元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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- (2006/03/25)
- 更新履歴
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◆◆◆ 金学順(キム・ハクスン) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1924.10.20、中国東北(満州)の吉林省に生まれる。生後間もなく父が他界し、2歳の時、母に連れられ平壌へ。14歳のとき母が再婚し、15歳の時、40円を受け取ってキーセン(※芸妓、芸妓兼娼婦のこと)を養成する家の養女となる。17歳の時、キーセン学校を卒業するが、19歳にならないと役所からキーセン許可がおりない為、1941年、養父に連れられ中国に行き慰安婦となり、4ヵ月後に朝鮮人男性と共に逃げ出す。
1991年8月に韓国で初めて慰安婦として名乗りを上げて証言を行い、同12月に文玉珠(ムン・オクチュ)、金田きみ子(仮名)らと共に日本政府に謝罪と補償を求め東京地裁に提訴。2004.11月に最高裁棄却により敗訴が確定した。(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟)
1997.12.16死去
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
北京で軍人に連行され、慰安所に入れられる。
【考察】
下記資料を見ると、1991.8.11の朝日新聞の記事は「挺身隊+強制連行」と他の資料と全く異なった内容になっています。当該記事については、掲載された数日後には全く異なる証言がなされていること(1991.8.15ハンギョレ新聞)、また、裁判資料も後者の証言と一致していることを考えると、多くの方が指摘している通り朝日新聞の記事は記者による歪曲でしょう。なお、当該記者は慰安婦裁判の原告である「太平洋戦争犠牲者遺族会」の常任理事の娘婿でした。
また、「裁判の訴状」(以下、「裁判」)と「金学順(キム・ハクスン)さんの証言」(以下、「金学」)、及び、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下、「証言」)の内容を比べると下記の通り、相違点が見受けられます。
<父の死亡理由等>
○「裁判」・・・死亡理由の記載なし
○「金学」・・・三・一独立運動に参加した独立運動家で、日本軍の銃に撃たれて亡くなった
○「証言」・・・独立運動をしていたとは記載されているが、死亡理由については、「どのように亡くなったかくわしい事情は分かりません」と記載。
→「金学」だけ日本軍に殺されたことになっています。
<キーセンになった理由>
○「裁判」・・・理由の記載なし
○「金学」・・・母の再婚相手が嫌で家を飛び出した後、一人で稼がなければならなかったから
○「証言」・・・母が同女をキーセンを養成する家の養女に出した
→ 「金学」では、家出して自ら養女になった話だったのが、「証言」では、母が養女に出したことに変更されています。
<中国へ向かうことになった年>
○「裁判」・・・1939年数え17歳
○「金学」・・・17歳(西暦の記載なし)
○「証言」・・・1941年満17歳
→ 17歳は一致していますが、西暦は異なっています。同女は1924年生まれなので、17歳が数え年なら1939年、満年齢なら1941年になります。どちらが正しいのでしょうか?
<朝鮮ではキーセンの許可が降りなくて養父に連れられ向かう地>
○「裁判」・・・「そこへ行けば金儲けできる」とだけ書かれており、「そこ」が中国をさすのか「鉄壁鎮」をさすのか不明。
○「金学」・・・満州(※満州に行く途中の北京で連行される)
○「証言」・・・中国
→ 「裁判」では、最初から「鉄壁鎮の慰安所を目指していた」とも読み取れる内容になっています。
また、同女の働いていた慰安所は「鉄壁鎮」という場所にあり、鉄壁鎮とは満州の鉄壁鎮のことでしょう。つまり、「金学」では、北京で軍人に連行された後に図らずとも目的地に辿り着いたことになっています。それではまずいと言うことで「証言」では目的地を漠然とした「中国」に変えたのでしょうか。
<北京で日本の軍人に職務質問を受けるのが>
○「裁判」・・・職務質問、および、それに連なる強制連行の話は出てこない
○「金学」・・・食堂で食事をとろうとしている時
○「証言」・・・食堂で昼食をとり出てくる時
→ 「金学」、「証言」では、「裁判」にはない「北京で軍人に捕まった」という情報が追加されています。ただし、上記の「金学」と「証言」は微妙な違いですが。
<職務質問をした将校が>
○「裁判」・・・職務質問、および、それに連なる強制連行の話は出てこない
○「金学」・・・長い刀を背中にしょっていて、その刀を養父につきつけたり振り回したりする
○「証言」・・・刀の話は出てこない
→ 刀を背中にしょってる将校などありえない話なので「証言」では削除したのでしょう。
<養父と別れた場所>
○「裁判」・・・鉄壁鎮(慰安所のあった場所)
○「金学」・・・北京
○「証言」・・・北京
→「金学」、「証言」では共に、北京で軍人に捕まって養父と離れ離れになります。養父と鉄壁鎮で分かれたとしている「裁判」とは大きな違いです。
「裁判」と「金学」、「証言」との一番大きな相違は、「北京での軍人による強制連行」の有無です。
「裁判」では、鉄壁鎮まで養父と一緒に行って、そこで別れて慰安所に入れられたのが、「金学」、「証言」では、北京で軍人に捕らえられ、、そこから鉄壁鎮の慰安所に連行されたことになっています。
如何にも、後から取って付けた話です。
--------------- 以下 2007.6.23追加 ----------------------
<ご参考>
「強制連行あった派」の吉見義明氏は「『従軍慰安婦』をめぐる30のウソと真実」(吉見義明・川田文子編/大月書店/1997.6)で以下のように述べています。
問題は慰安婦にされた事情だが、『証言』では、養父は北京で日本軍将校にスパイと疑われてつれて行かれ、彼女は別の軍人によって慰安所に連行されたと記されている。しかし、かせぐために中国につれて行かれたとすれば、養父に売られた可能性があるとみるのが自然だろう。(P.75)
--------------- 以上 2007.6.23追加 ----------------------
--------------- 以下 2007.7.12追加 ----------------------
<連行関連の証言の変遷>
①1991.12 「裁判の訴状」
養父に「金儲けができる」と説得され、トラックに乗せられて平壌駅で軍用列車に乗り換え中国の鉄壁鎮に行く。そこで養父と別れた後、慰安所に入れられる。
→ 特に強制連行を示す内容はありません。ただし、軍用列車に乗ったと証言して、若干、軍の関与を匂わせています。
②1992.4 「元兵士たち証言 従軍慰安婦」
部落の人が日本の警察官と一緒にやってきて、「お金がたくさん稼げるところがある」と説得される。その後、トラックと軍用列車で中国に連れて行かれ、鉄壁鎮の慰安所に入れられる。
→ 養女になってキーセン学校に通っていたことは、同書では語られていません。「部落の人」=「養父」でしょうか?(なお、同書からは、その「部落の人」が中国まで一緒に行ったかどうかは不明。)
また、金儲けできると同女を勧誘した時の人物に「日本の警察官」が加わっています。公権力の関与の度合が増しました。
なお、似た内容の証言をしている「1991.12.25朝日新聞」の記事では、「部落の人」が「地区の仕事をする人」と表現されていて、警察官は出てきません。
さらに、同書では、「十七歳になると女の子は軍隊に連れていかれるというので、どの家でも、娘が十七歳になる前に結婚させていました。それで、私は十七歳になると、母は心配しました」と、他の証言では見られない「処女供出」の情報が追加されています。同女は、「処女供出政策の一環で騙されて慰安婦にさせられた」と主張したいのでしょうか。
③1993.10 「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」
養父が「中国に行けば稼ぐことができるだろう」と言い、養父に連れられ平壌から汽車に乗って中国に行く。北京で日本の軍人に捕まり、同女は鉄壁鎮の慰安所に連行される。
→ 養父、もしくは、部落の人に騙されて慰安所に入れられた話だったのが、北京についた後に「日本の軍人に捕まった」という情報が追加されました。詐欺でもなんでもなく、完全な強制連行です。
また、今まで「軍用列車」に乗ったと言っていたのが「汽車」になり、さらに、「裁判の訴状」では、慰安所のあった鉄壁鎮で養父と別れたはずが、北京で離れ離れになったことに変更されました。
同女の証言の変遷を見ていると、「どうやって強制連行を話に盛り込むか」と試行錯誤している様がありありと見えてくるようです。
「裁判の訴状」の後、一旦、地元で公権力に騙されたことに変更したものの、結局、中国で日本兵に強制連行されたことに変更。より、強制色の強い方が良いと考えたのでしょうか。
また、中国で強制連行されたことにした結果、移動時に軍用列車を使用したのが、ただの汽車に変更され、勧誘時の日本の警察官も出てきません。中国に到着する以前で、軍や公権力の関与を匂わす必要がなくなったからでしょう。
なお、「中国で強制連行」話は、1992.8月刊行の「証言 従軍慰安婦・女子勤労挺身隊」で登場し、以降、「中国で強制連行」に証言は統一されています。どうやら、この頃に、同女の強制連行話は完成したようです。ちなみに、「証言 従軍慰安婦・女子勤労挺身隊」以降、私が知る限り、ただの「汽車」は出てきても「軍用列車」は出てきませんし、勧誘時の日本の警察官も出てきません。
--------------- 以上 2007.7.12追加 ----------------------
【信憑性】
同女の証言する強制連行は信憑性が全くないと言えるでしょう。
養父に売られた後、キーセン学校を卒業したものの朝鮮で営業できなかった為に、中国に行って慰安所に入れたという話で、その他の部分は信憑性があると思います。
【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社 内 容 等 1991.8.11 朝日新聞 (大阪版) ***** **** 日中戦争や第二次大戦の際、女子挺身隊の戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会(尹貞玉・共同代表 十六団体約三〇万人)が聞き取り調査を始めた。 1991.8.15 ハンギョレ新聞 ***** **** 生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番に売られていった。三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった
(※管理人注:キーセン検番・・・キーセンの養成学校。)1991.12 裁判訴状 ***** **** 原告金学順(以下、「金学順」という。)は、一九二三年中国東北地方の吉林省で生まれたが、同人誕生後、父がまもなく死亡したため、母と共に親戚のいる平壌へ戻り、普通学校にも四年生まで通った。母は家政婦などをしていたが、家が貧乏なため、金学順も普通学校を辞め、子守りや手伝いなどをしていた。金泰元という人の養女となり、一四歳からキーセン学校に三年間通ったが、一九三九年、一七歳(数え)の春、「そこへ行けば金儲けができる」と説得され、金学順の同僚で一歳年上の女性(エミ子といった)と共に養父に連れられて中国に渡った。トラックに乗って平壌駅に行き、そこから軍人しか乗っていない軍用列車に三日間乗せられた。何度も乗り換えたが、安東と北京を通ったこと、到着したところが、「北支」「カッカ県」「鉄壁鎮」であるとしかわからなかった。「鉄壁鎮」は夜着いた。小さな部落だった。養父とはそこで別れた。金学順らは中国人の家に将校に案内され、部屋に入れられ鍵を掛けられた。そのとき初めて「しまった」と思った。翌日の朝、馬の嘶きが聞こえた。隣の部屋にも三人の朝鮮人女性がいた。話をすると、「何とバカなことをしたか」といわれ、何とか逃げなければと思ったが、まわりは軍人で一杯のようだった。その日の朝のうちに将校が来た。一緒に来たエミ子と別にされ、「心配するな、いうとおりにせよ」といわれ、そして、「服を脱げ」と命令された。暴力を振るわれ従うしかなかったが、思い出すのがとても辛い。 1991.12.25 朝日新聞 ***** **** 「私は満州(現中国東北部)の吉林省の田舎で生まれました。父が、独立軍の仕事を助ける民間人だったので満州にいたのです。私が生後100日位の時、父が死に、その後、母と私は平壌へ行きました。貧しくて学校は、普通学校(小学校)4年で、やめました。その後は子守をしたりして暮らしていました」
「『そこへ行けば金もうけができる』。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。仕事の中身はいいませんでした。近くの友人と2人、誘いに乗りました。17歳(数え)の春(1939年)でした」
「平壌駅から軍人達と一緒の列車に乗せられ、3日間。北京を経て、小さな集落に連れて行かれました。怖かったけれど、我慢しました。真っ暗い夜でした。私と、友人は将校のような人に、中国人が使っていた空き家の暗い部屋に閉じ込められたのです。鍵をかけられてしまいました。しまったと思いました」
「将校は私を暗い部屋に連れて行って、『服を脱げ』と言いました。恐ろしくて、従うしかありませんでした。そのときのことはしゃべることさえ出来ません。夜明け前、目が覚めると将校が横で寝ていました。殺したかった。でも、出来ませんでした。私が連れて行かれたところは、「北支(中国北部)カッカ県テッペキチン』というところだということが後で分かりました」~(中略)~
「日本政府がウソを言うのがゆるせない。生き証人がここで証言しているじゃないですか」1992 『強制連行と従軍慰安婦』日本図書センター一九九二年刊収録 平林久枝編 **** 養父に連れられ、北支のカッカ県鉄壁鎮に行き慰安婦になった 1992.4 従軍慰安婦 元兵士たちの証言 西野留美子 明石書店 私は、満州の吉林で生まれました。私が生まれて百日もたたないうちに、父は亡くなりました。大きくなるにつれ、私は教会に行くようになりました。今思うと、貧乏だったけれど、母と一緒で幸せなときだったかもしれません。
その頃、十七歳になると女の子は軍隊に連れていかれるというので、どの家でも、娘が十七歳になる前に結婚させていました。それで、私は十七歳になると、母は心配しました。
ある日のことです。部落の人が、日本の警察官と一緒にやってきました。
「お金がたくさん稼げるところがある」
説得され、とうとうトラックに乗りました。同じ部落の一歳年上の友だちといっしょでした。トラックから軍用列車に乗りかえ、三日ほどして着いた所は、中国でした。(「北支」「カッカ県」「鉄壁鎮」)。
反抗すると殴られるし、「殺す」と言われ、とにかくわけも分からないまま中国の家に連れて行かれました。そこで、まっ暗な部屋のなかに二人は入れられました。
「お姉さん、どうしよう・・・・・・」
部落からいっしょにきた友だちは一歳年上なので、お姉さんと呼んでいました。どうする術もなくただ暗闇のなかでおどおどしていました。するととつぜん、戸口から明るい光が入ってきました。昼間、私たちをトラックに乗せてここまで連れてきた日本人の将校でした。明りは、ろうそくの火でした。怖くて部屋の隅にうずくまっていますと、その将校は私の腕を引っ張りました。いやがる私を蹴ったり、脅かしたりして、となりの部屋に連れて行きました。
部屋といっても、壁もない、ドアもない。ただ、カーテンがわりの布一枚で仕切ってあるだけでした。将校は、私に言いました。
「服を脱げ!」(P.113~114)
(※2007.7.12 追加)1992.8 <証言>従軍慰安婦・女性勤労挺身隊 伊藤孝司 風媒社 父は独立運動をしていたために、朝鮮では暮らす事ができず、「満州(中国東北地方)」へ行きました。父はそこで母と出会い、私は吉林省で生まれました。ですが、私が生まれて一〇〇日目のお祝いもしないうちに、父は死んだのです。原因は知りません。ですから兄弟はいません。(P.128)
そのため、母の希望もあったし、一四歳で平壌の「妓生券番学校」という有名なキーセンになるための学校に入ったんです。ここでは舞踊・歌、チャングやカヤグムなどの楽器、書道から道徳まで勉強しました。学校は数百人いて、一緒に八~九人が卒業しました。三年間通って卒業証書をもらいました。
この学校に入るにはお金がたくさん必要だったので、金泰元(キム・テウォン)という天安(テアン)出身の人の養女になって、お金を出してもらっていました。
卒業した年に、この養父ともう一人の自分より一歳上の娘と一緒に、中国へ行ったんです。養父は娘二人を使って金儲けしようとしたらしいのです。
ところが、着いてすぐに日本軍の兵隊が来て私たちを取り囲み、養父を地面に引きずって座らせ、日本刀で脅したんです。殺さんばかりでした。将校が「娘たちを連れて行け」と兵隊に命令したので、私たちは連れて行かれました。だから、養父がその後どうなったのかわかりません。(P.129~130)
(※2007.4.6情報追加)1993.2 金学順(キム・ハクスン)さんの証言 -「従軍慰安婦問題」を問う- 解放出版社編 解放出版社 父は三・一独立運動に参加した独立運動家と聞いています。~(中略)~ところが私が生まれて一〇〇日もたたない間に、父は日本軍の銃で撃たれて亡くなったのです。(P.9~10)
そうこうするうちに、誰かの世話で母が再婚することになりましたが、私はどう考えても母と一緒になった男性を父と呼ぶことができませんでした。そこで家を飛びだしてしまったのです。私が十四歳のときです。
こうして私は一人でお金を稼がねばならなくなったのです。どうやって稼ごうかと考えた末に、キーセンの修行のできる家の養女になったのです。
養父がたくさんのお金を出してくれて、歌や踊りを十七歳になるまで、ピョンヤンにある学校で三年間習いました。(P.13~14)
当時はキーセンも検番の許可を受けないと仕事ができませんでした。しかも、十七歳では許可がおりなかったのです。一九歳でないと許可がおりないんです。
そこで養父が「どこかに行ってお金を稼がねばならん。ピョンヤンでは暮らしていけないから、満州へ行こう」と言いました。私も「お金を稼がねば」と思って「満州」にいくことになったのです。(P.15)
「満州」へ行くのは大変でした。私たち三人を乗せた汽車は新義州を出発して安東(アントン)橋を渡っていきました。~(中略)~
中国に入ると、そこは日本軍が監視していて誰でも行けるところではありませんでした。そうこうするうちに私たちは日本兵に捕まりましたが、養父がどんな手を使ったのか知りませんが、私たちは釈放されて、そこから養父と汽車に乗って北の方に行きました。北に向かってたぶん、三日間は汽車に乗っていたと思います。そして着いたところが、北京でした。~(中略)~
ある日、食堂で食事をとろうとしている時、日本軍の将校に見つかってしまいました。~(中略)~将校は長い刀を背中にしょっていたのですが、その刀を抜いてつきつけて養父を離れたところに連れて、ひざまずかせました。何をいっているのか知りませんが、刀をふりまわしていました。(P.16~17)
私たちはそのまま軍人につかまって、道ばたに止めてあった軍用トラックに乗せられたのです。(P.18)1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社 卒業した年に、この養父と私より1歳上の娘と一緒に中国へ行ったのです。養父は娘2人を使って金儲けしようとしたらしいのです。ところが、着いてすぐに日本軍の将校と兵隊が私たちを取り囲み、養父を地面に引きずって座らせ日本刀で脅したのです。殺さんばかりでした。「娘たちを連れて行け」と将校が兵隊に命令しました。
私たちは「北支」の獲鹿県の部隊に連れて行かれました。そこは最前線だったので、連れられて行く途中にも「襲撃だ」と言われてトラックの下に隠れたのです。弾が、頭の上をかすめて飛んで行きました。(P84)
(※2004.4.23追加)1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店 母が私を中国で一九二四年に産んで、その後百日もたたずに父が亡くなったといいます。どのように亡くなったかくわしい事情はわかりません。(P.42)
母は私をキーセンを養成する家の養女に出しました。~(中略)~母は養父から四〇円をもらい、何年かの契約で私をその家に置いていったと記憶しています。(P.43)
券番から卒業証書を貰えれば正式に妓生になって営業することができるのでした。ところが十九歳にならないと役所から妓生許可が下りないのです。卒業した年、私は十七歳だったので卒業しても営業することができませんでした。それで養父は私を連れてあちこち駆けずりまわり、許可を得ようと必死でした。私が年齢より体が大きかったので、養父は年を大目に話したのですが、役所からは実際の年が十七歳だからだめだと言われました。
国内では私たちを連れて営業できなかったので、養父は中国に行けば稼げるだろうと言いました。それで養家で一緒に妓生になるための習い事を習った姉さんと私は、養父に連れられて中国へ行くことになりました。一九四一年、私が十七歳になった年でした。養父は中国へ発つ前に母に連絡して中国へ行くことを承諾してもらいました。出発する日、母は黄色いセーターを買って来てくれて、平壌駅まで出て来て見送ってくれました。
平壌で汽車に乗って新義州から安東橋を渡りサンヘグァンへ行く時、養父が日本の憲兵に検問されました。養父は検問所に入って何時間か後に出て来ました。それからまた何日か汽車に乗って行きました。途中汽車の中で寝たり、旅館で寝たりしました。北京に行けば良い商売になると言って、養父は私たちを連れて北京まで行きました。~(中略)~
北京に到着して食堂で昼食をとり、食堂から出てきたときに、日本の軍人が養父を呼び止めました。~(中略)~姉さんと私は別の軍人に連行されました(P.44~45)1997.12.16 共同通信 ***** **** 金さんは旧満州(現中国東北地方)で生まれ、平壌で育ったが、十七歳の時の春に、日本の軍人に強制的にトラックに乗せられ、中国大陸の前線に連れて行かれたと証言 2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店 (※管理人注:同書の内容は「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」を転載したもので内容は同じ)
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