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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 李京生(イ・ギョンセン) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1917.6.29、咸鏡北道漁郎郡で生まれた。3歳で母を、6歳で父と祖母を亡くし、 8歳の時に地主の家に子守として入る。1929年の12歳の時、地主の家で寝ていた所、日本人の警官が来て無理やりトラックに乗せ拉致される。慶尚南道昌原の軍の秘密工場に連れて行かれ、以降、慰安婦を強いられる。
(「金学順さんの証言 『従軍慰安婦問題』を問う」より)


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

寝ていたところを日本人の警官に拉致されて、トラックで軍の秘密工場に連れて行かれる。
(「金学順さんの証言 『従軍慰安婦問題』を問う」より)


【考察】

一般的に、慰安所は1932年の上海事変を期に設置されたとされていますが、同女は1929年に慰安婦にされたと証言しています。しかし、以下の通り、同女の証言の信憑性の無さは明らかです。

まず、「金学順さんの証言 『従軍慰安婦問題』を問う」(以下(「金学」)と1998.8.7朝鮮新報(以下「朝鮮」)とでは、連行された時の状況が全く異なっています。
(※「金学」の内容は、北朝鮮の「『従軍慰安婦』及び太平洋戦争被害者補償対策委員会」が1992.9に発表した告訴状を掲載したもの)

<連行された時の状況>
地主の家で子守として勤めていた頃
○「金学」・・・寝ていた時に日本の警官が突然入ってきて無理やり連れていかれる
○「朝鮮」・・・地主と村の区長が部屋に来て、日本の工場に連れていくからと引っ張っていく
有無を言わさず無理やり拉致されたのが、工場で働くと言われて連れて行かれたことになっています。
現実的な内容に修正されたと見るべきでしょうか。なお、他の資料を見てみると、区長に「良い所へ連れて行ってあげよう」等と言われたものが多いようです。

また、「金学」では、同女は寝ていたにも係わらず、

「ある夜、サーベルと銃を付けた日本の警官が、区長の案内を受けて、突然、地主の家に来た」
  ・・・寝ていたのに、どうして警官が区長の案内を受けたことを知っているのでしょうか?

「彼らは地主に目配せをしてうなずいた。そして寝ていた私の部屋に踏み込み」
  ・・・しかも、同女の部屋に踏み込む合図に目配せをしたことも知っています。

被害者目線ではなく、まるで小説の作者目線です。いい加減な証言もあったものです。


さらに、同女が妊娠した時には、「将校は『天皇に忠誠を尽くさない朝鮮人の子どもは必要ない』と言って、私のお腹を割いて胎児を殺してしまった」と証言しています。よく出血多量で死亡しなかったものです。


------------------ 以下、2007.7.14 追加 ---------------

なお、上記と一部重複しますが、下記資料の「金学順さんの証言 『従軍慰安婦問題』を問う」(以下、「金学」)、「写真記録 破られた沈黙」(以下、「写真」)、「平壌からの告発」(以下「平壌」)を比較すると以下の通り相違点があります。

<連行された場所等>
○「金学」・・・自分の部屋で寝ていた時、部屋に踏み込んできて無理やり連行
○「写真」・・・区長の家で連行
○「平壌」・・・庭が騒がしいので自分の部屋からのぞいて見たら、区長達がいて連行

<区長と共にいた人>
○「金学」・・・サーベルと銃を付けた日本の警官
○「写真」・・・長い刀を腰に差した3人の男
○「平壌」・・・日本刀を下げた三人の憲兵
 → 警官であったり、ただの男であったり、憲兵であったり。刀を持っていたことは一致しています。

<一緒に連行された人>
○「金学」・・・十代の四人の少女たち(トラックの中で一緒にいるのに気づく)
○「写真」・・・キム・グァンソン、パク・スボン、尹春鮮の3人の友達(区長の家に呼ばれてきていた)
○「平壌」・・・四人の女性(トラックの中で一緒にいるのに気づく)
 → 「写真」だけ何故か、友達と共に連行されたことになっています。

<堕胎手術をした人>
○「金学」・・・記載なし
○「写真」・・・将校が「天皇に忠誠を尽くさない朝鮮人の子どもは必要ない」と言って、腹を割いて胎児を殺した
○「平壌」・・・将校が「天皇に忠誠を尽くさない朝鮮人の子どもはいらないが、お前はまだ使い物になる」と言い、子宮ごと胎児を取り出す手術を受けさせられる。取り出された胎児は日本刀で切り刻まれ、バラバラにされて川に捨てられた
 → 「写真」では将校が腹を割いたことになっていますが、「平壌」ではちゃんと手術を受けたとこになっています。
また、「写真」では、将校が腹を割いたと読むのが自然な文章ですが、実は「腹を割いた」の主語は軍医なのでしょうか。

連行時の状況は、「区長が段取りした」という点では一致していても、その他の内容はバラバラです。寝込みを襲われたり、区長の家に呼ばれて行った後だったりしています。



なお、北朝鮮の証言者、お約束の日本兵の残虐行為は以下の通りです。(「朝鮮人『慰安婦』」より)

○彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた

○将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した

○日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした

------------------ 以上、2007.7.14 追加 ---------------


【信憑性】

信憑性はありません。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992.10 朝鮮人「慰安婦」 在日本朝鮮民主女性同盟中央常任委員会 ****
 私は3歳で母を亡くし、6歳のときには父を亡くし、育ててくれた祖母とも死に別れた。孤児となった私は、地主の家の子守や下女として一人で生きてきた。

 12歳になったある日、区長が呼んでいるというので行ってみたら、既にキム・グワンソン、パク・スボク、ユン・チュンソンの3人がきていた。みんな私と年齢が前後する女の子たちであった。区長は、私に「お前は哀れな星の下に生まれて苦労している。きょうからお前の人生を変えてやろう。良い所へ連れていってあげるがどうだ」と言った。

 私はそれまでのみじめな境遇が辛かったので、今より良い暮らしがあるのなら「行きましょう」と答えた。区長は、「私が呼び出したら朝でも夜でもすぐくるんだよ」と言った。幼い私は、「はい、すぐきます」と答えた。

 夜になって区長の家から使いがきたので、私は急いでいった。区長は立派な日本人が迎えにきたといった。見ると長い刀を腰にさした男が3人きていた。私たちは怖くなって「アッー」と声をだしてしまった。それを見た区長は、「お前たちを良い所へ連れていってくれるのに怖がるな」といった。そしてその男たちに私たちを引き渡すと、村の外まで見送ってくれながら、「きょうからお前たちの運命が変わるのだ。いい所にいけよ」と励ますようにいって家に帰ってしまった。どうしていいのかわからないままに、私たちはその男たちの後についていった。

 男たちの後についていくとやがて駅前に出た。そこで汽車の貨車に乗せられた。良い所に連れていってくれるとは言われてみても、そこは子供だから、次第に心細くなり、4人してめそめそしたりしていた。

 明け方近くなって降りろというので降りたら、駅前に車が迎えにきていた。車には2人の日本人が乗っていた。私たちは、見知らぬ3人の日本人についてくるだけでも怖かったのに、また2人ふえたのでもっと怖くなった。しり込みする私たちをみて、男たちはまるで豚のしっぽをとって車に乗せるように、私たちを5人がかりでほうり上げて乗せた。

 どれくらい行ったのか記憶に残っていないが、まわりが明るくなったころ、やがて山の中に到着した。彼らは「降りろ」といったが、私たちはおじけづいてじっとしていたら、ひきずり降ろされた。そして、「ここが良い所だから入れ」と言って家の中に連れ込まれた。そこが慶尚道・昌原にあった軍の秘密工場であることは、ずっと後で知った。

 指定された部屋の中でしばらくじっとしていると、日本の着物を一抱え持った看護婦が入ってきて、「朝鮮服を脱いでこれに着替えなさい」と命令した。もじもじしているとむりやり脱がされて裸にされ、浴衣を着せられて胸に「ミイコ」という名札を付けられた。そして、「お前はきょうから朝鮮人ではなく日本人だ。日本帝国の天皇陛下のために働かなければならない。お前の名前はミイコだ、朝鮮語を使ってはならない」といった。それからは約半月の間、雑穀の入った食事を三度与えられるだけで、仕事はさせなかった。苦労ばかりしてきた私は、区長が言っていたように良い所へきたのかな、と単純に思ったりした。

 やがて半月が過ぎると今度は将校がやってきて「足を洗え」「つめを切れ」などと命令するだけで、仕事らしいことは何もなかった。ただ、「風呂に入れ」とか「身体検査」と言われれば体重計に乗ったりして、言われるままに行動していた。そんなことでまた半月が過ぎた。

 ある日の朝、前庭に集まれというので行ってみたら、少女たちが20名くらいいた。その少女たちと一緒に私たちも一列に並ばされた。私たちの前に将校たちがやってきた。その中で星が4つ着いた将校が、一列に並んだ少女たちをなめるように見回していたが、一番背が低いので端っこにいた私を、自分のそばに引っ張りだした。次に少しくらいの低い将校が、同じようにして他の少女を選んだ。

 こうして順番に将校が気に入った少女を選びだし、自分の部屋に連れていった。私はその時、8号室に入れられた。私と一緒にきたユン・チュンソンは隣の9号室であった。やがて昼食がすむと、工場から800メートルほど離れたところにある場所に連れていかれた。そこでも8号室に入れられた。そこは将校が入る部屋だと後で聞いた。

 夜になって男が部屋に入ってきたが、それは朝、私を選んだ将校であった。その将校の名前は「トウギョウ」といった。彼は、12歳の私を暴行した。あまりにも幼い体なので膣が引き裂かれてしまった。翌朝の8時か9時ころ、医者と看護婦がやってきて治療してくれた。そんな状態にもかかわらず、その将校は毎夜のように襲ってきた。

 それは、私だけではなく他の部屋でも同じであった。9号室のユン・チュンソンは恐怖と嫌悪感から拒否して叫んだので、口をふさいで窒息死させられてしまった。

 こうした行為を強いられて1か月もしたころ、トウギョウという将校は「もうお前に飽きた。好きにしろ」と言ってこなくなった。それからは毎日のように7、8人くらいの兵士がやってきた。こうして、この秘密工場での私の「慰安婦」生活が始まった。

 これは、慶尚北道安東出身のオクランという18歳の女性のことである。彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた

 忠清北道のキム・サムニョという20歳前後の女性は美しい人であった。彼女のところには数十人の兵士たちが列をなしていた。この屈辱的な暴行に耐えられなくなった彼女は、死を覚悟して抵抗した。日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした。こうして、3人もの女性が殺されるのを見せられた私たちは、恐怖のために抵抗も逃げ出すこともできなかった。

 16歳になった私は、知らぬ間に妊娠していた。それを知った将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した。その時に受けた傷が今でも残っている。

 それから間もなくであったと思う。そこで賄い婦をしている朝鮮人のシン・ファジャというおばさんが私たちのところに忍んできて、「お前たちはみんな可愛い顔しているね。こんな可愛い子たちがここで朽ち果てるのはかわいそうだ」「ここは秘密工場だから、ここにきた女性たちは生きてでられないよ」といって「何とかして逃げなさい」と教えてくれた。それから一緒にきた私たち3人は逃げ出す方法を計画した。

 当時の兵士たちは将校と違って思い通りに酒を飲めなかった。お酒を飲みたがっている彼らの弱みを知っている私たちは、酒を与えて酔いつぶす計画をたてた。私たちは、将校が飲み残した酒やつまみをこっそりとっておいて集めて3本分の酒を用意した。

 土・日曜日は将校たちが家族のもとに帰っていく。その日をねらって門番の兵士に酒を与えた。酒につられた彼らは、私たちの計画にはまり、私たちはやっとの思いで逃げ出すことができた。私たちは3人がバラバラになって逃げた。それっきり私は同郷の友人たちの消息を知らない。

 私は電線のない深い山奥をめざして逃げた。そこでひっそりと住んでいる老人夫婦の家をみつけて、かくまってもらい、老人夫婦の好意でそこに住みついた。

 18歳の時に、山村の人々の世話で、身寄りのない若者と所帯をもった。結婚式も何もない貧しい者が寄り添った暮らしには、家財道具も何もなかった。周辺の人々が持ち寄ってくれた必要最低限の道具で2人の生活は始まった。しかし、私は常に追手の影におびえていた。私は夫に哀願を繰り返し、中国に逃げようとせっついた。そして中国の瀋陽に渡っていったのである。

 解放は中国で迎えた。祖国の解放を知った私は、今度は故郷に帰りたくて、また「朝鮮に渡ろう」と夫に哀願した。夫は「お前は、前には中国にいこうとせっつき、今度は朝鮮に帰ろうと騒ぐ。いったいなぜなんだ」と聞いたが、私は過去のことは一切いわなかった。

 1960年代に祖国に帰国した。祖国では協同農場の一員として夫婦で働いてきた。私たちの農場は稲作を主としてやっている。私は農民として働ける暮らしがうれしくて、本当に良く働いた。

 ことしの3月27日にただ一人の身内である夫を亡くし、一人ぽっちになってしまった。夫にも過去を隠して暮らしてきた自分の半生がなんであったかを考えると、涙にくれるばかりであった。むなしかった。

 今までにも、「慰安婦」時代を思い出して夜中に飛び起きて胸の締めつけられる思いを何度したことか。黙ってしまってきた過去を告発して楽になりたい、と思った。何日も考えた末に、みずから平壌中央テレビを訪ねていき、「私が元慰安婦です」と最初に名乗りをあげた。


(リ・ギョンセン 1917年6月29日生 咸鏡北道魚郎郡出身)

(※2007.5.2追加)
1993.2 金学順さんの証言 「従軍慰安婦問題」を問う 解放出版社 編 解放出版社
それは一九二九年に「従軍慰安婦」として連行された李京生さんの証言を通じても明らかにされている。彼女は「日本軍は朝鮮女性を『慰安婦』として連行することが、いかにも中日戦争以降からのように弁明しているが、私が経験した凄惨な運命に照らしてみれば、それは一九二〇年代からだったことを満天下に告発する」としながら、「私の故郷は咸鏡北道漁郎郡です。私は一二歳のときのある夜、サーベルと銃を付けた日本の警官が、区長の案内を受けて、突然、地主の家に来た。彼らは地主に目配せをしてうなずいた。そして寝ていた私の部屋に踏み込み、私の首をつかんで、むりやりトラックに乗せ、貨物のように運んだ。私は突然の出来事で声を上げることも泣くこともできなかった。砂ぼこりをかき上げながら村を抜け出したトラックの荷台でゆられていた私は、自分の目の前に何かがいることに気付いた。それは荷物ではなく、私と同じ年頃の娘たちだった。彼女たちもやはり強制的に拉致された十代の少女たちだった」と証言した。
彼女は続いて「私を含め、四人の少女たちが外も見れない有蓋車(ふたのある貨車)に乗り、慶尚南道昌原に着いた時は夜明けだった。そこには二〇余名の朝鮮人少女たちが、すでに拉致されていた。私は八人の同年代の娘たちと共に、荷車に乗せられ、鉄条網が高く張りめぐらされた秘密工場に連れていかれた。工場は火薬のにおいに溢れていた。秘密の火薬工場のようだった。そしてここで、十代の少女たちが、『従軍慰安婦』として日本軍たちの性のオモチャになった」と証言した。(P.140~141)
尹という姓を持った少女が、列をなして群がってくる日本軍に辱めを受けた後、けがまで負わされ、後は窒息して死んでしまった(P.148)

(管理人注:上記内容は「朝鮮民主主義人民共和国「『従軍慰安婦』及び太平洋戦争被害者補償対策委員会」が作成した日本政府宛の告訴状(1992.9)を掲載したもの)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 12歳のある日、区長に呼ばれて行くとキム・グァンソン、パク・スホン、尹春鮮の3人の友達も来ていました。区長「お前たちは苦労しているので良い所へ連れて行ってあげよう」と言うので同意しました。
 夜になって区長の家に行くと、長い刀を腰に差した3人の男がいたのです。私たちは怖くなってしまいましたが、どうしていいのかわからないままに連れられて行きました。
 汽車に乗せられてからは、心細くなって泣きべそをかいていました。明け方近くに降ろされると、2人の日本人が自動車で迎えに来ていました。まわりが明るくなった頃に山の中に着き、そこの工場の中の部屋に入れられたのです。後で知ったのですが、ここは慶尚南道昌原にあった秘密の軍需工場でした。
 部屋の中でじっとしていると、日本の浴衣を持った看護婦が入って来て、「朝鮮服を着替えなさい」と命令しました。ためらっていると無理やり脱がされて浴衣を着せられられ、「ミイ子」という名札を胸に付けられたのです。そして「お前らはこれからは朝鮮人ではなく日本人だから朝鮮語を使うな。大日本帝国の天皇陛下のために貢献しろ」と言われたのです。(P.20)

 慶尚北道安東から来た18歳の女性は、兵隊に激しく反抗しました。そのため、裸にされて大きな木に一日中逆に吊るされたのです。それでも「1日20~30人もに強姦されるくらいなら死んだほうがましだ」と言ったので、私たちの前で殺されたのです。死体は、刀で腕・足とばらばらに切られました。兵隊はそれを叺につめて「魚の餌にしてしまえ」と川に放り込んだのです。
 16歳の時に私は妊娠してしまいました。将校は「天皇に忠誠を尽くさない朝鮮人の子どもは必要ない」と言って、私のお腹を割いて胎児を殺してしまったのです。(P.23~24)

(※2007.4.22追加)
1998.8.7 朝鮮新報「」強制連行、「従軍慰安婦」問題東京シンポ、大阪報告会から」 ***** ****
「目前で4人が殺された/李京生さん(81)」
 
咸鏡北道漁郎郡で生まれた。3歳で母を、六歳で父と祖母を亡くし、8歳の時に地主の家に子守として入った。
 1929年12歳の時、地主の家に3人の日本人が来て一緒に酒を飲んでいた。その夜、地主と村の区長が部屋に来て日本人が工場に連れていくからと、私を外に引っ張っていった。
 外に出ると車が止まっていて、中には私のほかに4人の娘が乗っていた。皆私と同じ年位だった。
 到着した慶尚南道昌原という所の人里離れた場所には鉄条網があり、10メートル間隔で日本の軍隊の歩哨が立っていた。
 工場で働くと言っていたのに、最初は東郷という将校の足を洗ったり、爪を切ったりさせられた。
 何ヵ月かして、広い空地に集められ、一列に並ばされた私たちの中から将校が気に入った娘を選んでいった。その日、私を選んだ将校に暴行された。
 その後、「慰安婦」として1日、20人の軍人の相手をさせられ、休みの日はさらに多くの軍人が列を成した。拒否したり声を上げると殴る、蹴るの暴行を受けた。私のいた慰安所で4人の娘が殺されるのを目撃した。死体は近くの川に捨てられた。
 日本は自分たちのやったことを認めるべきだ。あれだけ多くの朝鮮人女性を殺してなぜ、平気でいられるのか理解できない。補償は心からやるべきだ。
2001.7 平壌からの告発 伊藤孝司 風媒社
李京生さんは、一九一七年六月ニ九日に咸鏡北道漁郎郡の貧しい小作農家で生まれた。一人っ子だった。三歳の時、両親は伝染病で次々と亡くなってしまう。彼女を引き取ったお祖母さんも三年後に亡くなる。それからは乞食をするしかなかった。家々を回って食べ物をもらい、倉庫や積み上げられたワラの中に潜り込んで寝泊まりをした。このような生活を二年間ほどした時、それを見かねたお年寄りが、鄭という名の地主の家で働くように世話をしてくれた。
 与えられるのは冷えたご飯、寝るのは倉庫のような場所。仕事は子守・掃除に水汲みだった。大きな水瓶を頭に乗せて運ぶのが大変で、落として瓶を割ると二日も食事が与えられなかった。
 このつらい生活を四年間した一九二九年一二月頃のある日。自分の部屋にいた李さんは、庭が騒々しいのでのぞいて見た。日本刀を下げた三人の憲兵を区長が連れて来ていた。そして、自分の部屋を指さしているのだ。「苦労しているので工場で働かせてやる」と区長に言われ、門の所に停まっていたトラックに無理やり乗せられた。夜だったのでトラックの中は暗かった。「荷物が積んである」と思ったが、それは縛られた四人の女性だった。
 連れて行かれたのは、慶尚南道昌原の山中に造られた工場。後になって、火薬や手榴弾を作る軍需工場とわかった。女性たちは工場の敷地内の建物に入れられる。同じ形をした木造平屋の建物五棟が並び、その中は小さな部屋に仕切られていた。すでにたくさんの女性が入って、李さんよりみんな年上だった。慶尚道の女性もいた。李さんが入れられた部屋は「八号室」。日本人の看護婦に、着ている者をすべて脱ぐように言われ、浴衣を着せられた。そして、朝鮮語を使わないようにと命じられた。
 翌朝、小麦と豆を混ぜたにぎり飯一つとタクワンが与えられた。食べずにいると、陸軍の軍服を着た日本人将校が部屋に入って来て、「天皇のために身を捧げるのなら良い待遇をしてやるが、言うことを聞かないと殺す」と言った。その日から、工場で仕事をするのではなく、将校の手足を洗ったり爪を切ったりといった身の回りの世話をさせられた。
 二十日ほどした時、工場の広場に女性たちは一列に整列させられる。将校たちは、その中から女性を選ぶと列から引っ張り出した。その日の夜、自分を選んだ「トウゴウ」という名の将校に李さんは強姦された。李さんはまだ一二歳で、しかも体は小柄だった。膣は引き裂かれ、部屋の中は血だらけになる。翌朝、軍医と看護婦が治療をしてくれたが、将校は毎晩のように襲ってきた。
 何週間かすると、将校に代わって兵隊たちが来るようになった。一晩に一〇人~二〇人。日曜日にはさらに多くの兵隊が来たので、気絶することもあった。コンドームを使うことになっていたが、使わない兵隊もいた。軍医による性病の検診が週一回あり、「六〇六号」という性病治療の注射を受けた。
 この「軍慰安所」には二〇数人の女性がいた。慶尚北道安東から連行されて来た一八歳の女性は、あまりにも多くの兵隊の相手をさせられるので噛みついたりして強く反抗した。すると裸にされ、絞めたニワトリのように足を縛られて電柱に逆さ吊りにされた。一日たつと彼女は死にかかっていたが、「言いなりになるくらいなら死んだほうがましだ」と言った。それを聞いた兵隊たちは彼女をなぶり殺しにし、首・腕・足・胴とバラバラに切断したのである。
 一部始終を見せられていた李さんたちは泣き叫んだ。気絶すると兵隊たちに無理やり起こされ、「はっきり見ろ!言うことを聞かないとこうなるぞ」と言われた。女性の死体は叺(ワラで編んだ大きな袋)に詰められ、工場近くを流れる大きくて深い川に投げ捨てられた抵抗したために殺された女性は他にも何人かいた
 一九三三年の一月に生理が始まる。一五歳だった。三月になって妊娠しているのに気づいた。将校は軍医に妊娠を確認させると、「天皇に忠誠を尽くさない朝鮮人の子どもはいらないが、お前はまだ使い物になる」と言った。そして妊娠三ヵ月の時、子宮ごと胎児を取り出す手術を工場内の病院で受けさせられたのである。手術の際、軍医の他に一人の看護婦がいたことと、背中に注射を打たれて全身麻酔をかけられたのを覚えている。取り出された胎児は日本刀で切り刻まれ、バラバラにされた女性が投げ込まれたのと同じ川に捨てられた。軍医は手術の傷口を治療してくれたが、「それは少しでも早く兵隊の相手を再びさせるためでした」と李さんは言う。五月中旬から元の生活に戻った。
 李さんは、同じ故郷から来た四人の女性と、ここから逃げ出す計画を立てた。将校は、李さんたちの部屋で飲み食いすると残った酒を置いて行った。それを少しずつ瓶に貯め、便所近くの土の中に隠した。そうして作った三本の酒を歩哨たちに与えることにしたのだ。
 将校は土曜日・日曜日には家族の元に帰るので、その時を狙って計画を実行。八月か九月だった。最初は怒鳴られて追い返された。三回目に声をかけた時、「酒を持って来い」と歩哨たちが言った。将校と違って、兵隊は思うように酒が飲めなかったので成功した。鉄条網の下へと向かった。運良く老夫婦にかくまわれたが、一九四五年八月一五日まで、常に追手におびえながらの暮らしだった。(P.36~40)

(※2007.7.14追加)


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