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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 田中タミ(仮名) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

両親は数え6歳の時に離婚。父は次々に事業を起こしては失敗し、ほとんど家に寄り付かず、曾祖母に育てられる。11歳の時、父により、20歳まで年季奉公するという契約で前借金と引き換えに、大森にあった芸者の置屋に預けられ、三味線を習うかたわら使い走り等をする。その後、父に千葉県船橋の遊郭に売られる。15歳の時、家に逃げ帰るが、数週間後、警察から呼び出されて遊郭に戻る。1944年、数え17歳の時、千葉県茂原に慰安所が開設されると同時に移され慰安婦をする(その時、同女はまだ客を取っていなかったが店の主には犯されていた)。終戦直後、民間人に身受けされ、その民間人の元に別居していた妻子が帰ってきたことを機に実家に戻る。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

無し。既存の遊郭から移される。


【考察】

当時、遊郭に売られた女性の状況を知る上で興味深い話です。
同女の話を読むと以下のことが分かります。

 ・遊郭等に売られる場合、養女という形を取っていたこと
 ・遊郭から逃げ出した場合、警察が来て取り調べられること(おそらく、養女・前借金という形の人身売買が容認されていて、もし、娘が逃げ出した場合は、契約不履行ということになるのでしょう)
 ・遊女に外出の自由はなく、必ず用心棒等、見張りの者がついたこと
 ・数え17歳(満15歳か16歳)で客を取り始めるのは普通だったこと
 ・慰安婦は他の遊女と違って、お国の為に身を挺して働いていると思われていたこと(全ての人がこのようなプラス・イメージを持っていたわけではないでしょうが)


【信憑性】

特に不審なところはなく、信憑性はあると思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.8 皇軍慰安所の女たち 川田文子 筑摩書房
 だがある日、父が材木商だという男を連れて置屋に来た。そして、材木商の養女にするということで、それまで父が借りていた前借金をその男が置屋に返済した。
 ところが、その男は材木商ではなかった。千葉県船橋の遊郭に大吉楼(仮名)という大店を持つ主の甥であった。父はまた金が必要になり、タミを遊郭に売り飛ばしたのだ。芸者の置屋よりは遊郭の方がよほど前借金を出す。その差額を父は得たのである。~(中略)~
 父は、タミを遊郭に預けて得た前借金とは別に、主から相当な額の金を引出し、製材業を始めた。単に前借金だけではなく、父の借金の抵当に、タミは遊郭に預けられたのである。(P.181~182)

 父は、大吉楼にタミを置いて行く時、「すぐ迎えにくるから」といった。タミは父のことばを信じて待った。しかし、季節が変り年が明けても、父は迎えに来なかった。
 待ちきれずに、タミは大吉楼を飛び出した。一五歳だった。逃げても帰るところは家しかない。父は逃げ帰ったタミをだまって家に置いた。だが、数週後、船橋の警察から呼び出しがかかったのだ。~(中略)~
 取調べは父とは別々に行われた。タミは大吉楼に戻るのは絶対にいやだといい張った。すると警官は、後手に縛った父を連れて来たのである。父の哀れな姿を見せられて、タミは折れざるを得なかった。しかし、後に警察の署長クラスの人が大吉楼に終始出入りし、主の広い部屋で饗応されているのを見るにつけ、警官が父を縛りあげたのは、タミを大吉楼に戻すための茶番でしかなかったことに気づいたのだ。タミの取調べにあたった警官も、しばしば大吉楼で見かけた。多少とも良心が咎めたのか、その警官はタミと顔を合わせると、目をそらせた。(P.183~184)

 前借金で縛られている花魁たちには行動の自由はない。外出が許される場合にも、必ず用心棒など監視する者がついていった。稼ぎ高が店で二番目、主の愛人でもあり、信用されている花魁の場合でさえ、タミが伴をした。(P.185)

 農家が点在する千葉県茂原の田園地帯に、忽然と七軒の慰安所が建てられたのは一九四四年秋である。大吉楼の主も軍の要請を受け、出店した。建物は、日頃船橋の店に出入りしていた大工が建てた。~(中略)~
 それまで船橋で小間使いとして働いていたタミは、慰安所開設と同時に茂原に連れて行かれた。数え一七歳、それ以前、すでに主に犯されていた。そのようなことがあると借金は棒引きされると、花魁たちから聞いたこともあったが、年端のいかないタミは、自分の身体を武器にして主と借金棒引きの交渉をする知恵も勇気もなかった。
 茂原に海軍の航空基地が完成したのは一九四三年である。太平洋戦争開戦前に作られた軍備計画丸五計画では、茂原航空隊を新設する予定であった。通常、海軍の航空基地には、その基地を専用する航空隊があったが、茂原飛行場の場合、基地は完成したものの、茂原航空隊は新設されないまま、第三二一航空隊、第三〇一航空隊等が使用した。飛行場の面積は一九五万平方メートル、幅八〇メートル、長さ一〇〇〇メートルと一二〇〇メートルの滑走路が二本あった。隊員は約四〇〇〇名、零戦や艦載爆撃機等約八〇機が常備していた。
 七軒の慰安所はそれぞれ名前がついていた。タミのいたところは、大吉楼と、船橋の店の名をそのまま使った。道を挟んで大吉楼の側に四軒、向かいに三軒、東京にある遊郭州崎から来た業者が多かった。大吉楼以外はいずれももとの店はたたんで来た。
 それぞれの慰安所に、六、七人ぐらいずつタミと同じ年ぐらいの若い娘ばかりが集められた。どんな事情があってか、大吉楼に二〇歳を過ぎた姉妹が二人揃って来ていたが、タミたちにはその二人が例外的な年長者に感じられたくらいだ。七軒の慰安所の娘たちの多くが、茂原に来るまでは売春体験いや性体験もなかった娘たちだった。
 性病検査は町の医院で行われた。羅患者が出た場合には、即刻軍に、羅患者の所属する慰安所名と源氏名とが伝達された。時折遊びに来た兵隊が、○○楼の××は要注意だ、などと騒いでいるのを聞いた。開設当初は慰安所には一人も羅患者はいなかったのだから、結局、軍人に性病を移されたのである。
 料金は軍によって指定されたが、遊郭に比べるとだいぶ安かった。安い料金で業者が応じたのは、税金を低く押えるか免税にするなど、なんらかの措置がとられたのだろうとタミは感じた。
 大吉楼の主は船橋に残り、茂原には来なかった。主にかわって慰安所の経営にあたったのは主の甥の木村(仮名)である。そのため、他の慰安所に比べてタミらはいくぶん楽な面があったろうか。たとえば、大吉楼では帳簿をいつでも見ることができた。タミは、一刻でも早く慰安所から抜け出したくて、戻しもすべて返済に当て、帳簿を見せてもらっては借金の残額が減っていくのを励みにしていた。戻しというのは、稼ぎ高から借金返済やきもの、化粧品、飲食費など、日常の経費を差し引かれ娘たちに戻される額である。
 また、他の六軒には遊郭と同様にやり手婆がいて、やり手婆のいいなりに軍人の相手をしなければならなかったが、木村は、女たちがいやな客を拒むのを、多少大目に見ていた。大吉楼では、玄関を入ってすぐの六畳の間で女たちは兵隊を待ったのだが、いやな兵隊が来た場合には、その場をうまくとり繕って逃げてくることも許された。もっとも、選り好みをしていれば借金はなかなか減りはしない。(P.186~188)

 七軒の"おやま"の女たちは、性だけを売買の対象とされたことには違いないが、一般の遊郭の女たちや私娼などとは区別された。お国のために身を挺して働いている娘たちである、と。タミらが近隣の農家に花など分けてもらいに行くと、「お国のためにねえ……ご苦労なされて」
 軍人に対するのと同じことばでねぎらわれることがあった。(P.190)

 慰安所はもちろん、軍人軍属以外の民間人の出入りは禁じられている。だが基地の兵隊たちの休日を知っている地元の民間人が、兵隊たちが来られない時間を見計らってこっそり入ってくる。どの慰安所でも、軍から規定された額より高い料金をとれる民間人を隠れて受け入れていた。(P190)

 慰安所の女たちは想いを寄せている航空兵が茂原を去ることを知ると、無事を祈念して日の丸の鉢巻を作り差し出した。指を切り、白い晒に血で染めあげた日の丸である。航空兵らの休日は所属する隊によって異なっていたから、女たちの予想より航空兵が慰安所に来るのが二、三日も遅れると、血の日の丸は生臭くなった。
 茂原を発つ日時をあらかじめ知らせに来る航空兵もいた。その時間に外に出てみると、慰安所の上をニ、三回旋回し、白いマフラーを大きく振って飛び去った。
 兵隊にとって慰安所は軍隊からの最も手近な避難の場であったろう。(P191)

 タミは、芸者として働くようになってから茂原時代のことはひた隠しにしていた。
 芸者は芸だけで身を立てていくことも不可能ではない。しかし、性の売買とも決して無縁ではない。表向き性の売買は行われないことになっているが、それなしでは生き難い花柳界で、芸者たちの間には厳しい階級性がある。それは性の売買の仕方と深く関わっている。分かりやすくいえば、正当に芸だけで身を立てる層を頂点とすれば、次にごく限られた上客だけを受け入れる層、そして比較的安い料金で数をこなす層だ。金持ちに見受けされ、粋な黒塀、見越の松の瀟洒な家を与えられ、花柳界から身を引くのも芸者の出世頭だろう。つまり、性交渉の相手となる男の数が少なければなるほど上層と見なされるのだ。皮肉にも貞女ニ夫に見えずの家父長制的゛家"に女の性を縛る貞操観念が、花柳界にも投影されていたわけだ。いや、借金返済のために多くの男の性の対象にされる苦痛を克服する手段がより上客に数を絞っていくことだったのである。
 芸で身を立てることを範とする芸者たちは、自分たちは遊郭の女郎とは違うと必死に思い込んでいた。必死にそう思い込まなければ、性を買売しなければ生き難い花柳界にあって、なし崩し的に二枚芸者(芸妓鑑札と娼妓鑑札を受けている芸者)になることは目に見えていたからである。(P198~199)


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