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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 朴頭里(パク・トゥリ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1924.9.2、慶尚南道密陽郡に生まれる。多少余裕のあった家に生まれるが父が女遊びで財産を使い果たす。1940年の数えで17歳頃、やってきた朝鮮語と日本語を話す男に「日本の工場で金になる仕事がある」と騙され、台湾にて慰安婦を強いられる。

1992.12.2、日本国の公式謝罪と賠償を求めて提訴した10人の内の一人。2003.3.25最高裁にて上告棄却・上告受理破棄、敗訴確定。(釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟(別名:関釜裁判))
2006.2.19死去


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

無し。村に工場の働き手を募集に来た男3人に連れられ、台湾の彰化の慰安所まで連れて行かれる。3人の内のリーダー格であった人物が慰安所の主人だった。


【考察】

裁判の証言(以下「裁判」)と「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」(以下「証言」)を比べて見ると、大まかな流れは変わりませんが、以下の通り、細かい所で全く異なる内容をなっています。

<村にきた男>
 ○「裁判」・・・日本語と韓国語を話す男でしたが、韓国語が上手だったのでたぶん朝鮮人だと思います。
 ○「証言」・・・50代くらいの背の高い日本人でした。彼は朝鮮語を使いましたが、あまりうまくありませんでした。
「たぶん朝鮮人」だったのが、完全に「日本人」に変わって朝鮮語もヘタになっています。しかも、「証言」では、「日本で暮らしている朝鮮人だとばかり思っていたのですが、台湾に着いたときに日本人だと知りました」と語り、「裁判」とは全く異なることを言っています。これは完全にウソでしょう。

<慰安所の主人>
 ○「裁判」・・・村にだましに来た男と同一だとも日本人だとも証言していない
 ○「証言」・・・同女を連れて行った日本人の男が慰安所の主人
慰安所の主人まで日本人になってしまっていますが、これは、「裁判」では触れなかっただけかも知れません。

<軍人の暴力>
 ○「裁判」・・・「もし朝鮮の言葉で話をしたりすれば、相手は日本の軍人なので、それこそ叩き殺されるぐらいひどい目にあわされました」
 ○「証言」・・・「軍人たちは私を殴ったりしませんでした」

日本を非難するのに都合のいいように情報が変更されている一方で、不利な方向にも変わっています。訳が分かりません。


なお、同女が入れられた慰安所は以下の通り、軍専用ではなく民間人も利用していたようです。

「民間人の客は、日本人と台湾人でした。民間人の中にも一時間くらい「一見さん」もいれば、一晩泊まっていくような人も一月に何人かいました。」(「証言」P106~107)


【信憑性】

細かい所は、コロコロと証言を変えているようで信用できませんが、大まかな所は本当のことでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992.2 裁判の証言 ***** ****
 ~(前略~
 私の家族は父と母、そして兄弟が7人で、兄弟は私も含めて女は4人、男は3人でした。父親の仕事は若い頃は何をしていたのか知りませんが、私の知っている限りでは大工をやっていました。家は貧しくて、一家そろって藁葺きの屋根の家に住んでいました。
 私が17歳のときに、私の村に「日本の工場で働けば金儲けができる」という話が村の娘たちにもちかけられ、男たちが村の娘たちを集めにやって来ました。日本語と韓国語を話す見知らぬ男でしたが、韓国語が上手だったのでたぶん朝鮮人だと思います。
 私もお金を稼ぐために日本の工場に行って働こうと思いました。その時にしていた仕事は、洗濯をしたり山に薪を取りに行ったりといった仕事をしていました。あまりよく覚えていませんが、私が故郷を後にしたのは暑くもなく寒くもなかったので、たぶん春か秋だったと思います。
 初めは父も母も日本の工場に働きに行くことには反対していましたが、嫁に行くにはお金も必要だし、嫁に行く前に日本の工場に働きに行ってお金を稼ぎたいと私が思っていたので、仕方なく承諾しました。
 日本へ行くことになった日、父は仕事で家を留守にしており、家には母がいました。娘たちは一ヵ所に集められてから釜山に行き、釜山から船に乗せられました。~(中略)~
 船から降りたとき、そこが台湾だということも分かりませんでした。降りたときも船酔いの状態がひどかったので、船を降りてからまず病院に連れていかれました。
 病院から家に連れていかれて、その後何日かたってから周りの人に「ここは台湾だ」ということを教えてもらって、そこで初めて台湾に連れて来られてたということが分かりました。
 病院から工場に連れていかれるのかと思っていましたが、連れていかれたのは軍人相手に体を売る「慰安所」でした。その時だまされて連れてこられたことが分かりました。~(中略)~
 その「慰安所」の主人には奥さんがいました。主人とは別に管理人がいて、言うことを聞かないと暴力をふるうのは管理人でした。
 私はその「慰安所」で日本名を「ヒジコ」と呼ばれていました。私は「慰安所」に連れて来る日本の軍人からお金はもらっておらず、「慰安所」の主人からも一銭ももらっていません。
 「慰安所」では日本語しか喋らせてもらえず、もし朝鮮の言葉で話をしたりすれば、相手は日本の軍人なので、それこそ叩き殺されるぐらいひどい目にあわされました。~(後略)~
2002.7.30 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房
 村にやって来た日本人男性に、日本にある工場での就職を斡旋すると持ちかけられる。(P.124)

 ハルモニを村から連れ出した日本人男性は、その慰安所の主人だった。(P.125)
2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
 連行されたのは一七歳になった年、一九四〇年に間違いないと思います。(P.103)

 ある日、村に男が三人来ました。三人がバラバラに分かれてそれぞれ女たちを募集していました。うちに来た男は五〇代くらいの背の高い日本人でした。この日本人の男が三人の中の責任者のようでした。彼は朝鮮語を使いましたが、あまりうまくありませんでした。それで両親と私は、彼のことを日本で暮らしている朝鮮人だとばかり思っていたのですが、台湾に着いたときに日本人だと知りました。ほかの二人は朝鮮人だったと思います。その人は、私を日本の工場に入れてあげると言いました。私は日本でお金を儲けて両親に仕送りしたいと言いました。(P.103~104)

 私を三浪津から連れて行った日本人の男がその家の主人でした。(P.106)

 軍人たちは私を殴ったりしませんでした。(P.108)
2007.2.10現在 ナヌムの家 HP
※リンク先は韓国語
***** ****
 軍隊慰安婦では 1940年 17才時行って 1945年 22歳に帰国した. 私が故郷で住む時男 3人が私たちの村で女 10人ほどを募集した. 日本工場に入れてくれると言った. 1940年 晩春ではなかった.~(中略)~

 お客さんは主に日本軍人だったがには民間人もいた. 民間人はデマンオッを口は台湾人だった. 私はその慰安所にだけ 5年あった. 韓国で私を連れて行った人が慰安所の主人だった. 彼は日本人だった. 彼は私たちの外にも韓国で 15,16歳になる田舍娘たちをたくさん連れて来た. 慰安所には平均 20人余りの慰安婦があった. 韓国で代理で来る娘たちは私たちの慰安所を経って他の所に行った. しかしどこに行ったのか私は分からない.
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