元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 金卿順(キム・キョンスン) ◆◆◆
崔明順(チェ・ミョンスン)(仮名)と同一人物
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1926年、ソウル生まれ。父が借金の保証人になって失敗して以降、苦しい生活を送る。1945年19歳のとき町内会の人が来て、「家でぶらぶらしているのなら就職したらどうだ」と言われて、反対する母を無視してこっそり家を出る。その後、広島のスハラという将校の妾にされる。何度も朝鮮に帰してくれと懇願したところ、妾にされて2ヶ月後、日本人二人に引き渡され大阪の慰安所に入れられる。4ヶ月後、病いが重くなった為、朝鮮に帰される。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
将校の妾になった後、将校の息子に日本人二人に引渡されて慰安所に入れられる。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)
【考察】
町内会の人に騙されて妾として売られたと言う話です。最初、広島のスハラという軍人の女中兼妾にされますが、そこの主人や奥さん、息子に、何度も何度も朝鮮に帰してくれと懇願していて、それが疎まれて慰安所に入れられてしまったようです。主人の奥さんは病気で寝ていたようで、おそらく、妾を持つことを奥さんも承知の上だったのではないでしょうか。その奥さんに対しても「私がいるから主人が奥さんのところに行かないと思うんです。私を朝鮮に帰せば主人は奥さんを愛するようになるでしょう」と言っていたようで、次第に奥さんも癇癪を起こして同女に対してつんけんするようになり、それでも、同じことを言い続けていたようです。
そもそも、戦地での強姦等を防止用に設置された慰安所が大阪にあったという事実は信じがたいものです。単なる売春宿だったのではないかと思います。2007.6.27削除
--------------------以下 2007.6.27追加 --------------------
同女は、大阪の慰安所に入れられたと証言しています(注1)。
大阪なら、近くの歓楽街に繰り出せば済む話ですし、性病防止の為なら釧路(注2)のケースのように、遊郭から衛生状況の良い店を選んで指定すれば良い話です。
また、仮に大阪にあったとして、同女の証言によると、慰安所の入り口には軍人が3、4人いたとあります。そんな人員を裂いてまで慰安所を設置する意味などあるのでしょうか。
(注1)「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」では、「オオサカという言葉を聞いたような気がします」とあり、かなりあいまいなもののようです)
(注2)<第三魚雷雷艇隊戦時日誌 1944年7月>
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三魚艇隊機密第二号ノ二
第二 出征中ノ事項
(ロ) 七月二十日海軍指定食堂及当市遊郭ヲ視察点検シ洗滌室ノ完備其ノ他衛生状況良好ト認ムル所六軒ヲ指定シ兵員ノ慰安所トシ七月二十八日総員ニ対シ衛生講話ヲ行ヒ一般衛生ニ関スル諸注意事項ヲ達シ伝染病及性病患者ノ発生防止ヲ計レリ
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--------------------以上 2007.6.27追加 --------------------
--------------------以下 2007.4.26追加 --------------------
また、「写真記録 破られた沈黙」(以下、「写真」)と「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下「証言」)を比べると次の通り相違点が見られます。
<生年>
○「写真」・・・1927年
○「証言」・・・1926年
→ 当時の韓国では、西暦はあまり重要視されていなかったらしく、生年がずれるのはよくあることのようです。
<姉を連れ去った人物>
○「写真」・・・日本人
○「証言」・・・不明。ただし、「『あの娘は日本人に連行されたのだ』とみんながひそひそ話をしているのを聞いたことがあります」とあり。
→ 「写真」では、日本人であったと明示していますが、「証言」では単なる噂話になっています。
<家の状況>
○「写真」・・・「お父さんは煙草の専売局に勤めていたので、貧しくはなかったのです」
○「証言」・・・「父が他人の借金の保証人になって失敗して以後、間借り住まいをしながら何度も引っ越しをくり返し、生活の苦しかったことを覚えています」
→ 家の状況は正反対です。
<学校をやめた理由>
○「写真」・・・落第させられそうになったため
○「証拠」・・・引っ越しして学校が遠くなり、月謝も払えなくなったため
→ 貧乏であったことを明らかにした為、学校をやめた理由も本当の内容に変更したのでしょう。
<徴用で取られて広島にいた兄>
○「写真」・・・一番上のお兄さん
○「証言」・・・次兄(長兄は金儲けをする為に満州に行った)
→ 何故、こんなところで食い違いが生じるのでしょうか。
<慰安婦になったきっかけ>
○「写真」・・・役所に勤めている日本人に「日本に金儲けに行かないか」と誘われる
○「証言」・・・町内会の男に「日本に行って働けば金も稼げる」と言われる
→ 役所の日本人が町内会の男に代わっています。
なお、双方とも、具体的に何の仕事をすると言われたのか全く記載されていません。本当に「金儲け」としか聞いていなかったのなら、あまりに軽率。それとも具体的に書けない理由でもあるのでしょうか。
<一緒に誘いに乗った娘>
○「写真」・・・隣の家の娘
○「証言」・・・該当する記述はなく、同女1人だったと思われる
→ なお、「写真」では、一緒に働きに行こうとしたと記載されているだけで、その後、隣の家の娘は一切出てきません。
<下関で引渡された人物>
○「写真」・・・将校の「スハラ」
○「証言」・・・2人の日本人(この日本人達に「スハラ」の家まで連れていかれる)
<広島にいた兄の死んだ日>
○「写真」・・・1945年11月
○「証言」・・・故郷に帰ってきた翌年
→ この兄は広島で原爆にあって、それが原因で死亡しているのですが、「翌年」だと1946年以降になります。
--------------------以上 2007.4.26追加 --------------------
【信憑性】
慰安所に入れられたという話は信じがたく、単に売春宿に売られてのではないでしょうか。所々、ウソが紛れていそうです。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社 私はソウル(当時は「京城」)で生まれ、お兄さん2人・お姉さん1人の4人兄弟でした。
そのお姉さんは、15歳で日本人に引っ張られて行き、しばらく行方不明になりました。3年目の春に帰って来ましたが、病気にかかっていました。お母さんはこのことを他の人に秘密にするため引っ越しをしました。結局、お姉さんはその年の秋に亡くなってしまったのです。
私は12歳で「普通学校」に入りましたが、5年生の時に落第させられそうになったのでやめてしまいました。
18歳の頃の私は「顔がきれいだ」と評判でした。それで、役所に勤めている日本人に目を付けられて「日本に金儲けに行かないか」と誘われました。お母さんは、お姉さんが引っ張られたためにみじめに死んだことを話して断りました。しかも、お父さんは煙草の専売局に勤めていたので、貧しくなかったのです。
一番上のお兄さんが、戦争が始まってから「徴用」にとられて広島にいました。その日本人は「お兄さんにも会わせる」と言いました。それで私は、隣の家の娘と2人で働きに行こうと思ったのです。1945年正月のことでした。
釜山から船に乗りましたが、たくさんの朝鮮人女性が乗っていました。~(中略)~
下関に着いたのは夕方で、船から降りると髭をはやして体格の良い日本人に引渡されました。恐ろしい思いをしたまま連れて行かれたのは、広島にあるその男の家でした。こたつで体を温めてからの、夕食のご飯とみそ汁がおいしかったです。
ところがその夜、その男に体を奪われたのです。とても痛かったのですが、声も出ませんでした。その家の他の部屋には、その男の病気の妻がいたのです。この男は「スハラ」という名前で、部屋には星の付いた将校の軍服・刀・馬に乗る時の鞭が置いてありました。~(中略)~
「スハラ」は私をかわいがってくれたものの、いくら「帰してくれ」と頼んでも聞いてくれませんでした。それだけでなく、2人の男に私を引き渡したのです。私は大阪の倉庫に連れて行かれました。
そこの入り口には歩哨が立っていて、事務所ではやって来た兵隊から切符を受け取っていました。建物の中は小さく区切った部屋がありました。部屋の数は通路の片側に10ずつでしたので、20部屋くらいでした。部屋は布団1枚敷けるだけの広さで、私は炊事場の隣でした。炊事場の向かいが便所でした。~(中略)~
お兄さんは広島で原爆に遇い、肋骨が折れただけでなく体全体が膿んでしまいました。帰国したものの、1945年11月に亡くなりました。(P.93~94)
(※2007.4.26追加)1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店 私はソウル駅前東子洞82番地で生まれました。私の上には姉と二人の兄がいました。父が他人の借金の保証人になって失敗して以後、間借り住まいをしながら何度も引っ越しをくり返し、生活の苦しかったことを覚えています。~(中略)~
私が九歳くらいになった頃、長兄と姉は学校に通っていました。姉は私より八歳年上でしたがたいそうきれいだったので、みんなから「姉さんの半分くらいでもなれればいいのに」とよく言われたものです。ところがある日、その姉が行方不明になりました。~(中略)~
そして二、三年が過ぎた頃、姉は乞食のような姿で家に帰って来ました。骨だけのやせさればえた姉を一目見るために、何十人もの人が押し寄せました。みんなは女がきれいすぎると不幸になるのだと言いました。私が母の使いで出かけたとき、「あの娘は日本人に連行されたのだ」とみんながひそひそ話しをしているのを聞いたことがあります。~(中略)~
当時長兄は結婚していましたが適当な仕事もなく、次兄は印刷所に勤めていました。私は小さい時からとりわけ次兄と仲が良く、次兄のいうことなら何でもしたし、兄も私のいうことを何でも聞いてくれました。両親よりも好きだった次兄は、二十歳になると徴用されて行きました。その後長兄は金をもうけるのだと自分の家族を連れて満州へ行き、結局両親と私だけが残りました。~(中略)~
また他の町へ越したのが一九四五年、私が満十九歳になった年でした。新暦の正月だと記憶してますが、町内会の男が来て、「家でぶらぶらしているのなら就職したらどうだ」と言いました。もしも何もしないで家にいたら、挺身隊に出されて行くことになるだろう。日本に行って働けば金も稼げるし、挺身隊にも行かないですむからと言うのです。~(中略)~母に行くなと言われたのに夜通しあれこれ考えた末、こっそり身の回りの物を包んで、母が出かけている間に町内会の男を訪ねて行きました。~(中略)~一晩中汽車に乗って釜山で下りると、その男は二人の日本人の男に私を引き渡しました。(P.270~P.272)
汽車から下りて二人の日本人の男が私をある家に連れて行きました。四十歳ぐらいの日本人の男が私を見て笑いながらとても喜びました。~(中略)~家の中を見わたしてみると、病気で寝ている奥さんと、二十歳ぐらいの息子がいました。~(中略)~それから後、主人は毎夜私と寝ました。~(中略)~主人の姓は「スハラ」といい、息子は「ジロウ」といいました。スハラは軍人でしたが、朝に軍服を着て出かけるのを見ると、肩には赤い布の上に星がついた階級章がありました。(P.274~275)
ある日、スハラが朝出かけたあと、奥さんと息子とが一緒にいるとき、またお願いしました。すると奥さんと息子が自分たちだけで何とかするからと言って、息子が私に荷物をまとめろと言いました。~(中略)~私はどこかの駅に連れて行かれました。その息子が日本人二人に何かを言うと、私をその男たちに引き渡しました。(P.276)
入口で監督する軍人が三、四人いましたが、彼らにもよく叩かれました。(P.278)
おばさんは私がここはどこかと聞いても、そんなことは聞いてはいけないと言いましたが、でもちらっとオオサカという言葉を聞いたような気がします。(P.279)
そうするうち次兄が日本から帰ってきましたが、広島で原爆が落とされたとき火傷を負い、体が腫れあがっていました。被爆した兄は、肋骨がボロボロに砕けて、翌年亡くなりました。(P.282)
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