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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 宋神道(ソン・シンド) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1922年11月24日、忠清南道(チュンチョンナムド)生まれ。数え年12歳の時に父が死亡、1938年、16歳の時、母親が決めた結婚が嫌で嫁ぎ先から逃げ出し、以降、家にも帰れず、友達の家に泊まったり人の家の手伝いをしたりして過ごす。大田(テジョン)で、42、3歳の女性に「無理して嫁御に行く必要ない、戦地さ行けば国のために働くにもいいし、とにかく結婚なんかしなくてもよし、心配ない」と騙され、中国の武昌で慰安婦を強いられ、以降、戦地を転々とする。
戦後、日本人の元軍曹に「結婚して一緒に日本さ行こう」と誘われ日本へと向かうが、日本に到着すると捨てられる。以降、日本にて生活を送る。在日コリアン。

1993年4月5日、日本国に対し、「国会における公式謝罪」と「謝罪文の交付」を求めて東京地裁に提訴。2003年3月28日最高裁第二小法廷が上告棄却・上告受理棄却の決定を出し敗訴が確定した。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

無し。朝鮮人の女性(人間ブローカー)にそそのかされた後、新義州の紹介所(注)に集合し、高さんという朝鮮人の男に連れられて武昌の慰安所に行く。

(注)紹介所・・・簡単に言えば人身売買の仲介所。お金が必要な者が娘等を売ったり、人手の必要な者が人を買ったりする所。買い入れ先の選定にはある程度本人の意思が尊重されたようです。


【考察】

家に帰るに帰れずに他家の手伝い等をしていたところを、人間ブローカーに目を付けられて慰安婦として売られたという話です。証言によって、そのブローカーが男であったり女性であったりしますが、根本的なところでの証言の食い違いはないと言えるでしょう。

また、慰安所に行くことになった経緯について以下の通り記述されています。

「大田(テジョン)で、四十二、三ぐらいのばあさんが、無理して嫁御に行く必要ない、戦地さ行けば国のために働くにもいいし、とにかく結婚なんかしなくてもよし、心配ないと。なんだとかかんだとかうまいこと言ったから、その口車に乗ってそのババアにくっついて行ったわけだ。国のためって言われても分からないから。戦地と言っても分からないから。手任し足任せ。今考えたら、それが「慰安婦」になるってことだったんだよね。」(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」P.45)

果たして、同女が騙されたと言えるのか微妙なところです。「戦地」も分からないなら、仮に「兵隊を慰安する仕事」というような婉曲的な説明をされたところで理解できなかったでしょう。
恐らく、「それが「慰安婦」になるってことだったんだよね。」と述べているところを見ると、振り返って考えてみると慰安婦になることの説明はなされていたと言うことでしょう。


【信憑性】

全体として信憑性はあると思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.8 皇軍慰安所の女たち 川田文子 筑摩書房
 家に帰れば婚家に追いやられることは目に見えている。神道は忠清南道の生まれ育った村を出、近くの町大田へ行った。
 「嫁になど行かなくても、戦地に行って働けば金になり、一人で生きて行ける。戦地へ行って御国のために働かないか」と美しい身なりの初老の女性に誘われたのはそれから数か月後である。神道は大田で子守など他人の家の手伝いをしていた。寝るところを与えられ、日々食べさせてもらう他は何の報酬も得られなかった神道は、金になるという話に心惹かれた。戦地がどんな所か分からず、不安は残った。
 神道を誘った初老の女性は、確か母の知合いで、神道の村にも娘を集めるため来たことがあった。後にその女性が“人間ブローカー”であることを知るのだが、神道が戦地行きを決めて間もなく、警察に連れて行かれ、二日間も拘留されて身体検査まで受けた。その検査は身が縮みあがるほど恥ずかしかった。(P.101~102)

 初老の“人間ブローカー”は神道を平壌に連れて行った。平壌には大勢の若い娘が集められていた。神道は自分と同じ年頃の娘たちを見た時、こんなに大勢戦地に行くのだもの、なにも怖がることはないのだと少し気が楽になった。
 その建物は、その後の経験で分かったのだが、娘たちを売り買いするいわば市場となっていた。戦地から軍の要請を受けてやって来た慰安所経営者やその雇用者である帳場と、各村や町で娘を集めた“人間ブローカー”との間で取引きがなされたのだ。人間ブローカーは、そこまで娘たちを連れて来るのにかかった経費にて手数料を上乗せした額を慰安所経営者あるいは帳場から受け取り、娘たちを引き渡す。その時慰安所経営者や帳場が支払った額は、そのまま娘たち一人一人の借金になった。娘たちは、前借金を一銭も受け取らなくても否応なしに借金を負わされてしまうのだ。神道は黄海道出身のコウさんという男に買われた
 数日後、娘たちは平壌を発ち、北上して満州に入り、さらに天津へと連れて行かれた。
 戦地へ行って御国のために働けば金になると人間ブローカーから聞かされていたが、仕事の内容は知らされなかった。(P.104~105)

 コウさんに連れられて神道らが武昌に着いた時、中国人の姿はほとんど見られなかった。日本軍侵攻を知って、家も家具なども放置して逃げ出してしまったようだ。中国人の姿を見かけるようになったのは、一、二か月経ってからである。~(中略)~
 神道らは煉瓦造りの大きな建物に入れられた。裏手には山があったが、その建物の裏口を出たところに中国人の遺体が横たわっていた。殺されてまだ何日も経っていなかっただろうと思う。周囲には黒ずんだ血糊がべっとり付いていた。(P108)

(※2007.7.5 追加)
1998.11.22 山形市集会 ***** ****
そんな時、ある男が、「お国のために働いて、めしを食わせるところがあるからいかないか」と言ってくれた。
2005.6 イアンフとよばれた戦場の少女 川田文子 高文研
そんなある日、大田で四二、三歳くらいの女性「戦地に行って、御国のために働かないか」と声をかけられました。~(中略)~その女性は、母親と同じ北朝鮮の出身で、母親とは知り合いだと、宋さんの気持ちを和らげるようにいいました。(P.51)
「人間ブローカー」に連れられて、大田を発つ時、他にふたりの娘も一緒でした。宋さんらは平壌を経て新義州に連れて行かれました。「人間ブローカー」は、紹介所という看板のある建物で、宋さんらをコウさんという朝鮮人男性に引き渡しました。新義州は、中国との国境の町です。新義州からの引率者はコウさんに変わりました。女性の数は十数人、若い人ばかりです。宋さんは年下の方でした。~(中略)~そこは武昌という町でした。(P.52~54)
2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
そうこうするうちに、大田で四十二、三ぐらいのばあさんが、無理して嫁御に行く必要ない、戦地さ行けば国のために働くにもいいし、とにかく結婚なんかしなくてもよし、心配ないと。なんだとかかんだとかうまいこと言ったからその口車に乗ってそのババアにくっついて行ったわけだ。国のためって言われても分からないから。戦地と言っても分からないから。手任し足任せ。今考えたら、それが「慰安婦」になるってことだったんだよね。~(中略)~平壌から新義州に行ったら「紹介所」って看板が掛かってて、オレと同じくらいの女やら、もっと年取った女やらいっぱいいたんだ。そこから高さんていう男の人に連れられて、汽車に乗って天津という所に行ったの。それから大きな汽船に乗って漢口へ。漢口からまた船に乗って武昌へ。(P.45)
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