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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ マリア・ロサ・ルナ・ヘンソン(Maria Rosa L.Henson) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦となった経緯等】

1926.12.5(注)マニラ首都圏パサイに地主と妾の子として生まれる。1942年2月、日本軍人によるレイプ体験ののち1942年3月、母の従兄弟の誘いにより抗日ゲリラ、フクバラハップ(フク団)に参加、1943年、銃と弾薬をトウモロコシ袋の中に隠して運んでいる時、日本軍の検問所で同女だけ連行され、以降、駐屯所で慰安婦を強いられる。9ヶ月後の1994年1月、駐屯所となっていた施設をゲリラが襲撃し救出される。

1992年9月にフィリピン人被害女性として初めて名乗り出る。
1993年4月東京地裁に提訴。1998年10月地裁は棄却の判決。2003年12月最高裁で上告棄却・上告受理棄却、敗訴確定。(フィリピン「従軍慰安婦」補償請求訴訟)
当初、アジア女性基金に反対していたが、1996年8月、第一号として200万円の「償い金」を受け取る。
1997年8月死去

(注)・・・「ある日本軍『慰安婦』の回想」では、1927.12.5生まれになっている
【考察】

同女の証言は以下の通り、どうも物語として出来過ぎている感じがします。

最初、薪採りに行って日本兵にレイプされ、2週間休んで、再び薪採りに行ったら同じ日本兵にレイプ。この時、レイプした日本軍将校「田中」は、同女が慰安所に入れられた後に異動してきて再会。
また、この「田中」がある村を襲撃するという話をしているのを偶然聞き、しかも、その村が同女の母親が住んでいる村。
そして、その話を聞いた翌日、日光浴をする機会(※一週間に二度、定期的に行われていた)があり、その時、有刺鉄線の向こうを偶然通りかかった知り合いの村人にそのことを伝え、村人達は逃げて無事。その後、同女が情報を流したと拷問され、気を失っている際に抗日ゲリラが駐屯所を襲撃し助けられ村に戻る。


また、集めた資料間に内容の大きな相違はないのですが、以下の通り、疑問点があります。

<レイプ時の将校「田中」の行動が意味不明>
・・・同女がレイプされた際、まず、二人の日本兵が同女を連れ去ろうとしますが、「バカ!」と言って将校「田中」がやってきてその日本兵を殴ります。明らかに静止しようとする行動ですが、その後、二人から同女を取り上げてレイプします。殴った後に気が変わったのでしょうか。
また、駐屯地で再会した「田中」は慰安婦を強いられている同女に同情的で親切であり、かつ、紳士的です。本当にレイプされたのでしょうか。

<叔父達に悲鳴は聞こえなかったのか>
・・・1度目のレイプの際、一緒に薪採りに行った叔父達とは離れた場所にいて同女1人だったようです。しかし、同女の悲鳴が届かない程、離れた場所にいたのでしょうか。

<2度も同じ場所で同じ日本兵にレイプ>
・・・同女は、薪を採りに行った時に日本兵にレイプされています。1度レイプされて2週間、家で休んだ後、母の許しも得ずに再び同じ場所に薪採りに行って、同じ日本兵にレイプされています。
当時、生理も迎えていない少女であり、普通ならトラウマになって、レイプされた場所なんかに行きたくないと思うでしょう。しかも、その薪採りの場所はマッキンレー要塞だったと記述されています。再び、日本兵に会う可能性大です。何故、わざわざ、母の許しも得ないで再び薪取りに行ったのか非常に疑問です。

<日本兵を拒めば必ず殺される>
・・・同女が慰安所に入れられた時にいた女性が6人。助け出された女性も6人。誰かが殺されたという話は出てきません。「必ず殺される」という確信はどこからきたのでしょうか。

<天皇に忠実だから同女を逃がすことができない>
・・・「田中」は、同女から逃がして欲しいと懇願された際に、「天皇陛下に忠実な軍人として自分には私を逃すことはできない」と答えています。これが本当なら、天皇自ら、アジア各地の女性を拉致してきて性奴隷とすることを指示していたことになりますが、当然のことながらそのような事実はなく、また、軍としても、現地女性のレイプ等は厳に禁じています。真に天皇陛下に忠実な軍人なら、同女に関する事実を本部に報告して、直ちに解放すべきでしょう。
如何にも、政治的意図で恣意的に挿入された内容です。

<何故、村は再び日本軍に襲撃されなかったのか>
・・・同女が襲撃情報を伝えた為、村の住人は逃げて助かりますが、その後、意識不明の状態で助けられた同女は、その村の母の家で介抱されています。つまり、襲撃日に村から一旦、逃れた後、何日か後には村に帰ってきていたことになります。ゲリラの村と認定されて焼き討ちされようとしたのですから危険は継続しているはずです。そんな村に帰ってきていたというのは非常に不可解な話です。
もし、本当に考えなしに帰ってきたのなら、再び、日本軍の襲撃があってしかるべきなのに、尋問に来たと言う話さえもなく、あるのは、日本軍による労働人員の徴用の話と、1年後に突然、家に来た日本兵に叔父が連れ去られそうになったという話だけです。単なる普通の村の扱いです。

<夜八時以前にゲリラが司令部を襲撃>
・・・同女が道のそばで意識不明で寝かされているのを、母の従姉が見つけたのは夜の8時頃です。そこから推測すると、遅くとも夜6時~7時頃に襲撃をしたことになります。えらく早い時間帯です。襲撃するのなら真夜中でしょう。また、「その夜は幸運にも日本人警備兵が少ししかいなかった」という記述があるように、特に日本軍の動向を掴んでいてその時間帯を選んだわけでもないようです。

<司令部襲撃時、日本兵が気づいたのは女性たちも逃げ出した後>
・・・同女のいた慰安所の営業時間は午後2時から10時までであり、ゲリラが襲撃したのは営業時間の真っ最中で兵隊達が行列していたはずです。そんな中、6人の慰安婦を気づかれずに助け出すなど不可能でしょう。

<ゲリラは助け出した同女を道端に置いていった>
・・・瀕死で意識不明の状態の同女を助け出したゲリラは「パムペンへの道のそば」に同女を置いていきます。パムペンは同女の村です。つまり、同女の顔を知っている者がいて、パムペンの者だと分かっていたことになります。それならば、同女がゲリラの一員であることも分かったはずで、他の拷問を受けた捕虜達と共にアジトに連れて行って治療するのが通常であると思います。
しかも、日本軍の追跡を逃れている最中ですから、村人に見つかるよりも先に日本軍に見つかる可能性もあります。アジトに連れて行かないまでもせめて、誰かに預けるか、村まで連れて行くべきでしょう。中途半端な行いです。


----------以下、2007.7.27追加--------------
なお、「世界に問われる日本の戦後処理①」(以下、「世界」)と「ある日本軍『慰安婦』の回想」(以下、「日本」)を比較すると、以下の通り相違点があります。(微妙なものばかりですが)

<同居人>
○「世界」・・・「一人暮らしの母」とある
○「日本」・・・「母と私とエミルは、アンヘレス郊外の村、パムパンに住むことになりました」とあり、同女が連行された後は、母とエミルがいたはず。

<日本兵の相手をする時間帯>
○「世界」・・・「朝夕関係なく」日本兵の相手をさせられたとある
○「日本」・・・「午後の2時から10時ま」でが、日本兵の相手をする時間になっている

<駐屯地内の移動>
○「世界」・・・「駐屯地の中は歩き回れますが、外には出られません」とある
○「日本」・・・同様の記述はないが、「朝に水浴びをするとき、それが私が六人の少女たちと遭う、唯一の時間」とある
→ 「日本」の方が、部屋に監禁状態であったことを示唆する内容になっています。駐屯地内を歩き回れるのなら、他の少女たちともしょっちゅう会っていたでしょう。

<ゲリラが日本軍の駐屯地を襲撃した理由>
○「世界」・・・同女が村の焼き討ち作戦を知らせたことにより、同女が駐屯地にいることを知り襲撃した
○「日本」・・・捕虜になった仲間達を助ける為(※パムパン村襲撃の前日にゲリラが捕らえられ、それがきっかけでパムパン襲撃が決定した)

----------以下、2007.7.27追加--------------


----------以下、2007.8.24追加--------------

<<日本軍のせいで言語障害??>>

「フィリピンの日本軍『慰安婦』」で、同女は以下の通り証言しています。

 「私の言語障害は、日本軍の手にかかったことによる心の傷と拷問によるものです」

つまり、日本軍の性奴隷となったことの精神的ストレスと、拷問によって言語障害になったと言っているわけです。(※同書には記載されていないが、他では拷問の際、頭を壁に打ちつけられて気絶したことになっている)

しかし、症状関連の証言を見ると以下の通り。

 「犬のようによだれを垂らし、はってしか歩けず、食事はスプーンで食べさせてもらわなければならない赤ん坊のような状態が約一年続きました。髪の毛は抜け落ち、目の焦点は定まらず、ほぼ一年間、私は一歳半の赤ん坊のようでした。」

これは、精神的ストレスや、脳への強い衝撃を受けたことが原因ではなく、明らかに、脳マラリアの症状でしょう。

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<脳マラリア>
原虫が寄生した赤血球が脳内の血管などの微細な血管に詰まり血流を阻害することにより発生する。意識低下、言語のもつれなどの神経症状が起こる。進行すると昏睡状態に陥り、死亡する。
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実際に、同女は以下の通り

 「拘留の最後の時期に私は脳性マラリアにかかりました」

と、マラリアにかかっていますし、その後、2ヶ月間昏睡状態が続いたとも証言しています。


同女が慰安所を助け出される際の証言に辻褄の合わない箇所が多いことを鑑みると、脳マラリアが原因で生じた言語障害を日本軍の仕業にする為に拷問話を創作したのでしょう。

----------以上、2007.8.24追加--------------
【信憑性】

あまりにも物語じみていて創作臭い内容であり、不可解な部分も多くあります。証言毎に特に大きな内容の相違はないのですが、証言開始時からバックにゴーストライターもしくはアドバイザーがいたのでしょう。いったい、どこまでが本当でどこからがウソか不明です。信憑性は無いと思います。

【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.5 アジアの声 第7集
世界に問われる日本の戦後処理①
「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録
国際公聴会実行委員会 東方出版
 私はマリア・ロサ・ルナ・ヘンソンといいます。年は六六になります。結婚して子供が三人いますが、夫は一九五四年に亡くなりました。
 一九四一年一二月五日は私の誕生日でしたが、そのお祝いの三日後の一二月八日に戦争が始まったのです。その日、私は学校に行っていましたが、戦争になったというので家に帰されました。日本人がハワイの真珠湾を爆撃したのです。
 翌九日には、母親と他の家族と一緒にブラカン州ノルサガライのイポダムに、いったん疎開しました。さらに、私たちは日本軍がフィリピンに来るまで、イポダム近くのビグティ村にある洞窟に潜んでいました。クリスマスと新年はそこで迎えました。
 ウェインライト将軍がマニラを開城すると宣言したので、私たちは徒歩で山を越えて家に戻りました。そして、ニュー・マニラを歩いて通り、現在住んでいる場所まで移動し、そこで私は育ち、現在に至っています。
 当時、私たちは生活の糧がなかったので、隣の家の人についてリサール、タギグ、バラグバグにあるキャンプ・マッキンレー(現在のボニファシオ要塞)まで行き、薪を集めて生計をたてていました。そこには木がたくさん生えていて、私たちは木を切って薪にして売ったのです。~(中略)~
 ある日、私は自分の家で使う薪を集めて歩いていました。叔父たちは木を切っていました。その時、私は二人の日本兵に会いました。驚いている私を彼らはつかまえ、連行して行きました。私はどうしてよいか分かりませんでしたし、殺されるかもしれないと恐れていました。そこにもう一人の日本兵がやってきました。彼は将校だったと思いますが、名前は「タナカ」と言いました。彼は二人の日本兵に何か叫んで殴りました。そして私を連れて行き、強姦しました。強姦の後、私を今度は二人の日本兵に渡しました。それは非常につらい体験でした。出血があり、歩けませんでした。
 幸い、近くの農民が通りかかり、私を彼の家まで運んでくれました。日本人にされたことをその家の人たちに隠すことはできませんでした。家に帰りたかったのですが、四キロほどあるので無理でした(線路に沿って歩くだけだったのですが)。こうして、私は彼の家に二日間滞在しました。
 約二週間も休養をし、元の体調に戻ったので、薪集めをする隣人や親類たちのグループに再び加わりました。しかしまた、あのサーベルを持った将校と思われる日本兵が待ち伏せており、私をみるとすぐに強姦しました。私はどうすることもできませんでした。母に出来事を話し、彼らはこれからも私を待ち伏せするだろうと話し合いました。
 三月までに、母と父の故郷であるパンパンガ州のアンヘレス市へ帰ることに決めました。私はパサイで生まれ育ったので、アンヘレスには祭りのような特別な行事がある時に行っただけでしたが、私がこれまでのことを忘れ、二度とあのような目にあわないように、アンヘレスに移ることを決めたのです。私たちは、母方の兄妹や親類と一緒にパムパン村に住みましたが、私たちの家は森の中にあり、陸の孤島のようでした。
 私は、当時組織されていたゲリラ集団のフクバラハップに自発的に加わりましたが、これは多分、日本兵との体験からくる怒りに基づくものだったと思います。私たちのグループは「ニ-四-四〇-九」と呼ばれピナツボ司令官が指揮をとりました。ラピドは当時私の仲間でしたが、彼は現在ではスムロン司令官として知られています。私の役割は、このゲリラ勢力のために市民から薬や古着を集めることでした。部隊が村の周辺に近付くと、私は先に村に行って村人たちから米や甘藷などの食物をもらうのです。そして、それを部隊に持って帰りました。
 一九四三年まで、このような仕事を続けました。四月の聖週間のある日、私たちが水牛の荷車に乗って、マガランから家に帰ろうとしていた時のことでした。荷車には食糧の乾燥とうもろこしを四袋積んでいましたが、袋の中には四五口径の拳銃と弾薬、それに手榴弾を入れていました。ある病院(その名前は思い出すことができません)近くの検問所まで来ました。それは私たちのパムパン村に通じる道の近くでした。当時、みんな通行証を持たされており、日本人の番兵が私たちの通行証を見て通ってよいと言いました。私たちは三人で、私一人が女性でした。二人の男性は私の後に続き、とうもろこしの入った袋を運んでいました。通過し終わった時、私は日本兵に呼び止められ、二人の仲間はそのまま行ってよいと言われました。心の中で私は「またなの・・・・・・」と思いました。ただ、拳銃を押収されなかったのは救いでした。私は日本軍が駐屯地にしていた病院に監禁されました。数日後、そこで六人の女性と会いました。その駐屯地で私は、兵士たちのセックスの相手をさせられました。時には一二人の日本兵の相手をさせられ、その後少し休んで、また一二人ほどの相手です。息つく暇も無く、彼らの性の慰みにされました。
 そのため私たちはとても疲れました。日本兵が全員事を終えた後、やっと休息できたのです。女性は七人しかいなかったので、わずかな休みしかもらえなかったのでしょう。年端のいかない私にとって、それは苦痛にみちた体験でした。
 駐屯地に三ヵ月いましたが、その後アンヘレスの精米所に連れて行かれました。そこに移されたのは夜でした。精米所に到着した時、私たちは再び日本兵の相手をさせられました。朝夕関係なく、二〇回はゆうに超えました。日本人の宿泊所や家に連れて行かれたこともありました。その一つが、パミントゥアン歴史館だったことを記憶しています。そこには数回連れて行かれました。拒めば必ず殺されるので、拒否することができませんでした
 午前中は見張りがいます。駐屯地の中は歩き回れますが、外には出られません。他の女性たちと言葉を交わすことさえできないのです。その内の二人は中国人だったと思います。残りの女性は、パンパンガ州出身者のように思えましたが、互いに話すことは許されませんでした。
 時々私たちは、一人の医者(タヤグ医師だったと記憶していますが)に検診してもらいました。彼は年配で大柄な人でした。時には日本人医師が診ました。
 駐屯地の指揮官の交替があったのは一九四三年の一二月だったと思います。新しい指揮官の顔に見覚えがありました。どこで会ったのか考えていました。その指揮官も私の顔を何度となく見ました。そして、マッキンレー要塞で会った人だねと尋ねてきました。私はいくらか日本語が分かっていたので、「はい」とただうなずきました。彼は、「私の名前は田中だ」と言いました。英語は少し話せるようでした。私は日本語で「アナタ・・・・・・」とか何とか話しかけましたが、彼は多分「愛している」と言ったと思います。彼はこれまでと違う扱いをしました。できるだけ他の日本兵を私に近づかせませんでした。でも、彼よりも地位の高い将校に対しては、黙っていました。時々、食物をくれたりもしました。私にお茶を出してくれと、頼むこともありました。他の女性たちとは会うことも、会話することも許されませんでした。私は、早く自由になれるよう神に祈っていました。私だけではなく、私たち全員が。そのうち、私はマラリアにかかりました。日本人との相手をさせられている時でも、悪寒があって、腸さえもぞくぞくするようでした。熱があると言ったら、銃剣で殴られました。私が嘘をついていると思ったのでした。医者がマラリアだと言ったので、やっと休養を許されました。アルタブリッド(薬)をのみました。その後、多量の出血があり、医者は流産したと言いました。
 この頃、私たちは毎晩、日本兵の宿泊所に連れて行かれ、辱めをうけました。終われば精米所に連れ戻されました。ある時、私たちの町パムパンにゲリラがいることを日本軍がつきとめました。私を死んだとあきらめている母がそこに住んで居るのです。私のことは、母の耳に届いていないはずです。ひょっとしたら、ゲリラの仲間が、私が捕らわれの身になっていることを母に伝えてくれるのではないかと思いました。一人暮らしの母を、私は非常に心配しました。
 しばらくして、大佐と田中の話を耳にし、パムパンでゲリラの囲い込み作戦を行うことを知りました。翌日、私はパムパンを通る人を探して待っていると、ある人が私の村の人とわかりました。すばやく、耳元で日本兵が村を焼き討ちにするので避難するように囁きました。夜中に田中と何人かの兵士が私たちの村に行きましたが、住民が誰も居なかったので、怒って駐屯地に帰ってきました。そして、田中と大佐は口論をしました。大佐が言うには、私が話を聞いて、村の住民に伝えたいうのです。私は罰を受けなければなりませんでした。私は階下に連れて行かれ、ひどく殴られました。銃剣で殴られ床に倒れました。田中は大佐より位が低かったので、どうすることもできませんでした。それは一九四四年の一月のことでした。私の顔はあざだらけになり、手を縛られ、他の囚人と一緒にさせられました。しばらくして、意識を取り戻しました。私が最後に覚えていたのは、田中が私に水を飲むのを助けてくれたことです。それが彼を見た最後でした。
 あとで分かったことですが、私が意識を失っている間、フクバラハップが、日本軍の駐屯地であった精米所を襲い、私は解放されました。一月ということでしたが正確な日付は分かりません。私が彼らにパムパン村で日本軍がやろうとしていた作戦を知らせたので、私たちが駐屯地につかまえられていることを知り、そこを攻撃してくれたのです
 意識を取り戻した時、私は家に帰っていました。そして、母が微笑んでいました。私は母に抱きつきました。私は非常な高熱で病気になっていました。正規の医者がいなかったため、偽医者の治療を受けました。二ヶ月間意識を失くしたままで、液状物を、スプーンで口に運ばれるだけで何とか生命を維持していたのです。ある日、私は突然意識を回復し、全てが輝いているように思えました。話をしたかったのですができません。声を失っていたのです。だから今でも私の声はこのようなのです。(P.56~62)

(※2007.7.27追加
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
1926年12月5日生まれ
フィリピン共和国ルソン島マニラ首都圏パサイ市在住

 私はルソン島パンパンガ州パサイで生まれました。お父さんはアンヘレス市の大地主で、お手伝いさんとして使っていたお母さんに私を生ませたのです。私はお父さんが借りた家で、お母さんと生活していました。
 1941年12月8日は学校に行っていましたが、戦争が始まったというので家に帰されました。翌日、お母さんと他の家族と一緒に疎開しました。
 1942年2月頃、薪を集めていて2人の日本兵と偶然出会いました。2人は驚いている私を捕まえたのです。私は殺されるかもしれないと思いました。そして、刀を持った「田中」という名前の兵隊がもう1人やって来て、私を強姦したのです。出血があり歩けませんでしたが、農民が通りかっかって彼の家に運んでくれました。
 そこに2日間いて、歩けるようになったので家に戻りました。お母さんは「殺されなかっただけでも幸運だった。騒がずに沈黙を守るように」と言いました。
 2週間休養して元の体調に戻ったので、再び隣人や親戚たちと薪集めをしていました。しかし、あの士官らしい日本兵が待ち伏せをしていて、再び私を強姦したのです。
 2度とこのような目にあわないようにと、お母さんの故郷のアンヘレス市郊外に移りました。
 私は2度も日本兵に強姦された怒りから、抗日ゲリラ集団の「フクバラハップ」に加わりました。私の役割は、ゲリラ部隊のために市民から薬・古着・食料を集めることでした。
 1943年4月のある日、水牛の引く荷車に乗って私と2人の男が家に帰ろうとしていた時のことでした。病院前の検問所で、日本兵は通行証を見て通ってもよいと言っていったんは通してから、私だけを呼び止めたのです。荷車の中には45口径の拳銃と弾薬、それに手榴弾が、乾燥トウモロコシの袋の中に隠してありました。ここで、拳銃を押収されなかったのがせめてもの救いでした。
 私は、日本軍が駐屯していた病院に監禁されました。ここで、他の6人の女性とともに日本兵の性の慰みものにされたのです。日本兵は次々とやって来たので、息つく暇もありませんでした。
 3ヶ月後に、そこから300メートル離れた精米所だった建物に連れて行かれ、そこでも日本兵の相手をさせられました。ここから別の場所に連れて行かれることもありました。
 1日に20回を越えるほど日本兵の相手をさせられたのです。若い私にとって苦痛に満ちた体験でしたが、拒めば必ず殺されるので、それもできませんでした
 日本人の医師に週1回くらいの割合で検診を受けました。妊娠して流産もしました。
 私は、日本語がいくらかわかりました。ある時、日本兵が話しているのを聞いて、日本軍が私の村にゲリラがいることをつきとめて、村を襲おうとしているのを知ったのです。私は村の人が通るのを待っていて、このことを伝えたので住民は避難しました。しかし、このために私はあざだらけになるほど銃剣で顔をひどく殴られ、意識を失ってしまいました。
 目を覚ましたとき、お母さんが家の中で頬笑んでいるのが見えました。後で、ゲリラがこの駐屯地を攻撃し、私を救い出してくれたことを知りました。私は、拷問とマラリアのために2ヵ月間も意識がなかったのです。(P.147~155)
1995.12 ある日本軍「慰安婦」の回想 M・R・L.ヘンソン 岩波書店
 二月のある日、私は母に「叔父さんたちといっしょに出かけたい」とせがみ、許しを得ました。家で使う薪を採りたかったのです。母は行かせたがりませんでしたが、常々私がせがんでいたので、願いを容れてくれたのです。草木をかきわけて行くのでたくさん切傷やあざができましたが、料理の燃料が手にはいるのでご機嫌でした。
 ところが、そんなある日のこと、叔父や近所の人たちと離れて、乾いた木片を束ねる準備をしていたときでした。突然二人の日本兵が私の両腕を掴みました。私は仰天して悲鳴をあげましたが、彼らはやみくもに私を連れて行こうとします。そのとき、「バカ!」という叫び声が聞こえました。フィリピンの言葉で「バカ」は「牛」を意味するので、私は牛のことかと思いました。「バカ!」と叫んだ日本軍将校が近寄ってきて、私を捕まえていた二人の兵隊を殴りました。将校だと分かったのは、その軍人が長くてカーブしたサーベルを下げていたからです。その将校は私を二人の兵隊の手からもぎとって、レイプしました。その後、彼は二人の兵隊に私を与えました。その兵隊たちは順番に私をレイプし、立ち去りました。(P.46~47)

 それから約二週間、私は家で休んでいました。母の言いつけを守り、その事件のことは誰にも知らせませんでした。いっしょに薪を採りに行った近所の人々も知りません。叔父たちも私が道に迷ったと思い込んでいました。
 けれども、二週間がたち、元気が出てきた私は、「叔父さんや近所の人の見えないところには行かないわ」と、母の許しもなく、薪採りに出かけました。しかし、薪の採れる場所に着くと、そこでまたあの日本軍将校に出くわしてしまったのです。
 その将校は、叔父や近所の人たちが見ている目前で私を拉致しました。殺されるかもしれないので、誰も抵抗できませんでした。私を助けることができなくて、叔父たちは泣き叫んでいました。レイプした後、その軍人は立ち去りました。(P.48)

 一九四二年三月二九日、日本の侵略に抵抗する人民の軍隊としてフクバラハップ(Hukubara-hap「抗日人民軍」、通称フク団)が誕生しました。
 家を貸してくれた母の従兄弟は、新しく生まれたフクバラハップの第四九中隊の議長でした。彼は私にフクバラハップに参加するように誘い、私の意志を問いました。私は応諾しました。そうして私は自分の意志で進んでフクバラハップに参加しました。辛い体験をした私は日本軍に怒りをいだいていたからです。でもその体験は組織の誰にも話しませんでした。(P.49)

 一九四三年四月のある日、組織の指示があり、近くの町、マガランに乾燥トウモロコシを集めに行く密使の一人に加わりました。男性ゲリラ二人といっしょに行きました。一人は「ラビド」、もう一人は「バト」というニックネームでした。本名は分かりません。二人とも、私と同じ第四九中隊に属する同志でした。けれどもかれらと行動をともにするのは初めてでした。
 私たちはカラバオの曳く荷車に乗って出かけました。四月はフィリピンでは乾季です。屋根のない荷車に日ざしがたいそう熱く照りつけました。
 マラガンで乾燥トウモロコシ四袋を積み込み、パムパンに帰る途中、日本軍の検問所がありました。荷車が検問所に近づいて行くとき、そばに座っていた同志が、「気をつけろ、トウモロコシの下に銃と弾薬があるんだ」とささやきました。私は神経がはりつめました。検問所の警備兵が銃を見つけたら、すぐさま殺されてしまうでしょう。
 私は荷車を降りて、警備兵に通行証を呈示しました。当時、人々はどこの誰かを示す通行証を携帯しなければならなかったのです。警備兵がトウモロコシの袋をさわったり押したりして検査し、通ってもよい、と言いました。
 ところが検問所から三〇メートルほど通りすぎると警備兵が口笛を吹き、戻ってくるように合図するではありませんが。私たちは青ざめて、お互いの顔を見合わせました。警備兵が袋を開けたら、銃が見つかってしまいます。たちまち命はなくなってしまうでしょう。
 けれども、その警備兵は私だけに戻ってくるよう手をあげて合図し、他の同志たちは行ってもよいことになりました。それで銃は無事でしたが、私は自分の身が危うくなったことを感じながら、検問所に戻りました。レイプされるかもしれない、と思いました。
 警備兵は私をある建物の二階に連行しました。現在でもその建物がありますが、今ではヒルクレスト・タイル・ストアになっており、昔の面影はありません。日本軍の占領の前は、病院でした。北部ルソンに続く国道、ヘンソン通りに面していて、そのときには日本軍の司令部兼駐屯地に転用されていました。そこに六人の女性がいるのを見ました。警備兵は私を竹の寝台がある小さな部屋に連れて行きましたが、その夜には何も起きませんでした。
 その翌日、自分がたくさんの兵隊たちに性の相手をしなければならないのだと知りました。最初に一二人の兵兵隊がたてつづけにレイプしました。それから三〇分くらい間があり、またもや一二人の兵隊です。私はひどく出血し、身体がめちゃめちゃに傷つけられたと感じました。翌朝には、立ち上がることすらできませんでした。~(中略)~
 昼の二時から夜の一〇時まで兵隊たちが行列をつくって私をレイプする日々が始まりました。他の六人の少女の部屋にも、兵隊たちが行列をつくっていました。(P.68~70)

 元病院の建物には、三ヵ月間、監禁されていました。それから、そこからわずか四ブロックほど離れただけの、大きな精米所に移されました。これも、ヘンソン通りに面した建物でした。その精米所も司令部に転用されており、将校たちがそれぞれ自分の部屋を建物の中に持っていました。~(中略)~
 精米所に移されて四ヵ月ほど過ぎた、一九四三年一二月のある日のことでした。前任の将校が別の司令部に異動し、新しい大佐と大尉が精米所に来ました。新しい大尉を見て、「どこであの将校を見たのだろう?」と自問しました。彼の顔に見覚えがありました。
 その将校は私を呼び、「おまえは、マッキンレー要塞で逢った、あの娘か?」と聞きました。私はお辞儀をし、そうだと答えました。私のことをマッキンレー要塞で彼がレイプした娘だと気づいたそのときから、彼はずいぶん私に親切になり、よく話しかけてきました。(P.75~76)

 他の六人と話すことは許されませんでした。朝に水浴びするとき、それが私が六人の少女たちと逢う、唯一の時間でした。(P.79)

 私はタナカに、自分が脱出するのを許してほしいと嘆願したものです。けれど、彼は天皇陛下に忠実な軍人として自分には私を逃すことはできない、と言いました。タナカが日本兵に私レイプするな、と命令できれば・・・・・・・。でも、彼にはそんなことは言えなかったのです。なぜなら、それは日本軍の意思に反することでした。タナカは私を憐れみましたが、自分より階級の高い大佐に逆らうことなどできませんでした。天皇にたいそう忠実だったのです。タナカは日本の天皇は至上の存在であり「神」だ、と話していました。それがタナカの信仰だと分かりました。「神」とまでに信じる天皇に逆らうことは、何一つできなかったのです。(P.84~85)

 一九四四年一月のある日、たぶん朝の一〇時くらいだったと思います。タナカ大尉が私を呼んで、彼の部屋にお茶を二人分持ってくるように言いました。
 お茶を運んでドアに近づくと、私の耳に、タナカが大佐と議論している声が聞こえました。私には当時、日本語を話すことはできませんでしたが、おおよそ聞き取ることができました。
 「明日の夜、パムパンでゾーニングせねばならない。そこの住民たちはゲリラだからだ。パムパンでゲリラを捕まえてきた。いま、そいつらは階下にいる」と大佐が言います。
 私は部屋に入り、お茶をテーブルに置いて、部屋を出ました。「アス」、「バン」、「スル」、「モヤソ」、「パムパン」。そんな言葉を聞いた私は、声こそ立てませんでしたが、心が悲鳴をあげました。(P.87~88)

 その後、幸運なことに、警備兵が私たち七人を日光浴のために階下に連れて行きました。そこは、兵隊たちが訓練をしている場所でした。精米所の構内で、向こうは道路です。有刺鉄線で囲いがはりめぐらせてあり、逃げ出せないようになっています。三人の警備兵が周辺を歩き回り、ときどき冗談を言い合っています。
 そのとき、有刺鉄線の近くに一人の老人が通りかかるのを見つけました。パムパンの住人でよく見知った顔でした。警備兵の方をそっと見ると、彼らは冗談を言い合い笑っています。私は大急ぎでその老人にささやきました。「今晩、貴方の村が焼討ちされます。村から逃げて下さい。」そして、私はくるりと背中を向けました。何事も起こらなかったように。(P.88~89)

それから一時間以上してからのことです。私は、大佐とタナカが階段を上がってくるのを聞きつけました。大佐は私を寝台から引きずりおろし、めちゃくちゃに殴りました。大佐は私の手をひっぱって階下へ連れ降り、拷問しました。暴行された私の目は一瞬にして腫れ上がり、顔中が血だらけになりました。全身にあざができました。
 大佐は私の手を縛り上げました。瞼が腫れて目を開けられません。それでも無理に目をひらいて周りを見回すと、数人のゲリラが捕虜になっているのが見えました。彼らもあざだらけになっていて、手を縛られています。
 日本軍がパムパンの村に到着したとき、村には誰もいなくなってしまって、もぬけのからでした。みんな逃げてしまっていたのです。大佐は、彼らの相談を聞いていたのは私一人だと言い、私が焼討ち作戦を台無しにした、と疑って、激怒していました。~(中略)~
 誰かが、私の顎をもちあげました。腫れ上がった瞼をなんとか開けてみました。タナカ大尉が私に一杯のお茶をくれようとしています。カップがくちびるのところにありました。そのとき、大佐の叫び声が聞こえました。大佐はやってくるなり私の頭を壁に打ちつけました。精米所の壁は、家の屋根にも使われる分厚い波状のGIシートで作られており、したたか頭をぶつけられた私は気絶しました。
 私の意識はそこで失われ、再び意識をとりもどしたのは、二ヵ月もたった後でした。
 後で母に聞いたところによると、ゲリラたちが捕虜になった仲間を解放するためにその夜駐屯所を攻撃し、拘束されていた私を見つけ、気絶しているところを救出してくれたのです。
 一九四四年一月でした。私は九ヵ月間も日本軍に性奴隷としてとらわれていたのです。
 一九九二年に公に名乗り出た後、私を救出してくれたゲリラの一人に逢えました。バラハディアさんです。
 彼の話によると、私を救出したそのとき、彼はてっきり私がもう死んでしまっている、と思ったそうです。他の六人の少女たちもみんな救出され、逃げて行ったのに、私だけぐったりと気を失っていたからです。
 バラハディアさんは私を救出した体験を話してくれました。
 「ゲリラが捕虜になったと分かれば、私たちの連隊が駐屯地を攻撃することになっていたのです。精米所にたくさんのゲリラが捕らえられていました。だから精米所を攻撃する計画を練って、三日間相談しました。10人のチームで、武器を持って行ったのですよ。その夜は、幸運にも日本人警備兵が少ししかいなかったので、攻撃に気付かれずにすみました。精米所の後ろの小さな穴から物音をたてずに中に入ったのです。日本兵が私たちに気付いたのは、ゲリラが全員縛りを解かれ、女性たちも逃げ出した後でした。貴方を救出したのは一番最後でしたよ。貴方をみて、もう死んでいると思ったからです。私が貴方の鼓動に気付き、それで、もう一人のゲリラと二人で外に運び出しました。そして、道の端に寝かせておいたのです。」
 ゲリラたちは日本軍の追跡を逃れ、私をパムパンへの道のそばに置いてゆきました。それを母の従姉のアンナが見つけ、アンナが母を呼んだのです。夜の八時頃でした。アンナと母は助けの人を呼んで、私のために走ってもらったそうです。(P.89~93)
1995.12 フィリピンの日本軍「慰安婦」 -性的暴力の被害者たち フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団 明石書店
 私はマリア・ロサ・ルナ・ヘンソン、六十五歳です。マニラのパサイ市に住んでいます。私は一九二七年十二月五日パンパンガ州に生まれました。学校へは七年生まで通いましたが、成績は優秀でした。幼いころの夢は医師になることでした。
 一九四一年、第二次世界大戦がはじまったとき、私は十四歳の誕生日を迎えたばかりでした。
 母と私は親戚と一緒に近くの地方へ疎開し、ほら穴にかくれていました。一九四二年のはじめごろのことです。家から数キロメートル離れた先で薪を集めていると、タナカ大尉をはじめとする日本兵三人に強かんされました。それから二週間後、再びタナカに強かんされたのです。何度も強かんされるなどという不幸がどうして私にふりかかったのでしょう。
 この後、私は志願してフクバラハップという抗日ゲリラになりました。私を強かんした日本軍に対する怒りからだったと思います。それから約一年がたち、検問で日本軍に足止めされました。病院を接収した日本軍の駐屯所に私は連れていかれました。そこには女性が六人いました。次の日から毎日、日本兵の性的な相手をすることを強いられたのです。ほかの六人の女性も同じです。その駐屯所では、十二人の兵士に一日中強かんされることもありました。また将校用の兵舎や家へ連れていかれることもありました。ほかの女性には生理のときには休みが与えられましたが、私にはまだ生理がなかったので、一日として休めたことはありませんでした。
 この、性奴隷としての、辛く残酷な体験は九ヶ月続きました。拘留の最後の時期に私は脳性マラリアにかかりました。また、村人に日本軍の攻撃を知らせたかどで拷問されました。鎖につながれていたところを、囚人の救出にきたゲリラに発見され、助け出されました。こうしてやっと苛酷な苦難から生還できたのです。ゲリラが来たときに私はマラリアの熱と拷問のため意識を失っていました。ニヵ月後、意識を取り戻したときには母の家にいました。母の顔を見て私は泣きました。言語障害があったのですが、なんとか、何が起こったのか伝えることができました。母もそれを聞いて泣きました。私と母はとても仲がよく、秘密を打ち明ける相手もいつも母でした。
 それから五十年がたちました。私はこの法廷で、九ヶ月間、日本軍の性奴隷とされた経験がおよぼした影響を明らかにしたいと思います。あの経験は常に私につきまといました。夢に出てくることもありました。同じ年齢の少女たちを見るたびに辛い思いをしたものです。彼女たちは、笑い、幸せそうで、汚れも知らず、歌ったり、踊ったり、友だちと楽しそうにしていました。一方、私は家の中にかくれていました。私に起こったことを誰かに知られるかもしれないと恐れたからです。私の言語障害は、日本軍の手にかかったことによる心の傷と拷問によるものですが、このためいつも笑い者にされました。犬のようによだれを垂らし、はってしか歩けず、食事はスプーンで食べさせてもらわなければならない赤ん坊のような状態が約一年続きました。髪の毛は抜け落ち、目の焦点は定まらず、ほぼ一年間、私は一歳半の赤ん坊のようでした。近所の人たちからはどうにかなってしまったのだと思われました。唯一、本当のことを知っていた母でさえ、私がおかしくなってしまったと思いはじめるようになっていました。私は敵意をもっているように見える人、私の陰口をいう人を怖れました。自分を恥じるようになり、自尊心も、自信も失ってしまいました。常に人からかくれていたいと思い、頭を地面に埋めてしまいたい気分でした。いつもあの経験が私につきまといました。(P.41~46)
(※2007.8.27 追加)
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