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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 金福善(キム・????) ◆◆◆

金台善(キム・テソン)(仮名)と同一人物


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1926.2.20、全羅南道康津(カンジン)生まれ。12歳の時、母がアヘンを吸う父と離婚し、その後、伯父の家に引き取られる。1944年、18歳になったある日、日本人一人と朝鮮人一人が伯父の家に来て「日本の工場に就職させてやる」と言われて無理やり連れ去られ、ビルマ(ミャンマー)のラングーンの慰安所に入れられる。約1ヶ月後、爆撃がひどくなってきた為、部隊移動の際、慰安所案内役の朝鮮人、及び他の慰安婦達と共に逃げ出す。

1991.12月に提訴された「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」に1992.4月に第2次原告の一人として参加する(※裁判上は「原告C」)。同裁判は2004.11月、最高裁棄却により敗訴が確定した。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

ビルマへ向かう途中、釜山の収容所に入れられるが、そこでは軍服を着た朝鮮人が見張りを行う。


【考察】

同女の証言の疑問点は以下の通りです。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より)

 ①「工場で働かせてあげる」は、他の元・従軍慰安婦の証言でよくある人間ブローカーや売春宿経営者の騙し文句です。しかし、同女の場合、あらかじめに「最近、娘を連行する人が多い」という噂まで流れており、また、食事をしていた時に「戸を蹴って入ってき」て同意もないのに「両腕をつかまれ二人に連れて行かれ」ています。他の同様な元・従軍慰安婦の証言には、最初からこんなに乱暴な人間ブローカーなどいませんし、同意もなく連れて行く者もいません。しかも、このような強引な手法を用いている割には集められた女の子は4人だけと、他の騙された元・従軍慰安婦と変わりません。

 ②同意無しに強制的に連行されるという衝撃的なシーンの割には、以下の通り、その時の伯父の様子もなく、描写・表現があまりにも簡素。同女が同意したのか拒否したのかも明記されていません。(明記されていないので同意しなかったと判断しましたが)

 「ご飯を食べ終わると、崔が「金を稼ぎたくないか?日本に行って一年間だけ工場で働けば、たんまり金を稼ぐことができるから、行こう」と言いました。そのまま私は両腕をつかまれ二人に連れて行かれました。(P.243)

 ③同女が一時、入れられた釜山の収容所では軍人が見張りを行っており、便所について行くのにもついて来る厳重さです。この時点では、集められてきた女性達は工場で働くと思っているのですから、こんな見張りは不要です。

 ④同女を騙して連れ去った日本人の服装を「国民服(あるいは軍服)」として、軍人だった可能性を示唆しています。この日本人は慰安所の受付を行っており、単なる慰安所経営者と考えるのが自然でしょう。また、その日本人と共に行動していた朝鮮人は慰安所の案内係をしています。

 ⑤15,6歳の時に母が死亡し、父は行方不明で、伯父の家に世話になっていたはずですが、ビルマから朝鮮に帰った後の話に伯父が全く出てきません。無理やり連れて行かれたのだから心配していて当然で、会いに行かないのは不自然です。慰安婦になってしまったことを恥じてのことだとも考えられますが、それならそれで、そのことが記載されていてもいいはずです。


-------------------- 以下、2007.4.10追加--------------------------

なお、「裁判の訴状」(以下「裁判」)と「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下「証言」)を比べると下記の通り内容が異なっています。

<連行した人物>
○「裁判」・・・憲兵
○「証言」・・・国民服(あるいは軍服)を着た30代の日本人1人と背広を着た40代の崔(チェ)という朝鮮人1人
はっきり「憲兵」と証言していたのが、「軍人だったかも知れない」程度に濁されています。

<釜山の収容所での軍の関与>
○「裁判」・・・記述なし
○「証言」・・・収容所には軍人がおり、日本の軍隊から握り飯を貰う。また、同女達の監視は、軍服を着た朝鮮人が行っていた

<慰安婦にされると気付いた時>
○「裁判」・・・ラングーンに到着してトラックに乗せられた時
○「証言」・・・サイゴンに来て初めて慰安所に行くことが分かる(※サイゴンはラングーンに着く前に立ち寄った所。何故、分かったかは記載されていない)

<慰安所に向かうトラックの軍人>
○「裁判」・・・記述なし
○「証言」・・・日本の軍人が乗っていた

<慰安所と部隊との距離>
○「裁判」・・・軍の部隊は一度も見たことがなく、遠いところにあるようだった
○「証言」・・・部隊は慰安所からそれほど離れていないようでした

<「崔」という人物>
○「裁判」・・・同女たちは、連合軍の爆撃の混乱に乗じて脱走するが、その際、助けてくれたのが「崔」(日本名・岩岡)という韓国人兵士で、共に釜山まで帰る。
○「証言」・・・同女を騙して慰安所まで連行し、その慰安所で案内係をしたのが「崔」。また、「崔」は、部隊が移動する際に逃げようと提案してきて、同女たちと共に脱走、共に釜山まで帰る。


殆どが、微妙なものばかりですが、「崔」という人物の役回りは全く違っています。脱出の際に協力して釜山まで帰るのは同じですが、「裁判」では、脱走の際に突然、登場するのに対して、「証言」では、同女を連行した張本人の1人になっています。
「証言」には「崔はソウル出身の人でした。崔は私を慰安所に連行した人ですが、彼も当時はそうするよりほかになかったのだろうと思っています」(P.251~252)とフォローする文章もあります。「裁判」では、崔をかばって連行した張本人であることを隠したのでしょう。
しかし、このことは、証言者が意図的に証言内容を変更していることを示しています。他にも同様に事実を歪めているところがないのか、非常に疑わしいものです。

-------------------- 以上、2007.4.10追加--------------------------


【信憑性】

内容的には慰安所経営者に騙されて慰安所に入れられたという話ですが、果たして本当に同意も無しに連れ去られたのか、また、慰安所に向かう途中の釜山の収容所で軍人の見張りがついていたと言うのも疑問です。「強制連行」を意識して内容を一部変更しているのではないかと思われます。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1992 裁判の訴状 ***** ****
原告C(以下、「C」という。)は、一九二六年二月二〇日に生れた。三人姉妹の三女であったが、両親を早く亡くし伯父の家に預けられていた。
一九四四年夏には、Cは全羅南道唐津郡に住んでいたが、憲兵や警察が、各地で「人狩り」のように女性を強制連行していた。Cは、「隠れろ」というので、押入れに隠れたりしていた。
しかし、八月のある日、食事をしていた時に、憲兵がやってきた。伯父は、「早く隠れろ!」と怒鳴ったが、隠れるのが間に合わず、Cは、憲兵に腰をつかまれ、「工場に連れて行く」という理由で連行された
唐津では、C一人であったが、光州では五人増え六人となった。
六人は、光州から汽車で京城、仁川に連れて行かれ、合宿所のようなところに入れられた。そこには二〇人程の若い女性たちが集められており、そこで、身体検査を受けさせられた、その結果、五人が不合格になったが、Cは合格にされた。Cは仁川には一〇日間ほどいて、その間、女たちは四〇人ほどに増えた。
二人の韓国人が引率して、女性たちは監視人五、六名とともに汽車で釜山に下りた。一〇日ほど、船待ちをしている時に、Cは、スキを見て逃げようと思ったが、監視が厳しくて、とても逃げることはできなかった。
男性たちは、「大阪の女性だけの工場で働き、給料、衣服も支給され、一年も働けば帰れる」と説明をした。
Cらは大阪に着いたが、ここでも船を待つといわれた。「大阪に来たのになぜ船を待つのか」と聞いたところ、「大阪の工場はいっぱいなので、別の工場に行く」と言われた。大阪にいる間にまた人数が増え、兵舎に宿泊した。
その後、Cたちは、五階建ての大きな船に乗せられた、Cは、乗客のほとんどが女性であり、かつ、その人数が多いことに驚いた。
その船はあちこちに寄港し、沖縄でかなりの女性が降ろされた。
大阪から一五日ほどかかり、サイゴンに着いた。サイゴンについた時は女性は四〇人ほどになっており、Cは二〇人の女性と船を乗り換え、ビルマのラングーンに到着した。
港には軍隊しかいなく、トラックに乗せられた。この時、Cは工場に行くのではないと感じた。全員の女性が不安を覚えたようで、慰安婦にされるのではと思い、みなな泣いていた。
Cらは、トラックで三時間くらい走り、山の中の場所に到着した。そこには長屋のような建物があり、「軍人慰安所」という看板がかけられていた。建物には二〇室の窓もない部屋があり、二人入るといっぱいになるような狭さだった。そして、入口にはカーテンが掛けられていた。
(※2007.4.10追加)
1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 明石書店
 一九四四年九月の初めでした。満十八歳の時です。伯父が「最近、娘を連行する人が多いという噂だ」と言いました。そんなある日、伯父が外に出かけて戻ってくるなり、私に早く隠れろといいました。~(中略)~その日も隠れていましたが、あんまりお腹がすいたので下りてきて、家族と一緒に昼ごはんを食べていました。ところがちょうどその時、国民服(あるいは軍服)を着た三十代の日本人一人と背広を着た四十代の朝鮮人一人が柴折戸を蹴って入ってきました。~(中略)~ご飯を食べ終わると、(※日本人と一緒に来た朝鮮人(管理人注))が「金を稼ぎたくないか?日本に行って一年間だけ工場で働けば、たんまり金を稼ぐことができるから、行こう」と言いました。そのまま私は両腕をつかまれ二人に連れて行かれました。三十分ほど歩いてバスの停留所まで行きました。そこからバスに乗って光州に着き、看板のない旅館のような所へ連れて行かれました。入ってみると、四人の女の子が来ていました。(P.242~243)

 釜山の収容所では、日本の軍隊から握り飯一つをもらいました。~(中略)~私たちの監視は日本の軍人ではなく、軍服を着た朝鮮人がやっていました。便所に行くのにも、ついて来るくらい厳重でした。日本の軍人とその朝鮮人の間では日本語を話していました。~(中略)~約四十人の女は大阪に行き、二十人くらいは下関に行きました。~(中略)~一九四四年十月初旬か中旬でした。大阪から百人ぐらいの女たちが、大きな五階建ての船に乗りました。~(中略)~三組に分けられましたが、私たちは二十人はビルマ(ミャンマー)のラングーンに行きました。私を康津から連行した日本人と崔も、ラングーンに行きました。(P.244~245)
私を康津から連行した日本人は、慰安所の入り口で軍人から券をもらい、崔が軍人たちに入る部屋を案内しました。(P.248)


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