元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ マルディエム ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1929年2月7日、ジャワ島のジョグジャカルタに4人姉妹の末っ子として生まれる。父と母は貴族の使用人で経済的には困っていなかった。生後7ヶ月で母親をなくし、1939年10歳の時、父が死亡。叔父の養女となるが叔父の価値観に従えず、3ヵ月後、他家で住み込みの召使いになる。1942年13歳の時、芸能活動に興味をもっていた同女は、「レストランで働く人と芝居をやる人」を探している日本人に応募し、ボルネオ島のバンジェルマシン郊外のトラワンの慰安所で3年間慰安婦を強いられる。
2000年12月、「国際女性戦犯法廷」で証言。
同女を扱ったドキュメンタリー映画に「Mardiyem-マルディエム- 彼女の人生に起きたこと」がある。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
「正源寺」(日本人の歯医者で市長)という人物、もしくはインドネシア人グループに引率され、汽車と船を乗り継ぎ慰安所まで連れて行かれる。慰安所の経営者は「キクチ」という日本人。なお、この慰安所は、昼は軍人、夜は民間人(もしくは軍属)を相手にしていた。
【考察】
下記資料の1997年の「元『慰安婦』の証言」(以降「元慰」)、及び「インドネシアの『慰安婦』」(以降、(イ慰)と2001年の「インドネシア従軍慰安婦の記録」(以降「イ従」)を比べると以下の通り証言が異なっています。
<13歳時の生活状況>
○「元慰」・・・「13歳になっていましたが、~(中略)~父も母も貴族の使用人で経済的に困っているというわけではありませんでした」
○「イ慰」・・・特に、当時の経済的状況等についての記述なし
○「イ従」・・・父も母も死亡しており、他家で住み込みの召使いをしていた。
→「元慰」や「イ慰」では、当時、既に両親が死亡していたことは語られていません。ただし、「イ従」によると、住み込みの召使いをしていたので生活には困っていなかったようです。「元慰」の内容は、ウソとまでは言えないでしょうが、正確ではない証言です。
また、「イ従」によると、父親の死亡後、叔父の養女となりますが、その叔父はジャワの価値感を強調する人で、同女は家に閉じこめられていたようです。そのことに耐えられずに、叔父の家を出たようで、明記はされていませんが、叔父の許可を得て召使いをしていたとは考えられず、おそらくは、当時、同女は保護者がいない状況だったと思われます。
<募集した人物>
○「元慰」・・・日本人歯科医の「ソウゲンジ」がカリマンタンからやって来て募集
○「イ慰」・・・日本人歯科医でバンジャルマシン市長の「正源寺」が舞台役者や歌手等を引き連れてきて募集
○「イ従」・・・徴募人グループのリーダー格はアリ・ブロスで、そのグループには日本人はいなかった。ただし、その指導をしていたのが「ショーゲンジ」医師。
→「元慰」・「イ慰」と「イ従」では、「正源寺」の役回りが全く異なっています。「イ慰」によると「正源寺」は当時、バンジャルマシンの市長だったようです。例え、軍から慰安所設置の要請を受けたとしても、市長自らが募集して回るなどありえないでしょう。
<15歳未満で資格のない同女にOKを出した人物>
○「元慰」・・・インドネシア人医師に13歳で資格がないと言われた際、「ソウゲンジ」が問題ないと言った。
○「イ慰」・・・「正源寺」が「かまわんだろう」と言った。
○「イ従」・・・募集したインドネシア人グループは、同女が年齢を偽っていることを知っていたが黙認した。
→「元慰」・「イ慰」では、「正源寺」がわずか13歳の同女に売春行為を許可した張本人になっていますが、「イ従」では黙認したのはインドネシア人の徴募人グループになっています。
<慰安所まで引率した人物>
○「元慰」・・・明記なし(※前後の内容から「ソウゲンジ」であろうと推測される)
○「イ慰」・・・「正源寺」
○「イ従」・・・インドネシア人の徴募人グループ
<慰安所への移動時の日本軍トラック>
○「元慰」・・・トラワンへの移動時にトラックを使用。日本軍のトラックとは記載されていない。
○「イ慰」・・・移動時にトラックの記載はない。
○「イ従」・・・スバラヤで軍用トラックを使用。運転手は軍人。また、バンジャルマシンでも同じ日本軍のトラックを使用。
→何故か「イ従」だけ、移動時に日本軍のトラックが出てきます。「正源寺」の関与が薄れた代わりとして、日本軍の関与を追加したのでしょうか。
<慰安所オープンの日に集まった人>
○「元慰」・・・「たくさんの人」とあるだけで日本兵とは記載されていない。また、「パンジェルマシン中から人が集まってきていました」とある。
○「イ慰」・・・記載なし
○「イ従」・・・「慰安所はすでに客たちで溢れており、それは日本人兵士たちに他ならなかった」
→「元慰」では、民間人も含まれていたと解釈するのが自然な記述だったのが(※同慰安所は民間人も相手にしていた)、「イ従」では集まった客の全てが日本人兵士になっています。
<同女の最初の相手>
○「元慰」・・・単に「医者のアシスタント」としか記載されておらず、身体検査を受けた病院との関連も記述されていない。
○「イ慰」・・・「最初の日、マルディエムさんは六人の兵士に犯された」とある。
○「イ従」・・・午前中の身体検査の際、同女を調べた医者の助手。また、検査の際、処女であることを知り、真っ先に買いに来たのだろうという旨の記述がある。
→「元慰」では語られていない具体的な情報が「イ従」では追加されています。「イ従」によると、同女が病院から慰安所に戻ったのは午前11時頃で、その時には既に慰安所の前にたくさんの日本兵がいたようです。
もし、その病院の助手が同女を一番に買うには、同女の検査をした後、全員の検査終了を待たずに、即座に病院を抜け出して並ばなければ不可能でしょう。それとも慰安所経営者に金を握らせて一番を取ったのでしょうか。しかし、高位の将校でもない単なる医者の助手がそんなことをしたら、並んでいた他の日本兵が黙っていないでしょう。ウソ臭い証言です。
また、ウソ証言だからか、「イ慰」では医者の助手は登場しません。もしかすると、軍の病院の助手も「兵士」に含まれているのでしょうか。
<慰安所の客>
○「元慰」・・・昼の12時から5時までは軍人が利用、5時から夜の12時までは民間人が利用。
○「イ慰」・・・昼の12時から5時までは軍服を着た軍人が利用、5時から夜の12時までは私服の軍属が利用
○「イ従」・・・昼の12時から5時までは日本兵が利用、5時から夜の12時までは日本の民間人が利用
→「イ慰」だけ、午後の利用者が「軍属」になっています。
<中絶手術の際、麻酔・鎮痛剤を使用しなかった理由>
○「元慰」・・・「彼女(※医師)もやりたくてやったわけではありませんでした。命令されたのです」とある。
○「イ慰」・・・「麻酔薬も手術に必要な機材も充分になかった。」とある。
○「イ従」・・・「おそらく、日本側としては、マルディエムさんに、彼女が二度と妊娠することがないよう、一種のトラウマを植え付けたかったのだろう。」とある。
→「元慰」と「イ従」は、日本人経営者が医師に命令して、麻酔・鎮痛剤無しでの堕胎処理をさせたことになっているのに対して、「イ慰」は、単に戦時中で薬等が無かった為になっています。
<堕胎後の胎児>
○「元慰」・・・「慣習にしたがって名前をつけました。名前があれば私が死んだ後も拝んでもらえます。『マルディヤマ』と名付けました。」とある。
○「イ慰」・・・「その子を棄てないよう医師に懇願し、マルディヤマと名付けて埋葬した。」とある。
○「イ従」・・・「しかも、まだ若い娘のマルディエムさんに、自分の目ですでに形を形成している赤ん坊を見るように強制したのだ。」とある。
→「イ慰」では、同女自身が胎児を棄てないように懇願して埋葬までしているのに、「イ従」では、日本人経営者がトラウマを植え付ける為に胎児を見るよう強制しています。
1997年の「元慰」・「イ慰」と2001年の「イ従」で大きく異なっているのは、日本人歯科医の「正源寺」の役割です。「元慰」・「イ慰」では、この「正源寺」が虚偽の内容で慰安婦を募集し、13歳で資格のないの同女を積極的に黙認しています。完全に本件の主犯格として扱われています。
この「正源寺」は、バンジャルマシンの市長をしていたようで、市長自らが慰安婦を募集し、集まった女性達を慰安所まで引率するなど、おかしな話です。
その点を誰かに指摘されたのか、「イ従」では、それまで出てこなかった「インドネシア人の徴募人グループ」が出てきて、募集、引率は全てそのグループが行っており、そのグループの指導を「正源寺」行っていたことになっています。しかも、それまでは、同女が「正源寺」に直接会っていたのが、結局、一度も姿を見ることがなかったことに変更されています。
いい加減な証言です。本当に市長の「正源寺」が関与していたのかも疑わしいものです。
さらに、「イ従」では、「その船に乗り込んだとき、マルディエムさんは、本能的にいやな予感がした。その船に乗って二日間の航海中に、マルディエムさんは、彼女の仲間たちの一部が乗組員たちと、あるいはほかの客たちと親密な関係になっていることがわかった。」という記述があります。
この記述から、同女たちの一部に娼婦がいたことは明らかでしょう。「親密な関係」とは単なる恋愛の親密さではありません。そうならば、「いやな予感」などするはずがないからです。
ここから分かることは、「娼婦がいて、恐らく、その娼婦たちは慰安婦をすることを知っていた」と言うことです。もし、娼婦から足を洗って、レストランの給仕や舞台俳優等になろうとしていたのなら、移動中の船で客をとったりしないでしょう。
また、「元慰」・「イ慰」・「イ従」では、同女が妊娠した際、中絶用の薬を飲ませられますが効き目がなかった為、ウリンの病院に連れて行かれ、ドイツ人の女性医師に麻酔や鎮痛剤なしで掻爬されて堕胎したと証言しています。
しかし、下記資料の「《非戦・平和コンサート》横浜開港記念会館」では、中絶処理をしたのが慰安所経営者の「チカダ」になっています。「チカダ」が中絶薬を飲ませたが効き目がなかったので、同女の上に乗って無理やり中絶させたことになっています。
証言など、いくらで作り変えても構わないとでも考えているのでしょうか。
【信憑性】
「正源寺」に関する証言の変更はひどいものです。おそらく、慰安所で働いていたというのは本当でしょうが、いったい、どこまで本当のことを言っているのか不明です。
信憑性はありません。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1997.6 元「慰安婦」の証言 -五〇年の沈黙を破って アジア・フォーラム編 晧星社 インドネシアのジャワ島ジョグジャカルタからやってきましたマルディエムと申します。ずいぶん昔のことです。やっと今日お話できます。一九四二年から話します。カリマンタンから日本人の医者で「ソウゲンジ」という人がやってきました。その人が言うには、カリマンタンで働く人を探しているということでした。レストランで働く人や芝居をやる人を探しているということでした。その募集の話も公式なものではなく、口から口へと伝えられていました。私は一三歳になっていましたが、芝居が好きだったので、その話に興味を持ちました。私の父も母も貴族の使用人で、経済的に困っているというわけではありませんでしたが、歌手になりたいと思っていたので、この募集に応じたのです。私は一九二九年二月七日生まれで、応募の年齢には達していませんでしたが応募しました。ジョグジャカルタで使用人になろうとは思っていませんでした。カリマンタンのバンジェルマシンで募集していたのは、レストランで働くか芝居の役者でした。実際、芝居をやっている人が一緒に来ていたので、その話を信用したのです。手続きも、どこかに行ってするのではなく、その人に「応募したい」と言っただけです。
応募の気持ちを伝えてから三日後に、ジョグジャカルタのススドラさんというインドネシア人の医者に行って身体検査をするよう言われました。「ソウゲンジ」さんは歯医者でした。検査の結果、一五歳という応募資格のない一三歳でまだ生理もないということがわかってしまいました。ススドラさんは「ソウゲンジ」さんに「一三歳で資格がない」と言うと「ソウゲンジ」さんは「問題ない」と言いました。そして採用されて、四、五日してから、トゥドゥ駅に集まれと言われました。行ってみるとそこでたくさんの人が応募していたことがわかりました。ジョグジャカルタの人が四〇人、アンバラワンの人が八人で合計四八人でした。私たちは仲間ということがわかりました。ジャワ人は青い服、他の人は黄色の小さな花柄の模様のついた服を着ていました。スラバヤまで汽車で行き、ホテルでバンジェルマシン行きの船が出るまで待ちました。スラバヤには一週間から一〇日くらいいました。「ミキ丸」という船が来て二日二晩かけてバンジェルマシンに着きました。そこでは「ソウゲンジ」さんの使用人で東ジャワ出身の人の家に泊まりました。
また一週間から一〇日くらいすると、アンバラワンから来た八人は、レストランで働くことを希望していたので分けられました。その他の四〇人のうち、一六人は芝居をやることになりました。残りの二四人は(私もはいっていましたが)トラックに乗せられて、トラワンというところに連れて行かれました。トラワンというのは、バンジェルマシンの中心ではなく、郊外にあります。そこで、二四人は個室を与えられました。個室には一から二四の番号がふってありました。その中には、ベッドと毛布(シーツ)と机と二つの椅子がありました。ぜいたくではなかったけれど、一人で暮らすにはちょうど良いと思いました。私は一一号室を与えられました。すべて日本名をつけられました。六号室の人は「マサコ」三号室は「サクラ」などです。私は今でも一〇名ぐらいの日本名を覚えています。二四名のインドネシア名はすべて言えます。私自身は「モモエ」という名をつけられました。その意味するところはまだわかりませんでした。
夜になって私たちは泣きました。一五歳以下の人が四人いました。翌朝になると、そこを運営している責任者の「チカダ」に軍の病院に連れて行かれ、身体検査をされました。何のためかはまだわかりませんでした。病院から帰って仔細がのみこめました。そこにはたくさんの人が集まっていました。その日は「慰安所」のオープンの日だったのです。市場のように人が列をつくって待っていました。その人たちを二四人で相手しなければならないので、たいへんでした。最初に私が客をとらされた人というのは、医者のアシスタントで、彼は一時間の時間を買ったわけですが、一時間もいないで用が済むとすぐ帰っていきました。最初に経験した人ですから、その人の風貌を忘れることができません。よく覚えています。当時、私は一三歳だったので、続けて六人も客をとらされるとものすごい出血がありました。もうこの仕事は耐えられないと思い、こんなにつらいなら死んだ方がましだとさえ思いました。あまりにも出血がひどかったので、休憩させてくれるようにお願いしました。この日はオープンの日でバンジェルマシン中から人が集まってきていました。バンジェルマシンは南カリマンタンの州都です。でも耐えられないので、部屋の前にある「モモエ」という札を裏返しにして客をとっていることにして休んでいました。外には出られませんでした。(P.13~15)
昼の一二時から五時までは軍人が利用しました。五時から夜の一二時までは民間人が利用しました。(P.15)
そして「チカダ」に中絶のため医者に連れて行かれました。中絶のためウリンの病院に強制的に連れて行かれたのです。戦争中だったので、麻酔も鎮痛剤もなしに掻爬されました。手術したのはドイツ人の女性医師ですが、彼女もやりたくてやったのではありませんでした。命令されたのです。(P.16)1997.5 インドネシアの「慰安婦」 川田文子 明石書店 長い年月、インドネシアを植民地として支配してきたオランダを短期間の戦闘で破り、日本が軍政を敷いたのは一九四二年三月九日である。
日本が軍政を敷いてまだ間もない頃、正源寺寛吾はドクトル・ソスロドロ、舞台役者のアリブロッス、その下で働いていた歌手のレンチを率いてジョグジャカルタにやってきた。
レンチは、マルディエムさんと幼なじみである。(P.12)
レンチは、「ボルネオ」に行って一緒に芝居をしよう」と、マルディエムさんを誘った。
マルディエムさんの家族は、代々王宮に仕えてきた。礼儀作法を厳しく躾けられ、母や姉と同じように王宮に仕える窮屈な生活から抜け出したいと思っていた。ブルネオに行って、レンチやジャパールのように舞台に立てたらどんなに楽しいか、夢が大きく膨らんだ。(P.13)
出発前、希望者は全員、王宮の近くにあったドクトル・ソスロドロの知人の医院で健康診断を受けた。マルディエムさんは、その時一三歳だったが、身上書では年齢を一五歳にした。一三歳ではボルネオに連れていってもらえないような気がしたからである。ドクトル・ソスロドロは、この少女の策略を一目で見破った。
「まだ、子どもですよ」
「いや、かまわんだろう」
バンジャルマシンでの仕事に耐えられないのではないかとのドクトル・ソスロドロの危惧を打ち消したのは、正源寺であった。
翌日、指定された時間にジョグジャカルタの駅前に行ってみると、大勢の同じ年くらいの少女たちが集まっていた。列車に乗ったのが午前八時か九時頃、正源寺に集められた少女は四八人だった。誰ひとり、どんな目的のために集められたのか知らなかった。~(中略)~
スラバヤに着いたのが、午後三時過ぎ、パンニリ・ホテルに宿泊した。他の客が入る余地はなく、正源寺が引率する少女たち一行の貸切となった。ホテルで船待ちをして、ボルネオに渡ったのは約二週間後である。
ジョグジャカルタで四八人の少女を徴集した責任者、正源寺寛吾は『ジャガタラ閑話』(ジャガタラ友の会 一九八八年刊)によれば、当時、バンジャルマシンの市長であった。(P.14~15)
正源寺は、バンジャルマシンでは「ドクトル・ギギイ正源寺」として知られていた。ギギイはインドネシア語で「歯」のことである。つまり歯科医であるが、国家試験を受け、医師としての資格を取得した今日の歯科医とは異なり、シンガポールの日本人歯科医から技術を習得した。(P.16)
彼女たちはひとりひとりその小部屋に入れられた。凹字型の建物の中庭の正面入口に別連棟のしっかりした建物があった。慰安所が開設されると、事務所あるいは受付と呼ばれるようになった建物である。他の二四人のうち、八人は食堂に、一六人は劇場で働いていることを知ったのは、後になってからのことだ。
正源寺にかわって少女たちを管理するようになったのはチカダという四〇歳前後の日本人である。チカダは数人のインドネシア人男性を使っていた。出発前にジョグジャカルタでも身体検査を受けたが、小部屋に入れられて間もなく、少女たちは性病の有無を調べる検査を軍医から受けた。その後も毎週土曜日の朝、同じ軍医から性病検査を受けた。さらに、毎朝、衛生兵からも身体検査を受けた。(P.21)
最初の日、マルディエムさんは六人の兵士に犯された。その日の鮮血と、体の中にぽっかりと空洞が空いたようなひりひりとした痛みは、未だに忘れることができない。その時にはまだ初潮を迎えていなかった。心身ともに未成熟なまま一三歳になって間もないマルディエムさんは、その日から軍人の性的「慰安」に応じなければならなくなったのである。
トラワンの慰安所では、軍属待遇の役所の人や電話局員なども受け入れていた。ただし、利用者は日本人に限られていた。正午から午後五時までが軍服を着た軍人、それ以降深夜一二時までが私服の軍属、料金は一時間で軍人が二円五〇銭、軍属が三円五〇銭、泊まりは一二円五〇銭だった。(P.22)
痩せていた一四歳のマルディエムさんの身体の変化に最初に気づいたのは、チカダである。すぐに医師の診察を受けさせられた。妊娠五ヵ月になっていた。バンジャルマシンのウーリン病院に連れていかれ、1週間薬を飲んだが、堕胎できなかった。中絶手術が施されることになった。麻酔薬も手術に必要な機材も充分になかった。ドイツ人の女性医師は麻酔薬を使わず子宮の中の子を掻爬した。頭の芯まで達する激しい痛みであった。掻爬された子はまだ生きていた。男の子だった。その子を棄てないよう医師に懇願し、マルディヤマと名付けて埋葬した。自分の名とヤマグチからとった名前である。(P.28)2001.8 インドネシア従軍慰安婦の記録 ブディ・ハルトノ/ダダン・ジュリアンタラ著 宮本謙介訳 かもがわ出版 マルディエムさんは、生後七ヵ月の時に母親を亡くし、片親だけで育った。(P.47)
それから、近所の人がやってきて、初めてマルディエムさんの父が亡くなったことを知ったのである。これは1939年のことであった。そのとき、マルディエムさんは10歳ぐらいだった。~(中略)~結局、彼女は叔父と一緒に暮らすことになった。その叔父さんは、ワック・ドゥルと呼ばれて、ハジの称号を持ち、ムルトルルタンに住んでいた。叔父には子供がなかったので、マルディエムさんが養女として引き取られることになった。ところが、叔父はジャワの価値観を非常に強調する人で、マルディエムさんはあまり居心地が良くなかった。とくに、女の子の活動範囲を大いに制限するという彼の主義のために居心地が良くなかった。マルディエムさんは、その年齢ゆえに家に閉じこめられることになった。以前父が生きていたころ、当然のことのように発揮できたマルディエムさんの自由な精神をもってしては、ワック・ドゥル叔父さんの所に留まるのは三ヵ月ほどが限度であった。やがて彼女は、お手伝いか、召使いとして自立して生きていくことを決意した。彼女は、ンドロ・マングンさんの家で雇われることになった。(P.50~51)
芸能に対する愛着から、マルディエムさんは、この理想を実現するためのあらゆる機会に対して、いつも耳を研ぎ澄まし、非常に敏感であった。音楽の友達たちは、マルディエムさんの理想と強い希望に大いに理解を示した。そのころ、ミス・ルンチがやってきて、ボルネオで歌手になるチャンスがあるという情報をもたらした時、マルディエムさんは、深く考えることなく、またその情報の真偽を確かめることもなく、すぐさま関心を示した。その仕事についての口伝えの情報に、マルディエムさんはすぐに飛びつき、彼女はボルネオ行きの準備を整えていた。(P.55)
ミス・ルンチの説明で、マルディエムさんは、その求人を信用するようになった。その後、ミス・ルンチ自身がマルディエムさんのボルネオ行きの登録をすることになった。
第二に、マルディエムさんは、その労働力の調達を指導しているのがショーゲンジ医師で、インドネシア人のススドロ医師が手助けをしているとの情報を得た。
第三に、仕事の募集は秘密裡に行われていた。それどころか、応募者が自分で登録することはなく、ほかの人を通してなされた。マルディエムさんが知っていたことは、ミス・ルンチによってすでに登録が済まされたということだけで、近いうちに身体検査があるとのことであった。その身体検査で、マルディエムさんは年齢を偽っていると指摘された。なぜなら、当時、彼女はまだ初潮を経験していなかったからである。当初、マルディエムさんは十五歳と言ったが、実際は一九二九年生まれの十三歳になったばかりだった。一方、募集したグループの側は、マルディエムさんが年齢を偽っていることは知っていたが、そのことには触れず、結局、マルディエムさんの出発が確定した。(P.59~60)
マルディエムさんは、彼女がスラバヤ行きの汽車でいつトゥグ駅を出発したのか、正確なことを記憶していない。マルディエムさんは、この出発に関わる行政上の手続きのことは、何も知らなかったと認めている。出発に関わるすべての書類は、彼女の出発の段取りも含めて、徴募人グループのリーダー格のアリ・ブロスによって処理された。マルディエムさんによれば、参加者や応募した集団は、ただついて行くだけであった。というのも、アリ・ブロスがすべてを取り仕切っていたからだ。
スラバヤ行きの汽車で出発したとき、マルディエムさんによれば、徴募人グループに日本人は全く含まれていなかった。すべては、インドネシア人によって取り行われた。(P.61)
それから彼女たちは、お互いに知り合うようになった。彼女たちのグループは、40人のジョグジャカルタ出身者と八人のアンワラワ出身者から構成されていることもわかった。~(中略)~マルディエムさんのグループは、アリ・ブロスにより引率されていた。労働者徴用の指導者として、最初に知らされたショーゲンジ医師は現れなかった。~(中略)~
スラバヤに着くと、四八人の一行は、一台の軍用トラックに出迎えられた。この出迎えの時に、軍が初めて姿を現した。トラックの運転手が、軍人だったのである。その後、一行は、スラバヤのブラウラン地域にあるパヌルホテルで宿泊することになった。~(中略)~というのも、ボルネオ行きの船を待たされたからだ。彼女らは、およそ二週間ほど滞在することになった。(P.62~63)
ずいぶん待たされてから、ようやくニチマル号という船がやってきた。その船は、ごく普通の木造船で、日本軍によって略奪されたボルネオ島民のものだった。船には、先に日本人が乗っていたようだ。その船に乗り込んだとき、マルディエムさんは、本能的にいやな予感がした。その船に乗って二日間の航海中に、マルディエムさんは、彼女の仲間たちの一部が乗組員たちと、あるいはほかの客たちと親密な関係になっていることがわかった。(P.63~64)
ボルネオ、正確に言えばバンジャルマシンに着くと、一行は以前と同じトラック、つまり日本軍のトラックに出迎えられた。~(中略)~
やがて彼女らは、バン・カディルの家に連れてこられたのだとわかった。ショーゲンジ医師はそこにはおらず、その医師はまだジャワにいると知らされた。一行はすぐには目的地に向かって出発しなかった。バン・カディルの家は中継場所にすぎなかったが、結局、仕事が決まる日まで、そこに七日間滞在した。(P.65)
二四人の一行を乗せた車は、トゥラワンへ向かった。目的地は一軒の大きな家であった。~(中略)~各自、部屋を割り当てられると、次に日本名もあてがわれた。マルディエムさんは、日本名を「モモエ」と決められていた。(P.66~67)
マルディエムさんは、その最初の夜をどう過ごしたか、いまでもよく覚えている。その夜、ほとんどの仲間たちは、眠ることができなかった。一晩中眠ることなく過ごしたその翌日、マルディエムさんと仲間たちは、軍用トラックで病院の身体検査に連れていかれた。診断室で、マルディエムさんは三人から検査を受けた。体の隅から隅まで調べられた。診察が終わると、マルディエムさんと友人たちは、トゥワランの慰安所に再び戻された。慰安所はすでに客で溢れており、それは日本人兵士たちに他ならなかった。時間は昼前の一一時ごろだった。
マルディエムさんが部屋に戻ると、慰安所の使用人が彼女の所にやってきて、客にできる限りのサービスをするようにと言った。「この人は、客から施しを受けているんだ」と思った。その命令に含まれる意味が、まだ子供だったマルディエムさんには、実際のところよくわからなかった。考える暇もなく、頬に髭をたくわえた一人の日本人がやってきた。マルディエムさんは、もちろんよく覚えている。その人物こそ、つい先ほど身体検査でマルディエムさんを調べた職員だった。その髭の日本人は、病院で医者の助手をしていた。マルディエムさんは、その男こそ、彼女がまだ処女で初潮の経験もないということを一番よく知っているのだと悟った。(P.71~72)
マルディエムさんが妊娠を知ったあと、使用人は、彼女を堕胎のためウリンの病院に連れて行った。一週間の間、マルディエムさんは、流産に効くと言われて、いろいろな薬を与えられた。しかし、一週間たってもマルディエムさんは、いっこうに流産しなかった。ついに七日目になって、医務員は手術室に彼女を連れて行った。初めマルディエムさんは、手術を受けるのだと思ったが、実際はとても手術などと呼べるものではなかった。
その中絶手術は、原始的なものだった。「私は強く圧えつけられました(diplenet)」。マルディエムさんのお腹は、医師によって強く押えつけられた。痛みが、マルディエムさんの体全体をおそった。「その痛みのために、私は自分の手を動かすことができないほどだった。ひどく衰弱してしまった」。手術は、麻酔も使わない方法であった。おそらく、日本側としては、マルディエムさんに、彼女が二度と妊娠することがないよう、一種のトラウマを植え付けたかったのだろう。
その身体の痛みは、すぐに回復することができた。しかし、心に残った深い傷は、胎内にいた赤ん坊のことであった。しかも、まだ若い娘のマルディエムさんに、自分の目ですでに形を成している赤ん坊を見るように強制したのだ。妊娠五ヵ月の赤ん坊は、すでに成長していて、体形ができ始めていた。手術が終わった後で、マルディエムさんは、赤ん坊を見せられた。そのようなやり方こそ問題なのだ。「私は、その赤ん坊が動いていたのを覚えている。彼はまだ生きていた。その子は男の子だった」。
罪の意識が、すぐに心の奥深くを占めた。「あれは殺人だったのです。私は自分の血を分けた子を殺してしまった」。それこそが、マルディエムさんの中にあった感情である。そのときマルディエムさんは、すでに子供の名前を用意していた。生まれたら、マルディヤマと名付けるつもりだった。それはマルディエムとヤマという言葉に由来している。(P.85~86)2005.8 《非戦・平和コンサート》横浜開港記念会館 ***** **** 私の名前はマルディエム
インドネシアのジョグジャカルタに住んでいました。
インドネシアに日本軍が来たのは一九四二年三月 その時私は十三歳。
舞台で歌うことを夢見る、無垢な少女でした。
「女優にならないか」「ボルネオで大きな舞台に出られるよ」
そんな言葉を聞かされて、浮き立つ気持ちで汽車と船でバンジャルマシンに連れて行かれました。
デッキのすみに歌手になりたき少女らを乗せ船は行く青きボルネオ
十三歳は歌手になれると騙されて皇軍兵士の「慰安婦」とさる
同じような少女たちが私の他に四十七人いました。
着いたところは、舞台ではありませんでした。
大きな建物の二十くらい部屋がある中で、十一号室に入れられ、まだ生理もない私に、六人の男たちが襲いかかってきたのです。
いったい何が起きているのか、恐怖と痛さで、夢中で叫びました。
痛い!やめて!お願い!
でもやめてくれませんでした……
そこは、「慰安所」だったのです。
初潮さえなき十三歳初めの日六人の兵にレイプされしと
慰安所の十一号室に入れられて「モモエ」と呼ばるる十三歳よ
三時間に十一回も…、それはその日だけではありませんでした。
慰安所の前に住んでいた日本人の「チカダ」は慰安所を経営していました。
ある日私は、チカダに怒鳴ったのです。「痛くて出血しているのよ!」
血が床に滴り落ちていました。
「だめだ!」チカダは怖い顔で言いました。私は血のついた下着を彼の顔に投げつけました。
あらゆることが時間で決められていました。
昼の十二時からずっと…、夜になるとまた七時から真夜中まで
毎晩二十人から三十人の兵士が来る、まだ幼い私なのに
あと何時間こうしていなければならないのか、
十四歳になったとき妊娠しました。
妊娠がどういうものか私には判りませんでした。だから、五ヵ月になっていました。
「チカダ」は薬を持ってきました。中絶の薬でした。でもそれは効き目がなかったのです。
「チカダ」は私の上にのしかかりました。
痛い!やめて!
私の下腹部を強く押すのです。く、苦しい、痛い!止めて!
気の遠くなるような時間、これ以上ないような…引き裂かれるような痛み、
気を失えたらどんなに良かったでしょう。
何かがドロッと出ました。生きていました。
涙も出ました。
腹押され五か月の胎児出されたり身ごもりに気づかぬ十四歳は
チカダは、私を床に突き飛ばし、背中を蹴りました。
私の髪の毛をつかんで腕に巻きつけ、私を投げたのです。
優しくなでられるために伸ばした私の黒髪は、無理やり引っ張られ抜けてしまいました。
その後、チカダは、私を、…レイプしたのです。2007.5.15現在 Mardiyem-マルディエム- 彼女の人生に起きたこと ***** **** 歴史の証言者として ~闘うマルディエム~
マルディエムさんは気高く強い女性だ。背筋をピンと伸ばし、インドネシアの『慰安婦』の声を人々に知ってもらうために、精力的に活動している。相手がインドネシア政府でも日本政府でも、彼女は丁寧な言葉で元『慰安婦』の現状を語り、正式な謝罪と個人への補償を訴える。ジャワの古き良き女性の慎ましさと、何者にも負けない力強さの2つをあわせもっている。
13歳で『慰安婦』に
ジョグジャカルタの王宮に仕える厳格な家で彼女は育った。13歳の時、歌手になれると騙されて慰安所に連れていかれ『慰安婦』になった。初めてのレイプの日、彼女はセックスの意味も知らない子供だった。その子供を最初に犯したのは慰安所の軍医の助手。そして、その日の内に6人の日本兵に11回レイプされた。下半身から出血が止まらず、慰安所の彼女の部屋の床は血で真っ赤に染まったという。
慰安所で誓ったこと
その日から3年半、昼となく夜となく、多くの兵士がコンドームと慰安所の切符を持って彼女の部屋を訪ね、ある者は彼女を殴りながら、ある者は卑猥な体位を強制しながら、ある者は避妊もせずに、彼女を犯し続けた。泣けば殴られる。逃げようとしたら日本兵に殺された。
妊娠したのは14歳の時。セックスすると子供が出来ることも知らなかった。麻酔のない手術室でお腹を押されて中絶した。一ヶ月も経たない内にまた、慰安所でのレイプは始まった。
『殴られる度、蹴られる度に思ったわ。私は将来、ここで自分が経験した全ての出来事を絶対に明らかにして、『歴史の証言者』になってやると。だから、死ぬわけにもいかないし、生きて家に帰ってこの悲惨な事実を伝えなきゃ、そう思うことで命をつないでいたの。』
1945年の8月に慰安所から解放された時、貯金してると聞かされていた慰安所の賃金は跡形もなくなった。遠く離れた実家に帰ることも出来ず、連合軍のレイプにおびえながら安全な場所を探して山の中を逃げまわった。16歳の時、夫と知り合って結婚。やっとの思いで実家に戻った時、彼女は23歳になっていた。
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