元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 裵奉奇(ペ・ポンギ) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1915年忠清南道新禮院に生まれる。1944年29歳の時、紹介業者に騙され沖縄に連れてこられ、慰安婦として働かされる。
1991.10月死去。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
コンドウという男に連れられ、釜山から下関に渡り、下関で一度、シンガポールに向かう日本軍の船に乗るが、門司で下ろされ、そこで半年間、待機する。その後、鹿児島に移動し日本軍の輸送船に乗って沖縄に行く。
【考察】
同女は紹介業者に騙されたことになっていますが、果たして本当に騙されたのか疑問です。紹介業者の言葉は、「南の島に行って働けば、金が儲かる。黙って寝ていてもバナナが口に入る」(イアンフとよばれた戦場の少女)等と言うような漠然としたものしか記述されていませんが、普通、この言葉だけを丸々信じてついて行こうと考える人はいないでしょう。
しかも、当時、同女は29歳です。7歳の時に一家離散し、3回の離婚も経験しています。辛酸をなめ続けた人生を送っており、このような甘言をそのまま信じるとは思えません。世間知らずの子供ならともかく、通常、仕事の具体的内容を聞いて当然ですが、同女の証言には「工場で働く」「食堂で働く」等の言葉はありません。無いと言うことは、逆に、具体的に何をするか知っていたからではないでしょうか。
さらに、同女を誘ったのは「女紹介人」(イアンフとよばれた戦場の少女)で、女性専門の人身売買業者です。もし、具体的に仕事内容を告げられなかったとしても、それが売春業関連だと分かって当然ではないでしょうか。(※紹介人と言っても売春業のみの斡旋をしていたわけではないようですが)
なお、「ナヌムの家歴史館ハンドブック」では、より限定的に「慰安婦紹介業者」になっています。相手が「慰安婦紹介業者」なら、やる仕事は「慰安婦」以外にありません。良心的に解釈して、後から考えてみると「慰安婦紹介業者だった」と言うことでしょうか。
【信憑性】
慰安婦をするということを本当に知らなかったのかは甚だ疑問ですが、下記資料を見る限り、本人の言葉として「騙された」と明記されているものもありませんでした。
全体として信憑性はあると思われます。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1993.8 皇軍慰安所の女たち 川田文子 筑摩書房 ポンギさんが、“女紹介人”に「いい儲け口がある」と誘われたのは咸鏡南道の興南においてである。興南は、水俣に本社を置く、当時の日本窒素肥料株式会社と同資本が国策に基いて、中国侵略の兵站基地として開発した工業都市である。
この興南を発ったのが一九四三年暮、翌年春、釜山から下関に来て、その約半年後に日本軍と一緒に沖縄に来た。那覇に着くと、ポンギさんら五一人の朝鮮女性は三グループに分けられた。慶良間諸島行き、大東島行き、そして那覇に留まる者たちである。慶良間行きはさらに三組に分けられた。座間味島、阿嘉島、それにポンギさんが行った渡嘉敷島である。~(中略)~
日本軍が慶良間に上陸したのが一九四四年九月、ポンギさんらが到着したのが一一月、日本軍が駐屯した二か月後には慰安所が開設されたのだ。
米軍は一九四五年三月三日、沖縄本島上陸に先がけて、慶良間海峡を艦船の停泊地とするため慶良間猛攻を開始する。米軍が上陸した二六日から二八日にかけて、座間味、慶留間、渡嘉敷の住民あわせて約七〇〇名が集団自決に追い込まれた。ポンギさんは日本軍とともに渡嘉敷では最も山深い二三四高地に籠り、炊事班に組み入れられた。
そして、敗戦、米軍の石川収容所に沖縄の人々に混って収容された。そこを出てからは、ことばは分らず知る人もなく、住む所も金もなく、地元の人々でさえ日一日を過ごすことが困難な焦土と化した沖縄で、一人生きていかなければならなかった。
「だまされて連れて来られて、しらんくにに棄てられてるさね」
何度聞いたか知れないこのことばを、私はポンギさんの寂しい口調そのままに諳んじることができる。(P.16~17)
(※2007.7.5 追加)2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 編 柏書房 裵奉奇ハルモニは忠清南道新禮院で、貧しいムスム(農家の作男)の次女として生まれた。8歳になっても学校に行けずに、あの家この家を雑用をしながら転々とするなど、不遇な幼少時代を過ごした。17歳のときに結婚したが、生活力のない夫と2年後に別れた。ハルモニが沖縄に着いたのは1944年11月で、「楽園のような所で就職させてやる」という慰安婦紹介業者の一言に騙されてのことだった。光復を迎えても、ハルモニは故郷に帰れなかった。(P.58) 2005.6 イアンフとよばれた戦場の少女 川田文子 高文研 ポンギさんは二〇歳の頃から職を求めてあちこちの町を転々とするようになりました。そして、興南という町で働いていた時に日本人と朝鮮人、二人組の「女紹介人」に声をかけられたのです。「女紹介人」は、「南の島に行って働けば、金が儲かる。黙って寝ていてもバナナが口に入る」などと暖かい南の島が楽園であるかのように甘いことばで誘いました。一九四三年、もう、だいぶ寒い季節になっていました。それからしばらくして、再び「女紹介人」が来ました。ポンギさんは布団などは処分し、着替えだけを持って二人組について行くことにしました。
興南から京城(現ソウル)に行き、旧正月が終わってから釜山の旅館に移り、コンドウという男に連れてられて約六〇人の若い女性が玄界灘を渡りました。下関に着いたのは、まだ肌寒い早春でした。下関で一度、シンガポールに向かうという日本軍の船に乗りました。ところが、翌朝、下ろされて門司で半年くらい待機していました。この間に数人の女性が逃亡しました。
一九四四年一一月、五一人の女性は鹿児島に移され、日本軍の輸送船に乗せられました。船上では日本軍とともに敵襲された際の避難訓練を受けました。輸送船は那覇港に到着しましたが、その年の一〇月一〇日、空襲を受けた那覇の市街地は見渡す限り焼け野原になっていました。
コンドウは朝鮮から連れてきた五一人を慶良間諸島に二一人、大東島に一〇人、那覇に二〇人と三組に分けました。慶良間に向かった二一人はさらに七人ずつに分けられました。こうしてポンギさんは慶良間諸島のなかの一つの島、渡嘉敷に着きました。興南を出てからほぼ一年が経過していました。十・十空襲後の那覇の焼け野原を目の当たりにして不安を覚えたものの、非常に厳しい戦況になっていたことは、ポンギさんらは知るよしもありませんでした。(P.19~20)
二九歳のポンギさんは最年長でした。(P.22)2006.1.22 JANJAN 「ふたたび『沖縄のハルモニ』を読んでみた」 ***** **** 朴ハルモニ(あるいはヨネさん、本名:ペ・ポンギさん)は1914年に忠清南道の貧しい小作人の家に生まれ、7歳のときに一家離散、以後は子育てなどの労働をしながら育ち、学校には通っておらず、読み書きはできない。17歳のときに結婚したが、この初婚を含めて三度、結婚に失敗している。三度の結婚の失敗などは、すべて貧困によるものらしい。19歳(1933年)でふるさとを出て以来、29歳(1943年)まで、今の韓国・北朝鮮を流浪するが、その間の暮らしぶりは、必ずしもはっきりとはしていない。
29歳の時(1943年)「仕事せんで金はもうかる」という甘言によって騙され、釜山、門司、鹿児島を経て、1944年秋に沖縄に到着、11月から渡嘉敷島で従軍慰安婦として「仕事する」ことになった。
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