忍者ブログ

元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
60  59  58  57  56  55  53  52  50  49  48 
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

◆◆◆ 万愛花(ヴァン・アイファ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1929年12月12日生まれ。内蒙古で生まれる。家が貧しく4歳の時に幼な妻として山西省の盂県羊泉村に売られる。11歳の時から抗日運動に参加、15歳の時に中国共産党に入党。1943年に3回、日本軍に捕まって強姦・拷問を受ける。

1998年10月30日、他の9人の原告と共に日本政府の公式謝罪と損害賠償を求めて提訴。2003年4月、東京地裁は原告の被害事実は認定したものの請求は棄却。2005年3月、東京高裁は控訴を棄却。

2000年12月、女性国際戦犯法廷で証言中に卒倒し病院に運ばれる。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

慰安所には入れられていない。


【考察】

「写真記録 破られた沈黙」
(以下、「写真」)によると同女が日本兵に捕まったのは以下の通りとなります。

 1回目・・・満14歳(数え16歳)・1943年6月7日(6月28日脱出)
 2回目・・・満14歳(数え16歳)・1943年8月18日(9月16日脱出)
 3回目・・・満14歳(数え16歳)・1943年12月8日(1944年1月28日生還)
  ※全て旧暦。「数え」は生まれた時に1歳で1月1日を越える毎に1歳を加算する方法。つまり、同女の場合、12月12日~31日は満年齢+1歳となり、その他は+2歳となります。

しかし、「日本軍による中国女性への性暴力を明らかにする証言集会 in 神戸」(以下「神戸」)では、日本兵に捕まったのは1943年と、西暦は一致しているものの、「15歳の6月のはじめ」と証言しており、1943年6月なら同女は満年齢でも数え年でも15歳ではありません。


----------------- 2008.2.25 以下に「黄土の村の性暴力」の情報を追加 ---------------- 

さらに、「写真」、「神戸」、「黄土の村の性暴力」(以下「黄土」)、「ガイサンシーとその姉妹たち」(以下「ガイ」)と比べると以下の通り証言内容に相違点があります。

<生まれた年>
○「写真」・・・1929年12月12日生まれ
○「神戸」・・・1929年
○「黄土」・・・1930年1月11日
○「ガイ」・・・1930年1月
→ おそらく、旧暦と新暦の違いでしょう。

<1回目の監禁>
○「写真」・・・1943年6月7日~28日(※3週間)
○「神戸」・・・1943年6月の初めに捕まり、1週間経たないうちに逃走
○「黄土」・・・1942年6月半ば頃に捕まり、約1週間後に逃走 (※1943年の可能性があることの記載あり)
○「ガイ」・・・6月7日に捕まり、数日後逃走(※西暦の記載なし)

<1回目の監禁時の強姦>
○「写真」・・・「毎日、多くの日本兵に強姦され、私は何度も気を失いました」
○「神戸」・・・記載なし
○「黄土」・・・「二回目や三回目の拉致の時のようなひどい拷問はありませんでしたし、強姦も受けませんでした」
○「ガイ」・・・「銃尻で殴られたりといった暴行を受け、強姦された」
→ 強姦されたり、されなかったり

<1回目の逃走>
○「写真」・・・日本兵たちが会議を開いている隙に逃走
○「神戸」・・・記載なし
○「黄土」・・・日本軍がどこかの村へ掃蕩に行った際に逃走
○「ガイ」・・・日本軍が棗園村へ出かけた隙に逃走
→ 会議だったり、掃討だったり。どこかの村だったり、棗園村だったり。

<2回目の監禁>
○「写真」・・・8月18日~9月16日(※約1ヵ月)
○「神戸」・・・7月に捕まり10日くらいで逃走
○「黄土」・・・8月頃。何日監禁されていたか覚えていないが、1週間前後より長かった。
○「ガイ」・・・8月19日に捕まり、約1週間で逃走
→ 1回目も2回目も、「写真」では異常に細かい日付を証言しておきながら、監禁されていた期間に統一性がありません。

<3回目の監禁>
○「写真」・・・12月8日~1月28日
○「神戸」・・・記載なし
○「黄土」・・・12月8日か1月8日頃(※期間についての記載なし)
○「ガイ」・・・12月8日に捕まり、正月になった時に死んだと思われ捨てられる

<3回目の拷問の後>
○「写真」・・・死んだと思われ川に投げ込まれ、お年寄りに助けられる
○「神戸」・・・逃走。ただし、その時のことは語りたくないと証言。
○「黄土」・・・死んだと思われ裸で川辺に捨てられ、老人に助けられる
○「ガイ」・・・凍った河に棄てられる。
→ 「神戸」では、3回目も逃走したことになっています。
また、「写真」では、3回目の拷問の後、真冬の川に裸で投げ込まれたことになっていますが、「黄土」では、川辺に捨てられただけになっています。そりゃ、瀕死の状態で真冬の川に投げ込まれたら生きているはずがないでしょう。

<3回目に解放された後>
○「写真」・・・「丸3年もの間は動くこともできずに寝ていました」
○「神戸」・・・「4回目はどうしても捕まりたくないと、中国のほぼ半分を逃げまわる生活を送った」
○「黄土」・・・自分で少し動けるようになったのは1947年のこととある。
○「ガイ」・・・記載なし
→ 「写真」では、動くこともできずに寝ていたはずが、「ガイ」では、逃げ回っています。

<耳たぶが引きちぎられた時とその状況>
○「写真」・・・1回目の監禁時。共産党員の名前を聞かれても黙っていたので、ひどく殴られる。その時に、右耳の肉の一部がイヤリングと共に引きちぎられた
○「神戸」・・・記載なし
○「黄土」・・・3回目の監禁時。「耳にしていたイヤリングが強姦した日本兵の指輪に引っかかり、その兵隊が思い切り引っ張ったので、耳たぶが引きちぎられました」
○「ガイ」・・・記載なし
→ 尋問時だったり、強姦時だったり。1回目だったり3回目だったり。


----------------- 2008.2.25 以上に「黄土の村の性暴力」の情報を追加 ---------------- 


その他、同女の証言の疑問点は以下の通りです。(「写真」の証言より)

<三光作戦で隣村は全滅>
・・・何故、同女の村は三光作戦で殺し尽くされなかったのでしょうか。
そもそも、「三光作戦」は中国側のプロパガンダで人民に徹底抗戦を呼びかけ、士気高揚を図るためのもの。実際に日本側でそのような作戦が取られていたわけではなく、太平洋戦争時に日本が「鬼畜米英」と言っていたのと同レベルのものです。
もし、本当にそのような作戦が取られていたなら、同女の村がその作戦のえじきにならなかったのはおかしな話です。

<副村長がキリストのように壁に手足を釘で打ち付けられ何日間も血を流し続けて死んだ>
・・・詳しい描写が無いので何とも言えませんが、手足を釘で打ちつけただけでは体の重みで肉が裂けて、磔状態を保つことは不可能です。如何にも創作臭い内容です。
なお、同女と同じ羊泉村で日本兵の犠牲になった劉面換や陳林桃の証言ではこのような副村長の話や全滅させられた隣村の話は出てきません。

<強姦中にわき毛と陰毛を全て抜き取られる>
・・・私には、わき毛と陰毛を抜き取ることに何の意味があるのか全く分かりません。しかも、他の兵隊が強姦している最中にです。マニアックな日本兵もいたものです。
また、「ガイサンシーとその姉妹たち」によるとこの行為には中国人も加わっており、さらに、それが原因で腋がつるつるになってしまったそうです。毛を抜いたぐらいで永久脱毛にならないと思うのですが。



【信憑性】

信憑性なし。
同村で同じように日本兵の被害者となった劉面換や陳林桃の証言と比べても明らかに異色で突出した内容です。

恐らく同女が日本兵と漢奸(※日本人の手先となった中国人)に酷い暴行を受けたことがあるのは事実だと思いますが、あまりにも誇張や創作を挿入し過ぎです。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.5 アジアの声 第7集
世界に問われる日本の戦後処理①
「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録
国際公聴会実行委員会 東方出版
 私は一九二九年一二月一二日、内蒙古呼市河林格爾韮菜溝村に生まれました。原名は劉春蓮といいます。漢族です。家が貧しかったので、四歳の時に山西省盂県羊泉村の李五学家に童養娼(一種の奴隷妻。封建時代、とくに農村で幼少の女児を労働力として、また将来の妻として売り買いしたー訳者、以下同じ)として売られました。私は幼少の頃、背が高かったので、高く売るために年齢を四歳水増しして、八歳として売られました。当時、李五学家には父親と三人の妹がおりました。日本軍が山西省に入ってきて、あちこちで三光(殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす)作戦を実施し、隣の村では全村が焼かれ、多くの人々が日本軍によって殺害されました。殺された人の中には、老人や女や子供もおり、死体は乾いた井戸に投げ込まれて、その上から石を井戸に入れて埋めたことなどを見聞きし、小さい時から日本軍を憎んでいた私は、一一歳の時に農村の抗日活動に参加しました。
 しかし、私は日本軍によって三回にわたって捕えられ、多数の日本兵によって陵辱され、終生消えることのない傷を身体と心に受けました。
 一回目は、一九四三年六月七日(旧暦)のことです。日本軍が掃討作戦にやってきたので、私はそれを知って近くの桃荘にあるドブ穴に隠れましたが、ついに発見されました。そして、羊泉村から三六華里(一六キロメートル)ほど離れた進圭社村の東側にある日本軍の拠点に連れていかれました。そこは漢奸(日本侵略者に対する怒りを込めた蔑称。日本鬼子、東洋鬼ともいう)(※漢奸は、中国人で日本軍の手先となっていた者のこと。この説明は誤り(管理人))側の「維新会」のある建物の中で、私はその建物の一室に監禁されました。私と相前後して捕らえられた同じ村の四人の女性も、別々の部屋に監禁されました。彼女たちの名前は、陳林桃、劉面換、馮北香、劉ニ荷、といいます。私たちは、顔を会わすことも許されず、捕らえられたその日から、日本兵たちがやってきて、彼らの気の向くままに強姦されました。昼夜を問わず、その場に何人いようともお構いなしに日本兵がやって来て、強姦していくのです。そのやり方は惨忍で、口で言い表せるものではありません。毎日数多くの日本兵によって輪姦を繰り返され、私は何度も気を失いました。赤ら顔の将校や歯の長い将校たちもやって来て、私を陵辱していきました。六月二八日、日本兵たちが会議を開いている隙を見つけて、私はその家から逃げ出し、羊泉村から一つ村を越したところにある趙家荘村にまで逃げました。しばらく経っても日本の鬼共はやってこない様子だったので、私は羊泉村に戻りました。
 二回目は、同じ年の八月一八日(旧暦)、私は川辺で洗濯をしていた時に、西煙というところに拠点をおく日本軍と、進圭社村に拠点をおく日本軍が挟み撃ちをするようにして、羊泉村に侵攻してきて、私は逃げる間もなく再び捕らえられました。そして前回と同じように、進圭社村の東側の日本軍の拠点地に連れて行かれ、監禁され、いっそうひどく日本の鬼たちの蹂躙を受けました。一回目の時もそうでしたが、鬼共は私に村の中の地下の幹部や、八路軍の支持者の名前を言うように脅迫し、言わないと私をひどく殴りつけ、いっそうひどく私を虐待しました。食事もいい加減なもので、与えられたとしても彼らの残飯で、ふた口ばかり口にできるだけで、彼らの機嫌が悪い時などは食事も与えられず、本当に耐えがたい状況でした。この時も、日本軍が●(※市+今)園村に掃討戦に出かけている隙に、私は再び逃走しました。旧暦九月一六日のことです。私は、あちこち逃げましたが、家に病人がいて看病する必要があったので、日本軍が来ないのを見て、再び羊泉村に戻りました。
 ところが、同じ年の一二月八日(旧暦)の早朝、突然、日本軍がやって来て、村を包囲しました。村の若い人たちは逃げましたが、私は病人を看病していたので逃げられず、三たび鬼たちに捕まってしまい、彼らによって大きなロバの背にくくりつけられ、進圭社村の東側の日本軍の拠点地に連れ戻されました。その後は、いっそうひどい虐待が待ち受けていました。再び毎日、数多くの日本兵によって輪姦が繰り返されました。ある時、一人の日本兵が淫行を続けている最中に、もう一人の日本兵が私の両手を頭の上で押さえつけました。そして、側にいる男が私のわき毛と陰毛を次々と抜き取ったのです。私は何度も気を失いました。彼らは思いを果たした後、今度は私を散々に殴ったり、罵ったりしました。私の股間やあばら骨の何ヵ所かが骨折するまで続き、私は身体の形まですっかり変形してしまいました。もとの大柄で丈夫な身体は、すっかり萎えてしまいました。本来一メートル六五センチもあった身長が一メートル四七センチまで縮められました。ある時、ビンタを受けましたが、私の右側の耳輪(イヤリング)が日本兵の指輪の角でひっかけられ、一部の肉が耳輪もろとも引きちぎられました。今も右の耳の一部が欠損したままになっています。
 鬼たちは私をさんざんに虐待し、私はほとんど意識不明になりました。鬼たちは私のわき毛を引きちぎって、私が反応するかどうかを確かめ、私がビクとも動かないのを見たようです。もう私には生きる力もないことを確かめた後、彼らは、私を裸のままで村の近くの川に投げ込みました。旧暦一月二八日のことです。幸いにも、村の老人が私を助けてくれました。その後、丸三年、私は動くこともできず、ずっと床についたままの状態でいました。(P.91~94)

(※2007.7.30 追加)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
1929年12月12日生まれ
中華人民共和国山西省太原市在住

 私は内蒙古で生まれた漢民族です。家が貧しくて、4歳の時に幼な妻として山西省盂県羊泉村の人に売られました。高く売るために、背の高かった私は「8歳」として売られたのです。
 日本軍が山西省に入って来て、あちこちで三光作戦(殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす)をおこないました。隣の村では家を焼いて、村人たちを殺して井戸に投げ込んで埋めてしまいました。村には1人も人がいなくなってしまったのです。女性は強姦されました。
 私の村の副村長は、イエス・キリストのように両手両足を釘で壁に打ち付けられ、何日間も血を流して死んでいきました
 私は小さい時から日本軍を憎み、11歳から抗日運動に参加しました。しかし、日本軍に1943年のうちに3回も捕まり、多数の日本兵に陵辱されたのです。
 最初に捕まったのは6月7日(旧暦、以下同じ)でした。日本軍が「掃討作戦」でやって来たので、隠れたものの発見されてしまいました。日本軍の拠点に連れて行かれ、建物の一室に監禁されました。同じ村の4人の女性も別々に監禁されました。食事は与えられてもわずかで、彼らの機嫌が悪いと与えられませんでした。
 私たちは捕まったその日から、昼夜を問わず蹂躙されたのです。毎日、多くの日本兵に強姦され、私は何度も気を失いました
 また、日本軍は私に「村の抗日分子や八路軍(共産党軍)支持者の名前を言え」と迫りました。けれども、私は黙ったまま絶対に言わなかったので、ひどく殴られたのです。その時に、右耳の肉の一部がイヤリングと共に引きちぎられてしまったのです。
 6月28日に、日本兵たちが会議を開いている隙に窓から逃げ出し、羊泉村に戻りました。
 それから2ヵ月もしない8月18日、日本軍が村を挟み打ちにし、川で洗濯をしていた私は再び捕まりました。そして、前と同じ扱いを受けました。この時は、日本軍が「掃討作戦」に出かけている隙に闘争しました。これは9月16日でした。あちこちと逃げたものの、家には病人がいたので、村に戻ったのです。
 12月8日の早朝に、日本軍に村が突然包囲されました。若い人たちは逃げましたが、私は病人を看護していたので三たび捕まってしまいました。ロバの背にくくり付けられて、日本軍の拠点に連れ戻されました。
 そして再び、毎日多くの日本兵に強姦されました。しかもある時、1人の日本兵が私を強姦している最中に、他の日本兵が私の両手を押さえつけておいて、もう1人の日本兵が私のわき毛と陰毛をすべて抜き取ったのです
 そして次に、散々に殴ったり蹴ったりしたので、腰やあばら骨が折れてしまったのです。165センチあった身長が147センチに縮んでしまったのです。大柄で丈夫だった体は変形してすっかり萎えてしまったのです。私は3日間も意識を失いました。私に生きる力がないと思った日本軍は、私を裸のまま冷たい川に投げ込んだのです1944年1月28日のことでした。
 幸いにもお年寄りに助けられました。しかし、丸3年もの間は動くこともできずに寝ていました。(P.135~139)
1997.8 アジアの声 第11集 私は「慰安婦」ではない 日本の侵略と性奴隷 「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ・心を刻む集会」実行委員会 当方出版
 私、万愛花が日本に参りましたのは、すでに亡くなりました中国のおじいちゃん、おばあちゃんたち、それから小さい幼い子どもたち……、あの戦争中に故なく殺されたたくさんの中国の人たちのためです。あの時中国で、日本軍が何をやったかを訴えるために、私は中国の被害者の代表として日本に参りました。
 そんな殺人者たちにも、それぞれに自分の父母がおり、おじいさん、おばあさん、あるいは子どもたちもいるはずです。それなのになぜ中国に侵略してきて、言い尽くせない酷いことをしたのですか。「三光政策」というのは、、「殺しつくす、焼きつくす、奪いつくす」というとても残虐な行為です。そんなことをして、何のいいことがありますか。
 私は優秀な共産党員です。日本の鬼は、私の青春、私の人生、私のすべてを踏みにじりました。しかも今に至るまで、知らん顔をしているのです。(P.33~34)

 私は十一歳で中国の共産党に入党しました。私は、生家の貧しさのため、四歳の時に内モンゴルから山西省盂県羊泉村に養女として売られてきましたので、私のそばには身内は一人もいませんでした。それで、私は八路軍(抗日軍の呼称)のために、毛沢東主席のために、少しでも手伝いしようと思い、積極的に抗日活動に参加したのです。
 私の住んでいるところは八路軍の本拠地でした。私は日本軍が知らないうちに、内緒で八路軍に、靴とか食料品とかいろいろ必要な物資を調達して運び、私は共産党のためにたくさんの貢献をしました。
 けれども私は三回、日本軍に捕まえられて、彼らの本拠地に連行されました。連行され、合わせると三ヵ月もの間監禁されて、夜となく昼となくひどい暴行を受けました。そのうえ、数多くの日本軍人に輪姦されました。その体験はあまりにも残忍で、とても言葉で表現できるものではありません。
 ある日、二人の日本の鬼が一人ずつ、押し倒した私の両手を引っ張りあげ、もう一人の日本軍人は私の頭を押しつけ、もう一人が私のわき毛、そして陰毛を、一本一本全部引き抜きました。私はとえも残虐な踏躙をうけました。しかし、彼らがどれほど私を残虐にいじめても、私は共産党員の名前を一人も口に出しませんでした。死んでもいいと思いました。
 一九四三年、とても寒い真冬の十二月に、私を残虐に輪姦して、身体のあちこちが骨折するまで暴行を加えたあげく、日本の軍人は冷たい川に私を裸のまま投げ捨てました。私の命は神様が救ってくれたものです。
 命は助かったけれども、その後の三年間、私はほとんど身動きできずに伏せっていました。そのうえ、歩けるようになってからも村の人々からも「汚い女」と蔑みの目で見られ、村で生活できなくなり一人で逃げ出しました。今は、山西省に住んでいます。(P.35~36)

(※2007.6.17追加)
1998.11 日本軍による中国女性への性暴力を明らかにする証言集会 in 神戸 ***** ****
万愛花 1929年内モンゴル生まれ。4歳で童養女息として盂県羊泉村に売られる。共産党児童団・党員。 1943年6月・8月・12月と3回日本軍に捕まり、盂県進圭社村の日本軍が駐在する民家に監禁される。3回とも強姦・拷問され、3回目には外の木に吊され気絶するまで殴打され、水をかけてまた殴られた。強姦・輪姦され、裸で冬の川に捨てられたが、近所の中国人に助けられた。

 3回目の来日になる。内モンゴル生まれで、4歳で童養女息(トンヤンシー)として山西省に売られてきた。13歳で児童団に入り、15歳で中国共産党に入党した(15歳までは童養女息で入党できなかったが、15歳でやっと入れた)。日本軍に捕まったのは、共産党の嫌疑をかけられたからだった。15歳の6月にはじめて捕まって、逃げたい一心で方法を捜し、1週間経たないうちに逃走した。日本軍に捕まったときは、家にカネがあればよいが貧乏な童養女息だったから助けにきてくれる人もないし、一人で考えた。6月ころ捕まって1週間で逃げ出し、7月には羊泉でまた捕まった。2回目も共産党の嫌疑をかけられた。このときも10日くらいかかって逃げた。1943年6月(旧暦)~12月までに3回にわたって拉致監禁された。3回目も逃走したが、そのときのことは言いたくない。昔は身長も160㎝くらいで高く、身体も丈夫だった。切られたり、拷問をされて身体がこんなに小さくなった。3回の監禁生活で身体は滅茶苦茶にされた。悔しいのは、一生女性としての感情的な生活を送ったことがないことだ。解放後もまわりからは不思議な目で見られ、毎日が辛かった。4回目はどうしても捕まりたくないと、中国のほぼ半分を逃げまわる生活を送った。逃亡生活の中で日本軍が中国でいかに残虐なことをやったのかを見た。年寄りから子どもまで、殺して井戸に入れ石を投げ込むのを目撃した。
2003.10.3 しんぶん赤旗 「旧日本軍の性暴力 謝罪せよ 中国人女性が意見陳述 東京高裁で控訴審弁論」 ***** ****
 万さんは、日本軍からひどい暴行を受け、首が身体にめりこんでしまい、腰骨も折られて、「高かった背が縮まってしまった」とのべました。日本軍兵士は万さんが死んだと思い、川べりに捨てましたが、村人に助けられ、九死に一生を得ました。家も肉親も失い、一年以上ほとんど身体が動かせず、養女に助けられ生きのびたことを、声をつまらせながら語りました。「どうして日本軍は重い罪を犯したのに認めないのか。謝罪し、正義を取り戻してほしい」と泣き崩れました。
2004.4.25
黄土の村の性暴力
大娘たちの戦争は終わらない
石田米子・内田知行 創土社
【日本軍が盂県羊泉村に出現するまで】

 私は、民国19年12月12日(1930年1月11日)に、当時の綏遠省(今は内モンゴル自治区)和林格尓県(今の区郡フホホトの南約50キロ)の韮菜溝村に生まれました。少数民族の多い地方ですが、私は漢族です。父親や劉二台、母親は張搬女という名前で、私のもともとの名前は劉春蓮です。父は普劇の地方劇団を率いる座長でした。父にはアヘン吸飲癖があり、アヘンを買う金が必要になって、私を「童養●(※女+息)」〔幼いうちに売春婚で買われる嫁〕として売りました。私が四歳の時でしたが、高く売るために四歳にしては体が大きかった私を八歳だと偽って売ったのです。~(中略)~

 1934年に、私は盂県羊泉村の山の麓にある李五小の家に買い取られました。李五小の家は貧しく、本人はすでに20代後半を過ぎていました。李五小の父は村廟の管理人で、村の知識人でした。とても良い人で、李五小の妹とともにまだ小さかった私の世話をしてくれました。しかし、李五小は怖い人でした。殴られたことはありませんが、温かくもしてくれませんでした。「ガキは要らない」と言って、家に寄りつきませんでした。李五小は私がこの家に売られてきた時には、もう村の未亡人と関係をもっていましたから、幼い私など相手にしなかったのです。~(中略)~

 1940年か41年頃だったか、李喜順が抗日村長だった時に、とてもたくさんの日本兵が村に侵入し、村を包囲しました。日本軍は西煙砲台や進圭社砲台にいて、いつも里まで下りてきました。「赤ら顔(紅臉)隊長」「キバ(牙?)隊長」「ロバ(毛驢)隊長」とあだ名された日本兵を覚えています。当時は河東砲台のことは知りませんでした。


【羊泉村での抗日活動と一回目の連行】

数えの14歳になった1942年〔趙双兵の調査による〕のことだったと思いますが、私は羊泉村の共産党組織に入党しました。本当は18歳にならないと入党できませんでした。しかし、私は一生懸命に抗日の活動を手助けしましたし、私自身もその活動によって気持ちが積極的になりました。実際仕事もできたから、「この子はとてもよくできる。大人よりもいいよ」と、入党を勧められたのです。~(中略)~

 入党後、私は積極的に八路軍の抗日運動を支援するようになりました。この三人が私に直接、共産党の指示を与えました。この人たちがやれと言うことは、死をも恐れず、昼間であろうと夜であろうとただちに実行しました。私は「積極分子」だったので、何でも自分から進んでやりました。八路軍兵士用の布靴をつくったり、日本軍が村に入ってくると合図の「消息樹」を倒して知らせたり、日本軍の特務のそばで遊んでいて、何を言っているか聞いて大人に報告をしたり、「日本軍の動きに注意しろ」というような共産党の命令を、情報員として下の村に伝令したりしました。また、村々を回って歌ったり踊ったりしながら、共産党の活動を宣伝することも重要な任務でした。ええ、いまでも当時歌った歌を覚えています。もちろん、歌えますよ。~(中略)~

 私が日本軍に最初に連行されたのは、まだ李五小の家にいた1942年の初夏でした。箒の草の伸び具合からして、6月半ば頃ではなかったと思います。日本軍が侵入すると、村人は「日本の鬼(日本軍)が来た」と叫んで逃げ出しました。〔万愛花の被害は1943年の可能性もある〕。
 私は、病気で臥せっている李五小の父親を置き去りにして逃げることはできませんでした。私は彼を「お父さん」と呼んでいましたし、彼が私を育ててくれたのです。でも、李五小の父親は、「早くおまえも逃げなさい」と言ってくれました。そこで私は山の下の方にある窰洞にかくれました。でも、同じ所にかくれていた二人の男性と一緒に捕まってしまい、村の前の河原へ連行されました。
 そこには、すでに何人もの男性が連行されていました。日本兵が刀を抜いて私たちを殺そうとした、その時です。親日村長・高銀鎖の父親が、「やめてください。彼女はまだ子どもです。許してやってください」とひざまずいて命乞いをしてくれました。通訳が「キバ隊長」にそのことを伝えました。すると、「キバ隊長」は刀を収めました。私は一命を取りとめることができたのです。ですから、この高おじいさんと通訳は私の命の恩人です。他の男の人たちがどうなったかは、はっきり分かりません。
 私は河原で縛られ、後ろから拳銃を突きつけられたまま、30華里(15キロ)の道のりを進圭社まで歩いて連行されました。進圭社のある窰洞に着くと、日本兵は、「おまえは共産党員か」とか「誰が共産党員」か、名前を言え」とか「おまえは村でどういう仕事をしているのか」などと尋ねました。私は、何を聞かれても「知らない」「分からない」と答えました。日本兵は、「答えれば、いい服を着たりできるのだし、いい暮らしをすることだってできる。だが、答えなければ貧しい八路軍の生活のままだ。言わないで殺されてもいいのか」と脅しました。それでも答えないでいると、彼らは大勢でワーワー言いながら怒り、髪の毛を掴んで壁に頭をぶつけたり、手で顔や体中を殴ったり蹴ったり、銃の台座で殴ったりというような暴行を加えました。これが、最初の連行で受けた被害です。拉致された期間はそんなに長くはありませんでしたから、二回目や三回目の拉致の時のようなひどい拷問はありませんでしたし、強姦も受けませんでした。~(中略)~

 監禁されてから一週間くらい経ったある晩、日本軍がどこかの村へ掃蕩に行ったという話を耳にしました。周囲が静かになるのを見すまして、窰洞の窓を壊して一人で逃げました。~(中略)~

 その後、私は羊泉村から遠くない豊盛坡の李五小の妹の家に逃れ、そこに一ヶ月くらいかくまってもらいました。その後、「村の仕事や抗日の地下活動を再開してほしいから早く帰ってくるように」と連絡を受け、羊泉村に戻りました。帰ってみると、家は焼かれ、逃げた人はまだ戻っていないというありさまでした。


【李季貴との再婚と二回目の連行】

~中略~

 結局、私の「離婚」も「再婚」も李喜順たち村の幹部の判断でした。私は「売り物」にすぎず、村長たちは私をよその村に買い取らせたくはなかったのです。帰村してから、村の幹部たちは、私に「強姦されたか」としつこく尋ねました。私はもちろん否定しましたが、彼らは「売り物」を値踏みしていたのかもしれません。~中略~

 2回目に日本軍に連行されたのは、同じ年(1942年)のスイカを食べる頃だったので、八月頃だったと思います。一度捕まったので、なるべく人に会わないようにしていました。人影がない時に、池の所で洗濯をしていました。その時、「日本の鬼が来たぞ」という叫び声が聞こえました。私は立ち上がって逃げようとしましたが、日本兵と「漢奸」がすぐそばまで来ていて、私の髪の毛を掴んで体を持ち上げました。彼らは猛烈に殴る、蹴るを繰り返しました。振り返る余裕もなく、誰がいたかも分かりませんでした。
 日本軍は西煙鎮と進圭社の両方から来ました。わざわざ私を捕まえに来たというわけではないと思います。八路軍と戦争をするために、羊泉村の両側から攻め込んできた時、洗濯している私がいるのを見て、捕まえたのです。村には日本軍だらけというほど、日本軍が入ってきました。
 この時、私は一人で捕まり、連行された時も一人でした。一回目と同様に、後ろ手に縛られ、背中に拳銃を突きつけられたまま、進圭社まで歩かされ、また同じ窰洞に閉じ込められました。拷問は一回目の時よりもひどかったです。私が前に逃げたので、日本軍は憎しみを募らせていたのではないかと思います。「共産党員の名前を言え」と言われ、言わずにいると、軍服のベルトで叩いたりして拷問されました。さらに、両側から二人づつ四人で棒で押さえつけ、軍靴で蹴り、手元にあるもので殴り、銃の台尻で叩きました。骨折した私が意識不明になり、昏睡状態に陥ると、水をぶっかけて蘇生させ、叩いたり棒や板を体の上に置いて乗りました。死んだかどうかを確認し、叫べば生きている、というわけで、また拷問を繰り返すといった状態でした。
 庭の大きなアカシアか柏の古木に、手を縛って吊るされたのは、この時だったと記憶しています。吊るされていた時間は分かりません。木に吊るされたまま、ベルトや棒で殴られて気絶し、降ろして放されたあと、部屋で意識が戻ったことが二度あります。この木にはたくさんの男女が吊るされ、その挙げ句に殺された人たちも大勢いました。
 それだけではありません。二回目の連行の時は日本兵に強姦され、まるで獣のように輪姦されました。連行された最初の夜は、衣服を全部脱いで丸裸にされ、何人いたか、複数の日本兵に次々に犯されたのです。強姦した兵は、自分の服を脱いで犯し、終わると次の兵が来ました。待っている兵は周りで見ながら笑ったりしていました。何度犯されたか数えくれないくらい犯されました。毎日というわけではありませんでしたが、日本兵は昼でも夜でも、時間ができると来て、私を犯していきました。
 彼らはいつも強姦してから拷問に入るのです。共産党員の名前を言わせるのが拷問の目的です。拷問の後では体が傷だらけになるので、拷問の前に強姦するのです。翌日少しは回復しているのを見て、また同じことを繰り返しました。骨折や受けた傷はそのままで強姦するのです。毎日のように犯されるために出血している陰部を洗っては犯されました。男たちは皆コンドームを付けていました。子どもをつくらないためではありません。性病に感染したくなかっただけです。
 監禁されていた期間は最初の時(一週間前後)より長かったはずです。実際には何日間だったかは覚えてはいません。ある夜、日本軍がラッパを鳴らして出発した後、残っていた監視を見ると眠っていました。そこで、右側の戸を必死に押し開けてその隙間から逃げました。~(中略)~


【三回目の連行と羊泉村からの離別】

 旧正月をひかえたその年(1942年)の12月8日(新暦1943年1月13日)か、あるいは明けて正月8日(新暦1943年なら2月12日)頃、共産党員を捕まえるためにたくさんの日本軍が村に入って来ました。この時も日本軍は西煙鎮と進圭社の両方向から羊泉村を挟み撃ちにし、村を包囲して共産党員を捕まえ、連行したました。共産党員でなくても村人はみんな逃げました。私はその時、家の中で裁縫をしていました。家には私と李季貴の父親がいるだけでした。たぶん綿入れを縫っていたのだと思いますが、仕事に集中していたせいか、日本軍が突然家に入って来たのに気づかず、いきなり髪をひっつかまれて捕まりました。私と分かっていて捕まえに来たのかどうか分かりません。私を捕まえると、銃床で殴り、進圭社までの30華里の道のりを、彼らは馬に乗り、私は後ろ手に縛れたままで、「漢奸」に銃で監視されながら連行されました。捕まったのはもちろん私一人ではなく、村人たちが多く捕まったのですが、その人たちが進圭社に連行されたかどうかは分かりません。
 前二回と同じ窰洞の部屋に監禁されました。私が閉じ込められていた窰洞は、もともと帳という農民の家でしたが、日本軍に接収されて、進圭社の「漢奸」に使われていたようです。三回捕まり、三回とも同じ窰洞の同じ部屋に、いずれも一人で監禁されたのです。前二回は、日本軍の隙をついて自力で逃げました。しかし、今度は前の時とは違いました。私が前に逃げ出したので、窓も戸も板で塞いでしまってありました。食べるのも用を足すのも、すべてこの窰洞の中でしなければなりませんでした。この窰洞では、他の被害女性を見たことはありません。窰洞はきれいに掃き清められており、庭ではいつも日本兵が監視していました。日本兵の他に、羊泉村の人ではない「漢奸」もいました。
 この窰洞で、「おまえは共産党員か」と質問され、「名簿を出せ」と言われても答えないでいると、二回目の時よりもされにひどい強姦と輪姦、拷問が繰り返されました。「ロバ隊長」一人ではなく、日本兵と「漢奸」が寄ってたかって私に暴行を加えました。前の時と同じように、拷問で体が傷だらけになる前に強姦され、輪姦されました。昼も夜も毎日来て犯しました。私がなにも語らないという抵抗を続ければ続けるほど殴り、輪姦したのです。従わないと殴り、出血し続けている陰部を洗っては犯しました。腕の上にも頭の上にも人が被さり、叩かれ、馬乗りにされて辱めを受けた私は、気を失って何も分からなくなりました。
 それが済むと、庭の木に吊り下げられました。手首ではなく、指を一本一本細い紐で結わえて吊り上げ、ぶら下げられた状態のまま、腋毛を抜くのです。激痛が走り、指と指の間も間接がはずれて変形してしまいました。また、銃床で殴られ、軍靴で蹴られ、肩の付け根や腿がすべて骨折すると、太い棒を押し当てて接骨しようとしました。釘を打ち付けた板で頭のてっぺんを殴られたために釘が頭に刺さって深い傷になりました。この傷跡からは今でも髪の毛が生えません。耳にしていたイヤリングが強姦した日本兵の指輪に引っかかり、その兵隊が思い切り引っ張ったので、耳たぶが引きちぎられました。耳たぶはその時の傷で変形し、深い傷跡が残ってしまいました。倒れた時に、地面に転がっていた石にぶつかって傷を負い、今も体中のあちこちに窪んだ傷跡が残っています。
 「キバ隊長」は、「共産党員の名簿を吐かないなら殺してやる」とか「殺せ」というようなことを繰り返し言いながら殴り、部下にもそれを命じました。彼らは右に左に、顔が腫れあがって目が見えなくなるほど殴り、死んでも構わないというように私を殴り続けました。私が死んでも言わないということが分かると、業を煮やした日本兵は、今度はたくさん水を飲ませて木の棒で腹を押し、口から水を吐かせました。逆さ吊りにし、腕をねじ曲げたまま殴り続け、気を失うと水をぶっかけ、息を吹き返すとまた殴り続けたのです。彼らは最後に、ひざまずかせた私の頭と両肩を押さえつけ、上から力いっぱい押しました。すると、体中傷を受けてフラフラになっていた腰は、その重量に耐え切れず、腰骨が完全に砕けて立てなくなりました。
 この拷問によって、とうとう私は意識を失い、死んだようになってしまいました。いくら水をぶっかけても息を吹き返さない私を見て、日本兵は今度こそ死んでしまったと思いました。そして、私を裸のまま、真冬の川辺に捨てたのです。幸運にも、瀕死の私は一人の老人に助け出されて九死に一生を得ることができました。

(※2008.2.25追加)
2006.9 ガイサンシーとその姉妹たち 班忠義 梨の木舎
 彼女は「このつるつるの腋の下は、やつらとその手先となった中国人に真っ裸にされて、木に吊るされ、一本一本腋毛を抜かれた」と説明した。腰のほうは4人の男に2本のてんびん棒に両肩をかけられたまま、何度も地面に叩き付けられたうえ、蹴られたり殴られたりして背骨が潰れたと言う。(P.12)

 万愛花さんは、もとの名を劉春蓮と言い、一九三〇年1月、今の内モンゴル自治区のある村で生まれた。4歳の時人身売買の男に山西省盂県の羊泉村に連れて行かれて、名前を劉林魚と変えらたが、村人はその発音が難しいので、いつの間にか「劉玲月」と呼ぶようになった。「童養○〔女+息〕」(注・将来、買った家の息子の嫁にするため、子どもの時から引き取られた女の子という意味で、中国の昔の風習の一つでもあった)として現地の人に売られたが、正確が活発で、機敏で、正義感の強い彼女は11歳になった頃、村の抗日活動に参加し、八路軍に靴を作ったり、情報を伝達したりした。数え年で13歳になった時、村人から選ばれて婦人隊長や副村長などを担当した。
 万さんが言う数え年14歳6月7日(旧暦)、進圭社に連行された。暗いヤオドンに監禁され、共産党の情報を出せ、と銃尻で殴られたりといった暴行を受け、強姦された数日後、日本軍が棗園村へ出かけた際に彼女は監禁部屋の窓から逃げ出した。逃げ出してからもすぐには家に戻らず、豊勝坡という村へ行き、のちに夫となる李五小の妹の家に隠れた。1ヵ月ほどいて家に戻った。
 旧暦の8月18日、家の近くの池で洗濯しているところをまた日本兵と傀儡軍に包囲され、捕まった。前に監禁されたヤオドンに再び閉じ込められ、今度はされなる拷問と侮辱を受けた。強姦してから拷問されえる。共産党員の名前を言わせようと、木から吊るされ、銃床で腰を叩かれ、足でお腹を蹴られる。釘のついた板で頭を叩かれ、その傷跡が今も残っている。約1週間後に豊勝坡村を点々と逃げ隠れし、最後に義理の親戚関係にあったという万おばさんの家まで逃げた。
 万おばさんの家では暫く起き上がれず、万おばさんが看病してくれ、2ヵ月ほどそこにいて家に戻った。万おばさんと義理の親子となって、名前も万愛花とつけてもらった。

 家に戻るとすでに粟の取り入れも終わり、次第に寒くなって旧正月を迎える準備をしていた。その年の12月8日に万さんは三度捕まった。日本軍は今度こそ逃げられないようにと、彼女の両手をロープで縛り、ロープの端を馬の鞍にくくりつけ、万さんを馬のうしろから歩かせて、進圭社まで引っ張って行った。
 今度はもっとひどい拷問、強姦、輪姦を受けた。共産党の情報を出せ、名簿を出せ、と脅迫され、時には吊るし上げ、時には拷問椅子など、多くの拷問を受けたが、目を閉じて耐えた。最後には彼女は頭を逆さまに木に吊るされた。日本軍か傀儡軍か、意思朦朧の彼女には分からなかったが、腋毛を一人の男が1本、次の男が1本と、次々に全部抜かれた正月になった時ついに彼女は拷問で意識がなくなり、死んだと思われて進圭社の凍った河に捨てられた。村のある老人に拾われて家に運ばれ、ようやく救われた。(P268~270)


PR
この記事にコメントする
Name
Title
Color
Mail
URL
Comment
Pass Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
忍者ブログ | [PR]