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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 朴永心(パク・ヨンシム) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1921.12.15平安南道(ピョンヤンナムド)南浦(ナムポ)市で生まれる。14歳の時、洋品店に奉公に出される。1939.8月17歳の時、「お金を稼げるいい仕事がある」という日本人の巡査に騙されて南京市内の慰安所に入れられる。1942年慰安所の主人と共にビルマ(※現ミャンマー)のラシオの慰安所に移り、しばらくして、さらに松山(※拉孟・中国雲南省)の慰安所に移る。松山にて中国兵の捕虜となる。

2000.12月、女性国際戦犯法廷で証言を行う。
2006.8月死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

同女を騙した日本人巡査に平壌駅で憲兵に引渡され、以降、その憲兵に南京の慰安所まで引率される。その憲兵には「逃げようとしたら殺すぞ」と脅される。


【考察】

同女が、自分であると証言している写真があるのですが、それは、1944年9月3日、松山(※拉孟・中国雲南省)にてアメリカ写真部隊が撮影したもので、「中国弟8軍の兵士によって捕虜にされた4人の日本人女性」と記されているものです。(※恐らく、日本人と朝鮮人の区別がつかなかったのでしょう)

「雲南・ビルマ最前線における慰安婦達-死者は語る」(浅野豊美)のレポートには「ラウンドアップ」と言う米兵向け新聞の当該写真の4人に対するインタビューが掲載されています。そのインタビューによると

 ○慰安婦達の年齢は、24歳から27歳
   → 1944年9月なら同女は満22歳で、数え年なら24歳。おそらく数え年を申告したのでしょう。
   (※他ページで「22歳のはずだからおかしい」と指摘している所があったので敢えて記載)

 ○1942年に、シンガポールにて基地の世話や病院の手伝いをすると日本の官憲に騙された
   → 同女が朝鮮で騙されたのは1939年

 ○4人は「朝鮮(1942年6月発) → シンガポール・ラングーン経由 → 松山の慰安所」
   → 同女の証言は、以下の通りでかなり食い違っており、ビルマへと向かった時期だけは一致しています

    「朝鮮(1939年発) → 南京の慰安所(1938年着・1942年初夏発)→ 
    上海の港 → シンガポール・ラングーン経由 → ビルマのラシオの慰安所(1942年着)
    → 松山の慰安所」

インタビューでは4人は朝鮮から共に行動してきたことになっていますが、インタビュー時の状況も分からないので、この記事の内容をそのまま同女の証言と捉えることはできません。当時、身重のまま戦地を逃げ延びてきた同女が疲弊しきっていて、インタビューに参加しなかった可能性も十分あります。

また、南京では、同女がいた慰安所の建物も見つかっており、南京にいたというのも信憑性があります。(ただし、同建物の写真が掲載されている写真を見ましたが、どのくらい証言と一致しているのかは不明)


しかし、騙したのが「日本人巡査」で、南京の慰安所に連れていったのが「憲兵」というのは疑わしいと思っています。「慰安婦になった経緯」については、他の多くの元・従軍慰安婦も脚色や捏造を行っている所です。

同女の証言の最大の疑問点は以下の記述です。

「玄関を入ると正面に階段があり、薄暗い階段を上って二階に連れて行かれました。~(中略)~「キンスイ楼」の女たちを取り仕切っていたのは朝鮮人の夫婦でした。~(中略)~主人は私に日本の着物に着替えるように言いました。私は「なんでこんなものを着なければいけないのか」と抵抗したのですが、主人は大きな声でどなりながら無理やり私が来ている服をはぎ取ったのです。そして、「今日からおまえの名前は『歌丸』だ」と言いました」(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」P.23~25)

同女は、慰安所についてすぐに、初対面の慰安所の主人から「歌丸」という名前を付けられています。「歌丸」は他の慰安婦達のように、思いつきで適当に付けられた名前と違って、名前の中に「歌」という要素があって、歌が上手いから付けられたと考えるのが自然な名前です。そんな名前が、初見でろくに話してもいない同女にいきなり付けられるとは思えません。
しかも、同女は以下のような記載がある通り、実際に歌がうまいのです。

「私は、気晴らしによく朝鮮の歌を歌いました。そのうち日本兵のあいだで歌がうまいと評判になり、日本兵の前で歌わされることもありました。」(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」P.32)

「歌丸」は、同女が歌がうまかったから付けられた名前でしょう。慰安所の主人はこの名前を付ける前に「同女は歌がうまい」ということを知っていたはずです。
しかし、証言にはそんなことは書かれていません。つまり、「歌丸」という名前がつけられる前に、慰安所の主人がいつ、どうやって「同女は歌がうまい」ということを知ったのかという情報が抜け落ちていて、その代わりに「巡査に騙されて憲兵に連れて来られた」という情報があるわけです。

確たる証拠がありませんので推測の域を出ませんが、「巡査に騙されて憲兵に連れて来られた」というのは全くの嘘でしょう。本当は、「キーセンとして歌を披露していたところを慰安所経営者にスカウトされて、または騙されて慰安婦になった」というところではないでしょうか。少なくとも慰安所で始めてその主人と会ったと言うのは考えにくい話です。

-------------以下 2007.4.3追加-----------------------------------------------

また、同女が自ら証言する時は必ず、連行されたのは「1938年3月」だと証言しています。下記資料の米陸軍の調査報告には「1939年8月」とあり、また、「南京に連行される時『暑くて汗びっしょりになった』」(戦場の『慰安婦』-拉孟全滅戦を生き延びた朴永心の軌跡(P.20))とも話しており、真夏であったことは間違いなさそうですが、何故「3月」にこだわるのか疑問です。南京に行くことになったのは「8月」で、そもそも慰安婦となったきっかけとなる出来事が「3月」に起こったのではないでしょうか?
「歌丸」「3月」に慰安所に入れられることになった本当の経緯が隠されていそうです。

なお、2005.5.19の朝鮮新報(以下「朝鮮」)と「戦場の『慰安婦』-拉孟全滅戦を生き延びた朴永心の軌跡」(以下「戦場」)では下記の通り証言内容に相違点があります。

<連行時の同女の同意の有無>
○「朝鮮」・・・「両親に聞かないといけない」と抵抗したが、無理やり車に乗せられた
○「戦場」・・・「お金が稼げる仕事がある」という言葉を信じた
無理やり連れて行かれたのが、無理やりではなくなっています。また、「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」では「お金を稼げるなら親孝行ができると思ってついて行くことにしたのです」(P.21)と、むしろ、同意したことになっています。

<南京の慰安所の様子>
○「朝鮮」・・・3階建てのレンガ造りの建物で、各部屋の大きさは2×2.5メートルくらい。
○「戦場」・・・2階建ての大きなレンガ造りの建物で各部屋は6畳ほど。
3階建てが2階建てになり、5㎡が6畳(約10㎡)と2倍の広さになっています。「戦場」には南京で見つかったとされる慰安所の写真が掲載されており、その建物に合わせて証言内容を変更したのでしょう。見つかったとされる建物が本当に同女がいた慰安所の建物か疑わしいものです。

<女性を殺し鍋で煮たスープ>
○「朝鮮」・・・日本人に肉入りのスープをもらい食べたら、要求に応じなかった朝鮮人の女性の肉で作ったスープだと笑いながら言われる
○「戦場」・・・そのような記述無し
あからさまなウソでしょう。

-------------以上 2007.4.3追加----------------------------------------------


蛇足ですが、上で述べた「ラウンドアップ」にも以下の通り日本の官憲が陸軍夫人部隊を募集したとの内容が記載されています。

1942年の4月初め、日本の官憲が朝鮮の平壌近くの村に来た。彼らは、ポスターを貼ったり大会を開くなどして、シンガポールの後方基地勤務で基地内の世話をしたり病院の手伝いをする挺身隊(原文では、“WAC” organizations(※陸軍夫人部隊(管理人注)))の募集を始めた。

応募の際に貰った1,500円(米ドルで12ドル:原文)で、治療代を工面した

私は、先に大金を受け取っていることから、業者が「今、官憲で応募しているアレだ」と騙したのではないかと思っています。(※挺身隊や従軍看護婦が応募の時点でお金を受け取ることなどなかっただろうと言う推測を元にしています。この事実関係については別途調査したいと思います)


【信憑性】

騙したのが「日本人巡査」で「憲兵」に引率されたというのは非常に疑わしいですが、否定できる確たる証拠はありません。
南京等で慰安婦をしていたのは本当でしょうが、時に人肉スープを食べさせられたと証言する等、所々、ウソが紛れている可能性大です。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1944 米陸軍の調査報告
※中国雲南省昆明での朝鮮人と日本人の捕虜の尋問データ
***** ****
平安南道出身、23歳、Pak Yong-sim(パク・ヨンシム)。1939年8月朝鮮を出る
1999 雲南・ビルマ最前線における慰安婦達-死者は語る
※財団法人 女性のためのアジア平和国民基金「慰安婦」関係資料委員会 編「『慰安婦』問題調査報告・1999」に掲載されたレポートの一つ
浅野豊美 ****
 この写真史料に映像として刻まれている松山の慰安婦については、2つの対応資料を米国と台湾で見つけることができた。最初に紹介したいのは、ワシントンのナショナルアーカイブに保存されている「ラウンドアップ」というビルマにいた米軍兵士の間で読まれていた新聞である。(P.63)

 インタビューをもとにまとめられたこの記事によると、慰安婦達の年齢は、24歳から27歳で、捕虜となるまでの経緯は下のようであった。
 1942年の4月初め、日本の官憲が朝鮮の平壌近くの村に来た。彼らは、ポスターを貼ったり大会を開くなどして、シンガポールの後方基地勤務で基地内の世話をしたり病院の手伝いをする挺身隊(原文では、“WAC(※陸軍夫人部隊(管理人注))” organizations)の募集を始めた。4人はどうしてもお金が必要だったのでそれに応じたという。ある女の子は、父親が農民で、ひざを怪我してしまったので、応募の際に貰った1,500円(米ドルで12ドル:原文)で、治療代を工面したという。そのような形で集められた18人の女の子の集団は、同年6月にいよいよ朝鮮から南へと出港することとなった。~(中略)~しかし、船が約束のシンガポールに立ち寄っただけで、そのまま通過してしまってからは心配な気持ちが広がり始めた。ビルマのラングーンから北へと向かう列車に積み込まれたときには、もはや逃れられないと運命を悟ったという。~(中略)~一団が、怒江最前線にある松山陣地に到着すると、4人はある1人の年上の日本人女性によって監督されることとなった。(P.64~65)
2000.12.8 朝鮮日報「戦犯国際法廷で南北が日本側の責任を訴え」 ***** ****
17歳の時、連れて行かれた中国の南京、上海、雲南省などを転々とし、‘若春’という日本名で慰安生活を送った。性的奴隷になりたくなくて反抗したが、日本の軍人が振り回した短刀で首にけがを負った。今もその傷跡が残っている
2002.5 女性国際戦犯法廷の全記録・第5巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録 VAWW-NET Japan 緑風出版
一七歳のときでした。一九三八年三月だったと思います。ある日、日本の巡査が軍服に帯剣のいでたちで洋服店に現れました。彼はいい金儲けの口があるが行かないかというので、そのままついて行きました。そうして私は日本軍の性奴隷になったのです。~(中略)~最初に連れられて行ったのが南京でしたが、そこの「キンスイ」楼に入れられました。私はそこで歌丸という日本名で呼ばれました。そこで三年ほど性奴隷の生活を強要されたと思います。
たしか一九四二年頃だったと思います。ある朝、表へ呼ばれました。出てみると七名の別の女性たちもいました。皆朝鮮女性たちでした。一緒に行こうと言うのでした二名の日本人兵士がいました。その二名が私たちを監視しながら慰安所を後にしました。別の慰安所に行くというのです。
2003.12 戦場の『慰安婦』-拉孟全滅戦を生き延びた朴永心の軌跡 西野瑠美子 明石書店
 17歳のある日のことだった。店に赤い帽子を被り黒い制服を着た、見るからに恐ろしい形相の日本人の巡査が現れた。「お金が稼げる仕事があるが、お前もいかないか」巡査の日本語は片言しか分からなかったが、稼ぎのいい仕事があるという誘いは、永心の心を動かした。腰に付けたサーベルは怖かったが、巡査が怖かったからついていったのではない。「お金が稼げる仕事がある」という言葉を信じたのだという。一九三九年八月のことだった。永心は同じ村の二十二歳の娘らと一緒に平壌駅に連れていかれたが、そこにはすでに十数名の娘たちが集められていた。巡査は娘たちを憲兵に引渡すと、そそくさと姿を消した。(P.19~20)

 慰安所の一階には、慰安所を管理する日本語の上手い朝鮮人夫婦が住んでいた。(P.21)
2004.6.9 人民網「旧日本軍の『慰安所』取り壊さず保存か 南京市」 ***** ****
昨年10月、80歳を超える高齢の韓国人元慰安婦、朴永心さんが南京市を訪れ、利済巷の建物2棟を、「慰安所」が置かれた場所と確認した。
2005.5.19 朝鮮新報「<日本の過去を告発する>『慰安婦』として連行された朴永心さん(83)」 ***** ****
 早くに母を亡くし、継母と炭鉱で働く父のもとで育った私は14歳の時、南浦市の洋服店で食事係として働いていた。1938年3月のある日、日本人巡査が店に来て、「いい仕事があるから紹介してやる」と言った。私は、「両親に聞かないといけない」と抵抗したが、無理やり車と汽車に乗せ、どこかに連れて行かれた。移動している間、監視が厳しくてトイレにも行けなかった。その時になって初めて「いい仕事があるのではない。騙された」と思ったが、時はすでに遅かった。
 私が最初に連れて行かれたのは、中国・南京だった。南京には日本軍の兵営が多かったが、そのうちの一つから約500メートル離れたところに「慰安所」があった。「慰安所」は3階建てのレンガ造りの建物で、各部屋の大きさは2×2.5メートルくらい。部屋の中央にベッドが一つずつ置かれていた。
 自分にあてがわれた部屋に入った瞬間、私は鳥肌が立ったが、ここで何が起きるかはまだわからなかった。軍人が部屋に入ってきて初めて何をされるか悟った私は、絶対応じないと抵抗した。するとその軍人は、殴る蹴るなどの暴行を加えた後、軍刀を私の首にあてがい、「これでも応じないか」と脅した。~(中略)~ 
日本人は本当にケモノのような奴らだ。ある日、「飯もろくに食ってないから、今日は肉入りスープをご馳走してやる」と言いながら、私たちにスープをくれた。何も知らずに食べた私たちを見て、奴らはそのスープは朝鮮の女の肉で作ったスープだと言いながら笑った。自分たちの要求に応じなかった女性を殺し、鍋で煮たというのだ。

(※2007.4.3資料追加)
2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
 ある日、店に日本人の巡査がやって来ました。腰にサーベルをつけた怖い顔の男です。巡査は私に「お金が稼げるいい仕事があるから、おまえも行かないか」と誘いました。私は少しの日本語は分かりましたが、巡査が怖くてどんな仕事なのか詳しい話を聞くことができませんでした。でも、「お金が稼げる仕事だ」ということは理解でき、お金を稼げるなら親孝行ができると思ってついて行くことにしたのです17歳の年、私は、同じ村の二十二歳の娘と一緒に平壌駅に連れて行かれました。~(中略)~巡査は、私たちを憲兵に引き渡すとそそくさと姿を消してしまいました。私たちは屋根のついた貨車(有蓋貨車)に詰め込まれました。~(中略)~一緒に乗り込んできた憲兵は「逃げようとしたら殺すぞ」と私たちを脅し、娘たちが互いに話すことも禁じました。~(中略)~降ろされたのは日本軍の駐屯地の近くのレンガ造りの建物で「キンスイ楼」という、日本軍慰安所でした。(P.21~23)

 「キンスイ楼」の女たちを取り仕切っていたのは朝鮮人の夫婦でした。(P.24)

(※管理人注:同証言は「戦場の『慰安婦』-拉孟全滅戦を生き延びた朴永心の軌跡」等の資料を元に再編集したもの)
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