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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 朴玉善(パク・オクソン) ◆◆◆

 ※「朴玉仙」と表記されている場合もあり


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1924年、慶尚南道密陽郡に生まれ貧しい農村で育つ。1941年、17歳の時、友達と水汲みに出かけた際に、日本人に捕まえられそのまま中国と旧ソ連の国境地帯、穆陵の慰安所に入れられる。源氏名は「アライアキコ」。
戦後も帰ることができずに中国で生活。2001年に韓国に帰国した。(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」より)


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

腕章をつけた日本人の男二人に拉致され、軍人の見張りが乗ったトラックに乗せられる。トラックで駅まで行き軍人専用車両に乗せられ慰安所まで連れて行かれる。慰安所には一時間毎に歩哨が来て確認をしていた。(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」より)


【考察】

下記資料の「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」「ナヌムの家のホームページ」を比べれば、同女の証言の信憑性の無さは明らかです。

「友達と川に水汲みに行った時に軍人に拉致された」のが「友達に紡績工場で働こうと誘われた」と全く違う証言をしています。
果たして、途中から証言内容を変更したのか、それとも、日本人向けと韓国人向けでは証言を使い分けているのか。。。


【信憑性】

信憑性なし。
おそらく、ナヌムの家のHPに記載されている内容が真実に近いものでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
2001.9.18 朝鮮日報 「在中慰安婦ハルモニが60年ぶりに帰国」 ***** ****
 日本軍慰安婦として中国に連行された朴玉善(パク・オクソン/78)さんが60年ぶりに故郷の地を踏んだ。
16日仁川(インチョン)国際空港に到着した朴さんは、迎えに来た弟の朴某(74)さんを抱きしめて嗚咽した。朴さんは18歳だった1941年、故郷の慶尚(キョンサン)南道・密陽(ミルヤン)で中国黒龍江省の日本軍慰安所に連れて行かれた。日本敗戦後、退却した日本軍に混じって山の中をさまよった朴さんは、ムリンという奥地の村に定着して今まで暮らしてきた。中国に住む慰安婦被害者の調査に乗り出した韓国挺身隊研究所のコ・ヘジョン所長が今年の4月、朴さんに会い、探しに探した末、釜山(プサン)に住む朴さんの弟の朴某さんを見つけた。
 弟と甥達の公式招請で帰国した朴さんの国籍は中国、戸籍は死亡処理されている。訪問ビザで訪韓した朴さんは、これから国籍変更と戸籍回復のための裁判を受ける予定だ。女性部権益企画課のパク・ムンスクさんは「現在中国には朴さん以外にも慰安婦被害者が約10人ほどいるが、故郷が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)だったり、あまりにも年老いているため帰国を推進することは難しい」と話した。
(※2007.4.12 追加)
2004.8.17 ナヌムの家での証言 ***** ****
18歳のころ食べ物もなく、草といっしょに穀物を食べる毎日で、勉強もさせてもらえなかった。ある日小川に洗濯に行った帰り兵隊に腕を捕まれてトラックに無理やり乗せられた。中には他にも若い女性がたくさんいた。トラックにホロをして外から見えないようにされた。泣くと怒鳴られた。貨物列車に乗せられ「いいところに連れて行ってやるから静かにしろ。」と言われそのまま連れて行かれた。
2005.10.05 高知新聞「元慰安婦の痛みに思いを 高知大生らが証言集会企画」
※リンク切れ
***** ****
17歳の時、友達と水くみに出掛けた際日本人につかまる。送り込まれたのは中国と旧ソ連国境の穆陵(ムリン)の慰安所だった。
2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
 その日も日が暮れてから友達と二人で近くの小川まで瓶を頭に担いで下りて行きました。私たち以外は誰もいなくて水は澄んでとてもきれいでした。ひしゃくを使っていつものように水を汲んで、また頭にのせて家へ帰ろうとすると、後ろの方から「ちょっと待て!」という声がしました。私は自分が呼び止められているとは思わずそのまま行こうとしました。するとまた「ちょっと待て!」という声がして振り向くと、土手の方から二人の男がこちらに向かって走って来ました。私たちはそこから立ち去る余裕もなくその二人の男に捕まってしまいました。二人とも腕に腕章をはめた日本人の男でした。~(中略)~両腕を抱えられ、引きずられるようにして私たちは連れて行かれてしまいました。~(中略)~村を出てからもかなりのあいだ歩かされた気がします。しばらくして辿り着いた所に、大きな軍のトラックが停めてありました。~(中略)~中には同じ年頃の女の子たちが二〇名くらいいました。~(中略)~私たちを乗せるとトラックは走り出しました。見張りのための軍人が二人一緒に荷台にいました。~(中略)~トラックが止まり降ろされた所はどこかの駅でした。そこで今度は汽車に乗せられましたが、トラックは汽車のすぐそばまで行き、乗り換えのときは両側に軍人たちが並ぶので逃げることは不可能でした。車両は民間人が乗る車両と軍人専用の二つがありましたが、私たちが乗せられたのは軍人専用のものでした。(P.143~144)

 汽車とトラックの乗り継ぎを何度か繰り返し、到着したのは当時「スブナスヤン」と呼ばれていた所でした。川をはさんでこちら側が中国、向こう側がソ連という国境地帯(中国と旧ソ連の国境地帯・穆陵の慰安所と思われる)でお互いの集落がよく見えていました。(P.146)
2007.2.10現在 ナヌムの家 HP
※リンク先は韓国語
***** ****
現在国籍:中国
生まれ年度:1924年
故郷:慶南蜜陽
動員年度:1941年
当時慰安所:ヘイルング将星モックルング隣近
慰安所あった期間:4年
当時日本名前:アキコ
中国居住地:中国黒竜江省モックルングヒョンモックルングジン

~(前略)~私の十八つの肉の時の親もこっそりと・・・・・・友をするが来て・・・・・・内と名前が同じだ。性が違う。“ねえ、オックソンよ、中国にお針工場に(人)使うから、私たち・・・・・お針工場にいや入って行くか?”そうヒソヒソと“皆行くと言うから、私たちいや行くか?”~(中略)~ただ工場に行くと言ったから行くんだよ・・・・・・その次に親の密かに出るからじっとナオルレだから何も包みもオブオッスムダ。~(中略)~
 それで友逹行くとします. そう私たち夜でナワッスムダ. じっと. 家で, 誰もこっそりと. それで家から出ているのにこんなあそこ逆転みたいなのにガッスムダ. 家でゴルオガッスムダ. だからその人々ががトックします. 人, そのつましい青年たちが,
全部女達, すべて朝鮮女達です. そこ全部来てあります. そう私たちも行くからそう良い仮者してそうだって車にオルラッスムダ. 車にオルルだから阻むでんと着せます.
しばらくどこに行くか行くから下って汽車乗りこみなさいします.

 女達を密陽だけではなく多くの所でモダで(集めて) 来たようです. 汽車乗るから風(天幕)みたいなこと着せます. 軍隊たちその風あるんじゃないですか? どの逆転なのかいいね. 自動車他高からは分からないです. 自動車に乗った時その自動車後に女達がたくさんタッスムダ. そうだって自動車から降りてボニカイェがトックします. 青年たちが. そうだって車に乗りこみなさいします. 補材期同じこと覆います. 軍人満ちてからいいね. ジムチァみたいなこと. 乗りなさいとそんな人は男です. 日本人です. 朝鮮末もして日本語もします. そのように私たちを連れて行く男たちが何人もなるかは考えいや出ます. 私たち弾後にその次には男たちがハナンジふたつなのか…… 夜になったらよくモルゲッスムダ. そう乗ってガッドレッスムダ. どうも行って…… 汽車駅へ行って汽車乗って…… あの時からはなんか行ったの. ところで (中国に) オニカイェ軍隊こんな車また出迎えナワッスブデ?だ.
 故郷の家から出る時服は着たとおりナワッスムダ. 朝鮮チマチョゴリだ. ゴムのはき物新旧. 荷物でもいや包んで来ました. そのまま逃げるのに……
 ただ工場行くと言ったら行くんだよ…… その次に親の密かに出るからじっとナオルレだから何も包みもオブオッスムダ.
 あの時が多分秋頃なる長いです. そよそよと寒かったんだろう.
故郷では名前いやゴチョッスムダ. ここ来て直したの. ‘Araiアキコ’と. 名前も成都日本式で直しなさいと言って, 商店にも日本語なければ品物も売らないと言ってそんな時代だが, 家では…… 朝鮮でネウェハだから水も栗に汲んで.
昼に水いやギルオッスムダ. 女と. ~(中略)~

汽車に乗って行く時にもずっと紡績工場に行ったと思ったの。ただ十八つに一二十人乗って行くからすべて紡績工場であると思ったの、そうするには分からなかったです。どう分かりますか?~(後略)~

(※管理人注:上記は機械翻訳)

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