元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
- はじめに
- (2007/03/25)
- 「元・従軍慰安婦」証言者一覧 <韓国>
- (2007/03/09)
- 「元・従軍慰安婦」証言者一覧 <韓国以外>
- (2007/01/02)
- 元日本兵証言一覧
- (2006/06/21)
- 従軍慰安婦関連資料
- (2006/03/25)
- 更新履歴
- (2002/03/09)
◆◆◆ 鄭書云(チョン・ソウン) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1924年、慶尚南道で地主のひとり娘として生まれる。父が食器の供出を拒んだ為、逮捕され、父の釈放と交換条件に日本の工場で働くことを承諾する。下関経由でインドネシアのスマランに連れて行かれ慰安婦を強いられる。(「私は『慰安婦』ではない」より)
1995年9月、中国で開かれた北京女性大会に、韓国代表として出席、全世界に向かって日本軍の蛮行を知らせた。
2004.2死去。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
無し。下関では一ヵ月~一か月半、収容所に入れられるが日本人の監視員が二人見張っていた。
【考察】
同女の証言の疑問点等は以下の通りです。
<区長に日本の千人針工場で働かせると言われる>(「私は『慰安婦』ではない」)
千人針ついては、街頭の道行く人にお願いして一針ずつ縫ってもらったという話は聞きますが、千人針工場というものは聞いたことがありません。千人の女性がいて、順番に一針ずつ縫って行くような工場でしょうか。あまり効果も無さそうです。
<慰安婦になったのは日本の統治前のインドネシア>(中央日報)
1924年生まれで13歳の時に連行されていますから、同女がインドネシアで慰安婦となったのは1937年頃。日本がインドネシアを統治したのは1942年からなので、全く辻褄があいません。
なお、「私は『慰安婦』ではない 日本の侵略と性奴隷」によると、連行されたのは14歳のようです。どちらにしても、辻褄はあいませんが。
<下関の倉庫には娘が約千人、一緒に船に乗ったのは数千人>(韓国従軍慰安婦問題対策協議会HP)
約千人が収容できるのですから、かなり大きな倉庫で、それがいくつかあったと証言しています。また、同女と一緒に船には数千人の娘たちが乗っていたと証言しています。これまた巨大な船です。
<一日平均50人、土日は100人の軍人を相手>(韓国従軍慰安婦問題対策協議会HP)
24時間ぶっ続けで相手をしたとしても、100人だったら一人当たり約14分。もしかしたら同女はすごいテクニシャンだったのかも知れません。
上の千人と言い、同女は何でもかんでも大きい数字を言えばいいと思っているようです。
<慰安婦を防空壕に生き埋めにする計画を知った朝鮮人兵士が連合軍へ連絡して助かる>(「私は『慰安婦』ではない」)
信じ難い話です。もし、これが本当なら、計画していた日本兵が戦犯として裁かれていてもよさそうですが。
【信憑性】
船に乗った人数にしろ、相手をした人数にしろ、大げさな数字を言っているのは明らかですし、日本統治前のインドネシアで慰安婦をしていたというのも無茶苦茶です。
信憑性はないでしょう。
想像するに、13歳か14歳の時に騙されて売春婦にさせられて、1942年頃に売春宿の経営者が慰安所を開設するのに伴い、一緒にインドネシアに連れて行かれたというところでしょうか。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1997.8 私は「慰安婦」ではない
日本の侵略と性奴隷戦争犠牲者を心に刻む会編 東方出版 私は一九二四年、韓国の田舎の地主のひとり娘として生まれました。私の父はとても頑固な人で、「創氏改名」を拒否したほどでした。「創氏改名」を拒否しても、父が地主であったため、捕まえることは出来ませんでした。植民地時代(1910年~1945年)ではあったものの、特に最初の頃は日本人は地主とはいつも妥協していました。
ある日、町の区長から、その当時韓国では銅で作られた食器を使っていたのですが、その食器をみんな供出しろという命令が下されました。父はかんかんに怒りました。何から何まで朝鮮人から全部奪っていって、それでも足りずに今度は御飯を食べる食器まで供出させるのか、と。それは出来ないと父は怒りました。その命令があった夜、父は家にあったたくさんの食器をすべて父の土地に埋めたのです。けれども、そのことが密告により日本人にばれてしまい、父は逮捕されました。それで私は何回も警察署に行き、父に面会できるよう頼みましたが、ことごとく断られました。
そしてある日、食器供出の話をした区長がまた家にやって来ました。自分といっしょに行けば父との面会が許されるから明日いっしょに行こう、と。私は喜んで、「はい、そうします」と答えました。
父は拷問のために、ほとんど気を失っていました。意識を取り戻した父は、私を見るなりかんかんに怒りました。「若い娘が警察署に来るなんて。早く帰りなさい。そしてもう二度とこういう所には来てはいけない」と言いました。家に帰ると母に父の様子を尋ねられたのですが、拷問で失神していたとはとても言えませんでした。
数日して、区長がまた家に来ましたので、私は針の仕事がとても上手でしたので、区長は今度は、「お嬢さんは針の仕事がとても上手だから、日本の千人針工場に行って働かないか」と言うのです。「お嬢さんがその工場に行って働けば、お父さんはすぐ自由の身になりますよ」。そう言われました。
母は猛反対しました。当時の朝鮮はとても保守的でしたから、若い娘が町に出て仕事をすることなど想像も出来ない時代でした。母はほんとうに、すごく反対したのです。でも私は母を説得しました。父が早く釈放されるためには仕方がないことだからと。そしてとうとう母の承諾を得ました。私は区長に会い、「工場に行って働きます」と言い、工場に行くとその日で父が自由になるということをもう一度確かめますと、区長は「その通りだ」と答えました。
区長について、港町釜山に着きました。釜山から私は船に乗せられ、そして日本の下関に着いたのです。下関に着くと大きな倉庫に入れられましたが、中に入って、私はびっくりしました。数え切れないくらい大勢の少女たちがいたのです。中にはなんと十二歳の少女までいました。日本人の監視員が二人、ずっと見張っていました。食事のたびに、配給されるのは海苔巻きのおむすびが一個だけです。でも、私はとても怖かったために、、三日間何も喉を通りませんでした。三日経って、お腹が空いてやっとおむすびを食べることが出来ました。
毎日のように、次々とたくさんの若い娘が倉庫に運ばれてきました。そしてある日、私が住んでいた村の村長の娘までが連れて来られました。倉庫で一か月か一か月半くらい待たされたと思います。倉庫の中では名前もなく、いつも番号で呼ばれました。私はある日呼び出され、そして、他の少女たちとともにとても大きな船に乗せられました。
アジアのあちこちの港町を通り、船が最後に着いたところは、ジャカルタからそれほど離れていないスマランというところでした。そこに降りた若い娘は、全部で二十三人でした。そして降りるとすぐ、私たちは病院に連れて行かれました。そこで私は強姦されました。三日間、下腹部からずうっと血が出ました。(P.50~52)
日本の軍人の中にも、いい人はいました。その方のことは、福岡から来た「伊藤」という方だということ知りませんが、彼は日本が敗けた時、生き残っている私たち「慰安婦」を防空壕に閉じ込めてそのまま生き埋めにしてしまおうという日本軍の計画を、朝鮮人の兵士たちにこっそりと打ち明けたのです。それを知った朝鮮人兵士たちは手紙を書いて、二日に一度やって来るインドネシア人の洗濯婦にその手紙を託し、早く連合軍に伝えるよう頼みました。そのおかげで私たちは帰ってくることが出来ました。(P.54)
たった十四歳の娘が、自分の国でもない、よその国の軍人のために、進んで戦場にいって身を売ることを想像してみてください。(P.55)2004.2.26 中央日報「全世界に従軍慰安婦の実像を暴露したチョン・ソウン氏死去 」 ***** **** 13歳のとき、インドネシアに連れて行かされ、7年間にわたって日本軍の従軍慰安婦として生きなければならなかった「挺身隊おばあさん」チョン・ソウン氏が、26日未明、慶尚南道鎮海(キョンサンナムド・チンヘ)の自宅で老患で亡くなった。80歳。
チョン氏は、1995年9月、中国で開かれた北京女性大会に、韓国代表として堂々と出席、全世界に向かって、日本軍の蛮行を知らせた人物だ。
チョン氏は、当時「日本の軍医官から不妊手術を受けており、金の代わりに軍票を受けた。1日平均50人ずつ、週末には100人の軍人と性関係を持たなければならなかった」と証言、国際社会に衝撃を与えた。喪家は、鎮海第一病院に設けられた。2007.4現在 韓国従軍慰安婦問題対策協議会HP
※リンク先は韓国語***** **** 私は慶尚南道河東でかなり金持ち集の一人娘に生まれました.
私のお父さんは、私を日本学問を学ぶ必要がない、となさりながら日本学校に行かせなかったです. しかし私は家庭教師を通じて漢字とハングルは学ぶことができました。私のお父さんはまた創氏改名も最後までしなかったです。そして日本が戦争武器で作るために真鍮器を供出するようにしたが, 私のお父さんはそれもしないで、夜に人知れず家で働く掘り起こした何を連れて田を深く売ってその所にさび器を埋めました. ところでそれがぼろを出して、お父さんは警察署に引かれて行って留置場に閉じこめられました. 毎日私は面会に行ったが面会ができなかったです。ところである日、朴球場(現弛張)が家に来て、私が日本紡織工場へ行けばお父さんは釈放されることができると言いました. 私が工場に行くその日、お父さんはすぐ釈放されるはずだというのでした. それは私が行かなければ、私のお父さんは死ぬしかないという脅迫でした. そんな状況で私は拒否することができなかったです. その時私の年15数えました.
私と一緒に、岳陽面兔将娘も一緒に行ったが、その兔将は駐在所所長から岳陽面で娘供出量を割り当て受けると駐在所所長の横っ面を殴って辞表を出しました. その理由で兔将の娘も私と一緒に引かれて行くようになりました。
私たちは韓国人と日本人によって、釜山まで来て釜山で大きい船に乗って日本の下関に到着しました。見下ろしたら歩哨がある大きい倉庫に約千名位になる娘たちが閉じこめられていました。その所にはそんな倉庫がいくつかありました. 私はその所が工場ではないことをすぐ分かりました. ここで私は私の道なのいじめ下った頭を首になりました. そして一日に 3回ずつのりで包んだお握りを受けたが、私はお父さん考えと家を浮かび出た恐ろしさに、それを食べることができなかったです. しかし 3日位が経つと、お腹がとてもすいていてそれを食べるしかなかったです。その時いくらのり巻きをあきれるように食べたのか、今ものり巻きはもちろん長さも見たがらないです. そのように、、その所で正確に憶えることはできないが約 15日位あったようです. ところが、一日は私たちを番号どおり呼びました。そして順番どおり、とても大きい船に乗せました。そのお腹には数千名の女達が一緒に乗りました。
私たちが下関で初めに到着した所は台湾でした。そしてまた船に乗って広東に行ったし、タイ、バンコク、サイゴン、シンガポールを経由して、インドネシアジャカルタに下りました. それからはその所でニューギニア、スマトラ、長芋と等地に配置されたが、配置させる前にジャカルタ陸軍病院に私たちのすべての女性たちを連れて行っては、子宮の中に何かを入れました。ところでどのようにしたのかの下盃があまりにも苦しく痛かったです. そして多分約 3日間下血をしたようです.
一日を休んでまた船に乗って行くのに、私はひどい痛症と下血で言えない苦痛にあいました. 私は 23人位の女性たちとマラングの陸軍部隊に倍速されて、その部隊が移動し次第に付きまとって運命を一緒にしました. 私たちは部隊中で住んだし、食事も軍人たちのような食堂で一緒にしました. 私と一緒に間兔将娘はニューギニアに配置されて行きました。慰安所は代代ごとに一つずつあったし、一慰安所に女が 20-30人ずついたようです.
慰安所は代代ごとに一つずつあったし、
一慰安所に女が 20-30人ずついたようです. 普段には多くの人一部屋を使ったが、軍人たちの来る時は包装を打った各方を利用しました. 一日平均 50人以上の軍人を相対しなければならなかったです. 50人以上を相対してみるとくたびれて気を失う時があります. それでは水を振りかけて我に返るようにした後、また軍人を相対するようにします. それでも性器が水ぶくれになって、到底痛くて歩みも歩くスオブのになって、これ以上軍人を相対することができなくなれば注射を腕に放してやったが、分かってみれば麻薬注射でした. その注射を打てば不十分に痛かったです. 土,日曜日には、100人も越す軍人たちを朝 9時から相対しなければならなかったから、彼らは始める前から 4-5代の麻薬注射を私に当てました.
(後略)
(管理人注:上記は機械翻訳)
PR
この記事にコメントする