの中国人に「私は朝鮮人です。助けてください」と必死に頼みました。家の主人は「お前を助けると私が殺されると言ったものの、家の奥の部屋で5~6日間かくまってくれました。それだけでなく、お風呂にも入れてくれて中国人の服までくれたのです。(P.96~102)
◆◆◆ 池石伊(チ・ドリ) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1923.6.5(旧暦)、慶尚北道慶州郡で7人兄弟の長女として生まれる。安康普通学校を卒業し、18歳のとき結婚。その後、夫の家族と共に日本へ渡り、約4年後、夫の徴兵とともに朝鮮に戻り、実家の農業などを手伝いながら生活した。22歳の時、村に30歳くらいの朝鮮人の女性がやってきて、中国の紡績工場で働く人を募集していたので志願。1945年3月、汽車に乗って中国に向かい、石門子(シーメンズ)慰安所で慰安婦を強いられる。
終戦後は中国に残り、2000年6月韓国に帰国する。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
無し。女工を募集に来た朝鮮人の女性に引率され、汽車とバスを乗り継ぎ中国に行く。その女性は慰安所の主人の妾だった。
【考察】
慰安所の主人の妾に騙されて慰安婦になったという話で特に不審な点はありません。
【信憑性】
特に不審な点は見あたりません。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房 1923年6月5日(旧暦)、慶尚北道慶州郡で7人兄弟の長女として生まれる。安康普通学校を卒業し、18歳のとき結婚した。その後、夫の家族とともに日本へ渡り4年ほど住んでいたが、夫が徴兵されるや朝鮮に戻り、実家の農業などを手伝いながら生活した。22歳のとき、村に30歳くらいの女性(朝鮮人)がやってきて、中国の紡績工場で働く人を募集するというので、志願して、1945年3月、汽車に乗り中国に向かった。
東寧でバスに乗り換え着いたのが石門子慰安所だった。騙されてきたのが悔しくて毎日泣き暮らした。慰安所の建物は古く、雨が降るとすぐ漏れだした。順番で薪を取りに行ったが、大変寒く苦労した。中国にきて実家に手紙を出したが、その後、弟から父が亡くなり、家族がバラバラになったとの知らせが届いた。
慰安所では「ひさこ」と呼ばれた。「ひさこ」はそこで付けられたのではなく、結婚後、日本で住んでいたときに姑がつけた名前である。朝鮮からハルモニを連れてきたのは慰安所の主人(日本人)の妾だった。2007.3.25現在 むくげの会HP
※リンク先のNo.2(韓国語)***** **** 池石伊は小作農であるお父さんとお母さんもとの 5男2女中長女に生まれた。農業をしたが秋に地主にすべて捧げてからは
いつも食べるのが足りずだとお腹がすいていた覚える。
競走で安康国民優級学校を 6年間通った後、十八歳時年が一歳の多くのご主人に詩集に行ったが、婚家が皆、日本に金儲けしに行くせいで彼女も付いて行った。ご主人は日本で運転をしたが4年ぶりに徴兵に引かれて行ってしまった。当時ご主人は 23歳だったし彼女は 22強かったし、子供はいなかった。その年に親政お母さんさえお亡くなりになった。
姑と一緒に朝鮮に帰って来て、彼女は親政に行った。お父さんと一緒に農業をしたが、徴兵に引かれて行った夫から手紙が来た。“必ず帰るから、工場に入ってお金や儲けながら待ちなさい”と言う内容だった。
ちょうど工場で働く女を募集する30歳頃なる女が村に尋ねて来た。紡織工場であると思ったら、その女に何をする工場なのかと問ったら紡織工場だと言った。彼女は、お金を儲けてお父さんに送って上げるつもりだった。戸口をはなして来なさいと言って、はなして来た日まさにこの女に従って故郷の他の女 2人と一緒に汽車に乗って東ニョングに到着、またバスで石門者に来た。行く間、吐き気が深海死んだ人のように、外も眺めることができずに、ご飯もまともに食べることができなかったまま何も食べることができなかった。
あの時が 45年旧暦3月14日、年は23歳だったが初めて慰安所建物を見てからも、それが工場イン竝びにだけ分かった。
(※管理人注:上記は機械翻訳)2007.4.20現在 ナヌムの家HP
※リンク先は韓国語***** **** -それでは親政で弟(妹)たち面倒を見て生きている途中、中国へいらっしゃるようになったんです?
"親政家で農業仕事を助けながら暮していてから、このようになったんです。"
-あの時、どのようにして来るようになりましたか?誰が来て行くとそうだったんですか?
"真実君した夫が手紙を送りました。我家にもお金がなくて、お前の親政にもお金がないから、君が工場でも入って行って働いていなさい。そんな手紙を受けたうえで工場動き手を募集するという人々が来ました。それで本当に工場に入れてくれるかしました。"
-募集する人が朝鮮人だったんですか?
"三十で歳になる朝鮮女が募集するからといって、そっちへ行って話を聞いて見ました。そうだから 『紡織工場だ.どの所と言っても君逹は一人も分からない.』そうです。
どうであれ行ってと言ったら 『戸口をはなして来なさい.』そうです。戸口をはなして御けだのその日で来るようになった。今年時、他の女と二人が一緒に来た。その朝鮮女が一人で連れて来た。汽車に乗って中国に入って来た。あの時が 45年 3月だった。二十二つの歳にお母さんが世を去った。"
-工場行こうと言いながら、あらかじめ手付け金を与えなかったんですか?
"工場来る時私の中に考えが、お父さんにお金をちょっと差し上げていて、親政もちょっと住んで、になってもちょっと暮してしようと思った。来て見るから、私が氷らせて来た(だまされて来たという) ことなの。お金は一つも与えないな。ただ車票だけまかなって。"
-まさに石門者で来ましたか?
"あの時来て下った所が石門者です。東ニョングこのどうもも分からなくて、台頭村がどうもも分からなくて、来てその席にある途中に光復が出ました。"
-その頃汽車が石門者まで入って行きましたか?
"東ニョングまで汽車乗って来て下って、東ニョングからここまでバスに乗って来ました。私は吐き気を酷かったから、汽車乗って来るの間下を見下ろしながら、外も出して見られないして--- 死んだ人と一つだった。死んだ人のようにひかれて来た式だ。何も分からない。私がそのように車が乗る事ができないなから、連続何日乗って来るから外を眺める景況もなくて、しきりに上って来るからご飯も食べる事ができないして、死んだ人と一つだった。"
-来るのに何日を来ましたか?
"それは分からない。
私が死んだ人と一つなのにそれをどう分かるか。ご飯も食べる事ができないして、汽車に伏せに負けて目も開く事ができないして来た。息をしてそうなの死んだ人と一つだった。"
(※管理人注:上記は機械翻訳)