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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 朴玉蓮(パク・オクリョン) ◆◆◆


朴順愛(パク・スネ)(仮名)と同一人物


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1919年(戸籍上は1920年)4月20日、全羅南道茂朱(ムジュ)生まれ。16歳の時、貧しい家庭に事情も知らず嫁いだが、その家を逃げ出し、1936年18歳の時、金持ちの後妻になる。1938年20歳で息子を出産。1941年23歳の時、猜疑心の強い夫に紹介所に売り渡される。紹介所(注)で慰問団を募集するという話を聞き、「野戦病院で軍人の服を洗い、彼らが負傷したら治療してやればいい」ということだったので自ら志願、以降、ラバウルで慰安婦生活を強いられ、1944年正月頃に朝鮮に帰郷。

(注)紹介所・・・簡単に言えば人身売買の仲介所。お金が必要な者が娘等を売ったり、人手の必要な者が人を買ったりする所。買い入れ先の選定にはある程度本人の意思が尊重されたようです。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

朴という人物が募集をし、その朴と金、趙の3人の引率の元、軍艦に乗ってラバウルに向かう。この3人は慰安所で事務の仕事をしていた。


【考察】

夫に紹介所に売られた後、「野戦病院で軍人の服を洗い、彼らが負傷したら治療してやればいい」と言う話に騙されて慰安婦になったという話です。


【信憑性】

証言には特に不審な点は見当たりません。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 猜疑心がぶり返したのか、夫は私の髪を見ると因縁をつけるのです。そして私から子どもを取り上げると、私を紹介所に売り渡しました。私が二十三歳(一九四一年)、陰暦十月のころでした。(P.255)

 しばらくすると慰問団を募集するという噂が耳に入りました。「野戦病院で軍人の服を洗い、彼らが負傷したら治療してやればよい」といわれ、三年ほど働けば借金も返せるし、お金も儲けられるということでした。募集人員は二十五人で、私はクムスンと一緒に志願しました。~(中略)~陰暦の十二月ごろでしたが、その後、紹介所でしばらくの間、船が来るのを待ちました。(P.256)

 ソウルを発つとき、朴氏と金氏、趙氏の引率する私たち二十五人と、ハヤシという男の引率する二十五人の合わせて五十人の女がいました。夜に釜山に到着してすぐ船に乗りました。下関に到着後、船の中で一晩すごしました。~(中略)~下関から更に南へ向かい、到着するまで一度も船を乗りかえることはありませんでした。船は軍艦で、食堂や劇場、病院、風呂もあり、馬まで乗せていました。(P.257)

事務室には私たちを連れて来た朴氏と金氏、趙氏がいて、毎朝、券の計算をしました。(P.259)
2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房
 1919年(戸籍上、1920年)4月20日、全羅北道茂朱郡で農業を営む両親のもと、6人姉妹の3女として生まれる。普通学校に2年生まで通ったが、学校に行くのが嫌でやめ、その後夜学でハングルを学んだ。
 16歳のとき、貧しい家に嫁いだものの逃げ帰り、18歳(1936年)で再び金持ちの家に後妻として入る。夫は家柄も良く財産もあったが、非常に嫉妬心が強く、酒が入ると殴られた。2年後の20歳のときに息子を産んだ。夫は2年間、日本に出稼ぎに行って帰ってくると猜疑心も酷くなっており、虐待を受けたあげくには息子を取り上げ、業者にハルモニを売り渡した。23歳になった年(1941年)の10月頃だった。
 ソウルにある紹介所で慰問団の募集の噂を聞いて、夫が受け取った身売り金を早く返し、強制的に別れさせらえれた幼い息子と一緒に暮らしたい一念で志願した。野戦病院で軍人たちの服を洗濯したり負傷軍人を看護したりする仕事で、およそ3年も働けば借金も返せるとのことだった。ソウルを出発した後、釜山を通って下関まで行き、そのまま軍艦で1ヵ月半かけて到着したのが南太平洋最南端の激戦地パプア・ニューギニアのラバウルだった。
 軍人を相手にするなど、夢にも思わなかった。食事のとき以外は部屋から出ることもなく、内から戸を閉めた。慰問所の主人が探しにきては「そんなことをしてどうやって借金を返すつもりだ」と脅した。逃げようにも四方を海に囲まれていて、逃げることもできなかった。
 「しずこ」と呼ばれ、1日に20~30人ほどの相手をしながら「慰安婦」生活を送った。軍人には必ず日本語を使えと、慰安所の主人から熱心に日本語を教えられた。性病にかかる人も多く、野戦病院から週に1度、検診に来た。性病にかかると606号注射を打って1週間ほど治療を受けるが、このときばかりは「休暇」の札を下げることができた。ハルモニは、生理のときにもそうしたそうだ。(P.132~133)

(※2007.4.26 追加)
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