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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 金順徳(キム・スンドク) ◆◆◆


※金徳鎮(キム・ドクチン)(仮名)と同一人物


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1921年慶尚南道生まれ。父親はタバコの密造(あくまで自分で吸っていただけ)がばれて日本の巡査に捕らえられ、鞭でひどく打たれて帰ってきた後、病にかかり死亡。以降、飢え死に寸前の苦しい生活となる。12歳の時、普州の銀行員の家で女中となり16歳まで働く。1937年17歳の時、日本の工場で働く女工の募集している朝鮮人の男に騙され、長崎に行きそこで軍人に強姦される。1週間後、上海に向かいそこで慰安所に入れられる。引率してきた朝鮮人が慰安所の経営者であった。
1940年、親しくしていた「イズミ」という軍人の好意により親友4人と共に帰郷する。

2004.6.10死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

釜山で、引率が騙した男から朝鮮の男女二人に代わる。そこから長崎に行き旅館で1週間過ごすが軍人の監視がつき、同女は階級の高い軍人に強姦される。同女たちを引率した朝鮮人が慰安所の経営者。


【考察】

慰安所までの移動途中で、軍人の関与があるのは長崎だけです。もし、軍の関与があって逃げないように監視が必要と考えていたなら、長崎のみで監視がついたのは疑問です。
また、証言では、長崎で毎晩のように軍人達に強姦され、同女の質問に対して軍人が「命令がおりなければどこへ行くのかわからない。何をするかは行ってみればわかる」と答え、軍人達が彼女達を慰安婦として働かすことを知っていたと思われる発言もしています。

長崎でだけ軍の関与を示唆する記述があるのも奇妙で、後からの追加ではないかと疑いたくなります。

-------------以下 2007.4.12追加---------------------------
また、下記資料の「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(1993)(以下、「証言」)と「高槻私立総合総合市民交流センター『金順徳さんの証言を聞く会』」(2003)(以下、「高槻」を比べると下記の通り相違点があります。

<騙された仕事>
○「証言」・・・日本の工場で働かせる
○「高槻」・・・準看護婦

<長崎での強姦>
○「証言」・・・長崎で滞在していた1週間、毎晩、軍人に強姦される
○「高槻」・・・長崎経由とあるだけで、該当する記述なし
→ 「高槻」では、単に省略しただけかも知れませんが。

<追加された日本軍人の残虐行為>
○「証言」・・・該当する記述なし
○「高槻」・・・以下の証言が追加されている
   ・中国人の足を焼いて作った薬を飲まされる
   ・トラックに首をぶら下げていた
   ・南京には「人なら誰でも殺せ」命令が出ていた。
   ・「ミナミナコロセ!」「ヒトヒト、シナジン、ミナミナコロセ!」韓国の学校でもこの言葉が唱えられた。
→ 証言内容がエスカレートして過激さが増しています。韓国の学校で「ミナミナコロセ」等と唱えられた等、ありえないでしょう。

-------------以下 2007.4.15追加-------------------------
さらに、「私は「慰安婦」ではない」(1997)では、「証言」では「朝鮮の男が日本の工場で仕事をする女を募集していたので応募した」という話だったのが、「処女供出」の情報が追加され、「妹が「供出」されるくらいなら自分が行く方がましだという思」って自ら志願した話になっています。そして、志願した時に聞いた仕事内容が「臨時の看護婦をしたり、軍人の服を縫製したり、そういう軍に関係する」と、工場で働くのとは全く異なる内容になっています。

また、この頃より、「中国の軍人の足を焼いて作った薬を飲まされた」という話が追加されているようです。
-------------以上 2007.4.15追加-------------------------

-------------以上 2007.4.12追加---------------------------



【信憑性】

もともとは、工場の女工に応募した話が、妹の代わりに自ら処女供出に志願したという話に変更され、また、後の証言になるほど過激な情報も追加しているようです。
信憑性はありません。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 私が十七歳の年(一九三七年)の陰暦正月中旬か二月の初めのころでした。就職を斡旋するので娘たちを募集するという話を聞いて「私も行こう」と考えていました。そうしたある日、朝鮮の男日本の工場で仕事する女を募集しに、また坪村に来たという話を聞きました。私は坪村に行ってその人に会い、日本に行く約束をしました。(P.59)

 釜山から船に乗ると引率者が新たに朝鮮の男女二人に替わりました。~(中略)~長崎に到着するとバスのような車が来たので、私たち一行はそれに乗って旅館に行きました。旅館に入ったその日から、軍人が私たちを監視しました。~(中略)~最初の晩、私は階級の高い軍人に連れて行かれ強姦されました。~(中略)~毎晩階級の高い軍人たちの部屋にあっちこっちとひっぱっられて行かれ強姦されました。五日ぐらい過ぎた時、私は軍人に「なぜ私たちを男の部屋に連れ回すのですか?私たちがこれからするのはどんな仕事ですか?男と寝ることなんですか」と責め寄りました。すると、「命令がおりなければどこへ行くのかわからない。何をするかは行ってみればわかる」と言われました。こうして一週間過ごした後、出発することになりました。(P.60~61)

 私たちを引率して来た朝鮮人が経営者のようでしたが、軍人が食べる物や家の衛生面の検査をしに来ました。(P.62)
1997.8 私は「慰安婦」ではない
日本の侵略と性奴隷
「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」実行委員会 東方出版
そしてまた松茸を採ったり木の種を採ったりして暮らしているうちに騒動が起こりました。それはどういうことかと言いますと、学徒兵、補給兵という名のもとに、日本は韓国人の男たちをたくさん連行して行ったのです。そのうえ「処女供出」ということが出てきました。一家族につき十五歳以上の娘を一人供出しなければ暮らしていけなくさせられました。けれど幼くても結婚していたり「障害」を持っていれば行かなくてもすみ、処女だけが連れて行かれたのです。それでその当時韓国では、まだうら若い娘を急いで結婚させたりしました。道を歩いていても学校でも、とにかくどこからでも連れて行かれたものですから、私は姉の家に行っていました。
 「供出」を恐れてどこかに隠れて逃げている娘たちが多いので、また違うことが出てきました。一家の中で姉を連れて行くなり妹を連れて行くなり、若い娘をとにかく誰か一人は連れて行くという噂出ました。そして私は妹があまりにも幼いので、妹が「供出」されるくらいなら自分が行く方がましだという思いで引率者に会いました。そして、何処でどのような仕事をするのかと尋ねますと、その人が言うには、臨時の看護婦をしたり、軍人の服を縫製したり、そういう軍に関係する仕事をするという話だったのです。それで私は行くことにしました。一九三七年、数え年十七歳の時のことです。(P.40)

 私は毎日の様に血を流していました。病院というところに連れて行かれても出血は止まらず、そこの主人という人が幾つかの薬をくれました。何週かしてやっと出血は止まりました。その何ヶ月か後に主人が、「あの薬を飲んで少しは良くなったか」と聞きましたので、私は「病院に行って軍人たちがくれた薬を飲んで良くなったのか、ここでもらった薬を飲んだためか分からないのですが、出血は止まりました」と答えました。すると主人は「中国の軍人の足を焼いてそれを飲ませてやったんだ」と言ったんです。(P.42)
(※2007.4.15 追加)
1998.4.28 朝日新聞「『慰謝料少なすぎる』 韓国・比関係者」 ***** ****
原告の朴頭理さんと同じ「ナヌムの家」(京畿道広州郡)に住む元慰安婦の金順徳(キムスンドク)さん(七六)は農作業中に(関釜)判決を伝え聞いた。「別にうれしくも何ともない。その後、控訴されたら、判決がどうなるか分からないじゃないか。三十万円なんて、いまどき子供にアイスクリーム代でもあげると思っているのか。金はいらない。重要なのは日本政府の謝罪だ。私も(原告の)朴頭理さ んも死ぬまで闘うよ」と興奮しながらしゃべった。
2001.3.30 朝日新聞「韓国の支援者『右傾化』憂慮」 ***** ****
関釜裁判」控訴審判決に、韓国の元従軍慰安婦や支援団体からは、歴史教科書検定問題と重ね合わせて「日本の右傾化」を心配する声が相次いだ。韓国メディアは有力紙、東亜日報が29日付の早版一面で伝えたが、判決が出た事実を淡々と報じる姿勢が目立った。
 元慰安婦だった被害女性らが一緒に暮らすソウル近郊の「ナヌムの家」にいた金順徳さん(81)は判決を聞きに広島へ向かった原告からの朗報を待っていたが、先にメディアから請求棄却の判決内容を聞かされた。「日本という国は教科書をわい曲し、慰安婦問題でも責任をとらないのか」と叫んだ。
 支援団体の韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会も「今回の判決は歴史教科書の改悪問題と合わせ、日本が右傾化している現実をみせつけた」との声明を発表した。
2001.6.18 朝鮮新報 「日本の歴史わい曲許さない」 ***** ****
南朝鮮の性奴隷被害者、金順徳さん(81)は、11日の集会で17歳の時に日本軍にだまされ南京に連行された体験を話しながら、「犠牲者は今もたくさん生きているのに、教科書から『慰安婦』問題を消すとはどういうことか」と声を荒げた。
(※2007.4.12 追加)
2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 柏書房
1937年日本の工場で働く女性を募集しているという話を聞き、日本へ渡ることを決める。ただ工場へお金を稼ぎに行くものとだけ思い、それがとても危険なことだろうとは考えてもみなかったそうだ。
まず釜山までバスと汽車に乗せられ、そこから船で長崎に着いた。ハルモニとともに、30人の女性が連れて来られた。長崎に着いたその日の夜、ハルモニは軍人に強姦されたという。そんなことが毎晩続き、1週間経った頃、再び船に乗せられ、今度は中国の上海へと連れて来られる。一緒に日本へ渡った30人の女性が、一斉に移動させられたのである。そこではすでに、日本人女性2人と朝鮮人女性20人ほどがおり、新しく連れて来られた30人を合わせると、女性の数は50人ほどに達した。その50人のなかで、病気で寝込んでいる人などを除き、毎日平均35人ほどの女性が軍人の相手をさせられた。一日に30~40人の軍人が訪れ、寝る暇もないほどだったそうだ。部隊が移動すると、慰安所も後を追うように前線へと移動し、最後にとどまった所は南京であった。~(中略)~
慰安所生活を送って3年くらい経った1940年、「イズミ」は、ハルモニの体調があまり思わしくないこと、そして、戦闘もますます激しくなるだろうことを心配し、ハルモニに必ず自分が迎えに行くから先に帰郷するようにと言った。そして、ハルモニが一緒に帰ることを希望した4人の女性を含む5人を帰郷させるよう、慰安所の主人に命令した。慰安所の主人は、高級軍人の命令だけに拒むこともできず、ハルモニたちはお金を一銭も受け取れないまま帰郷した。(P.126~127)
(※2007.4.12 追加)
2003.4.4 高槻私立総合総合市民交流センター「金順徳さんの証言を聞く会」 ***** ****
日帝時代、準看護婦として韓国から連れられた。「これからどこへ行くのか?」と聞くと、「日本だ」と言われた。まず、小船で長崎まで行った。長崎から大きい船に乗り換え上海へ。上海に着いたとき「ここはどこなんだ?」と聞いたら「上海だ」と言われた。

そのとき、「誰が中国に来ると言ったんだ!日本に来るんじゃなかったのか!」と泣き叫んだ。日本人は聞くふりをしただけだった。すぐトラックが来て、乗せられた。上海の街中へ連れて行かれた。連れて行かれた所は戦いで家が潰されていた所だった。軍人たちが約50~100人の女性を小さな部屋が何個もある建物の中に入れた。上海から南京にかけては同じような(小さな部屋が何個もある建物)光景が続いてた。

15~17歳の少女たちは性器の所から血を流す。その度に軍が病院に連れて行く。何度も何度も病院に運ぶトラックが「痛い痛い」と叫ぶ少女たちを運んでいった。
私自身は、部屋にうずくまって血が出ていた時、日本人が薬をくれた。
薬を飲んだ後、「良くなったか?」と聞かれた。薬で良くなったのか、病院に行って良くなったのかが分からなかったから、「分からない」と答えた。そしたら薬をくれた日本人は「薬の中には中国人の足を焼いたものが入ってたんだ」と言った。
今でも夢に出てくる。足を切られた中国人が襲いに来る夢を。うなされる。

高位な軍人は慰安小屋に並ばない。高位な軍人のために少女達が集められる。下っ端の軍人が一番可愛い子を探してトラックで連れて行く。
高位な軍人は年寄りだった。はじめて相手をさせられた高位軍人の名前は「イズミ」だった。歳は50歳。その時私は17歳。
一つの戦闘があるごとに違う部隊の兵と相手をさせられた。週に一度身体検査があった。検査をしに行くために黒い布で覆われたトラックで行った。隙間から外を見ると人がいないような景色が広がってる。
人らしき物が見えたので「あれは何?」と聞くと、「このトラックに首がぶら下がってるんだ」と言ってた。
外は軍人だけが歩いていた。酔っているように見えたから「酔ってるの?」と聞けば、「酔ってるんじゃない。気が狂ったんだ」と軍人は言った。「人を殺しすぎて。」

当時南京には「人なら誰でも殺せ」命令が出ていた。
「ミナミナコロセ!」「ヒトヒト、シナジン、ミナミナコロセ!」
韓国の学校でもこの言葉が唱えられた。


未だにこの時の南京の夢を見る。
足を切られた中国人の夢と同じくらいうなされる。

週に一度の身体検査に行けば、少女が何人死んだかを教えてくれる。自殺が多い。薬、首吊り。いつも下(性器)から血が流れて、首を吊ったことがあった。しかし監視役がいたので死ぬことは出来なかった。
高位軍人の相手をしていたので2・3人の監視役がトイレに行く時もついてきた。
戦いの度に車に乗せられ高位軍人の相手をさせられに行っていた。
あまりにもつらかったので軍人に「死にたい」と言った。すると、「日本が勝てば、勉強も出来る」と言われた。
でも耐えれない。

「3・4人で一緒に死ぬと約束した」と言った。

すると”イズミ”がハンコをついた慰問袋(帰郷証)をくれた。袋をもらった後、韓国に帰れた。袋(帰郷証)を見せるたびに「何でこの人を知ってるんだ?」と聞かれた。
袋があったから韓国まで帰れた。韓国に帰った後、”イズミ”に手紙を書いた。週に一回くらいの割合で返ってきた。
唐辛子や、小麦粉も手紙にまぜて送った。「辛かった。おいしかった。」と手紙が返ってきた。 ”イズミ”との手紙、写真が沢山溜まったけど、朝鮮戦争の爆撃で全部無くなった。
(※2007.4.12 追加)
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