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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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元・従軍慰安婦の証言を読む上での留意点等です。(※あくまで私が考える留意点です)

①証言の整合性・・・元・従軍慰安婦達は新聞等のメディア等にインタビューを受けたり、講演会で証言したりしていますが、その内容に整合性があり根本的な部分で変更がないこと。

②証言にない部分を読む・・・証言を見ていると行為の主体である「誰が」とか「誰から」が抜けているものが多くあります。例えば、「お金はもらっていない」という発言をよく目にしますが、誰からもらっていないのか明示していない場合もあり、予備知識がなければ「日本軍から」と読み違えてしまう可能性があります。通常、考えられるのは慰安所の主人でしょう。また、強制連行された時の情報が部分的に抜けている場合もあります。その抜けている部分を見つけ、抜けているものが何かを考えるのも実際に起こったことを見極める上での重要な作業です。

③記者等による歪曲・・・新聞等でインタビュー内容を記事にしている場合は記者の編集が入っており、そこに意図的な歪曲が入る場合もありますし、記者が誤って記載する可能性もあります。短絡的に「証言内容が変わった」と判断するのではなく、証言者本人によるものか記者によるものか、見極める必要があるでしょう。

④韓国の年齢・・・日本では満年齢が使用されていますが、韓国の場合、現在でも数え年が一般的に使用されています。数え年とは「年齢の数え方の一つで、生まれた時点を『1歳』とし、以降1月1日を迎えるたびに1歳加えるという方法」です。例えば、12月31日に生まれた子供が1月1日には2歳になることになり、数え年と満年齢では最大2歳の差が出てくることになります。よって、韓国の元・従軍慰安婦の証言で、証言毎に連行された年齢が異なっても、それが1~2歳の範囲内で、かつ、数え年か満年齢かが不明の場合は、証言に不整合があるとは言えません。
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「慰安所」は、1932年、いわゆる上海事変が勃発した頃に下記目的で設置されました。多くは民間業者が経営していましたが一部地域においては日本軍が直接経営したケースもあり、民間経営の場合も日本軍は慰安所の開設許可・施設整備・慰安所規定の作成をするなど、慰安所の経営・管理に直接関与していました。

  ①強姦事件の防止
  ②性病対策
  ③軍人への慰安  
  ④機密漏洩の防止

この「慰安所」にいた慰安婦の人数の特定は名簿が残されていないため困難ですが、陸軍は兵100人に1人と指示していたようで、そこから類推すると海外の兵員は最大350万人ですから、そのまま計算すると3万5千人。交代も考えて1.5倍すれば、約5万3千人と推計されます(※これはあくまで単なる目安です)。
また、1940年に大本営の研究班が性病罹患について調査を行っており、その資料では、朝鮮人52%、中国人36%、日本人12%の割合となっています。調査対象の全てが慰安婦ではなかったでしょうが、参考として上げておきます。

この「慰安所」商売はかなり儲かったらしく、朝鮮の売春業者などは中国大陸に展開する日本軍のもとに営業に押しかけていたようです(長沢健一(元軍医大尉)「漢口慰安所」図書出版社)。また、戦争末期には、売春業が「戦争やっている非常時に性風俗業など不謹慎だ」と白い目でみられるようになり、日本国内や朝鮮の売春業者が売春婦を引き連れて戦地に赴き、日本軍相手に商売を行うということもあったようです。
そもそも「従軍慰安婦」という言葉は後の世の造語で太平洋戦争当時からあった言葉ではなく、当初からあったのは「慰安婦(戦地の将兵を慰安する女性)」という言葉のみです。

広辞苑では、「従軍慰安婦」は以下のように記述されています。

 「日中戦争太平洋戦争期、日本軍によって将兵の性の対象となることを強いられた女性。多くは強制連行された朝鮮人女性」

また、「慰安婦」を見ると、

 「『従軍慰安婦』参照」

となっています。つまり、広辞苑によると「従軍慰安婦」=「慰安婦」なわけです。

よく分からない記述です。従軍慰安婦否定論者は「従軍慰安婦なんていなかった、いたのは慰安婦(もしくは営業慰安婦)だけだ」と主張しているわけですから、広辞苑が正しいとするとこの主張は意味不明なものとなってしまいます。

また、広辞苑の説明の場合、「日本軍によって強いられた、女性」なわけですから、もし、父親が娘に「慰安所に行って金儲けしてこい」と強要された場合は、何になるのでしょうか?日本軍に強いられたわけではないですから、従軍慰安婦でも慰安婦でもないわけです。その娘が慰安所で働いたとしても慰安婦ではなく、ただの娼婦ということになるのでしょうか。それとも、「日本軍によって」を広く解釈して、日本軍が慰安所を設置したのだから、父親の強要は間接的に日本軍によるものだとしてやっぱり、従軍慰安婦ということになるのでしょうか。

訳が分かりません。

通常、従軍慰安婦否定論者がこれらの言葉を使用する際は、概ね以下のように使用しています。

 慰安所で慰安行為をして働いてたのが「慰安婦」で、「慰安婦」=「従軍慰安婦」+「営業慰安婦」。

つまり、「慰安婦」と言う大きな枠があって、その中の一つが「従軍慰安婦」なわけです。そして、日本軍による強制連行があった慰安婦を「従軍慰安婦」とし、それ以外を「営業慰安婦」としています。ここで言う「強制連行」とはいわゆる「狭義の強制連行」で辞書的な意味での「強制連行」です。そして、日本軍による強制連行なんか無かったと主張しているわけです。広辞苑とは異なる言葉の意味です。

従軍慰安婦問題はその言葉からして、人によって異なる語義で使用されたり、争点があって明確に定まっていない状況にあると言えるでしょう。

◆◆◆ 吉田清治(ヨシダ・セイジ) ◆◆◆


【経歴等】

本名、吉田雄兎、別名は東司、栄司
1913年10月15日生まれ。本籍は福岡県芦屋町西浜
1937年、満州国地籍整理局に就職
1996年3月結婚
1942年9月、労報下関支部に就職
1947年4月、下関市議に共産党から出馬して落選
1970年頃、門司の日ソ協会の役員をしていた
1977年3月、『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社)を出版。その中では、朝鮮人慰安婦調達に関わる体験談がハイライトになっている。(ただし、慰安婦は狩り立てではなく、朝鮮人地区の女ボスが話をつけて労報へ中継ぎする方式になっている)
1982年9月2日、朝日新聞(大阪版)に大阪での市民集会の講演内容が掲載され、慰安婦狩りの告白が初登場。
1983年7月、『私の戦争犯罪(三一書房)』を出版。慰安婦狩りの生き証人としてマスコミ等でもてはやされる。

※参考:秦郁彦「慰安婦と戦場の性」新潮選書1999.6


【考察】

「ザンゲ屋」、「詐話師」として有名な人物。
その詐話っぷりについては、既に多くの方が書籍、ホームページ等で論じているので、当ページでは吉見義明氏の以下の文章を紹介するに留めたいと思います。

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 では、この証言自体の信頼性はどうか。これに疑問をいだいた秦郁彦教授は、済州島にいって調査したが、現地でえられた証言は否定的なものばかりだったといっている。そのほか、この証言にたいする多くの疑問がだされているが、吉田さんは反論していない。
 そこで、私たちは、一九九三年五月に吉田さんを訪ね、積極的に反論するよう勧めた。また、誇張された部分があれば、訂正すべきだとも申し入れた。とくに、この本(※『私の戦争犯罪(三一書房)』)のなかにある動員命令書がキーポイントとなるので、吉田さんがいうようにもしそれが奥さんの日記に書いてあるのであれば、日記のその部分を公開したらどうか、もしそれがないのなら訂正すべきではないかといった。
 これに対し、吉田さんは、日記を公開すれば家族に脅迫などが及ぶことになるので、できないと答えた。そのほか回想には日時や場所を変えた場合もあるとのことだった。
 そこで、私たちは、吉田さんのこの回想は証言として使えないと確認するしかなかった。なお、私は、一九九一年から慰安婦問題の研究をはじめたが、この間、吉田さんのこの証言はいっさい採用していない。
 証言としてかんじんな点となる場所や前後関係に変更が加えられているとしたら、済州島での慰安婦[徴用]にかんする吉田証言を、事実として採用するには問題が多すぎる、というほかない。吉田さんには、慰安婦徴募にかんするみずからの体験を伝聞と区別して正確に証言されるよう望みたい。

<吉見義明・川田文子「『従軍慰安所』をめぐる30のウソと真実」大月書店1997.6(P.26~27)>
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なお、現在の日本ではさすがに、「吉田証言」を強制連行の証拠として使用する知識人はいないのですが、海外では、有効な証拠として取り扱われることがあるのが現状です。
例えば、2007.6.26に米下院外交委員会で可決された慰安婦決議案でも「吉田証言」が有力な根拠として使用されていますし、2007年に発行された<琴秉洞「告発<従軍慰安婦>」同時代社2007.5>にも証拠として引用されています。

「吉田証言」は、「証言などいくらでも作り上げることができる」という良い例であるとともに、ウソであっても(もしくは、信憑性不確かであっても)、その証言内容が自分の主張に都合の良いものであれば、いくらでも取り上げる人がいるという良い例であると言えるでしょう。

本当のことならともかく、ウソ証言を元に批判されたのではたまったものではありません。


【証言内容】

出典等 1991.5.22朝日新聞(大阪版)
内 容  「女たちの太平洋戦争」で韓国から寄せられた投稿にある、”挺身隊員として連行された” 女性への言及。一方、多数の朝鮮人を強制連行した側からの証言がある。1942年(昭和17年)、朝鮮人の徴用を目的に発足した「山口県労務報国会下関支部」の動員部長になり、それから3年間、朝鮮人約6000人を強制連行した吉田さん(77)=千葉県=である。
 「手を下した側から従軍慰安婦について証言できるのはもう私1人しかいないかもしれない。政府は『民間の業者がやったこと』と言うがそんなことはない。とはいえ、その実態は歴史から消えている。慰安婦だった人は過去を知られたくないのは当然で、日本人の側が、犯した罪を証言し、記録しておく義務がある。沖縄決戦についての慰安婦の実態もみえてこない。朝鮮から沖縄へ慰安婦として強制連行された人たちは数千人いたと推定できる」と吉田さんは言い、現在、当時のことを記録に残そうと書き続けている。
 吉田さんは自著「私の戦争犯罪ーー朝鮮人強制連行」(三一書房)などで自己の戦争犯罪を問い続ける。86年8月、大阪で開かれた「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」に招かれ、従軍慰安婦について大要次のように証言した。 (以下は、「アジアの声 侵略戦争への告発」=戦争犠牲者を心に刻む会編 東方出版=から)
 私が今日、最も恥ずべきこと、心を痛めている問題の1つは、従軍慰安婦を950人強制連行したことです。従軍慰安婦という制度は、日本軍がアジア各地、太平洋諸島へ侵略したとき、その駐留陸・海軍軍人たちの性的な相手をさせるための女性であったのです。占領直後の前線に、売春組織を陸・海軍の指揮のもと、直接の援助のもとに設置したというのは世界史上でないそうです。もちろん、あってはなりません。これが太平洋戦争における日本陸・海軍の最も大きな罪だと私は信じております。この婦女子の韓国・朝鮮人の従軍慰安婦の徴用のやり方は、私たち実行者が10人か15人、山口県から朝鮮半島に出張し、その道の警察部を中心にして総督府の警察官50人か100人を動員します。そして警察官の護送トラックを5台から10台準備して、計画通りに村を包囲し、突然、若い女性を全部道路に追い出し、包囲します。そして従軍慰安婦として使えそうな若い女性を強制的に、というか事実は、皆、木剣をもっていましたから殴る蹴るの暴力によってトラックに詰め込み、村中がパニックになっている中を、1つの村から3人、5人、あるいは10人と連行していきます。そして直ちに主要都市の警察署の留置場に入れておいて、3日から5日の間に、予定の100人あるいは200人の人数をそろえて、朝鮮の鉄道で釜山まで運び、釜山から関釜連絡線で下関へ運んだのです。下関では74部隊といって陸軍の部隊がありましたが、そこの営庭で前線から受け取りにきている軍属に渡します。そしてご用船で中国、あるいは南方へ送るという業務を3年間やっておりました。
 10万とも20万ともいわれる従軍慰安婦は、敗戦後、解放されてから郷里に1人もお帰りになってないのです。連合軍は中国、その他の占領地でこの女性たちを解放し、朝鮮半島、あるいは日本へ送還したのですが、その女性たちはすべて郷里に帰らず、各地で名前を変えて生活され、今日に至っております。
 今日、朝鮮半島、あるいは日本列島の中で過ごしていらっしゃる方、10万人のうち、もう半数は犠牲になってお亡くなりかと想像されますが、まだ数万の元従軍慰安婦の方が生きていらっしゃいます。従軍慰安婦と原爆被災者の2つが、私にとっての大きな問題です。共に私が強制連行して、その罪を犯したのです。従って私は戦犯の証人として、ここに立って皆様にそのことを伝え、心に留めていただきたいとお願いする次第でございます。


◆◆◆ 吉見義明「従軍慰安婦」岩波書店 ◆◆◆


以下には、吉見義明「従軍慰安婦」岩波新書・1995.4)に記載されているもので、慰安婦となった経緯に関連する日本兵の証言を抽出して記載しています。



内 容 「対馬の陸軍病院で雑役婦を募集しているから行かないか」という話を聞き、紹介人が朝鮮人の産婆で信用できる人なので応募したら、約一〇〇名の女性と一緒に海南島の軍慰安所に送り込まれたという(山口彦三『落日の賦』)。(P.91)
備考
(管理人)


内 容 大阪製麻という軍需会社の経理タイピストだった磯崎隆子は、四四年八月、軍属としてジャワの支店に行くために瑞穂丸に乗った。しかし、アメリカの潜水艦に攻撃されて、乗っていた船が沈んだ。救助された女子軍属約七〇名は、ルソン島にたどりついた。しかし、彼女たちは、現地の部隊からやっかり者扱いされており、一〇月ごろ約三〇名が残留していたとき、副官の命をうけた当番兵から「慰安婦になるなら面倒をみてやる、ほかの者とも相談するように、と副官がいっておられるが、どうか。衣食住の保証付きで、それならもちろん、トラックで運んでもらえるよ」といわれたという(磯崎『生ある限りルソンへ』)。彼女たちはただちに拒否したが、売春婦ではない日本人でも慰安婦になることを要求される場合があったのである。(P.91~92)
備考
(管理人)


内 容 一九四一年四月二一日、台湾第四八師団は福州を占領したが、師団専属の慰安婦がついてこなかったので、師団参謀部は兵站部に軍慰安所の設置を指示した。そこで、兵站部は福州憲兵の兵長に協力を求め、市内の有力者に物資を提供して女性たちを集めさせたという(鈴木卓四郎『憲兵下士官』)。(P.113)
備考
(管理人)


内 容 四四年五月二五日の洛陽後略の後、戦車第三師団経理部のある少尉は、後方参謀によばれて「至急民家を改装して兵隊用の慰安所を作れ。ついでに洛陽で女も集めてこい」という命令を受けた。そこで、「これは、メチャメチャである」と思ったが、トラックに塩ニ、三俵をつんで洛陽に行き、ニ、三軒まわって十数人の女性を集めた(新京陸軍経理学校第五期生記念文集編集委員会事務局編『追憶』上巻)この将校は、同年夏、衝陽でも慰安婦徴集業務を担当し、中国人女性一五名を、塩と交換に売春業者から譲り受けている。(P.113~114)
備考
(管理人)


内 容 四四年秋、湖北省宝慶に入城し、宝慶憲兵隊長になった山田定憲兵准尉は、第一一六師団の後方参謀から、軍人による強姦事件を防ぐために、慰安婦の徴集を頼まれた。そこで、曹長に命じて、十数名の女性を集め、副官に引き渡した(山田『憲兵日記』)。(P.114)
備考
(管理人)


内 容 四五年六月、独立山砲兵第二連隊は湖北省洪橋付近に集結したが、平原一男第一大隊長(戦後、自衛隊陸将補)は、部下の意見具申を受けて、軍慰安所の開設を命令した。そこで、経理室が六名の中国人慰安婦を集めたが、そのときの条件はつぎのようなものであったという。

 慰安所の開設に当たって最大の問題は、軍票の価値が暴落し、兵たちが受け取る毎月の棒給の中から支払う軍票では、慰安婦たちの生活が成り立たないということであった。そこで大隊本部の経理室で慰安婦たちが稼いだ軍票に相当する生活物資を彼女たちに与えるという制度にした。経理室が彼女たちに与える生活物資の主力は、現地で徴発した食糧・布類であったと記憶している。兵の中には徴発に出かけた際、個人的に中国の金品や紙幣を略奪し、自分が遊んだ慰安婦に与える可能性もあると思われたので、経理室の供給する物資は思い切って潤沢にするよう指示した。(平原『山砲の○江作戦』)(P.114)

※○=草冠+「止」
備考
(管理人)


内 容 平原大隊長の回想によれば、両市塘に駐留していた前の警備隊長は、治安維持会長に、まず女を差し出すよう要求したという。この話を聞いて、彼は「小さな警備隊では自らの力で慰安所を経営する能力がないので、中国側の協力に期待することになっており、ある場合には強制という形になっていたかもしれない」とのべている(平原『山砲の○江作戦』)。大隊ぐらいまでは、慰安婦徴集をふくめ自力で軍慰安所を経営できるが、それ以下になると力不足で、往々にして強制的徴集をおこなうことがあるということであろうか。軍の末端で往々にして強制がおこなわれる傾向があることを示唆している点が注目される。(P.115)

※○=草冠+「止」
備考
(管理人)


内 容 つぎの例は、同じ独立山砲兵第二連隊のケースである。第二大隊付のある軍医の日記によれば、一九四〇年、湖北省薫市に近い揚子江沿岸のある村で、売春婦ではない地元の女性たちが徴集された。日記には、八月一一日の最初の性病検査のようすが、つぎのように書かれている。

さて、局部の内診になると、ますます恥ずかしがって、なかなか○子〔ズボン〕を脱がない。通訳と〔治安〕維持会長が怒鳴りつけてやっとぬがせる。寝台に仰臥位にして触診すると、夢中になって手をひっ掻く。見ると泣いている。部屋を出てからもしばらく泣いていたそうである。
次の姑娘も同様でこっちも泣きたくいくらいである。みんなもこんなに恥ずかしいことは初めての体験であろうし、なにしろ目的が目的なのだから、屈辱感を覚えるのは当然のことであろう。保長や維持会長たちから、村の治安のためと懇々と説得され、泣く泣くきたのであろうか?
なかには、お金を儲けることができると言われ、応募したものもいるかも知れないが、戦に敗れると惨めなものである。検診している自分も楽しくやっているのではない。こういう仕事は自分には向かないし、人間性を蹂躙しているという意識が、念頭から離れない。(溝部一人編『独山ニ』所収)

 どのような女性が集められたかをよく示す文章である。この軍医は「〔大隊長は〕保長や治安維持会長に諮って現地に於ける慰安婦の徴募を依頼した」、「何ら強制的要請はなく、すべて彼らの自由的意思にまかせた」と回想している(同上)。しかし、軍からの要請は、地元の住民にとっては、ほとんど命令と同じではなかっただろうか。保長や治安維持会長が強制的徴集をし、軍は知らぬふりをして、集められた女性たちをそのまま慰安婦としたとみるべきだろう。(P.116~117)

※○=衣へン+「庫」
備考
(管理人)


内 容 つぎは、鉄道第一三連隊の下士官が、四四年夏に河南省○城の南方で、臨時の特設慰安所をつくったケースである。軍紀が乱れてきたため軍慰安所の開設を命じられたこの下士官は、前線司令部のある○城まで行った。そこで、二五人の中国人慰安婦と賄婦・監督など総数三〇名を預かり、二台の自動車に分乗させ、逃亡されないよう警備兵もつけて、特設慰安所に連れてきた。建物は、村長の屋敷をかりて六棟の家に分け、部屋を仕切って開業した。そこで、軍医の検診に立ち会ったところ、顔立ちはいいが、「驚いたことに……例外なく不具者」であったという。軍の命令であるため、事実上の強制となり、治安維持会が彼女たちを犠牲にしたのである。女性たちの年齢は二〇歳前後であった。初日から大勢の兵士が押し掛け、夜は将校がやってきた。二日目になると、朝一〇時から夜中まででは身体がもたないので、休ませてほしいと女性たちが申し出たほどであったという(森利『モリトシの兵隊物語』)。(P.118)
備考
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内 容 第二五軍(マレー作戦を担当)兵站に所属した兵士の証言によれば、一九四二年一月二日、マレー半島の上陸地点シンゴラにいた兵站将校ら三名がタイのバンコク出張を命じられた。そこで彼らは、日本企業の駐在員に頼んで二三名の娼婦を集めてもらい、性病検査に合格したタイ人女性三名を連れて帰るなど、各地で軍慰安所開設を担当したという(林博史「マレー半島における日本軍慰安所について」)(P.120)
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内 容 シンガポールの中国語新聞『昭南日報』(一九四二年三月五日~八日)に、「征求接待婦」(接待婦募集)という広告が載っている。その内容は、各民族の接待婦数百名を募集する、年齢は一七歳から二八歳、報酬は一五〇ドル以上、「暗業」(売春婦などをいう)も可、受付はラッフルズホテル、というものだった(林博史「シンガポールの日本軍慰安所」)。ラッフルズホテルは兵站が管理する将校用ホテルである。(P.121)
備考
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内 容  近衛師団通信隊の将校総山孝雄(戦後、日本学士院会員)の回想によれば、二月二七日に軍慰安所が開設されている。『昭南日報』の広告あるいはこれと関わるものであろうか。ともあれ、第二五軍司令部の後方担当が慰安婦を募集すると、それまでイギリス軍を相手にしていた女性が続々応募したという(総山『南海のあけぼの』)。シンガポールでは、占領直後、慰安婦が公然と募集され、最初は売春婦など生活に困った女性たちが応募したのだった。
 しかし、この女性たちは、一日に一人ぐらい相手をすればよいと思っていたのに、兵隊が列をつくって押し寄せたのに悲鳴をあげた。そこで、四、五人を相手にしたところで、担当の兵士が打ち切ろうとしたところ、騒然となったので、やむをえず「女性の手足を寝台にしばりつけ」てつづけさせたということを兵士から聞いている(同上)。このような強制もあったのである。(P.121~122)
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内 容 一九四二年五月、フィリピン、ルソン島のヌエバビスカヤ州アリタオに駐屯していたある中隊では、兵士が強姦未遂事件をおこしたため、バヨンボンの大隊副官の命令で各中隊に軍慰安所を設けることになり、大隊本部付の下津勇中尉は通訳官を連れて走りまわり、各中隊駐屯地の町長と話し合って、女性たちを集めた。彼は、集められた女性たちの面接と身元調査をおこない、若くて健康な女性、五十数名を採用したという(下津『泥棒と黄塵』)(P.122)
備考
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内 容 ミンダナオ島のラサン地区コロニーで飛行場の建設をはじめた第一二六野戦飛行場設定隊の主計少尉は、上陸直後の四四年六月、ワンピース用の布をもってダバオの有力者を訪問して慰安婦の斡旋を依頼、一週間後に六名の女性をうけとって、軍慰安所を開設した(高野部隊戦友会『高野部隊ミンダナオ島戦陣記』)。(P.122)
備考
(管理人)


内 容 マレーのクワラビラでは、歩兵第一一連隊のある中隊長が治安維持会の会長代理(華人)を呼び出し、女性を集めるように命じた。このころ、各地で日本軍による中国系住民の虐殺がおきていたので、拒否すると殺されるとおびえた会長代理は、未亡人など一八名を集めて差し出したが、女性たちは会長代理に家に帰りたいと泣いて訴えたという(林「マレー半島の日本軍慰安所」)。(P.123)
備考
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内 容 インドネシアのボルネオ(カリマンタン)島タラカンにいた輜重兵第三二連隊第一中隊のある兵士は、四四年に、そこの軍慰安所にいたリナーという慰安婦から、自分たちは水産会社の事務員にするとだまされて、スラウェシ島のメナドからガレラに連れてこられて慰安婦にさせられたと聞いたという(同中隊戦友会八木会編『我らの軍隊生活』)。(P.123~124)
備考
(管理人)


内 容 四四年、戦局悪化のためアンボン島では、日本人慰安婦は後方にさげられ、八月には、地元の女性がいる軍慰安所も閉鎖された。しかし、海軍特別警察隊の将校の回想によれば、軍人の非行がつづくので、第四南遣艦隊司令部(正確には海軍第二五特別根拠地隊司令部か)の先任参謀の指導で、軍慰安所をもう一度設置することになった。慰安婦体験者、売春婦、売春のうわさがある者、志願者を対象にしてリストをつくり、本人に交渉するが、「ある程度の強制はやむをえない」ということになった。治安維持を任務とする特別警察隊が前面にでるのはまずいので協力にとどめ、副官が中心となり、政務隊(民政警察)が集めることになった。その指導にあたった司政官からこの将校が聞いた話によれば、サパロワ島でリストにのった女性を強引に船に乗せたところ、住民がぞくぞくと港に集まって、「娘を返せ!!娘を返せ!!」と叫んだという(禾晴道『海軍特別警察隊』)。集められたのは、ユーラシアン(この場合、白人とインドネシア人の混血)とインドネシア人だった。(P.126)
備考
(管理人)


内 容 海軍第二五特別根拠地隊司令部付の主計将校だった坂部康正の回想によれば、アンボン島で日本人慰安婦を帰したあと、司令部の参謀が四つの慰安所を開設し、約一〇〇名の慰安婦を「現地調達」する案をつくったという。それは「日本軍将兵と姦を通じたるものは厳罰に処する」という布告を出し、「密告を奨励し」、「現住民警察官を使って日本将兵とよい仲になっているもの」を収容し、そのなかから美人で性病にかかっていない者を選んで、慰安婦にするというものだった(海軍経理学校補修学生第一〇期文集刊行委員会編『滄溟』)。彼は「クラブで泣き叫ぶインドネシヤの若い女性の声を何度か聞いて暗い気持ちになったものだ」とのべている。(P.126~127)
備考
(管理人)



◆◆◆ 湯浅謙(ユアサ・ケン) ◆◆◆


【経歴等】

1916年、東京生まれ(父・開業医)
1941年 東京慈恵医科大学卒業 駒込病院勤務
1942年 北支山西路安陸軍病院赴任
1945年 太源にて敗戦
1949年 人民解放軍より釈放 政府病院勤務
1951年 河北省永年の捕虜収容所に家族と共に収容
1956年 起訴猶予で釈放、帰国
中国帰還者連絡会常任委員


【考察】

下記証言を読むと、あまりにも特定主義・主張の人達に都合の良い内容になっているので笑えます。
該当箇所を青字にしましたが、この証言1つで次のような主張の根拠として使えそうです。

 ○日本人は当時、朝鮮人、中国人達を蔑視していて「五族協和」 などは建前に過ぎない。
 ○天皇反対、日の丸反対、君が代反対

また、慰安婦関連で言えば、「『慰安婦』は正しく日本軍の性奴隷だったのです」と断言もしていますし、以下の通り「軍による強制連行」の証言もしています(又聞きの話ですが)。本当に盛りだくさんです。

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その時、日本軍国主義の束縛から解放された彼女たちは、「日本軍に騙されいた」「村祭りで遊んでいたら軍人に集められつれて行かれた」「父親の『承諾書』を見せられたが父親は字が書けなかったのに」「苦しくて消毒薬をのんで死を図った」等々の不満が噴出したそうです。
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同氏の証言が恣意的であるか否かは、各人の判断にお任せしたいと思います。「それが真実であるから、そういう証言になって当然」という方もいらっしゃるでしょう。

個人的には「こんな特定の主義・主張が色濃く反映された証言など使えない」と思いますが。


【証言内容】

出典等 1998.6 季刊「中帰連」第5号 「私が知る『従軍慰安婦』 湯浅謙」
内 容 (前略)

 私は子供のときから朝鮮人は卑しいと叩き込まれ「センジン」といってさげすんでいました。中国人も「チャンコロ」と侮蔑しておりました。こういう民族差別の意識から、「この戦争は正しい、日本は天皇を頂いて必ず勝つ、いつかアメリカ、イギリスに伍してアジアを征服するのだ」という誤った考えをもっていました。当時日本中があの戦争に浮かれていたので、真実を知る者は極めて僅かだったでしょう。

 私は軍国青年として育ち、軍医として中国に渡りました。丁度あの太平洋戦争が始まったときで「これは素晴らしい、やはり天皇を頂いた神の国だ」と意気揚々としていました。「私の背後に天皇がいる、中国人に対しては日本の武力がある」そのような権力を背負った自分でした。

 1942年1月、中国山西省南部の路安にある陸軍病院に着任しましたが、そこは付近を占拠している36師団の司令部の所在地で、そこでの私の日常は兵隊と中国人に対し驕り高ぶったものでした。

 路安には軍人専用の朝鮮人「慰安所」があり、病院の軍人たちもよく訪れていました。兵隊は国家から遮二無二連れて来られ、言わば父母を人質にされて戦場へ駆り出されたのです。万一自分が巌しい軍紀に触れれば親兄弟に迷惑が掛かる。日の丸、君が代で拘束され上官からは苛められる。何時戦場で無残な死を遂げるかわかりません。そんな日常の中でやっと気が抜けるのが月に一回か二回訪れる慰安所です。そこで元気を取り戻して明日から辛い日常です。即ち活力の元が「慰安婦」だったのです

 私は日本ではそのような経験もなく、また朝鮮人を「汚い」と差別していたのでしばらくは近づきませんでした。

 私が「慰安婦」を初めて見たのは私が居留民の女性の衛生救急教育をしたときです。そのとき私は「朝鮮人でも包帯を巧く巻けるのか」とか「お前は日本人と天皇陛下を同じくして嬉しいんだろう」ぐらいに見くびっていました。

 半年ほどして軍務にも慣れました。毎週末に全将校は病院長との会食があり酒を飲みましたが、或るとき酒の勢いで皆と一緒に慰安所を訪れました。慰安所での値段は兵隊は2円で5時まで、下士官は3円で7時まで、将校は泊って10円。但し慣れている仲間からサービス料を出せと言われて15円置いて一時間位で帰りました。これが私の初めての体験ですが、飲んで騒いで遊びに行っただけという気持ちでした。その後そこには2~3回行ったように覚えています。またこんなことがありました。日曜は兵隊の外出日で慰安所は混雑します。それで私たち将校は行かないことにしてあったのですが、或る日曜の夜皆と酒を飲み酔っ払って訪れたことがあります。ところが以前の女性がいない。「部屋にいる」と言われて行くとグーグー眠って目をさまさない。沢山の兵を相手にして疲れ果てたのです。気の毒に思い15円置いてそのまま帰りました。

 いつも皆と一緒に酒を飲んだ挙句に行ったのですが、一回だけ一人で行ったことがあります。それは1945年4月、中支軍が突っ込みすぎて重慶軍に包囲され離脱できず、山西から一ケ師団を結成し北から応援に出動したときのこと、私は病院から隊付の軍医として派遣されました。単独の赴任で、黄河を越えた河南省はマラリアや栄養失調症が多発すると聞いていたので淋しくなり、途中の太原市で無理して酒を飲み一人で慰安所を訪れました。そんな気持ちを察したのか、朝鮮の慰安婦から「死んじゃ駄目よ」と慰めの言葉を掛けられたのを覚えております。また、運城の陸軍病院に応援軍医として派遣されたときも皆と一緒に慰安所に行きましたから、結局六、七回は訪れているでしょうか。

 当時の軍人の目から見ると「慰安婦」は公娼のように見えたのです。料金を払いますし愛想もよかったからです。然し彼女たちには本当のこと、つまり「私は強制され連れて来られた」とか、「帰ろうとしても脅迫され帰れなかった」などとは絶対に言えなかったのです。相手は軍人、ましてや将校、「日本軍を談議する」とか、「戦争に協力しない」として憲兵隊に通報される。またにこにこして兵隊を迎えなければぶん殴られるが関の山。ここに落ちたら泣いても反抗しても同じ、することはしなくてはならない。だから性奴隷です。これが植民地支配の実情です。

 私は路安で一日に30人を相手にして急死した女性のことを聞きました。苦しくても逃げられなかったのです。

 しかし「外出もできたから自由があった。お金を得たから奴隷ではない」などと言う若いマンガ家や「兵隊を拒否しなかったから商売だった」という大学教授もおります。これらは植民地支配や戦地の軍支配の実体を何も知らない人たちの言うことです。「慰安婦」は正しく日本軍の性奴隷だったのです

 私はまた彼女たちの性病検査をしました。前記の河南省に派遣される部隊が、まだ山西省南部に駐留しているときのことでした。周囲は山々で各分遣隊への道には点々とトーチカが作られておりました。赴任して間もなく大隊長に呼ばれたところ、「嬉しいことがある」とにこにこ顔で言われ、「慰安婦」六、七名が来たのです。別に性病検査の命令は受けなかったのですが、軍医の私しかいないのです。

 私は産婦人科の経験は学生時代しかなく自信がなかったのですが、六、七名の「朝鮮人慰安婦」の性病検査をしました。リンパ腺にふれて腫大をみたり、クスコという器具を性器に突っ込み粘膜の異常をみる。尿道部を圧迫して腹が出るかを検査しました。そして全員合格とし、部隊には回覧を廻して「全員合格だが肉眼的所見によるものだから必ず予防具をつけること」と通知したわけです。

 そこでは又こんなことがありました。「大隊長の子を宿した」と言う女性がいたのです。これには困りました。日本軍の権威に係わることです。そこで大隊副官と相談し「絶対に堕させること」にしました。私は検査官という武器=権力を持っておりましたから彼女も従わざるを得なかったのでしょう。結局よそに行って堕胎したようです。

 私が3年半いた路安陸軍病院のことですが、兵隊は日曜の外出日には慰安所を訪れるのが最大の楽しみでした。整列した兵に「みんな持っているか」「はーい」、予防具を持っているかを確かめるのです。

 また外出日に当番に当たると町を巡察します。肩から巡察の帯をつけて衛兵を連れ肩をいからして歩くのです。乱れた態度の兵を見つけると注意します。私は巡察時には慰安所には行かぬよう先輩から注意されました。その先輩は馴染みの慰安婦から「今日は偉そうな格好している」と冷やかされ、慌てて逃げてきたそうです。また路安では露営会議といって駐屯する部隊の副官が集まり、私も出席し、日曜日だけの外出では慰安所がいっぱいになるから、部隊に外出曜日を割りあてました。また物価騰貴の折から2円を3円に値上げしたように記憶しています。このように慰安所の経営は業者(軍属?)が行ったのですが、管理は軍がしていたのです。結局戦地の兵士は殆ど全部慰安所を訪れたでしょう。

 以上のほか私が他の軍人と違う体験をしたのは、敗戦後も2700名の軍人と共に国民党軍に徴用され3年半も人民解放軍と戦ったわけですが、その中に軍人の妻となった朝鮮人慰安婦が何十名かおりました。そして全中国の解放時に軍人は捕虜収容所に収容されましたが、彼女たちは軍人の家族として家族隊で生活していました。その時、日本軍国主義の束縛から解放された彼女たちは、「日本軍に騙されいた」「村祭りで遊んでいたら軍人に集められつれて行かれた」「父親の『承諾書』を見せられたが父親は字が書けなかったのに」「苦しくて消毒薬をのんで死を図った」等々の不満が噴出したそうです。

 また殆どの捕虜と家族は、1953年夏帰国を許され大部分は朝鮮に一部は日本に帰りましたが、日本の家庭では彼女らは受け入れられず、ただ働いて働いて多くは苦しみの中に亡くなられたと聞いています。


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