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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ 石川たま子(仮名) ◆◆◆

※サイパン帰りのたま子さん


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1908年、横浜に生まれる。17、18歳の時に横須賀の花街で働き始め、「南洋はとても儲かっていいよ」という話を聞いて北マリアナ諸島のテニアン島の娼館に入る。その後、警察から指名されて、他の指名された娼婦たちと共にラバウルの慰安所に移る。さらに、グアムの将校用の慰安所に移った後、テニアンの娼館に戻り、その後、サイパンに渡る。前借金は慰安所にいた時に完済した。終戦後は、収容所に入れられた後、沖縄出身の男にいいよられ、以後、沖縄で生活する。

1991年11月死去。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

警察から指名されて慰安所に入る。


【考察】

慰安所設置の際に、既存の売春宿で働いていた娼婦らを指名して集め、その一人が同女だったという話です。


同女の証言では、以下の通り、他の多くの元・従軍慰安婦と異って悲劇的な強制ではなく、むしろ積極的に客をとろうとする発言が垣間見れて興味深い内容です。

「100人200人なんでもない~(中略)~兵隊なんかつかれているもの、すぐ終わるよ。~(中略)~これを喰ったらすぐ追っ払うのに。追っ払ってすぐ次。一人の人にいつまでもくっついていたらお金になんないもの」

「そんな時休めばいいだろって?だけどやっぱり商売だから休めない。いくら借金がないからって、ヨンタク((怠けること)はできないさ。『ああ、この女は売れないよぉ』っていわれたらしょうがないでしょ。」

また、「たま子は民間の店より慰安所の方がよいといった」とも記述されています。同女が慰安所にいた時に借金を返済していることと、上記、証言を合わせて考えると、兵隊の方が一人当たりの時間が短く人数をこなすことができて、その分、収入も多かったということでしょう。


なお、同女は1988年12月9日号の「朝日ジャーナル」で朝鮮人慰安婦として紹介されていますが、「皇軍慰安所の女たち」で著者、川田文子氏は、「やはり私には日本人としてのたま子さん像をふっきることはできない」と述べています。
確かに、同女の証言の中には朝鮮人を思わせる言動はなく、日本人と考えるのが自然な内容なのですが、著者が「朝日ジャーナル」の記者に問い合わせた際、「福祉事務所にも朝鮮人として届けられているから間違いない」と言われたとも記載されています。
まあ、どちらでもかまわないでしょう。


【信憑性】

特に不審な内容はなく、信憑性はあると思います。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.8 皇軍慰安所の女たち 川田文子 筑摩書房
 たま子さんが語った少女の頃の思い出は、日本の貧しい家庭の生活背景の中に違和感なく収まっていた。私はたま子さんを日本人と思い込んで話を聞いていた。朝日ジャーナルの記者は、“朝鮮人慰安婦”でなければ記事にならないと、勝手にたま子さんを朝鮮人にしてしまったのではないかと私は勘ぐり、問いあわせた。すると記者はG市の福祉事務所にも朝鮮人として届けられているから間違いないといった。(P.26~27)

 「南洋はとても儲かっていいよ」
 仲間からそんな話を聞いて、たま子は南洋へ行く気になった
。口入れ屋の所在も仲間に教わった。口入れ屋というのは、周旋屋、あるいは女衒などとも呼ばれる花街の雇い主に女たちを世話する仲介人である。口入れ屋の手数料や南洋への旅費をあらかじめさし引かれたが、たま子にとってはかなりまとまった額の前借金を受取り、半分は父に、半分はきものや帯や寝具などを揃える支度金として持ってきた。(P.31~32)

テニアンへ行ったのも、何歳だったのか、判然としない。一七、八歳の時に軍港のあった横須賀の花街で働き始めてから、茨城県の航空基地のあった町、永井荷風の『墨東綺譚』に描かれている玉の井、そして亀戸などを転々とした末、テニアンに渡った。そして最初に入った楼では一番年長であったことを「三」と、それが二三なのか、三〇なのか、三三なのか、二ケタ目の数を明示しなくても当然通じるといった感じでいった。一九〇八(明治四一)年九月一一日生まれのたま子がテニアンへ渡ったのが、二三歳とすれば一九三一(昭和六)年、三〇歳とすれば一九三八年(昭和一三)年、三三歳とすれば一九四一(昭和一六)年となる。亀戸の花街はやたらチンピラがウロウロし、ここでは稼げないと直感したたま子は、再び横須賀に戻ったのだが、茨城県の航空基地のある町や横須賀での体験は、土地柄のせいもあろうが、すでに軍事色の濃い背景となっている。たま子がテニアンへ行ったのは、おそらく三〇歳ないし三三歳であったろう。(P.32~33)

 テニアンでたま子が働くことになった「松島楼」の主内間も沖縄県出身者であった。大阪からきたというノブコもたま子と同時に松島楼に抱えられた。
 ―うちたちが店に入るでしょ。そうすると、松島楼に女が入ったって新聞に載せるでしょ、朝日新聞、よろず新聞、そんなのに出るから新聞とってるところはみんな分かるよね。お客はやっぱり古い女より珍しいでしょ。今度来た女はどんなかね、ってくるでしょ。八百屋なんかに初物が出たらこれは珍しいっていうのと同じで。(P.36)

 たま子が軍の慰安所へ行くことになったのは、トラックから再びテニアンの松島楼へ戻っていた時のことだ。
 ―これはね、慰問だからね、直接行きたくっても行かれないんです。向こうから選ばれて、名前指されて行くんだからね。だから、あたしも行きたいんだけど、といっても行けないのに。どこから決め手てくるか知らないけどさ、警察の人が六か月つとめて来なさいって。
 警察から指名されて慰安所へ行くことになったたま子らは、あたかも兵士が出征する時のように同業者らに万歳三唱で見送られた。船には約五〇人もの女が乗っていた。テニアンだけではなくサイパンの各楼からも集められたのだ。
 松島楼からは三人が指名され、主人も一緒に船に乗った。松島楼には女将が残って商売を続けた。女が少ない楼では、比較的多い他の楼と話をつけ、女の前借金を清算して連れて行った。~(中略)~
 たま子と同じ船でラバウルに着いた約五〇人の女たちは、陸軍、海軍、将校用、数か所の慰安所に分けられた。
 たま子は陸軍の慰安所に入れられた。
 ―将校ばっかり入る倶楽部ね、あんなところなんかみんないい女ばっかり選ばれてるよ。悪い者は行かないよ。そのかわりあんな所に行ったら借金は抜けないよ。儲からない。将校の数が少ないでしょ。ね。
 うちたちは普通の兵隊だから朝九時頃から配給とるみたいにたくさん並ぶよ。だから、ごはん食べる暇がないでしょ。賄いの人が握り飯にして持ってくるからね、もう、自分の部屋で食べるさ。おなかが空くからね、お握りを三つも四つも置いといて、おかずもいっぱいどんぶりの中へ入れておいてもらう。兵隊が「ここどうしたんだい」「何やってるのか」って戸を叩くでしょ。ね。いいよ。ごはん食べてるけど、かまわない。開けるよ。毎日、身体があく暇がない。あがりは五時、晩になったらもうゆっくりできるけどね。疲れないよ。一〇〇人や二〇〇人、なんでもない。ウン。ウソじゃない。兵隊なんかつかれているもの、すぐ終わるよ。食いしん坊だから。喰うっていったらすぐだぞ。これを喰ったらすぐ追っ払うのに。追っ払ってすぐ次。一人の人にいつまでもくっついていたらお金になんないもの
 民間の店では雇い主が六分、女が四分で計算されたが、慰安所では五分五分の配分である。といっても、多くの女たちが莫大な額の前借金を負っているから自分のとり分は返済にあてられる。女たちが自由に使えるのは、規定の料金とは別に客がくれるチップだけであった。きものや化粧品、寝具などの経費も借金として計上される。~(中略)~
 だけど、あたし、上の人はあんまり好きじゃない。兵隊がいいよ。お金はたくさんとれるし、気ままいっぱい。なにしろ、もう、あんな人はぐずっぽくて、いや。上の人はうるさい。気難しくてね。普通の兵隊三人、四人とった方がずっといい、楽。あんなの一人ぐらいとったって借金抜けないよ。それっぱかりであんた、何になるね。
 兵隊は休日しか慰安所を利用できない。また、時間も五時までと定められていた。下士官はカクバンといって一日おき、将校は日時の制限はなかった。兵隊の休日には、慰安所前には白い札を持った兵隊がズラリと列をなした。札は買ってあるのに、五時になっても順番がまわってこず、あぶれてしまう者もいる。そんな時にはたま子は「今度外出した時は必ずいらっしゃいね」と自分の名刺を渡しておいた。すると、次の外出の時には、兵隊は名刺を頼りにたま子のところにくるからだ。けれど、一日何十人と相手をしていたからとてもその兵隊の顔を覚えてなどいられない。~(中略)~
 将校には専用の軍人倶楽部があったが、たま子のいた陸軍の慰安所にもよく来ていた。ある日のこと、一人の将校がたま子らを、
「うちの隊へ行かないか」
と誘った。
「ううん、憲兵に二人ともひっぱられて牢屋ん中へ入れられたらたいへん」
「僕は偉いんだよ。明るくならないうちにこっちへ送ってくるから、何もこわくないよ」~(中略)~
たま子も行ってみたいけど、やはりこわかった。
「お風呂にも入れるよ」
 慰安所では普段、水風呂にしか入れなかったので、そのことばにつられて、たま子はようやく勇を鼓して行く気になった。
 ―そしたらね、こわくない。番兵なんかどうするかと思ったらね。鉄砲持って敬礼するでしょ。こっちは(階級が)上でしょ。番兵はいてもなんともいわない。掃除も自分でするんじゃない。下っぱの人がするでしょ。だから、きれいになってる。スリッパもあるしさ。ベッド、フカフカしてさ、下にポコンとおっこちるんだよ。本やらね、なんやかんや、いっぱい見せたりさ、また、お菓子やらいろんなもの持って来てさ、だけど、食べるようじゃないよね。それで、帰る時、パイナップルなんか、桃の缶詰、みかんの缶詰ね、これみんな持って来た。
 たま子らは時折、傷病兵の慰問に行った。朝八時頃から一二時頃までいくつもの病棟を残さず廻ってくる。顔が膨れあがっている兵隊、片目が潰れている兵隊、手がない者、足がない者、火傷で顔までも包帯を巻いていている者・・・・・・。軍からの要請があったのか、それとも抱え主の自発的な慰問であったのか、たま子は慰安婦としての仕事で見舞ったのだが、傷病兵の無惨な姿に胸がつまった。~(中略)~
 慰問から帰って来てしばらくすると、回復した兵隊が、
「慰問の時まわってきてくれたでしょう、僕のこと覚えてますか」
と訪ねてくる。病院のベッドに横たわっていた時には、白い患者服を着ていたので、その兵隊の階級も、軍隊でどんな種類の仕事をしているかも分からなかったが、軍服を着てくるとはじめて衿章や胸ポケットに縫いつけたマークでそれが分った。
「戦地にいて金なんか持ってたって何にもならない。使えるうちに使わなくちゃ。今日死ぬか明日まで生きのびられるのか、分らないからな。かといって慰安所の他には金を使いたくても使う場所もなし・・・・・・」(P.44~51)

 (生理の時)お客とやる時はね、もうきれいに洗って、そしてから海綿、中につめてさ。海綿だったら、ホラ、あれつかないでしょ。海綿に糸つけといてよ、自分でひっぱって、洗浄して、次の人にできるように。一回、この糸がとれなくなっちゃってよ、困ってさ、あわてて医者に行ってとってもらったよ。そんな時休めばいいだろって?だけどやっぱり商売だから休めない。いくら借金がないからって、ヨンタク((怠けること)はできないさ。「ああ、この女は売れないよぉ」っていわれたらしょうがないでしょ。名前の札が玄関にでてるでしょ。二番三番まではいいけど、五番六番になったら、もうね、終いだからね。お客さんが「見番変ってないじゃないか、他所はみんな変ってるよ」っていうのよ。「変りますよ」っていうけど、みんな変らさないものね。みんな意地だからね。あたしも落ちたくないからね。あたしはナイチァー(内地の人間)だけど、沖縄の所へ来てるでしょ、沖縄の人に負けたくないでしょ。
 民間の店では玄関の女たちの源氏名を記した札が掛けられていた。その札は稼ぎ高の高い順に並べられている。稼ぎ高が高いということは、いうまでもなくそれだけ客に人気があるということだ。たま子は民間の店より慰安所の方がよいといった。それまで負っていた借金をすべて慰安所にいる時に返済できたということも一因だろうが、それ以上に、慰安所では出入口に並べられる札が稼ぎ高順ではなかったということが最大の理由だ。(P.60~61)

 草とりに出てみると、米兵は若い女性とみるとつきまとい用便もできない。手洗い所の前には米兵らの強姦、暴行を防止するためMP(Miritary Police<憲兵>の略称)が立っていたが、安心して入れない。それで女同士数人がその都度囲いをつくり、その囲いの中で用便を足すことにした。そのMPまでもがたま子の顔を見ると、ニタニタしていた。いけ好かない男だと思っていると、ある日、靴を脱いで木に登った。たま子はそれがマンゴーだと知らなかったが、たくさんの熟した実をとったMPは、それをたま子に与え、その代償を求めた。(P.66)

 しかし、思い起こせば、この稿にも記した通り、たま子さんの話では、テニアンやサイパンにいた頃は沖縄の人々の中でナイチャー、つまり日本人として通していたのだ。やはり私には日本人としてのたま子さん像をふっきることはできない
 日本人だったが慰安婦だったという経歴から朝鮮人と見做された。そんな風に想像してみた。だが、今となっては確かめる術もない。(P.87)


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