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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 劉面換(リュウ・ミエンファン) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

山西省羊泉村で生まれる。1941年(推定)15歳の時、突然、家にやってきた漢奸(注)に拉致され、進圭村に40日間監禁され強姦さえる。

1995年8月に、他3名と共に日本政府に謝罪と賠償を求めて提訴。 2001年5月東京地裁、請求棄却。2004年12月東京高裁、控訴棄却。2007年4月最高裁、上告棄却。(中国人「慰安婦」損害賠償請求訴訟(第一次)・原告 李秀梅、劉面換、周喜香、陳林桃)

 注)中国人で日本軍の手先になったもの


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

慰安所には入れられておらず、近くの村の石洞に監禁される。


【考察】

同女の家まで来て連行したのは、3人の「漢奸」で、最初に同女を強姦したのも「漢奸」です。日本兵ばかりでなく、積極的に「漢奸」が参加していたことが分かります。

「ガイサンシーとその姉妹たち」には、以下の通りの記述があり、同女が監禁された進圭社には多くの「漢奸」がいたようです。

「この家は日本軍が村に駐留している時、傀儡軍の“清郷隊”の本部となっていました」(P.140)
「家はあの時清郷隊の本部となっていた。全部で30数人がここで寝起きしていた」(P.140)

 ※清郷隊・・・地元の住民により組織され、日本軍に協力した武装組織


また、同書には、以下のような進圭社の老人の証言が記載されています。

「彼らの大隊長は吉田と言い、中隊長は今井といった。副中隊長は堀武といい、下にロバと赤ら顔がいて、谷川が小隊長のとき日本軍は引きあげた。しかし女性を乱暴するのは主にロバと赤ら顔、キバというような人たちだった
「ロバというのは森曹長のあだ名で、村人が赤ら顔と呼んでいた伊藤が情報班長だったあと、曹長に昇進した。キバはもともと砲兵だった。古兵だったので、誰も素行の悪い彼をどうしようも出来なかった。一九四二年夏の太行山戦役で中隊長の今井が死んだあとは、ここに2個分隊しか残らなかった。10人あまりがいるだけで、木坂が親分で、ロバ、赤ら顔が曹長になった。その後、43年夏に岩本という人が隊長として転任してきたが、あの人は若くてこれらの古兵をどうしようもできなかった」(P.152~P.153)

ここから見えてくるのは、「好き勝手する一部の日本兵とそれを統率できない部隊長。そして、それに便乗して暴行・強姦に参加する一部の中国人」という状況です。隊長は統率できないばかりか、本部に報告すると自分の責任が問われるために黙認していたのでしょう。


【信憑性】

同村や近くの村で同様の被害にあった女性達の証言と内容の齟齬はなく、信憑性はあると思います。

【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1997.6 元「慰安婦」の証言 -50年の沈黙をやぶって アジア・フォーラム編 晧星社
 私は山西省の羊泉村で、農民の父母と三人でくらしていました。私が一五歳のとき(一九四一年と推定されます)の三月のある朝、三人の「漢奸」(中国人で日本軍の手先になったもの)が突然家に来て、私の家族を全員外に連れ出しました。村の中の大きな蔵の中に私たちは入れられました。そこには、すでに三、四〇人の人たちが入れられていました。若い女性も混じっていました。しばらくすると、日本人の兵隊で隊長らしい人が、通訳と部下の兵隊を連れて入ってきました。この部隊はあごの全面に髭があり、色白の背が高い人で、年齢は三〇歳ぐらいのように見えました。後になって「毛隊長」とよばれているのを知りました。この隊長が私の傍らにやってきて、通訳を通して「あなたはとてもきれい」と繰返し言いました。そして、私を含む三人の女性を選び出し、三人を外に出すように漢奸に指示しました。
 私も、私の母親も泣いて抵抗しましたが、漢奸は私もいれて三人の女性を蔵の外に無理矢理連れ出しました。そして、私は蔵の外に出されると、首から腕に縄をかけられ銃剣で小突かれながら、三、四時間歩かされて、日本軍の駐屯地に連れていかれました。そこは進圭村の日本軍の駐屯地で、そこにある石洞に私たち三人は入れられました。そこは奥の方が少し高くなったオンドルになっていて、藁が敷いてあって、その他のところは地面のままで何もありませんでした。入口には鍵がかけてあり、とじこめられたのです。用便の時には、戸をたたいて開けてもらわなければなりませんでした。
 石洞に来てまもなく漢奸がやってきて、いきなり私のズボンをぬがせようとしました。私が抵抗すると、何度も顔を殴りつけ、布切れを口の中におしこみ、私を強姦しました。その夜更けに、別の漢奸がやってきて、私を別の建物の一室に連れて行きました。そこは隊長の部屋で、私は翌朝まで隊長に何度も強姦されたのです。

 次の日から四〇日間、私は毎晩夜遅く、漢奸に隊長の部屋に連れて行かれ、明け方まで隊長に強姦され続けました。しかもは昼で、石洞の中で三人の漢奸に代わるがわる犯されさらに二人の日本兵も石洞にやってきて私を強姦しました。食事は一日二回、とうもろこしのお粥のようなものを一杯もらうだけで、用便の時以外は石洞にとじこめられ、外にでることはできませんでした
 そのうち、私は顔がむくんできて、いつも腹痛があるという状態になりました。これは、村に帰ってから医者にみてもらったところ、子宮が糜爛しているためだということでした。また石洞につれてこられる時、銃底で小突かれた左肩のつけ根が痛み、左手首が動かなくなっていました。私が病気になったのを伝えきいた村の父親が親戚や知人から一〇〇銀を集め、私をもらい下げにきてくれたのです。こうして私は村に帰ることができました。
 村に帰ってから二ケ月後に、また日本兵と漢奸がやってきて私を探しましたが、この時は父が私を隠して難をのがれました。しかし、村では私が日本兵に陵辱されたことが知れわたり、結婚する相手がなかなかみつかりませんでした。一九歳の時に一〇歳年上の再婚の男性とようやく結婚しました。しかし、その後も私の体調はすぐれず、夫の農業の手伝いもできませんでした。(P.31~32)
2006.9 ガイサンシーとその姉妹たち 班忠義 梨の木舎
 15歳になった年の旧暦3月20日頃のこと、朝ごはんを食べていると、20人前後の日本兵と“黒腿”(注・日本軍の手先となった中国人傀儡軍のこと。黒いゲートルを脚に巻いていたことに由来)が家に入って来た。集会に参加しろ!と言いながら私を家から外に引っ張り出した。抵抗すると顔を殴られた。外に出ると両手を縛られ板の下まで引っ張られ、進圭社へ連れて行くというので、行かないと言ったら、銃床で骨が折れそうなほど肩を殴られた。銃剣を突きつけられて仕方なく4時間歩いて行った。
 進圭社に着いたのは午後の1時を過ぎていた。普通の農家のようなヤオドンに入れられた。
 私のほかに劉ニ荷さんと、もう一人、馮伝香という女性が一緒に連れて行かれた。その部屋に着いてまもなく、私たち3人は中庭に呼び出され、1列に並ばされた。そのあとから“ロバ隊長”(注・日本人隊長某のあだ名)がやって来た。“ロバ隊長”は私たちをひと回りして眺めると、私を指差して、中国語で「君は一番いい娘だ」と言い残して帰った。そして、私はまた農家のヤオドンに閉じ込められた。ほかの二人は別の場所に連れ出された。
 私が監禁されたヤオドンに蓋山西もいた、と村人からあとになって聞いたけれど、私は彼女に会ったことはない。彼女が監禁されたのは私より先だった。

 昼過ぎに、ヤオドンに私を連れてきた漢奸(注・日本軍の手先となった中国人。“黒腿”と同じ意)の一人、林是徳に強姦された。抵抗すると何度も顔を殴られ、布を口に押し込まれ、別の二人の漢奸にも強姦された。その後、3人の日本兵に犯された。家の外には見張りがいて、日本兵は銃剣で脅しながら私を犯した。叫ぼうとしても怖くて声が出なかった。
 彼らが帰ったあと、私はオンドル(部屋の奥に一段高くなっているところ)から起き上がれなかった。ズボンは地面に捨てられたままになっていた。オンドルは小さく、敷きものも何もなくて、麻で編んだ袋だけが置いてあった。私はその麻袋の上に座り、よく見ると袋の上に血がついていた。
 私はゆっくりとオンドルを降りてズボンを取り、穿いてから泣いた。ひたすら泣いて、泣き続けた。夜になると、辺高和という漢奸が私を呼び出し、途中で彼が私を犯した。連れて行かれたところは“ロバ隊長”の住む家だった
 それは小さい家で、中にベッドが一つ置かれていて、そばに椅子があった。私を中に入れると、辺高和は彼に「礼」をして帰っていった。周りの家はみな日本兵が住んでいるようで、窓ガラスから外の家の蝋燭の光も見えた
 “ロバ隊長”は低い声で、私に服を脱ぐように言った。私がじっと動かず脱がないでいると、彼は枕の下から刀を取り出して、“脱がなければお前を殺す”と脅かした。殺す、と聞いて、私は怖くなり抵抗出来なった。
 彼は近寄ってきて私の服のボタンをはずし、それからベッドの上に引っ張っていって、私を犯した。その夜3回も私を犯した。私の下半身から出血したのを見て、彼はちり紙を取って私に渡した。夜が明ける頃、辺高和が再びやってきて、私を監禁部屋に連れ戻した。
 翌日の夜になると、また、“ロバ隊長”の所に連れて行かれ、また2回犯された。
 私の身体はもう耐えられなかった。40数日間、昼間は毎日5人から8人くらいの日本兵に強姦され、夜になると隊長の部屋に連れて行かれ、毎晩強姦された。体がむくんで腫れ上がり、歩くことさえ出来なくなった。食事は1日に2回、水っぽいトウモロコシや粟のスープのようなもので、冷たくて食べられない。お腹がいつも痛くて、昼も夜も恐怖でいっぱい。ついに動けなくなって、見張りが進圭社にいる親戚に連絡をとり、父に知らせた。「娘がひどい病気になっているから、早く迎えに来い」
 父は親戚から銀貨一〇〇枚を集めて引き取りに来たのに、許されなかった。父は「娘は病気ですので、家に戻って回復したらまた送り返します」と言って、初めて家に連れて帰ることが出来た。家に戻って、2、3ヵ月薬を飲み続けた。その間にまた日本兵と漢奸が呼び戻しに来たが、父は私を隠し、「医者に行っています、まだ治っていません」と言ったら帰って行った。私はその後、そのままずっと病院へ行けず、日本兵に銃床で叩かれた左腕の付け根が変形して、左腕が右腕より少し短くなってしまった」

 彼女は進圭社に連れて行かれた時、日本兵と一緒に来た“黒腿”のうちの二人を知っていた。一人は林是徳、もう一人は辺高和という。この二人は劉さんの家に時々出入りする共産党の工作員だった。それがいつの間にか日本人側に寝返っていたのだ。(P.37~40)

 劉面換さんはこんなことも教えてくれた。彼女の住んでいるこの三〇〇人足らずの小さい村から、5人の女性が日本軍トーチカに連行され侮辱された。それから死んだり、逃げたりして、今も村に残っているのは彼女だけ、と。(P.41)
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