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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 沈美子(シム・ミジャ) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1924.2.4黄海道(ファンヘド)鳳山郡(ポンサングン)で生まれる。父は両班(ヤンバン)(注)出身のソンビ(儒学者)だった。12歳の時、鳳山小学校へ通い、16歳の時、先生に「日本の地図を作ってくれ」と依頼され、アサガオの花を並べた地図の刺繍を作る。その刺繍に対して警察官から「どうしてサクラでなくアサガオなのか」と難癖をつけられ警察署に連行される。その後、父が独立運動家だと言われ拷問を受け、気を失い、気がついたら福岡の慰安所だった。以降、慰安婦を強いられ日本で終戦を迎える。

1991.12月に提訴された「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」に1992.4月に第2次原告の一人として参加する。同裁判は2004.11月、最高裁棄却により敗訴が確定した。

(注)両班・・・高麗・李朝時代に、官僚を出すことができた最も上の支配階級。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

警察署に連行された後、拷問を受けて気を失い、気がついたら福岡の慰安所に入れられていた。


【考察】

同女は警察に、電気を流されたり、爪に針を差し込まれたり、焼きゴテを押し付けられたり等の拷問を受けたと証言していますが、如何にもな拷問で胡散臭い内容です。

果たして、日本地図をアサガオにしたくらいで警察に連行されるものでしょうか。サクラは現在でも、日本の国花の1つとして親しまれていますが、別に法律で定められているわけでもありません。当時の状況が分からないので何とも言えないところですが、それくらいで警察に難癖をつけられたと言うのは非常に疑問です。ムクゲにしたと言うのなら、まだ理解できなくもないですが。


また、「裁判の訴状」(以下「裁判」)と「<証言>従軍慰安婦・女性勤労挺身隊」(以下「証言」)の内容を比べると下記の通り、相違点が見受けられます。

<警察官による強姦>
○「裁判」・・・同女を警察の宿直室に連行した警察官は、耳を強く噛んだりして抵抗する同女に怒り、殴ったり蹴ったりして強姦を遂げる
○「証言」・・・強姦されそうになった時、警察官の耳を思い切り噛んだら、驚いて宿直室を飛び出していく
→ 強姦された話が、されなかったことに変更されています。

<拷問をした警官>
○「裁判」・・・同女を連行し強姦した警官
○「証言」・・・同女を連行し強姦しようとした警官と別の警官

<慰安行為を開始する時期>
○「裁判」・・・福岡で気がついて、その翌日から
○「証言」・・・明記されていないが、少なくとも気がついてから3日間は慰安行為は開始していない
→ 朝鮮半島中部から福岡までの移動途中に全く意識が戻ることがないほどの拷問を受けたのに、意識が戻った翌日から慰安行為を開始するのはおかしな話です。3日間は休んでいたことに変更されています。
なお、「裁判」では「ある軍人が沈美子も連れ出そうとしたが、同室の女性の一人が、『私が代わってあげる。』と言って、その軍人の相手をしてくれた。しかし、沈美子も、それによって仕事の中身がわかり、同室の女性に迷惑をかけるのもわるいと思ったので、翌日から慰安婦の仕事をするようになった。」と記述されています。16歳だった同女は、やけにあっさりと慰安婦を受け入れています。

<拠点の移動>
○「裁判」・・・福岡約1年半→神戸約8ヶ月→大阪(終戦まで)
○「証言」・・・ずっと福岡。神戸、大阪、和歌山、流山へはあくまで福岡からの出張。和歌山にいた時に終戦。
→ 「証言」では、和歌山と流山の慰安所が追加され、ずっと福岡を拠点としていたことになっています。しかも、「私はここに一年半いました」と福岡に1年半しかいなかったという「裁判」と同じ情報が残っていて、証言内容が矛盾しています。

<慰安婦になった理由>
○「裁判」・・・「沈美子がそこにいたあいだに連れてこられた女性のほとんどは朝鮮女性であり、目的を全く知らされずに連れてこられた人たちであった。慰安所に来るまで、彼女らのほとんどは、工場の仕事と思っていた
○「証言」・・・「九割が『工場に就職させてあげるから』とだまされて連れて来られ、一割が私と同じように学校で捕まえられた人でした。『国語(日本語)を使わなかった』『学校の神社に参拝しなかった』とか、『『皇国臣民の誓い』を暗唱できなかった』という事で捕まった人もいました」
→ 「証言」では「ほとんど」以外の人たちが慰安婦にさせられた理由を具体的に記述しています。確率的には、私が今まで見てきた証言者の中に「学校で捕まえられた人」が2、3人いなくてはおかしいのですが、今の所、該当する人はいません。

<日本兵の残虐行為>
○「裁判」・・・「性行為を拒否して殴り殺された」
○「証言」・・・「銃で女の陰部を撃ってそのままトラックで行ってしまった」、「銃剣で女の乳房を切った兵隊もいました」、「三人の女が脱走を図って捕まり、殺された」
→ 慰安所での日本兵の残虐行為に統一性がなく、「証言」ではエスカレートしています。

<天皇陛下の命令>
○「裁判」・・・「天皇陛下の命令で、朝鮮の女はみな慰安婦にさせられる」
○「証言」・・・「天皇陛下から命令がくだって、朝鮮の女たちを面(村)・市・邑から『慰安婦』として徴発する」
→ 双方とも同女を贔屓にしていた将校の言葉として記載されていて内容は同じですが、朝鮮女性が強制連行されたのは天皇陛下の命令だったそうです。如何にも恣意的な捏造です。


なお、慰安婦裁判の原告にもなっている同女ですが、「韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会」が編纂した「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(明石書店)には証言が載せられていません。(以下の内容は「『自虐史観』の病理(P.153~165)」藤岡信勝・文春文庫を参考にしました)

同証言集(P.22)には、最終的に証言を載せたのが19人だった経緯について記載されており、まとめると以下の通りです。

 ○韓国挺身隊問題対策協議会に申告された人数・・・110人(1992.12末現在)
    内、生存者・・・55人
      内、連絡可能な者・・・40人
        内、以下の者を除いた人数(=証言が掲載された人数)・・・19人
           ①自分の経験を語りたがらない人
           ②証言がそのたびごとにひどくくいちがったり、話の前後があわず、調査が難しい人
           
同女は、同証言集の発行時に生存しており、また、裁判の原告になっていることから、連絡が不可能だったとか、「自分の経験を語りたがらない」はずがありません。つまり、②に該当して、「証言がそのたびごとにひどくくいちがった」ので、証言集には載せられなかったのです。

なお、裁判の原告になって以降、家族等の状況の変化で証言ができなくなったとも考えられなくもないですが、その後の韓国での水曜集会(※)にも参加しているようですし、2004年の最高裁の判決時も傍聴席にいたようです。その可能性はないでしょう。

※水曜集会・・・毎週水曜日に、韓国の日本大使館前に集まって行われている抗議活動


【信憑性】

同女が証言する慰安婦になった経緯は甚だ疑わしいもので、しかも、韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会が編纂した証言集からも落とされてしまっています。信憑性はないでしょう。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992.4 裁判の訴状 ***** ****
原告沈美子(シン・ミジャ。以下、「沈美子」という。)は、一九二四年二月四日、朝鮮黄海道の農村で出生し、鳳山国民学校に通学していた。
一九四〇年三月一五日、当時鳳山国民学校の担任であったミリイチ先生が沈美子の家に家庭訪問をした際、木槿の絵を下絵にした朝鮮地図の掛け軸が玄関に飾ってあるのを見て、「よくできている」と褒めてくれた。そして、こんどは花をつけた日本地図の刺繍を作ってほしいと、沈美子に言った。
 沈美子は、母が人からチマ・チョゴリをつくるよう頼まれて預かっていた絹の布を切り取り、これに、朝顔を背景にあしらった日本の地図を刺繍した。沈美子は、このため母から非常に怒られたが、学校にこの日本地図の刺繍を持って行くと、ミリイチ先生はとてもきれいだと言って褒めてくれ、教務室に掛けて飾った。
ところがある時、警官が学校に来て沈美子を呼び出し、なぜ日本の地図に日本の花である桜を描かなかったのかと追求し、学校の隣にあった警察署に沈美子を連行した。
 警官は沈美子を警察署の宿直室に連込み、いきなり顔を寄せてきたので、沈美子は抵抗して警官の耳を強く噛んだ。その警官は非常に怒り、沈美子を殴ったり蹴ったりして強姦を遂げた
当時、沈美子の父は満州に行ったまま家にほとんど帰らなかった。そこで、その警官は、沈美子に対して、この点を追求し、お前の父は独立運動家であり、お前も同じ思想を持っているのだろうと決め付けて、拷問を加えた。例えば、沈美子の両足を重ねて電気線で縛り、電気を通じさせた。沈美子は体じゅうが痺れ、そのため現在に至るまで骨盤と足に症状が残っている。この拷問によって、沈美子は二、三日間、頭がボーッとなってしまったが、意識が回復すると再び拷問が再開された。爪の間に竹を差し込まれたり、焼きごてを肩に押しつけられたりした。その痣は、現在も左肩周辺に四ヶ所残っている。食事はもちろん与えられなかった。沈美子は拷問中耐えられなくなって意識を失ってしまったが、次に気がついた時には知らない場所に移されていた。
「ここはどこか。」と同室の女性たちに聞くと、日本の「福岡」というところだといわれた。海が近くにあった。そこは、軍の慰安所だったのである。二十数名の女性たちが一つの建物に入れられていた。
 沈美子は、何日か気を失っていたらしく、体じゅうが痛み、体のあちこちが出血していた。同室の女性たちが塩水で治療してくれた。同室の女性たちに、「ここは何をするところか。」と聞くと、「しばらくいたらわかるから。」と言うだけで、教えてくれなかった。
 しばらくして、軍人がやってきて女性を一人ずつ部屋から連れ出して行った。ある軍人が沈美子も連れ出そうとしたが、同室の女性の一人が、「私が代わってあげる。」と言って、その軍人の相手をしてくれた。
 しかし、沈美子も、それによって仕事の中身がわかり、同室の女性に迷惑をかけるのもわるいと思ったので、翌日から慰安婦の仕事をするようになった。~(中略)~
 この慰安所は、連行される女性たちの集結地点にもなっていたらしく、女性たちはしばらくここにいてから他の場所へ移されて行くようであった。そのため女性たちの出入りは非常に激しかった。わずか数時間いただけで、すぐ他の場所へ移されていく女性もいたようである。沈美子は日本語ができたので、しばらくして「班長」と呼ばれるようになり、通訳をしたり他の女性を指導する立場として利用されるようになった。そのため、比較的長く、約一年半その慰安所にいた。
 中国人女性も五、六人来たことがあったが、沈美子がそこにいたあいだに連れてこられた女性のほとんどは朝鮮女性であり、目的を全く知らされずに連れてこられた人たちであった。慰安所に来るまで、彼女らのほとんどは、工場の仕事と思っていた。大阪の履物工場から連れてこられた女性もいた。~(中略)~
 その後、テント付きのトラックで神戸の慰安所に移動し、そこに約八か月いたあと、さらに大阪の慰安所に移された。神戸も大阪も、将校専用の慰安所があった。~(中略)~
 沈美子は、一九四五年八月一五日大阪で日本敗戦を迎えた。その後、友人の知り合いの人に紹介され、しばらく大阪の工場で働くなどしていたが、故郷が恋しくなり、一九五三年韓国に帰国した。現在では、生活保護として月に三万ウォンおよび米一〇キログラムを支給されている。
1992.4 元兵士たちの証言 従軍慰安婦 西野留美子 明石書店
 一九四〇年、十六歳のときです。日本人の担任の先生に頼まれ、日本の地図に刺繍をしました。ところが、数日後、勉強していた私は教務室に呼ばれました。そこには、日本人の警官がいました。
「おまえは、わが国の国花がなんだか知っているか?」
 警官の問いに、私は桜の花だと答えました。
「桜の花だと知りながら、なぜ、アサガオの刺繍をしたのだ」
警官は私をなじりました。
「桜よりもアサガオの花のほうがきれいだと思ったから、アサガオの刺繍をしたのです」
 するとその警官は、「おまえの思想はまちがっている」といい、私を警察に連れていきました。そして、宿直室で、私を強姦しようとしました。私は無垢の乙女で、貞操を守ろうと抵抗して、その警官の耳をかじりました。すると、その警官は怒って、竹串で、私のつめのなかを突き刺し、まっ赤に焼いたコテで、私の肩を焼きました。ひどい拷問を受けて、私は気を失ってしまいました。
 それから何日かたって、私は日本の福岡に連れて行かれました。先にきていた女の人たちに、何をするところなのか聞きますと、「時間がたてばわかるよ・・・・・・」と、彼女たちは言いました。
 しばらくすると仮小屋のカーテンで仕切った部屋に入れられました。憲兵や警察の上官がやってきて、顔のきれいな女だけを選んでどこかへ連れていき、自分たちの妾にしました。
 兵隊が、一人、二人と入ってきて、私たちはもてあそばれました。それからというもの、私は、毎日、二十名から三十名、土、日曜日には、四十名から五十名の兵隊の相手をしなくてはなりませんでした。
 三ヶ月ぐらいたってから、一人の憲兵がかわいそうに思ってか、私を連れだし、ぜんざいを食べさせてくれました。ぜんざいを食べながら外をみると、着物姿の日本の女が、若い兵隊と流行歌を歌いながら連れだって逢引きしていました。それを見て、私はとても悲しくなりました。どうして私たち韓国の女がこんな目にあわせなければいけないのかと憤慨しました。
「天皇陛下が、韓国の女を挺身隊にしろと言ったんだ」と、憲兵が言いました。それを聞いた私は、とても切ない気持ちになりました。(P117~119)

(※2007.7.12 追加)
1992.8 <証言>従軍慰安婦・女性勤労挺身隊 伊藤孝司 風媒社
 私が五年生の時は十六歳でした。~(中略)~
 ところが三月中旬のある日、作文の授業中の教室に、学校の守衛が来て先生に何か話したんです。私は先生に行くように言われて、教務室に行きました。そこには、日本人の四〇歳近くの警察官と校長先生がいました。
 警察官は私に「この刺繍を作ったのか」と聞くので、何のためらいもなく「そうです」と答えたんです。すると「朝鮮の地図はムクゲで作ったのに、どうしてこれはサクラではなくアサガオなのか。日本の花が何なのか知っているのか」と言ったんです。私は「サクラよりもアサガオの方がきれいだから」と答えました。サクラの花だと刺繍すると浮き出て見えないんですよ。
 すると、その警察官は、私の思想が疑わしいと怒鳴ったんです。この時、校長先生は警察官に何も言ってくれませんでした。
そして、学校のすぐそばの「鳳山警察署」に連れて行かれました。学校と警察署との間は、三軒しか家がないほど近くでした。
警察官は、宿直室で私に暴行しようとしたんです。小学校の女の子たちは、白いチョゴリと、学年を表す白い線の入った黒の短いチマを着ていました。それで、警察官はそのチマをまくり上げたんです。その時、警察官の耳が私の口のあたりにきたので、思い切り噛んだら驚いて飛び出して行きました。(P.138~139)

 三~四時間すると、前と違う警察官が来ました。取り調べ室で「昨日、お父さんはどこに行っていたのか」と聞くので「お父さんは私が三歳の時から出歩いているので知らない。顔も覚えていないくらいだ」と答えたんです。
 私は小学校に通うようになってから「夜学校」へ行って、皆に号令をかけて軍事訓練をさせたり、「皇国臣民の誓い」を言わせた事がありました。そのため、私はそこに通っている女に「日本の手先になって自分たちをいじめている」と言われた事さえありました。それなのに「お前も父親も思想がおかしい」と言われて、拷問をされたんです。
 最初は電気拷問でした。両足を縛られ、両手を広げたまま体が動かないようにされて、電気を流されたんです。体全体がしびれ、冷たい水に入れられた時のような感じがしました。三回くらい流されたんです。次は編み物で使うような竹の針を、手の爪の下に差し込まれました。それから、赤く焼けたコテを肩と首に押しつけられたんです。自分の体の肉が焼けた臭いを嗅いで、気を失ってしまいした
 今でも左手親指の爪には、その跡がはっきりと残っています。足は電気を流されたために発育しなかったし、今でもしびれるので階段を登るのが大変なんです。そして焼ゴテの跡は今も残っています。
 気がついたら、狭い部屋に押し込まれていました。どれだけの間、気を失っていたのかわからないんです。傷は痛いし、おなかが空いていたので立ち上がれませんでした。
入口のカーテンを開けてみたら、陸軍の将校が行き来しているのが見えました。しばらくすると、朝鮮人の女が何人か来て「この女はまだ死んでない」と、私を見て言いました。私が「何か食べさせてくれ」と言うと、干パンと水を持って来てくれました。
「どうしてここへ来たのか」と聞かれたので、いきさつを話しました。女たちが「ここは福岡だ」と言うので、私は「朝鮮に福岡があるのか」って聞いたんです。私は日本まで連れて来られたと思ってなかったからです。私は日本語が話せたので、兵隊にも聞いたら、やはり日本の福岡でした。~(中略)~
 三時か四時になると、女たちは二人に減りました。すると女が「兵隊が来たら拷問で腫れたり膿んだりした所を見せなさい」と言うんです。兵隊たちが来たので、いきさつを話したら同情してくれて、何もされませんでした。
 翌日になり、朝食の済んだ八時半に大尉が来ました。私の傷を見たあと、いきさつを聞いて「かわいそうだ。あんまり心配するな」と慰めてくれて、出て行ったんです。そしたら、兵隊が、包帯、赤チン・塗り薬・内服薬を持って来ました。その兵隊に聞いたら、大尉はここの所長でした。
 三日したら、「着ている物を洗濯しなさい」と、所長が軍服を持って来ました。私の服は血が付いていたからです。兵隊は毎日けがの手当てをしてくれて、しばらくはそのまま過ぎました。
 私にはここがどういう所なのか、わかりませんでした。他の女たちは、私よりも三~四歳年上だったので、私はみんなを「姉さん、姉さん」と呼びました。その「姉さん」たちの所には兵隊が次々と出入りするので、なぜなのかと聞きました。それで、ここは「慰安所」というもんだと知ったんです。
 所長は二~三日おきに、干パンなどを持って来ました。この所長が、私の最初の相手になりました。対馬出身の「高(たか)」という姓の人でした。
 私はここに一年半いましたが、私が連れて行かれて七~八か月した時に「高」は転勤して行きました。「高」はその時に、故郷が同じ「鈴木」という憲兵大尉に、私の面倒をみて欲しいと頼んだそうです。(P.138~142)

 ある時、「ナガレヤマ」の部隊に「慰安婦」を連れて行くトラックがあって、私も乗って行きました。私は他に行ってみたち、という好奇心があったからです。そしたら、一晩すると福岡の部隊が連れ戻しに来たんです。(P.144)

 女たちが集まって話しをしている時に、私は「どうしてここに来る事になったのか」と聞いた事があります。そしたら、九割が「工場に就職させてあげるから」とだまされて連れて来られ、一割が私と同じように学校で捕まえられた人でした。
 「国語(日本語)を使わなかった」「学校の神社に参拝しなかった」とか、「『皇国臣民の誓い』を暗唱できなかった」という事で捕まった人もいました
。先生と恋仲になったため、先生の妻が腹を立てて「慰安婦」にさせられた、という女学生もいました。(P145)
 
 たいていの女は性病にかかっていたので、兵隊があまりしつこいと痛かったんです。それを拒むと、兵隊は怒って殴ったり蹴ったりしました。ひどい場合には、銃で女の陰部を撃って、そのままトラックで行ってしまった、という事もありました。「ダーン」という銃の音を聞きました。移動で来た兵隊は、部屋の中まで銃を持って来ていたんです。
また、銃剣で女の乳房を切った兵隊もいました。女はまだ息があったんですが、兵隊は部屋のカーテンをちぎって女を包み、どこかへ連れて行ってしまったんです。(P.147)

 そして、「鈴木」はある時、私に重要な話をしたんです。「天皇陛下から命令がくだって、朝鮮の女たちを面(村)・市・邑(植民地下では町にあたる)から『慰安婦』として挑発する」と教えてくれたんです。それは一九四二年か三年の事でした。
 この後、「鈴木」が「ナガレヤマ」に転勤したので、一緒に行きました。ここに行くには車・船・車と乗り継いで、一二時間かかりました。
 ただ、私は「ナガレヤマ」には移ったのではなく、短い時には一週間、長いと二ヵ月の間隔で福岡と行ったり来たりしていました。(P.148)

 私は「鈴木」に連れられて「ナガレヤマ」だけでなく、神戸・大阪・和歌山にある部隊にも、福岡から行ったり来たりしました。そこにも「慰安所」があったんです。(P.149)

 和歌山に二回目に行った時に、終戦になったんです。(P.150)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 私は5年生の時は16歳でした。担任の「林」先生は、私の家の前を通って自分の家に帰っていたので、よく立ち寄って行きました。夕方、ちょうど通りかかった「林」先生を、お祖母さんが「芋を蒸したので、食べていってください」と呼び止めたのです。
 その時、部屋の壁には私の刺繍が飾ってありました。それは、ムクゲの花と枝を並べて朝鮮の地図の形にしたものでした。先生は、芋を食べながらその刺繍を見て、「誰が刺繍したのか」とお祖母さんに尋ね、縄跳びをしていた私を呼びました。先生は「日本の地図も作ってくれ」と言ったのです。
 私は、アサガオの花を並べた地図の刺繍を作り学校に持って行きました。「林」先生は、クラスのみんなの前で、「こんなに美しいのを作ってくれました」とほめてくれました。校長先生もとても喜んでくれて、教務室に飾ってもらったのです。
 ところが3月中旬のある日、作文の授業中に呼ばれて教務室に行きました。そこには日本人の40歳近くの警察官と校長先生がいました。警察官は私に「この刺繍を作ったのか」と聞くので、何のためらいもなく「そうです」と答えました。すると、「朝鮮の地図はムクゲで作ったのに、どうしてこれはサクラではなくアサガオなのか。日本の花が何なのか知っているのか」と言ったのです。私は「サクラよりもアサガオの方がきれいだから」と答えました。すると、その警察官は、私の思想が疑わしいと怒鳴ったのです。この時、校長先生は警察官に何も言ってくれませんでした。今、考えてもこのことには憤りを感じます。
 そして、学校のすぐそばの「鳳山警察署」に連れて行かれました。学校と警察署との間には3軒しか家がないほど近くでした。
 警察官は、宿直室で私に暴行しようとしたのです。小学校の女の子たちは、白いチョゴリ(朝鮮の上着)と、学年を表す白い線の入った黒の短いチマ(スカートのような民族衣装)を着ていましたが、警察官はそのチマをまくり上げたのです。警察官の耳が私の口あたりにきたので、思い切り噛んだら驚いて飛び出して行きました。
 3~4時間すると、前と違う警察官が来ました。取り調べ室で「お父さんは昨日どこに行っていたのか」と聞くので「お父さんは私が3歳の時から出歩いているので知らない。顔も覚えていないくらいだ」と答えたのです。
 そしたら「お前も父親も思想がおかしい」と言われて拷問されたのです。最初は電気拷問でした。両手を広げて体を動かさないようにされ、両足も縛られて電気を流されたのです。体全体がしびれ、冷たい水に入れられた時のような感じがしました。3回くらい流されたのです。
 次は、編み物で使うような竹の針を、手の爪の下に差し込まれました。それから、赤く焼けたコテを肩と首に押しつけられたおです。自分の体の肉が焼けた臭いを嗅いで、気を失ってしまいました。
 気がついたら狭い部屋に押し込まれていました。どれだけの間、気を失っていたのかわからないのです。傷は痛いしお腹が空いていたので、立ち上がれませんでした。しばらくして、朝鮮の女が何人か来て、「まだ死んでない」と私を見て言いました。私が「何か食べさせてくれ」と言うと、干パンと水を持って来てくれました。
 「どうしてここへ来たのか」と聞かれたので、いきさつを話しました。女たちが「ここは福岡だ」と言うので、私は「朝鮮に福岡があるのか」って聞いたのです。私は日本に連れて来られているとは思わなかったからです。(P.43~44)

(※2007.4.23 追加)
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